きまぐれ聴低盤 15.03.07
15.03.07 ・ たぶん珍しいCD、こんなローカルなのは東三河でしか見られない。伊藤陽扇「東愛知新聞掲載『三河路の民謡を訪ねて』」1、2で ある。豊橋市の伊藤民謡会家元の自主制作盤といふところ、その名の如く三河路と言つても東三河であるが、そこで歌はれる民謡を35曲収める。全曲伴奏つき の2枚組、歌詞カード付き、解説代はりの『東愛知新聞』の切り抜きとそれを補ふ自筆原稿のコピー付き。ただし、録音データも伴奏者のデータも基本的に無 し。たぶん既存の録音を使つての編み直し、焼き直しのアルバムであらう。従って、その元歌のデータもなし。これは先のコピーから大体のところは推測できる が、それ以上ではない。肝腎なところは分からない。最近の過剰なまでのデータ量と比べると、この少なさはむしろ潔い。しかし、残念である。私は元歌のデー タを知りたい。私にとつて、それが欠けることは正に画竜点睛を欠くである。もつとも、これは歌ひ手とその歌に興味を持つ者の違ひであらうから、これを歌ひ 手に求めてはいけないのかもしれない。歌ひ手は歌がありそれを自分で歌ふことができさへすれば良いのである。たぶんその歌のデータなどほとんど必要としな いのであらう。それでも、そしてたとへ編み直しであつても、ここに元歌の歌ひ手に対する敬意と感謝の念を表す方法として、きちんとしたデータを示すことは 必要ではないかと私は思ふ。今一つ気になるのは、いや、正確には違和感を持つのであるが、これもプロの民謡歌手であるから当然の処理ではあるにしても、本 来伴奏などない歌に皆伴奏がつけられてゐることである。例へば奥三河の盆唄、盆踊り唄は櫓上で歌はれても決して伴奏はつかない。太鼓もない。無伴奏、アカ ペラである。労作歌もいくつかあるが、これも当然伴奏などない。田の草を取る時に伴奏つきで歌ひながらなどといふことはありえない。串柿の柿の皮を剥きな がら伴奏つきで柿むき歌をなどといふこともない。私は元歌を知つてゐるものもあり、それが頭にあるから、伴奏には大きな違和感を持つのである。地元の人達 はこれをどう聴くのであらうか。気になるところである。その点、民謡歌手といふ立場からすれば伴奏は必須であらう。あつて当然、なくてどうするである。こ の処理は極めて当然のことである。私もそれを認める。しかしこのアルバム、それゆゑに資料としては使へない。参考にはならう。その程度である。聴いて楽し むには良い。こんな歌もあつたのだと思ひながら聴くのは楽しい。ただ、それ以上にはなり得ない。それが残念である。せめて元歌のデータがあればと思ふ。 ・こんなことを書いてはきたが、個人的にはありがたくもまた嬉しいアルバムである。例へば1曲目「吉田おんぞ唄」は現在の祭で歌はれてゐる歌 である。実はこれ以外にも五線譜が残されてをり、それが歌はれてゐるのかと期待したのだが、残念ながら違つた。これが正統的なおんぞ唄であるのかどうかと 考へたものである。2曲目「三河ささら踊り」、いかなる歌ならんと聴けば、これは嵩山大念仏の最後のささら踊りであつた。三河などとせずに嵩山とすれば良 いものをと思ふ。かういふ曲名は誤解の元である。「設楽数え歌」といふのもある。これは鳳来町の歌であるらしく、私の知る北設楽郡の歌とは歌詞も旋律も少 し違ふ。設楽といふのはやはり誤解を生む。鳳来とするなりして北ではないとはつきりすべきであらう。また、おるよと吉三の物語が21番まで続くとコピーに あるのに、ここでは5番までしか歌はれてゐない。いかなる事情であれ、あれで終はつてはいかにも中途半端である。……などと書いてゐたら切りがない。以下 続く……? 13.02.23 ・ 長いタイトルのCDブック、藍川由美「世界最古の「うた」をもとめて〜 『古事記』編纂千三百年に甦る古代のうた『琴歌譜』」(CAMERATA CMBK-30002)のポイントは最後の琴歌譜である。これは古代歌謡の世界ではよく知られ てゐるものの、その実体はよく分かつてゐない。一部の譜はある。それを解読すれば良いのだが、事はさう簡単ではない。詳細は琴を弾き、歌 を歌つてゐる藍川女史の解説を読んでいただくのが一番である。古代の歌、いや、タイトルによれば「世界最古の『うた』」がいかなる作業に よつて作り上げられたかが分かる。「うた」も問題だが琴もまた問題なのである。 ・このCDに収められてゐるのは神楽歌4曲、「阿知女法」「小前張阿知女」「磯等前」「千歳法」、琴歌譜から2曲2種、つまり4曲の計8 曲である。神楽歌は六弦の倭琴で歌ふのが前の2曲、これは管弦の伴奏ではないものの、基本的には雅楽で歌はれてゐるままに歌つてゐるやう である。芝祐靖編著「五線譜による雅楽総譜」所載の楽譜の歌と楽箏の部分とほぼ同じである。女声であることに多少の違和感は感じるもの の、何度かきいてゐるうちに、女性の声楽家ではあつても、藍川女史がここで決して高い音域で歌つてゐないことが、その違和感を消してくれ る。安心して聴けるやうになるのである。敢へて言つてしまへば、これは普通の神楽歌である。アチメ、オオオと繰り返され、その間に楽箏が 挿入される「阿知女法」は、旋律にまとまった意味をなす一連の言葉が付される以前のうたの形であるのかどうか。最古かどうかは別にして、 始原的なうたを求めるとすればかういふものになるのかと思ふ。その意味で、琴歌譜よりもこの方が古いのかとも思ふのだが、しかし、こちら は現在も歌はれてゐる現役の雅楽歌曲である。失はれたうたではない。ここで求められる対象とはなり得ないのである。個人的には、それでも このCDで良かつたのは神楽歌であつたと言つておかう。神楽歌は複雑でも難解でもないが、それはそれなりに美しい旋律を持つ。どれも似た やうなとも言へる。うたも琴もほとんど同じ音型の繰り返しである。それでも五絃琴で歌はれると、琴の音色が違ふし、その音型はグリッサン ドしかないやうであるから、そしてやはり女声で歌はれるから、「磯等前」も「千歳法」も雅楽とは異なつた趣となる。これも神楽歌の一つの 古代的解釈であり、また「世界最古の『うた』をもとめ」る試みなのである。ところが琴歌譜はさうはいかない。違和感である。これは琴歌譜 が現行の神楽、催馬楽等の雅楽歌曲とはかなり異なつた趣であることによる。多くの中に入ればさう違はないではないかと言はれるかもしれな い。しかし、神楽や催馬楽とはうたの旋律がかなり違ふ。琴も五弦と六弦の2種が収められてゐるが、これも音型はほとんどグリッサンドだけ である。旋律的な音型は現れない。それにしても、ああいふ楽譜からかういふ音が出てくるのだと思ふ反面、神楽、催馬楽との違ひはどこから 来るのかとも思ふ。公式な儀礼では用ゐられなかつたことによるのであらうか。催馬楽も琴歌譜のうたももとは流行り歌であつたらう。ただ、 消えてしまつて残ることがなかつたいふ点が異なる。消えた方が単純かといふとさうでもない。琴歌譜のうたもかなりの抑揚と強弱のアクセン トを持つ旋律である。年代的に何となくもつと単純なうたかと想像してしまふのだが、きいてみるとこれは偏見でしかないと知れる。琴もずい ぶん力強い音である。これが「世界最古の『うた』」の響きであるかどうかは別にして、雅楽以前の音楽の一端を少しばかり見せてくれてゐる とは思ふ。慣れればこれもまた心地良い音楽であつた。 08.09.20 ・ 「シェイクスピア劇場のための音楽」(NAXOS 8.570708)の 原題を"MUSIC FOR SHAKESPEARE'S THEATRE"といふ。直訳である。収録曲もこのタイトル通りである。全38曲、約67分、最短は17秒しかない。シェークスピア劇の 音楽を集めたアル バムは既に何枚もあるはずである。正確なことは分からないが、私の記憶と印象では、それらの多くの伴奏はブロークンコンソートであつた。 もちろん小規模な ものである。劇中歌と言つたところで、この頃、多くの楽器の伴奏で歌へるやうな劇場と芝居はなかつたはずである。だから、演奏は最も簡単 なのはリュートソ ングにすることであつた。このアルバムが、実は、さうなつてゐる。女性リュート奏者Dorothy Linellと、テノールGerald Place、ソプラノRebecca Hickeyである。 ・無伴奏の歌はないが、リュート独奏曲はある。舞曲等である。有名な曲では "Divisions on Greensleeves"、リュート独奏による「グリーンスリーブズ」の主題と変奏である。これは他の楽器や合奏でもよく演奏される。 私の好きな violによる演奏もあるが、リュートだけの、言はば、ひそやかな演奏もなかなか良い。劇中ではその場面と演出によつて編成等が決まる。 この歌は「ウィン ザーの陽気な女房たち」で、ファルスタッフから恋文をもらつた女房が、ファルスタッフの口と腹は賛美歌と「緑の袖」ほど違ふとけなす場面 に出てくる。実際 には、グリーンスリーブズ=緑の袖といふ曲名が出てくるだけである。しかし歌つても良ささうである。この歌、本来は女性の失恋歌である。 緑の袖がかつての 恋人の象徴であつた。だから、流行り歌(歌曲)としてなら、これはリュートソングがふさはしい。それをファルスタッフへの当てつけのやう に歌ふこともでき よう。DivisionやGroundは器楽の一種の変奏曲だから、本来の雰囲気から外れる演奏もできるし、その方がおもしろいこともあ る。歌はれる曲で はさうはいかない。これまた有名な"Willow Song"、「オセロー」でデズデモーナが己が死を予感するかの如くに歌ふ「柳の歌」である。これは死別した恋人を思ふ内容のリュートソ ングである。よく 言はれる、嫋々とといふ感じの歌ひ方ではない。実際の舞台ではないから、あまり感情をこめずに流行り歌らしくといふことかもしれない。楽 譜を見るとかなり 単純な歌である。ここで歌はれてゐる多くが似たやうなもので、決して難しい歌ではない。リュートの伴奏もそんなに難しくない。流行り歌だ から当然である。 難しくては流行らない。シェークスピア自身が、曲によつては、単純に当時の流行り歌を取り込まうと思つて使つただけかもしれない。このア ルバム、全38曲 が"Country Matters""This Music Mads Me""Seals of Love""Music's Lore"の4部に分けられてゐる。「柳の歌」は"Mads Me"である。私を狂はせる調べである。原曲でも劇中歌としても、この歌はさういふものであらうか。「グリーンスリーブズ」 は"Seals of Love"、愛の証しである。歌詞だけからすればこの方がふさはしからう。とまれ、このアルバムで、改めてシェークスピア劇の音楽の豊か さを思ふ。そし て、それはある意味では金太郎飴的な音楽であつても、決してつまらないものではないとも思ふ。敢へて言へば、この響きの同質性がこの時代 の音楽である。劇 中のリュートソングにもそれが出てゐる。私はこれが好きであるが……。 08.07.26 ・ふと気がつけばである。iTunes Storeにテリー・ライリーが何枚もある。これは知らなかつた。かなり前のことだが、ミニマル系の作曲家がどのくらゐ売られてゐるのか と調べたことがあ る。皆無ではなかつたと思ふ。しかしごくわづか、ミニマルどころか、クラシック自体が極めて少ないやうな状態であつた。ところが現在はど うか。マイナー レーベルは無理にしても、メジャーなのは新譜も旧譜もかなり売られてゐる。ミニマル系も例外ではない。グラスはもちろん、ライヒもライ リーももはやメ ジャーである。ビジネスとしても成り立つはずである。iTunes Storeで売られることに何の不思議もない。CDで買ふ方が安いことも多いが、それでもかういふ選択肢があるのは嬉しい。 ・Terry Riley"Les Yeux fermes & Lifespan"(Elision Fields EF101)も iTunes Storeで売られてゐる。1,500円なり。実を言へば、私はここで買つたのではない。通販で2,000円弱であつたか。こんなもの が、こんなところで 売られてゐるなどとは思ひもしなかつた。ためらふことなく通販で買つた。その後、最近ライリーが新譜ではもちろん、CD化されたLPもか なり売られてゐる ことから、もしかしたらとiTunes Storeを検索してみたのである。さうして、これもまた売られてゐると知つたのであつた。ここには合計23のアルバムがある。さすがに CBS盤はない。 あの歴史的な"in C"はiTunes Storeでは手に入らない。最新作もない。この"Les Yeux fermes"は発売年は2007だが、かつてLPで出てゐたもので、国内盤は「目を閉じて」となつてゐた。サントラである。グル的風貌 のライリーがジャ ケットを飾つてゐたのを覚えてゐる。本来は"Lifespan"と別々であつたのであらう。それをかうして1枚にしたものである。私は "Lifespan"を知らない。'74のサントラ、ライリーのオルガンで奏されてゐる。繰り返しやドローンを主にした音楽である。この 時期のライリーら しい音楽である。似たやうなものではない。私は"Les Yeux fermes"の方が好きである。優劣をつけることはできないが、私の好みはある。こちらは2曲、ともに18分強、これでもライブに比べ れば短いぐらゐだ が、既に完結してゐるのである、そこはしかたがない。第1曲で繰り返される5音の旋律(EFisEGA?)とその背後の持続音、そこに ラーガ風の旋律が絡 む。ライリーはライブでもこんな演奏をしてゐたが、この曲はそんな中でも非常に分かり易い構造と音を持つてゐる。短いだけに、そのエッセ ンスが凝縮されて ゐるのかもしれない。あるいはサントラであるがゆゑに、本来的に映像と一体になることを計算されてゐる音楽であるから、予め夾雑物は取り 除かれてゐるのか もしれない。私はライリーの即興オルガンの良質の部分が出た曲だと思ふのだが、いかがであらう。こんなのがiTunes Storeで買へるのである。ただし、ここで買ふと、曲データ等、一切を知らないですんでしまふ。これは困る。私はそれを知りたい。ライ ナーノートがあれ ばそれもほしい。PDFで添付するのでも良い。しかし、これは基本的に行はれてゐない。だからCDを買ふことになる。選択肢が増えても、 かういふ現状が改 まらなければ、iTunes Storeで買へる曲はあまりない。そんなわけでこのサントラ盤、少々高いが、それは曲データ代といふことで……いや、やは りかなり高い。でも、<新譜>だから……如何。 08.04.05 ・masqueをご存知であらうか。仮面劇である。これは古今東西に数多く存在する。しかし、私は仮面劇masqueと言 つ たら英国である。試みにwikiで調べると冒頭にかうある。「仮面劇(マスク、masque)は、16世紀から17世紀初期のヨーロッパ で隆盛をきわめ た、宮廷の祝祭の出し物の形式。最初にイタリアで発展した。」さうして「イングランドでは、ジェームズ1世の王妃アンが1603年から 1611年にかけて 取り巻きの淑女たちと一緒に仮面劇で踊った他、ヘンリー8世とチャールズ1世はそれぞれの宮廷で仮面劇を演じた。」このイングランドであ る。演劇ではベ ン・ジョンソンの時代、英国音楽の黄金時代以前であらうか。シェークスピアやパーセルはこの後の時代になるから、マスクの影響を受けた世 代といふことになら う。 ・このマスクのアルバムを買つた。と言つても、異色作といふべきでであらう。Brisk Recorder Quartet Amsterdam"The Domestication of the Animal World"(GLOBE GLO 5228)で ある。これはウィリアム・バードやウィリアム・ブレイド等のリコーダー四重奏による作品と、トマス・キャンピオンのマスクの音楽を収めた アルバムである。 全31曲、約62分、16世紀から17世紀のイギリス音楽である。正に上記の時代である。キャンピオンのマスクがアルバムタイトルである が、その前に "From The Lords' Masque(1613)"とある。つまり、原曲のマスクそのままではないといふことである。原曲は1613年のジェームス1世の娘エリ ザベスの結婚式に 奏されたものである。ロバート・ジョンソン等の曲もここに含まれるらしい。妃がマスクを演じたといふだけあつて、王自信もマスクを好んだ のであらうか。娘 の祝宴である。それを"We hear Orpheus enchant the entire animal kingdam with this splendid harp playing."といふことでまとめてある。だから"The Domestication of the Animal World"なのである。これが元のマスクの内容かどうか私は知らない。解説には書いてないやうである。ただ、このマスク(このアルバム での実態はほとん ど組曲である)17曲のうち7曲はハープ独奏、それもほとんど即興である。これがthis splendid harp playingなのであらう。だから、このマスクはリコーダーと弦楽器を含むブロークンコンソートである。実はこのアルバムにはDVDも ついてをり、それ がこのマスクのアニメ版である。このアニメはナイチンゲール、駱駝、熊、うさぎ、犬、蜜蜂、白鳥、これらの、自然の状態から人間と関はり を持つようになる 様子が、演奏をバックにして描かれてゐる。それらしい、シンプルな映像である。どれも好ましい。原曲がどうであれ、かうしたアニメを見な がらマスクを聞くの も一興である。特にこのアルバム、リコーダーの音が良い。実にまろやかで美しい。これはマスクよりブレイドやバードの曲で際だつ。私など はこれだけでも う買つて良かつたと思つてしまふ。このアルバムはマスクを売り物としてゐるわけではない。あくまで合奏である。ホールコンソートとブロー クンコンソート、 夾雑物の有無により変はる印象、そんな聴き方をしても良い。私はリコーダーやヴィオールはホールコンソートでこそ聞きたいと思ふのだが、 マスクはさうはい かない。アニメもそれを教へてくれる。楽しいアルバムである。 08.03.08 ・"FRANCIS XAVIER 1506-1553 The Route to the Orient"(ALIA VOX AVSA98569 A+B)、 これもサヴァールである。これにはちやんと邦題があり、それは「東洋への道」といふ。直訳である。2枚組、全49曲、155分弱、短い曲 が多いが、10分 以上の曲もいくつかある。極めて変化に富んだアルバムである。いや、体裁はCDブックである。ほぼDVDケース大のハードカバー、その表 紙裏にCDが入 る。巻末のディスコグラフィーを含めて290頁、ずつしりと重い。サヴァールはかういふのをいくつか出してきたが、これはコロンブスと同 じくらゐ厚くて重い。きち んと箱に入つてゐれば、個人的には是非さうあつてほしかつたが、とてもCDとは思へない。邦題は副題である。フランシスコ・ザビエル、日 本にキリスト教を 伝へた人である。1506-1553はその生没年、つまりこれはザビエルの生涯を当時の音楽で再現しようとする試みである。CD1は「人 文主義のヨーロッ パ」、誕生からパリ大学、イエズス会創設、そしてインドへと続く。CD2は「日本への到着」、鹿児島上陸から中国で志を果たせずに死去す るまで。半生を東 洋での伝道に捧げた人である。内容が変化に富み、多岐にわたるのも当然である。 ・CDブックはアルバム解説である。普通の輸入盤の場合、英仏独西の4カ国語ぐらゐで解説が書かれてゐる。ところがこれは英伊葡日中の5 カ国語の解説であ る。日中があるのはザビエルの縁による。パリ大学に学んだのだから仏があつても良ささうなのにない。代はりに、イエズス会の縁であらう か、伊がある。葡は 共に鹿児島に上陸した宣教師ゆゑであらうか。ザビエルに特化されてゐる。サヴァールの解説「フランシスコ・ザビエルの東洋への道」はかう 始まる。「私達は フランシスコ・ザビエルの並外れた叙事詩に何年も前から興味があった」(井本晶子訳、155頁。Savallはサバイと読まれてゐる。こ れが正しい発音 なのであらうか。私はサヴァールと読むものだと思つてゐたが)。それが最終的に生誕五百年を記念するこのCDになつたといふことである。 サヴァールのザビ エル認識は「ザビエルの精神的人間的大きさを前にしての幻惑と称賛」(同前)、「彼の驚くべき旅は、たいへん激しく信仰に生き、新しい会 イエズス会のすべ ての基本的な会則(中略)規則を厳密に実践した男の旅である。」(同前) 東洋への旅の「助 けは彼自身の信仰心の強さだけで、勇敢に最も危険な状況に立ち向かい、日本の僧侶達の権力と尊大さに挑み新しいキリスト教徒の会の基盤を 据えた。」(同 前)かういふ言によく現れてゐる。ザビエルをスーパースター、英雄などとは言はぬまでも、宗教的、人間的な偉大なる先人と見てゐる。同じ 宗教を信ずるがゆ ゑであらうか。私には理解し難いことである。しかし、さうしてできたアルバムである。CD2は「篠の音取」に始まる。鯉沼廣行(?)の篠 笛である。この人 はリコーダーも吹いてゐたから、その縁でここにゐるのであらう。以下、琵琶の「本能寺」や尺八の「鈴慕」もあるが、異色なのは篠笛、尺 八、琵琶で奏する "O Gloiosa"である。当時、実際にかういふことが行はれたわけではなからう。私などは違和感なく聞いてしまふ。もちろ んこんな曲ばかりではない。宗教曲も世俗曲もある。有名な曲もある。16世紀頃の様々な音楽をザビエルといふ視点でまとめたものと考へれ ば、純邦楽も含めて、これはなかな かおもしろいアルバム、いやCDブックである。その認識は別にして、さすがサヴァールと喜びたい。 07.12.29 ・"LACHRIME CARAVAGGIO"(ALIA VOX AV9852)、 サヴァールである。「カラヴァッジオの涙」と訳すであらうこのアルバム、私は勘違ひをしてゐた。つまり演奏はサヴァールだが、曲はバロッ ク以前の作品であ らうと思つてゐたのである。"Musique de Jordi Savall"とある。これは言ふまでもなく、音楽はサヴァールの意味である。正にその通りであつた。サヴァールが演奏してゐるのは当然 として、このアル バムのかなりの曲を彼自身が書いてゐたのであつた。これに気づいたのはアルバムを聴き終へてからである。1曲目から違和感があつた。それ は最後まで続い た。これがサヴァール? なぜこんな曲? 誤解を恐れずに端的に言つてしまへば、音楽が劇的なのである。バロックの宗教音楽ではないはず だ、中世、ルネサ ンスの音楽だ。私にはかういふアルバムへの先入観があつた。これが見事に覆されたのである。さういへばと演奏者を見ると、サヴァールは指 揮とviolとい つもの通りだが、彼が指揮するのはHESPERION XXIとLE CONCERT DES NATIONSであつた。前者は比較的小さいグループで、今回はそれでも15人以上のメンバーである。後者はバロックを中心に演奏してゐ る宮廷管弦楽団、 こちらもほぼ同人数である。単純に合計すると30人強である。多い。ただし、このフルメンバーでの演奏は無ささうで、基本的にはこの中の 選抜による合奏で ある。だから、劇的といふ印象は必ずしも演奏者の多さ、合奏の規模の大きさによるものではない。曲そのものによるのである。 ・このアルバムは全30曲、約78分、サヴァール作曲は10曲、これに即興演奏が15曲加はる。これで計25曲、8割である。残りがジェ ズアルドやモンテ ヴェルディといふ画家カラヴァッジオと同時代の作品である。演奏はサヴァールでも、アルバム自体は古楽の範疇には入らない。いや入りきら ないと言ふべきで あらうか。私はかういふことを全く予想してゐなかつた。驚いた。第1曲は"Cantus Caravaggio 1"、「カラヴァッジオの歌」と訳すのであらう。この冒頭(リコーダー?)で奏されるのはAHCHAEと続く旋律である。階名でそれらし く書けば、ラーシ ドーシラミー……といふ感じである。これが言はばライトモチーフとなり、以後、形を変へ、変奏されて繰り返 される。即興もこ れによるのが基本である。当然の結果として、この雰囲気がアルバム全体を支配することになる。それを私は劇的と理解したのであつた。この 雰囲気、決してバ ロック的ではない。サヴァールのこれまでの演奏から外れる。解説(カラヴァッジオの絵を含めて150頁以上ある)でサヴァールはかう言つ てゐる。"the mysterious painter and tragically human figure of Caravaggio"(16頁)さう、いやtragedy、悲劇の人なのである。画家カラヴァッジオの画風は劇的だと言はれる。性格に も激しいものがあ つたら しく、放浪の果てに病死してゐる。これらがあのライトモチーフに結実したのであらう。サヴァールにとつて、このアルバムはカラヴァッジオ へのオマージュで あらう。その思ひ入れの強さがアルバムに表れ、それが私の違和感につながつたに違ひない。さう思つて、これまでのサヴァールといふ先入観 を取り払つて聞 き直してみると、これはこれでサヴァールの新たな可能性を示した演奏かとも思ふ。彼もまたロマン派への進出を目論んでいるのであらうか。 そんな雰囲気さへ 感じられるアルバムであつた。 07.12.01 ・こんなものが出たと思つたのは私だけであらうか、William Byrd"My Ladye Nevells Booke"(NAXOS 8.570139-41)。 邦題は「私のネヴェル夫人の曲集」と直訳である。このネヴェル夫人、フランシス・ベーコンの姉妹であり、ヘンリー・ネヴェル卿の第三夫人 である。全42 曲、16世紀後半のイギリス鍵盤音楽の特徴のよく表れた曲ばかりである。最初の2曲は夫人に献呈されてゐる。当時の大作曲家バードがこの 曲集を編むに当た つて、夫人のために新たに作曲したものであらう。第1曲"My Ladye Nevells Grownde"、この時代の嗜好であらう、この曲集だけでなく、他の曲集でもグラウンドと名づけられた曲が多い。繰り返されるバスの上 に展開される一種 の変奏曲である。変奏はある程度定型化されてゐるやうで、ごく大雑把に言へば、徐々に音が細分化されていくものである。当時の流行舞曲た るパヴァーヌやガ リアルドでは変奏はないが、バスの動きは極めてよくにてゐる。低音部にドソドやラミラの5度音程を含むことが多い。これはバードの偏愛 か、時代の偏愛か、 本当によく見られる、聞かれる音である。最初の2曲にもこれは当然あり、装飾音多用の中庸の速さの音楽はいかにもネヴェル卿夫人にふさは しい。この偏愛は 続く、第3曲"The Battell"でも聞かれる。最初のマーチはPJBE等の演奏で「オクスフォード伯爵のマーチ」として知られてゐる曲である。さすがに マーチでは装飾音 は減るが、この組曲のかなりの低音部はドソドの形である。ここではこれが戦ひの描写に一役買つてゐる。"The marche of footemen"等は楽譜を見ると単純明快、思はず私にも弾けますと言ひたくなるほどである。バイエルが終はつてゐれば弾けるのではな いか、そんな感じ の曲である。しかしそれ故に、当時の戦ひが思はれるやうで、私は好きな曲である。ただし、かういふ感じの曲はむしろ例外である。大半がグ ラウンドや舞曲で 装飾音多用、どの曲もよく似た印象である。だからこそこの曲集にある。それがこの時代である。日本では江戸開幕前の戦国から安土桃山にか けての時代、彼の 地ではこんな優美な(月並みだがかう言ふのが最も良からう)曲が流行つてゐたのである。日本で言へば髓B節であらうか。こんな流行り歌が 変奏をつけて鍵盤 で奏されてゐた。かう考へるとおもしろい。そんな曲を集めたのがこの類の曲集である。この曲集は、それが時の大作曲家バードによつて編ま れたことに意味と 意義がある、たぶん。 ・このアルバムは3枚組で全3時間45分、ヴァージナルではなく、4台のチェンバロで奏されてゐる。3台は17世紀前半のオリジナルかコ ピーであるが、他 の1台は2000年製作である。演奏はエリザベス・ファー、17世紀から18世紀の鍵盤音楽のスペシャリストである。細かいことを言へ ば、バードはここか らほんの少し外れる。しかし、イギリスではバード抜きにして17世紀の音楽は語れない。演奏習慣もほとんど違はないはずである。この演奏 での使用楽譜は Doverの1926年のリプリント1969年版、ここでは装飾音は区別されてゐないし、その弾き方も記されてゐない。それを適宜弾き分 けてゐる。楽譜通 りの箇所のやうだが修飾過多になつてゐない。フランスのロココ趣味とはかなり違ふ。それが嗜好、偏愛といふものであらう。この時代の音楽 には、ある意味、 単純で金太郎飴的なところがあり、鍵盤音楽にはそれが直接的に出る。このアルバムを通して聞くとそれがよく分かる。私はこれが好きである が ……。 07.11.17 ・このアルバムタイトルから直ちに内容を想像できる、"Dictionary of Medieval & Renaissance Instruments"(cantus C9705/6)。 中世ルネサンス楽器事典である。短い曲で楽器を紹介する、この手のアルバム、マンローの「中世・ルネサンスの楽器」がある。これは30年 ほど前の録音、打 楽器やヨーロッパ以外の民族楽器が多用されてゐる。第1曲、マンローの吹くショームの「サルタレロ」はやはり派手である。選曲も舞曲中 心、マンローらしい アルバムであつた。これには書籍版もあり、LPにはこれがそのまま付されてゐた。正に目と耳で楽器を知つてもらはうといふアルバムであ る。手元には山野楽 器企画の日本版CDがある。ここに解説はあるものの写真は一切ない。音と文字で楽器を知れといふことか。これでは不親切である。かつてシ ビル・マルクーゼ 「楽器総合事典」のペーパーバック600頁に一切の図版がなかつたのに愕然とした覚えがある。それに比べればマシではあるが、この手の企 画には図版は是非 必要である。その点、マンローのLPは行き届いた企画であつた。 ・今回のはどうか。2枚組、100頁弱の英語解説付き。ここには写真も少しはあるし、各楽器群の概説と、収録曲に対するかなり丁寧な解説 もある。これをき ちんと読めばそれなりの理解はできさうである。しかし隔靴掻痒の感は免れないのではないか。例へばお琴(十三絃箏)を、弦を水平に張つて ピックではじいて 弾く等々と書かれても、現物を見たことがなければその形をイメージしにくい。図版があればその説明をかなり正確に理解できる。そこに音が 加はれば更に正確 に理解できる。百聞は一見に如かずである。中世、ルネサンスの楽器でも同じこと、音と説明だけでは分かりにくい。是非とも写真がほしい。 使用楽器でなくと も良い。使用楽器であれは言ふことはない。例へば冒頭は中世のviolin、次に中世のfiddleが4種類続く。これならば形の見当は つく。音を聞き比 べよといふことでもあらう。しかし、かういふ場合、物を見たいと思ふのが人情ではないか。ルネサンスluteは5種、エリザベス朝やスペ インのluteも ある。recorderは合奏も含めて9種もある。時代により微妙に形が違ふはずである。やはり見たい。同種の楽器だから1枚ですますの ではなく、同種だ からこそすべての写真を載せてほしいと思ふ。このアルバムの特徴は同種楽器多曲であらう。organは大小5種、チェンバロは virginal含めて6 種、管楽器でもほとんど複数である。曲数は74あるが、楽器の種類は多くない。マンロー盤は曲数61と少ないが、楽器の重複もまた少な い。このアルバムの 中心はDominique Vellardであらうか。さうであるなら、声楽曲が多いのもうなづける。彼の声楽アンサンブルの美しさは忘れられない。この人、マン ローのやうに細かい 楽器にこだはることをしないのであらう。同じやうな趣旨だが、こちらは声楽曲を聴き、同じ楽器の音を聞き比べようと思ふ人には最適のアル バムである。舞曲 を含むのは当然としても、その演奏は派手ではない。逆にタイトルのDictionaryにこだはるのならば期待はずれである。珍しい楽器 の音と形を知りた くてもこれは役にたたない。私には正にこれであつた。しかし、この手のアルバムは珍しいことは珍しい。だから買つた。中世ルネサンス小品 集と思つて聞けば 良い。それで十分に楽しめる。細かいことは気にせず、文字通りその楽器の音を楽しむ。それでこそ耳で聞くDictionaryであるのか もしれない。 07.10.13 ・ハーディ・ガーディといふと、ミュラーの詩による有名なシューベルトの歌曲集「冬の旅」を思ひ出します。こ の最後は「辻音楽師」、原詩はかうなつてゐます。“ Wunderlicher Alter, soll ich mit dir geh'n?/Willst zu meinen Liedern deine Leier dreh'n? ”堀内敬三は「老いし人よ 共に来よ/わが調べに あわせずや」と訳しました。意訳でせうが、これでは老音楽師の楽器が分かりませ ん。これを 忠実に訳すとかうなるのでせうか。web上で見つけた訳です。「不思議な老人よ,/お前のお供にしてくれるか?/私の歌にあわせて,お前 はハーディー・ ガーディーを回してくれるか?」(森 章吾訳)さう、このLeierなる楽器はドイツでのこの楽器の呼び方です。他の楽器名に訳したりすることもありますが、私はここは是非と もハーディ・ガー ディであつてほしいと思ひます。「冬の旅」は失恋した青年の物語です。青年は最後に、このうらぶれていかにもわびしげな辻音楽師に自らを 投影しつつ、わづ かな希望を見いだします。ハーディ・ガーディは貴族の楽器ではありません。乞食の楽器、悪魔の楽器とさへ言はれました。要するに庶民の楽 器です。シューベ ルトがこの楽器をまねて、伴奏で同じ旋律を何度も繰り返すのは見事です。 ・この楽器にはこんな印象があります。だからコレットのハーディ・ガーディのための作品集MICHEL CORRETTE"PIECES POUR LA VIELLE OU MUSETTE ET BASSE CONTINUE"(HUNGAROTON CLASSIC HCD 32102)と はいかなるものかと思つたものです。マンローは「中世・ルネサンスの楽器」で13世紀のシャンソンを奏しました。楽器は19世紀製作のや うですが、その独 特の音色は決して華やかなものではありません。ところが、コレットは18世紀フランスで活躍したオルガン奏者、作曲家です。ラモーの次の 世代に当たる、バ ロック後期から古典派の作曲家でせうか。オルガン曲はもちろん、様々な宗教曲、器楽曲を書き、その一方で当時の流行歌たるヴォードヴィル も書いたやうで す。これからすると、当時の華やかな音楽とコレットとハーディ・ガーディはどこかミスマッチに感じられるのですが、実際は必ずしもさうで はないやうで、こ の時代、一時的ではあつても、この乞食の楽器がパリの社交界で流行しました。実はこのアルバム、タイトルからお分かりのやうに、 VIELLEと MUSETTEのための作品集です。前者がハーディ・ガーディ、後者がバグパイプです。バグパイプもまた庶民の楽器です。イギリスだけで なく、フランスで も広く使はれてゐました。コレットはヴォードヴィルで有名だつた作曲家です。そんな人だから、時の流行に乗つた楽器のための曲を書くのは 当然のことでせう か。そこで、このアルバムには2つの田舎の楽器のための組曲等が収められてゐます。全43曲、67分、2つの楽器のための組曲がほぼ交互 に置かれてゐま す。この2つの楽器、発声は違ふものの、ドローン、持続音を持つことを特徴とします。そのくすんだ音色が時にわびしさを感じさせるのです が、ここではさす が社交界絡みです。舞曲が多く、それ故に華やかで楽しげです。「辻音楽師」を忘れてしまへば良いのです。さうすれば何の違和感もないでせ う。ハーディ・ ガーディのファンファーレも案外似合ひます。バグパイプはもつとあいます。悪魔の楽器、乞食の楽器にもこんな時代があつたのだと教へてく れるアルバムで す。 07.08.04 ・アントネッロ 「天正遣欧使節の音楽」(Anthonello Mode AMOE-10004)は あくまでも想像の産物である。「天正遣欧使節に因んだ音楽の選曲にしても、『これぞ!』という証拠のある曲はない。」(5頁)と解説で リーダーの濱田芳通 は言ふ。彼らの周りに様々な音楽があつたに違ひないのだが、それを具体的に特定することが現状ではできない。時代が古いといふこともあ る。天正年間、16 世紀末である。バッハより100年以前、この時代の様々な音楽を聴くことはできるが、それらと彼らとの具体的な関はりは知る由もない。 「当時の音楽シーン が即興演奏中心に彩られていた」(同前)から、例へばバッハであつてもバッハになるかどうかは分からないのである。それを濱田は「未来へ 向かう『即興演 奏』」(同前)といふ。それが残って「過去に向かう『懐かしい歌』」(同前)となり、「『想い』や『魂』を浄化させる役目を担う」(同 前)。このアルバム では、「あえて日本を訪れた宣教師たち、船乗りたちにとって『懐かしい曲』を推測し、そこに焦点を当てたかった。(中略)そこで、なるべ く古謡に即して作 られたであろう曲、ヨーロッパで大ヒットした曲などを優先して選んだ。」(同前)といふ。ここに学問的な裏付けはある。演奏者の単なる嗜 好で選ばれたわけ ではない。「このCD全体を通じた企画は先生の研究成果なしにはありえないことであった。」(13頁)この先生とは皆川達夫、中世、ルネ サンス音楽研究の 第一人者である。生月島隠れキリシタンのオラショ研究等でも知られ、このアルバム中でもそのオラショが歌はれる。この「天正遣欧使節の音 楽」は想像の産物 ではあつても、全く根拠のないものではない。それなりに高い蓋然性を持つた曲を集めた、かなり異色な古楽アルバムなのである。なかなか凝 つた作りである。 全27曲、78分弱、変化に富んでゐて飽きることはない。 ・冒頭はなんと「パッサメツォ上の五木の子守歌〜ももやももや」、「パッサメツォのオスティナートに乗せた『五木の子守歌』」(8頁)、 正に和洋折衷であ る。ここで歌はれるのは「おどんが打っ死んだちゅうて、だいが泣いてくりょうか/うらの松山蝉が鳴く」といふ詞章、「美しい悲劇としての 少年たちの物語 や、キリシタンをはじめ迫害を受けた人たちへの追悼の意を込めて選んだ。」(同前)とある。ここに先の蓋然性はなささうである。しかし追 悼の意は明らか で、その歌唱、楽器、編曲、いづれもが見事に悲しみを漂はせてゐる。楽器は撥弦楽器とコルネットであらう。このコルネッ ト、"Officium"のサック スのやうに響く。他でも使はれてゐる。これがなかなか良い。意外な選曲と編曲の妙である。この種の企画にはスタンダードは存在しない。そ の良し悪しを決め るのは選曲と編曲であらう。第6曲「牛飼いとお針箱」、これは解説では触れられてゐない。当時の流行曲なのであらう。コルネットやフルー トが前面に出てゐ る。演奏にはジャズのイディオムが随所で聞かれる。これは次の一節に関はるのであらうか。「西洋音楽の歴史は劇的に変化したため、ルネサ ンス音楽の演奏ス タイルを失ってしまっている可能性もある。(中略)この妄想の続きは、将来的に日本の音楽や南米の音楽の中に真のルネサンス音楽のスピ リットが見出せるの ではないかという夢に繋がる。」(5頁)ジャズのイディオムや五木の子守歌にルネサンス音楽魂があるといふわけである。しかしこれは私の 妄想である。そん な妄想を誘ふ、正統はないとはいふものの、やはり正統ではない古楽アルバムがこれであるのかもしれない。御一聴あれ。 07.07.21 ・Jeroen van Veen"Minimal Piano Collection"の最後にあるテリー・ライリーの"in C"、これは1人で演奏してゐる。常識的には、様々なキーボードを弾き分けた多重録音であらうと想像するのだが、解説ではこの点に触れて ゐないので、本当 のところは分からない。ただ、それにもかかはらず、その音や曲の聴感上の印象は作曲者自身の録音に近い。例のCBS盤である。これは '68年に出てゐる。 ライリーをリーダーとする計11人のメンバー、管楽器を主体にした合奏であつた。(ピアノによる)Cのパルスに始まるのはこの曲の約束事 だが、ビブラフォ ンやマリンバを含む楽器のせゐもあつて、これはなかなか心地良い時間を提供してくれる演奏であつた。これ以後、実に多くの"in C"が出てゐるが、奇を衒つた、例へば中国楽器による演奏などといふものがありはしたものの、そんなのも含めて、それらは結局ライリー自 演盤を超えること はできてゐない。これは、ごく大雑把に言へば、53の断片を各奏者が適宜最後まで奏すれば終はりといふだけの曲である。その断片をとばさ うがまちがへよう が、そんなことは一切関係ない。楽器も奏者も一切問はない。それ故にこそ、楽器の組み合わせは重要である。それ次第で印象が変はる。私は 管楽器好きで、し かもマリンバやビブラフォンの響きが心地良いので、この演奏が好きなのである。Veenの演奏、音色は単調であるものの、奇を衒ふことな くきちんと演奏し てゐるといふべきであらうか。たぶん用意周到に組み立てられた演奏なのであらうと思ふ。しかし、聴く者にはその計算は見えない。一人でと いふ驚きはあるも のの、私に聞こえる結果は可もなく不可もなくといふところ、 しかしVeenの心意気を感じたい。 ・The Styrenes"in C"(ENJA ENJ-9435 2)はVeen を聴いてから捜し出したアルバムである。'02年に出てゐる。知らなかつた。いや、私などを知つてゐようはずがない。このThe Styrenesはロックグループであるらしい。こんなことをするのだから、もしかしたらプログレかとも思ふ。ライナーには'75年に結 成され、'80年 にはニューヨークに移つたとある。初期からジャズや室内楽と競演したりしてゐたらしい。プログレは外れではなささうである。既に30年に なろうといふキャ リアとこの音楽傾向からすれば、こんなアルバムを出しても不思議ではないのかもしれない。しかし、ロック版"in C"といふのは珍しいのではないか。これまで他のグループが演奏したアルバムはあつたのであらうか。私は寡聞にして知らないのだが、そん なのがあつても一 向に構はない。"in C"はすべてを許容する曲なのである。ここでの演奏はロックバンドとビブラフォンの計7人による。断片を演奏できるドラムス以外は良い。 しかし、演奏でき ないドラムスはどうなるのか。演奏を聴く限りはどうにもなつてゐない。ドラムスはドラムスである。これはパルスの出た直後からドラムスで ある。8ビートで あらうか。時々これが盛大に聞こえてきて、演奏者はロックをやつてゐるのだと思ひ出したりする。たぶんこれがこの演奏の特徴である。実 際、自演盤や Veenとはかなり違つてきこえる。ロックのイディオム混入が大きい。それがないからVeenの演奏は自演盤に似てゐるとも言へる。この 演奏はどうなので あらう。ロックグループが普通にロックを演奏してゐるだけといふべきであらうか。だとしたらこれもまた実に周到に準備、計算された演奏で はないか。すべて がそれらしいところで鳴る。ドラムス、ビブラフォン、ベース、その背後にはパルスのC、偶然とはとても思へない。ライナーにはリーダー の、ビブラフォンは ほしいが管楽器はいらない、基本はロックバンドでといふ旨の記述がある。この成果なのであらう。その意味ではこちらにも心意気を感じる。 とまれ、"in C"は曲自体が驚異である。様々な演奏は楽しい。 07.07.07 ・Jeroen van Veen"Minimal Piano Collection"(BRILLIANT CLASSICS 8551)は その名の如きミニマル・ミュージックのピアノ曲をまとめた9枚組のBox Setである。私は4,400円弱で買つた。これでも安からう。今は更に安く(^_^;)なつてゐる……何 しろ BRILLIANTである。ここは廉価版専門、解説等がつくことはほとんどない。ところがこのセット、さすがに現代音楽ではさうもいかな いらしく、27 ペー ジの英語の解説がついてゐる。実際、私はこの演奏者Veenを知らない。収録曲は知らない曲がほとんどだし、作曲者も知らない人が何人も ゐる。知つてゐる のはフィリップ・グラス、ジョン・アダムス、アルヴォ・ペルト、マイケル・ナイマン、テリ−・ライリー、ウィム・メルテンの既に世に 名の知れ た人々のみ、そこにエリック・サティ、ジョン・ケージ、フリードリッヒ・ニーチェなどといふ音楽史上の人物と演奏者Veenをはじめとす る私の知らない作 曲家が加はる。計17人であらうか。1枚平均軽く60分は越えてゐる。ミニマルとは言つても傾向は様々である。大体、ケージやサティをミ ニマルに分類する ものかどうか。ニーチェは論外であらう。これらはおそらく前ミニマルとでもいふ扱ひなのであらう。サティは有名 な"vexations"、例の840回繰 り返す曲である。確かに、これなどはほとんどミニマルであらう。ただし、ここで840回も繰り返せるわけがない。収録は時間にして8分弱 である。配分はグ ラスに3枚、演奏者本人に2枚と、この2人に偏りすぎかとは思ふものの、もしかしたらグラスの3枚は、現在の活躍振りからすれば順当のと ころかもしれない と思ふ反面、ならばなぜスティーブ・ライヒが入らないのかと思ふ。ライリーは"in C"が入つてゐる。こんな無理をするぐらゐなら、ライヒも無理して、いや無理などせずとも入れられるはずだ、一曲なりとも入れてほしかつ た。もしかしたら 自作が目玉かもしれないのだが、ここは大先輩を立てるべきではなかつたか。さういへばラ・モンテ・ヤングもない。長すぎて無理か。しか し、かういふ作曲家 を入れてこそMinimal Piano Collectionたりうるのではないか。演奏者自身の解説ではこのあたりもきちんと触れてゐるのだから、選曲に反映させてほしかつ た。かういふアルバ ム、やはり演奏者の嗜好をこそ反映するのであらう。 ・そんな中で、私はライリーに驚いた。ここに入ること自体不思議な気がするのに、その曲が"in C"であればなほさらである。この曲、よく知られてゐる如く、パルスに乗つて53の断片が(各奏者のペースに従つて)次々と奏されるとい ふ曲である。いか なる楽器であれ、合奏が前提としてある。それを1人で演奏してゐるのである。音からするとアコースティック・ピアノだけではなささうだか ら、当然多重録 音、つまりは1人で合奏をしてゐるのであらう。これまで様々な楽器の"in C"があつた。しかし、奏者1人といふのを、寡聞にして私は知らない。ライヒの曲などでは多重録音はよく行はれてゐる。それからすれば、 かういふのもあり なのであらう。しかもこれが9枚目の最後に置かれてゐる。言ふならば真打ちである。グラスで始まり、ライリーで終はる。この配列の妙、な かなかニクイでは ないか。勘繰れば、真ん中の5枚目にナイマンがあるのは、あまりに甘口なので中だるみとすべくおいたからではないか。傾向様々とはいへ、 このナイマンはお もしろくない。このCollectionには不要である。いかがであらう。 07.01.06 ・買つてしまつた、「ベ スト・オブ正月」(Victor VICL-61547)。 ほとんど衝動買ひである。ただしCDショップの店頭ではない。iTunes Storeである。私にこんな衝動買ひをさせるのもオンラインのダウンロード販売であるからかもしれない。全13曲、比叡山延暦寺の除夜 の鐘に始まり、日 光中禅寺湖畔のうぐひすに終はる。この間に、三種の宮城道雄「春の海」を中心に、若山胤雄社中の江戸祭り囃子「寿獅子」、雅楽「平調越天 楽」、端唄「初 春」「梅は咲いたか」、津軽三味線吉田兄弟「息吹」、藤田大五郎の笛で能楽囃子「獅子」、箏曲「六段」、鬼太鼓座「富岳百景 -FUJIYAMA-」が入 る。確かにそれらしい曲が並んでゐる。 ・正月といふとあちこちから「春の海」が聞こえてきた。所謂お琴(箏、十三絃)の曲も時にはきこえてきた。それはやはり八橋検校の「六 段」であつたらう か。今はどうであらう。正月に箏曲がふさはしいと思はれるのは和服のせゐに違ひない。和服には純邦楽が似合ふ。本来的にこれらは同居して ゐたのだから、し ごく当然な道理である。しかしなぜ箏曲、私などはさう思つてしまふ。もしかしたら歌舞伎舞踊につながる長唄、清元、常磐津や、舞につなが る地歌、更には文 楽につながる義太夫、これらはそれ故に俗臭が漂つてゐると思はれるのであらうか。箏曲ならば歌が入つても、西洋音楽の室内楽曲である。そ こで格調が保たれ るといふことであらうか。……などと理屈で考へながら、まづは「春の海」をきいてみる。三種と書いた。吉田 雅夫のフルートに よる宮城道雄自作自演、宮城喜代子と尺八青木鈴慕、砂崎知子とビクター・オーケストラである。作曲者宮城道雄は当然のことながら、吉田雅 夫、宮城喜代子、 青木鈴慕も大家である。砂崎はばりばりの現役、あちこちで演奏会を開いてをり、宮城作品を演奏する機会も多い。いづれも演奏者に不足はな い。純邦楽でかう いふ聞き比べができるのも「春の海」だからこそであらう。ポイントは箏に対する楽器は何かといふ点がまづ一つ、オーケストラは良くない。 バイオリン独奏版 は良しとしても、管弦楽は、いくら小編成でも私の好みではない。夾雑物が入る。和声的な処理と編曲は余分である。砂崎の箏の音もあまり好 きになれない。全 体に春の海をイメ−ジした演奏なのであらうが、今一つしつくりこない。これに対して和洋の笛二種は音色の違ひが楽しくて良い。私は笛 好きだか ら、かういふ感想は当然のことではある。端正なフルートの音色、低音がきれいである。青木鈴慕は緩急自在、音のかすれ具合が良いのは尺八 一般に言へること である。従つて甲乙つけ難い。が、ここはひとつ自作自演につきあふフルートを推しておかう。自演だからといふわけではない。この箏の音が 私には一番良好ま しいと思はれるからである。もしかしたら、これがかつて正月のあちこちで流れてゐた「春の海」であらうか。私の「春の海」再発見である。 これ以外の「寿獅 子」や「平調越天楽」も良い。「越天楽」は本当は正月に限ることはないのだが、そのめでたさうな印象からここに入つてゐるのであらう。こ れは近衛秀麿の管 弦楽編曲版で有名である。時間的にも手頃でいかにも雅楽らしい雰囲気で私は好きである。「寿獅子」は正月の定番たる獅子舞、能や歌舞伎の 獅子とは違ふ。結 城座も演じてゐたはずである。その楽しげな雰囲気が良い。これなどは映像付きで見たいと思ふ。それにしても、こんな正月をテーマにしたア ルバムはこれが初 めてだといふ。イメージが固まり過ぎているのかもしれない。来年は斬新な正月アルバム第2弾を期待したいところであるが… …。
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