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浅沼社会党委員長暗殺事件

1960年(昭和35年)10月12日、山口二矢(おとや/当時17歳)は、自民、社会(現・社会民主)、民社の三党党首立会演説会が開かれている東京千代田区の日比谷公会堂に向かって歩いていた。

朝、東京中野区本町(ほんちょう)の自宅で読んだ『読売新聞』の「十二日の会議」という小さな欄には、<三党首演説会(後二時、日比谷公会堂)>とあった。山口はこの1行を見逃さなかった。この日、演説会が催されることを初めて知り、行動を起こしたのだった。

山口家では別にこれといった理由もなしに、『朝日新聞』か『毎日新聞』を購読していたが、拡張員に強引に勧誘されて以来、その数ヶ月前から『読売新聞』を取るようになっていた。『読売新聞』ではなく、『朝日新聞』であったら、この事件は起きなかったかもしれない。というのは、『朝日新聞』の「今日の予定」欄には、他のすべての会合が載っているにもかかわらず、ただひとつ「三党首演説会」だけは載っていなかったからだ。

山口はベルトに白鞘の短刀をさしていた。黒の学生服の上にカーキ色の作業衣をはおっており、内ポケットには一通の書面を忍ばせていた。

汝、浅沼稲次郎は日本赤化をはかっている。自分は、汝個人に恨みはないが、社会党の指導的立場にいる者としての責任と、訪中に際しての暴言と、国会乱入の直接のせん動者としての責任からして、汝を許しておくことはできない。ここに於て我、汝に対し天誅を下す。 皇紀二千六百二十年十月十二日  山口二矢

< 『現代殺人事件史』(河出書房新社/福田洋/1999) >

皇紀・・・神武天皇即位の年を第1年とする日本の紀元。皇紀元年は西暦紀元前660年だから、皇紀2620年は西暦1960年にあたる。

60年安保反対闘争は、前年の1959年(昭和34年)から盛り上がっていたが、1960年(昭和35年)5月20日、自民党はついに衆議院に警官隊を導入、単独で新安保条約を強行採決した。それを知った全学連の学生たちは、もはや実力阻止以外にないと首相官邸になだれこみ、警官隊と衝突した。闘争はますますエスカレートし、浅沼稲次郎(あさぬまいねじろう)社会党委員長は自ら陣頭に立ち、デモの指揮をとっていた。同年6月15日には学生約7000人が国会に突入、警官隊、右翼団体と流血の乱闘を演じ、東大生の樺(かんば)美智子(22歳)が死亡、重軽傷者1000人以上を出し、406人が病院に収容、175人が逮捕された。このことがきっかけとなり、市民の参加が増え、デモ隊は30万余りに膨れ上がった。この騒乱を見て、右翼関係者の中には、本当に共産革命が起こるかもしれない、という危機感をもつ者も少なくなかった。

関連書籍・・・
『樺美智子 聖少女伝説』(文藝春秋/江刺昭子/2010)

『友へ 樺美智子の手紙』(三一新書/樺美智子[著]/樺光子[編]/1969)
『人しれず微笑まん 樺美智子遺稿集』(三一新書/樺美智子[著]樺光子[編]/1960)

山口二矢は、東京町田市の玉川学園高等部に入学した。学業成績は悪くなかったが、2年で中退した。その後、右翼団体の大日本愛国党に入った。その理由として、父親の晋平が防衛庁職員(1等陸佐)であったこともあるが、大日本愛国党の党員である1歳年上の兄の朔生(さくお)が同年5月1日の反メーデー・デモで逮捕されたのが直接の原因と言われている(ちなみに母親の君子は、かつて一世を風靡した大衆作家の村上浪六の三女)。しかし、ビラまきや、演説やデモの妨害しかしない運動方針に納得がいかず、仲間と共に脱党し、「全アジア反共青年同盟」を結成した。山口は、はじめは小林日教組委員長を狙っていた。あるいは野坂日共幹部会議長か、「米帝国主義は日中共同の敵」などと言っている浅沼社会党委員長を狙っていた。とにかく、これら3人のうちの1人を殺(や)ろうと考えていたらしい。同年6月19日、改正安保が自然成立した。また、この日は、アイゼンハワー大統領が来日する予定であったが、学生や労働者の反安保デモのために、日本訪問を断念した。このとき、岸信介首相は、「わが国は国際的信用を失った」と言った。これがきっかけとなり、山口は浅沼を殺ることを決意した。

同年7月15日、岸内閣総辞職。7月19日、池田内閣成立。

会場となった日比谷公会堂は、午後1時に開場、午後2時2分に演説会は開始されたが、それまでには入場者のほとんどは入ってしまい、午後2時半ごろには来場する者もいなくなっていた。山口が来たときには、入口にいた公安の刑事たちは会場に散っていた。

山口はいざ、入ろうとして、<入場券のない方はお断りします>と書いてある貼り紙を見て愕然とする。入場するために券が必要だということを知らなかったのだ。諦めきれず、しばらくその場にたたずんでいると、入口には受付けとして都選管と区選管の8人の職員がいたが、ひとりの係員に訊ねると、その券はすでに何日か前に、NHKで配り終えたと言った。がっかりしていると、その係員が上着のポケットから黙って1枚の入場券を差し出してくれた。山口はお礼を言い、公会堂の中に入っていった。

山口は公会堂の階段を黒の編上げ靴で踏みしめながら、自作の和歌を低く口ずさんだ。

「千早ぶる神の大御代(おおみよ)とこしへに、仕えまつらん大和男子(おのこ)は」

午後2時50分、会場に入ると、満席の場内は、むせかえるような熱気にあふれていた。正面壇上には、浅沼稲次郎社会党委員長(61歳)の巨体が見えた。右手には池田勇人総理、左手には民社党の西尾末広委員長がいた。浅沼は、人間機関車と呼ばれ、演説百姓とも囃(はや)された政治家だったが、この日はいつもの覇気がなかった。浅沼のしゃがれ声を断ち切るように、野次や罵声が飛び交っていた。

山口は比較的空いている右側の舞台に近い通路にしゃがみこんだ。客席の中央には、大日本愛国党の赤尾敏(びん)総裁と党員たちが陣取り、なにか怒鳴っていた。

司会者が紙切れを浅沼に渡した。予定の時間がきたという知らせだった。客席の誰かが「時間だ、もうやめろ!」と叫んだ。

浅沼は野次にかまわず演説を続けた。「・・・・・・選挙のさいは国民に評判の悪いものは全部捨てておいて、選挙で多数を占むると」さらに声を大きくして「どんな無茶なことでも・・・・・・」と語りかけようとしたとき、山口はさっと、立ち上がって、猛烈な勢いで走り出した。午後3時4分ごろであった。

舞台の階段を駆け上りながら、一瞬、「やめようか」という考えが脳裏をかすめた。だが、すぐに「やるんだ」と打ち消し、ベルトから短刀を引き抜いた。腕を両脇腹に付け、短刀の柄を自分の腹に当て、そのまま体当たりした。浅沼の動きは緩慢だった。ほんのわずかすら体をかわすこともせず、少し顔を向けただけで、左脇腹でその短刀を受けてしまった。短刀は浅沼の厚い脂肪を突き破り、背骨前の大動脈まで達した。

山口はさらに、攻撃を加えたが、切先が狂い左胸に浅く刺さったにすぎないと思い、もう一度、刺すつもりで短刀を水平に構えた。浅沼は驚いた顔を山口に向け、両手を前で泳がせた。

この瞬間を写真に撮影した毎日新聞の長尾靖カメラマンは1961年(昭和36年)、日本人初のピュリツァー賞を受賞した。

「浅沼稲次郎」の画像  / 「山口二矢」の画像

このとき、仕事熱心なカメラマンは、左側の通路に出て、激しい野次を飛ばしビラをまいていた大日本愛国党を撮っていた。だから、事件の瞬間を完璧なシャッターチャンスで捕らえることができたカメラマンは、皮肉にも 熱心に仕事をしていなかった長尾ら数人だけだった。長尾の撮った写真のネガナンバーは12で、それが最後の1枚だったらしい。この写真は毎日新聞社がUPIの通信網をもっていたことから全世界に流れることになった。『ニューヨーク・タイムス』は<初めて写された殺される瞬間>というキャプションを付けて掲載した。

ピュリツァー賞・・・アメリカの新聞王・ジョゼフ・ピュリツァーによって創設され、1917年(大正6年)にスタートした。現在、ジャーナリズム(14部門)、文学(6部門)及び音楽(1部門)の分野から構成されている。なお「写真」部門は1942年(昭和17年)からスタートした。ジャーナリズム分野の選考は、毎年、1月1日〜12月31日までのアメリカの新聞に掲載されたものが対象となり、18人で構成されたピュリツァー賞委員会で決定する。ピュリツァーの誕生日である4月8日ごろに、受賞者が決定し、コロンビア大学の学長が発表する。受賞者には5000ドルの賞金が授与される。ちなみに、日本人による受賞者は「写真部門」の3人だけで、他の2人は、1966年(昭和41年)に受賞の沢田教一(作品名・「安全への逃避」/ 撮影地・ベトナム)と1968年(昭和43年)に受賞の酒井淑夫(作品名・「より良き頃の夢」/ 撮影地・ベトナムである。

「沢田教一」の画像  / 「酒井淑夫」の画像

そして、浅沼は4歩、5歩よろめくと、舞台に倒れた。

山口は一瞬の空白のあとで、飛び出してきた十数人の私服刑事と係員に取り押えられた。

事件後、しばらくして右翼の間でひとつの「二矢伝説」が流布されるようになった。それは、この最後の瞬間にまつわるものだった。山口は浅沼を2度刺し、もうひと突きしようと身構えたとき、何人もの刑事や係員に後ろから羽交い絞めにされたが、そのとき、ひとりの刑事が山口の構えた短刀を、刃の上から素手で掴んだ。山口は、浅沼を刺したあと、返す刃で自らを刺し、その場で自決する覚悟でいた。しかし、その刃を握られてしまった。自決するためには刀を抜き取らなくてはならない。思いっきり引けば、その手から抜けないこともない。しかし、そうすれば、その男の手はバラバラになってしまうだろう。山口は、一瞬、正対した刑事の顔を見つめた。そして、ついに、自決することを断念し、刀の柄から静かに手を離した・・・・・・。事実にしてはできすぎた感じがあり、山口二矢を神格化するための「伝説」に過ぎないとも言われている。

浅沼はすでに意識がなく、間もなく絶命した。死因は出血多量だった。

山口は犯行当時17歳だったが、『朝日新聞』が実名で報道したことにより世間にその名が知られることとなった。

山口は、取調べに対して、訥々とした口調で、「自分の行為は大義である、後悔はしていない、だが、ひとりの人命を奪った償いはしなければならない」と語った。

11月2日、山口は東京都練馬区にある東京少年鑑別所(通称・ネリカン)の単独室に収容されたが、シーツを裂いた紐で首を吊って自殺した。部屋の壁には歯磨き粉を溶いた白文字で、<七生報 天皇陛下万才>と書いてあった。

山口二矢は1943年(昭和18年)2月22日に2番目の男児として生まれたことから、父親が姓名判断をした上で、「二矢」という名前にした。「おとや」と読ませるには無理があった。このことについて、弓道で最初に射る矢を「甲矢(はや)」、2番目に射る矢を「乙矢(おとや)」と呼ぶことから「ニ矢」を「おとや」と読ませたのではないか(掲示板への投稿)、といった意見があり、納得。また、「乙矢(おとや)」と名付けるつもりで役所に「乙矢」と書いて出したら筆跡が悪く、「二矢」で戸籍に登録されたのではないか(メール)、といった意見もいただいた。私(boro)は「二」を草書体で書くと「乙(おと)」という漢字に似ているから「二矢」と書いて「おとや」と読ませることにした、と思っていましたが、どうやら違っているみたいですね(^^ゞ 浅沼委員長を刺殺したのが12日で、自ら命を絶ったのが2日だった。最期まで「2」という数字に縁があった。

七生報國(しちしょうほうこく)・・・この世に生まれ変わることができるかぎり、国に対して忠誠をつくす、という意味。1970年(昭和45年)11月25日、三島由紀夫(45歳)が、東京都新宿区市谷本村町の陸上自衛隊東部方面総監部でバルコニーに立って演説をし、その後、割腹自殺したが、そのときに頭に巻いたはちまきには、日の丸とともに<七生報國>の文字があった。 三島由紀夫事件

沢木耕太郎はこの浅沼社会党委員長暗殺事件を取材し、『テロルの決算』を書いたが、この作品は第10回大宅ノンフィクション賞を受賞した。

この事件があった翌1961年(昭和36年)2月1日にも、同じ17歳の右翼少年による嶋中事件が起きている。

参考文献など・・・
『テロルの決算』(文春文庫/沢木耕太郎/1982)
『戦後欲望史 黄金の六〇年代篇』(講談社文庫/赤塚行雄/1984)
『戦後ニッポン犯罪史』(批評社/礫川全次/2000)
『山口二矢(やまぐちおとや)供述調書 社会党委員長浅沼稲次郎刺殺事件』(展転社/山口二矢顕彰会/2010)

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