本誌料は、方言研究家山口幸洋先生のご好意により掲載するものである。
アクセント記号は括弧記号で代用してある。いささか見にくいがお許しを願ふ次第である。
  


  

          

             山口 幸洋・編     

       


 



          渥美郡赤羽根町若見方言

 

渥美郡赤羽根町若見方言

 収録場所 : 話者自宅

 収録日時 : 昭和47年5月15日(1972)

  収録者 : 山口幸洋

   話者 : T.T.(明治28年現地生まれ) 

  文字化 : 山口幸洋

解説:その日は,軽トラで渥美半島太平洋岸側を走って,浜を見ていた老人に声を掛けた.波の名称などを尋ねたとき,とても物分かりよく教えてくれたので,もう少し詳しく聞こうと思って,近くのお宅まで付いていって,何も怪しまれることもなく,質問させて頂いた.その後しばらくして,1ヶ月,その時はテープレコーダー持参で,夜分になってから,お尋ねした.その時の録音である.鳥居さんには,その後,再びお伺いしたが,地引網その他の知識説明が,きわめて詳しく的確である.そればかりか,ご自身の言葉が穏やかな渥美半島の言葉そのままで,貴重な方言であった.今思うと,通りすがりの名乗りもない私を良くぞ,家へ上げてくれたものと感謝している.
 私はその頃,地元新居町の,小さい頃から親しんでいた地引網の言葉を調べ終わった時点で,地引網の知識があったので益々興味を深めることが出来た.新居町は静岡県であるが,昔から「片浜13里」と言われた渥美半島の東端にあたり,言葉なども地域的には同じ地盤であると考えられていて,そんな親近感から私を上げてくれたのだったかも知れない.わずか30年後の今,もう考えられない事になっている.話は地引網関連の漁業語彙を中心に,仲買等商売の話,台風などの浜の天候を巡って90分たっぷりの純粋三河弁が録音された.鳥居さんは,「遠州灘」をトートーミナダと言っていた.
 文法では,助詞の「を」を「〜オバ」という.九州方言で有名な「〜バ」も,この「をば」だったのである.次に「イクウッタ,ヒクウッタ」の「〜ウッタ」は,単に「行った,引いた」だけでない,過去完了形で,このような珍しい語彙語法が得られた.


 地引き網の言葉

ソノ オ「キ」トユージ」ガ 「ナ」ンテユーダイ「ナ」ー            その沖という字が,何て言うんだろう

オ「キ」ルトユーコト」ワマ」ー                           起きるということは,まあ

ネ「テオキ」ル オキ」ルデア」ラ」ー「ノ」ン 「オ」キルトユージ」ワ

                             寝て起きる,起きるであろうな 起きるという字は

「ウ」ミノコノ サ「ンズ」イニナ」カジャーナ」イワ「ネ」ー        海の,このさんずいに中じゃないわね。

「ソ」ージャーナ」イ                        そうじゃない。(そうそう そうじゃない)

オ「キアガ」ッテ                         起き上がって,(いっぱいやるんですね。)

「ハ」ン ソ」ー サ「イショ」カ「ネ               ああ そう。(もとは何人だった?)最初かね。

「マ」ー「オーゼ」ーノトキ」モア」ヤー コ「ゼーノト」キモア」ッタガ    まあ大勢の時もあれば小勢の時もあったが

サ「ンジュ」ーニンカラ「サ」ンジュー「シ」ゴニンダ「ネ」     30人から34,5人だねえ。(今でもやるか。)

「マ」ー アリマセ」ン シュ「ーセンゴ ナ」イ「ネ,「マ」ージビキワナ」イ「ネ」ー

                まあ,ありません。終戦後はないね。まあ地引はないね。(金を取ってやる?)

「マ」ー ソヤーソーユーナ」ー ア」ルダ「ネ」ー              まあそういえばそういうのはあるね。

ソヤー ゴ「ロクニン 「ジューニング」ライ ソレ             それは5,6人,10人ぐらい それ

「ジューニング」ライナモ」ンデア」ラー「ネ」ー                    10人ぐらいなものだね。

「チーサナ」ンデヤットラ」ー「ネ」ー                         小さいのでやっているね。

ソヤー ツ「ナ」ー ナンバモツカワズニ コー オ「カノホ」ーオカ」ケテ オルモンダ」イ

                     それは綱を何把も使わずに,こう丘の方をかけているものだからね。

コ「ゼーデヤット」ル ハ」ン                 小勢でやっている,ああ(牛を使わなかったか。)

ウ「シャーツカッタ ツ「カイマ」シタ セ「ンゼンニ」ワ「ネ,セ「ンソーガス」ムトネ」ー

                          牛は使った,使いました。戦前にはね。戦争がすむとね,

*アノー オ「キドリノ オ「キドリ」ンナ」ッタモンダ」イ「ノ,  あのう沖取りの,沖取りになったものだからね,

セ「ンソーガス」ムト マモ」ナクオ「キドリ」ンナッテ「ネ」ー       戦争がすむとまもなく沖取りになってね。

セ「ンゼンニ」ワウショーツカッテオリマ」シタ  戦前には 牛を使っていました。(沖取りというと船で出て行く)

「ハ」ン ソ」ーソ」ー ア「レワナンテユー」イナ」ー            ああそうそう。あれは何ていうのかな

アノー キ「カイセンデト」ルノーアヤー ナ「ニアミトユッテオ」ッタイナ」ー

                              あの機械船で取るの,あれは何網といっていたか

ソ「リャー ヨー」ク マー 「デ」チャーオランモンダ」イ「ノ」ー     それはよくまあ出てはいないものだからね

「デ」チャーオランモ」ンダデ ワ「スレチマッタケ」ド            出てはいないので忘れてしまったけど

「センソーガス」ムト マモ」ナクオ「キド」リンナッテ「ネ」ー

                        戦争がすむとまもなく沖取りになってね。(沖取りは何を。)

オ「キドリ」デモヤッパ」リアノー ジ「ビキノアミョ」ーミ」タイニシテ「ノ」ン    

                             沖取りでもやっぱり あの地引の網みたいにしてね

シ「ロアミデ シ「ロノコー メ」ノ オーキ」ーアミ「ノ」ン             網で白のこう目の大きい網ね

ア「イツデ」アノーヒクウ」ッタガ「ノ」ン ソノー ム「カシノ ア「グリ」テユーワ

                         あいつであの 引いていたがね,その昔のあぐりというのは

チーサ」イ アノーコ「マカ」イ アミ」デ「ノ」ン                   小さいあの 細かい網でね

ソイデコー 「ワ」ニカ」ケトイテスクー                   それでこう輪に掛けておいてすくう

ア「グリノ」ン ソ「レ」ダッタダケ」ドー                    あぐりのが,それだったのだけど

「センソーゴ」ノヤツ」ワ ジ「ビキワ オカイヒキアゲ」ル ソイカラーア「レワー

                           戦争後のやつは地引は丘へ引上げる。それから あれは

「ウ」ミノウエ」デ「ネ」ー ジ「ビキノト」ーリニシテ                海の上でね,地引の通りにして

「ニ」ハイノフ」ネデ ズー」ットコー                       二はいの船でずーっと こう

ナンテユーダイ「ナ」ー アイデ」モ                       何ていうんだろうね。あれでも

ド「ノグライ イクウッタ」イ「ナ」ー                          どのぐらい行ったかな

イ「チ」キロ「センメートルグ」ライ「ワ ヒ「キ」ドア」ッタダラー ソ「イカラマ」ー

                      1キロセンメートルぐらいは引きどあったでしょう。それからまあ

チ「ーサ」イト」キニャ」ー セ「ンメートル「イ」ジョーモ              小さい時には千メートル以上も

キ」カイイ」ガイノフ」ネデ ヒクウ」ッタン「ネ」ー                  機械以外の船で引いたがね

ア「レワ,ナ「ンテイッテイッテオ」ッタイナ」ー                  あれは何て言っていたかなあ

アノアミ」ワア「ノアミ」ノナワマ」ー                      あの網は,あの網の名は まあ

ヤ「メテオ」ッタモンダイオボエ」ガナイ             やめていたので覚えがない(手ぐりとは違う。)

ハン テ「グリジャ」ーナ」イ ナ「ンテイッテ                ああ手ぐりじゃあない。何て言って

ア「ノヒキカター ワ「ス」レ」チャッタ                     あのひき方は,忘れちゃった。

ジ「ブンガデ」テオッタジブンナ」ラ「ノ」ン オ「ボ」エテオクダケ」ド 自分が出ていた時ならね,覚えておくのだけど

「マ」ーゼンゼンデ」チャーオラ」ンモンダデ                  まあ全然出てはいないものだから

ア「ノヒキカタワ ナ「ントイッタッタ」イナ」ー               あのひき方は何て言っていたかなあ。

アッ「チノ ヒ「ガシ」ノホ」ーデモ ソーユー アミャ」ーヤッ「トルデ」ショ「ー

             あっちの東の方でも,そういう網はやっているでしょう(この辺は網は何条あったか)

「ハ」ン ナンジョー」テットッタ」ー「ネ」ー                   ああ何ジョーといっていたね。

「ワ」カミニワ「サンジョーア」ッタダ「ノ」ン                    若見には3ジョーあったね。

ジ「ビキノト」キワ「ノ」ン ジ「ビキノト」キワ サジョーア」ッテ  ぢびきの時はね,ぢびきの時は 3ジョーあって

コ「ゼーナ」ノガ 「ニ」ジュー コ「ゼーナノ」ワ ニ「ジューニング」ライ

                                小勢なのが2ジョー,小勢なのは20人ぐらい

オ「ーゼーノ」ガ サ「ンジュ」ーニンカラ 「サ」ンジュー「ゴ」ロクニンマ」デグ」ライダッタ」ー「ノ」ン

                              大勢のが30人から35,6人までぐらいだったね。

ソ「ヤー トシ」ニヨッテ 「フ」エタリヘッタ」リ「ノ」ン イ「ロイロア」ッタケドン

                         それは,年によって増えたり減ったりね,いろいろあったけど

サ「ンジューニンゼ」ンゴト ニ「ジューニンゼ」ンゴテユーワ」ケダ「ネ   30人前後と20人前後というわけだね。

「サンジョーア」ッタ 「ハ」ン ソヤーアノーナガツ」イテオッタ」ワ「ネ

                     3ジョーあった。(網の名は)ああそれはあの名がついていたわね。

ニ「シノ」ワ ニ「シアミトイッテオ」ッタン「ネ」                 西のは 西網と言っていたね。

ワカミノ ニ「シダモ」ンダイ ニ「シノアミトイッテオッタ」ガ    若見の西だものだから西の網と言っていたが

ソ「ノツギ」ノアミ」ワ アレワナ「ンテ,カ「ネサン カ「ネサンアミ「ネ」ー

                              その次の網はあれは何て,かねさん,かねさん網ね

ソイカラ ソ「ノヒガシ」ガ アレワ ヒ「ガシアミトイッテ」オッタ

                        それからその東が,あれは東網と言っていた。(手繰り網は)

ソ「ヤーヤラナンダ「ネ」ー ヨ「アミワヤラナンダ「ネ」ー 

                         それはやらなかったね。(夜網は)夜網はやらなかったね。

ヨ「アミワヤランガ「ア」サワハヤカ」ッタ「ノ                夜網はやらないが,朝は 早かったの

「ア」サワクライウチニ ク「ライウチニカ」ケテ「ネ               朝は暗い内に,暗い内に掛けてね

ソイデ オ「カアミトユーノ」ガ                            それで丘網というのが

マーシ「マ」ガアレワ ヒャ「クハチジッシャク」テユート 「ナンメ」ートルンナ」ルシラン

                           まあ島があれは180尺というと何メートルになるかな

ヒャ「クハチジッシャク ソイデソ「ノツナ」デネ」ー オ「カノト」キワ マ」ー

                               180尺それでその綱でね,丘のときは,まあ

ソレオ カ「タホ」ー「ガ ニ「ジュ」ー ニ「ジュ」ーカラ ニ「ジュ」ーゴ「クグライマ」デオ「ノ」ン

                             それを片方が20,20から25ぐらいまでをね。

オ「カアミトイッテ ソイカラ ニ「ジュ」ーゴ「カラ ヨ」ンジューグ」ライサ」スト」ー

                              丘網といって,それから25から40ぐらいさすと

チューアミ「ネ」ー,ゴ「ジューイ」ジョーニナ」ル「ト」アレワ オ「キノアミ」ッテッテ「ネ」ー

                              中網ね,50以上になるとあれは沖の網と言ってね

「ソ」ーイッテオ」ッタワ「ネ」ー,オ「キノアミ」トユーノ」ワ 「オ」モニ イ「オート」ッタワ「ノ」ー

                          そう言っていたわね,沖の網と言うのは主に魚をとったね

サ「バー イ「ナダ ア「ジ ソレカラ                         鯖,いなだ,鯵それから

「イ」ゼンワタイガオル「ノ」ー ソーユー イ「オート」ルノ」ガオ「キノアミ」デアッテ「ネ」ー

                 以前は 鯛がいるのを,そういう魚を捕るのがおき網であってね。(中網は)

「チューアミワ ヤ」ッパリ イ「オト」イ「ワシダッタ「ノ」ン            中網はやっぱり魚と鰯だったね。

「オーイ」ワシガ オ「キ」ー 「サ」イタトキ」ニワ「ノ」ン               大鰯が沖に差した時にはね

「マ」ーダイタイ 「サ」ンジューカラ 「ヨンジューグ」ライサ」イテ「ネ」ー

                差した(来た……見えた)時にはね,まあだいたい30から40ぐらい差してね

「カ」ケテ 「チューアミ」テッテ                             かけて中網といって

ソレカラ 「ゴ」ガツ 「ゴ」ガツッテッテモイ」マノ             それから五月,五月って言っても今の

「キュ」ーノロ「クガツ」ダー「ネ」ー 「キュ」ージャーナ」イ              旧の六月だね,旧じゃない。

 「シ」ンノロクガ」ツカ ロ「クガツ」ゴ」ロ イ「オガー オ「カイク」ルダ  新の六月か。六月頃 魚が丘にくるんだ

イ「オガ サ「バト」カ アジ」トカユーノ」ガ「ネ」ー                魚が,鯖とか鯵とかいうのがね

オ」カイク」ル ソ「ノト」キ チュ「ーアミトイッテ                丘にくるその時 中網と言って

カ」ケター「ネ ソイデ フ「ユ」ガ フ「ユ」ワ ドーシテ」モ オ「キ」ー「サ」ルモンダデ

                         掛けたね,それで冬が,冬はどうしても沖を去るものだから

イオガ「ネ」ー ソ「ノト」キニャー オ「キノアミ」トイッテ アレワ イ「チ」リア」ル「ネ」ー

                          魚がね。その時には沖の網と言って,あれは一里あるね,

ザット イ「チ」リ,イ「チ」リオキョ」ーカ」ケテ ヒーテク」ルッタ「ンネ」ー

                             ざっと一里(一里),一里を今日引いて来るがね。

ソ「ノツナ」オ ナ「ナ」ジューカラ ハ「チジュー ナ「ナ」ジュートハ「チジュー その綱を70から80,70と80

ヒ「チジューゴワ」カ ナ「ナ」ジューカラ ナ「ナ」ジューゴ」ワ 「ゴ」ク ヨーケイッテ  

                                 75把 70から75把はごく沢山言って

ハチジューグ」ライトイッタン「ネ」ー                         80ぐらいと言ったね。

「マ」ー ハ「チ」ジュートユーアミ」ワ 「メ」ッタニャ」ー カケ」ヤセン   まあ80と言う網は滅多には掛けない。

タイガイ ナ「ナ」ジューカラ ナ「ナ」ジューゴアルグライデ ヒャ「クハチジッシャク

                   だいたい70から75あるぐらいで(その一把とはどれぐらい)180尺

「ハ」ン 「ソイダモ」ンダデ 「ソイダモ」ンダデシゼン イ「チ」リイッテシマワー「ノン

             ああそうだものだから,だから自然と一里いってしまうわね(その網は何を使ったか)

「イ」ゼンワア「サ」ダッタケド「ネ」ー ア「サ」ダッタケドー シ「マイワ」アレダー 「マ」ニラ

                    サ 「シ」ナノナンキンア」サ  マニラ麻の,麻は南京麻。支那の南京麻

ナ「ンキン」ア」サ ゴ「シャク」グライア」ッタカイ「ナ」ー「ナ」ガサ,ソ「ノツ」ギワマニラ」ア」サ

           南京麻,五尺ぐらいあったかな,長さ,その次はマニラ麻(この辺の網は誰が持っていた?)

ナ「カマ」ダネ キョードーダ                       仲間だね。共同だ(収入の分け前は)

「ハ」ン「ソ」ー「ソ」ー モ「ト」トユーオト」ッテ「ノン            ああそうそう。元というのをとってね。

ヒ「キニ,ミ「ズ」アゲノ「ヨ」ンワリ                ひきに水揚げの4割り(後を皆でわけるんだね)

「ハ」ン ソ」ー                  ああそう。(何と言ったか。シロコアミと言わなかったか?)

エート アレワ 「イ」ッケンデヤッテオッタ」ジブンニ」ワ「ノ」ン    ええと,あれは一軒でやっていた時にはね

「オ」ットノヤナギハラチュ」ーベー「ネー,ソイカラーヤマニシ アレワ ナンテューダ」ー

                           夫の柳原忠兵衛ね,それから山西,あれは何て言うのか

ワ「タ」ライニシエモン,ソレカラ ソノ「イ」ゼンワ コッ「チ」デモ

                              度会西右衛門,それからその以前は,こっちでも

オ「ヤカ」タガア」ッテ「ネ」ー エート                        親方があってね。ええと

「メ」ージノハ「ジメ,「メ」ージノハジメジャ」ーナ」イワ            明治の初め,明治の初めじゃないよ

「メ」ージノヨ「ンジュ」ーネン「イ」ゼン」カ                         明治40年以前か

ヨ「ンジュ」ーネン 「イ」ゼンニワ「カミ」デモ                      40年以前には上でも

「イ」ッケンデヤットル ウチ」ガア」ッタダン「ノ」ー             一軒でやっていた家があったけどね

オ「ヤカ」タガ「ア」ッタダケド 「マ」ーソイデ                親方があったのだけど,まあそれで

ニ「チロセ」ンソー 「サ」ンジューヒ「チハン ア「レイ」ゴ「ワ」マ」ー    日露戦争の37ああ,あれ以後はまあ

ナ「カマ」ンナ」ッタダ「ゾン 「ハ」ー                        仲間になったのだよ,はあ

ニ「チロセ」ンソー「イ」ゼンニ」ワ ア」ッタシ                    日露戦争以前にはあったし

ソイカラ ニ「チロセ」ンソー「イ」ゴデ」モ タイショーゴ「ネンマ」デ「ワ  それから日露戦争以後でも大正5年までは

「イ」ッケンデヤットッタウチ」モ「ア」ッタケド「ノン             一軒でやっていた家もあったけどね。

                                         (やまぐち・ゆきひろ)

 

山口先生への質問等ありましたら、塚田までどうぞ。転送いたします。

 

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