・郡
司すみ 「世界の音 楽器の歴史と文化」(講談社学術文庫)もザックスとホルンボステルの分類による
1冊かと思つて読
み始めた。しかし、どうも違ふ。楽器分類がないわけではないのだが、主要楽器のみが最後の方にあるといふ程度で、筆者の本書に於
ける関心の中心はこちらにはなささうである。「はじめに」が筆者の関心の在処を端的に示してゐると思ふ。「音楽の演奏に
用いられ
るものが楽器である」(11頁)、ならば「音楽とは何であろうか?」(同前)しかし、「音楽といわれるものについて、すべての
人々を納得させることのできる説明はまだないように思える。従って、音楽を演奏するための楽器とはどのようなものである
かをあき
らかにすることもまた不可能であると言わなければならない。」(同前)どうやらこの人に所謂楽器分類は不要であるらしい。それで
もこの最後に、「あらゆる音の中のある一つが意識されて、“音”となるように、地球上のどのような物でも、ひとたび
“音”を出す
ために使われると、たちまち“音を出すもの”に変身してしまう(中略)そのようなものを楽器と呼んでよいのではないかと思う。」
(同前)と書いてゐる。つまり音を出せれば楽器になるのである。
・第一章は「ミンゾク楽器」である。民俗か民族か、これだけでは分からないが、それは「文字で書かれていてもその用法は
曖昧なこ
とが多」(14頁)く、これは音楽でもさうだといふのである。「『音楽』というといわゆるヨーロッパの芸術音楽を意味し、その他
の音楽で馴染みのないものは、大抵ミンゾク音楽と呼ばれてゐる。」(同前)CD販売などでのジャンル分けは細かいが、一
般にはこ
の通りであらう。「音楽」の時間は、基本的に西洋の所謂クラッシック系の音楽を中心に行ふ。楽器はリコーダーとか鍵盤ハーモニカ
とかである。琴や三味線を習ふことはなく、また聞くこともめつたにない。我が国の音楽は、「およそ十七世紀以降に西ヨー
ロッパで
確立された体系的な形をとった音楽、言い換えれば音が定量化・標準化された後の、いわゆる近代五線譜による音楽に限られてゐ
る。」(15頁)五線譜といふのは便利である。だからそれが教育に採用されたのは分かる。共通の地盤や視点が必要だし、
それを提
供してくれるのはヨーロッパの音楽にしかなかつた。例へば日本にも楽譜はある。西洋の影響を受けた三味線の文化譜などは確かに分
かり易いのだが、問題はそれを使ふ人によつて基音が違ふことである。人は皆それぞれだから基音が違つて当然とは西洋では
考へなか
つた。基準があるからよく分かるとも言へる。皆同じ高さの音を出せる。そのおかげでオーケストラも混声合唱もできる。だから、西
洋の楽器は「“ヨーロッパ音楽”のみが持つ和声の発達とともに完成された楽器」(17頁)であるのに対し、「日本の音楽
は唄を主
体とする旋律の音楽であ」(同前)るから、「一つの音の表情の豊かさ、微妙さが生命であつて、楽器の音にも当然それが要求され」
(同前)る。ミンゾク音楽を扱ふのだからかういふ考えは当然と言へるかもしれないが、現実には、音楽学は西洋音楽の範疇
内で行は
れてゐる。その意味でこれは珍しい。大体、私は楽器学といつてもクルト・ザックスぐらゐしか知らない。そんな人間からすれば本書
は驚異の書であるとも言へる。それだからこそこれは引用しておきたい。「“ヨーロッパ音楽”に倣って、諸民族の音楽を定
量化・標
準化して普遍化を持たせようとする試みは、それがどのような形をとったとしても、これらの音楽の本質を損なう危険をはらんでいる
ことに心しなければならないと思う。」(18頁)私自身の自戒でもある。
・安 東麟「本字を知る楽しみ 甲骨文・金文」(文
字文化協会)を読んだ。「本字」には「もとの
じ」と「ホンジ」のルビがついてゐる。ここでの「ホンジ」は略字に対する本字ではなく、その漢字のもとになつた
文字といふ意味である。古い文字ではあつても、さかのぼれば更に古い文字がある。それが「もとのじ」で
ある。私
たちが「もとのじ」、漢字のもとになつた文字からすぐに思ひ浮かべるのは象形文字であらう。山や川といふ文字は
その物の形からきた。かういふのは多いのだが、本書にもこれはいくつもある。私が最もおもしろいと思つ
たのが
「歯」であつた。これには「歯(齒)」は、「口を大きく開け、その中に歯を記した象形です。歯の本数が四本と、
歯の本数を減らした超、省略形で、口の中にある歯を表してい」(62頁)るとある。正に説明通りの文字
である。
しかもこれには齲歯、つまり虫歯もある。歯が四本であつたのが、上の中央に虫歯がある。「中央にあるのが『虫
(蟲)』。『歯』と『虫』をあわせて虫歯を表す(中略)甲骨文に残っているということは、古代中国人も
虫歯に苦
しんだのでありましょう。」(同前)ともある。さうなのだと思ふと同時に、「齲」の字とのあまりの差に驚きもす
る。偏はともかく、旁の「禹」はどこから来たのだと思ふが、私にはこれを確認する術はない。今一つ出
す。心臓の
象形文字の「心」である。これにも甲骨文はあるのだが古文もある。「古文とは、秦が全国を統一する以前の、直筆
の細長い竹を編んだ竹簡に書かれた文字や、石に彫られた戦国時代の文字を含むものであ」(9〜10頁)
ると凡例
にある。これならば心臓と思へなくもないかといふ文字である。どちらかといふと「女」に似てゐる。これを使つた
のが「粛」である。「『粛』字は、器物に文様を書き加えて聖化するすることから、つつしむ意味とな」
(64頁)
るさうである。「金文では(西周金文1)では、上部には筆を持った形である『聿』の形、下部には心境を示す
『心』が記され」(同前)る。「粛」の上は「筆」のやうである。しかし下が「心」となるかどうか。これ
は後の春
秋・戦国時代に「下部を淵の形で記」(同前)すやうになつたからであるらしい。なぜかういふことが起きるのかは
分からないやうで、「列国期には、淵を示す文字という理解になっ」(同前)たらしいとしか記してない。
漢字も古
いところまでさかのぼると、結構変化してゐるのだと分かる例である。「戀」にも「心」がある。「心惹かれる気持
ちを表すために『心』が付された」(66頁)。この甲骨文は「ハート型によく似てい」(同前)る。確か
にこの方
が心臓らしく見える。甲骨文を書く古人は心臓の形等を知つてゐたのであらうか。篆書の「戀」の下の「心」は甲骨
文と古文の「心」の合体した感じの文字である。「心」も形を変えながら漢字につながつてゐるのである。
・本書の著者安東麟氏は古代文字書家である。甲骨文や金文の書の専門家である。甲骨文は甲骨文字である
から書か
れたのではなく彫られた、と思ひたいところだが、「甲骨文には筆を表す『聿』字があり、筆記材料としては、文字
を書いた竹簡などを示す『冊』」(3頁)があつたとあるやうに、やはり書かれたのであるらしい。古代文
字を書く
といふ発想は普通の書家にはなかなかできないらしい。著者は古代文字の書家である。だから本書中には多くの甲骨
文や金文が(筆で)書かれてゐる。これを見るだけでも不思議な気分になれる。さうしてそれらが諸橋大漢
和の源が
ここにあると教へてくれる。この「もとのじ」をながめること、これが「本字を知る楽しみ」であるらしい。絵の如
き文字である。
22.11.12
・T・ キングフィッシャ−「パン焼き魔法のモーナ、街を救う」(ハ
ヤカワ文庫FT)を読んだ。正に書名
通りの物語である。これ以下でもない、これ以上でもないといふ、正にそのものズバリの内容である。小説の題名となる
と、作家は、あるいは訳者はその内容に添つた題名をつけるのだが、そのものズバリはあまりつけなのではない
か。やは
り思はせぶりな、もしかしたら関係あるやうなないやうな題名をつけるのではないか。その方が読者も食指をそそられる
可能性がある。ところが本書はそのままである。「パン焼き魔法のモーナ、街を救う」、これだけである。世に
魔法使ひ
は多いから、14歳の、中学生くらゐの魔法使ひ、いや魔女がゐないことはなからう。その場合、その魔女に得意技はあ
るか。ありさうな気はする。飛行が得意だとか、変身が得意だとかはあつても、しかし、基本的には何でもこな
せるのが
魔女であるやうな気がする。いや、それでこそ魔女であり魔法使ひである。ところが本書の場合、14歳の少女モーナは
魔法は使へるのだが、使へるのはパンを焼く魔法に限られる。「あたしは粉だらけの手をパン種に突っ込み、そ
んなに固
くなりたくないでしょ、とほのめかした。」(14頁)これが最初の魔法だと思ふ。「パン種は喜んで説得されてくれ
る。」(同前)といふわけで、固い生地も普通のパンとして焼けるやうになるのである。以下、彼女が使へるの
はこの類
だけである。あくまでもパンの関係だけ、「パン焼き魔法のモーナ」のモーナたる所以であつた。本書に魔法使ひはたく
さん出てくる。いや、魔法使ひといつてはいけないのかもしれない。皆が皆さうではないかもしれないが、本書
の魔法使
ひにはガンダルフのやうな達人はゐないのかどうか。宮廷魔法使ひ「イーサン卿は空から風を呼び出して敵を叩きつぶせ
る。(中略)稲妻を操れるらしい。」(70頁)かうなるとガンダルフに近くはなりさうである。しかし、多く
はモーナ
のレベルである。ならば「魔力持ち」(22頁)といふのがふさはしい。できることは皆違ふ。「木の板から節をとるだ
けの魔力しかないエルウィッジ親方」(同前)、馬運びの「モリーはあたしみたいにすごく力の弱い魔法使いだ
けど、そ
の才能は(中略)死んだ馬を歩かせること」(63頁)等々、たいしたことではない。しかも一つの技だけである。一つ
の個性といふところであらう。
・物語は一人の少女がモーナの店頭で死んでゐたことから始まる。モーナはその容疑者とされ、宮廷で裁きを受
けること
になるが、女王は容疑なしとする。その後、モーナはモリーから、「春の緑の男に気をつけな」(72頁)と言はれる。
「魔力持ち」も含めて、魔法を使へる人間がモーナの王国で次々と殺されつつあつたのだ、といふところから言
はば謎解
きが始まる。これは全く難しくない。すぐ解ける。問題はそれに関わる人物である。これがこの種の物語ではあまり見ら
れないやうな人間である。ヒロインはモーナである。14歳の女の子、パン焼き魔法しか使へない。女王、「タ
ビサ叔母
ぐらいの年頃で、たっぷり六インチは背が低いことをのぞけば、かなり似た体格だった。」(47〜48頁),容姿にコ
ンプレックスあり。あまりこの手の物語の女王には似つかわしくない。敵方も簡単にやられてしまふ。味方の老
魔法使ひ
も簡単に死ぬ。戦ひの場面ではモーラのパンの魔法の技が試される。これも魔法の種類が違ふのではないかと思つてしま
ふ。といふわけで、これまでかういふ魔法の物語を読んだことがないやうな気がする。ユーモアが勝つた物語で
ある。 「指輪物語」とは対極にある物語である。しかし、それはそれでおもしろい。
22.10.29
・松下幸子「江戸 食の歳時記」(ちくま文庫)を読んだ。書
名通りの
書である。歳時記とある通り、春夏秋冬に分けて約50の話題でできてゐる。そのものズバリの食物は少なく、「おせちの移
り変わり」に始まり、「蕎麦屋と年越し蕎麦」で終はる。その間、きんとんや鯛、鮎、瓜、サンマ等が出てくる。い
づれも当
時の料理書からの紹介を中心に、著者自身がそれを作つた時の経験談等が入つてゐる。書物ゆゑに味も臭ひもしないが、そこ
は想像力をたくましくして読む。しかし、分かつたような分からないやうなであるのはどうしやうもない。そんな中
でも、私
におもしろかつたのが冬であつた。冬は「江戸の飴と飴売り」から始まる。最初に飴の製法を述べ、その後にいくつかの飴売
りの紹介がある。各節の本文は大体こんな感じである。飴は今でもあるし、味もからいとか酸いとかはないはずなの
で想像し やすい。飴売りの風俗は三谷一馬等でお馴染みでもある。
・「江戸時代の獣肉食」といふのがある。獣肉食は冬のものであるのかどうかは知らないが、例の広重のももんじ屋
の絵は
「びくにはし雪中」であつた。本文にも「獣肉と葱の鍋物で繁昌するももんじ屋」(301〜302頁)とあるから、やはり
獣肉は冬の食べ物であらう。問題は、江戸の人々はどんな獣の肉を食つてゐたのかである。これは知らなかつた。も
ちろん江
戸期に獣肉は忌避されてゐた。しかし、現実は違ふ。牛や豚は今でも食ふ。馬や鹿も猪も少ないが食ふ。江戸時代にはもちろ
ん食つた。当時の料理書に出てくる獣肉には、これら以外に、狗(犬)、狐、狸、兎、鼠、山狗、羚羊、熊、猫、更
には土竜
もある。猿も食つたらしい。といふことは、ほとんどどんな動物も、食へさうであれば見つけ次第食ふといふことであつたや
うに思はれる。常にももんじ屋のやうな店で食ふとは限らない。それができる人ばかりではなかつたはずである。美
味い不味
いもあつた。しかし、そんなことを言つてはをれなかつたか、とにかく食つた。そんな人も多かったのかもしれない。これら
はどれも煮たり、焼いたり、汁にしたりして食つてゐる。鳥も食つた。これは秋の「江戸の鶏卵」にある。食つたの
は専ら野
鳥であつたが、その種類は多い。鶴、白鳥、雁、雉子、山鳥、ばん、けり、鷺、鶉、雲雀、鳩、鴫、水鶏、つぐみ、雀、鶏
等、これまた実の多くの鳥が食はれてゐた。「江戸時代中期頃までは鶏よりも野鳥の肉がよく用いられたらしく、人
気があっ
たのは鴨で云々」(247頁)とある。現在も鴨は食ふのだが、美味いものは今も昔も美味いといふことであらうか。鳥獣に
関して言へば、現在とは比べものにならないほど豊かな食生活であつたと言ふべきか。私の想像を超える獣肉、鳥肉
の世界で
ある。今一つ、意外であつたのが「氷のはなし」である。氷は氷室でといふのが伝統である。江戸時代もさうであつた。それ
でも献上品として用ゐられた(318頁)らしい。そんな時代の料理書には氷の製法が載つてゐたといふ。「六月氷
拵様」
(319頁)である。これは要するに、「井戸の中に一晩おくと氷ができる」(同前)といふことである。そんなところで氷
ができるのである。6月は現在の7月、梅雨が終はつて暑い頃でもあらう。それでも作れたのである。さうでなけれ
ば作る意
味もない。使ひ道は「水物などによし」(同前)とある。水物は「器の冷水の中に瓜などの食品を浮かべた料理」(同前)だ
さうである。江戸の人々も涼を求めた料理を作つてゐたことが分かる。時代は違へど、寒暑に対する料理があるのは
変はらな い。さうして少しでもその季節を楽しまうとしたのであらう。さういふことも分かる書であつた。
22.10.15
・桂竹
千代「落語DE古事記」(幻冬舎文庫)を読んだ。本当はこれを落語としてききたいところだが、
たとへ上巻だけでも
古事記が落語になつてゐるのかどうか。youtubeには天孫降臨までの約20分の話があるだけのやうである。落語ききに来
てくれればみたいなことを最後に言つてゐるので、もしかしたらこの先もできてゐるのかもしれない。たとへさうであつ
ても今き
くことはできない。そこで本書を読まうと思つた。そして読んだ。これもやはり天孫降臨で終はる。つまり、古事記上巻を落語に
して口演すれば約20分、それを文章化すれば文庫本1冊、約240頁分、といふことは落語がいかに簡潔に語られてゐ
るかとい
ふことである。いや、あれを簡潔といふか、走りに走つた結果といふか、見方はいろいろとあらうが、とにかく非常にコンパクト
にまとめられてゐる。
・本書は第一話から第三十話まである。一は序文の落語化、といふより、稗田阿礼の説明等である。序文自体はさすがに
落語には
ならない。「覚えられるか!」とあるのは、阿礼のやうに古事記本文全体を覚えられるかといふことである。昔は昔の覚え方があ
つたのだとは思ふが、やはりこれは至難の業である。さう言ひたくなるのも分かる。二以下が本文で、国生みから始ま
る。本書の
ポイントは、それぞれで神が生まれるとその神はどこそこのお宮に祀られてゐると、きちんと書いてあることである。例へば最初
の造化三神とそれに続く二柱の神、これらの神々がどこに祀られてゐるのかといふと、私は知らなかつたのだが、「福島
県の相馬
市にある相馬中村神社や、埼玉県秩父市にある秩父神社」(24頁)だといふ。さうしてその御利益は「心願成就や延命長寿にあ
るとされてい」(同前)ると記してある。これはありがたい。「はじめに」にかうある、「日本にはたくさんの神社があ
ります
ね。そこにまつられているのは、ほとんどが『古事記』に登場する神々です。(中略)みなさんは神様のことを何も知らずに拝ん
でいませんか?(中略)神社にお願いごとをしに行くのなら、神様のことも知っておくべきだと思います。」(7〜9
頁)。だか
らきちんと、ただし主な神様だけではあるが、この神はどこのお宮に祀られてをり、これこれの理由でこれこれの御利益があると
記してあるのである。古事記の訳本や解説本は多いが、本書のやうにお宮と御利益まで記したものがどれくらゐあるの
か。私はさ
ういふのを見たことがない。本居宣長にしたつてそんなことを知つてゐるわけではないし、注釈書も目的は別にあり、注釈に一々
それを書き込んだら分かりにくくなるといふこともある。だから基本的には無視される。ところが本書は違ふ、その意味
では本書
を読んで良かつたと思ふ。私はお宮巡りはしない人間であるが、どこにどの神様が祀られてゐるくらゐは知りたい時もある。古事
記の主要な神であれば、どこか私の知らない小さな町の小さなお宮にしか祀られてゐないなどといふことはなからう。大
きなお宮
にも祀られ、小さなお宮にも祀られてゐる、たぶんこれが神々である。最後はニニギノミコトだが、「ヤマサチがまつられている
鹿児島神宮もあり(中略)同じ霧島市には、ニニギのまつられている霧島神宮もあ」(249頁)るといふ。かういふの
が面倒な
らば気にしなくとも良い。個人的には「落語家という特性を生かして、わかりやすく」といふのよりはこちらの方が良かつた。何
しろこの「落語化の特性」なるもの、要するにダジャレの連発と言つて良い。初めはともかく、最後までそれが続くと嫌
になつて くる。それさへ抑へてくれたら、古事記入門として結構うまくできた本だと思ふのだが……。
22.10.01
・東雅夫編
「日本鬼文学名作選」(創元推理文庫)はいつもの通りのアンソロジーである。この書名に文豪はな
い。変に文豪にこだは
るより、適当な作家の適当な作品を適当に並べる方がアンソロジーとしてうまくいくのではないか。とはいふものの、最初は芥川龍之
介「桃太郎」である。以下、筒井康隆等の計11編、おもしろく読んだ。
・最初は桃太郎関連、芥川と筒井、そこに加門七海と霜島ケイの対談が加はる。鬼といへば桃太郎が相場なのかどうか。花咲
爺でも良
ささうなのだが、こちらは最後の花咲に重点があり、鬼はつけ足しなのか。たぶんさう考へる作家が多くてめぼしい作品がないのかも
しれない。その点、桃太郎は鬼ヶ島である。供の三匹も居る。これを自由に動かせるから、新しい作品にし易いのかもしれな
い。芥川
の桃太郎は「彼はお爺さんやお婆さんのように、山だの川だの畑だのへ仕事に出るのがいやだったせいで」「鬼ヶ島征伐を思い立っ
た。」(11頁)人である。しかも、供になる三匹にきび団子一つはやらずに半分だけやるといふ倹約ぶりである。鬼ヶ島は
といふ
と、「絶海の孤島だった。が、(中略)美しい天然の楽土だった。」(13頁)のである。それゆゑにこの「鬼は勿論平和を愛してい
た。」(同前)そこに怠け者で吝嗇らしい桃太郎が行けばどうなるか。要するに、芥川は芥川一流の皮肉を以て桃太郎を作り
直したの
である。逆転の発想である。かういふ桃太郎を作り出すのは河童の世界を作り出すのと似てゐるのではないか。芥川の人となりが知れ
ようといふものである。この「桃太郎」はあまり知られてゐない。芥川の作品集などでもほとんど見ないやうな気がする。実
は私は初
めて読んだ。教科書的な作品ではないが、それゆゑにごく気楽に読める。東氏の慧眼を讃へたいと書いておく。これに対して筒井康隆
「桃太郎輪廻」はその発想からして筒井康隆である。「その日、婆さんが川で洗濯をしていると、川上から、大きな尻(原文
傍点つ
き)が流れてきた。」(20頁)桃ではなく尻である。「最初、婆さんには、それが巨大な桃に見えた。」(同前)ところがよく見る
と尻であつた。しかも妊娠してゐる尻であつた。といふことで桃太郎誕生となる。問題はこの後である。芥川とは比べものに
ならない
ほど複雑にできてゐる。最後は「輪廻」である。また川から尻が流れてくるのである。鬼はもちろんゐる。鬼ヶ島もある。供の三匹も
ゐる。この尻の印象が強烈で鬼を忘れさうであるが、筒井は忘れてゐない。しかもあちこちにパロディーめいたものが散りば
められて
ゐる。芥川は単純に逆転の発想をした。筒井となるととてもさうはいかないのである。さうしたくないのかもしれない。これもおもし
ろいのだが、筒井の毒に当てられさうになることもまちがひない。桃から尻、桃尻、こんな語が発想の原点にあるのかどう
か。そして
対談である。私が最もおもしろいと思つたのはこの対談であつた。この2人の作家を私は知らない。ともに鬼で出発したらしい。「鬼
神に王道なきもの」をといふ酒呑童子が討たれる時の言葉を、「庶民の愛着が、むしろ鬼の方に向けられているような印象を
受け」
(43頁)るとするのは、私のやうに酒呑童子は鬼で悪だと考えてゐる人間には鋭い指摘であつた。酒呑童子を討つた頼光の凱旋場面
を見物人は「頼光たちの凱旋をつまらないものとしか意識していない。」(44頁)ここから鬼は「権力に対する民衆の不満
を代弁し
てくれる存在だった」(同前)とする。できすぎた話のやうではあつても、それなりに了解できることである。昔の鬼がさういふ存在
であつたとしたら、現代の鬼はどうなのかと思ふのだが、さて如何。
22.09.17
・新
谷尚紀 編著「民俗学がわかる事典」(角川文庫)を読んだ。事典であるから言葉を調べるための辞書で
はない。そのやう
に使へないこともないが、何しろどの項目も3頁か4頁といふ分量である。索引はない。第1章「民俗学への招待—身近な疑問から
—」から始まつて第12章「民俗学に取り組む—民俗学と民俗学者の今昔—」に終はる全12章139小項目からなる。読む
ための事
典であることは容易に察しがつく。しかも、この最初と最後の小項目だけ見ても、民俗学をできるかぎり広い視点から紹介しようとい
ふ意図が分かる。
・第12章は民俗学の今昔である。最初は「民俗学は国学とどのような関係があるのか」である。国学との関係である。当
然、本居宣
長と平田篤胤が出てくる。2人が民俗学にどのやうな影響を与へたか。よりはつきりといへば、「いわゆる民俗学がその直系の子孫で
あるか」(474頁)といふことである。答はイエスでありノーである。「国学は江戸時代において『私たちはどうしてここ
にあるの
か』という問いを突き詰めるために日本人の古典としての『古事記』や『日本書紀』を対象として、読み解く作業としての古典研究を
続けていった」(同前)。儒教研究の動きに対して、宣長は「『古事記』の研究を綿密に進め」(475頁)る。それが「日
本という
国の伝統に立ち返る『やまとごころ』を強調し、漢心を排そうとして鋭く儒学と対立する」(同前)ことになる。「さうすると国学は
近世日本における『日本』ならびに『日本人』を発見する手段だったとみることができ」(同前)る。「国学はそれまでの儒
学=中国
文化=外来文化の影響から解き放たれた日本本来の姿を想定する。(中略)そのため、国学は古典研究としての側面とイデオロギーと
しての側面の両面を持」ち、「国学と民俗学の両者は『私たち』は何かという問いにおいて結ばれる。」(476頁)篤胤の
系統がイ
デオロギーを前面に出していたのはよく知られるところ、それでもその根底にはといふより、その根底にさういふイデオロギーがあれ
ばこその古典研究であつた。「国学が明治以降の教育制度の中でやがて国文学科と国史学科を生み出す母体となった」
(476頁)の
は、その研究内容からすれば当然のことであらう。ただし、民俗学に関しては、実は当時のヨーロッパの学問の影響がある。柳田国男
はフランスの影響を受けたといふ。それらと並んで「民俗学の祖先の一つは国学だと」(同前)言へる。だからイエスであり
ノーなの
である。国学は、現在の人文、社会科学の広い分野に影響を及ぼしてゐると思はれる。篤胤の神代文字研究は食はせ物であつたから学
問的にはほぼ消えたが、妖怪研究は今や盛んである。幽霊や妖怪は身近でもあつたが故に、篤胤以後も途切れることなく続い
てきた。
さういふのは他にもあるはずである。次の小項目2はいささか長いタイトルであるが、要するに江戸時代人の民俗への関心は如何とい
ふことである。この最後、「江戸という時代は都市の文化の成立によって田舎という概念ができあがり、その田舎への関心の
高まりを
見せた時代だ(中略)それは『私たちとは異なる』ものへの興味でもあったろう。」(479頁)とある。例へば「偐紫田舎源氏」は
パロディーでもあるが、さういふ中から生まれた題名である。敢へて言へば、田舎への関心は昔の文物への興味、研究と同じ
ことでは
ないかと思つてしまふ。東京五輪以後の民俗激変期を経た現在、その基本は江戸時代かもしれない。時代の差を考へれば、私たちの興
味や関心はそれほど変はってゐないのではないか。実際のところはどうなのであらう。民俗学の成果を知りたいものである。
・私は本を書名で選ぶ。おもしろさうだといふ書名があれば
買つて読
む。これだけである。何がおもしろいのか。それこそ行き当たりばつたりではあつても、書物に関するものには全部惹かれるといふこ
とはあるから、やはり書物関連書をおもしろいとしてゐるのだと思ふ。かういふ選び方には当たり外れがある。書名だけおも
しろさう
でもといふことはある。逆に、よく分からないけれど買つてみたらおもしろかつたといふこともある。私の場合は後者が多いやうな気
がするが、これも私の何でも良いかといふ考へに起因するのかもしれない。この都築響一「圏外編集者」(ちくま文庫)もさうして選んだ1冊であ
る。私はこの人を全く知らない。写真家としても名
をなしてゐる人らしいが、それも知らない。ただ、巻頭にカラーグラビア頁があり、この人の作品、写真や編著が載つてゐる。これが
おもしろさうだつた。そこで読むことにしたのである。
・本書は8章からなり、それが問1から問8までとなる。問1「本作りって、なにからはじめればいいでしょう?」、答はそ
の章全体
である。見出しを見ると、「知らないからできること」「指があれば本はできる」「編集会議というムダ」等々で7節ある。この人の
考へが分かるやうな気はするが、この人を知らないし、編著書も知らないのだから本当のことなど分かりはしない。それでも
編集会議
がムダだといふのは分かると思ふ。「どの出版社でも、場合によっては営業部も参加して会議で企画を決めるのが普通ではないだろう
か。例えば毎週月曜の午前中、ひとり5個アイデアを出して云々」(23頁)、かういふ定例の会議はどこでも面白くないと
思ふ。私
がたまたまさうだつただけかもしれない。さうでなかつたとしても、それで生産性が上がるとも思へない。「つまらない雑誌を生むの
は『編集会議』のせいだ」(同前)といふのは、案外正論かもしれないと思ふ。「読者を見るな、自分を見ろ」(31頁)と
いふ見出
しもあり、そこに自らの経験で得た、「読者層は想定するな、マーケットリサーチは絶対にするな」(38頁)といふ言はば教訓があ
り、更に「知らないだれかのためでなく、自分のリアルを追求しろ。」(同前)とある。こんなことを言つてゐれば編集会議
がおもし
ろくなくなるのは当然であらう。読者や市場は意識せず、自分の「リアルを追求し」て書きたいことを書く。当然、読者の当たり外れ
はあるが、おもしろい記事になることはまちがひない。それがたとへ本人一人のためであつても、それを書いて良かつたと思
へるのは
編集者や書き手冥利に尽きるといふものであらう。これは問5「だれのために本を作っているのですか?」(161頁)とも関はる。
最初の見出しは「東京に背を向けて」(162頁)である。「東京のレコード会社の言いなりになる必要はないし、配信や販
売のネッ
トワークも自分たちで構築できる云々」(163頁)とあるのだが、これは「いま日本の地方が置かれている状況は、ほんとうにどう
しようもない。」(164頁)からこそであらう。このやうな認識は東京にもあるのだらうが、現場の内と外では危機感が違
ふ。出版
関係者は東京にゐて書物を垂れ流してゐる。そこに編集会議やマーケットリサーチがあり、想定読者がゐる。現状ではそれを良しとす
る人の方が多さうである。そこで食ふためにはたくさん売るしかないのである。このアンチとして出てきたのが都築氏であら
うか。フ
リーでずつとやつてこれたのも、この人の実力であると共に運の強さでもあらう。だからこの人は地方に移住する必要がなかつた。地
方から何かを発信する必要がなかつた。幸ひであつたと言ふべきであらう。
・シャン
ナ・スウェ ンドソン「偽のプリンセスと糸車の呪い」(創元推理文庫)は、いかにもこの人らしい作品
であつたと思ふ。これ
まで魔法製作所シリーズ等、ニューヨークに妖精や魔法使ひがゐるといふことで物語を作つてきた。言はば最先端を行くニューヨーク
で魔法的存在が生きることができるかで始まつた物語がどんどん大きくなつていつて、最後はそれらを飲み込んでいつてしま
つた。と
ころが今回のはいささか違ふ。主人公は16歳である。高校生であつて大人ではない。舞台は「テキサス州東部のこのちいさな田舎
町」(8頁)であるから、ケイティの活躍の場であるよりも生まれ故郷に近いのかもしれない。それでも米国である。主人公
達は普通
の米国の高校生として生きてゐる。それがある日突然、魔法の世界、より分かり易く言へばおとぎ話、フェアリーテイルの世界に拉致
されてしまふのである。「工場のドアが開き、ぼさぼさ頭の男が顔を出した。『うわっ、なんなんだ!』黒装束の騎士三人を
背後に引
き連れ、猛烈な勢ひで走ってくるルーシーを見て、男は言った。(中略)『まじか、じゃあ、ほんとにそこにいるんだ、幻じゃなく
て』」(31頁)この世の人々の見てゐる前で拉致されるのである。この後、更に彼女の同級生男女二名がおとぎ話の世界に
行き、そ
ちらでは一人の男が彼女を助けることになる。かくして二組の男女の逃げつ隠れつの旅が始まる。魔法製作所シリーズではいろいろと
面倒なことがあつたりした。しかしこれはさうではなささうである。比較的簡単に話は進んでいく。それが「糸車の呪い」で
あつた。 これが物語を簡単な方に導いてくれる。
・糸車の呪ひとは何か。おとぎ話である。オーロラ姫である。ディズニーならば「眠れる森の美女」とでもならうが、ここは
ディズ
ニーである必要はない。ただの「眠り姫」である。おとぎ話のごく基本的な筋が分かつてゐれば良い。物語はこれに従つて進んでいく
だけである。ただし、正面から何もせずに従つて行くのではない。そこはスウェンドソン、あちこちにそのパロディーめいた
ものを差
し挟みながら物語を展開していく。私でも知らない話ではないから、それにつきあつていける。まして詳しい人はである。よく分かれ
ば分かるほど、物語に対する思ひが出てくる。さうして偽のプリンセスである。プリンスは一人でも、プリンセスは二人ゐる
らしい。
どちらかが偽者である。これは読者には最初から分かつてゐるし、登場人物にも最初から分かってゐることである。どちらが偽者だな
どと考へる必要はない。作者がそれを眠り姫によりつつ、いかに物語を料理していくのかを見るだけである。しかも料理の味
付けは眠
り姫だけではない。よく知られてゐるのではヘンゼルとグレーテルがある。お菓子の家ではないやうだが、老婆が肥え太らせようとし
きりに食べ物を勧める。これは物語の言はば枝葉である。面倒なことにはならない。そんなおとぎ話に支へられながら、物語
は進む。
ある意味、予定調和の世界である。収まるべき所に収まる。決して外れない。ラストでもさうなのだが、そのうへここは続編を期待さ
せる。相変はらずおとぎ話世界との縁は切れないのである。かくしてまた延々と物語が続くのではと思つてしまふ。これもま
たこの人
らしいところかもしれない。ケイティの話があれだけ大きくなつたのである。これもまたさうなるのかもしれない。さうなつてほしい
と思ふ。「訳者あとがき」の最後の段落、「エンディングにはとっておきのデザートのようなエピローグ。続編を期待させる
粋な終わり方だが、さて、どうなることか。訳者はひそかに期待しているのだが……。」(326頁)
・ソフィア・サマター「図書館島」(創元推理文庫)の解説、乾
石智子「ジュートを捨てる」の冒頭にかうあつ
た、「『図書館島』は、根気を要求する本だ。わたしのような凡人には、一気読みなんか到底無理。」(523頁)その理由は、
「まず改行が少ない。会話文もなかなか出てこない。それでもってこの厚さ。」(同前)とある。一々納得である。最近
の文庫本
は活字が大きい。しかも分冊が多く、本書だと本文500頁超であるから、最低でも上下2分冊にはならう。乾石の作品でも2冊
分くらゐになるはずである。厚い。改行と会話が少ないのは最近の作品には少ない。昔はかういふのが結構あつた。ほと
んど現役
ではないが、大江健三郎などは最後はこれが極端になつてゐたから、読みにくいつたらありやしない。どこまでも改行なしで続い
ていくのに疲れ果ててしまふことしばしばであつた。しかも晦渋な文体、読み通せずに止めてしまつたことも何度かあ
る。本書は
あれほどではないが改行は少ない。時間はかかつたけれども読み通すことはできた。一行あきの、内容そのものが変はるところ、
節であらうか、が意外に多いのも私にはありがたかつた。読んだら書くことにしてはゐるものの、やはり読んでも書けな
いものは
多く、本書もそれかと思つたのだが、乾石の文章から何か書けるかもしれないと思つて始めたのがこの文章であつた。
・乾石は「ジュートを捨てる」と書いた。ジュートとは何か。例の如く、本書巻末にも用語集
がある。
「ジュート【キ】 『各人の外なる魂』とされる、キデティの人々が祈りを捧げる人形。」(531頁)すると、こけしとか、もしか
したらオシラ様のやうなものか。よく分からない。本文を見ると、「『ヴァロンって何だかわかったわ。』と彼女は言った。
『ジュー
トよ』」(456頁)とある。ではヴァロンとは何かと用語集を見る。「ヴァロン【オ】 本。『言葉を収めた部屋』という意味。」
(530頁)彼女といふのはジサヴェト、現実世界では主人公とほとんど関はりを持たない、不治の病に冒されたキデティの
娘であ
る。しかし死後、彼女は天使(幽霊?)となつてから主人公につきまとふ。我がためにヴァロンを書けといふのである。つまり文字を
持つオロンドリアの人々には本が祈りの対象になるのに対して、文字を待たないキデティの人々にはより具体的に祈りの対象
が必要
で、それが人形であるといふことであらうか。ジサヴェトにとつて本の形のヴァロンは、たぶん自伝如きものであるがゆゑに、己が祈
りの対象となる。主人公に天使が見えるのは、教へられて文字を覚えはしても、基本的には文字を持たないキデティの一人で
あるため
なのであらう。ここに文字の宗教と伝承の宗教の戦ひがある。主人公は本来文字を持たない。しかも天使を見る者は、文字を持つ側か
らすれば異端である。だから、最後は南の故郷に逃げる。その時には、主人公は己が言はば使命を全うし、それゆゑに文字の
あるなし
の戦ひを止揚してゐる。ヴァロンを書いた。そして焼却した。さう、これが戦ひを止揚したといふことではないのか。一見すると皆ま
るく収まつた、言はばハッピーエンドである。主人公も穏やかな生活に入つた。チャヴィ、先生(「用語集」532頁)であ
るらし
い。チャヴィはジュートを持たない人である。かくして乾石のタイトルが思ひ出される。「ジュートを捨てる」とはこれをいふのであ
らう。乾石はジュートを「価値観ではあるまいか。」(528頁)と書いた。さうかもしれない。しかし、結局、私と同じこ
とを言つ てゐゐるのではないか。個人的には戦ひ等を止揚してといふ方が好きなのだが、といふ程度のことで……。
・杉浦日向子を読んだことがないと思つたのは、杉浦日向子「お江戸暮らし 杉浦日向子エッセンス」(ちくま文庫)
を買はう
かと思つた時であつた。あれだけ文章や漫画を書いた人である。だから目にはしてゐよう。しかし、全く読んでゐないのである。もち
ろん読んだ記憶はない。漫画等の絵ぐらゐは見てゐるのだらうと思ふがそれだけである。どんな絵であつたかも分からない。
つまり私
は、杉浦日向子を名のみ高き作家(?)として知つてゐるだけであつた。既に故人であることは何となく知つてゐたと思ふのだが、正
確なことは分からない。そんな私にとつて、本書は正に杉浦日向子入門の書であつた。
・杉浦が時代考証家を目指してゐた(「編者解説」326頁)ことはもちろん知らなかつたが、それゆゑに彼女はあんなに江
戸のこと
を知つてゐたのだつた。例へば忠臣蔵、私は歌舞伎からの知識が中心であるから本当のことはよく知らない。しかも吉良側のことは、
領地吉良が同じ三河地方にあるといつても、吉良が地元では良い殿様であつたと言はれてゐることぐらゐしか知らない。とこ
ろが杉浦
は「親の代までは、ずうっと米沢人で、米沢といえば、忠臣蔵の敵役、吉良の血縁であります。」(38頁)といふ人であつた。杉浦
の「祖父や父なんかも、年末恒例の、忠臣蔵のテレビ映画は絶対に見な」(同前)かつたといふ。そんなわけで、杉浦に「忠
臣蔵は、
気持ちのよい話には思え」(同前)ないといふ。「淺野家の浪士四十七名が、吉良家主従四十名を殺傷したという事実だけが、頭に残
るのです。」(同前)さうしてできたのが、本書第一の漫画「吉良供養(上・下)」であつた。これは私には衝撃的であつ
た。そのタ
イトル扉の上には〈「忠臣蔵」ーー殺戮のプロセス!!〉とある。吉良を殺して仇を討つのではない。殺されるのは吉良の家臣達であ
つた。例へば最初に殺されたのは足軽である。火事と偽つて門を開けさせたその足軽を切つたのである。「表門番足軽 岩田
弥惣兵衛
負傷」(47頁)「表門番足軽 森半左衛門 死亡」(48頁)。以下、かうして殺されていく吉良の家臣達が次々と記される。吉
良本人を加へていろは順の「ゆ」まで続く。「公の調書では(原文改行)死亡十六名、負傷二十三名となっているが重傷で落
命するも
のが多く、検視後には死亡二十三名負傷十六名と逆転。」(74頁)といふわけで、これはむしろ「大量殺戮」(同前)ではないか。
その「斬られた側の、吉良の家臣は、埋骨の地点さえわからない。」(39頁)そして、「いちばん可哀相なのは、ついでに
斬られて
死んだ、吉良家の家臣の妻や子ではない」(38頁)か。「損な役廻りは、いつまでも損だ」(39頁)といふことで、「快挙とも義
挙とも云われる義士の討入はまぎれもない惨事だと思う。」(44頁)となる。この漫画は「まぎれもない惨事」を具体的に
描いたも
ので、かういふ斬られる吉良側から描いた忠臣蔵を私は知らない。たぶんかういふのもあると思ふが、何しろ世の中、忠臣蔵=義挙と
いふ見方でほとんど一色になつてゐるから、さういふのは目につかない。これとてもそれほど目立つものではなかつたのだら
うが、そ
れでもこれだけはつきりと義挙ではなく惨事だと言つてしまふのはなかなかできないことであらう。そんなわけで私には衝撃的であつ
たのだが、これも杉浦が時代考証家を志してゐたがために、江戸に対する素養が十分にあつたからできたことであらう。通、
粋、気障
等の違ひを論じる講演も載る。私は読んでから、改めてこれを思ひ出した。さう、杉浦は気障ではない。そこが分かつてゐるから気障
ではないのだと、改めて確認したのであつた。