[ 事件 index / 無限回廊 top page ]

帝銀事件

【 事件発生 】

1945年(昭和20年)8月15日から1952年(昭和27年)4月28日(対日講和条約・日米安保条約発効)までの日本における国家権力は、GHQ(連合軍総司令部)というアメリカの支配下にあり、その下に日本政府があった。当然、警察や検察も同じである。帝銀事件が発生した1948年(昭和23年)は、そうした二重の国家権力によって国民が支配されていた時期であった。

1948年(昭和23年)1月26日、東京都豊島区長崎町1−33番地にあった帝国銀行(後の三井銀行、現在の三井住友銀行)椎名町支店(1950年、閉鎖)で事件が起こるのだが、銀行といっても、実際は質屋を改造した木造の小さな支店に過ぎなかった。

この日、支店長は午後から腹痛のため早引けし、支店長代理の吉田武次郎(当時44歳)が店を預かっていた。どういうわけか、欠勤者も多く、21名中7名もいなかった。食糧が欠乏していた当時としては、買い出しのために休む人がいても不思議ではなかった。閉店の午後3時になると、行員たちは残務整理に取りかかった。

午後3時5分ごろ、中年の男が横のくぐり戸を開けて入ってきた。茶色のコートを着ており、黒い字で<防毒消毒員>と達筆で書かれ、赤い東京都のマーク入りの腕章を左腕にし、スプリングコートを持って、赤いゴム靴を履いていた。

「支店長は・・・」と言ったので、吉田支店長代理は「支店長はおりませんが、私が支店長代理です」と答え、この男を事務室に招き入れた。

男は名刺を吉田支店長代理に差し出した。吉田支店長代理によると、この名刺には<東京都衛生課並厚生省厚生部醫員 醫學博士>と印刷されていたと思うが、名前は記憶にないという。

男は「実は長崎2丁目の相田小太郎という家の前の井戸を使用している処より4名の集団赤痢が発生し、警察の方へも届けられたが、このことがGHQのホートク中尉に報告され、中尉はそれは大変だ直ぐ行くからお前、ひと足先に行けと言われて来たが、調べてみるとその家へ同居している人が今日、この銀行へ来ていることが分かった。ホートク中尉は後より消毒斑を指揮して来ることになっている。その消毒をする前に、予防薬を飲んでもらうことになった」と言った。

赤痢・・・ひどい下痢と発熱が主な症状。便には血液が混じり赤い下痢、つまり赤痢が特徴。当時、日本では胃腸系の伝染病が猛威をふるっていたが、赤痢の予防薬は存在しなかった。

それで、吉田支店長代理は「随分と早く分かりましたね」と言うと、その男は「診断した医師より直接GHQへ報告されたのだ」と言った。

そのあと、男は「もう直ぐ、本隊が来るからその前にこの薬を飲んでもらうが、これはGHQより出た強い薬で非常によく効く薬であるから」と言って、医師が使う金属製のケースを取り出した。

そこへ、給仕は湯呑を全部洗って持ってきた。男は「この薬は歯に触れるとホーロー質を損傷するから私がその飲み方を教えますから、私がやるようにして下さい。薬は2種あって最初の薬を飲んだ後、1分ぐらいして第2の薬を飲むのである」と言って、120CC入り小瓶を取り出して、その中の液体を2CC入りスポイトで2回に分けて量り、4〜5CCずつ分配した。

男は舌の先を丸めて前歯と下唇の間に入れ、自分の茶碗に注いであった液体をのどの奥の方に垂らし込むようにして飲んで見せた。

男の周りに集まって見ていた行員達14人とその家族の2人(うち1人は8歳の子ども)の合わせて16人は、何の疑いもなく一斉に第1薬を飲んだ。

そのとたん、行員達はのどや胸が焼けるようにカッカしてたちまち苦しくなった。そして、1分後、第2薬を分配してもらって飲んだ。誰かがウガイに行ってもいいかと男に訊くと、いいと言われたので行員達は我先にと台所や風呂場に駆け寄った。

吉田支店長代理もウガイを済ませ、事務室に戻ったが、席についたところで気を失った。男はこのとき、既にいなかった。男は午後3時半過ぎに銀行を去ったが、吉田支店長代理に出した名刺も自分が使用した茶碗も回収していて証拠は何ひとつ残していなかった。

苦悶にのたうち回る16人であったが、10人はその場で絶命した。午後4時ごろ、残りの6人のうちの1人である村田正子が、ときどき失神しながらも必死になって裏木戸を開け助けを求めたことによって事件が外部に知れることになったが、群集が銀行内での出来事を食中毒と思い込んで、なだれ込んだため、大混乱をきたした。この残りの6人は救急車で下落合の聖母病院に入院したが、そのうち2人が死亡した。

結局、この事件により12人が死亡し、4人が生き残った。法医学的な解剖を東大医学部と慶大医学部で行った結果、毒薬は青酸化合物であった。

青酸化合物・・・青酸基を含む化学物質の総称で大部分が猛毒。犯罪に使われるものは青酸、青酸カリウム、青酸ナトリウムなどだが、そのどれであるかの断定までには相当時間がかかる。そのため警察などは捜査の初期においては、使用したものは青酸化合物であると発表することがある。青酸カリウムと青酸ナトリウムを区別することは毒物としてはそれほど重要ではないとのことだが、この事件では不明のままであった。

これまで起こった青酸カリの毒殺事件では、ほとんどがすぐ倒れて死んでいる。帝銀の犯人は、少なくても1分間は、誰も倒れないと確信していた。そして事実その通りだった。この1分間に何人かが倒れれば他の者は外に救いを求めたり、大混乱になったであろう。ここに、犯人の毒物に対する知識の深さがあった。

男は出納係の机上にあった現金16万4450円35銭と額面1万7450円の小切手1枚を奪って逃走したが、不思議なことに、すぐそばにあった出納係長の机上付近の約41万円や他の机上にあった約8万円、鍵が外れていた大金庫の中の約35万円は手付かずに残っていた。時間的な余裕は充分あったはずなのだが・・・。

ちなみに、この年の大卒の初任給は約4800円であった。

小切手が盗まれたことが分かったのは翌日の1月27日午後2時15分で、それから各銀行に手配したのだが、間に合わなかった。安田銀行板橋支店に、1人の男が午後2時半に現れて、この小切手を換金している。午後2時半という遅い時刻に換金していることが不思議であった。また、この男は小切手の扱いに慣れていないのか、小切手の裏に住所を書いておらず、行員に注意されてから偽りの住所を書いている。

生き残った4人の行員(うち1人は支店長代理)の証言によると、犯人は年齢44、5歳で、目鼻立ちの整った好男子、物腰の柔らかなインテリ風の男、いかにも医療関係者らしい感じであったという。

帝銀事件の10日ほど前の1月15日に寿産院事件で容疑者の石川夫妻が逮捕されたが、「最近は助産婦が人を殺したり、医者が人を殺したりする物騒な世の中になったもんだ」と世間は騒然となった。

【 未遂事件 】

警視庁は事件の翌日の27日、管轄下の101の警察署の捜査主任を召集し、類似の未遂事件があるものとみて調査を命じた。その結果、その翌日の28日になって、安田銀行(後の富士銀行、現・みずほ銀行)荏原支店と三菱銀行(現・三菱東京UFJ銀行/以下同)中井支店にまったく同じ手口の未遂事件があることが分かった。

安田銀行荏原支店の事件は、帝銀事件の前年の1947年(昭和22年)10月14日午後3時過ぎ、やはり、目鼻立ちの整った上品な男が現れた。そして、<厚生技官 醫學博士 松井蔚(しげる) 厚生省豫防局>と印刷された名刺を差し出して、「この近所の小山3丁目のマーケット裏の渡辺忠吾という家の者が赤痢に罹り、そこから集団赤痢が発生しました。その消毒のため、GHQのパーカー中尉(この人物は、のちになって、GHQの衛生対策係として実在していたことが分かる)と一緒にジープで来ました。調べてみると、今日の午前中、そこの同居人がこの銀行に来ている。そこで、この銀行のオール・メンバー、オール・ルーム、オール・キャッシュ、オール・マネーを消毒しなければなりません。金も帳簿も、そのままにしておいてください」と言った。

このとき、渡辺支店長は小使いの小林を近くの交番に急行させ、事実の有無を確かめさせた。交番の飯田巡査は早速、小山3丁目かいわいを探しまわった。しかし、赤痢の出た家もなければ、米軍のジープも来ていなかった。飯田巡査は安田銀行に行き、この男に対し、言っている場所で集団赤痢発生の事実はなかったと言うと、「小山3丁目のマーケットの所に進駐軍の消毒斑のジープが来ている。警察がそんなことを知らなくては困る」と反論した。それで、飯田巡査は事実の確認にもう一度、小山3丁目に向かった。

そのあとで、渡辺支店長は行員20名を集め、男は各自の茶碗に3滴ずつ液体を分配し、その中のひとつを自分で飲んで見せ、次に全員に、第1薬を飲ませ、1分後、さらに第2薬を飲ませた。だが、何の異常もなかった。男は10分ほど、消毒斑が来るのを待っていたが、「来るのが遅いから見てくる」と言って、逃げ去った。このとき、男の年齢は51、2歳くらいに見えたという。男が残した物は名刺1枚だけであった。

小山3丁目のマーケットは、この銀行から5、600メートルの近さにあり、飯田巡査は自転車で来ていたから、往復5、6分ぐらいしかかからないはずである。犯人の言う消毒斑が来ていないことを確認して銀行にすぐ引き返していれば、犯人は捕まっていたかもしれない。

にも、かかわらず、第2薬を飲ませてからもしばらく居残っていたのが不思議であった。考えられるのは、薬の効き目が表れるのを待っていた、ということだが・・・。

三菱銀行中井支店の未遂事件は帝銀事件のわずか1週間前の1948年(昭和23年)1月19日午後3時過ぎに起きている。男が小川支店長に差し出した名刺には<厚生省技官 醫學博士 山口二郎 兼東京都防疫課>と印刷されていた。のちに山口二郎は架空の人物であることが分かる。

男は「私は、東京都の衛生課から来ましたが、この近くの井華鉱業落合寮で、7名ほどの集団赤痢が発生しました。進駐軍が車で消毒に来ましたが、そこの責任者の大谷さんという人が、今日この銀行に預金に来たはずです。それで、人も現金、帳簿、各室も、みな消毒しなければなりません」と言った。

小川支店長は、念のため、行員に大谷という人が預金に来たかどうか調べさせた。その結果、井華鉱業落合寮の大谷ではない大谷という人が60万円の小切手を預入に来たことが判明した。小川支店長は「これの間違いではないですか」と訊くと、男は「そうかもしれない。今、進駐軍がその家を消毒しているから、5、6分で来るでしょう」と言った。

そして、小切手1枚に、瓶の中の液体をふりかけただけで、立ち去っている。年齢はやはり、52歳くらいで目鼻立ちの整った好男子であったという。この事件でも男が残した物は名刺1枚だけだった。

この2件の未遂事件は新聞などで報じられることはなかった。だから、一般の人がこの未遂事件の犯行の手口を真似て帝銀事件を起こしたとは考えづらい。とすれば、帝銀事件の犯人とこの2件の未遂事件の犯人は同一人物と考えるのが自然である。さらに、未遂事件は帝銀事件を起こすための予行練習と見ることができるのだが・・・。

【 その後 】

帝銀事件発生の翌日の1948年(昭和23年)1月27日、警視庁は合同捜査本部を設置し、刑事部長の藤田次郎がその本部長になった。

警視庁捜査2課で捜査主任をしていた成智(なるち)英雄警視は、極秘裡に捜査を進めており、死の直前に『別冊 新評』(1972年10月)に掲載された手記には、<アリバイその他で、犯人と認められる者は、結局、731部隊に所属していた医学博士の諏訪(三郎)軍医中佐(当時51歳)ただ一人となった。・・・体格・人相・風体は、帝銀、安田銀、三菱銀の生き残り証人の供述による犯人のそれとピッタリと一致している。>と書いている。当時、この証言を元にモンタージュ写真が作成されたが、成智が事件当時の諏訪中佐の動静を遺族や近所の住人に当ったり、写真を入手して検討した形跡がなく、また日本陸軍軍医将校名簿には諏訪三郎という軍医は存在しないということであった。該当する人物は諏訪敬三郎軍医大佐と諏訪敬明(のりあき)軍医中佐であった。

731部隊・・・北満のハルピン市の郊外南方20キロに平房という大草原があり、軍は細菌学の権威者の石井軍医中将に命令して、4平方キロという広い敷地に秘密施設を建設し、ここで人体実験をしていたのが731部隊であった。ハルピン駅から特別に鉄道の支線が敷設され全ての研究資材は真っ直ぐにここに運ばれ秘密が保たれるようになっていた。この施設をとりまく四方2キロ以内は絶対立ち入り禁止区域となっており、歩哨が間断なく護衛し、その上空は日本軍の飛行機さえ立ち入ることを厳禁していた。施設の周囲は高さ3メートルの土塁がありその外郭に鉄条網が何重にもはりめぐらされ、さらにその外側は深い掘りになっているという厳重さであった。夜間になると、中から間断なく照明灯が外を照らし、ただのひとりも外から中に入りこむことも中から外に脱出することも許さない鉄壁の備えであった。中で働く研究員の数は3000人からのちに6000人に増強されたという。

実験用の人体である「マルタ」(丸太・・・実験用の“材料”という意味でこう呼ばれていた。ここに731部隊の悪魔性が感じられる)には満州法廷で裁かれた死刑囚ばかりでなく、無実のソ連人、満州人、蒙古人などもいた。マルタは夜間にハルピン駅まで憲兵に護送され、そこから専用輸送車に乗せて送られた。マルタはペスト菌、チフス菌、コレラ菌、エソ菌、破傷風菌などに感染させられ実験室に放りこまれる。感染状況を研究し、さらに、その治療研究も行った。それは、既存のワクチンの治療方法を完全に無効にするまで、病原菌の抵抗力を強めるためである。つまり敵側が持っているワクチンでは間に合わない強力な病原菌を作り出すことが目的であった。だから、マルタは治療すると、すぐ反復実験をさせられた。体力が衰えて標準以下になると実験用としては価値を失うので、これを病理解剖して、施設に設けてある焼却炉の中に放りこみ、粉になるまで焼却した。粉末になった骨は風に散らして風葬を行い、何の証拠も残さないように処理していた。こうした運命をたどったマルタが数千人いたという。

戦後、長い間、731部隊は謎に包まれていたが、その実体に迫ったのが、森村誠一の著書『悪魔の飽食』である。1981年(昭和56年)末に刊行。1年足らずで188万部。翌1982年(昭和57年)夏に続編が刊行されたが、続編に使われた写真が同部隊と関係ないというミスが判明し、光文社版は絶版になった。当時、教科書の(日本の中国への)「侵略」という言葉をめぐって左右の議論が活発だった。そんな対立感情の中で「日本の恥部を暴くのはけしからん」と、この本を全否定する人々もいた。森村は執拗な脅迫を受けたと記している。その後、森村は写真の掲載ミスの経緯を明らかにし、1983年(昭和58年)、『悪魔の飽食 新版』 / 『悪魔』の飽食 新版・続』に続き、1985年(昭和60年)、中国での関係者からの証言、米国の公文書などの新資料を使って、『悪魔の飽食 第3部』を書き上げ、角川文庫から刊行した。

モンタージュ写真が日本で初めて実用化されたのは、帝銀事件からであったが、部分的に犯人に似ている3人の写真を同じ大きさに引き伸ばし、それを目、鼻、口に分けて横に切り、ノリで貼り合わせ、複写、修正するという大変手間のかかる方法で仕上げることとなった。事件が発生した同月の1月以降決定版まで10回の修正が施された。

その頃、読売新聞の大木社会部次長は、731部隊の隊員を必死になって追跡していたが、警視庁から呼び出され、圧力をかけられた事実があった。大木が警視庁に行くと、藤田捜査本部長とGHQのイートン中佐と2世の服部中尉の3人が立っていた。大木はそこで次のように言われた。

「石井部隊(731部隊)は、対ソ戦に備えて保護し温存中である。これを暴かれては米軍は非常に困る。この調査から手を引いてくれ」

このことが明るみになったのは、のちに逮捕されることになる平沢貞通が最高裁で上告棄却によって死刑が確定したあとであった。

また、同じく読売新聞の遠藤社会部記者も、藤田捜査本部長から圧力をかけられた。藤田は遠藤に電話をかけて次のように言った。

「今、君のやろうとしている事件から手を引いてくれないか。権威筋からの命令でね」権威筋とはアメリカ当局のことである。「いろいろ関係があって、石井部隊を君一流のスッパ抜きでやられては困るので、とにかくやめてくれ。この埋合わせは他でするよ」

遠藤記者はこの電話があった日から手を引かざるを得なかった。こうした事実があったことが明るみになったのは、1964年(昭和39年)7月に、遠藤が弁護団のために書き残した手記によってであった。

1948年(昭和23年)8月21日、事件発生から約7ヶ月後、突如、東京のテンペラ画家の平沢貞通(さだみち/当時56歳)が、北海道小樽市の親類の家で逮捕された。

平沢貞通・・・1892年(明治25年)2月18日、東京生まれ。6歳のとき、両親とともに北海道に渡り、札幌、小樽と住所を変えた。22歳で二科展に入選。24歳のとき結婚。25歳のとき上京し東京美術学院の講師になる。この頃から水彩画とともにテンペラ画を始める。その後、光風会に毎年入選、二科展の入選3回、帝展(現・日展)文展を通じて16回入選を続け無監査(審査員の鑑査なしに無条件で出品できること)になった。この頃の代表作に「春近し」「野火の跡」がある。水彩画会では審査員、常務になり、テンペラ画壇では岡田三郎助亡きあと会長になる。平沢は横山大観に師事したことがあり、雅号を「大ワ」(横山大観の「大」と「日の丸」の意味の「日章」)と名乗った。

テンペラ画・・・11世紀末から13世紀後半までの十字軍の遠征により、その技法が東洋から西洋に移り、イタリアで開花したもの。ジオット、デマブエ、ミケランジェロなどがその代表。画法の特徴は約1000年変色しないと言われている材料にあるが、青酸化合物とは無縁の画材である。

「数え年齢」から「満年齢」に変わるのは1950年(昭和25年)以降だが、平沢貞通については現在使用されている「満年齢」とした。ちなみに「数え年齢」とは生まれた時点で「1歳」とし次の年の元日を迎えた時点で1年加えて「2歳」となる、というように、以後元日を迎えるごとに年齢が加算される計算法で、「数え年齢」と「満年齢」は常に1歳か2歳違いとなる。

2日後の8月23日、警視庁名刺斑の居木井(「いぎい」なのか「いりい」なのか不明)警部補は平沢を逮捕したあと、汽車で東京へ護送するが、このときの取り扱いが人権問題として取り上げられ、法務総裁が陳謝した。警察はマスコミをまこうとして、一度、駒込署に護送したあと、警視庁に連行した。

犯人は「松井蔚」という名刺を安田銀行での未遂事件のときに使っている。松井は実在する人物であったが、犯行当日のアリバイがあった。

居木井警部補は松井と名刺交換した相手を松井から聞き出した。松井は593人と名刺交換しているにもかかわらず、居木井は理解しがたい方法で14人に絞り込んで、さらに、いかがわしい姓名判断師に占ってもらって平沢が犯人であると確信したという。まったくばかげた話である。また、名刺交換した者が犯人であるとは限らないし、もらった名刺を犯行に使うのはどうかと思うのだが・・・。

帝銀から生き残りの4人のうちの3人、安田銀、三菱銀と合わせて11人による面通しが行われた。結果は、「犯人と違う」と言った者が6人、「似ている」と言った者が5人である。「似ている」とは言っているが、「この人が犯人だ」とは言っていない。

面通しには2つの方法があり、被害者に被疑者1人を見せる方法と被疑者の他に無関係の者を何人か一緒にして、その中から被害者に選ばせる方法があるが、前者は間違いが多いが、このとき、居木井警部補は常識に反して、前者の方法を取ってしまった。

居木井は、平沢の預金台帳の内容を調べ、事件発生直後に入金になっている8万円のことだけを平沢に追及したが、平沢はこの出所をはっきりさせなかった。

警視庁の平塚八兵衛といえば、1963年(昭和38年)に起きた吉展(よしのぶ)ちゃん誘拐殺人事件などの難事件を解決した名物刑事だが、居木井とともに、拷問に近い取り調べを行った。それは、むし風呂のような調べ室の中で、朝10時から夜11時、ときには深夜まで強行取調べの連続であった。吉展ちゃん誘拐殺人事件

平塚八兵衛(1913〜1979)・・・初任地の鳥居坂署で外勤(交番勤務)だったが、ドロボーの検挙率が警視庁管内でナンバー1になり、その後、本庁に引き抜かれ、捜査1課に配属。以来、退職するまで32年余りを捜査1課一筋。巡査から巡査部長、警部補、警部、警視といずれも無試験で昇進した。その間に関わった主な事件に、小平義雄連続殺人事件(1945〜1946)、帝銀事件(1948)、下山事件(1949)、スチュワーデス怪死事件(1959)、吉展ちゃん誘拐殺人事件(1963)、カクタホテル殺人事件(1967)、3億円事件(1968)などがある。「落としの八兵衛」「ケンカ八兵衛」「オニの八兵衛」と様々な異名をもつ。迷宮入りになりかけていた吉展ちゃん事件では犯人の小原保を自供に追い込み、「落としの八兵衛」に相応しい活躍で警察功績章を授章。カクタホテル殺人事件では「自殺の偽装」を見破り、犯人を検挙。この帝銀事件では冤罪の可能性がありながら警察界最高の警察功労章を授章。下山事件では他殺の可能性がありながら事件から約6ヵ月後に自殺と断定して捜査を打ち切り、スチュワーデス怪死事件では重要参考人とされた人物を取り調べまでしておきながら逮捕することができず、 3億円事件では迷宮入りとなり時効を迎えてしまった。平塚は3億円事件の捜査本部キャップを最後に引退しているが、当時、在職中に警察功績章と警察功労章の両章を授章したのは平塚八兵衛だけらしい。平塚の著書に『三億円強奪事件 ホシを追いつづけた七年間の捜査メモ』(勁文社/1975)がある。関連書籍として『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』(新潮文庫/佐々木嘉信/産経新聞社[編]/2004)があるが、これを原作としたテレビドラマが、2009年(平成21年)6月20・21日の両日午後9時から2時間20分に渡り、テレビ朝日開局50周年記念ドラマスペシャルとして同名タイトル『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』(平塚役・渡辺謙)として放送された。

平塚刑事は平沢に対し、「何が画伯だ! きさまのような悪党は、なぐり殺してもいいんだ! さあ、白状しろ!」と怒鳴りながら、金具が付いた靴のかかとで平沢のひざを何度も踏んづけた。

8月25日、平沢は自らの潔白を証明するため、死をもって抗議しようとした。留置場内で取調べ室の机の上から隠し持っていたガラスペンを左手の静脈に突き刺し吹き出す血で壁に「無実」と書きつけ、そのまま昏睡した。だが、看守に発見され一命をとりとめた。

警視庁の幹部は、しばらくは平沢をシロと思っていた。

ところが、9月3日、過去に銀行を舞台とした4件もの詐欺事件が、平沢の犯行と分かり、警視庁幹部は平沢に対する認識を変えてしまった。東京地裁は平沢をこの詐欺事件で起訴した。

平沢はこの詐欺事件で手に入れた小切手を、その翌日に銀行の開店と同時に、換金するために現れているが、小切手の裏には、実在する「山口謙」の名前と「住所」を書き込んであった。

帝銀事件のときも、盗まれた小切手を、翌日に換金しに、銀行に現れた男がいたが、この男は小切手の裏に「住所」を書いておらず、行員に注意されてから偽りの「住所」を書いている。しかも、換金したのは午後2時半という遅い時刻であったことにより、平沢とは別人物である、とも言える。また、筆跡鑑定では別人物という結果が出ている。

平沢は33歳のとき、東京都板橋区の自宅で飼っていた愛犬が狂犬病にかかって処分された。そのとき、飼い主の平沢は狂犬病の予防注射を受けた。ところが、その直後に意識不明になって3ヶ月間は人事不省となった。

これによって、脳疾患コルサコフ氏病という一種の精神疾患にかかってしまった。平気で誰も信じないようなウソをつき、さらに、本人自身でさえもウソかマコトか区別がつかないようになってしまうので、バレたときの不利な結果を顧慮しない。平沢の銀行での4件の詐欺は、その病気のせいで、他愛のないいたずらに近いものだったようだ。

コルサコフ氏病・・・ロシアの神経学者のコルサコフ氏によって発見された症候群。狂犬病の予防接種、慢性アルコール中毒、糖尿病、一酸化炭素中毒、砒素中毒、水銀中毒尿毒症、腸チフス、脳梅毒、脳動脈硬化、脳腫瘍、脳挫傷、てんかんなどを原因として発生する。この患者の症状として、重い記憶力障害、時と場所に関する判断力の障害、作話症(作り話をするクセ)、逆行性健忘症などがある。

9月22日、平沢は2度目の自殺をした。警視庁取調べ室にやって来た義弟の風間竜の前で「竜ちゃん! 私は天地神明に誓って無実です!」と叫んで、自らの頭を取調べ室の壁に向けて激突させ、頭蓋骨を割ろうとした。意識を失って倒れたが、一命はとりとめた。

9月24日、平沢は痔の薬を5個いっぺんに飲み、3度目の自殺を図ったが、嘔吐してしまったため失敗した。

事件直後に、所持していた13万4000円のお金の出所をはっきりさせなかったが、この点を高木検事に追及され、34日間(逮捕された8月21日から9月23日まで)、真実を貫き通してきたが、9月24日、疲労困憊してもうろうとなった平沢は自分が犯人であると「自白」し始め、10月5日までに、合計15通もの「自白調書」をとられてしまった。

これは、平沢が自発的に自分の意思で述べたものではなく、高木検事に「ああだろう、こうだろう」と一つひとつ暗示にかけて誘導され、コルサコフ氏病の後遺症もあって、平沢がそれを真に受けて「作話」しただけのことであった。平沢が逮捕されてから獄死するまで、「自白」したのは、この間のわずか12日間だけであった。

10月8日、平沢を小菅拘置所に身柄を移送。平沢は強いショックを受けて錯乱状態で、面会不能、監獄医の診察治療を受けていた。

この日と翌9日の2日に渡り、主任検事が佐々木事務官とともに出張し、平沢の「自白調書」を3回取っていたことになっているが、3回分の聴取書にあった平沢のサインと拇印を鑑定してもらった結果、偽造の疑いが濃厚であった。平沢に聞いてみると、この2日間、検事とは会っていないし、3回に渡る聴取書を取られた事実はないという。

10月12日、東京地裁は平沢を帝銀事件の強盗殺人、安田銀行の強盗殺人未遂、三菱銀行の強盗未遂で、物的証拠が何もないまま、追起訴した。これによって、他の容疑者の捜査は打ち切りを命じられることになる。

この帝銀事件は不幸なことに自白が証拠となった旧刑事訴訟法の元での事件であり、「自白は証拠の女王」として重要な位置にあった。新刑事訴訟法が施行されるのは1949年(昭和24年)1月1日からだったのである。

新刑事訴訟法319条では、「強制、拷問又は脅迫による自白、不当に長く抑留又は拘禁された後の自白その他任意にされたものでない疑のある自白は、これを証拠とすることができない」、319条2項では、「被告人は、公判廷における自白であると否とを問わず、その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪とされない」と改められた。だが、新刑事訴訟法が施行されてからも警察による自白の強要はなくならず、自白を重要視していたことから冤罪事件が頻発した。1949年(昭和24年)8月の弘前大学夫人殺し事件(被告人・那須隆)、1950年(昭和25年)2月の財田川事件(被告人・谷口繁義)、1950年(昭和25年)4月の牟礼事件(被告人・佐藤誠)、1950年(昭和25年)10月の梅田事件(被告人・梅田義光)、1951年(昭和26年)1月の八海(やかい)事件(被告人・吉岡晃/阿藤周平/稲田実/松崎孝義/久永隆一/真犯人は吉岡のみ)、1953年(昭和28年)11月の徳島ラジオ商事件(被告人・富士茂子)、1954年(昭和29年)3月の島田事件(被告人・赤堀政夫)、1955年(昭和30年)10月の松山事件(被告人・斎藤幸夫)・・・・・・。1949年(昭和24年)から1955年(昭和30年)にかけて起訴後に真犯人が現れた事件だけでも46件もあった。財田川事件、島田事件、松山事件の概要は死刑確定後再審無罪事件

12月20日、東京地裁で第1回公判が開かれた。平沢は、自供は心理的拷問、強制、捏造によるものだと主張し、犯行を否認した。

被害にあった3銀行の生き残り証人は全部で50人いたが、その証言によると、平沢がクロあるいはクロに近い説(「顔が似ている」も含む)が37.5%、シロあるいはシロに近い説は62.5%という結果であった。ちなみに、平沢が犯人であると証言したのは8%である。だが、この結果にしても警察の誘導が入りやすいので信用できない。

平沢は帝銀事件当日のアリバイを主張したが、それについて、6人の証人があったにもかかわらず、その「証拠がない」として採用されていない。

安田銀行での未遂事件に使われた「松井」の名刺については、実際に、平沢は青函連絡船の上で松井に会っていて名刺を交換しているが、そのとき、松井は自分の名刺の裏に<仙台市米ヶ袋上町十七番地>と自宅の住所を万年筆で書いて平沢に渡している。だが、犯行に使われた名刺の裏には何も書かれていない。

しかも、平沢はそのもらった名刺を財布に入れたままにしていたが、前年の夏に、満員電車の中でスリにあい、その財布を盗まれたと平沢は主張した。調べてみると被害届けが出されていた。

事件が起きた帝銀椎名町支店で、平沢の指紋は検出されていない。

「青酸化合物」としか特定できない毒物がなぜか「青酸カリ(またはソーダ)」に恣意的に変えられており、その入手経路も不明のままであったが、判決では、平沢が自宅に持っていたことになっていた。

1950年(昭和25年)7月24日、東京地裁で死刑を言い渡された。即日、被告側が控訴。

1951年(昭和26年)9月29日、東京高裁で控訴棄却判決。即日、被告側が上告。

1955年(昭和30年)4月6日、最高裁で上告棄却判決。

4月14日、異議申し立て。

5月6日、異議申し立て棄却。

5月7日、1審、2審通り、死刑が確定した。

5月10日から平沢は無実を訴え続け、再審請求を繰り返し、それは18回にも及んだが、いずれも棄却された。

1959年(昭和34年)、作家の松本清張は、著書『小説帝銀事件』(第16回文藝春秋読者賞受賞)で、1960年(昭和35年)、著書『日本の黒い霧』では、「帝銀事件の謎」と題して、「犯人は731部隊の元隊員」と推理、発表した。

松本は、平沢が事件直後に所持していた13万4000円の金の出所について、生活費を稼ぐため、春画を描いて売った金だから日本画の大家としてのプライドから白状できなかったと推論した。

小樽の親族によると、戦後に平沢は春画を描いていたという。また、横浜でも、平沢が描いたとされる春画が3枚見つかっているが、はっきりしていない。

1962年(昭和37年)4月12日、初代弁護団長の山田義夫弁護士が死亡。磯部常治(つねはる)弁護士が2代目弁護団長となる。

磯部常治・・・1956年(昭和31年)1月18日、東京都中央区銀座の磯部法律事務所に新橋の中華料理店の出前持ちの別府◇男(としお/27歳/◇は「ニンベンに次」)が忍び込んで磯部常治弁護士(当時62歳)の妻の文(52歳)と次女の恵以子(22歳)を殺害した。現金わずか800円と日本刀を奪って逃走し、2日後に自首。磯部弁護士は熱心な死刑廃止論者で、「被疑者が望むならいつでも弁護に立つ」と語って大きな反響を呼んだ。11月20日、東京地裁で死刑判決。控訴せずに死刑が確定した。1960年(昭和35年)、別府の死刑が執行された。

7月10日、平沢を犯人とする確定判決に疑問を持つ人が少なくなく「平沢貞通氏を救う会」(森川哲郎事務局長)が結成された。事件発生当時、捜査2課で捜査主任をしていた成智英雄(当時警視)は退職していたが、この救う会に進んで加入した。

森川哲郎の著書に、『帝銀事件』(三一書房/1964) の他、『満州暴れ者(もん)敵中突破五千キロ』(徳間書店/1972)/『朝鮮独立運動暗殺史』(三一書房/1976)/『世界脱獄史』(久保書店/1976)/『明治暗殺史 反権力とテロリスト』(三一書房/1977)、『幕末暗殺史』(三一書房/1978) /『日本史暗殺100選』(秋田書店/1978)/『日本迷宮入事件』(三一書房/1979)/、『日本快盗伝』(三一書房/1979)/『葉隠入門 覚悟を諭すもの、教えるもの!』(日本文芸社/1980)/『獄中三十二年』(徳間書店/1980)/『日本剣豪・名勝負100』(日本文芸社/1980)/『日本史・黒幕の実像 黒い実力者の謀略の論理』(日本文芸社/1980)/『江戸暗殺史』(三一書房/1981)/『登場英機暗殺計画』(現代史出版会/1982)/『戦国暗殺史』(三一書房/1982)/『戦後史・アメリカ謀略の謎』(日本文芸社/1982) /『日本残酷史 生埋め・火あぶり・磔・獄門・絞首刑・・・』(日本文芸社/1984)などがある。

その他、自民党の大野伴睦副総裁、作家の松本清張、国会議員や文化人、法曹関係者らが、死刑の執行停止や再審、恩赦の救援活動を展開した。

11月24日早朝、平沢貞通を東京拘置所から宮城刑務所仙台拘置支所に移送。それは秘密裡に行われた。

当時の東京拘置所には死刑を執行する設備がなく、関東矯正管区の拘置所の死刑囚は、みな宮城刑務所仙台拘置支所に送られて死刑執行されることになっていた。東京拘置所で死刑の執行が行なわれるのは1966年(昭和41年)からである。

ほとんどの死刑囚は、仙台拘置支所に送られてから1週間以内に処刑されていた。遅くてもそれは3ヶ月以内に行われた。

翌25日午前2時になって、「平沢貞通氏を救う会」の森川事務局長は、平沢が「仙台送り」になったことを知る。夜を徹して、死刑阻止嘆願書を書き、法務大臣に提出したあと、仙台に駆けつけた。その後、次々と仙台に代表を送った。

それは、平沢に恩赦請求の出願を承知してもらうためであったが、平沢は「私は罪を犯していません。そのようなものを出さねばならぬ負い目は微塵もありません」と言って拒否した。

恩赦請求は、一般的には罪を認めて、刑1等を減じるという性質のものであり、平沢は承知するはずはなかった。

だが、恩赦法の精神は、そのように狭く限定されたものではなく、誤判の場合、その救済措置として恩赦を適用することもあり、特赦の場合でも、原判決を否定し、無罪となって釈放されるものもある、とある。

平沢は、森川事務局長らの熱意に負け、恩赦請求書を書くことになった。

そのことを知った宮城刑務所所長の森八郎は、平沢の部屋までやってきて、「あなたの場合は、無実の主張だから、特赦請求以外にない。書式はこうして書きなさい」と言って、親切に教えた。

12月6日から、恩赦出願を5回に渡り行ったが、法務省に設置された中央更生保護審査会は、恩赦不相当の議決をした。

1963年(昭和38年)1月25日、平沢が獄中で描いた絵画の第1回個展が開かれる。

1964年(昭和39年)、森川哲郎の著書『帝銀事件』が三一書房より刊行される。

1967年(昭和42年)、甲斐文助警部の捜査記録が公表された。事件直後に顧問として招かれた石井四郎731部隊長が「犯人は軍関係者に違いない」と語っていたこと、731部隊が中国などで繰り返していた青酸毒物実験の手口が事件と同じだったことが暴露された。

1974年(昭和49年)11月15日、平沢は肝機能障害などを患い、東北大付属病院に約1ヵ月入院した。

1976年(昭和51年)2月11日、2代目弁護団長の磯部常治弁護士が死亡。中村高一(こういち)弁護士が3代目弁護団長になる。

1979年(昭和54年)4月、平沢の著書『遺書 帝銀事件 わが亡きあとに 人権は甦れ』が徳間書店より刊行される。

1981年(昭和56年)7月27日、3代目弁護団長の中村高一弁護士が死亡。遠藤誠弁護士が4代目弁護団長を務める。

遠藤誠・・・1930年(昭和5年)10月、宮城県大河原町に生まれる。1953年(昭和28年)東京大学法学部卒。参議院法制局・千葉地裁裁判官を経て、1961年(昭和36年)に弁護士登録。NHKの政見放送無断削除事件の東郷健、永山則夫連続射殺魔事件の永山則夫、反戦自衛官訴訟の各主任弁護人などの他、暴力団対策法反対を訴え、指定暴力団山口組の代理人にも就いた。オウム真理教の事件では、麻原彰晃から弁護を依頼されると「無罪の心証がもてない」と弁護人になることを断り、話題になった。また、「現代人の仏教の会」「弁護士会仏教勉強会」「心のふれあう会(社会科学研究会)」などを主宰。著書に『帝銀事件の全貌と平沢貞通』(現代書館)/『弁護士と仏教と改革』(現代書館)/『解読・組織犯罪対策法』(現代書館)/『フォービギナーズ般若心経』(現代書館)/『フォービギナーズ観音経』(現代書館)/『フォービギナーズ歎異抄』(現代書館)/『観音経の現代的入門』(現代書館)/『道元禅とは何か・正法眼蔵随聞記入門』(現代書館)/『絶望と歓喜・歎異抄入門』(現代書館)/『今のお寺に仏教はない』(現代書館)/『新右翼との対話』(彩流社)などがある。

遠藤は「GHQの圧力を受けた捜査本部が迷宮入りを避けるために 、平沢を “生け贄” とした可能性が高い」「帝銀事件は、自白が決定的証拠となった旧刑事訴訟法最後の事件でした。彼の自白にしても、拘禁ノイローゼで、刑事に誘導された可能性が高い。ズサンな鑑定、捏造された証拠によって刑が確定したのです」と語っている。

1982年、「平沢貞通氏を救う会」の事務局長の森川哲郎が死亡。平沢の養子となった平沢武彦(旧姓・森川、森川哲郎の長男)が「平沢貞通氏を救う会」事務局長になる。

1985年(昭和60年)4月5日、東京地裁に「昭和60年5月7日に釈放せよ」という人身保護請求を起こす。

平沢は1955年(昭和30年)4月6日に最高裁で1、2審の死刑判決が支持され上告棄却で死刑判決。その後、4月14日、異議申し立て。5月6日、異議申し立て棄却。5月7日、1、2審通り、死刑が確定した。それからもう1ヶ月ほどで30年が経とうとしていた。

刑法32条には「死刑の判決が確定してから30年間、死刑の執行がされないと死刑の時効が完成する」と規定されている。

刑法32条・・・時効は、刑の言渡しが確定した後、次の期間その執行を受けないことによって完成する。

 1 死刑については30年
 2 無期の懲役又は禁錮については20年
 3 十年以上の有期の懲役又は禁錮については15年
 4 三年以上十年未満の懲役又は禁錮については10年
 5 三年未満の懲役又は禁錮については5年
 6 罰金については3年
 7 拘留、科料及び没収については1年

だが、刑法34条には「死刑の時効は死刑執行のために拘束されていれば時効は中断する」とも規定されており、この「時効」の法の解釈をめぐって学者たちの間で意見が分かれたが、「拘置中の死刑囚であっても時効は完成する」という大多数の学説の応援のもとに、遠藤誠弁護団長は人身保護請求を起こしたのである。

刑法34条・・・死刑、懲役、禁錮及び拘留の時効は、刑の言渡しを受けた者をその執行のために拘束することによって中断する。

4月29日、93歳という高齢を理由に、平沢の身柄を仙台から東京の八王子医療刑務所に移す。

5月30日、東京地裁が人身保護請求を棄却。

即日、最高裁に特別抗告。東京地裁に死刑の時効完成による国家賠償請求訴訟を提起。

6月、平沢武彦の著書『壁に一枚の絵があって わが父は死刑囚・平沢貞通』(徳間書店)が刊行される。

7月19日、最高裁が人身保護請求の特別抗告を棄却。

刑法11条2項により拘置を継続しているときは死刑の時効は進行せず、したがって死刑の判決が確定した後、拘置したまま30年を経過しても、刑の時効は成立しない。刑法11条2項所定の拘置は、死刑の執行行為に必然的に付随する前置手続きであって、死刑の執行に至るまで継続すべきものとして法定されているのであるから、死刑判決確定後30年間にわたる拘置の後に死刑を執行しても、憲法36条にいう「残虐な刑罰」に当たらない。

8月、平沢貞通著&平沢武彦編の『祈りの画集 獄中37年、生と死のはざまより』がダイナミックセラーズより刊行される。

10月11日、平沢が前立腺肥大症のため手術を受ける。

1987年(昭和62年)3月5日、国際人権規約第17条による救済申立をジュネーブの国際連合人権センターとロンドンのアムネスティ本部に救済申立を提起。

アムネスティ・インターナショナル・・・amnesty international 1961年にイギリスの弁護士ベネンスンによって創設され、1977年にはノーベル平和賞を受賞した民間団体。あらゆる政治的権力・イデオロギー・宗教を超えて、特に(1)「良心の囚人」の釈放、(2)政治犯に対する公正かつ迅速な裁判を求めること、(3)死刑および拷問の廃止を目的とし、地球上いたるところに張り巡らされたネットワークによって世界的規模の人権擁護活動をしている団体。いかなる権力や勢力によっても影響されないようにするため、政府や財団などの財政的援助を受けることなく、150ヶ国にいる110万人(1993年現在)を超える会員によって支えられている。アムネスティが死刑制度に反対する根本的な理由は死刑が残虐な刑罰であり、生きる権利を否定するものであるからとしている。アムネスティ・インターナショナル / アムネスティ・インターナショナル日本

4月30日、アムネスティ本部から日本政府に「平沢貞通氏を獄外に出すべし」との勧告がなされる。

5月10日、平沢が八王子医療刑務所で肺炎を悪化させて死亡した。95歳だった。獄中生活は逮捕から約39年、死刑確定からは約32年に及んだ。日本の死刑囚としては長いほうで、また、これほどの高齢の囚人も例がなかった。獄中で描いた画は千数百点に達していた。

1963年(昭和38年)8月の波崎事件で死刑が確定した富山常喜(つねき/事件当時47歳)が2003年(平成15年)9月に東京拘置所で慢性腎不全によって死亡しているので約40年の獄中生活となり、平沢より長いことになる。ちなみに死刑確定からは約27年である。

死刑が執行されなかったのは、たびたび再審請求が出されたために、執行するタイミングが奪われたわけではなく、歴代法務大臣が死刑承諾書に判を押さなかったからである。

5月24日、青山葬儀場において平沢貞通の葬儀が行われた。

1988年(昭和63年)5月20日、平沢の獄中記『われ、死すとも瞑目せず』(毎日新聞社/平沢武彦編)が刊行される。

1989年(平成元年)5月10日、平沢の3周忌の命日に第19次再審請求を起こす。

2000年(平成12年)5月31日、平沢が描いたと思われる春画が小樽市で見つかった。事件直後に所持していた13万4000円の出所がはっきりしていなかったが、これが春画を売って得た金である可能性が高く、専門家の鑑定の結果次第では東京高裁に新証拠として提出する予定とのこと。

7月、平沢武彦編著の『平沢死刑囚の脳は語る 覆された帝銀事件の精神鑑定』がインパクト出版会より刊行される。

7月1日、北海道札幌市中央区に「平沢貞通人権記念館」をオープン。

2002年(平成14年)1月22日、4代目弁護団長の遠藤誠弁護士が肺ガンのため死亡。71歳だった。

2013年(平成25年)10月1日、再審請求人の平沢武彦(54歳)が東京都杉並区の住宅で死亡していたことが判明。再審請求中に請求人が死亡した場合、請求手続きはいったん終了する。

12月2日、東京高裁(小西秀宣裁判長)が再審請求人となっていた平沢武彦が亡くなったため、第19次再審請求の手続きを終了する決定をした。

2015年(平成27年)11月24日、平沢貞通の遺族が第20次の再審請求を東京高裁に申し立てた。有罪が確定した本人が死亡した場合に再審請求できるのは、配偶者か直系親族、兄弟姉妹に限られる。弁護団は元死刑囚の直系の親族を新たな再審請求人とした。新証拠としては、捜査段階で自白した平沢や目撃者の調書を心理学の観点から分析した鑑定などを提出した。

【 毒物の推理 】

神奈川大学教授の常石敬一が自著『毒 社会を騒がせた謎に迫る』(講談社/1999)の中で帝銀事件の毒物について詳細な推理を展開している。その内容は次の通り(< >内)。

『毒 社会を騒がせた謎に迫る』

常石敬一・・・1943年(昭和18年)東京生まれ。東京都立大学理学部卒業。東京大学工学部及び東京農業大学農学部助手を経て、1983年(昭和58年)、長崎大学教授。1989年(平成元年)より神奈川大学経営学部教授。現在、神奈川大学経営学部及び大学院経営学研究科教授。専門分野は科学史、科学社会学、生物化学兵器軍縮。主な著書に『消えた細菌戦部隊』(ちくま文庫) / 『医学者たちの組織犯罪』(朝日文庫) / 『20世紀の化学物質 人間が造り出した毒物 NHK人間講座』(日本放送出版協会)など多数。

<帝国銀行で被害者が飲んだときに使用した茶碗に、残っていた薬液がごく少なく、判定に苦しんだが、その液体からは青酸化合物の反応がほとんど、あるいはまったくなかったにもかかわらず、犠牲者の体内からは、胃からも血液からも、高い濃度の青酸化合物が検出された。高濃度の青酸化合物が検出されたということは、第1の薬が青酸化合物だとすると、1分後に、第2の薬を飲むまで我慢できるとは考えられないという。青酸カリウムよりも遅効性のあるアセトシアンヒドリン(青酸ニトリル)を致死量ぎりぎりに与えたのではないかと考えられたが、この推測では、犠牲者の胃や血液中の高濃度の青酸基について説明がつかない。また、それほどの遅効性でもない。この事件が青酸化合物による毒殺で、第1薬自体が青酸系の毒物だったとすると、被害者の毒物を摂取したあとの経過と解剖結果とでは大いに食い違いがある。第1薬はのどが焼けつくような刺激があったが、誰も体調異変を感じていない。第2薬はのど越しは通常の水のようであったが、飲んだ直後に全員が体調異変を感じ、早い人は数分で死んでいる。犠牲者は青酸化合物で死んでいるが、犯人はなぜ、2回に分けて毒物を飲ませたのか。・・・(中略)・・・当時、青酸カリの最低致死量は不明であった。各国の文献では、小動物の実験から、体重比例で推算した、0.15〜0.3グラムが人体の青酸カリ極量とされていた。死亡に要する時間についても、10数秒の早さで窒息死するという程度であった。

1969年に米国で発表されたデータによると、青酸カリウムによる推定致死量は5mg/kgになっている。これは体重50キロの人の場合では、5×50=250mgつまり、0.25g摂取すると死ぬ危険が高いということになる。

ところが、犯人は、1分後の初期中毒症状、4、5分後の中毒死をもたらす最低致死量を心得ていたのである。これは戦時中、ハルピンで、マルタ(満州法廷で死刑囚となった者など)を使い、反復実験し、青酸化合物による中毒死のデーターを完成させていた731部隊(石井部隊)関係者が知っていた事実であった。また、731部隊の隊員は、「人体実験の事実」を墓場まで持って行くようにということで、捕虜になりそうになったら自殺するようにと、青酸カリウムを渡されていた。犯人が持っていたケースは戦時中、軍医が野戦用として携帯した小外科器のケースに最も似ていた。スポイトは正確には短形駒込型ピペットで軍の特殊部隊のみが特に発注して作った軍医の野戦携帯用のものであった。これらのことからも、戦時中、細菌戦を研究していた731部隊関係者の線が浮かび、捜査が進められていたのだが・・・。GHQは731部隊に対し、極東国際軍事裁判で戦犯免責にするという条件と引き換えに、731部隊が持っていた細菌戦や生体実験データを入手していた。だが、この帝銀事件が起こったことにより、GNQはデータを入手したという事実が発覚することをおそれて、日本警察に対し圧力をかけたという疑いがある。毒薬兵器の使用は、「陸戦の法規慣例に関する条約」(1907年のハーグ条約)で厳禁されており、細菌等の化学兵器の使用は、「窒息性、毒性またはその他のガス及び細菌学的戦争方法を戦争に使用することを禁止する議定書」(1925年のジュネーブ議定書)で厳禁されている。だから、GHQはデータを入手したという事実が発覚することをおそれていたのである。だが、731部隊員は、特に青酸などの毒物の扱いに慣れていたわけではなかった。そうしたものの扱いに慣れていたのは別の部署だった。東京の第6陸軍技術研究所、陸軍習志野学校、満州第516部隊だった。これらは、それぞれ化学兵器(毒ガス)の研究、教育、それに、実戦試用開発を受け持っていた。さらに、アセトシアンヒドリンを研究していたのは、謀略戦研究を受け持っていた第9陸軍技術研究所だった。

第6陸軍技術研究所・・・第1から第9まであった研究所のうちのひとつ。陸軍には他に多摩陸軍技術研究所があった。6研は600人規模で化学兵器の研究を行っていたが、第1次世界大戦で使用された化学兵器以外新しい毒ガスを開発することはできなかった。
陸軍習志野学校・・・陸軍の兵士に対して、化学兵器の使用および防護の方法とその実践を教えていた学校。
満州第516部隊・・・関東軍化学部ともいう。化学兵器の実戦使用の研究を目的とした部隊。
第9陸軍技術研究所・・・所在地から登戸研究所とも呼ばれている。偽札、ヘビ毒、小型拳銃、風船爆弾など謀略兵器の研究開発を受け持っていた。

・・・(以下、省略)・・・>

この他にも毒物について推理している書籍として『謎の毒薬 推究帝銀事件』(講談社/吉永春子/1996)や『科学捜査論文「帝銀事件」 法医学、精神分析学、脳科学、化学からの推理』(東京図書出版会/中村正明/2008)がある。

この事件を元に製作された映画に『帝銀事件 死刑囚』(DVD/監督・熊井啓=第1回監督作品/主演・信欣三/2007)がある。

横溝正史の小説に『悪魔が来たりて笛を吹く』という作品があるが、この帝銀事件からヒントを得て書いたようだ。この小説では「天銀堂事件」となっている。のちに映画化された。

『悪魔が来たりて笛を吹く』(監督・松田定次/主演・片岡千恵蔵/東映/1954)
『悪魔が来たりて笛を吹く』(監督・斎藤光正/主演・西田敏行/東映/1979)

メディアプロジューサーとして活躍していた故・酒井政利によると、自分の母親が平沢の絵のモデルになったことがあるという。それは間違いのない事実のようであるが、それに絡んだ話で、1972年(昭和47年)、酒井がCBSソニーのプロジューサーだった頃、酒井は平沢と愛人(酒井の母親)との間にできた子どもではないかという「疑惑」記事が雑誌に掲載された。酒井はその真相を確かめるため、仙台拘置支所に収監されている平沢を訪ねたが、規則で肉親以外の面会はできないということであった。その後、平沢は弁護士に、酒井は自分の子であるかもしれないと話したという。だが、平沢の持病の虚言癖だと指摘した人もいた。真実を知っている酒井の母親は何も語らず他界したようだが、酒井は母親の気持ちを大切にして、以後、この疑惑の詮索は一切やめ、ある年のボーナス全額を「平沢さんを救う会」に寄付して、自分なりにこのことは終わりにしたという(←某週刊誌に掲載されていた記事ですが、雑誌名を忘れてしまいました。すみません)。

参考文献など・・・
『帝銀事件の全貌と平沢貞通』(現代書館/遠藤誠/2000)
『疑惑α 帝銀事件』(講談社出版サービスセンター/佐伯省/1996)

『ドキュメント 帝銀事件』(晩聲社/和多田進/1994)
『犯罪の昭和史 2』(作品社/1984)
『毒 社会を騒がせた謎に迫る』(講談社/常石敬一/1999)
『謎の毒薬 推究帝銀事件』(講談社/吉永春子/1996)
『権力の犯罪』(講談社文庫/高杉晋吾/1985)
『科学捜査マニュアル』(同文書院/事件・犯罪研究会編/1995)
『日本の黒い霧 全』(文芸春秋/松本清張/1975)
『昭和史の謎を追う 下』(文藝春秋/秦郁彦/1999)
『小説帝銀事件』(講談社文庫/松本清張/1980)
『謀略のクロスロード 帝銀事件と731部隊』(日本評論社/常石敬一/2002)
『帝銀事件裁判の謎 GHQ秘密公文書は語る』(現代書館/遠藤誠/1990)
『毒殺 小説・帝銀事件』(廣済堂出版/金井貴一/1999)
『検事聴取書全62回 帝銀事件の研究 <1>』(晩聲社/竹澤哲夫/1998)
『ドキュメント帝銀事件』(ちくま文庫/和多田進/1988)
『帝銀事件の真実 平沢は真犯人か?』(講談社/ウィリアム・トリプレット/1987)
『もうひとつの「帝銀事件」 二十回目の再審請求「鑑定書」』(講談社選書メチエ/浜田寿美男/2016)
『刑事一代 平塚八兵衛聞き書き』(新潮文庫/佐々木嘉信/2004)
『八兵衛捕物帖』(旺文社文庫/比留間英一/1985)
『科学捜査論文「帝銀事件」 法医学、精神分析学、脳科学、化学からの推理』(東京図書出版会/中村正明/2008)
『読売新聞』(1996年2月24日付/2013年10月2日付/2013年12月3日付)
『毎日新聞』(2002年1月23日付/2015年11月24日付)

関連サイト・・・
帝銀事件ホームページ

[ 事件 index / 無限回廊 top page ]