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嶋中事件

1961年(昭和36年)2月1日午後9時15分ころ、東京都新宿区市ヶ谷の中央公論社の嶋中鵬二社長(当時37歳)邸に、元大日本愛国党員(この日、党に迷惑をかけてはいけないと予め脱党した)の小森一孝(当時17歳)が無断で上がりこみ、「右翼の者だ。『中央公論』が掲載した[風流夢譚]はなんだ。ふざけるな!」と叫び、家政婦の丸山かね(50歳)から嶋中社長が不在だと告げられると、奥の部屋へ入り、着替え中の社長夫人の雅子(当時35歳)の左腕や胸などを刃物で突き刺して瀕死の重傷を負わせ、止めようとした丸山かねの心臓を刺して殺し、逃走した。だが、翌2日午前7時15分、浅草署山谷マンモス交番に自首した。

前年の1960年(昭和35年)、12月号の『中央公論』に掲載された深沢七郎の小説「風流夢譚」は、日本に “左慾”の革命が起きて、天皇一家が革命軍に襲われる夢の話であるが、その中に<マサカリはさーっと振り下ろされて、皇太子殿下の首はスッテンコロコロと音がして、ずーッと向うまで転がっていった。・・・(中略)・・・マサカリはまた振り上げられて、こんどは美智子妃殿下の首がスッテンコロコロカラカラカラと金属性の音がして転がっていった。><昭憲皇太后は金切り声で、「なにをこく、この糞ッ小僧、8月15日を忘れたか、無条件降伏して、いのちをたすけてやったのはみんなわしのヒロヒトのおかげだぞ」とわめくのだ。>などの記述があり、全体的に天皇一家を冒涜する内容になっている。

この小説が赤尾敏、野依(のより)秀市などの右翼の神経にさわり、中央公論打倒運動が起こり、同年11月28日、大日本愛国党員ら8人が中央公論社に押しかけ謝罪文を要求した。これに対し、中央公論社は新年号の『中央公論』で「お詑び」を載せる一方、人事異動を行い『中央公論』の編集長を竹森清から嶋中社長自身が兼務し、編集部員も進歩派から穏健派に交替した。だが、右翼の攻撃は収まらず、さらに嶋中事件へと発展した。

これより4年前の1956年(昭和31年)、三島由紀夫が中央公論の新人賞の選考委員(他に、武田泰淳、伊藤整)となったが、その第1回当選作品として、深沢七郎の『楢山節考』が選ばれた。この作品を推薦したのは三島だったことから、「風流夢譚」騒ぎが起きたとき、警察は「右翼に狙われるといけないから」と三島に保護役の警官をつけたりしたことがあった。

小森一孝は、「『風流夢譚』は作者も悪いが、あんなものを売って金をもうける社長はなお悪い」と供述した。ポケットのハンカチには、<君オモヒ国ヲオモヘバ世ノ人ゾ、イカデ惜シマン露ノ命ヲ>との辞世めいた句と、<天皇陛下万歳>の文字が万年筆で走り書きされていた。

小森一孝も山口二矢(おとや/前年に起きた浅沼社会党委員長暗殺事件の犯人)と犯行当時は同じく17歳だったが、山口の場合と同様に『朝日新聞』が実名で報道したことにより世間にその名が知られることとなった。

小森一孝は、長崎地検の諫早支部の副検事の父親の長男で、小学校教師と病院に勤める2人の姉がいる教養のある家庭に生まれた。1960年(昭和35年)8月、学業成績は悪くなかったが、どういうわけか長崎県立長崎東高校を2年で中退し、同年9月、家出した。名古屋のパン屋の職人、横浜で沖仲仕などをしたのち上京。事件を起こす約1ヶ月前の1961年(昭和36年)1月3日に、大日本愛国党に仮入党し、正式党員になるための訓練を受けていた。愛国党の主義主張に共鳴する一方、食事にもこと欠く日々が続いたことも入党した理由だという。

父親は、息子の小森一孝について次のように語っている。

「学校の成績は小学校時代からよく、東大を志望していた。だが、家庭の事情で転校がちとなり、あんまり勉強に熱が入らなくなっていった。結局、私が長い間、転勤などで別居生活をしていたのが一番よくなかった。親からみてあの子は意志の強い子だった」

警視庁は背後に愛国党総裁の赤尾敏がいるとみて、同年2月21日、赤尾を殺人教唆、殺人未遂の教唆などで逮捕したが、4月17日、赤尾は証拠不十分で不起訴になった。

翌1962年(昭和37年)2月26日、東京地裁は小森一孝に対し懲役15年の判決を下した。

1971年(昭和46年)11月3日号の『女性セブン』(小学館)ではその後の小森一孝の消息を伝えており、八王子医療刑務所にいて神経性疾患に罹り、ノイローゼ気味だという。だが、その後、どうなったか不明。

参考文献など・・・
『戦後欲望史 黄金の六〇年代篇』(講談社文庫/赤塚行雄/1984)
『三島由紀夫』(現代書館/吉田和明/1985)
『一九六一年冬「風流夢譚」事件』(平凡社/京谷秀夫/1996)
『中央公論』(1960年12月号)

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