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永山則夫連続射殺魔事件

【 事件発生 】

  殺害日時
1968年
(昭和43年)
殺害現場 被害者 被害者の
職業
被弾 死亡するまでの
時間
その他
東京事件 10月11日
午前0時50分ころ
東京プリンスホテル
本館南側の芝生上
中村公紀
(27歳)
ホテルの
ガードマン
2発 約10時間15分 遺留品として
アメリカ製
「M」刺繍の
ハンカチ
京都事件 10月14日
午前1時35分ころ
八坂神社境内の
本殿前
勝見留次郎
(69歳)
神社の
警備員
4発 約3時間30分 遺留品として
アメリカ製
ジャックナイフ
函館事件 10月26日
午後11時15分ころ
亀田郡七飯町路上の
タクシー内
斎藤哲彦
(31歳)
タクシー
運転手
2発 約9時間 被害品として
現金約9000円
名古屋事件 11月5日
午前1時25分ころ
港区七番町路上の
タクシー内
伊藤正昭
(22歳)
タクシー
運転手
4発 約5時間 被害品として
現金7420円と
腕時計

[ 東京事件 ]

1968年(昭和43年)10月11日午前0時50分ころ、永山則夫(当時19歳)は、港区芝公園にある東京プリンスホテル本館南側のプールサイドの芝生のところで、約1メートルの至近距離から、ホテルのガードマンの中村公紀(27歳)に向けて、ピストル(22口径の回転式6連発拳銃)を2発発射。撃たれた中村はその後、病院に運ばれたが、約10時間15分後に死亡した。

[ 京都事件 ]

1968年(昭和43年)10月14日午前1時35分ころ、永山は京都市東山区の八坂神社境内の本殿前で、神社の夜警員の勝見留次郎(69歳)に向けて、約1.5メートルの至近距離から、ピストルを4発発射。撃たれた勝見はその後、病院に運ばれたが、約3時間半後に死亡した。

警察庁は、東京プリンスホテルのガードマン射殺事件に使われたピストルの弾丸と、八坂神社での警備員殺しに使われたピストルの弾丸を比較。ともに22口径の回転式拳銃で、弾条が8条であることや、弾丸の重量が、ともに1.8グラムであること、真ちゅうのような黄色い金属を吹きつけたナマリ弾を使用していることなどから、同一のピストルから発射された犯行であると断定した。

また、警察庁所管の科学警察研究所では、2つの事件現場の状況を照合した結果、ともに、(1) 現場がホテルと神社で閑静な人通りの少ない場所であること、(2)いずれも犯行時間は交通機間が絶えた深夜である、(3)動機が不明、(4)射殺されたのは、ともに警備員であり、撃たれた部位がともに、頭で、左こめかみ中心である、発射距離は、1、2メートルであり、ピストルの射撃がうまい、などの状況から同一犯と断定した。

10月18日午後5時、警察庁は、広域重要「108号事件」に指定、大規模な捜査に乗り出した。警察庁広域重要指定事件

10月22日、警察庁は、八坂神社の殺害現場から、約40メートル離れた茂みの中に、刃が1枚出たままの状態で捨てられていた、アメリカ製らしきジャックナイフは、犯人の遺留という見方を強めた。同じ型のナイフは国内では在日米海軍の厚木航空基地、横須賀基地などで、身分証明書を持つ人のみ、限定販売されていることを突き止めた。また、プリンスホテルの殺害現場に残されていた、「M」刺繍入りハンカチもアメリカ製のものと判明した。

10月19日夕方、永山は京都の事件から5日後、上野駅から青森行きの普通列車に乗った。北海道へ渡り、生まれ故郷の網走で自殺しようと考えたからだ。服装は、黒っぽい背広上下に白ワイシャツとネクタイ。茶色の革靴を履き、ピストルは、皮手袋で包んで、背広の左内ポケットに入れていた。

10月20日昼ごろ、青森駅に着いた。その後、青函連絡船に乗る。

10月21日の夜明け前、函館に着いて札幌行きの急行列車に乗った。

この頃、永山が丁度、北海道を渡り歩いていたとき、参考書『中学・社会科学習小辞典』の16ページに渡り、上の空欄に1行ずつ、こんなメモ書きを残している。

《私の故郷(網走)で、消える覚悟で帰ったが、死ねずして函館行きの鈍行に乗る。このone week どうして、さまよったか分からない。私は生きる。せめて二十歳のその日まで。最悪の罪を犯しても、残された日々を、せめて、充たされなかった金で生きると決めた。母よ、私の兄、姉、妹よ、許しは乞わぬが私は生きる。寒い北国の最後と思われる短い秋で、私はそう決めた》

[ 函館事件 ]

1968年(昭和43年)10月26日午後11時15分ころ、永山は函館市郊外の北海道亀田郡七飯(ななえ)町の路上の帝産函館タクシー内で、運転手の斎藤哲彦(31歳)に向けて、ピストルを2発発射。翌27日午前7時ころ、自宅の玄関先に停められていた不審な車を主婦が発見。車内を見ると、運転手が血まみれになっていた。その後、病院に運ばれたが、約9時間後に死亡した。このとき、永山は現金約9000円を奪っている。

その後、永山は青函連絡船で再び青森へ戻り、上野行きの鈍行に乗り、11月2日の夕方、横浜駅から普通列車で名古屋へ向かった。

[ 名古屋事件 ]

1968年(昭和43年)11月5日午前1時25分ころ、永山は名古屋市港区七番町路上の八千代タクシー内で、運転手の伊藤正昭(22歳)に向けて、ピストルを4発発射。撃たれた伊藤はその後、病院に運ばれたが、約5時間後に死亡した。このとき、永山は現金7420円と腕時計を奪っている。

【 逮捕 】

11月6日、前日の名古屋事件での弾丸を東京の科学警察研究所で鑑定した結果、東京事件と京都事件の弾丸と同じ箇所にせんきゅう痕があり、同一のピストルから発射された弾丸と判断。警察庁は「108号」事件と同一犯人と断定した。

11月13日、警察庁は、函館事件が「108号」事件ときわめて似ているとして、科学警察研究所で、弾丸の鑑定を進めていたが、その結果、「108号」事件と同一犯人と断定した。

11月14日夜から15日朝にかけて、警視庁は「108号」事件の犯人逮捕と、第5の犯行防止のため、東京都内全域のホテル、旅館、簡易宿泊所4942ヶ所の「一斉大立ち入り検査」を行った。

また、午後10時から午前4時ごろまで、都内の有名ホテルや公園、神社仏閣、盛り場のタクシー乗り場、主要駅周辺などに私服刑事を張り込ませ、「1人歩きの不審な若い男」を警戒した。

現場警戒は、連日交代で行われ、動員人数は、機動隊150人、機動捜査隊、白バイ隊650人、パトカー150台など、計8000人に上った。

さらに、11月16日、警察庁は、犯人が立ち回りそうなホテル、旅館、モーテル、食堂、駅などの一斉捜査を全国の警察に指示した。

午後7時から17日朝にかけて、全国13万6000ヶ所で不審者の聞き込みを実施した。犯人逮捕に、動員された制服、私服警官の数は、約7万人に上った。

また、タクシー運転手のあいだで、「深夜の男の1人客だけは乗車拒否」というケースが続出した。

警察はこの頃、「108号」事件の容疑者として、8万人をリストアップしていた。その8万人の中に永山則夫の名前も含まれていた。

12月4日、永山は新宿区歌舞伎町の「スカイコンパ」で、午後4時半から午前2時まで、ボーイとして働き始めた。ときにはカウンター内でバーテンをやることもあった。見習いということで、月給は3万8000円。勤務態度は、最近の若い者には珍しく、素直に言われたことを守り、他の者に比べて、非常に目立つ仕事ぶりだった。

12月10日、東京都府中市で「3億円事件」発生。

1969年(昭和44年)1月上旬、だが、年明け早々、無断で3日ほど休んでしまったので、解雇されてしまった。

1月8日、永山は新宿区歌舞伎町にある喫茶&酒も飲ませるモダンジャズの店「ビレッジバンガード」で、遅番として午後9時から翌朝5時までボーイとして働き始めた。午前9時まで残業することも多かった。給料の支給額は、本給が2万7000円で残業手当と歩合があり、総額で4万から4万5000円ぐらいだった。真面目で明るい性格だったと評判が良かったらしいが、同じ頃、ビートたけしが早番で働いていて、永山とはほとんど話したことがなく、永山に対しては「暗いヤツ」という印象しかなかったという。永山の逮捕後に他の人から事件を起こしたのが「ビレッジバンガード」で働いていた「永山」という男だと知らされ、そのときに初めて「永山」という名前を知ったらしい。のちになって、永山がこの店の常連客だった女性と付き合いがあったことが分かる。

1月19日、学生が占拠していた東大安田講堂が2日間の攻防の末に“落城”。

東大闘争と日大闘争

3月中旬になると、永山は遅刻するようになった。原因はお店が終わってからのパチンコだった。午前10時ごろから始めて、寝るのが午後3時か4時だったのでよく遅刻した。

4月4日、永山はこの日を最後に「ビレッジバンガード」には出勤していない。

4月7日午前1時20分ころ、東京都千代田区神田神保町にある日本警備保障会社の管制室で、渋谷区千駄ヶ谷3丁目にある「一橋スクール・オブ・ビズネス」と管制室をつなぐ赤い警報ランプが点きっ放しになった。それは、侵入者を告げるランプだったため、宿直の班長は現場に近いと思われるガードマン2人をポケベルと無線で呼んだ。

午前1時32分、新宿の伊勢丹わきを車でパトロールしていた日本警備保障会社のガードマンの中谷(なかや/当時22歳)がこの無線をキャッチ。中谷が現場にかけつけると、通りがかりの牛乳配達に110番を頼んだ。そして、合鍵で開けて、玄関から入り、カウンター越しに見ると、事務室の中のロッカーや机の引出しがあちこち開いていた。「誰だ」と叫んで、カウンターの向こうをライトで照らすと、男がじっとうずくまっていた。

男は永山則夫だった。所持金がわずかで、遊ぶ金欲しさに盗みに入ったのだった。永山は静かに立ち上がり、中谷にピストル向けた。中谷はビックリして後ずさりした。永山はピストルを発射し、弾は中谷の右ほおをかすめた。永山はロビーに出て、中谷の顔にピストルを突きつけた。中谷は顔を伏せて、警棒を振った。2度目の発射音がしたが、ピストルが警棒に当たり、永山はピストルを落とした。中谷はおどりかかって、警棒でおさえたが、永山はピストルを拾って外へ逃げ出した。

このとき、現場に着いた日本警備保障会社のガードマンの佐々木(当時21歳)が、警棒で永山の手を殴った。永山はピストルを落としたが、すぐ拾って佐々木の顔を狙ってきた。佐々木は電柱に隠れ、永山が逃げ出したのを見て、約300メートル追いかけたが、男を見失った(原宿事件)。

通報を受けた警視庁代々木署の警官3人は、午前5時ごろ、パトカーで渋谷区北参道をUターンした直後、右手の歩道を歩いている永山に気づいた。やや青みがかったジャンパーとジーパンが、手配の男であることを表していた。パトカーを男の前につけ、飛び下りて男を囲んだ。

警官が「どこからきた」と訊くと、永山は「新宿からだよ。バーテンだ。これからマラソンに行く」と答えた。警官が永山の胸をポンポンと叩くとゴツンとした手触りがした。ピストルだった。警官が「原宿でやったろう」と言うと、永山はこっくりとうなづいた。

【 本人歴 】

1949年(昭和24年)6月27日、永山則夫は、8人兄弟の四男、7番目の子として、北海道網走市呼人(よびと)番外地で生まれた。父親はバクチに手を出し、持ち金をどんどんつぎ込んでいった。やがて、子どもたちに食べさせる明日の米まで持ち出して売るようになった。そのため、母親は子どもたちを連れ、家を出て、網走港の近くに移り住んだ。母親はそこで、行商として働くことになる。

高校生だった長男は女友達を妊娠させ、家を出た。その子どもを中絶できず、母親が引き取った。一方、長女(当時24歳)は精神に異常をきたして、網走の精神病院に入院した。

母親は「このままでは一家共倒れになるから」と、則夫より12歳上の次女、2つ年下の妹と、長男の生ませた母親のない孫を連れて、実家のある青森県北津軽郡板柳町へ帰ろうと決意した。

1954年(昭和29年)の秋、則夫が5歳のとき、母親は次兄と三兄、三姉、それに則夫の4人の子どもを網走に残して、実家に帰ることになった。母親を見送るため、ホームにいた則夫は列車が動き出したとき、「かあちゃん、おらも連れていってくれ」と、母親を追いかけるように、泣きながら走っていったという。

その後、姉は新聞配達、兄たちは鉄くず拾い、則夫は港で魚を拾ったり、恵んでもらったりして、子どもたちは厳しい冬を過ごした。当時、4人はみな衰弱しきっていたという。

1955年(昭和30年)の春、見かねた近所の人が福祉事務所に通報したため、則夫ら4人は、青森の母親の元へ引き取られていった。

1956年(昭和31年)4月、町立板柳小学校に入学。成績はほとんどの科目が「2」と「3」だった。2年生のころから沈みがちになり、学校へは行かず町を流れる岩木川で遊び、自転車を盗むこともあったようだ。

2年生の冬に、母親が「学校へ行きなさい」と叱ると、「北海道にいる姉のところに行く」と言って家出。青函連絡船で函館に着いたところで保護され、母親が則夫を迎えに行った。

4年生のころから、兄に言われて新聞配達を始めた。当時、新聞少年には町内の映画館で映画を見られるパス券が配られた。家が貧しいため、テレビがなく、則夫にとって、このパス券を使って映画を観るのが唯一の楽しみだった。特に『大脱走』が好きだったという。

『大脱走』 ・・・1963年(昭和38年)製作のアメリカ映画で監督はジョン・スタージェス、出演はスチィーブ・マックィーン他、多数。

1962年(昭和37年)4月、町立板柳中学校に入学。服装が汚く、貧しさからバカにされ、家出のこともバカにされ、友達も作れず、学校は休みがちになり、家に引きこもっていた。家出を繰り返す則夫に対して、兄たちは毎日のようにリンチを加えた。

12月、父親が岐阜で亡くなった。母親は父親の遺骨を引き取りに岐阜まで行った。

2年生になって、則夫はほとんど登校しなくなった。3年生の1学期に、担任の教師が家にきて、則夫に注意した。そのとき、則夫は「行きたくないから行かないのだ」とにらみ返している。担任があきれて顔を2、3回殴ると、則夫は翌日、再び家を出た。自転車で山形まで行き、山形から東京行きの汽車に乗った。金が足りなくなって、福島駅で下車したところを、鉄道公安員に捕まり、母親と担任が福島まで引き取りに行っている。

1964年(昭和39年)10月1日、東京ー新大阪間に初めて東海道新幹線が開通。10月10日、東京オリンピック大会が開かれ、日本は高度経済成長の真っ只中にあった。

1965年(昭和40年)3月、則夫は板柳中学校を卒業した。出席日数が足りずに、認定卒業であった。このときの卒業アルバムになぜか、則夫の名前は載っていない。則夫は陸上部に入っていたが、駅伝大会で優勝したときの写真では、則夫は3年生として載っている。

企業から求人が殺到した中卒者は、当時、“金の卵” と言われていた。則夫もそのうちの1人だった。

3月27日、則夫はボストンバッグに衣類と中学の教科書を入れ、集団就職の特別列車に乗って、憧れの東京へ初めてやってくることができた。青森発の特別列車には、同じような 金の卵 が500人ほど乗っていた。そして、34人の仲間と一緒に、渋谷区の「西村フルーツパーラー」に就職した。「手でものを作るのが好きだから」というのが、則夫の入社志望動機だった。

「西村フルーツパーラー」の寮で、新人研修が行われた。「給料は誰からもらうか?」という質問が出されると、誰もが「社長」と答えた。しかし、則夫だけは「お客様からです」と言って、誉められた。実はこの模範回答は研修のテキストに載っていたのだ。月給は8000円だった。研修には発声練習が含まれ、東北訛りを矯正するが、北海道生まれの則夫は訛りがないので目立ち、好きな言葉を問われて<努力>と書いた。

店の果物売り場に配属された則夫は、同僚の中で、誰よりも早く髪を伸ばし、ネクタイを付け、女子店員には人気があった。だが、無口で、友達付き合いも悪く、引っ込み思案な子だった。寮の中で、読書していることが多く、寮内で同僚が騒いでいても、隅の方で、独りで戦記ものなどの本を読んでいた。休日になると、独りで映画を観に行ったり、中学時代の教科書を引っ張り出して、読んでいたりしたこともあったという。また、男子寮のクラブ活動では陸上部に入り、明治神宮の外苑でランニングすることもあった。

7月29日、「少年ライフル魔事件」発生。

[ 少年ライフル魔事件 ]

7月29日午前11時ごろ、元厨房員見習いの片桐操(当時18歳)は、ライフル銃を手に神奈川県座間町(現・座間市)の山林をぶらついていた。巡回中の巡査A(21歳)が見つけ職務質問した。片桐はいきなり巡査を銃で殴りつけ拳銃を奪った。取り戻そうとする巡査に拳銃を発射した。銃声を聞いて駆けつけた巡査B(当時23歳)にも拳銃を発射させ重傷を負わせた。巡査Aはその後、病院に運ばれたが、午後2時半ごろ、死亡した。そのあと、運転手ごと車を奪い、運転手を人質に車を運転させ、途中、車を3台乗り換え、逃走。午後5時ごろ、以前、入ったことのある、渋谷の「ロイヤル銃砲火薬店」に押し入り、店員の男女3人と女性店員の妹を人質に、包囲する警官隊や報道陣、野次馬に向けて、ビールをあおりながら、ライフル銃で133発を発射。近くを走る山手線が開通以来、初めての全線ストップ。これで、18人が重軽傷を負うことになった。午後7時20分ごろ、警官隊がガス弾を店内に撃ち込んだ。片桐はたまりかねて、裏口から女性2人を楯に道路に飛び出した。このとき、片桐の隙を狙って人質の男性店員が、持っていたライフル銃の銃身で片桐の頭を殴った。転倒しながらも、さらに、片桐は何発か撃ったが、結局、これで8時間に及ぶ西部劇もどきの市街戦は終幕となった。警察の取り調べに、片桐は「好きな銃を思いっきり撃ってスカッとしたかっただけ」と供述した。裁判の結果は1審では無期、2審で死刑、最高裁では2審の判決が支持され死刑が確定した。1972年(昭和47年)7月21日、死刑が執行された。25歳だった。

則夫は同僚とこの事件を現場で目撃したが、このとき、則夫が異常な興奮ぶりだったから、「ちょっと永山は変わっている」と、職場の話題になり、そのことで同僚にからかわれると、ムキになって怒るなどして、かなり男子寮で孤立していた。

9月24日、則夫は掃除をさぼったことで、上司に叱られ、「会社を辞める」と言い出した。翌日も掃除をしなかったため、上司に再び、叱られ、則夫はそのまま出ていってしまった。

則夫はそのあと、杉並区の牛乳販売店で働く三兄の家を訪ね、1晩泊めさせてもらったが、兄から「会社へ戻るように」と言われ、出て行った。

9月25日、東横線で桜木町まで行き、横浜埠頭をウロウロしているうちに、映画『チコと鮫』で観た南の島へ行きたいと思い、密航を企てた。それで、イギリスの貨物船「マスクライン」に無断で乗船したが、外洋上で見つかってしまい、いったん香港に着いたものの、デンマークの貨物船に乗せられて強制送還。横浜海上保安部によって逮捕され、出入国管理法違反などによって、横浜地検に書類送検された。

『チコと鮫』・・・1962年(昭和37)制作のイタリア映画で、監督はドキュメンタリーを得意としたファルコ・クイリチ。

10月20日、則夫は栃木県小山市の長兄の家へ引き取られた。「手に職を付けろ」という長兄の勧めで、宇都宮市の「共立自動車」に整備工として勤める。月給1万2000円。

11月8日、宇都宮市内の食肉店のレジを開けようとして気づかれ、約200メートルほど逃げたが、警察によって取り押さえられた。警察は、今度ばかりは「改悛の情なし」として、11月10日、宇都宮少年鑑別所に収容され鑑別考査に付された。

健康診断で「疾病異常はなし」、既往症は「幼少時より蓄膿症」、総評として「体格栄養は可」、精神状況は「知能は準普通級(IQ89)。やや主観的傾向が強く、独断的に事の解決を計ろうとする。計画性はあまりなく、粘りがなく、飽きっぽい。他人に対する共感性が薄く、社交的にふるまわない」。

11月22日、則夫は、宇都宮家裁の審判で「不処分」となり、「共立自動車」に復職。12月10日、この日はボーナス支給日だったが、則夫は「自分だけもらえないのはおかしい」と不満を口にしたため解雇された。

1966年(昭和41年)1月上旬、則夫は、ヒッチハイクでトラックを乗り継ぎ、当てもなく大阪にたどり着き、大阪府守口市の米屋で住み込みで働くことになった。月給1万5000円。そのうち、5000円を青森にいる母親宛てに仕送りしていた。

則夫は米屋の店主から、戸籍謄本の提出を求められていた。それで、青森にいる母親に頼んで戸籍謄本を取り寄せてもらったのだが、則夫はその戸籍謄本を見て愕然とした。出生地に<網走呼人村番外地>と記入されていたからだ。当時、高倉健主演の『網走番外地』という刑務所シリーズの映画とその主題歌がはやっていた。則夫は「映画『網走番外地』のように、刑務所生まれと間違えられるから、番地を付けてください」と、母親を介して、町役場に懇願したが、相手にされなかった。ある日、机の引出しに隠しておいた、その戸籍謄本を店主の奥さんに見られてしまう。米屋の同僚からは何度もギターで『網走番外地』の主題歌を弾きながら、「お前、網走番外地で生まれたんだってな」と訊かれた。

歌の『網走番外地』[1965年(昭和45年)] は2種類あり、そのうちのひとつの歌詞には、「酒」を「きす」、「娘」を「スケ」と読むヤクザ用語があるにはあるが、格別問題になる語句や言い回しがあるわけではない。だが、歌全体のイメージが犯罪を肯定し反社会的な風潮を助長するおそれがあると判断され、民放連が策定していた「要注意歌謡曲指定制度」(現在、この制度はない)で1979年(昭和54年)まで指定を受けた。この指定を受けている期間中だと思われるが、『網走番外地』を生放送のワイドショーで歌った人がいる。当時、プロボクサーでWBC世界フライ級チャンピオンのガッツ石松がその人で、台本では『長崎は今日も雨だった』を歌う予定だったが、「尊敬する高倉健さんに捧げたい」と言ってフルコーラス歌った。この歌がランクAの「要注意歌謡曲」に指定されていることをその番組のプロジューサーやディレクターをはじめ他のスタッフの誰一人として知らなかったらしい。だが、これで実害を受けた者は一人もいなかったし、始末書を書くこともなかった。『網走番外地』と同じように「退廃的・虚無的・厭世的言動を肯定的または魅力的に表現したもの」(「要注意歌謡曲取扱い内規」より)として『ネリカンブルース』(「ネリカン」・・・練馬鑑別所)が指定されている。ちなみに、「要注意歌謡曲指定制度」には、なぎら健壱の『悲惨な戦い』や山平和彦の『放送禁止歌』は記載されているが、一般に放送禁止歌と言われている『イムジン河』『手紙』『自衛隊に入ろう』『竹田の子守唄』の記載はない。

主演・高倉健の東映映画『網走番外地』シリーズは全部で18本?ある。

監督・石井輝男による作品は10本あり、1965年(昭和40年)封切りの『網走番外地』 『続・網走番外地』 『網走番外地 望郷編』 、1966年(昭和41年)封切りの『網走番外地 北海編』 『網走番外地 荒野の決闘』 『網走番外地 南国の対決』 『網走番外地 大雪原の対決』 、1967年(昭和42年)封切りの『網走番外地 決斗零下30度』 『網走番外地 悪への挑戦』 『網走番外地 吹雪の斗争』

監督・マキノ雅弘による作品は1968年(昭和43年)封切りの『新網走番外地』

監督・佐伯清による作品は1969年(昭和44年)封切りの『新網走番外地 さいはての流れ者』

監督・降旗康男による作品は6本あり、1969年(昭和44年)封切りの『新網走番外地 流人岬の血斗』、1970年(昭和45年)封切りの『新網走番外地 大森林の決斗』 『新網走番外地 吹雪のはぐれ狼』、1971年(昭和46年)封切りの『新網走番外地 嵐を呼ぶ知床岬』『新網走番外地 吹雪の大脱走』、1972年(昭和47年)封切りの『新網走番外地 嵐呼ぶダンプ仁義』

6月下旬、則夫は逃げるようにして、米屋を辞め、東京に戻った。その後、新聞の求人広告を見て、池袋東口の喫茶店「エデン」に応募。住み込みで働くことになったものの、またも、同僚とトラブルを起こしたため、それまでの給料を受け取らずに辞めている。

7月中旬、新聞の求人広告を見て、羽田空港内の「東京エアターミナルホテル」に応募。ベル・ボーイに採用され、ホテルの寮から通勤を始めたが、いつのまにか、断りもなく辞めてしまった。

8月下旬、浅草でテキ屋手伝いの後、横浜で “立ちん坊” の沖仲仕になる。

9月6日、神奈川県横須賀市の米海軍横須賀基地に侵入し、米ドルなどを盗んだところを見つかり警察に逮捕される。この頃、留置所内は、アメリカ原子力潜水艦「スヌーク」の寄港反対デモで逮捕された学生であふれていた。則夫はこのとき、知り合った東大生に、「大学生はデモに賭けられるが、俺は何もない」と語っている。この東大生は則夫に、定時制高校への入学を勧めた。

10月21日、則夫は横浜家裁横須賀支部で保護観察処分となり、青森から母親が迎えにきて、引き取られた。その後、則夫は保護司の紹介で、川崎市丸子東のクリーニング店に勤め始めた。仕事は水洗いなどの簡単な内容だったが、「はい、はい」と返事だけで、なかなか仕事に手を付けなかった。

1967年(昭和42年)1月13日、則夫は店主や客に対する言葉遣いが乱暴だったので解雇させられる。

1月28日、則夫は新聞広告を見て、中野区本町の牛乳販売店に行き、「夜学に通いたいので、勤めさせてほしい」と頼んだ。そして、新宿区淀橋にある同じ牛乳販売店の支店に配属された。月給2万4000円。夜になると、いつもふらりとどこかへ出かけた。

3月にはいると、「定時制高校に行くから」と言って、4000円を前借りした。

4月5日、明大付属中野高校(定時制)に入学。

ちなみに、1988年(昭和63年)〜1989年(平成元年)にかけて4人の幼女(4〜7歳)を殺害するという事件を起こし、死刑判決となった宮ア勤も明大付属中野高校卒業生である。宮ア勤幼女連続殺人事件

6月16日、牛乳販売店を辞める。

7月20日、中野高校を除籍処分になる。

1968年(昭和43年)1月9日、神戸港から密航を企て、フランスの貨物船「タチアナ」に無断で乗り込んだが、3日目にして外洋上で見つかり、横浜海上保安部に捕まった。則夫は自殺するつもりで、手首を2ヶ所切り、血だらけになっていた。22日、横浜海上保安部から横浜少年鑑別所へ。2月2日、保護観察中の東京鑑別所へ移送された。2月16日、東京家裁が、非グループ犯とあって「不処分」と決定した。

2月20日、三兄の世話で、杉並区大宮前の牛乳販売店に住みこみで働いた。

4月6日、明治大学付属中野高校に再入学。クラス委員長に選ばれる。

5月7日、販売店の売上げ金3万円を持ち逃げし、青森から函館、そして横浜へ行った。

6月下旬、自衛隊を志願し、受験。1次試験は合格したものの、保護観察中ということで、結局、入隊は認められなかった。

10月上旬、則夫は横須賀市内の映画館で、『駅馬車』『電撃フリント GO! GO作戦』を観たあと、米海軍基地に再び侵入した。ピストル、弾丸、「M」刺繍のハンカチ、ジャックナイフなどを盗んだ。さらに、三笠公園内の遊覧船乗り場の岸壁に行き、ピストルの引き金を引いて本物であることを確認した。

『駅馬車』 ・・・1939年(昭和14年)製作のアメリカ映画で、ジョン・フォード監督&ジョン・ウェイン主演 / 『電撃フリント GO!GO作戦』・・・1966年(昭和41年)製作のアメリカ映画で、ダニエル・マン監督&ジェームズ・コバーン主演。

その後、10月11日、東京をはじめとして、10月14日、京都、10月26日、函館、11月5日、名古屋で殺人事件を起こす。

【 その後 】

永山則夫は犯行当時19歳だったが、氏名を実名で報道したメディアには朝日新聞、読売新聞、日経新聞、東京新聞、NTV、フジ、NETなどがあった。

1969年(昭和44年)5月10日、永山は東京都練馬区の東京少年鑑別所(通称・ネリカン)に収容された。夜中に室内でシーツを裂き、首吊り自殺を図ったが、発見され未遂に終わった。

過去に、東京少年鑑別所では、浅沼社会党委員長暗殺事件(1960年10月12日)の犯人の山口ニ矢(おとや/17歳)が収容初日にシーツを裂いて首吊り自殺(同年11月2日)した苦い経験があったから、警戒していたのだった。

永山が自殺を図った事態を重視した鑑別所長は、鑑別課長と医師を特別に配置して、永山にイソミタールを投与した。この薬は筋肉を弛緩させ、本人は良い気持ちになる効果がある。

5月12日、イソミタールの投薬を中止すると、永山は大暴れを始めた。沖仲仕のような重労働を経験して腕力があり、取り押さえるのが大変だった。

5月14日、初めて面会にきた母親に対し、永山は、いきなり言い放った。

「おふくろは、俺を3回捨てた」

「そんな? 網走に1回置いたけど・・・・・・」

母親が泣き出すと、永山も泣き出した。

立ち会いの教官がとりなした。

「永山君、お母さんを責めてもダメだよ」

だが、嗚咽するばかりなので、母親に声をかけた。

「息子さんに、なにか言ってあげて下さい」

しかし、母親は号泣するばかりで言葉にならない。

こうして20分間の面会は号泣と嗚咽で終わった。

5月15日、東京地検の検事は、東京家裁の裁判官から「通常の観護では鑑別できないので、ただちに少年を逆送したい」と相談を受け、これを受け入れた。永山を愛宕警察署の留置場に収容したが、万全を期して豊島区巣鴨の東京拘置所へ移し、自殺防止の保護房に入れた。

永山は拘置所に移されると、「俺はどうせ死刑さ」が口癖で、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や、チェーホフの『桜の園』、マルクスの『資本論』全8巻、カント、フロイトを読み漁った。

『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー) / 『桜の園』(チェーホフ)

7月2日、東京拘置所で筆記用具の使用許可が下りると同時に、生まれて初めてノートに書き記していった。

<私は四人の人々を殺して勾留されている一人の囚人である。殺しの事は忘却は出来ないであろう一生涯。しかし、このノートに書く内容は、なるべくそれに触れたく無い。何故かと言えば、それを思い出すと、このノートは不要に成るから・・・・・・。>という書き出しで始まっている。

8月8日、東京地裁で第1回公判が開かれた。

1970年(昭和45年)5月12日、第10回公判が開かれ、函館出張の検証調書と尋問調書を取り調べた。そこで、永山は「函館の事件が一番ひどかったと、自分でも思っている。そこでひと言、言葉を捧げたい」

月の真砂は尽きるとも
資本主義のあるかぎり
世に悲惨な事件は尽きまじ

安土桃山時代の石川五右衛門は、京都の三条河原で釜茹での刑に処せられるとき、「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」と、辞世を詠んだと言われている。永山が捧げる言葉に、「月の真砂」とあるのは、1969年7月20日にアメリカのアポロ11号が月面に着陸して、砂を持ち帰ったからのようだ。

6月30日、第12回公判が開かれ、名古屋事件の現場検証と証人尋問の調書を取り調べた。

裁判長 「今、取り調べた調書について、被告人が何か述べることはないか」
被告人 「(長い沈黙のあとで)あんた、俺のような男をどう思う?」
裁判長 「どう思うって?」
被告人 「4人も殺して、ここに立っている、この男のことだ。あんたに個人として訊きたい」
裁判長 「どう思うか問われても、今は言えない。裁判所は途中で、意見を言うことはできない。裁判所の意見は、判決で述べることになっている」
被告人 「あんた達のやろうとしていることが、分からないことはないんだ。だけども俺には、もはや関係ない。いつもこんなことを裁判所でやるんだったら、俺は出てこなくてもいいだろう? そっちが勝手にやればいい。どうせ俺は、覚悟ができているんだ(と、首筋に手を当てる)。こんな時間があるんだったら、俺はもっと、勉強したいんだよ、トーコーダイで!」
裁判長 「東京工業大学で勉強したい?」
被告人 「(声を荒げて)俺がどこから裁判所へ来ているか、あんたも知っているでしょう。こういう事件が起きたのは、あの頃、俺が無知だったからだ。それは、貧乏だったから、無知だったんだよ。そのことを俺は、東拘大で勉強して分かった。俺のような男が、こうしてここにいるのは、何もかも貧乏だったからだ。俺はそのことが憎い。憎いからやったんだ!」

「東京拘置所」を略して「東拘」と言うが、永山は思い違いをしていて、「東拘大」と言ってしまったため、裁判長は永山が「東工大」と言ったのだと思ってしまったようだ。

裁判長 「憎いって、誰が憎いの?」
被告人 「何もかも憎い! みんなだ!」

さらに、小学校も中学校も満足に出席しなかった永山が、ウイリアム・ボンガーの著書『犯罪と経済状態』にある1節を突然、英語で披露してみせ、裁判関係者や傍聴人を驚かせた。

“Poverty kills the social sentiments in man, destroys in fact all relations between men. He who is abandoned by all can no longer have any feeling for those who have left him to his fate.”

( 貧乏は人の社会的感情を殺し、人と人との間における一切の関係を破壊し去る。すべての人々に見捨てられた者は、かかる境遇に彼を置き去りにせし人々に対し、もはや何らの感情も持ち得ぬものである )

河上肇の著書『貧乏物語』の中に引用されていたものを暗記したものだった。

『貧乏物語』(岩波文庫/河上肇)

被告人 「資本主義社会が貧乏な奴をつくるから、俺はここにいるんだ!」
裁判長 「興奮するんじゃない!」
被告人 「いや、したい!」

1971年(昭和46年)2月3日から10日まで、永山は精神鑑定を受けるために、東京拘置所から、板橋区加賀1丁目の財団法人愛誠病院へ移送された。永山はこのとき、段ボール3個分の書物を持ち込んだ。精神神経科病棟に鑑定留置され、まず身体検査が行われた。鑑定人は新井尚賢医師。

《身長1.605メートル、体重54.0キログラム、胸囲85センチメートル、・・・・・・》

永山は自分の体のことについて要領よく話した。

「昨年9月ころから、耳鳴りに悩まされ、右耳は常に金属性の音がする。物を書いていて上を向いたとき、クラクラして倒れそうになることがある。ときどき、吐き気や頭重感があり、夜は眠れないので、拘置所の医務室で食後薬をもらっている。一番気になるのは、小便するとき最初の1滴が出るまで、時間がかかること」

―― どんな本を読んだか?

「精神関係としては、フロイトの『精神分析入門』。宮城音弥の『心理学入門』。ロールシャッハも読んだけど、まだまだ、分からない」

―― 今、希望することを、3つ挙げると?

「1.社会改革。2.民衆の教育。3.自分自身の死・・・・・・。3については4人を殺した責任を感じているから」

―― 一番楽しかったことは?

「マルクスに触れたこと」

―― 一番悲しかったことは?

「共産主義の国に生まれなかったこと。できれば中国に生まれたかった」

―― 一番最初は、どういう本を読んだか?

「僕の学歴は小学2年程度だから、やはりエロ本だね。それから吉川英治の『宮本武蔵』。小学校の頃は石川啄木を読み、ヒットラーの伝記も読んだ。そのあとロケットの本で、軍隊に憧れており、プラモデルもよく作った。中学の終わり頃は、水島という漫画家の影響を受けた。単純な中に楽しいことが書いていたから」

―― その他は?

「記憶しているのからいうと『氷原』で、これは大阪にいたとき。『足長おじさん』『嵐ヶ丘』『若きウェルテルの悩み』『白痴』。巣鴨の牛乳屋にいた友人の影響を受けて、『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『西部戦線異状なし』『アルジェの戦い』。その他にもあった」

―― 拘置所で思想関係のものは?

「河上肇の『貧乏物語』。マルクスの『哲学の貧困』『革命と反革命』『資本論』『賃労働と資本』。カントの『実践理性批判』『純粋理性批判』『永遠平和のために』。マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』『ドイツ・イデオロギー』。エンゲルスの『反デューリング論』『自然弁証法』『家族・私有財産および国家の起源』『空想より科学へ』。フランツ・ファノンの『黒い皮膚、白い仮面』。ルソーの『孤独な散歩者の夢想』。プラトンの『テアイテトス』。デカルトの『方法序説』『哲学原理』。ルソーの『社会契約論』『告白』。ヘーゲルの『小論理学』。アリストテレスの『政治学』『形而上学』。ヒルティの『幸福論』。キルケゴールの『誘惑者の日記』『死に至る病』。夜は気休めにロシア文学の『どん底』『桜の園』『四号室』『マカールの夢』。トルストイは、貴族主義的なところが嫌いで頭にくる。今、持っている本は、哲学書で70冊。主に、一般の人が差し入れてくれた」

―― 趣味は?

「人を殺すこと(冗談のように笑いながら)。すなわち、権力をぶっ飛ばせということですよ。学問の卒業時点にかかわらず、マルクス経済学理論を理解するかどうかです。階級社会がある以上はダメだ」     

3月10日、永山が書き記したノートは10冊になっていたが、それを『無知の涙』というタイトルの本にまとめ、合同出版から刊行された。この獄中日記は、永山の幼児時代の極貧生活、その背後の社会の歪みを抉って世間に衝撃を与え、ベストセラーになった。

続編に『愛かー無か』(合同出版/1973)。さらに『人民を忘れたカナリヤたち』(辺境社/1971)を上梓。印税は被害者の遺族に送られた。のちに、これらの作品が角川書店や河出書房新社から文庫本として出版される。

『無知の涙』 / 『人民を忘れたカナリアたち』

1971年(昭和46年)3月20日、旧巣鴨プリズンの東京拘置所が廃監になり、葛飾区小菅(こすげ)1丁目の旧小菅刑務所が東京拘置所と改称した。この日、巣鴨から小菅へ約2000人の収容者が一斉に移動した。その中に永山則夫がいた。旧巣鴨プリズン跡地には、サンシャイン・プリンスホテルが建てられた。

1973年(昭和48年)5月4日、第39回公判で、永山が突如として、これまで知られていなかった犯行を告白した。

「1968年11月17日ごろ、深夜に静岡市内の会社事務所や高校事務所に侵入して、現金や預金通帳を盗み、会社事務所に放火した。その翌日午前9時ごろ、静岡駅前の三菱銀行(現・三菱東京UFJ銀行)の支店で、盗んだ通帳で預金を引き出そうとしたら、行員に怪しまれたので、3階のトイレに行った。そのとき警官が駆けつけたので、ピストルを発射(不発)して逃げた。この『静岡事件』について、私に対する起訴を求める」

永山は「静岡事件」を重大な “権力犯罪” として次のように組み立てた。

<1968年11月13日、科学警察研究所が、「函館事件」の弾丸は、東京、京都、名古屋の事件と同一銃身から発射したものと鑑定した。4件の連続射殺が出揃い、捜査が身辺に及んできて、横浜に2人連れの私服刑事や、制服警官のパトロールが多くなった。1968年11月17日ころ、自分が横浜から静岡へ行ったのは、その年2月に起きた金嬉老事件を思い出して、懐かしかったからである。静岡県清水市内のキャバレーで、借金話しのもつれから、2月20日、ライフルで2人を射殺した在日韓国人の金嬉老(当時39歳)は、ダイナマイトを持って寸又(すまた)峡温泉に行き、旅館の家族や客を人質に取って立て篭もり、警官隊と銃撃戦を演じて、篭城5日目の24日の朝、逮捕された。あのときの金嬉老のように、ピストルで警官隊と派手な銃撃戦をして、撃たれて死にたいと考えていた。・・・(中略)・・・1968年12月10日、東京府中市で、東芝府中工場のボーナス資金が現金輸送車ごと強奪される「3億円事件」が発生した。この事件はナゾに包まれて、国家権力の謀略説もある。ピンときたのは「指定108号」の犯人である自分が、その1ヶ月近く前に「静岡事件」を起こしたときに、警察は泳がせるだけで逮捕しなかったことだ。この重大な事実を隠蔽するために、国家権力の謀略機関がマスコミが飛びつく「3億円」を起こし、「静岡事件」から国民の目を逸らした。そもそも、法務省は、少年法の改正を目論見て、「少年年齢」を18歳未満に下げようとしている。19歳だった自分は、「指定108号」の前に何度も逮捕されて、指紋や掌紋を採られている。「京都事件」の現場に落としたジャックナイフには、当然ながら指紋が付いている。分かっていながら指名手配しなかったのは、もっと泳がせて次々に凶悪事件を起こさせることで「こんな凶悪な奴を少年扱いにするのはおかしい」と少年法改正のキャンペンに利用するためだった。この頃、静岡県警本部長は、「108号の犯人は必ず静岡に現れる」と、新聞にコメントしている。予言通りに、“連続射殺魔” が現れたが、警察庁の指示で逮捕を見送り、わざと「泳がせ」た。この権力犯罪は、警視庁の後藤田正晴次長の指揮にもとづく。何よりの証拠は「3億円事件」を起こさせ、“連続射殺魔” を泳がせた「静岡事件」を隠蔽した論功行賞で、1969年4月7日、「原宿事件」で逮捕されたとき、明治学院大の商学部が発行した「大塩秀雄」名義を改鼠した、「永山則夫」名義の学生証を持っていた。捜査本部は、静岡市で盗んだものであることを知っているから、この重要な物証を無視して、「静岡事件」との関連を追及しなかった。>

1973年(昭和48年)10月12日、第42回公判で冒頭陳述が終了し、弁護側が、「71年5月16日付の『新井鑑定書』があるが、被告人は鑑定に非協力的で、心を閉ざした状態で問診を受けたに過ぎない。裁判に対する否定的、無関心的な態度は、当時と違って完全に払拭されて、真実にもとづいた正しい精神鑑定を、被告人自身が欲している」として、改めて精神鑑定を申請した。

11月、永山則夫著『動揺記1』が辺境社から刊行される。

『動揺記1』

1974年(昭和49年)1月16日から4月1日まで、永山は八王子医療刑務所に鑑定留置された。鑑定人は石川義博技官。

この「石川鑑定」の問診で、永山は初めて新宿時代の女性関係を明らかにした。(女性の名前は仮名)

<1968年11月下旬、横浜市の野毛公園近くで沖仲仕の路上バクチに加わり、2回続けて3万5000円ずつ勝った。思いがけず金銭の余裕が生じ、「アパートを借りてフトンの上で寝たい」と、新宿へ足が向いた。ゴーゴー喫茶へ行くと、痩せて淋しげな表情の永山は、ずいぶん女にもてた。知り合った年上の「マキ」に、アパートの借り方を尋ねると、すぐに、母親役を見つけてくれて、西武新宿線の都立家政駅前の不動産屋へ3人で行った。そして、中野区若宮2丁目「幸荘」の3畳間に、礼・敷金1万円、家賃4000円で入居した。歌舞伎町の「スカイコンパ」に就職して、ゴーゴーガールの「マキ」に合鍵を渡し、同棲が始まった。彼女は在日朝鮮人で、どこか通じ合うものがあり、1ヶ月近く一緒に過ごした。しかし、彼女は炊事や掃除をしてくれず、性的な関係だけでは物足りない。1969年1月初め、「ビレッジバンガード」に転職したころ「マキ」と別れ、店の常連客である「ミユキ」と「サキ」を、交互にアパートに誘った。「ミユキ」はゴーゴーガール、「サキ」は16歳の高校生である。「サキ」は意外に純情そうだから、永山は自分が “連続射殺魔” であることを、彼女に打ち明けそうになった。それでいて、アパートの部屋で彼女から、「店に行く時間よ」と軽く足で蹴られると、反射的に平手打ちを加えて泣かしたりした。永山としては、なんとか事件のことを告白したかった。そんな煩悶のなかで、横浜市根岸の寺からピストルを掘り起こし、死に場所を求めて「原宿事件」を起こした。>

6月5日、検察官は「静岡事件」について、遡って訴追する必要はないと、不起訴処分を決定した。この検察側の方針に弁護団は反発したが、「静岡事件」の犯人取り逃がしを “権力犯罪” とみなしているわけではない。

9月21日、永山は、「弁護団は、静岡事件の本質を、警官が尾行して泳がせた権力犯罪と知りながら黙認し、精神鑑定を申請することで、“妄想” として揉み消そうとした」と、満3年間に渡って担当した第2次弁護団を一方的に解任した。

1975年(昭和50年)1月24日、永山は、「死刑廃止のための全弁護士選任を訴える」とアピール文を発表し、3月16日付『朝日新聞』が報じた。死刑制度に反対する人は、弁護人になってほしい、ということだが、弁護料は支払えない、という但し書き付き。

永山が出版した『無知の涙』の印税収入は、すでに1158万円にもなっていた。このうち、被害者2遺族に計680万円ほどが贈られたという。

4月9日、第44回公判が開かれた。この公判では、第2次弁護団の木村壮弁護人が 「再選任」 されており、2度目の更新手続きが行われた。

6月17日、だが、木村弁護士は辞任届を裁判所に提出した。

9月10日、永山は私選弁護人の選任届を出した。この4月に、第2弁護士会に登録した28歳の鈴木淳二弁護士である。

ちなみに、1988年(昭和63年)〜1989年(平成元年)にかけて4人の幼女(4〜7歳)を殺害するという事件を起こし、死刑判決となった宮ア勤の弁護人も鈴木淳二弁護士である。宮ア勤幼女連続殺人事件

1976年(昭和51年)5月28日、新たに2人の弁護人が付き、私選の第3次弁護団が編成された。

1977年(昭和52年)5月24日、第56回公判が開かれる予定だったが、第3次弁護団の3人が出廷を拒否して、公判スケジュールの一方的な指定に抗議の辞任をした。

9月7日、東京地裁刑事5部(蓑原茂廣裁判長)は、東京弁護士会に対して、永山の国選弁護人の推薦を依頼した。

12月、永山則夫著『反 寺山修司論』がJCA出版から刊行される。

『反 寺山修司論』

これは、詩人であり、同じ青森県人の寺山修司が前年の1976年に刊行したエッセイ『永山則夫の犯罪』に対する反批判本である。

寺山修司 (1935〜1983年/1936年生まれという説もあり)・・・青森県弘前市生まれ。日本の詩人、劇作家。演劇実験室「天井桟敷」主宰。歌人、演出家、映画監督、小説家、作詞家、脚本家、随筆家、俳人、評論家、俳優、写真家などとしても活動、膨大な量の文芸作品を発表した。競馬への造詣も深く、競走馬の馬主になるほど。

1978年(昭和53年)3月16日、東京弁護士会の役員(国選運営委員会)3人が、永山の国選弁護人に就任し、第4次弁護団が編成された。

12月19日、第61回公判が開かれた。蓑原裁判長が開廷を宣したところ、永山は弁護人にパンフレットを示して言い放った。

「これを知っているか、権力犯罪の『静岡事件』の内容を知っているか」

さらに、自分の椅子の上に立ち上がり、弁護人席に足をかけ、これを乗り越えて弁護人に暴行を加えるようとした。そこで、拘置所係官が両側から制止しようとしたが、永山はこれに抵抗して暴れ出した。

「デマを正すぞ、デマを流す東弁(東京弁護士会)を打倒するぞ! 反動裁判官・蓑原のやっていることは、権力犯罪の『静岡事件』を揉み消すことになるんだぞ、分かっているのか、分かっていたらこんな裁判は止めろ!」

永山は、蓑原裁判長に退廷を命じられ、拘置所係官によって退廷させられた。この間、裁判長の許可なく発言した傍聴人4人も退廷させられた。

1979年(昭和54年)2月28日、第63回公判が開かれ、検察官が論告を行って、死刑を求刑した。このとき、永山は「国選弁護人は、まったく俺の弁護をしていない。蓑原(裁判長)、弁護人を解任しろ」と発言して、裁判長から退廷を命じられた。

5月4日、第66回公判が開かれ、国選弁護人の最終弁論が終わった。この日、開廷直後に永山は、「今からこの法廷を人民法廷にする」と机を叩いて叫んで、裁判長に退廷を命じられている。

7月10日、東京地裁は「4人もの善良な市民を奪った上、殺戮方法も至近距離から短銃で顔や頭を狙撃する冷酷無残なものである」などとして、検察側の求刑通り、死刑を言い渡した。

7月11日、国選弁護人は、この判決を不服として、東京高裁に控訴した。「永山の完全責任能力を認めたのは事実誤認」と主張し、「行為の結果ばかりに目を奪われないで、事件を生んだ背景にも目を向けてほしい」と訴えた。

10月30日、第3次弁護団の主任を務めた鈴木淳二弁護士が再び永山の私選弁護人に就任した。のちに、私選弁護人が5人になり、第5次弁護団が編成される。

1980年(昭和55年)12月12日、葛飾区小菅1丁目の東京拘置所の面会室で、永山則夫(当時31歳)と永山の著書『無知の涙』を読んで感銘を受けた小川奈津美(仮名/当時25歳)が、結婚式を行った。この結婚式の立会人は、「“連続射殺魔” 永山則夫の反省ー共立運動」のメンバーで、永山と奈津美が署名した婚姻届の保証人の欄に、署名・捺印した。婚姻届は3通で、この国際結婚の手続きは第5次弁護団に教えられた。永山の本籍地はこの支援グループのパンフの編集・発行人宅へ移している。奈津美の住居は葛飾区に隣接する足立区で、女性弁護士の実家が経営するアパートの6畳間が提供された。その後、奈津美は永山則夫の妻として、弁護人とともに、被害者の遺族のもとへ、本を売って得た印税収入を持って回った。

12月19日、東京高裁で、控訴審第1回公判が開かれた。この日の東京高裁は、「荒れる法廷」に備えて、各階の通路を閉鎖するなどの厳戒態勢をとっている。

1981年(昭和56年)8月21日、東京高裁は、原判決を破棄し、無期懲役(未決勾留日数500日を算入)に処する、と言い渡した。

その理由として、「少年法51条によれば、18歳に満たない少年に対しては、科し得ないことになっている。被告人は19歳であったから、法律上は死刑を科すことが可能である。だが、被告人は出生以来きわめて劣悪な生育環境にあり、精神的な成熟度においては、18歳未満の少年と同視しうる状況にあったこと」「結婚したことによって、被告人の環境に変化があらわれ、当審における被告人質問には素直に応答するようになったこと」「被告人が出版された印税を被害者の遺族に送り、慰藉の気持ちをあらわしていること」などであった。

9月4日、東京高検は、「永山則夫を無期に減刑した東京高等裁判所の判決は判例違反」と、最高裁判所へ異例の上告をした。

上告は憲法違反か判例違反に限られており、1、2審で死刑判決を受けた被告人が「死刑は残虐な刑罰を禁じる憲法に違反する」と上告するケースは多くても、検察側が「無期判決を破棄して死刑相当の判決を求める」と上告した前例はない。

1983年(昭和58年)7月8日、最高裁第2小法廷は、第2審判決を破棄し、本件事案の重大性、特殊性にかんがみ、さらに慎重な審理を尽くさせるために、東京高等裁判所に差し戻す、と判決した。最高裁においては書面審理だから、被告人は出廷しない。

12月28日、鈴木淳二弁護士は、永山の「意見広告の100万円カンパする者を弁護人に選任する」という条件に従って、私選弁護人を受任した。これで、3回目である。

1984年(昭和59年)7月初め、永山則夫著『木橋』が立風書房から刊行される。収録された作品に表題の「木橋」の他、「土堤」「なぜか、アバシリ」「螺旋」の4篇がある。作品「木橋」は、永山の幼少の頃の断片的な “生” の記憶を綴った作品で、第19回新日本文学賞を受賞した。

『木橋』

<とにかく、とてもうれしいです。長い年月、どうしても書いておきたいと思っていたことごとを今回書いてみました。思うのは、小説とは読む分には易しいのですが、いざ自分が書くとなると大変なんだなあということです。“テニヲハ” には未だ苦労しています> (受賞の言葉)

獄中から本を出した人は多いが、文学賞を受賞したのは永山が初めてであった。ちなみに、獄中で小説などを書くことを認められたのは、1953年7月に起きたバー「メッカ」殺人事件の犯人の正田昭からで、それでも、未決囚の間は執筆を許されるが、既決囚は禁止されたままであった。1963年に、正田が、獄中から『群像』に投稿した「サハラの水」が新人賞候補として掲載されたが、受賞までには至らなかった。永山の後、1982年の「スパイ粛清事件」で逮捕された見沢知廉(本名・高橋哲央[てつお]/2005年9月7日、自宅マンション8階から飛び降り死亡。遺書はなかったが、自殺と見られている。46歳だった)が獄中で書いた「天皇ごっこ」が1994年に、第25回新日本文学賞を受賞した。見沢は刑が確定したあとも、検閲官の目をかいくぐって小説を書き続け、小説を発表することができた、という。『死刑囚 永山則夫』の著者でもある佐木隆三は「ジャンケンポン協定」で、1963年に、第3回新日本文学賞を受賞している。佐木隆三、永山則夫、見沢知廉の3人を新日本文学新人賞受賞作家の “御三家” というらしい・・・。

12月19日、東京高裁で、差し戻し控訴審第1回公判が開かれた。私選の第7次弁護団は6人であり、鈴木淳二が主任を務める。

1986年(昭和61年)1月23日、永山が反対しているにもかかわらず、鈴木弁護人は精神医学鑑定を申請した。これを理由に永山は鈴木弁護人を解任した。

3月、永山則夫著『ソオ連の旅芸人』を言葉社から刊行。永山はこれを「犯罪学を初めて科学にした著作」として位置付けていた。

『ソオ連の旅芸人』

3月31日、鈴木弁護士と同じ理由などにより、残るもう1人の大谷恭子弁護人も解任した。

大谷恭子の著書に『死刑事件弁護人 永山則夫とともに』(悠々社/1999)がある。大谷弁護士は連合赤軍の永田洋子(ひろこ)の弁護人でもある。連合赤軍による一連の事件の詳細については連合赤軍あさま山荘事件

『死刑事件弁護人 永山則夫とともに』

4月3日、永山奈津美は永山則夫との協議離婚届を役所に提出した。

「80年12月に獄中結婚してから、経済的に自立しなければならないのに、ひんぱんに面会に来ることを求められて、定職に就けなかった。板橋区内で英会話の塾を開いたりしたが、今は店員をしている。私と永山君は、ひとつ屋根の下で暮らしたいと思っても、そうすることができなかった。やがて私のことを、CIAのスパイと言うようになり、彼のことを理解できなくなった。なぜ、永山君は、もっと素直になれないのか。『静岡事件』と『3億円事件』を結び付けるのは、完全に誤解である。自分のことを天才と称しているが、彼が書いた『大学理論ノート』を若者に読ませても通用しない。解任された弁護士の先生方や、彼を救いたいと思う人たちが次々に去り、結局は1人になったのは、彼の精神状態が健康でないからだ。精神鑑定を受けることを、今も頑なに拒んでおり、このままでは永山君に対して、公正な裁判が行われたことにならない」と、のちに情状証人として出廷したときに述べている。

7月15日、新たな国選弁護人に、帝銀事件の弁護団長を務めている遠藤誠(当時55歳)が務めることになった。

遠藤誠・・・1930年(昭和5年)10月、宮城県大河原町に生まれる。1953年(昭和28年)東京大学法学部卒。参議院法制局・千葉地裁裁判官を経て、1961年(昭和36年)に弁護士登録。NHKの政見放送無断削除事件の東郷健、反戦自衛官訴訟の各主任弁護人などの他、帝銀事件の4代目弁護団長、暴力団対策法反対を訴え、指定暴力団山口組の代理人にも就いた。オウム真理教の事件では、麻原彰晃から弁護を依頼されると「無罪の心証がもてない」と弁護人になることを断り、話題になった。また、「現代人の仏教の会」「弁護士会仏教勉強会」「心のふれあう会(社会科学研究会)」などを主宰。著書に『帝銀事件と平沢貞通』(三一書房)/『帝銀事件の全貌と平沢貞通』(現代書館) 『弁護士と仏教と改革』(現代書館)/『解読・組織犯罪対策法』(現代書館)/『フォービギナーズ般若心経』(現代書館)/『フォービギナーズ観音経』(現代書館)/『フォービギナーズ歎異抄』(現代書館)/『観音経の現代的入門』(現代書館)/『道元禅とは何か・正法眼蔵随聞記入門』(現代書館)/『絶望と歓喜・歎異抄入門』(現代書館)/『今のお寺に仏教はない』(現代書館)/『新右翼との対話』(彩流社)などがある。

永山は遠藤弁護士が弁護人を引き受ける数年前から遠藤弁護士に、毎年、年賀状を出していた。その年賀状には、<僕がいま頼んでいる鈴木淳二ほかの私選弁護人はいずれ解任するつもりです。僕には弁護人がいなくなります。遠藤さん、あなたがやりたければ俺の弁護をやってもいい。ただし、そのときは100万円をカンパして持ってきなさい>と書いてあった。

遠藤はずいぶんとエラソーな被告人だなぁと思い、永山の弁護人を引き受けるつもりは全くなかったという。だが、第2東京弁護士会で、後任の国選弁護人を決める委員会を開いたところ、「こういうしんどい事件を引き受けられるのは遠藤誠しかいないだろう」ということで決まってしまった。

遠藤誠弁護士は、1978年(昭和53年)9月に、帝銀事件の弁護を引き受けることになったが、それまでは、どちらかというと、死刑肯定論者だったという。弁護をやっているうちに死刑制度に疑問を感じ始め、今では死刑廃止論者という立場にある。

1987年(昭和62年)1月19日、第19回公判が開かれ、弁護人と検察官が弁護して、差し戻し控訴審は結審した。

遠藤誠の弁論---

「少年法51条のよれば、『罪を犯すとき18歳に満たない者に対しては、死刑を持って処断するときは、無期刑に科する』と規定されている。すなわち、18歳未満の者は精神的に未成熟であるところから、その間に罪を犯した者は、応報主義による死刑を科して、この世から抹殺することよりも、教育可能性のある少年を教育し、みずからの犯した罪が間違っていたことを腹の底から悟らせ、これをまともな人間に鍛えなおすことによって、かえって世に有為なる人材たらしめようという教育刑主義を、現行少年法が大原則としているわけである。

平安時代の名僧、恵心僧都こと源信聖人は、名著『往生要集』において、喝破された。『そ強の要素は、人をして覚悟せしむ』若いとき悪いことをやった人間は、ある日あるとき、みずからの行為が罪であったことに気づくと、180度転換して、お釈迦様ぐらいの素晴らしい人間に生まれ変わるという意味である。

そして、わが日本国少年法は、その限界を、18歳未満においた。なるほど、本件の被告人が殺人行為を犯したのは満19歳3ヶ月ないし4ヶ月のときである。しかし、日本において、いや、この地球上において、両親による生みっぱなしという最も劣悪な極限状態において、生物的な成長をとげてきた被告人の当時の精神年齢は、まさに18歳未満のものであったと言わざるを得ない。

ここに、永山則夫という、19年の生涯において、親から捨てられ、社会からの差別につぐ差別を受け、世をのろい人をのろったがために罪を犯し、その後の18年の獄中における血のにじむような勉学によって、自分のやったことは間違っていたと衷心より悟り、2度とこのような悲劇を他の者に起こさせないためにどうしたらいいかを考え、その成果を次々に発表している1人の人間がいる。

ここで私は叫びたい。石田裁判長と田尾裁判官と中野裁判官が、控訴棄却の判決を言い渡せば、ここにいる1人の生きた人間が、絞首台に送られて、間違いなく首の骨を折られ、首の筋肉をズタズタに引き裂かれながら、殺されていくのだということを。それでいいのだろうか? 最後に、19歳9ヶ月の彼が自首同様にして逮捕された後、東京拘置所の暗い独房でつづった血の叫びをもって、私の結論に代える」と言って、永山の詩「キケ人ヤ」を朗読した。

( 『無知の涙』/「キケ人ヤ」より )

キケ人ヤ

世ノ裏路ヲ歩クモノノ悲哀ナ

タワゴトヲ

キケ人ヤ

貧シキ者トソノ子ノ指先ノ

冷タキ血ヲ

キケ人ヤ

愛ノ心ハ金デナイコトヲ

心ノ弱者ノウッタエル叫ビヲ

キケ人ヤ

世ノハグレ人ノパンヘノ

セツナイハイアガリヲ

キケ人ヤ

日陰 [ 影 ] 者ノアセト涙ヲ

ソノ力ト勇気ヲ

キケ人ヤ

武器ナキ者ガ

武器ヲ得タ時ノ

命ト引キカエノ抵抗ヲ

キケ人ヤ

貧民ノ真ノ願イノ

ヒト言の恐シサヲ

キケ人ヤ

昭和元禄ニ酔ウガヨイ

忘レタ時ニ再ビモエル

貧シキ若者ノ怒リヲバ

3月18日、東京高裁は差し戻し審の判決公判を開き、「本件控訴を棄却する」と言い渡した。これは、死刑を宣告した1審判決を支持して、1審判決を不服とする被告・弁護人の控訴を棄却することを意味する。

裁判長は「被告の生育歴には深く同情すべきものがあり、少年法の精神は充分に量刑に検討すべきもの」としたものの、4人を射殺した「罪質、重大性をかんがみると、死刑をもって重すぎない」と述べた。

閉廷した直後、永山が突然、騒ぎ出した。

「戦争になりますよ」

「爆弾闘争で死刑廃止を」

声高に繰り返す。

裁判長が声を張り上げた。

「退廷!」

永山は両側を警備員に抱えられて法廷を出た。

7月10日、永山則夫著『捨て子ごっこ』が河出書房新社から刊行される。表題作の「捨て子ごっこ」と「破流」の2篇が収められている。「捨て子ごっこ」は、生まれてから5歳まで育った網走時代のことが書かれている。

『捨て子ごっこ』

10月22日、永山は最高裁第3法廷に「上告趣意書」を提出した。

1989年(平成元年)6月30日、永山則夫著『なぜか、海』が河出書房新社から刊行される。表題作の「なぜか、海」と「残雪」の2篇が収められている。「なぜか、海」は中学を卒業してから集団就職したころのことが書かれている。

『なぜか、海』

1990年(平成2年)1月、永山則夫著『異水』が河出書房新社から刊行される。これには、集団就職後、職を転々としたことが書かれている。「異水」は、「水が合わない」という意味で、永山が考えた造語である。

『異水』

1月29日、永山は、数日前に、河出書房新社の担当編集者から「判決期日も近いから、今のうちに文芸家協会に入会しておいたほうがいい」と勧められて、日本文芸家協会理事会に入会申込書を提出した。

2月14日、永山の入会の推薦に当たったのは文芸評論家の秋山駿(理事)と作家の加賀乙彦(理事)だった。ところが、入会委員会において「文学者としての永山さんは迎え入れたいが、殺人者としての永山さんを受け入れることはできない」との意見が多く、決定は保留された。協会が永山の入会を事実上、認めないことをマスコミが報じて、永山が知ることになった。永山は入会申込みを撤回した。のちに、このことが原因で、作家の中上健次、筒井康隆、文芸評論家の柄谷行人が協会を脱会した。

4月17日、最高裁第3小法廷が判決公判を開いて、裁判長が「本件上告を棄却する」と5秒で主文を宣告し、ただちに閉廷した。

4月23日、遠藤誠弁護人は、「原判決を破棄する。被告人を無期懲役に処する」とした「判決訂正の申立書」を、最高裁第3小法廷に郵送した。

5月8日、最高裁第3小法廷は、「判決の内容に誤りのあることを発見しない」と申し立てを棄却し、永山則夫の死刑が確定した。

  1審
東京地裁
控訴審
東京高裁
上告審
最高裁
差し戻し控訴審
東京高裁
第2次上告審
最高裁
判決日 1979年
(昭和54年)
7月10日
1981年
(昭和56年)
8月21日
1983年
(昭和58年)
7月8日
1987年
(昭和62年)
3月18日
1990年
(平成2年)
4月17日
判決 死刑 無期懲役 差し戻し 死刑 死刑
判決理由 4人の善良な市民を次々と殺害、国民に衝撃と不安を与えた。反省の態度も見られず、有利な情状を考慮しても死刑はやむを得ない。 犯行時の精神的成熟度は死刑を禁じた18歳未満に近く、獄中結婚や遺族への慰謝など心境の変化も認められ、死刑維持は過酷。 被害者4人という結果の重大性、殺害手段、遺族感情など考慮すると無期懲役は量刑の誤り。18歳未満と同視するのは困難。 何の罪もない4人の命を奪った罪の重さは計りしれず、当時少年だったことなど有利な情状を考慮しても死刑が不当とはいえない。 犯行の罪質、動機、態様、被害者数、遺族感情に照らせば、被告の犯行時の年齢などを考慮しても罪責は重大。死刑は肯忍せざるを得ない。

12月、『永山則夫の獄中読書日記 死刑確定前後』が朝日新聞社東京本社から刊行される。

『永山則夫の獄中読書日記 死刑確定前後』

1996年(平成8年)、永山がドイツ作家同盟ザールラント州支部に入会。

1997年(平成9年)8月1日、東京拘置所で、死刑が執行された。7月31日時点で確定死刑囚は54人おり、永山より前に確定した人が17人いたにもかかわらず、処刑されたのは、酒鬼薔薇事件(同年3〜5月に起きた神戸須磨児童連続殺傷事件)を権力が意識したからである。

遠藤弁護人は、永山の身元引き受け人だった井戸秋子から<酒鬼薔薇事件の犯人が少年だったと知ったとき、とっさに永山さんがやられるんじゃないかと思った。それが本当になってしまったいま、残念です>という内容の手紙を受け取る。

永山は48歳、獄中28年、娑婆19年という生涯だった。

永山の葬式は遠藤誠弁護士の主宰でひっそりと行われたが、出席者の中で文学関係者は、新日本文学新人賞受賞作家の “御三家” である佐木隆三と見沢知廉くらいだったという。

8月18日、永山の遺志通り、出身地の北海道網走沖のオホーツク海に散骨された。残りは遠藤誠弁護士の自宅仏間に置かれることになった。

9月初旬、永山の遺志により「永山こども基金」が設立された。永山は「私の印税は世界と日本、特にペルーの貧しい子供たちに送って下さい」という遺言を残していた。東京拘置所から永山の遺留品を引き取った遠藤誠弁護士の呼びかけで、歌手の新谷のり子ら計6人が話し合い、基金はペルーの福祉施設に継続してその資金を送金することになった。永山は新谷に身元引受人の依頼をしていた。遺留品はダンボール箱14箱分ある、うち11箱分の図書類や衣類などは、千葉県柏市の支援者の市原みちえが引き取ることになった。

『ある遺言のゆくえ 死刑囚・永山則夫がのこしたもの』(東京シューレ出版/永山子ども基金[編]/2006)

10月、永山則夫著『遺稿集 日本』が冒険社から刊行される。

『遺稿集 日本』

11月、永山則夫の著書のユートピア小説『華』(4巻)が河出書房新社から刊行される。これは、永山が5年間に渡って書き続けた3400枚に上る未完の遺稿小説で、東京都新宿区に集まってきたホームレスの若者群像が描かれている長編小説である。

『華 <1>』 / 『華 <2>』 / 『華 <3>』 / 『華 <4>』

1998年(平成10年)4月、永山則夫著『文章学ノート』が朝日新聞社から刊行される。

『文章学ノート』

6月、永山則夫著『死刑確定直前獄中日記』が河出書房新社から刊行される。

『死刑確定直前獄中日記』

2002年(平成14年)1月22日、永山の弁護人だった遠藤誠弁護士が肺ガンのため死亡。71歳だった。

この事件を元に製作された映画に『裸の十九歳』(DVD/監督・新藤兼人/永山則夫役・原田大二郎/2001) がある。これは近代映画協会創立20周年記念作品として製作されたものだった。この作品はモスクワ国際映画賞金賞を受賞した。

そのほかに、『略称・連続射殺魔』(監督・足立正生&若松孝ニ&岩淵進&野々村政行&山崎裕&松田政男&佐々木守/1969)がある。

「下層社会に生まれ育った1人の大衆が<流浪>という存在態においてしか自らの階級形成をとげざるをえなかった時、したがって私たちが永山則夫の足跡を線でつなぐことによってもう1つの日本列島を幻視しようと試みた時、意外と言うべきか、線分の両端にあるところの点として、「風景」と呼ぶほかはない共通の因子をも発見することとなったのである。そしてそれは、この日本列島において、首都も辺境も、中央も地方も東京も田舎も、一連の巨大都市としての劃一化されつつある途上に出現する、語の真の意味での均一な風景であった。私たちスタッフ6人は、1969年の後半、文字通り風景のみを撮りまくった。撮っては喋り、喋ってはラッシュを見、そして再び風景を撮った。作家と観客と批評家の回路が私たちの内部にできあがり、モーターが唸り私たちが確かに私たちのまぼろしの日本地図をこの列島の上にあぶりだした時、映画が完成した。それは一種異様なる<風景映画>であった」(松田政男監督)

監督の足立正生と若松孝二は1971年(昭和46年)2月から、日本赤軍のメンバーがパレスチナ・ゲリラと中近東アラブ・ゲリラ、PLOのアラファト議長やPLOの武装ゲリラ組織「PFLP」(パレスチナ解放人民戦線)との連帯を求めて日本を飛び立ったが、その後を追って、パレスチナで『赤軍 PFLP・世界戦争宣言』を撮影。その後、足立は日本赤軍と行動を供にすることになる。日本赤軍と東アジア反日武装戦線

『田原総一郎の遺言 永山則夫と三上寛/田中角栄』(DVD/出演・田原総一郎&水道橋博士/2012) これはジャーナリスト生活50年を迎えた田原総一朗が東京12チャンネル(現・テレビ東京)のディレクターだった時代に手掛けたドキュメンタリー作品。

参考文献など・・・
『死刑囚 永山則夫』(講談社文庫/佐木隆三/1997)
『無知の涙』(角川文庫/永山則夫/1973)

『戦後欲望史 黄金の六〇年代篇』(講談社文庫/赤塚行雄/1984)

『連続殺人事件』(同朋舎出版/池上正樹/1996)

『あの死刑囚の最後の瞬間』(ライブ出版/大塚公子/1992)
『死刑』(現代書館/前坂俊之/1991)

『放送禁止歌』(知恵の森文庫/森達也/2003)
『増補新版 永山則夫 (文藝別冊/KAWADE夢ムック)』(河出書房新社/2013)・・・表紙には1977年、八王子医療刑務所で撮影されたといわれている永山の「ヒゲ面」の写真が使われている(長い間、いつ、どこで撮影された写真なのか謎だったが、この本で解明した)。
『ワケありな本』(彩図社/沢辺有司/2015)
『死者はまた闘う 永山則夫裁判の真相と死刑制度』(明石書店/武田和夫/2008)
『永山則夫 聞こえなかった言葉』(日本評論社/薬師寺幸二/2006)
『涙の射殺魔・永山則夫と六〇年代』(共同通信社/朝倉喬司/2003)
『死刑の基準  「永山裁判」が遺したもの』(日本評論社/堀川恵子/2009/第32回講談社ノンフィクション賞受賞/第10回新潮ドキュメント賞受賞)
『それでも彼を死刑にしますか 網走からペルーへ 永山則夫の遥かなる旅』(現代企画室/大谷恭子/2010)
『虐待された子どもたちの逆襲 お母さんのせいですか』(明石書店/佐藤万作子/2001)
『【人と思考の軌跡】 永山則夫 ある表現者の使命』(河出書房新社/細見和之/2010)
『永山則夫 封印された鑑定記録』(岩波書店/堀川惠子/2013)
『誰が永山則夫を殺したのか 死刑執行命令書の真実』(幻冬舎アウトロー文庫/坂本敏夫/2014)

『ある遺言のゆくえ 死刑囚・永山則夫がのこしたもの』(東京シューレ出版/永山子ども基金/2006)

『死刑囚 永山則夫の花嫁 「奇跡」を生んだ461通の書簡』(柏艪舎/嵯峨仁朗&柏艪舎[編]/2017)
『法廷調書』(月曜社/永山則夫/2021)
『毎日新聞』(1997年9月5日付/2002年1月23日付/2005年9月8日付)

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