[ 事件 index / 無限回廊 top page ]

戦後の主な大量殺人事件

「大量殺人」の定義は一様ではなく、広狭両義がある。もっとも広いのはドイツのヴェツェルの定義(1920年)で、「2人以上の人間に対して殺人もしくは殺人未遂がなされたすべての例」である。被害者数は少なくても2人、しかも未遂の場合でも大量殺人になる。吉益・中村ら(1960年)の定義では「2人以上を自らの手で殺した犯罪者」が大量殺人者とされ、既遂に限定される。「大量」というより「複数」という言葉のほうがピッタリとくるが、、、。

「大量殺人」の定義は定義として、この「戦後の主な大量殺人事件」のページでは、単純に「8人以上殺害した事件」を大量殺人事件として取り上げていくつもりです。

タイトルは「主な」となっていますが、「8人以上殺害した事件」という条件では、これで「全て」だと思います(見落としている事件があったら教えてください)。

日本における「大量殺人」を語る上で欠かせない事件に、戦前の1938年(昭和13年)5月21日に起きた都井睦雄(22歳)による津山三十人殺し事件がある。正確に言うと、即死した者が28人で、重傷を負った後に死亡した者が2人、重軽傷(重傷2人、軽傷1人)を負った者が3人で、他に「津山三十三人殺傷事件」という呼び名もある。また、この事件をモデルに横溝正史が『八つ墓村』を書いたのは有名な話だが、この小説では32人を殺したことになっている。

こちらも戦前の事件だが、、、1941年(昭和16年)8月18日〜翌1942年(昭和17年)8月25日の戦前から戦中にかけ約1年間に渡り、静岡県浜松地方で、中村誠策(当時18歳)が刺身包丁から作った短刀を凶器に用いて15〜62歳の9人(男4人、女5人)を死亡させ、6人に重軽傷を負わせるという事件を起こしている。この事件は「浜名湖畔9人連続殺人事件」あるいは「聾唖者の大量殺人事件」という事件名で呼ばれることが多いようだが、その事件名から分かる通り、犯人の中村は静岡県の農家に六男として生まれたが、生まれつきの難聴者で簡単な単語を発音することしかできなかった。浜松市立浜松聾唖学校に入学し、手話法による聾唖教育を受けたが、その後、映画館に出入りして剣劇映画に陶酔するようになった。聾唖学校での成績はトップだったが、基本的な道徳観念や家族に対する情愛は著しく欠如していた。1941年(昭和16年)9月には、自分の家族を皆殺ししようとした。それは家族から聾唖学校を退学して農業を継ぐように説得されたことで、自分が冷遇疎外されていると感じたためであった。このとき長兄を刺殺している。逮捕後、中村は「自分は聾唖だから、死刑は許されるかもしれない」と思っていたようだが、死刑判決となり処刑された。

ちなみに昭和元年〜戦前で8人以上の殺害事件を取り上げると、上記の津山の事件と浜松の事件の他には、1933年(昭和8年)3月の東京・西郷山の連続貰い子25人殺害事件(川俣初太郎=死刑)、1935年(昭和10年)11月の茨城上島村の家族9人殺害事件、1938年(昭和13年)11月の大阪四条畷村の一家8人殺害事件がある。

[ 小平義雄連続殺人事件 ] 1945年(昭和20年)5月25日〜翌1946年(昭和21年)8月6日までの約1年2ヶ月の間に、小平義雄(当時40〜41歳)は17〜32歳の比較的若い女性7人に当時、食糧難だったことを利用し、そのほとんどの女性に「米を安く売ってくれる農家がある」などと言って誘い出し電車に乗って栃木や東京の田舎に出かけ、「こちらが近道になっている」と言って、雑木林に連れ込んで強姦と殺人を繰り返していた。他にも同じ時期に同じような手口で若い女性が殺害された事件が3件あり、これも小平による犯行と見てほぼ間違いなく、検察は合わせて10件で起訴したが、この3件については小平は否認しており、また証拠不充分で斥けられた。ということで、「連続殺人」の事件では7人を殺害したことになっている。実は小平にはそれ以前にも殺人事件を起こしており、1932年(昭和7年)7月2日、小平が27歳のとき、同年1月に見合い結婚した最初の妻の実家に押し入りその父親を殴り殺している。理由は小平が遠戚の娘を妊娠させ私生児を生んでいたことで、妻の親が離婚させようとしていたからだった。1948年(昭和23年)11月16日、最高裁は1、2審での死刑判決を支持し、上告を棄却して死刑が確定した。1949年(昭和24年)10月5日、死刑が執行された。

関連書籍・・・
『殺人百科(3)』(文春文庫/佐木隆三/1987)

『日本犯罪図鑑』(東京法経学院出版/前坂俊之/1985)
『犯罪の昭和史 2』(作品社/1984)
『日本猟奇・残酷事件簿』(扶桑社/合田一道+犯罪史研究会/2000)
『戦後欲望史 混乱の四、五〇年代篇』(講談社文庫/赤塚行雄/1985)
『日本の大量殺人総覧』(新潮社/村野薫/2002)

[ 和歌山一家8人殺し事件 ] 1946年(昭和21年)1月29日、和歌山県東長町で元歯科医の大橋勝一(42歳)一家8人を実弟の一雄(当時26歳)が復員後の仲違いが原因でナタで殺害した。1948年(昭和23年)3月19日、朝日新聞大阪本社に自首目的で現れたところを逮捕された。4月27日、和歌山地裁で死刑判決。12月6日、控訴棄却。1949年(昭和25年)8月18日、上告棄却で死刑が確定した。1952年(昭和27年)4月28日、講和条約発効の恩赦で無期懲役に減刑された。このとき80数人の確定囚のうち12人がこの恩赦が適用されたが、一雄はそのうちの1人であった。5月1日、大阪拘置所から大阪刑務所に収監され、1968年(昭和43年)春、出所した。

[ 寿産院事件 ] 1948年(昭和23年)1月12日朝、当時の東京都新宿区早稲田署の2人の警官がパトロールしていたとき、かさばった木箱を4箱持っていた葬儀屋を不審に思って木箱を調べてみると、そこから5人の赤ちゃんの死体が出てきた。問い質すと、「この死体は、新宿区柳町の寿(ことぶき)産院というところから頼まれたもので、今、火葬場に運ぶ途中だ」という。死因は3人は肺炎と栄養失調、あとの2人は凍死と判明し、1月15日、寿産院の会長で、助産婦の石川みゆき(当時52歳)とその夫の石川猛(当時58歳)が逮捕された。さらに、1944年(昭和19年)4月〜1948年(昭和23年)1月までの4年間に、204人の赤ちゃんを貰ったが、うち103人が死亡していた(「204人のうち169人が死亡した」という説や「112人のうち85人が死亡した」という説もある)ことが判明した。1952年(昭和27年)4月28日、東京高裁で、みゆきに懲役4年、猛に懲役2年と1審の東京地裁での判決の半分に軽減された判決が下った。

助産婦・・・保健婦助産婦看護婦の一部を改正する法律(改正保助看法)が2001年(平成13年)12月6日に成立、12月12日に公布、翌2002年(平成14年)3月1日に施行された。これにより、保健婦・士が「保健師」に、助産婦が「助産師」に、看護婦・士が「看護師」に、准看護婦・士が「准看護師」となり、男女で異なっていた名称が統一された。

関連書籍・・・
『犯罪の昭和史 2』(作品社/1984)

『極悪人』(ワニマガジン社/1996)
『日本猟奇・残酷事件簿』(扶桑社/合田一道+犯罪史研究会/2000)
『戦後女性犯罪史』(東京法経学院出版/玉川しんめい/1985)

[ 帝銀事件 ] 1948年(昭和23年)1月26日午後3時過ぎ、東京都豊島区池袋の帝国銀行(後の第一勧業銀行、現・みずほ銀行)椎名町支店に、東京都防疫課厚生省技官を名乗る男が現れ、近くで集団赤痢が発生したので「予防薬」を飲むように要請し、それに従った行員やその家族16人が次々と倒れ、うち12人が死亡。「予防薬」は青酸化合物とされているが、ハッキリしていない。現金約16万4000円と額面約1万7000円の小切手が奪われた。捜査当局は、約7ヶ月後の8月21日、画家の平沢貞通(さだみち/当時56歳)を犯人として逮捕。平沢は、拷問に近い取り調べに犯行を「自白」するが、起訴後は一貫して無罪を主張していた。だが、不幸なことに、自白が証拠となった旧刑事訴訟法最後の事件だった。警察の捜査にも疑わしい点が多くあったが、1955年(昭和30年)5月7日、最高裁で死刑判決が下った。その後、再審請求がされ、それは18回にも及んだが、いずれも棄却された。1987年(昭和62年)5月10日、平沢は八王子医療刑務所で肺炎を悪化させ死亡した。95歳だった。1989年(平成元年)5月10日、第19次再審請求を起こす。

関連書籍・・・
『帝銀事件の全貌と平沢貞通』(現代書館/遠藤誠/2000)

『疑惑α 帝銀事件』(講談社出版サービスセンター/佐伯省/1996)
『ドキュメント 帝銀事件』(晩聲社/和多田進/1994)
『犯罪の昭和史 2』(作品社/1984)
『毒 社会を騒がせた謎に迫る』(講談社/常石敬一/1999)
『謎の毒薬 推究帝銀事件』(講談社/吉永春子/1996)
『権力の犯罪』(講談社文庫/高杉晋吾/1985)
『科学捜査マニュアル』(同文書院/事件・犯罪研究会編/1995)
『日本の黒い霧 全』(文芸春秋/松本清張/1975)
『刑事一代 平塚八兵衛聞き書き』(日新報道出版部/佐々木嘉信/1975)
『八兵衛捕物帖』(毎日新聞社/比留間英一/1975)
『昭和史の謎を追う 下』(文藝春秋/秦郁彦/1999)

[ 北海道一家8人殺し事件 ] 1948年(昭和23年)4月2日、北海道音江村(現・深川市)の農業の上川良一(37歳)一家8人がマサカリのようなものでメッタ切りにされているのが発見された。4月14日、警察は被害者と親しい友人関係にあった同じ村の農業を営む35歳の男を逮捕した。だが、裁判は最高裁まで争われたものの証拠不充分として無罪が確定した。

[ 「関東の殺人鬼」8人殺し事件(おせんころがし殺人事件) ] 1952年(昭和27年)1月17日、栗田源蔵(当時26歳)は逮捕されるこの日までに女性6人と幼児2人の合わせて8人を殺害した。栗田は幼い頃からひどい夜尿症に悩まされ、これが原因でイジメにあい、次第に歪んだ性格を形成していくことになる。1947年(昭和23年)、千葉県で結婚を約束した2人の女性との三角関係に悩んだ末にそのうちの1人(20歳)を殺害。さらにそのことで警察へ通報されることをおそれてもう1人(17歳)も殺害。1951年(昭和26年)8月8日、栃木県小山市で盗みに入った家で女性(24歳)を強姦しながら首を絞めて殺害。10月10日午後11時ごろ、千葉県の興津駅で見かけた女性(29歳)にやりたい一心で「送ってあげよう」と声をかけた。長男(5歳)、長女(当時7歳)、次女(2歳)も一緒だった。翌11日午前1時ごろ、断崖絶壁の「おせんころがし」にさしかかったとき、女性をレイプした上で4人を断崖から突き落とした。このとき、長女だけが助かっている。1952年(昭和27年)1月13日、千葉県で盗みに入った家で主婦(24歳)と叔母(63歳)を殺害。同年8月13日、千葉地裁で死刑判決が下り、翌1953年(昭和28年)12月21日、宇都宮地裁でも死刑の判決が下った。栗田はそれぞれの判決に対して控訴したが、1954年(昭和29年)10月、栗田は控訴を取り下げたいと申し入れ、死刑が確定した。1959年(昭和34年)10月14日、死刑が執行された。

関連書籍・・・
『死刑囚の記録』(中公新書/加賀乙彦/1980)
『身の毛もよだつ殺人読本』(宝島社/1998)
『日本犯罪図鑑』(東京法経学院出版/前坂俊之/1985)

『実録 戦後殺人事件帳』(アスペクト/1998)
『日本の大量殺人総覧』(新潮社/村野薫/2002)

[ 青森リンゴ園一家8人射殺放火事件 ] 1953年(昭和28年)12月12日、青森県中津軽郡新和(にいな)村(現・弘前市)でリンゴ園経営者の水本福三郎(56歳)一家8人を三男(当時24歳)が射殺、放火した。「父の家にミソを盗みに行ったところ、猟銃が置いてあり、その猟銃を見ているうちにミソを盗んだことがバレるとこれで自分が殺されると思い、それなら自分が殺してやろうと思い撃ち殺した」と供述した。その後の精神鑑定で「犯行当時、心神喪失状態だった」という結果に続いて、検察側が求めた再鑑定でも「ミソ小屋に入るときから病的なある程度の意識障害を発しており、この状態において鉄砲を発見したことが契機となって被害妄想的思考、それによる恐怖的興奮により、さらに意識障害が深くなり、理性的判断抑制を失い・・・」と強度の心神耗弱または心神喪失にあったとする鑑定が提出された。1956年(昭和31年)4月5日、青森地裁弘前支部は無期懲役の求刑に対し住居侵入罪については懲役6ヶ月・執行猶予2年としたが、殺人関係では無罪判決となった。検察側は控訴した。1958年(昭和33年)3月26日、仙台高裁秋田支部は1審での判決を支持し控訴棄却で無罪判決となった。検察は上告せずに無罪が確定した。

[ 福岡一家11人殺傷事件 ] 1954年(昭和29年)9月9日、福岡県京都(みやこ)郡豊津村(現・豊津町)で元理髪師の中村喜市郎(当時36歳)が子どもが2人いる戦争未亡人との別れ話のもつれからその父親で、農業の畑田善右衛門(47歳)宅を襲い、これによって8人が死亡、3人が重傷を負った。1955年(昭和30年)2月25日、福岡地裁小倉支部で死刑判決。7月、福岡高裁で控訴棄却。1956年(昭和31年)12月26日、最高裁で死刑が確定した。

[ 茨城一家9人殺し事件 ] 1954年(昭和29年)10月11日、茨城県鹿島郡徳宿(とくしゅく)村(現・鉾田町)の精米業者の大沼豊房(42歳)宅で一家9人が焼死体で発見された。解剖の結果、全員の遺体に青酸反応が認められ、毒殺後に放火されたものと判明した。さらに、大沼家の自転車が乗り捨てられていた場所に、犯人と思われる名前入りのワイシャツが脱ぎ捨てられていたことや被害者宅から盗まれたと思われるオーバーなどを友人に売っていた男がいることが判明した。捜査本部は11月6日、横須賀市生まれの緑志保(当時43歳)を割り出し、全国に指名手配した。緑は窃盗や横領を繰り返して前科8犯であり、人生の半分以上の24年間を刑務所で暮らしてきた男であった。11月7日、緑志保を逮捕するが、取調室で男が青酸カリ自殺したため、事件は充分に解明されないままになってしまった。

[ 昭島市放火8人殺人事件 ] 1957年(昭和32年)10月27日、東京都昭島市にある昭和郷共同住宅の西9番建物1階東側物置から出火、隣接家屋など3棟全焼し、逃げ遅れた女性・子ども8人が焼死、6人の重軽傷者を出した。1958年(昭和33年)3月8日、この事件から4ヶ月前の4月7日に起こしたボヤ事件と同一犯と断定し、まず4月の放火未遂事件で五十嵐正義(当時39歳)が逮捕された。9月22日、東京地裁八王子支部で死刑が求刑され結審したが、裁判長は「動機に不明な点が多い」として、職権で審理を再開したが、9ヵ月後の求刑公判でも死刑が求刑された。1959年(昭和34年)7月6日、東京地裁八王子支部で無期懲役が言い渡された。これに対し検察側も弁護側も控訴した。1960年(昭和35年)10月26日、東京高裁は死刑判決となった。1961年(昭和36年)7月31日、最高裁で上告棄却で死刑が確定した。

[ 古谷惣吉連続殺人事件警察庁広域重要指定事件「105号事件」 ] 1965年(昭和40年)10月30日〜12月12日の約1ヶ月半の間に、古谷惣吉(ふるたにそうきち/当時51歳)は51〜69歳までの独居老人ばかり8人を殺害し金品を奪っていた。この「連続殺人」の事件の他、これより14年前の1951年(昭和26年)5月23日、古谷が37歳のときに、坂本登(当時20歳)と共に、福岡市で浮浪者を絞殺して6800円を奪い、6月20日に北九州市で一人暮らしの老人を絞殺して230円奪っていた。このときは坂本が死刑判決で、古谷は証拠不充分で、懲役10年の判決だった。この事件を含めると殺害した人数が10人になる。さらに、1964年(昭和39年)11月〜翌1965年(昭和40年)5月、米子市と松山市でも、老人と老婆を殺害した嫌疑をかけられていたが、古谷の否認と証拠固めが弱かったため、この2件の強盗殺人は起訴に至らなかった。しかし、この米子と松山の事件も古谷の犯行であったことはほぼ間違いない事実のようである。この事件も含めると生涯を通して殺害した人数は12人となる。1978年(昭和53年)最高裁で、1、2審での死刑判決が支持されて、上告棄却で死刑が確定した。1985年(昭和60年)5月31日、死刑が執行された。

関連書籍・・・
『殺人百科』(文春文庫/佐木隆三/1981)

『現代殺人事件史』(河出書房新社/福田洋/1999)
『連続殺人事件』(同朋舎出版/池上正樹/1996)

[ 大久保清連続殺人事件 ] 1971年(昭和46年)3月2日、強姦や恐喝などの罪により約3年と8ヶ月間、東京の府中刑務所で服役していた大久保清(当時36歳)が仮出所し、更生を誓って帰宅するが、家族に冷たくされたことが引き金となり、同年3月31日〜5月10日のわずか41日間にベレー帽にルパシカを着て画家などになりすまし、白い新車のマツダ・ロータリークーペを1日平均約170キロとタクシー並みに走行し、127人の女性に「絵のモデルになってくれませんか?」などと巧みに声をかけ、車に連れ込んだ35人の女性のうち十数人とセックスし、その中でも、抵抗したり、警察へ被害届けを出すおそれがあると思った16〜21歳の女性8人を殺害した。1973年(昭和48年)2月22日、前橋地裁で死刑が言い渡された。大久保は1回公判で起訴事実を全面的に認めて、控訴しなかったため死刑が確定した。1976年(昭和51年)1月22日、死刑が執行された。

関連書籍・・・
『殺人百科』(文春文庫/佐木隆三/1981)

『連続殺人事件』(同朋舎出版/池上正樹/1996)
『殺人評論』(青弓社/下川耿史/1991)
『「鑑識の神様」9人の事件ファイル』(二見書房/須藤武雄監修/1998)

『戦後欲望史 転換の七、八〇年代篇』(講談社/赤塚行雄/1985)
『あの死刑囚の最後の瞬間』(ライブ出版/大塚公子/1992)
『衝撃犯罪と未解決事件の謎』(二見書房/日本テレビ「スーパーテレビ・情報最前線」・近藤昭二編著/1997)
『日本の大量殺人総覧』(新潮社/村野薫/2002)

[ 連合赤軍リンチ殺人事件 ] 1971年(昭和46年)12月31日〜翌1972年(昭和47年)1月17日までの間に連合赤軍の中央執行委員会の森恒夫委員長と永田洋子(ひろこ)副委員長の命令で気に入らない者を規律違反、日和見、反共産主義的などの理由で「総括」と称して12人の同志を殺害した。連合赤軍としてのリンチ殺害は12人だが、他に京浜安保共闘は1971年(昭和46年)8月にすでに2人をリンチ殺害しているので、これも合わせると14人ということになる。ちなみに、あさま山荘事件では警官2人と一般人1人の合わせて3人を殺害している。詳しくは連合赤軍あさま山荘事件

関連書籍・・・
『連合赤軍「あさま山荘」事件』(文春文庫/佐々淳行/1999)
『あさま山荘事件』(国書刊行会/白鳥忠良/1988)
『あさま山荘1972 上』(彩流社/坂口弘/1993)
『あさま山荘1972 下』(彩流社/坂口弘/1993)
『浅間山荘事件の真実』(河出書房新社/久能靖/2000)
『氷解 女の自立を求めて』(講談社/永田洋子/1983)

『氷の城 連合赤軍事件・吉野雅邦ノート』(新潮社/大泉康雄/1998)
『新左翼二十年史』(新泉社/高沢皓司・高木正幸・蔵田計成/1981)
『戦後女性犯罪史』(東京法経学院出版/玉川しんめい/1985)

『戦後欲望史 転換の七、八〇年代篇』(講談社/赤塚行雄/1985)
『人間臨終図鑑 上巻』(徳間書店/山田風太郎/1986)
『日本の公安警察』(講談社現代新書/青木理/2000)
『57人の死刑囚』(角川書店/大塚公子/1998)
『脱獄者たち 管理社会への挑戦』(青弓社/佐藤清彦/1995)

[ 日本赤軍テルアビブ空港事件 ] 1972年(昭和47年)5月30日、日本赤軍兵士の奥平剛士、岡本公三、安田安之の3人がイスラエルのテルアビブのロッド空港(現・ベングリオン空港)でスーツケースから自動小銃と手榴弾を取り出すと銃を乱射、空港内の飛行機に向かって手榴弾を投げた。これで、26人が死亡、73人が重軽傷を負った。奥平と安田は自爆死し、岡本は逮捕された。同年8月1日、軍事法廷で岡本に終身刑が言い渡されたが、1985年(昭和60年)、捕虜交換で日本赤軍に戻った。だが、1997年(平成9年)2月、レバノンに身分を偽って潜伏していたところを発見され、1998年(平成10年)6月、レバノン破棄院で岡本は禁錮3年が確定した。2000年(平成12年)3月17日、岡本がレバノンに政治亡命し、3月21日、刑務所を出所した。

関連書籍・・・
『新左翼二十年史』(新泉社/高沢皓司・高木正幸・蔵田計成/1981)

『戦後欲望史 転換の七、八〇年代篇』(講談社/赤塚行雄/1985)
『日本の公安警察』(講談社現代新書/青木理/2000)
『死刑』(現代書館/前坂俊之/1991)
『世界暗殺者事典』(原書房/ジョージ・フェザリング/沢田博訳/2003)

[ 勝田清孝連続殺人事件警察庁広域重要指定事件「113号事件」) ] 1972年(昭和47年)9月13日、京都でクラブホステスを殺害して現金を奪ったのをはじめとして1982年(昭和57年)10月31日、滋賀県で溶接工の男を殺害して現金4万円を奪うまでの約10年間に、勝田清孝(当時24〜34歳)は計8人(女5人、男3人)を殺害した。『殺人百科 四』(徳間文庫/佐木隆三/1993)によると、勝田清孝の犠牲になった者は全部で22人(女19人、男3人)で、立件できたのは8件とのこと。勝田は23歳のとき、消防職員採用試験に合格し消防士として真面目に働いたが、派手好きの上、浪費癖があり、そのため借金が重なり、非番のときに長距離トラックの運転手のアルバイトをしていたが、追いつかず、強盗殺人を繰り返していた。1983年(昭和58年)1月31日に逮捕。1994年(平成6年)1月17日、最高裁で1、2審での死刑判決が支持され、上告棄却で死刑が確定した。2000年(平成12年)11月30日、死刑が執行された。

関連書籍・・・
『連続殺人事件』(同朋舎出版/池上正樹/1996)

『113号事件 勝田清孝の真実』(恒友出版/来栖宥子/1996)

『男と女 エロスの犯罪』(東京法経学院出版/平龍生/1985)
『殺人百科 4』(徳間文庫/佐木隆三/1993)

[ 三菱重工ビル爆破事件 ] 1974年(昭和49年)8月30日午後0時45分、東アジア反日武装戦線<狼>グループの大道寺将司、片岡(現・益永)利明、大道寺あや子、佐々木規夫らによる爆弾事件が発生した。東京都千代田区丸の内にある三菱重工本社ビルに仕掛けられた2つの爆弾が大音響とともに爆発し、死亡者8人(即死5人、病院に運ばれたあと死亡3人)、重軽傷者376人を数える大惨事を引き起こした。<狼>グループは海外に進出する巨大企業を「人民を搾取する帝国主義的侵略の先兵」と位置付け、以後、次々と企業爆破事件を敢行していく。1975年(昭和50年)5月19日、三菱重工ビル爆破事件に関わったとされる4人を含むグループの8人が逮捕された。8月4日、日本赤軍が「クアラルンプール事件」で占拠したアメリカの総領事の人質との交換で佐々木規夫を含む日本赤軍などの5人を釈放させた。1977年(昭和52年)9月28日、日本赤軍が「ダッカ事件」でハイジャックした日航機の乗員乗客151人の人質との交換で大道寺あや子を含む日本赤軍などのメンバー9人を釈放させた。1987年(昭和62年)3月24日、最高裁は大道寺将司、片岡利明に対し1、2審での死刑判決を支持、上告を棄却して死刑が確定した。現在、「三菱重工ビル爆破事件では殺意がなかった」として、第2次再審請求中である。詳しくは日本赤軍と東アジア反日武装戦線

関連書籍・・・
『新左翼二十年史』(新泉社/高沢皓司・高木正幸・蔵田計成/1981)

『脱獄者たち 管理社会への挑戦』(青弓社/佐藤清彦/1995)
『日本の公安警察』(講談社現代新書/青木理/2000)
『平成11年版 警察白書』(大蔵省印刷局/警察庁編/1999)
『「命」の値段』(日本文芸社/内藤満/2000)
『松下竜一 その仕事22 狼煙を見よ』(河出書房新社/松下竜一/2000)
『怒りていう、逃亡には非ず』(河出書房新社/松下竜一/1996)
『20世紀にっぽん殺人事典』(社会思想社/福田洋/2001)
『20世紀の迷宮犯罪』(廣済堂出版/上村信太郎/1995)
『終身刑を考える』(インパクト出版会/2001)
『「よど号」事件122時間の真実』(河出書房新社/久能靖/2002)
『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)
『別冊歴史読本 戦後事件史データファイル』(新人物往来社/2005)

[ 栃木県議一族9人心中事件 ] 1978年(昭和53年)11月18日、静岡県大井川河原で、栃木県議(55歳)がその妻(51歳)、長男(31歳)、その妻(30歳)、長女(29歳)、三女(23歳)、四女(21歳)、長男の子ども(6歳)、長女の娘(1歳)の8人を道連れに一家心中した。マイクロバスの中に女性と子ども7人が座席で死んでおり、県議と長男の2人が40メートル離れたところでガソリンをかけて焼死していた。マイクロバスには睡眠薬6箱あり、女性と子どもは睡眠薬を飲んだあと県議と長男がバンドなどで絞殺した上で焼死した。心中の原因は3年前の県議選で派手な買収(約5、6000万円の選挙資金)を行い、さらに事業の失敗で約7億円という負債をかかえていた。11月16日には不渡手形を出して銀行取引き停止になっていた。この倒産がきっかけとなり、一族意識の強さから一家心中したものと見られている。
日航機「逆噴射」事件
[ 日航機「逆噴射」事件 ] 1982年(昭和57年)2月9日午前8時50分ごろ、片桐清二(当時35歳)機長が操縦する福岡発羽田行きの日航機DC8が着陸寸前に突然、失速、空港手前の羽田沖に墜落、死亡者24人、重軽傷者149人を出す惨事となった。事故の原因は着陸態勢に入ったときに、片桐機長が突然エンジンを逆噴射させたためだった。ボイスレコーダーに「機長やめてください」という副操縦士の絶叫が記録されていて証拠となった。記者会見で高木社長は片桐機長が乗員健康管理室から心身症と診断されて経過観察中であったにもかかわらず運輸省(現在の国土交通省の前身のひとつで、運輸省は建設省、国土庁、北海道開発庁と統合されて国土交通省になる)などに報告を怠っていたことを明らかにした。片桐元機長は精神鑑定の結果、妄想型精神分裂症と診断され不起訴処分となった。

関連書籍・・・
『空白の五秒間 羽田沖日航機墜落事故』(新風舎/三輪和雄/2004)

『墜落 日航機羽田沖墜落事故の真相』(大和書房/吉原公一郎/1982)

この「逆噴射」という言葉はたちまち流行語となり、映画 『逆噴射家族』(監督・石井聰互/原案&脚本・小林よしのり/出演・小林克也&倍賞美津子&工藤夕貴&植木等ほか/ディレクターズカンパニー=国際放映=ATG/1984)というパロデイ作品が作られた。

この事件のあった前日の2月8日午前3時25分ごろ、東京都港区赤坂のホテル「ニュージャパン」で火事が発生。非常用設備の不備などのため、火はまたたく間に燃え広がり、従業員の避難誘導もなかったため、死亡者33人、重軽傷者34人(うち消防署員7人)の大惨事となった。この火災で業務上過失致死傷罪に問われた社長の横井英樹は1993年(平成5年)、最高裁で禁錮3年の実刑が確定した。

横井英樹・・・1913年(大正2年)生まれ。1953年(昭和28年)、東京都中央区日本橋の老舗百貨店「白木屋」(現・東急百貨店)や「帝国ホテル」などの株の買い占めで騒がれ、1957年(昭和32年)、引き揚げ船で有名だった興安丸を買い取って東洋郵船を設立。「乗っ取り屋」と言われ、翌1958年(昭和33年)、暴力団の安藤組(組長・安藤昇)に短銃で撃たれて瀕死の重傷を負ったこともあった(安藤はこの事件で服役、出所後は組を解散して俳優に転じ、50本以上の映画に出演。現在は作家、映画プロジューサーとして活躍)。1979年(昭和54年)、横井は大日本精糖が経営していたホテル「ニュージャパン」の株式の約7割を買収して経営権を握るが、防災設備の設置や防災訓練などを怠った悪辣な経営あった。1982年(昭和57年)2月8日、ホテル「ニュージャパン」で大火災。1999年(平成11年)、死去。

[ 戦後の主な大規模火災 ]

発生日 火災名 死者数 判決
1955年
(昭和30年)
2月17日
神奈川カトリック修道院火災 99人 (不明)
1972年
(昭和47年)
5月13日
大阪の千日デパートビル火災 118人 デパート管理課長=禁錮2年6ヶ月・執行猶予3年

キャバレー経営者=禁錮1年6ヶ月・執行猶予2年

キャバレー支配人=禁錮1年6ヶ月・執行猶予2年
1973年
(昭和48年)
11月29日
熊本の大洋デパート火災 104人 デパート人事部長&デパート売場課長&デパート営繕部員=それぞれ無罪

デパート代表取締役=起訴されたが公判中に死亡により公訴棄却
1980年
(昭和55年)
11月20日
栃木の川治プリンスホテル火災 45人 ホテル代表取締役=禁錮2年6ヶ月・執行猶予3年

ホテル専務取締役=禁錮2年6ヶ月実刑

失火した作業員=禁錮1年6ヶ月・執行猶予3年
1982年
(昭和57年)
2月8日
東京のホテル・ニュージャパン火災 33人 ホテル代表取締役(横井英樹)=禁錮3年実刑

ホテル支配人=禁錮1年6ヶ月・執行猶予5年
1986年
(昭和61年)
2月11日
静岡県熱川温泉のホテル大東館火災 24人 (不明)
2001年
(平成13年)
9月1日
歌舞伎町の明星56ビル火災 44人 ビル経営者=禁錮3年・執行猶予5年

テナント経営者ら4人=禁錮3〜2年・執行猶予3〜2年

[ 北海道嬰児9人連続殺人事件 ] 1986年(昭和61年)7月21日、北海道富良野市で10年あまりの間に自宅で子どもを産んでは次々とバスタオルや布団で窒息死させていた女性(当時41歳)が逮捕された。前日の20日、北海道の警察署に匿名の男性からの「知り合いのホステスの家の中からひどい匂いがする。調べてほしい」という電話があったことから事件が発覚した。警察がその女性の立ち会いの元に家の中を調べてみると、玄関を入ってすぐの納戸の中にガムテープで密封された段ボールと衣装箱があり、中からバスタオルに包まれた嬰児の死体が9体発見された。いずれも腐乱、ミイラ化し、性別が判明したのは男児3体だけで、転居のたびに持ち歩いていたと自供した。女性は20歳のときに札幌に出て、ススキノでキャバレーのホステスになって以来、ずっと20年以上に渡ってホステス一筋だったが、一ヶ所では長続きせず、クラブやスナックなどを転々とした。1972年(昭和47年)、25歳のとき、富良野に転居したが、ここでも5、6ヶ所の店を替わった。最初の子どもを産んだのはそれから間もなくの頃で、以後9年間、1982年(昭和57年)までほとんど毎年、産んでは殺し産んでは殺し・・・を繰り返していた。特に避妊はしなかったという。ずっと独身で結婚歴はなかった。その間に関係した男の数は数え切れないほどで9人の子どもの父親は全て違う人だった。女性は妊娠しても目立たない体格の上、よく店を替わっていたため周囲からは気付かれなかったという。

この事件と同様の嬰児産み殺し事件は他にもあり、1995年(平成7年)10月、東京都世田谷区で会社の従業員用託児所として使われていたアパートから腐乱した8体の嬰児死体が発見された。犯人は以前、ここで保母のアルバイトをしていた横浜市在住の主婦(当時43歳)で、さらに自宅マンションの押し入れからも2体、合計10体。これを18年間に渡り、夫にも2人の子どもにも気付かれることなく、産んでは殺し産んでは殺し・・・を繰り返していた。この他で8人以上に限定すると、1990年(平成2年)10月に秋田県横手市の農家の主婦(当時40歳)が9人、1993年(平成5年)1月には秋田県本荘市(現・由利本荘市)のOL(当時38歳)の8人の嬰児殺しの事件が発覚している。

嬰児・・・分娩直後の新生児のことを指すが、職種によってその定義が異なり、産婦人科では生後14日以内、小児科では生後28日以内、法医学では狭義で生後1日内外、広義では生後7日内外の新生児とされている。

保母・・・1999年(平成11年)4月1日に施行された改正児童福祉法により、現在、求人誌などの募集欄では「保母」「保父」などの偏った性別の表現ができなくなり、「保育士」という名称に変更されている。

[ 地下鉄サリン事件 ] 1995年(平成7年)3月20日、オウム真理教(現・アレフ)教祖の松本智津夫(教祖名・麻原彰晃/当時40歳)が実行部隊に指揮して東京の警察庁、警視庁を始め主要官庁が集まり、霞ヶ関駅を通る日比谷線、丸の内線、千代田線の地下鉄各線でサリンをばらまいた。死亡者12人(オウム真理教犯罪被害者救済法上の死亡者1人を加えると13人)。1989年(平成元年)11月4日の坂本堤弁護士一家3人殺害事件や1994年(平成6年)6月27日の松本サリン事件(死亡者7人)など松本智津夫が起訴された13の事件での死亡者は27人(オウム真理教犯罪被害者救済法上の死亡者1人を加えると28人)に上る。3月22日、上九一色村など全国の教団施設へ強制捜査。5月16日、松本智津夫が逮捕される。2004年(平成16年)2月27日、東京地裁で松本智津夫に対し死刑判決。弁護側が即日控訴。2006年(平成18年)3月27日、東京高裁は松本被告に訴訟能力があると認め、弁護側が期限(2005年8月末)までに控訴趣意書を提出しなかったことを理由に公判手続きを打ち切る異例の控訴棄却の決定をした。3月30日、弁護側が東京高裁の控訴棄却決定を不服として異議申し立て。5月29日、東京高裁が異議を棄却。6月5日、弁護側が控訴棄却決定に対する異議を棄却した東京高裁決定を不服として最高裁に特別抗告。9月15日、最高裁が特別抗告を棄却し、死刑が確定した。

サリン・・・ナチス・ドイツが開発した有機リン系の神経ガス。神経の興奮は神経伝達物質であるアセチルコリンによって伝えられるが、正常なときは、アセチルコリンは酵素によって分解される。だが、サリンなどの有機リン系物質はこの酵素と結合するため、その結果、アセチルコリンが体内にあふれ、次の神経伝達が出来なくなり、中枢神経や運動神経に障害があらわれ、死亡する。

関連書籍・・・
『オウム帝国の正体』(新潮社/一橋文哉/2000)

『大義なきテロリスト オウム法廷の16被告』(NHK出版/佐木隆三/2002)
大阪池田小児童殺傷事件
[ 大阪池田小児童殺傷事件 ] 2001年(平成13年)6月8日午前10時15分ころ、大阪府池田市の大阪教育大付属小学校に元伊丹市職員の宅間守(当時37歳)が刃物を持って乱入し、教室などで1、2年の児童などを次々と刺した。110番通報で駆けつけた池田署員が約15分後、宅間を殺人未遂の現行犯で逮捕した。池田署などによると、1年生4人、2年生17人、教師2人の計23人が病院に搬送されたが、このうち1年の男児1人、2年の女児7人の計8人が胸や腹を刺されて死亡、児童13人と教師2人が重軽傷を負った。事件当初は「事件直前に精神安定剤を大量に飲んだ」などと供述して犯行を否認していたが、後に精神病者を装って責任を免れようとしたと犯行を自供した。2003年(平成15年)8月28日、大阪地裁は宅間に対し死刑を言い渡した。9月10日、弁護士側は判決を不服として控訴した。9月26日、宅間自身が控訴を取り下げ、死刑が確定した。12月27日、同年代の支援者の女性と12月上旬、獄中結婚していたことが分かった。女性の姓に合わせて「吉岡守」と改名した。結婚は5回目となる。2004年(平成16年)9月14日、大阪拘置所で死刑が執行された。死刑確定からわずか1年という異例の執行となった。40歳だった。

関連書籍・・・
『人はいつから「殺人者」になるのか』(青春新書/佐木隆三/2005)
『殺ったのはおまえだ 修羅となりし者たち、宿命の9事件』(新潮文庫/「新潮45」編集部/2002)
『なにが幼い命を奪ったのか 池田小児童殺傷事件』(角川書店/伊賀興一ほか/2001)
『かくれんぼ』(文芸社/森脇徹/2002) / 『虹とひまわりの娘』(講談社/本郷由美子/2003)
『犯罪被害者支援とは何か』(ミネルヴァ書房/酒井肇ほか/2004)

大阪個室ビデオ店放火殺人事件
[ 大阪個室ビデオ店放火殺人事件 ] 2008年(平成20年)10月1日午前2時55分ころ、大阪市浪速区難波中の鉄筋7階建ての雑居ビル「檜ビル」1階の個室ビデオ店「試写室キャッツなんば店」(島本和典店長)から出火、同店の約37平方メートルと天井や壁を焼いた。これで16人が死亡、4人が負傷した。同日午後、現住建造物等放火と殺人、殺人未遂の疑いで、火元とみられる個室を利用していた大阪府東大阪市加納の無職・小川和弘(当時46歳)が逮捕された。小川は「生きていくのが嫌になり、キャリーバッグの荷物などにライターで火を付けた」と供述した。2009年(平成21年)9月14日、大阪地裁(秋山敬裁判長)で初公判が開かれ、罪状認否で小川は「放火はしておりません」と否認。弁護人は「自殺を企てたことも放火行為もしていない。客に殺意を持っていなかった」として無罪を主張した。12月2日、大阪地裁で死刑判決。2011年(平成23年)7月26日、大阪高裁で控訴棄却。7月28日、被告側が上告。2014年(平成26年)3月6日、最高裁で上告棄却で死刑確定。

[ 尼崎連続変死事件 ] 1970年(昭和45年)から2011年(平成23年)までの40年間に渡って、角田美代子がいくつもの家族を取り込み、金銭的に搾取し、崩壊させていった事件。その過程で、少なくとも9人が殺されている。2012年(平成24年)12月12日、角田美代子が県警本部の留置場で自殺。

関連書籍・・・
『尼崎事件 支配・服従の心理分析』(現代人文社/村山満明&大倉得史[編著]/2016)
『モンスター 尼崎連続殺人事件の真実』(講談社/一橋文哉/2014)
『家族喰い 尼崎連続変死事件の真相』(太田出版/小野一光/2013)

[ 相模原障害者施設殺傷事件 ] 2016年(平成28年)7月26日午前2時45分ごろ、神奈川県相模原市緑区千木良の知的障害者施設「津久井やまゆり園」にナイフを持った男が侵入し、暴れていると110番があった。神奈川県警や消防によると、入所者らが刺されるなどし、男女19人が死亡、26人が重軽傷を負った。津久井署に出頭した元同施設職員で自称無職の植松聖(さとし/当時26歳)が殺人未遂と建造物侵入の容疑で逮捕された。植松は「ナイフで刺したことは間違いない」と容疑を認めており、「障害者なんていなくなればいい」という趣旨の供述をした。植松は同施設の近くに住んでおり、同日午前3時すぎ、車に乗って1人で出頭した。所持品のかばんに血の付いた包丁とナイフが計3本入っていた。乗っていたとみられる車の助手席には、血の付いたタオルなどが散乱していた。被害に遭ったのは、施設内の東西に2棟ある居住棟のうち、東側の1階と、西側の1、2階の部屋にいた入所者や職員ら。結束バンドで縛られた職員もいた。東側1階にある部屋の窓ガラスが割れ、近くにハンマーが落ちており、県警は侵入経路とみて確認を進めている。植松は2012年(平成24年)12月から津久井やまゆり園に非常勤職員として勤務し、2016年(平成28年)2月に退職した。退職の理由は不明という。捜査関係者によると、植松は過去に起こしたトラブルにより医療機関の診察を受け、措置入院させられたことがあるという。消防などによると、死亡したのは男性9人、女性10人。他に男女20人が重傷、6人が軽傷を負うなどし、周辺の病院へ搬送された。搬送先の病院によると、重傷者の多くは首などに深い刺し傷があり、意識不明の重体の人もいる。市精神衛生保健課などによると、2月19日、植松は神奈川県内の精神科病院で「躁(そう)病」と診断され、入院。本来、医師2人の診断が必要だが、医師1人のみで診断する「緊急措置入院」が適用された。翌20日、尿検査で大麻の陽性反応が出たため、再検査に。「大麻精神病」など複数の精神疾患があると診断された。ところが、わずか12日後の3月2日、市は病院から「他害要件が消失した」などと記載された「症状消退届」の提出を受けたため、植松を退院させた。届には「退院後は家族と同居する」とも記されていたが、実際には一人暮らしだった。9月21日、横浜地検は植松聖の鑑定留置を開始したと発表した。期間は2017年(平成29年)1月23日までの約4ヶ月間。地検は精神鑑定の結果を基に刑事責任能力の有無を見極め、刑事処分を決める。

関連書籍・・・
『相模原障害者殺傷事件 優生思想とヘイトクライム』(青土社/立岩真也&杉田俊介/2016)
『生きたかった 相模原障害者殺傷事件が問いかけるもの』(大月書店/藤井克徳ほか/2016)
『うつ病から相模原事件まで 精神医学ダイアローグ』(批評社/井原裕/2017)
『妄信 相模原障害者殺傷事件』(朝日新聞出版/朝日新聞取材班/2017)

[ 座間9遺体事件 ] 2017年(平成29年)10月30〜31日にかけて神奈川県座間市のアパートの一室で9人(女性8人・男性1人)の遺体が発見され、この部屋に住む白石隆浩(当時27歳)が死体遺棄容疑で逮捕された。逮捕容疑は8月22日〜10月30日ごろ、氏名や年齢、性別不詳の被害者の死体を損壊し、クーラーボックス内に猫用の砂のようなものをかけて隠し、遺棄した疑い。白石は金銭目的や乱暴目的のために殺害したという趣旨と証拠隠滅をしたと認める供述をしている。部屋からは事件に使用したとみられるノコギリが見つかった。部屋にはクーラーボックスと大型の収納ボックスが計8個あり、このうちの7つに遺体の一部が入っていたという。

『日本の大量殺人総覧』(新潮社/村野薫/2002)によると、「埼玉の殺人鬼・9人殺し」の中島一夫については誤報によって「9人殺し」となったらしく、実際に殺害した人数は4人とのこと。未解決になっていた埼玉県坂戸市での一家5人殺しも中島が「自供」したと誤報したことによって「9人殺し伝説」となったらしい。

参考文献・・・
『現代殺人事件史』(河出書房新社/福田洋/1999)
『20世紀にっぽん殺人事典』(社会思想社/福田洋/2001)
『殺人評論』(青弓社/下川耿史/1991)

『実録 戦後殺人事件帳』(アスペクト/1998)
『日本の大量殺人総覧』(新潮社/村野薫/2002)
『日本の殺人者』(青林工藝舎/蜂巣敦/1998)
『殺人百科 四』(徳間文庫/佐木隆三/1993)
『殺ったのはおまえだ 修羅となりし者たち、宿命の9事件』(新潮文庫/「新潮45」編集部[編]/2002)

『現代の犯罪』(新書館/作田明&福島章[編]/2005)
『毎日新聞』(2001年6月8日付/2003年8月28日付/2003年9月10日付/2003年9月26日付/2003年12月27日付/2004年2月27日付/2004年9月14日付/2008年7月2日付/2008年10月1日付/2009年9月14日付/2009年12月2日付/2011年7月26日付/2011年7月29日付/2012年12月12日付/2014年2月15日付/2014年3月6日付/2016年9月21日付/2017年10月31日付)
『東京新聞』(2008年7月2日付)

『時事通信』(2016年7月26日付)

関連サイト・・・
You Tube - ホテル・ニュージャパン火災、日航機「逆噴射」事件、etc.昭和56〜58年

[ 事件 index / 無限回廊 top page ]