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三島由紀夫事件

1970年(昭和45年)11月25日、作家・三島由紀夫(45歳/本名・平岡公威[きみたけ])は『新潮』に連載中の「天人五衰」の最終回原稿を用意したのち、午前11時過ぎ、東京都新宿区市谷本村町(いちがや・ほんむらちょう)の陸上自衛隊市谷駐屯地の東部方面総監室に三島が主宰する「楯の会(たてのかい)」会員4人とともに訪れた。すでに自衛隊への体験入隊は13度に及び、東部方面総監陸将・益田兼利(当時57歳)とも旧知の仲だった。三島は益田との面会を求め、総監室にすんなり通されると、すきを見て益田に襲いかかり、背後から首を絞め、羽交い絞めにしてロープで両手両足を縛り、手ぬぐいでサルぐつわをし、短刀をつきつけ、日本刀を振りかざし、机、椅子等を重ねて、室内の出入口を封鎖した。

楯の会・・・1968年(昭和43年)10月、東京都中央区銀座8丁目の小鍛冶ビル内に設けた(1)反共、(2)天皇制支持などを主張する団体で、防衛庁の特別許可で自衛隊に集団で体験入隊するなど自衛隊を訓練の場としていた。会員は三島が面接して決めていたが、東大、京大、一橋大、東京外語大、早大、慶大、日大、国学院大、神奈川大などの学生でメンバーが95人おり、それらの経費のほとんどは三島の膨大な印税で賄われた。制服はド・ゴールの軍服をデザインした唯一の日本人デザイナー・五十嵐九十九のデザインによるものでおもちゃの兵隊風だった。警察は「反共的民族派文化サークル」と規定、防衛庁の方でも「自衛隊の良き理解者」程度のグループと考えていた。事件後に解散した。

益田総監らに「自衛隊を集合させ、三島の演説を静聴させろ、応じなければ三島は総監を殺し、自決する」と脅迫し、1000人近い市谷駐屯地の自衛官を前に、三島は「楯の会」の制服、<七生報國>と書かれた日の丸の鉢巻きに白手袋、愛刀の「関の孫六」をひっさげてバルコニーへ出て、憲法改正や自衛隊員の精神的決起を訴える演説をし、「檄」文を配布した。

七生報國(しちしょうほうこく)・・・この世に生まれ変わることができるかぎり、国に対して忠誠をつくす、という意味。

その「檄」文冒頭の一説。<われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態に落ち込んでゆくのをみた。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善のみに捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰していくのを、歯噛みしながら見ていかなければならなかった・・・・・・>

自衛隊員たちはそっぽを向いたり、「頭を冷やせ、三島」「バカ野郎!」などのヤジを飛ばしたりしている。それでも、三島は語り続けた。「自分と一緒に立つ者はいないか」「日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでよいのか、生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか・・・・・・」三島は最後に自衛隊員を睨みつけ「貴様らそれでも武士か!」と二度絶叫した後、「天皇陛下万歳」を唱えてから総監室へ消えた。

その後、総監室で三島は捕縛した益田に対し「こうするよりほかに仕方なかったのです。お許しください」と言い、やがて上着を脱ぎ、正座して短刀を両手に持つとそのまま、「エイッ」と気合を込めて左わき腹を突き刺して割腹した。楯の会会員で元早大生・森田必勝(25歳)の介錯を受けて三島の首はじゅうたんの上に転がり死亡した。さらに森田も割腹、元神奈川大生・古賀浩靖(当時23歳)が介錯し死亡した。このほか、神奈川大生・小賀正義(当時22歳)、明治学院大生・小川正洋(当時22歳)が事件に参加した。『アサヒグラフ』(朝日新聞社/1923年[大正12年]〜2000年[平成12年]に刊行した週刊グラフ誌)の表紙には三島がこの日にバルコニーで演説している写真が使われ、三島の首がころがっている写真が掲載された。

『アサヒグラフ』(1970年12月11日号 特報・三島由紀夫 割腹す)

三島の割腹自殺は世に大きな衝撃を与えた。中でも言論界、マスコミ界への衝撃は甚大であった。

三島の死について夥しい批評、見解が表明されたが、その一般的評価は(1)ナンセンスとみるもの、(2)日本精神とその美学に殉じたとみるもの、(3)自己顕示または演技とみるもの、と3つに大別された。

1971年(昭和46年)3月23日、東京地裁(櫛淵理裁判長)で初公判が開かれた。古賀浩靖、小賀正義、小川正洋の3人は監禁致傷、嘱託殺人、職務強要罪、傷害罪、暴力行為等処罰に関する法律の5つの罪名で起訴されていた。

嘱託殺人については三島と森田の遺体解剖の結果、2人の直接の死因は介錯による頸部切断であり、しかも事前の打ち合わせで森田か古賀が三島を、小川か小賀が森田を介錯することにしていた事実が明らかとなっていたため、共同正犯とした。

1972年(昭和47年)3月23日、東京地裁で弁護側が最終弁論を行い、審理は1年で結審した。古賀、小賀、小川の3人は最終陳述で「どんな刑を受けても本望です」と述べた上で「自分らが否定する憲法の下で裁判を受けることに矛盾を感じる。裁判長に日本人として判決を書いていただきたい」と述べた。

4月27日、東京地裁は古賀浩靖、小賀正義、小川正洋の3人に対し、検察側の起訴事実をほぼ全面的に認めてそれぞれ懲役4年の判決を言い渡した。

1972年(昭和47年)4月16日、三島の葬儀委員長を勤めたノーベル賞作家の川端康成がガス自殺した。72歳だった。遺書はなかった。自殺の動機については1968年(昭和43年)に日本人初のノーベル文学賞を受賞したことで多忙になり、小説よりも雑事に追われていったこと、日頃から強い睡眠薬を飲んでいたこと、愛弟子の三島由紀夫が自殺したこと、1972年(昭和47年)の秋に開かれる国際ペンクラブ総会の資金集めなどで精神的にも肉体的にも疲労していたことが取り沙汰された。1977年(昭和52年)5月号の雑誌『展望』(筑摩書房/1946年[昭和21年]1月創刊/創刊時の編集長は臼井吉見/1951年[昭和26年]に一度休刊したのち、1964年[昭和39年]から第2期を刊行、1978年[昭和53年]に廃刊した月刊総合雑誌 )に臼井吉見の小説「事故のてんまつ」が発表された。この小説では川端康成をモデルとして書かれており、5年前の川端の自殺は川端が自家のお手伝いさんの女性に異常なまでの執着を持ち、その関係が破綻したことからきた孤独な絶望感に真因があったと書かれている。このショッキングな内容はたちまち話題になり、4月に刊行した『展望』はすぐに売り切れて異例の増刷まで行われ、翌5月に出版した単行本は3週間で17万部を売るベストセラーになった。この事態に対し、川端家では小説の内容は「事実無根」「故人を傷つけるもの」として作者と出版元の筑摩書房を相手に『事故のてんまつ』の出版、販売の中止を求める民事訴訟を東京地裁に起こした。のちに臼井側も謝意を表明した上で『事故のてんまつ』の増刷も中止したことにより、8月、川端家側もこれを認め、和解が成立した。

『事故のてんまつ』

参考文献・・・
『別冊歴史読本 戦後事件史データファイル』(新人物往来社/2005)

『犯罪の昭和史 3』(作品社/1984)
『裁判からみた百大事件の結末』(ぎょうせい/真島一男/1991)
『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会[編]/2002)

「三島由紀夫」の画像

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