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オウム真理教

【 事件関連年表 】

★・・・死亡事件

1955年(昭和30年)  3月 2日 熊本県金剛村(現・八代市)で松本智津夫が畳職人の四男として生まれる。五男二女の7人兄弟で下から2番目。小さい頃から先天性緑内障のため左目がほとんど見えず、右目も弱視。
1961年(昭和36年)  4月 自宅近くの公立小学校に入学するが、1年生の途中で熊本県立盲学校の小学部に転校させられる。自宅から通学することも出来たが、就学奨励費が支給され経費がほとんどかからないと考えた両親が強引に寄宿舎に入れた。
1975年(昭和50年)  3月 熊本県立盲学校専攻科(鍼灸)卒業後、熊本市内の鍼灸院で働く。
1976年(昭和51年)  9月 6日 傷害事件を起こし八代簡裁で罰金1万5000円。
1977年(昭和52年)  5月25日 代々木ゼミナール入学。千葉県船橋市で針灸師として治療を始める。
1978年(昭和53年)  1月 7日 松本智津夫が22歳のとき、石井知子(当時18歳)と結婚。千葉県船橋市で「漢方亜細亜堂薬局」開業。
   7月22日 長女を出産。
1981年(昭和56年)  2月 健康食品と漢方の店「MBA薬局」開業。次女を出産。
1982年(昭和57年)  7月13日 薬事法違反で東京簡裁で20万円の罰金刑を受ける。
1984年(昭和59年)  2月14日 東京都渋谷区で「オウム神仙の会」を設立。松本智津夫が初めて「麻原彰晃」と名乗る。オウム(AUM)とはサンスクリット語で、Aは宇宙の「創造」、Uは「維持」、Mは「破壊」の意味。
   5月28日 株式会社「オウム」を設立&登記。ヨーガ教室「鳳凰慶林館」でダイエット美容の指導や健康食品の販売を始める。この道場に保険会社の飯田エリ子が通い、会社同僚の石井久子もスタッフとして手伝う。
1985年(昭和60年)  9月 雑誌『ムー』(学習研究社)や『トワイライトゾーン』(ワールドフォトプレス)に麻原彰晃の「空中浮遊」写真、石井久子や飯田エリ子がレオタード姿でヨーガのポーズをとった写真が掲載される。
1986年(昭和61年) 10月 本部を世田谷区に移転。会員350人。
1987年(昭和62年)  7月 「オウム真理教」と改称。信者600人。すべての財産を投げ出して出家する制度を始める。教祖は尊師(グル)に改め、出家信者を「サマナ」と呼んだ。
  11月 ニューヨーク支部を設立。
1988年(昭和63年)  3月 教祖の血を飲む「血のイニシエーション」、100万円のお布施が必要。
   7月 6日 麻原彰晃が幹部らとインドでダライ・ラマに謁見。
   8月 静岡県富士宮市富士山総本部道場を開設。信者1500人。
   9月22日 在家信者の真島照之(25歳)水死事件。この頃、信者3000人。
1989年(平成 元年)  2月10日 出家信者の田口修二(21歳)リンチ殺人事件。脱会しようとしたため殺害。
   3月 東京都知事に、「宗教法人規則認証申請書」を提出。
   6月 東京都は「未成年者に高額なお布施をさせて出家させることに親たちが反対運動を起こしている」として、申請書の受理を保留。これに対し、オウム真理教は鈴木俊一都知事を相手取り、「行政の不作為の違法確認訴訟」を東京地裁に起こし、都庁や文化庁に押しかけて抗議。
   6月22日 坂本堤弁護士らが「オウム真理教被害対策弁護団」を結成。
   8月 「真理党」を設立。
   8月25日 東京都が「オウム真理教」を宗教法人として認証。
   8月29日 オウム真理教が松本智津夫を代表者として設立登記。
  10月 2日 『サンデー毎日』によるオウム批判記事の連載開始。
  10月21日 「オウム真理教被害者の会」を結成。
  10月26日 早川紀代秀、上祐史浩、青山吉伸がTBSに抗議、放送中止を要求。
  10月31日 早川紀代秀、上祐史浩、青山吉伸が横浜法律事務所で坂本堤弁護士と面会。
  11月 4日 坂本堤弁護士一家3人殺人事件。坂本堤(33歳)、都子(さとこ/29歳)、龍彦ちゃん(1歳)が死亡。
  11月15日 坂本一家殺害事件公開捜査。
  11月21日 麻原彰晃ら幹部、実行犯を含めてドイツに出国。
  12月 1日 ボンで事件関与の否定記者会見。この頃、出家信者330人、在家信者4000人。
1990年(平成 2年)  2月18日 衆議院総選挙に「真理党」25人立候補。全員落選。麻原彰晃は1783票。麻原彰晃が遠藤誠一らにポツリヌス菌培養を指示。

ポツリヌス菌・・・食中毒原因菌の中でも特に死亡率が高く、酸素のないところでも生息する。複視、発声障害、呼吸障害などの症状が出る。

   4月16日 石垣島でセミナー。約2000人が参加したとされ、一人あたり費用30万円。
   5月 熊本県波野村約15ヘクタールの土地を取得し、造成を開始。
1991年(平成 3年)  春 山梨県上九一色村に教団施設群の建設を開始。
   9月 麻原彰晃と上祐史浩がテレビ朝日の『朝まで生テレビ』に出演。
  11月 モスクワに「ロシア日本大学」を設立。
1992年(平成 4年)  3月 麻原彰晃が約300人の信者を連れてロシア救済ツアーを実施。
   4月 ロシアでラジオ放送『エヴァンゲリオン・テース・バシレイアス』を開始。
   9月 モスクワ支部を開設。長男を出産。
  12月10日 東京都港区に東京総本部道場を開設。
1993年(平成 5年)  2月28日 村井秀夫らがロシアから自動小銃の部品や銃弾を持ち帰る。
   3月 『麻原彰晃、戦慄の予言』を出版、1997年に「ハルマゲドン」が起きると予言。
   4月 早川紀代秀がオーストラリアを訪問、ウェスタン・オーストラリア州に牧場を購入。
   4月 9日 麻原彰晃が説法で初めて「サリン」について言及する。

サリン・・・ナチス・ドイツが開発した有機リン系の神経ガス。神経の興奮は神経伝達物質であるアセチルコリンによって伝えられるが、正常なときは、アセチルコリンは酵素によって分解される。だが、サリンなどの有機リン系物質はこの酵素と結合するため、その結果、アセチルコリンが体内にあふれ、次の神経伝達が出来なくなり、中枢神経や運動神経に障害が現れ、死亡する。

   6月 台湾にパソコン会社「マハーポーシャ台北支店」を設立。
   6〜7月 教団亀戸道場で2度に渡り炭疽菌を散布するが、悪臭を発しただけで失敗に終わる。

炭疽菌・・・通常、土壌の中などに胞子の状態で存在し、家畜や人に感染する。人に感染すると呼吸困難や敗血症を起こす。吸い込んで放置したままだと致死率が高いが、相当な技術と特別な機材を用いて霧状にしなければ兵器として効果的ではない。

   6月 6日 ★越智直紀(25歳)逆さ吊り修業死亡事件。遺体は石井久子らが焼却。
   8月 土谷正実がサリン大量生成方法を完成、村井秀夫はサリン70トン生産計画を麻原彰晃に説明し、了解を得る。
   9月 第7サティアン完成。
  10月25日 麻原彰晃が「教団施設が毒ガス攻撃を受けている」と説法。
  11月 土谷正実と中川智正がサリン600グラムの生成に成功。村井秀夫は2人に5キロ生成を指示。モスクワで警備会社「オウムプロテクト」設立。
  12月 早川紀代秀が旧ソ連製大型ヘリを購入。麻原彰晃が土谷正実にLSD製造を指示。
  12月18日 土谷正実と中川智正がサリン3キロ生成に成功。八王子市の創価学会施設の周辺で噴霧し、池田大作名誉会長殺害を図るが失敗。新実智光がサリンを吸入し重体に陥る。
  12月末 麻原彰晃が村井秀夫を通じ土谷正実と中川智正にサリン50キロ生成を指示。
1994年(平成 6年)  1月30日 元信者の落田耕太郎(29歳)リンチ殺人事件
   2月 中川智正らがサリン30キロ生成に成功。
   2月28日 麻原彰晃が千葉市内のホテルに横山真人らを呼び、1000丁の自動小銃製造を指示。
   3月 次男を出産。
   4月 村井秀夫が土谷正実に爆薬サンプルの製造を指示。富士川河口付近でサリンの噴霧実験を行い、中川智正がサリン中毒にかかる。
   5月 1日 土谷正実と遠藤誠一がLSDの合成に成功。

LSD・・・スイスで精神薬として開発された幻覚剤リゼルギン酸ジエチルアミドの俗称。当初はアルコール中毒患者の医薬品としての実績があったが、ベトナム戦争では兵士の戦闘意欲と死に対する恐怖感を抑止する目的でも使用された。

   5月 9日 滝本太郎弁護士サリン殺人未遂事件
   6月 1日 旧ソ連製大型ヘリが到着。
   6月 教団組織として省庁制を採用。22省庁を開設し大臣と次官を設置。
   6月27日 松本サリン事件発生。死亡者7人、重軽傷者144人。
   7月 麻原彰晃が中川智正にサリン70トン生成を指示。土谷正実がVXガス製造を開始。
   7月10日 ★元信者の冨田俊男(27歳)リンチ殺害事件。
   7月15日 ★中村徹(32歳)温熱(50度)傷害致死事件。
   8月 村井秀夫が青酸、ホスゲンなどの製造を指示。

ホスゲン・・・第1次大戦中、ドイツが開発した毒ガス。無色で刺激臭があり、目や皮膚を侵し、吸引すると気管支や肺の炎症を起こし、呼吸困難になる。短時間に高濃度を吸引すると死亡する場合もある。

   9月20日 ジャーナリストの江川紹子ホスゲン・ガス襲撃事件
  10月 LSDや覚醒剤を使ったイニシエーションを開始。
  11月 警察による捜索情報が流れ、サリンプラントを肥料プラントに偽装。電気ショックで記憶を消す「ニューナルコ」を開始。
  12月 2日 駐車場経営者の水野昇(当時82歳)VX襲撃事件。

VXガス・・・酸素に触れると気化する無色無臭の液体で有機リン系神経ガス。中枢神経の伝達を妨げ、痙攣と呼吸麻痺を引き起こす。

  12月 5日 「教団の広告塔」と呼ばれた元日劇ダンサーの鹿島とも子の長女(当時19歳)監禁事件。
  12月 9日 ピアニスト監禁事件。
  12月12日 ★会社員の浜口忠仁(28歳)VX殺害事件。会社員の浜口を警察のスパイと決め付け殺害。
1995年(平成 7年)  1月 1日 『読売新聞』一面に上九一色村でサリン残留物が検出されたと報道。
   1月 4日 被害者の会の永岡弘行会長(当時58歳)VX襲撃事件。
   2月28日 目黒公証人役場の仮谷清志(69歳)事務長の拉致監禁致死事件。3月1日、死亡。
   3月18日 麻原彰晃が村井秀夫に地下鉄サリン事件の総指揮を指示(リムジン内共謀)。
   3月20日 地下鉄サリン事件。死亡者12人(のちに2人が事件での死亡者として認定され14人となる)
   3月22日 上九一色村など全国の教団施設25ヶ所を強制捜査。この頃、出家信者1600人、在家信者1万5000人、ロシアで自称3万人。
   3月30日 国松孝次(たかじ/当時58歳)警察庁長官狙撃事件
   4月 8日 林郁夫が逮捕される。
   4月23日 村井秀夫(36歳)刺殺事件
   4月30日 新宿駅地下トイレに青酸ガス発生装置を仕掛けるが失敗。5月3日も同様に仕掛けるが失敗。

青酸・・・無色の結晶からできており、高濃度の場合はアルカリ性に保っておかないと、シアン化水素を発生する。金属精錬やメッキ、殺虫剤などに使われる。毒殺に用いられてきたものは、このシアン化カリウム塩あるいは、ナトリウム塩であり、どちらも水溶性で飲料にもよく溶ける。シアン化水素の溶液を吸うだけで、皮膚がただれたり、癌になることがある。また、シアン化水素の蒸気を吸うと、ほぼ瞬間的に麻痺が起き、けいれんが始まり、呼吸が止まり死亡する。致死量は0.15〜0.3グラム。

   5月 5日 新宿駅地下トイレ青酸ガス事件。発火直後、駅員が消火。
   5月 6日 林郁夫の自供で地下鉄サリン事件の全容解明。
   5月16日 麻原彰晃が殺人容疑で逮捕される。東京都庁で小包爆弾が破裂し、秘書が重傷。
   5月20日 神奈川県警が岡崎一明の自首調書を作成。
   5月24日 公安調査庁がオウム真理教を破壊活動防止法(破防法)調査団体に指定。
   6月 6日 松本智津夫を地下鉄サリン事件で起訴。1996年(平成8年)までに17事件で起訴。
   9月 6日 新潟県名立(なだち)町の山中で坂本弁護士の遺体が発見される。富山県魚津市の山中で都子の遺体が発見される。岡崎一明が逮捕される。
   9月 9日 6日に続き、長野県大町市の山中で龍彦ちゃんの遺体が発見される。
  10月 7日 上祐史浩が逮捕される。
  10月30日 東京地裁が宗教法人「オウム真理教」に解散命令。12月19日に東京高裁が教団側の即時抗告を棄却し、解散命令が確定。
  12月14日 村山総理が破防法の解散命令申し立ての方針を表明。
  12月20日 公安調査庁が破防法の弁明手続きを官報公示。
1996年(平成 8年)  1月18日 公安調査庁で破防法の弁明手続き開始。
   3月28日 オウム真理教の破産決定。
   4月 9日 TBSの磯崎洋三社長が坂本弁護士インタビュー・ビデオ問題の責任を取り辞任。
   4月24日 東京地裁で松本智津夫の初公判。48枚の一般傍聴券を求めて1万2292人が並ぶ。
   7月11日 公安調査庁が公安審査委員会に対して破防法上の「団体解散の指定」処分を請求。
1997年(平成 9年)  1月31日 公安審査委員会が「オウム真理教の将来の危険性を認めることは困難である」と判断し、破防法に基づく解散指定処分の請求が棄却された。
1998年(平成10年)  1月16日 東京地裁での松本智津夫の第62回公判で検察側がサリン負傷者3920人を起訴事実から撤回。
   5月26日 東京地裁が地下鉄サリン事件などで林郁夫の自首と犯罪解明に対する貢献を認めて異例の無期懲役判決。
1999年(平成11年) 12月 1日 教団が初めて一連の事件への関与を認めて被害者への謝罪と補償を明言した。
  12月 3日 オウム新法として、無差別大量殺人行為を行なった団体の規制に関する法律(団体規制法)と特定破産法人の破産財団に属すべき財産の回復に関する特別措置法(被害者救済法)が成立、27日施行。
  12月29日 上祐史浩が広島刑務所から出所。
2000年(平成12年)  1月18日 教団の名称を「アレフ」に改称。上祐史浩が会見で麻原彰晃が一連の事件に関与していたことを初めて認める。
   1月31日 公安審査委員会が「アレフ」に対し3年間の観察処分を決定。
  10月 5日 東京地裁での松本智津夫の第170回公判で検察側が審理の迅速化を図る狙いで実質的な被害者が出ていない事件(薬物密造4件)の起訴を取り消し。
2002年(平成14年)  3月29日 九州大学医学部を合格して入学手続きを終えた元信者の入学を取り消したことが明らかに。
2003年(平成15年)  2月 7日 教団の名称を「アーレフ」に改称。
  10月31日 東京地裁で松本智津夫の第256回公判が開かれ、弁護側が無罪を主張し結審。
2004年(平成16年)  2月16日 公安調査庁が団体規制法に基づき、27日の松本智津夫の判決を前に、全国のアーレフ関連施設11ヶ所を一斉立ち入り検査。
   2月27日 東京地裁で殺人罪などに問われた松本智津夫に対する判決公判が開かれ、裁判長は、松本を一連の13件の事件で首謀者と認定し、求刑通り死刑を言い渡した。弁護側は控訴した。
   7月 7日 国松孝次・警察庁長官銃撃事件で、警視庁の元巡査長で会社員のK・T(当時39歳)、U(49歳)、S(当時36歳)の3人と爆発物取締罰則違反の疑いでI(当時35歳)が逮捕される。 
   7月28日 国松孝次・警察庁長官銃撃事件で、殺人未遂などの疑いで逮捕された4人について、東京地検は「証拠が乏しく公判維持は困難」として、処分保留のまま釈放した。
   9月17日 国松孝次・警察庁長官銃撃事件で、処分保留のまま釈放された4人について東京地検は嫌疑不充分として不起訴とした。
2006年(平成18年)  9月15日 最高裁で松本智津夫に対し特別抗告棄却により死刑確定。
2007年(平成19年)  5月 7日 教団から脱退した上祐史浩が新団体「ひかりの輪」を設立し代表に。ひかりの輪
2008年(平成20年)  3月26日 東京地裁で債権者集会が開かれ、破産管財人の阿部三郎弁護士が破産手続きの終了を宣言した。
 5月20日 教団の名称を「アレフ」に改称。
11月26日 東京地裁で第17回債権者集会が開かれ、管財人の阿部三郎弁護士が最終的な配当総額は約15億8000万円(教団の債務総額は約51億5800万円)になったことを報告した。
12月18日

「オウム真理教犯罪被害者等を救済するための給付金の支給に関する法律」(オウム犯罪被害者救済法)が施行され、地下鉄サリン事件などオウム真理教による8つの事件により亡くなられた方のご遺族、障害が残った方、傷病を負った方に対して給付金が支給されることになった。被害の程度に応じて10万〜3000万円が給付される。

2009年(平成21年)  7月10日 オウム真理教犯罪被害者支援機構(理事長・宇都宮健児弁護士)は「ひかりの輪」(教団から脱退した上祐史浩が設立&代表)が支援機構に対し損害賠償債務の支払いをすることで合意したと発表した。
2011年(平成23年) 11月17日 オウム真理教の主流派「アレフ」が1000人以上の信者数を公安調査庁に報告したことが判明。公安調査庁は団体規制法に基づき、年4回信者数を報告させているが、報告ベースの信者数が1000人を超えたのは2007年に上祐史浩前代表が率いる「ひかりの輪」と分裂して以降初めて。
  12月31日 特別手配されていた平田信(まこと)が丸の内署に出頭。翌日、逮捕。
2012年(平成24年)  1月23日 団体規制法に基づくオウム真理教に対する観察処分について公安審査委員会(田中康久委員長)は主流派の「アレフ」と「ひかりの輪」双方について処分を3年間延長することを決めた。処分の更新は4回目。
   6月 3日 特別手配されていた菊地直子が逮捕される。
   6月15日 特別手配されていた高橋克也が逮捕される。
2018年(平成30年) 7月6日 松本智津夫(麻原彰晃)・早川紀代秀・井上嘉浩・新実智光・土谷正実・中川智正・遠藤誠一の7人の死刑が執行される。
  7月26日 岡崎一明(現姓・宮前)・横山真人・端本悟・林泰男(現姓・小池)・豊田亨・広瀬健一の6人の死刑が執行される。
2020年(令和 2年) 3月10日 地下鉄サリン事件で重い後遺症と闘ってきた女性がサリン中毒による低酸素脳症で死亡した。これで地下鉄サリン事件での犠牲者は14人となった。


主な事件の裁判の経過など

 

【 主な事件 】

在家信者の真島照之水死事件

[ 在家信者の真島照之水死事件 ]

1988年(昭和63年)9月下旬、富士山総本部道場へ「百日修業」にきていた真島照之(25歳)は薬物中毒だったらしく、修業中に奇声を発して走り回ったりするので、9月22日、麻原彰晃がサマナ(出家信者)2人に頭を冷やすように命じた。2人は真島を浴室に連れて行き頭に水をかけたり、浴槽に顔を浸けたりしているうちに真島が呼吸しなくなった。驚いた2人が早川紀代秀、岡崎一明、村井秀夫に知らせて人工呼吸を施した。やがて麻原も駆けつけ、エネルギーを注入する儀式を行ったが、死亡したことが分かると、「これが公になれば評判が落ちる」からということで内密に処理することになった。早川、岡崎、村井らが死体をステンレス製のドラム缶に入れ、レンガを積んだ護摩壇で焼いて、遺骨をカナヅチで叩いて砕き、女性信者がこれをスリバチで粉々にして上九一色村の精進湖へ遺棄した。

出家信者の田口修二リンチ殺人事件

[ 出家信者の田口修二リンチ殺人事件 ]

田口修二(死亡時21歳)は福岡県北九州市の私立高校の電気科を卒業し、大手家電メーカーに就職したが、1988年(昭和63年)6月に退職して出家し、富士山総本部道場で修業しながらサティアンビルの電気保全などを担当していた。だが、出家してから4ヶ月後くらいから「こんな修業で解脱できるわけがない」と不満をもらしていた。そこで、田口は東京のオウム出版へ行かされた。そこでオウム出版の営業責任者の岡崎一明に指示されて書店回りなどをしていたが、1989年(平成元年)1月上旬に、「真島の事件があってから教祖を信じることができなくなりました。帰郷して自分なりに修業したい」と言った。岡崎はあれこれ説得したが、田口の気持ちは変わらなかった。岡崎はこのことを麻原彰晃に報告すると、麻原は田口を富士山総本部に戻らせ、独房修業を命じた。コンテナ内にカギをかけて閉じ込め、食事は1日に1回だけで、麻原の説法やマントラなどの録音テープを聞かせた。2月10日、独房に入ってきた早川紀代秀、村井秀夫、岡崎一明、新実智光、大内利裕(としやす)の5人に囲われ、「このまま脱会できないなら、自分が教祖を殺すかもしれない」と答えた。5人は田口がオウムを脱会する考えが変わらないならポアしろと麻原に命じられていたので、大内が見張りに立ち、残った4人が田口の首にロープを巻いて左右から引っ張ったが、激しく暴れて首を絞められず、新実が他の3人が肩などを押さえつけさせて、両手で首を強くねじり絶命させた。このあと真島照之と同じように死体を処理した。

坂本堤弁護士一家3人殺人事件

[ 坂本堤弁護士一家3人殺人事件 ]

1989年(平成元年)11月4日未明、横浜市磯子区洋光台の坂本堤弁護士(33歳)宅で坂本と妻の都子(さとこ/29歳)、長男の龍彦ちゃん(1歳)の3人が突然、行方不明になった。部屋にはオウム真理教のバッチ「プルシャ」が落ちていた。当時、坂本は教団の被害者からの訴えでイニシエーションのインチキ性などを追及、教団対策弁護団を結成し、民事訴訟の準備をしていた。また、マスメディアを通じて教団を批判し、教団弁護士の青山吉伸や広報部長の上祐史浩らと激しく対立していた。その矢先の失踪・行方不明ということで、神奈川県警は教団による犯行ではないかと捜査を行ったが、難航した。地下鉄サリン事件[1995年(平成7年)3月20日]によって教団メンバーの岡崎一明が逮捕されて、初めて真相が明らかになった。神奈川県警の調べでは、「被害者の会」など坂本弁護士をこのまま放置しておくと教団の障害になるという理由から麻原彰晃は「ポアしなければならない」と殺害を指示。早川紀代秀、村井秀夫、岡崎一明、中川智正、新実智光、端本悟の実行犯6人は1989年(平成元年)11月4日午前3時ころ、鍵のかかっていない玄関から坂本弁護士宅に侵入し、端本が坂本に馬乗りになり、岡崎が絞殺、新実が都子を絞殺、中川が龍彦ちゃんの口をふさいで殺害した。その後、近所に聞こえないように、坂本が流した鼻血や村井が都子に指を噛まれて出血した血痕が布団に付着したことから遺体を布団と一緒に車に積んで富士総本部に運んだ。室内にあった「プルシャ」は中川が落としたものだった。捜査をしにくくするため、3人の遺体を3県に分けて埋めることに決め、坂本弁護士を新潟県内、都子を富山県内、龍彦ちゃんを長野県内の山林に穴を掘って埋めた。犯行時、手袋をしていなかった早川、村井は指紋を消去する手術を施した。1995年(平成7年)9月6日、新潟県名立(なだち)町の山中で坂本弁護士の遺体、富山県魚津市の山中で都子の遺体が発見された。9月9日、長野県大町市の山中で龍彦ちゃんの遺体が発見された。

関連サイト・・・生きてかえれ! 坂本弁護士一家殺害事件 5年10ヶ月の軌跡
関連書籍・・・『全真相 坂本弁護士一家拉致・殺害事件』(文藝春秋/江川紹子/1997) / 『三つの墓標 小説・坂本弁護士一家殺害事件』(小学館/佐木隆三/2002)

元信者の落田耕太郎リンチ殺人事件

[ 元信者の落田耕太郎リンチ殺人事件 ]

1994年(平成6年)1月30日未明、山梨県上九一色村のオウム教団施設で元信者の落田耕太郎(29歳)が殺害された。落田は教団附属病院で薬剤師をしていたが、その病院で難病のパーキンソン病を患った女性患者(当時45歳)と知り合った。落田は麻原彰晃のオウムが弾圧されているという言動に不信をもち、半月ほど前に脱会していた。また、この女性への治療にも疑問をもち、病院から連れ出そうと女性の息子で信者の保田英明(当時28歳)とともに施設に侵入し、第6サティアンで女性患者を発見したものの、逆に捕まってしまった。2人は麻原の前に連れていかれたが、麻原は保田に「落田はポアしかない。お前が殺(や)れば命は助けてやる」と殺害を命令した。麻原の妻の松本知子、村井秀夫、新実智光ら最高幹部11人がいる前で保田は落田の首にロープを巻いて他の教団幹部とともに絞殺した。遺体はマイクロ波装置を組み込んだドラム缶で焼却されて灰となって棄てられた。

滝本太郎弁護士サリン殺人未遂事件

[ 滝本太郎弁護士サリン殺人未遂事件 ]

1994年(平成6年)5月9日、「オウム真理教被害対策弁護団」と「坂本弁護士を救う全国弁護士の会」のメンバーである滝本太郎弁護士は、甲府地裁へオウム関連の民事裁判のため車を運転して出かけていたが、その2日前の麻原彰晃の「滝本というアンチ教団の弁護士を魔法(サリン)を使ってポアしろ」という指示を受け、午後1時15分ころ、実行犯の女性信者(未成年)がサングラス、マスク、帽子で変装して甲府地裁の駐車場に止めてあった滝本の車の運転席側フロントウインドウのアンダーパネル部分に30ミリリットルのサリンを流し込んだ。このとき実行犯は気化したサリンを吸い込んでしまい、呼吸困難になったが、現場近くで待機していた中川智正が用意していたサリン解毒剤の「パム」の注射を2回続けて打った。滝本は裁判を終え、車を運転して神奈川県大和市の自宅へ帰る途中で、サリンの中毒症状である縮瞳が生じて目の前が暗くなったが、なんとか家にたどり着いた。この事件では実行犯の女性信者の他、現場に居合わせた遠藤誠一、中川智正、富永昌宏、直接実行を指示した青山吉伸それと麻原が共犯者として起訴されている。

松本サリン事件

[ 松本サリン事件 ]

1994年(平成6年)6月27日、麻原彰晃(当時39歳)が、実行部隊の村井秀夫(当時35歳)、新実智光(当時30歳)、遠藤誠一(当時34歳)、端本悟(当時27歳)、中村昇(当時27歳)、富田隆(当時36歳)、中川智正(当時31歳)の7人に命じて、長野県松本市でサリンを噴霧させた。これによって死者7人、重軽傷者144人を出す大惨事となった。7月3日、捜査本部は記者会見で「サリンと推定される物質を検出した」と発表。ここでマスコミはこの事件を「松本サリン事件」と名付けた。サリンは第一通報者の河野義行(当時44歳)宅の周辺6ヶ所から検出された。これ以降、警察はもちろん、テレビ報道や新聞記事で河野を犯人扱いした。結局、翌年3月20日の地下鉄サリン事件が発生するまで疑惑の人物とされた。「松本サリン事件」は土地問題の訴訟で不利な判決を出した裁判官への報復と製造できたサリンの効力テストのために、裁判官宿舎を狙って噴霧車による攻撃を行ったものとされている。

目黒公証役場の仮谷清志事務長の監禁致死事件

[ 目黒公証役場の仮谷清志事務長の監禁致死事件 ]

1995年(平成7年)2月28日午後4時半ころ、東京都品川区上大崎の路上で目黒公証役場事務長の仮谷清志(69歳)が帰宅途中、ワゴン車に拉致された。仮谷の妹(当時62歳)は目黒公証役場の先代公証人の夫人で、裁判官出身の夫が1987年(昭和62年)5月に死亡し、公証役場を兼ねた自宅の土地・建物と別荘、株券、ゴルフ会員権など、5億円相当の遺産を相続していた。その事務長の妹がオウム真理教が経営するヨーガ道場に通ったのがきっかけで、1993年(平成5年)10月にオウムに在家信者として入信しており、1994年(平成6年)から1995年(平成7年)1月にかけて教団にお布施として合計6000万円寄進した。こうして気軽に現金を寄付したことに麻原が目をつけ、1995年(平成7年)2月10日に第2サティアンで事務長の妹にイニシエーションを授けた。これを「キリストのイニシエーション」と称して、幻覚剤のLSDや覚醒剤を混ぜた液体を飲ませ、個室に閉じ込めて教祖のマントラ(真言)をスピーカーで流し、そのときに生じる幻覚や幻聴を超能力によるものと信じ込ませ、意識が朦朧としているとき、事務長の妹は「今月中に全財産をお布施して、必ず出家する」とサマナ(出家信者)たちの前で約束させられた。そのあと事務長の妹は準サマナとして東京都港区青山道場で寝泊りしていたが、全財産を取り上げられるのではないかと不安になって、口実を設けて外出し身を隠した。2月27日、飯田エリ子(当時34歳)が部下に命じて目黒公証役場に行かせ、事務長に妹の居場所を問い合わせてみるが、「教えるわけにはいかない」と言われた。だが、飯田としてはさらなる巨額の寄付を期待していただけにこのままにしておけなかった。2月28日午前0時から会議が開かれ、飯田は麻原から「お前はどうしようもないヤツだ」とさんざん罵倒された。それから麻原は井上嘉浩、中村昇らと話し合い、公証役場の事務長を拉致して第2サティアンに連行することを決めた。その後の警視庁の調べで、拉致に使われたワゴン車はレンタカーで、その申込書や検出された指紋からレンタルしたのは教団信者のM・T(当時29歳)と分かった。M・Tは女装をし、指紋の消去や整形手術をして逃走を続けていたが、6月に逮捕された。麻原彰晃が井上嘉浩らに仮谷を拉致するように指示し、林郁夫ら8人がワゴン車で待ち伏せして拉致し、車の中で抵抗する仮谷に中川智正が麻酔剤の「ケタラール」や自白剤の「チオベンタールナトリウム」を点滴、注射した。その後、仮谷は山梨県上九一色村の第2サティアンに連れ込まれ、妹の居場所を訊かれても黙ったままだった。仮谷は林郁夫から麻酔剤を打ち続けられて約12時間後の3月1日に心不全で死亡した。遺体はマイクロ波装置付きのドラム缶で3日かけて焼却、焼け残った遺骨は木片で粉々に砕き、本栖湖に棄てられた。

チオベンタール・・・全身麻酔の際に使用される導入用静脈麻酔剤の一種で、超短時間作用性の薬剤。

地下鉄サリン事件

[ 地下鉄サリン事件 ]

1995年(平成7年)3月20日午前8時ころ、東京都千代田区の地下鉄霞ヶ関駅を通る日比谷線、丸ノ内線、千代田線の電車の中で、異常な臭気によって倒れる乗客や駅員が続出し、12人(オウム真理教犯罪被害者救済法上の死亡者1人を加えると13人、さらに2020年3月10日にサリン中毒による低酸素脳症での死亡者を加えると14人となる)が死亡。猛毒のサリンガスによる大規模な無差別テロ事件となった。3月22日、警視庁はオウム教団の犯行とみて、全国の教団施設を強制捜査。5月16日、麻原彰晃(当時40歳)が山梨県上九一色村の教団施設「第6サティアン」の隠し部屋に潜んでいるところを逮捕された。この事件で殺人・殺人未遂で起訴された教団幹部らは13人。麻原は仮谷清志拉致事件などで教団への強制捜査が迫っていることに危機を感じ、捜査を撹乱し首都圏を混乱させる目的で警視庁に近い地下鉄の霞ヶ関駅で電車内にサリンを撒くように指示。サリンは土谷正実(当時30歳)が保管していた中間物質「メチルホスホン酸ジフロリド」で、遠藤誠一(当時34歳)や中川智正(当時32歳)が7リットルを急きょ製造した。事件の総括指揮を村井秀夫(当時36歳)、現場指揮を井上嘉浩(当時25歳)が担当し、実行役の林郁夫(当時48歳)、林泰男(当時37歳)、広瀬健一(当時30歳)、横山真人(当時31歳)、豊田亨(当時27歳)の5人に対して「霞ヶ関駅で午前8時に着く電車に乗り、到着5、6分前に発生させろ」と指示していた。前夜、実行グループは傘の先でサリンの入ったナイロン袋を突き破る予行練習を行うという念の入れようだった。3月20日朝、実行役の5人はサリン600グラムを11のナイロン袋に分けて日比谷線など3線に分かれて乗り込み、新聞紙に包んだナイロン袋を傘で刺してサリンを撒き散らして逃走した。このときの運転手役として、新実智光(当時31歳)、杉本繁郎(当時35歳)、北村浩一(当時27歳)、外崎(とのざき)清隆(当時31歳)、高橋克也(当時37歳)の5人が事件に関わることになる。2010年(平成22年)3月6日、(事件後入浴中に水死したためサリン吸引と死亡の因果関係が証明できないとして)殺人罪の起訴状では被害者とされていなかった死亡者1人を警察当局がオウム真理教犯罪被害者救済法上の死亡者と新たに認定していたことが関係者への取材で分かった。

国松孝次警察庁長官狙撃事件

[ 国松孝次警察庁長官狙撃事件 ]

1995年(平成7年)3月30日午前8時半ころ、警察庁の国松孝次(たかじ)長官(当時58歳)が東京都荒川区南千住の自宅マンションを出て公用車に向かって歩いていたところ、背後から銃弾4発を狙撃され、そのうち3発が当たった。犯人は約20メートル離れた植え込みに隠れていて米国コルト製造の38口径拳銃から発射した。黒っぽいコートにマスク姿で自転車に乗って逃走した。国松長官は意識不明の重体になったが、奇跡的に回復、3ヶ月後には職場に復帰した。前日にオウム真理教の信者が同じマンションで警察を批判する文書を撒いていることからオウム関係者の犯行と見て捜査したが、犯行と直接結び付く証拠は出てこなかった。1996年(平成8年)5月、オウム信者で警視庁現職巡査長の小杉敏行(当時31歳)が、「自分が長官を撃った」「事件には早川紀代秀、井上嘉浩、林泰男、平田信(まこと)が関与した」と告白した。小杉敏行巡査長は1988年(昭和63年)ころからオウム道場に通い、警察情報をオウム側に伝えていたことが分かった。警視庁は極秘に小杉敏行巡査長を調べたが、供述と証拠が一致せず、実行犯の可能性が薄いことから懲戒免職にし、厳重な箔口令を敷いて監禁・隔離し、警察庁にも知らせなかった。10月、このことを内部告白するハガキが各マスコミに郵送され、不祥事隠しがバレ、大問題に発展した。1996年(平成8年)11月、桜井勝警視庁公安部長、井上幸彦警視総監が更迭。小杉敏行元巡査長も再び取り調べられ、「神田川に銃を捨てた」と供述したことから徹底した捜査が行なわれたが、拳銃は発見されなかった。2004年(平成16年)7月7日、小杉敏行元巡査長(当時39歳)、U(当時49歳)、S(当時36歳)の3人と爆発物取締罰則違反の疑いで I (当時35歳)が逮捕されたが、7月28日、東京地検は、「証拠が乏しく公判維持は困難」として、処分保留のまま釈放した。9月17日、東京地検はこの4人について嫌疑不充分として不起訴処分とした。

2008年(平成20年)3月19日、現金輸送車襲撃事件で無期懲役の実刑判決を受けて当時、上告中(その後、最高裁で無期懲役が確定)だった中村泰(ひろし/当時77歳)が警視庁に対し、「国松孝次警察庁長官狙撃事件」の犯行を示唆する供述をしていることが分かった。中村は犯行前後の現場の状況について詳細に供述しているほか、銃撃に使用したとされる回転式拳銃と同種の拳銃を米国内で購入していたことも判明した。中村は2001年(平成13年)10月5日、大阪市都島区の三井住友銀行都島支店(当時)の駐車場で、現金輸送車の男性警備員に発砲、左足に重傷を負わせ、現金500万円入りのジュラルミンケースを奪った事件などで強盗殺人未遂や銃刀法違反の罪で起訴され、2008年(平成20年)6月2日、最高裁で中村の上告を棄却する決定をした。これで無期懲役とした1、2審判決が確定した。中村は警視庁に対し、犯行当時の状況について詳細に述べた上で(1)犯行に使用した自転車を現場から南西約600メートルの喫茶店前に乗り捨てた(2)犯行後にJR山手線に乗り拳銃を東京・西新宿の貸金庫に預けたと供述。このうち(1)については、事件直後の放置自転車一斉捜索で供述通りの場所で発見されていたことが判明。(2)についても、中村が契約していた貸金庫の記録から当日の午前9時26分に開扉されていたことが分かった。また、当初は犯行の2日前に銃撃しようと長官の住むマンションに向かったが、スーツ姿の警察官2人が長官を出迎えたことから警備が強化されたと思い、この日の犯行を断念したと供述。実際、2人の警察官が長官宅を訪れており、この事実は警察内部でもほとんど知られていなかったという。警視庁では、こうした供述が「秘密の暴露」にあたる可能性があるとみている。長官銃撃事件では、米国コルト社製の38口径回転式拳銃と、殺傷力が高く国内で使用例がない特殊なホローポイント型のマグナム弾が使用された。拳銃と銃弾の入手ルートについて中村は、1980年代後半、偽名を使って米カリフォルニア州のガンショップで購入したと供述。警視庁が捜査員を米国に派遣して調べた結果、中村の供述を裏付ける記録が見つかった。拳銃は犯行の翌月、伊豆大島へ向かうフェリーから海に投げ捨てたとしており、警視庁はこのときの乗船記録も入手している。中村は2002年(平成14年)11月に名古屋市で発生した現金輸送車襲撃事件で現行犯逮捕され、この事件では懲役15年の実刑判決が確定している。名古屋の事件で逮捕後、警視庁などが捜査を進めた結果、中村が大阪の事件を引き起こしていたほか、西新宿の貸金庫などに大量の拳銃や実弾を隠し持っていた。中村は産経新聞の取材に対して「(犯行への関与について)否定も肯定もしない」とした上で、警視庁の調べを受けていることは認めている。

中村泰・・・1930年(昭和5年)に東京で生まれ、幼少期は父親とともに中国・大連で過ごす。日中戦争真っただ中の15年に帰国し、茨城県で生活。「秀才」と呼ばれ、東大理科II類に進学。1951年(昭和26年)7月、薬品会社からペニシリンや現金を盗んだとして執行猶予付きの有罪判決を受け、東大を中退。翌年には高級自動車盗で実刑判決を受け、服役する。大学時代は左翼運動に傾倒し、労働者革命を目指していた。学生組織にも所属し、警察隊との衝突を繰り返す中で、権力への不信感を徐々に芽生えさせていく。窃盗事件は革命実現のための資金稼ぎだったとされる。出所後も金庫破りなどを繰り返していた1956(昭和31年)11月、東京都の三鷹駅前にある銀行の金庫破りに失敗した後、路上に止めた車で仮眠。その際、職務質問してきた警察官を射殺し、無期懲役の判決を受けて再び服役する。この事件から20年後の1976年(昭和51年)に仮出所してからは、商品先物取引などで生計を立てながら新たな計画を練っていった。 《明らかに自国の人間が誘拐の被害者になっているにもかかわらず、政府はその救出を試みることなく見殺しにしているとしか言いようのない態度であった。この無気力状態を打開するために何らかの実力行使に訴えなければならない》 中村は北朝鮮による拉致事件が「疑惑」だった昭和60年代、こうした動機から「奪還へ向けての行動部隊」として民兵組織「特別義勇隊」を結成。当面の目標として「朝鮮総連幹部の誘拐」を掲げていたという。計画の実行に向け、中村はこのころから多数の拳銃や実弾を準備。しかし、最終的に人材確保の困難さなどから北朝鮮への行動は断念。次なる標的に選んだのがオウム真理教だった、という。 《私は一貫して反オウム。地下鉄サリン事件後に警察は教団施設へ家宅捜索を行ったが、まだまだ手ぬるいものだった。長官でも倒れればオウムへの捜査を徹底するだろうと思った》 2003年(平成15年)7月、警視庁が三重県名張市の知人宅を家宅捜索した際、拳銃や実弾などとともに一編の詩が見つかっている。

タイトルは「March30 1995」・・・(長官銃撃事件の発生日)

墨田の河畔 春浅く

そぼ降る雨に濡れし朝

静けさ常に変わらねど

獲物を狙う影一つ

満を持したる時ぞ今

轟然火を吐く銃口に

抗争久し 積年の

敵の首領倒れたり

この詩を目にした元捜査員は「警察や権力に対する長年の強い怨念を感じた」という。ただ、被告自身は「創作であって、日記やメモとは違う」と、あくまでも「反オウム」が動機であることを強調する。

2009年(平成21年)3月27日、東京都荒川区の現場マンションの植え込みで銃撃事件の直後に見つかった韓国の10ウォン硬貨について、表面に付着していた人間の皮脂などのDNAを鑑定した結果、オウム教団の「建設省」という部門に所属していた元信者のミトコンドリアDNAと一致したことが判明した。この植え込みの近くに銃撃した実行犯が潜んでいたとみられ、北朝鮮の人民軍バッジも発見されている。元信者は、教団が1994年(平成6年)4〜10月に実施したロシアでの「射撃ツアー」を企画するなど、元教団「建設省大臣」の早川紀代秀の指示で活動していた。また、両親の遺伝情報を受け継ぐ核DNAが「99.9%の確率で本人を特定できる」とされているのに比べ、ミトコンドリアDNAは母親の遺伝情報しか反映しないため精度は落ちる。韓国硬貨も不特定多数の手に触れている可能性があり、実行犯特定の決め手にならないことから、同庁は近く、当時の教団関係者を改めて事情聴取するなどして、実行犯につながる証拠や供述を得たいとしていたが、その後、被疑者の逮捕なし。

2010年(平成22年)3月30日、事件から15年経ったこの日、時効成立。

2011年(平成23年)2月18日、警視庁公安部は事件について初動捜査や取り調べなどに不備があったとする捜査検証報告書を公表した。

国松孝次警察庁長官狙撃事件に関する報道を簡単にまとめると次のようになる・・・

1995年(平成7年)3月30日、事件発生

1996年(平成8年)5月、オウム信者で警視庁現職巡査長の小杉敏行(当時31歳)が「自分が長官を撃った」「事件には早川紀代秀、井上嘉浩、林泰男、平田信が関与した」と告白

2004年(平成16年)7月、犯行の疑いで逮捕されたオウム信者の4人(小杉を含む)は結局、嫌疑不十分で不起訴処分。

2008年(平成20年)3月、(反オウムの?)中村泰(当時77歳)が犯行を示唆する供述

2009年(平成21年)3月、「DNA鑑定で再び、オウム教団の元信者による犯行の疑いが浮上」・・・といった趣旨の報道がされたが、その後、被疑者の逮捕なし。

2010年(平成22年)3月30日、事件から15年経ったこの日、時効成立。

この事件を元に書かれた小説に『狙撃手の祈り』(文藝春秋/城山真一/2023)がある。

関連書籍・・・
『警察が狙撃された日 国松長官狙撃事件の闇』(講談社+α文庫/谷川葉/2002)

『警察庁長官を撃った男』(新潮社/鹿島圭介/2010)
『時効捜査 警察庁長官狙撃事件の深層』(講談社/竹内明/2010)
『公安を敗北させた男 国松長官狙撃事件』(産経新聞出版/小野義雄/2011)

新宿駅地下トイレ青酸ガス事件

[ 新宿駅地下トイレ青酸ガス事件 ]

1995年(平成7年)5月5日夜、東京都新宿区の地下鉄丸ノ内線新宿駅改札口近くの男子トイレ入口に置かれていた2つのビニール袋のひとつが発火したが、駅員がすぐに消し止めた。燃えたビニール袋にはシアン化ナトリウム、もうひとつには希硫酸が入っており、コンドームと濃硫酸を使った発火装置で混合されると、猛毒の青酸ガスが発生する仕組みになっていた。このビニール袋はトイレ奥の個室に仕掛けられていたが、清掃員が発火の30分前に入口付近に移動させていたことが分かった。麻原彰晃の「捜査を撹乱するためにテロをやり続けろ」という指示を受けて、井上嘉浩、中川智正、豊田亨、林泰男らが共謀。4月30日と5月3日にも試みられたが、失敗に終わっている。

東京都庁郵便爆弾事件

[ 東京都庁郵便爆弾事件 ]

1995年(平成7年)5月16日午後7時ころ、東京都新宿区西新宿の東京都庁第1庁舎7階の知事秘書室で青島幸男知事宛てに郵便小包が届いたが、これを受付け業務担当の秘書室担当副惨事の内海正彰(当時44歳)が開封したところ、突然爆発し、副惨事は左手のすべての指と右手の親指を失い、右耳の鼓膜が破れ、さらに、顔や首などに全治2ヶ月の重傷を負った。この郵便は書籍の内部をくり抜かれ、そこにRDXという威力の大きい爆薬を詰めたプラスチック製ケースが入っていて、書籍の表紙を開くと爆発する仕組みになっていた。その後の調べで、知事の教団解散請求を妨害することや、新宿駅地下トイレでの青酸ガス発生が失敗に終わったため、中川智正、豊田亨、富永昌宏、高橋克也が新たに捜査の撹乱を狙って実行したものと分かった。この郵便小包は事件の5日前の11日に都内から投函されているが、爆弾事件のあった16日は丁度、麻原彰晃が逮捕された日でもある。

 

【 主要メンバーの略歴 】

村井秀夫 1958年(昭和33年)12月5日生まれ。大阪府吹田市出身。「歩いて通える」という理由で大阪大学理学部物理学科に首席合格し、X線天文学を専攻。大阪大学大学院理学研究科修士課程修了、理学修士となる。大学院を卒業後、神戸製鋼に就職。直後に麻原彰晃の著書に出会い、感銘を受けてオウムへの入信を決意し退職。親の反対を押し切り、妻と共に出家した。出家後すぐに殺人事件に加担した他、化学に強い土谷正実を説得しサリンの開発を指示。更にレーザー銃、レールガン、ミサイルなど様々な武器や兵器を企画。麻原の右腕かつ教団のナンバー2という絶対的なポジションを得た。1995年(平成7年)4月23日、東京・南青山のオウム総本部前で、山口組系の韓国人の暴力団員に腹を刺され、搬送先の病院で死亡した。
飯田エリ子 1961年(昭和36年)1月28日、横浜市生まれ。地下鉄サリン事件当時は34歳。文化女子大附属杉並高校を卒業後、文化女子大短大生活造形学科卒業し、デパート店員を経て、日産火災海上保険に入社。その後、ヨーガ教室「鳳凰慶林館」に通い始め、「オウム神仙の会」に入会。その後、保険会社を退社後、出家した。
上祐史浩 1962年(昭和37年)12月17日、福岡県城島町に生まれる。地下鉄サリン事件当時は32歳。4年後、東京に引っ越す。早稲田高等学院卒業後、早大理工学部電子通信学科に入学。英語サークルに所属し、ディベート術を学ぶ。その後、早大大学院へ進む。翌年、「オウム神仙の会」入会。大学院修了後、宇宙開発事業団に就職。1ヶ月の研修期間修了と同時に退職し出家。翌年、ニューヨーク支部長を務める。
松本知子 1958年(昭和33年)8月17日生まれ。地下鉄サリン事件当時は39歳。千葉県立木更津高校卒業後、18歳のとき、松本智津夫と結婚。
林郁夫 地下鉄サリン事件当時は48歳。慶大医学部卒業後、茨城県東海村の国立病院で医局長として勤務していたが、43歳のとき、出家。
富田隆 1958年(昭和33年)5月21日生まれ。地下鉄サリン事件当時は36歳。日大理工学部中退後、ヨーガの修業にひかれて「オウム神仙の会」に入り、その後、出家した。
岡崎一明
(現姓・宮前)
1960年(昭和35年)10月8日、山口県生まれ。地下鉄サリン事件当時は34歳。山口県立工業高校卒業後、建設会社に就職したが、その後、転職を繰り返し、25歳で出家。麻原から「弟子として2人目の解脱者」と認められ、石井久子に次いで大師になった。
石井久子 1960年(昭和35年)9月26日、横浜市生まれ。地下鉄サリン事件当時は34歳。私立産業能率短大経営科専攻秘書コース卒業後、日産火災海上保険に入社。その後、会社の同僚の飯田エリ子に誘われて、「オウム神仙の会」に入会。その後、保険会社を退社し出家。
富永昌宏 1969年(昭和44年)2月25日生まれ。地下鉄サリン事件当時は26歳。私立灘高を卒業後、東大理科三類にストレートで合格し、医学部へ進み、6年生のときにオウム真理教に入信。医学部を卒業後は医師免許を取得して東大医学部附属病院で研修医として勤務。「密教の修業者と医師は両立できない」と退職し出家。
横山真人 1963年(昭和38年)10月19日生まれ。地下鉄サリン事件当時は31歳。東海大工学部応用物理学科卒業後、沖電線株式会社の群馬工場に就職。入社した夏から横浜市内のヨーガ道場に通い始める。
青山吉伸 1960年(昭和35年)3月9日生まれ。地下鉄サリン事件当時は35歳。京大法学部に在学中に21歳の最年少で司法試験に合格、司法修習を終了後、法律事務所に勤務。腰痛のためヨーガ道場に通ううちに麻原の超能力に関する著書を読むようになり、その後、オウム真理教に入信。自宅で修業をし始めると腰痛が治った。
井上嘉浩 1969年(昭和44年)12月28日生まれ。地下鉄サリン事件当時は25歳。私立洛南高校入学後、空手道場に通う。高校1年のとき、「修業して解脱するには教えを導く者の存在が必要だ」と阿含宗に入信。その後、空手の練習中に大ケガし、入院中に麻原の著書『生死を超える』を読む。その後、「オウム神仙の会」に入会。その後、日本文化大法学部に合格し、入学手続きを取るが、その直後に出家し、ほとんど通学することなく夏休みに中退。
林泰男
(現姓・小池)
1957年(昭和32年)12月15日生まれ。地下鉄サリン事件当時は37歳。工学院大(2部)電気工学科卒。
豊田亨 1968年(昭和43年)1月23日生まれ。地下鉄サリン事件当時は27歳。東大理学部物理学科卒業後、東大大学院理学系研究科で素粒子論を研究、物理学専攻修士課程修了。物理学専攻博士課程へ進学したが、1ヶ月経たないうちにオウム真理教に出家して大学院には戻らなかった。
広瀬健一 1964年(昭和39年)6月12日生まれ。地下鉄サリン事件当時は30歳。早大高等学院から早大に進学し理工学部応用物理学科を主席で卒業後、早大大学院の理工学研究科で超伝導を研究し、物理および応用物理学専攻の修士課程を修了。日本電気の中央研究所に就職が内定していたが、修士課程を修了すると、オウム真理教に出家した。
端本悟 1967年(昭和42年)3月23日生まれ。地下鉄サリン事件当時27歳。早大法学部を3年で中退後、出家。
早川紀代秀 神戸大農学部でバイオを学び、大阪府立大大学院で緑地計画工学を専攻。その後、大手ゼネコンに入社したが、建物の居住性や安全性より利潤追求を優先とした設計・施工、社内の派閥抗争に嫌気がさして5年で退社。その後、設計コンサルタントなど数社を転々とする。
新実智光 1964年(昭和39年)3月9日生まれ。地下鉄サリン事件当時は31歳。私立愛知学院大法学部に進学。大学4年のとき「オウム神仙の会」に入会。大学卒業後、就職するが、クルマを運転中2回も事故を起こして「魔境に入った」と信じ込み、半年で退社し、出家した。
遠藤誠一 1960年(昭和35年)6月5日生まれ。地下鉄サリン事件当時は34歳。札幌北高校卒業後、帯広畜産大獣医学科に入学。卒業後は帯広畜産大大学院に進学し、「家畜微生物学」を専攻。修士課程を終了後、獣医師の資格を取得。その後、京大大学院医学研究科博士課程に進み、ウイルス研究所で血清免疫を研究。その後、「オウム神仙の会」に入会。京大大学院を中退後、出家。
中川智正 1962年(昭和37年)10月25日生まれ。地下鉄サリン事件当時は32歳。京都府立医科大に入学。6年生のとき、オウム真理教の大阪道場に初めて行く。卒業後、医師免許を取得して、大阪鉄道病院で研修医として消化器内科で勤務しながらオウム真理教の大阪支部へ通った。その後、外科に移り、ガン患者を担当したが、次々に死んでいく患者を見ながら無力感にとらわれる。その後、手術室で倒れ、全く仕事ができなくなり、しばらく病院を休んだ。その後、麻原に「近いうちに附属病院をつくるから」と言われ、恋人とともに2人で出家した。
土谷正実 1965年(昭和40年)1月6日生まれ。東京都出身。筑波大学大学院化学研究科修士課程修了、博士課程中退。化学(物理化学と有機化学)を専攻。教団の化学者として化学兵器や薬物を生成し、マスコミから化学班キャップと呼ばれた。
平田信(まこと) 札幌市の中学から私立高校に入学。射撃部(エアライフル)に所属し、3年の時にはインターハイに出場し、団体戦11位(28チーム中)、個人戦45位(90人中)。札幌商科大(現・札幌学院大)に進学。都内の衣料品メーカーに就職したが、1年で辞め、1988年(昭和63年)8月にオウム真理教に入会した。空手やボクシングが得意だったことから、麻原の警護を担当。
菊地直子 1971年(昭和46年)12月9日生まれ。埼玉県出身。大阪教育大付属天王寺中学校から大阪教育大付属高校天王寺校舎へ進学。陸上部に所属。マラソンで痛めた足の治療のためヨガを始め、1989年(平成元年)、親の反対を押し切り、オウム真理教に入信。入信のきっかけは麻原の書物を読んだことだった。1990年(平成2年)、大阪教育大教育学部障害児教育課程に入学するも一度も出席していない。その後、出家。
高橋克也 1979年(昭和54年)、神奈川県生まれ。 横浜市の高等専門学校卒業後、電機会社に勤務。1987年(昭和62年)5月、オウム神仙の会に入信し、7月にオウム真理教に出家。麻原彰晃の身辺警護を担当した後、井上嘉浩の補佐役となった。

 

事件と裁判の経過

【 裁判 】

一連のオウム事件では192人が起訴されていますが、ここでは主に重大事件に関与した者あるいは主要メンバーの裁判の経過を取り上げています。

東京地裁での
判決順
関与した主な事件 東京地裁 東京高裁 最高裁 備考
村井秀夫 信者の田口修二リンチ殺人事件
1989.2上旬

坂本堤弁護士一家殺人事件
1989.11.4

元信者の落田耕太郎リンチ殺人事件
1994.1.30

松本サリン事件備考欄参照→)
1994.6.27

目黒公証役場の仮谷清志事務長監禁致死事件
1995.2.28

地下鉄サリン事件 (備考欄参照→)
1995.3.20

× 松本サリン事件では実行犯7人のうちの1人。

地下鉄サリン事件では総括指揮を担当。

1995.4.23 東京都港区南青山の教団総本部前で村井秀夫が元山口組系羽根組組員の徐裕行(当時35歳)に刺されて翌日に死亡。36歳だった。

1995.11.13 東京地裁で徐裕行に懲役12年の判決。控訴せず懲役12年が確定。旭川刑務所で12年間の服役を終え、2007 満期出所。

実行犯の徐裕行は羽根組幹部の上峯憲司(当時48歳)の指示で殺害したと供述したため、上峯憲司が共謀共同正犯の疑いで逮捕されたが、捜査から公判段階まで一貫して事件への関わりを否定。

1997.3 東京地裁で上峯憲司に無罪判決。

1999.3.29 東京高裁でも1審に続いて上峯憲司に対し無罪判決となり確定。

徐裕行のブログ

飯田エリ子 目黒公証役場の仮谷清志事務長監禁致死事件
1995.2.28
懲役7年
1996.10.26
懲役6年6ヶ月
1998.9.10
「元ダンサーの長女監禁事件」にも関与しており、東京地裁では懲役7年だったが、東京高裁では、この事件については「飯田エリ子の役割は従属的だった」と、被告側の主張の一部を認めて原判決を破棄し、懲役6年6ヶ月に減刑された。

上告せず刑が確定。

山形明 駐車場経営者の水野昇VX襲撃事件
1994.12.2

会社員の浜口忠仁VX殺人事件
1994.12.12

被害者の会の永岡弘行会長VX襲撃事件
1995.1.4

懲役17年
1997.2.4
懲役20年
1997.12.17
検察が無期懲役を求刑していたが、東京地裁が自首を認定して懲役17年に減刑した。だが、検察側が判決を不服として控訴し、東京高裁で懲役20年の判決。

検察側、弁護側ともに上告せず刑が確定。

2017.12 刑期満了で出所。

上祐史浩 熊本県波野村の国土利用計画法違反事件
1990.5
懲役3年
1997.3,24
懲役3年
1998.2.10
懲役3年
1998.7.16
1999.12.29 広島刑務所を出所後は教団に戻り、教団代表になる。2007.5.7 新団体「ひかりの輪」設立、代表になる。
松本知子
(松本智津夫の妻)
元信者の落田耕太郎リンチ殺人事件
1994.1.30
懲役7年
1998.5.14
懲役6年
1999.9.9
懲役6年
2001.6.26
1998.12.29 松本知子の実母が死亡。その遺産4000万円を相続し、被害者の落田耕太郎の妻子に謝罪の意思を表明し、2000万円支払ったため、1999.2.16 示談が成立して落田の妻が寛大な判決を求める嘆願書を東京高裁に提出した。

さらに落田の実母にも謝罪の意思を表明し、2000万円の支払いを申し出たが、拒絶されてしまったため、1999.6.29 サリン事件共助基金(元オウム真理教犯罪被害者支援基金)に2000万円を寄付した。

東京高裁は遺族との間で示談が成立したことなどを理由に懲役6年の判決を下した。

2002.10.15 和歌山刑務所を出所後は教団に戻らず。

林郁夫 目黒公証役場の仮谷清志事務長監禁致死事件
1995.2.28

地下鉄サリン事件 (備考欄参照→)
1995.3.20

無期懲役
1998.5.26
地下鉄サリン事件では実行犯5人のうちの1人(千代田線・我孫子→代々木上原/死亡2人)。

東京地裁が自首と犯罪解明に対する貢献を認めて異例の無期懲役判決。

刑法42条は「罪を犯した者が捜査機関に発覚する前に自首した時は刑を減軽することができる」と定め、最高裁は、捜査当局の取り調べ段階であっても、犯罪事実が具体的に判明する前の自白であれば、自首に該当すると判断している。自発的であることが必要で、当局の追及を受け自白した場合は自首に当たらない。68条は「死刑を減軽する時は、無期懲役か10年以上の懲役、禁固とする」と規定している。

検察側、弁護側ともに控訴せず無期懲役が確定。

富田隆 サリンプラント建設
1993.11〜1994.12

松本サリン事件
1994.6.27

懲役17年
1998.6.12
懲役17年
2001.8.31
松本サリン事件で実行犯7人のうちの1人。

上告を取り下げて懲役17年が確定。

2013.5 刑期満了で出所。

岡崎一明
(現姓・宮前)
信者の田口修二リンチ殺人事件
1989.2上旬

坂本堤弁護士一家殺人事件
1989.11.4

死刑
1998.10.23
死刑
2001.12.13
死刑
2005.4.7
逮捕前に事件への関与を認めた供述が「自首」に当たり、刑が減軽されるかが争点だった。最高裁は自首の成立を認めたが、減軽しなかった1、2審判決を支持し上告を棄却した。

2018.3.14 東京拘置所から名古屋拘置所へ移送。

2018.7.26 名古屋拘置所で死刑執行。57歳だった。
石井久子 修行中に死亡した信者の越智直紀の
遺体焼却で遺体損壊罪に問われた事件
1993.6.6
懲役3年8ヶ月
1999.2.16
公判中に「自分の子ども(女児3人)の父親は麻原彰晃」と認める。

控訴せず懲役3年8ヶ月が確定。

2000.11.18 和歌山刑務所を出所後は教団には戻らず。

富永昌宏 滝本太郎弁護士サリン殺人未遂事件
1994.5.9

新宿駅地下トイレ青酸ガス事件
1995.4.30/5.3/5.5

東京都庁郵便爆弾事件
1995.5.16

懲役18年
1999.7.22
懲役15年
2002.7.5
懲役15年
2003.8.28

東京高裁は「1審判決後に反省を深め、被害者への謝罪や弁償をしている」として、1審判決を破棄し、懲役15年に減刑した。

2018.8 刑期満了で出所。

横山真人 自動小銃密造
1994.6〜1995.3

地下鉄サリン事件 (備考欄参照→)
1995.3.20

死刑
1999.9.30
死刑
2003.5.19
死刑
2007.7.20
地下鉄サリン事件の実行犯5人のうちの1人(丸ノ内線・荻窪→池袋/死亡0人)。

2018.3.14 東京拘置所から名古屋拘置所へ移送。

2018.7.26 名古屋拘置所で死刑執行。54歳だった。
北村浩一 地下鉄サリン事件 (備考欄参照→)
1995.3.20
無期懲役
1999.11.12
無期懲役
2002.1.29
無期懲役
2003.10.14
地下鉄サリン事件で運転手役。
外崎(とのざき)清隆 地下鉄サリン事件 (備考欄参照→)
1995.3.20
無期懲役
2000.2.17
無期懲役
2001.12.26
無期懲役
2004.2.9
地下鉄サリン事件で運転手役。
青山吉伸 滝本太郎弁護士サリン殺人未遂事件
1994.5.9
懲役12年
2000.3.29
懲役12年
2002.1.31
上告せず懲役12年が確定。弁護士だったが、確定後、弁護士法7条により弁護士資格失効。

弁護士法7条 次に掲げる者は、4条、5条及び前条の規定にかかわらず、弁護士となる資格を有しない。(4条〜前条 省略)
1項 禁錮以上の刑に処せられた者(2〜4項 省略)


2009 刑期満了で出所。
井上嘉浩 元信者の落田耕太郎リンチ殺人事件
1994.1.30

駐車場経営者の水野昇VX襲撃事件
1994.12.2

会社員の浜口忠仁VX殺人事件
1994.12.12

被害者の会の永岡弘行会長VX襲撃事件
1995.1.4

目黒公証役場の仮谷清志事務長監禁致死事件
1995.2.28

島田裕巳宅爆弾事件
1995.3.19

地下鉄サリン事件 (備考欄参照→)
1995.3.20

新宿駅地下トイレ青酸ガス事件
1995.4.30/5.3/5.5

東京都庁郵便爆弾事件
1995.5.16

無期懲役
2000.6.6
死刑
2004.5.28
死刑
2009.12.10
地下鉄サリン事件では現場指揮(連絡調整役)を担当。

東京高裁は「事実解明に協力し、贖罪の気持ちも顕著だが、悲惨な結果をもたらした地下鉄サリン事件では、散布役と同等の刑事責任がある」と指摘、無期懲役とした1審判決を破棄し、求刑通り死刑を言い渡した。

2018.3.14 東京拘置所から大阪拘置所へ移送。

2018.7.6 大阪拘置所で死刑執行。48歳だった。

林泰男
(現姓・小池)
松本サリン事件
1994.6.27

地下鉄サリン事件 (備考欄参照→)
1995.3.20

新宿駅地下トイレ青酸ガス事件
1995.4.30/5.5

死刑
2000.6.29
死刑
2003.12.5
死刑
2008.2.15
松本サリン事件では噴霧装置の製造に関与。

地下鉄サリン事件では実行犯5人のうちの1人(日比谷線・北千住→中目黒/死亡8人)。

2018.3.14 東京拘置所から仙台拘置所へ移送。

2018.7.26 仙台拘置所で死刑執行。60歳だった。

豊田亨 自動小銃密造
1994.6〜1995.3

地下鉄サリン事件 (備考欄参照→)
1995.3.20

新宿駅地下トイレ青酸ガス事件
1995.4.30

東京都庁郵便爆弾事件
1995.5.16

死刑
2000.7.17
死刑
2004.7.28
死刑
2009.11.6
地下鉄サリン事件で実行犯5人のうちの1人(日比谷線・中目黒→東武動物公園/死亡1人)。

2018.7.26 東京拘置所で死刑執行。50歳だった。
広瀬健一 自動小銃密造
1994.6〜1995.3

地下鉄サリン事件 (備考欄参照→)
1995.3.20

死刑
2000.7.17
死刑
2004.7.28
死刑
2009.11.6
地下鉄サリン事件の実行犯5人のうちの1人(丸ノ内線・池袋→荻窪/死亡1人)。

2018.7.26 東京拘置所で死刑執行。54歳だった。
杉本繁郎(しげお) 元信者の落田耕太郎リンチ殺人事件
1994.1.30

元信者の冨田俊男リンチ殺人事件
1994.7.10

地下鉄サリン事件 (備考欄参照→)
1995.3.20

無期懲役
2000.7.17
無期懲役
2004.7.28
無期懲役
2009.2.20
地下鉄サリン事件で運転手役。
端本悟 坂本堤弁護士一家殺人事件
1989.11.4

サリンプラント建設
1993.11〜1994.12

松本サリン事件 (備考欄参照→)
1994.6.27

死刑
2000.7.25
死刑
2003.9.18
死刑
2007.10.26
松本サリン事件では実行犯7人のうちの1人。

2018.7.26 東京拘置所で死刑執行。51歳だった。
早川紀代秀 信者の田口修二リンチ殺人事件
1989.2上旬

坂本堤弁護士一家殺人事件
1989.11.4

サリンプラント建設
1993.11〜1994.12

死刑
2000.7.28
死刑
2004.5.14
死刑
2009.7.17
2018.3.14 東京拘置所から福岡拘置所へ移送。

2018.7.6 福岡拘置所で死刑執行。68歳だった。
大内利裕(としやす) 信者の田口修二リンチ殺人事件
1989.2上旬

修行中に死亡した信者の越智直紀の
遺体焼却で遺体損壊罪に問われた事件
1993.6.6

懲役8年
2000.11.6
懲役8年
2003.2.6
上告せず懲役8年が確定。
中村昇 サリンプラント建設
1993.11〜1994.12

松本サリン事件 (備考欄参照→)
1994.6.27

元信者の冨田俊男リンチ殺人事件
1994.7.10

目黒公証役場の仮谷清志事務長監禁致死事件
1995.2.28

無期懲役
2001.5.30
無期懲役
2003.9.25
無期懲役
2006.9.4
松本サリン事件では実行犯7人のうちの1人。

東京高裁の仙波厚裁判長は1時間半余に及ぶ判決理由の最後で、「極刑(死刑)に処することは躊躇せざるを得ない。極刑と境界を接する無期懲役刑、言い換えれば終身刑、もしくは終身刑に近い無期懲役刑が相当」と述べた。現行刑法にない「終身刑」という言葉が裁判で使われた例はそれまでになく、この判決理由について、小田幸児弁護士は「仮出獄を決めるのは、行政(地方更生保護委員会)の判断。刑法には終身刑がないのに、裁判所が『いつまでも刑務所にいろ』と強調する必要があるのか。被告本人も『なぜ、そこまで言われないといけないのか』と心外だったようだ」と話した。

越川真一 元信者の落田耕太郎リンチ殺人事件
1994.1.30
懲役10年
2002.3.25
懲役10年
2004.3.3
懲役10年
2006.7.20
 
新実智光 信者の田口修二リンチ殺人事件
1989.2上旬

坂本堤弁護士一家殺人事件
1989.11.4

元信者の落田耕太郎リンチ殺人事件
1994.1.30

松本サリン事件 (備考欄参照→)
1994.6.27

元信者の冨田俊男リンチ殺人事件
1994.7.10

駐車場経営者の水野昇VX襲撃事件
1994.12.2

会社員の浜口忠仁VX殺人事件
1994.12.12

被害者の会の永岡弘行会長VX襲撃事件
1995.1.4

地下鉄サリン事件 (備考欄参照→)
1995.3.20

死刑
2002.6.26
死刑
2006.3.15
死刑
2010.1.19
松本サリン事件では実行犯7人のうちの1人。

地下鉄サリン事件では運転手役。

2018.3.14 東京拘置所から大阪拘置所へ移送。

2018.7.6 大阪拘置所で死刑執行。54歳だった。

2014.11.17 大阪地裁 アレフへの入信を知人男性に迫ったとされる強要未遂罪に問われた新実の妻・Nに対し懲役1年6ヶ月・執行猶予4年の判決。

遠藤誠一 滝本太郎弁護士サリン殺人未遂事件
1994.5,9

松本サリン事件 (備考欄参照→)
1994.6.27

駐車場経営者の水野昇VX襲撃事件
1994.12.2

地下鉄サリン事件 (備考欄参照→)
1995.3.20

死刑
2002.10.11
死刑
2007.5.31
死刑
2011.11.21
松本サリン事件では実行犯7人のうちの1人。

地下鉄サリン事件のサリン製造に関与。

2018.7.6 東京拘置所で死刑執行。58歳だった。

中川智正 坂本堤弁護士一家殺人事件
1989.11.4

元信者の落田耕太郎リンチ殺人事件
1994.1.30

滝本太郎弁護士サリン殺人未遂事件
1994.5,9

松本サリン事件 (備考欄参照→)
1994.6.27

駐車場経営者の水野昇VX襲撃事件
1994.12.2

会社員の浜口忠仁VX殺人事件
1994.12.12

被害者の会の永岡弘行会長VX襲撃事件
1995.1.4

目黒公証役場の仮谷清志事務長監禁致死事件
1995.2.28

地下鉄サリン事件 (備考欄参照→)
1995.3.20

新宿駅地下トイレ青酸ガス事件
1995.4.30/5.5

東京都庁郵便爆弾事件
1995.5.16

死刑
2003.10.29
死刑
2007.7.13
死刑
2011.11.18
松本サリン事件では実行犯7人のうちの1人。

地下鉄サリン事件のサリン製造に関与。

2018.3.14 東京拘置所から広島拘置所へ移送。

2018.7.6 広島拘置所で死刑執行。55歳だった。

土谷正実 松本サリン事件 (備考欄参照→)
1994.6,27

駐車場経営者の水野昇VX襲撃事件
1994.12.2

会社員の浜口忠仁VX殺人事件
1994.12.12

被害者の会の永岡弘行会長VX襲撃事件
1995.1.4

地下鉄サリン事件 (備考欄参照→)
1995.3.20

死刑
2004.1.30
死刑
2006.8.18
死刑
2011.2.15
松本サリン事件のサリンや噴霧装置の製造に関与。

地下鉄サリン事件のサリン製造に関与。

控訴審では被告が一度も出廷せず結審。弁護人との接見にも応じていない。

2018.7.6 東京拘置所で死刑執行。53歳だった。

松本智津夫
(教祖名・麻原彰晃)
信者の田口修二リンチ殺人事件
1989.2上旬

坂本堤弁護士一家殺人事件
1989.11.4

サリンプラント建設
1993.11〜1994.12

元信者の落田耕太郎リンチ殺人事件
1994.1.30

滝本太郎弁護士サリン殺人未遂事件
1994.5.9

自動小銃密造
1994.6〜1995.3

松本サリン事件
1994.6.27

元信者の冨田俊男リンチ殺人事件
1994.7.10

駐車場経営者の水野昇VX襲撃事件
1994.12.2

会社員の浜口忠仁VX殺人事件
1994.12.12

被害者の会の永岡弘行会長VX襲撃事件
1995.1.4

目黒公証役場の仮谷清志事務長監禁致死事件
1995.2.28

地下鉄サリン事件
1995.3.20

死刑
2004.2.27
死刑
2006.3.27

(備考欄参照 → )
死刑
2006.9.15

(備考欄参照 → )

2000.10.5 東京地検は松本智津夫について17件で起訴していたが、審理の迅速化を図る狙いで実質的な被害者が出ていない事件(薬物密造の4件)について起訴を取り消した。

刑事訴訟法257条・・・公訴は第1審の判決があるまでこれを取り消すことができる。

起訴取り消しの4件・・・(1)覚せい剤密造(覚せい剤取締法違反)(2)幻覚剤メスカリン密造(麻薬及び向精神薬取締法違反)(3)幻覚剤LSD密造(麻薬及び向精神薬取締法違反)(4)麻酔剤チオペンタール密造(薬事法違反)

松本智津夫が起訴された事件での死亡者は計27人(オウム真理教犯罪被害者救済法上の死亡者1人を加えると28人さらに、2020年3月10日にサリン中毒による低酸素脳症での死亡者を加えると29人となる

東京地裁は起訴の13件すべてについて松本智津夫を首謀者と認定。

→ 2006.3.27 東京高裁は松本に訴訟能力があると認め、弁護側が期限(2005.8末)までに控訴趣意書を提出しなかったことを理由に公判手続きを打ち切る異例の控訴棄却の決定をした。

2006.3.30 弁護側が東京高裁の控訴棄却決定を不服として異議申し立て。

2006.5.29 東京高裁が異議を棄却。

2006.6.5 弁護側が控訴棄却決定に対する異議を棄却した東京高裁決定を不服として最高裁に特別抗告。

2006.9.15 最高裁が特別抗告を棄却で死刑確定。

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2008.11.10 東京地裁に再審請求。

2009.3.18 この日までに東京地裁が再審請求を棄却。

2009.3.23 再審請求について東京高裁に即時抗告。

2009.7.8 再審請求について東京高裁が即時抗告を棄却。

2009.7.14 再審請求について最高裁に特別抗告。

2010.9.13 再審請求について最高裁が特別抗告を棄却。

東京地裁に2度目の再審請求(日付不明)。

2011.5.9 2度目の再審請求について東京地裁が棄却。

2011.5.16 2度目の再審請求について東京高裁に即時抗告。

2012.3.29 2度目の再審請求について東京高裁が即時抗告を棄却。

2度目の再審請求で最高裁に特別抗告(日付不明)。

2013.5.8 2度目の再審請求について最高裁が特別抗告を棄却。

東京地裁に3度目の再審請求(日付不明)。

2014.6(日にち不明) 3度目の再審請求について東京地裁が棄却。

3度目の再審請求について東京高裁に即時抗告(日付不明)。

3度目の再審請求で東京高裁が即時抗告を棄却(日付不明)。

3度目の再審請求で最高裁に特別抗告(日付不明)。

2015.4.28 東京地裁に4度目の再審請求。

2015.5.11 3度目の再審請求について最高裁が特別抗告を棄却。

2018.7.6 東京拘置所で死刑執行。63歳だった。

2012.8.9 警察庁は菊地直子と高橋克也の逮捕(2012.6.3 菊地直子を逮捕/2012.6.15 高橋克也を逮捕)に結び付いた情報提供者3人に対し、公的懸賞金の支払いを決定したと発表した。警視庁OBらの私的懸賞金計400万円と合わせ、計2000万円が支払われる。公的懸賞金の支払い決定は2例目。警察庁は「ご協力に感謝している。今後も(懸賞金制度を)有効に活用したい」としている。警察庁によると、菊地に関する情報提供者は1人で、支払額は私的懸賞金と合わせて1000万円。高橋の逮捕については2人の情報提供者に私的懸賞金と合わせて計1000万円が支払われる。同庁は対象者保護のため、情報提供者の名前や高橋克也の逮捕に関する支払い対象者2人の懸賞金の配分を明らかにしていない。なお、平田信(まこと)については自ら警察署に出頭(2011.12.31)して逮捕(2012.1.1)されているため、懸賞金の支払いはされていない。↓
平田信(まこと) 目黒公証役場の仮谷清志事務長監禁致死事件
1995.2.28


島田裕巳宅爆弾事件
1995.3.19
懲役9年
2014.3.7
懲役9年
2015.3.4
懲役9年
2016.1.13
1審は一連のオウム事件で初の裁判員裁判だった。

#裁判員制度=2009.5.21 スタート

2022.4.26 満期出所。
2012.3.27 東京地裁で平田信(まこと)を匿ったとして犯人蔵匿罪に問われた元信者のSに対し懲役1年2ヶ月の判決。

2012.7.20 東京高裁でSの控訴棄却.。

その後、弁護側、検察側ともに上告せずSの懲役1年2ヶ月が確定。
菊地直子 東京都庁郵便爆弾事件
1995.5.16
懲役5年
2014.6.30
無罪
2015.11.27
無罪
2017.12.25
2015.11.27 東京高裁の大島隆明裁判長は菊地が「指示された通りのワーク(爆薬の原料となる薬品をアジトに運搬するなどの仕事)を実行するにすぎない立場だった」と指摘。「テロ計画の認識があったとは推認できない」と述べ、懲役5年とした1審・東京地裁の裁判員裁判判決を破棄し、無罪を言い渡した。 2012.11.22 東京地裁で菊地を匿ったとして犯人蔵匿罪に問われたTに対し懲役1年6ヶ月・執行猶予5年の判決。

その後、弁護側、検察側ともに控訴せずTの懲役1年6ヶ月・執行猶予5年が確定。

Tの有罪について、刑法第103条(犯人隠匿等)では、「罰金以上の刑に当たる罪を犯した者又は拘禁中に逃走した者を蔵匿し、又は隠避させた者は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する」と規定している。つまり、真犯人でない者をかくまった場合は罪にならないと解釈できる。しかし、判例では採用していない。「罪を犯した者」には真犯人だけでなく、犯罪の嫌疑を受けて捜査または訴追されている者も含むとしており、Tは無罪にはならない。
高橋克也 目黒公証役場の仮谷清志事務長監禁致死事件
1995.2.28

地下鉄サリン事件 (備考欄参照→)
1995.3.20


東京都庁郵便爆弾事件
1995.5.16
無期懲役
2015.4.30
無期懲役
2016.9.7
無期懲役
2018.1.18
地下鉄サリン事件では運転手役。

オウム真理教(元)信者の著書・・・
『オウムと私』(文芸春秋/林郁夫/1998)
『上祐史浩が語る 苦悩からの解放』(東山出版/上祐史浩/2002)
『覚醒新世紀』(東山出版/上祐史浩/2002)
『上祐史浩が語る(2) 心の解放と神秘の世界』(東山出版/上祐史浩/2003)
『オウム解体 宮崎学VS上祐史浩』(雷韻出版/宮崎学[との対談]/2000)
『オウム事件 17年目の告白』(扶桑社/上祐 史浩[著]/有田芳生[検証]/2012)
『私にとってオウムとは何だったのか』(ポプラ社/早川紀代秀/2005)
『オウムの“鬼母”と呼ばれて』(近代映画社/鹿島とも子/1996)
『オウムからの帰還』(草思社/高橋英利/1996)
『検証・・オウム真理教事件 オウムと決別した元信者たちの告白』(社会批評社/瀬口晴義/1998)
『オウムをやめた私たち』(岩波書店/カナリヤの会/2000)
『オウムを生きて 元信者たちの地下鉄サリン事件から15年』(サイゾー/青木由美子[編]/2010)
『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか 地下鉄サリン事件から15年目の告白』(徳間書店/松本聡香/2010)
『止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』(講談社/松本麗華/2015)
『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』(KADOKAWA/アンソニー・トゥー/2018)
『被害者家族と加害者家族 死刑をめぐる対話』(岩波書店/原田正治&松本麗華/2023)

『出家の真相 鹿島とも子・告白手記 スポットライトを浴びた日々、そして今、オウム真理教で』(オウム/鹿島とも子/1994)

麻原彰晃としての著書はYahoo!ショッピングで調べてみると、オウム(出版)からの宗教関連と思われる刊行本が78点ほどあり、事件に関連した記述のある著書も少なからずあるとは思うが、あえてここでは取り上げない。

事件関係者の著書・・・
『郁子聞こえますか オウム坂本一家殺害事件・父親の手記』(新潮社/大山友之/2000)
『それでも生きていく 地下鉄サリン事件被害者手記集』(サンマーク出版/地下鉄サリン事件被害者の会/1998)

『サリンとおはぎ 扉は開くまで叩き続けろ』(講談社/さかはらあつし/2010)
『地下鉄サリン事件20年 被害者の僕が話を聞きます』(dZERO/さかはらあつし&上祐史浩/2015)

参考文献など・・・
『オウム帝国の正体』(新潮社/一橋文哉/2000)

『大義なきテロリスト オウム法廷の16被告』(NHK出版/佐木隆三/2002)
『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)

『アンダーグラウンド』(講談社/村上春樹/1997)
『オウムと近代国家 市民はオウムを許容するか』(南風社/呉智英ほか/1996)
『終末と救済の幻想 オウム真理教とは何か』(岩波書店/ロバート・J・フリトン/2000)
『闇の男 上祐史浩 終わらないオウム真理教とは何か』(同時代社/有田芳生/1999)
『追いつめるオウム真理教』(ベストセラーズ/有田芳生/1995)

『「オウム真理教」追跡2200日』(文藝春秋/江川紹子/1995)
『オウム真理教事件を哲学する 高校倫理教育の現場から』(地歴社/大塚賢司/1997)
『オウムの女』(早稲田出版/松田美智子/1995)

『毎日新聞』(1997年2月4日付/1997年12月17日付/1997年3月24日付/1998年2月1日付/1998年5月14日付/1998年5月26日付/1998年6月12日付/1998年7月1日付/1998年10月2日付/1998年10月23日付/1999年2月16日付/1999年7月22日付/1999年9月9日付/1999年9月30日付/1999年12月29日付/2000年2月17日付/2000年3月29日付/2000年3月29日付/2000年6月6日付/2000年6月29日付/2000年7月13日付/2000年7月17日付/2000年7月25日付/2000年7月28日付/2000年8月4日付/2000年11月6日付/2000年11月18日付/2001年5月30日付/2001年6月2日付/2001年6月12日付/2001年7月25日付/2001年8月7日付/2001年8月31日付/2001年11月9日付/2001年12月13日付/2001年12月25日付/2002年6月26日付/2002年7月5日付/2002年10月11日付/2002年10月15日付/2002年10月18日/2003年2月6日付/2003年5月19日付/2003年7月25日付/2003年9月2日付/2003年9月18日付/2003年9月25日付/2003年9月30日付/2003年10月15日付/2003年10月29日付/2003年10月31日付/2003年11月5日付/2003年12月5日付/2004年1月30日付/2004年2月10日付/2004年2月16日付/2004年2月18日付/2004年2月27日付/2004年3月3日付/2004年3月18日付/2004年3月29日付/2004年5月14日付/2004年5月28日付/2004年7月7日付/2004年7月28日付/2004年8月5日付/2004年9月17日付/2005年4月7日付/2006年3月15日付/2006年3月27日付/2006年3月30日付/2006年5月10日付/2006年5月30日付/2006年6月6日付/2006年7月21日付/2006年8月18日付/2006年8月24日付/2006年9月5日付/2006年9月15日付/2007年3月29日付/2007年5月31日付/2007年6月14日付/2007年7月13日付/2007年7月20日付/2007年10月26日付/2008年2月15日付/2008年3月26日付/2008年5月21日付/2008年9月22日付/2008年11月11日付/2008年11月26日付/2009年3月18日付/2009年3月23日付/2009年3月27日付/2010年1月19日付/2010年3月29日付/2010年9月15日付/2010年9月30日付/2011年2月15日付/2011年2月19日付/2011年11月17日付/2011年11月18日付/2011年11月21日付/2012年1月23日付/2012年3月27日付/2012年4月4日付/2012年6月3日付/2012年6月15日付/2012年7月20日付/2012年11月22日付/2013年5月10日付/2013年12月4日付/2014年2月27日付/2014年3月7日付/2014年3月24日付/2014年6月30日付/2014年11月17日付/2014年3月18日付/2015年4月30日付/2015年5月4日付/2015年5月12日付/2015年12月9日付/2016年9月7日付/2016年9月16日付/2017年12月27日付/2018年1月19日付/2018年7月6日付)
『産経新聞』(2008年3月20日付/2008年3月21日付/2008年6月4日付/2009年4月21日付/2009年7月10日付/2009年7月15日付/2009年7月17日付/2009年11月6日付/2010年3月6日付/2011年11月9日付/2012年1月1日付/2012年1月3日付/2012年4月5日付/2012年6月19日付/2015年3月4日付//2018年7月26日付)
『時事通信』(2015年5月19日付/2015年11月27日付/2016年1月14日付)
『デイリー新潮』(2022年5月20日付)

オウム真理教を題材にした映画に『A』(DVD/監督・森達也/2003)がある。「A」はオウム(AUM)、麻原彰晃、荒木浩・広報副部長という意味だそうで、荒木を追いながらオウムとマスコミ、オウムと公安警察との軋轢を描いたドキュメンタリー作品。また、その続編作品の『A2』(DVD/監督・森達也/2003)が山形国際ドキュメンタリー映画祭2001で特別賞と市民賞を受賞した。監督・森達也のオウム関連の著書に『「A」 マスコミが報道しなかったオウムの素顔』(角川文庫/2002) / 『A2』(現代書館/安岡卓治との共著/2002) / 『A3』(集英社/2010/第33回講談社ノンフィクション賞) / 『A4または麻原・オウムへの新たな視点』(現代書館/森達也&深山織枝&早坂武禮/2017)がある。

他には、オウム真理教の一連の事件をモチーフに『DISTANCE(ディスタンス)』(DVD/監督・是枝裕和/出演・ARATAほか/2002)が制作された。

オウム事件を再現したTVドラマに次のようなものがある。

2004年(平成16年)2月24日、日本テレビ系列で午後9時3分から約2時間に渡って、『緊急報道ドラマスペシャル 「オウムvs警察 史上最大の作戦」』(出演・滝田栄&美木良介&宇梶剛士&高杢禎彦&・・・)が放送された。

2004年(平成16年)3月5日、TBS系列で午後6時55分から約3時間に渡って、『報道特別番組 「告白 私がサリンをまきました オウム10年目の真実」』(出演・西田敏行&杉本哲太&平田満&・・・)が放送された。

地下鉄サリン事件から15年目にあたる2010年(平成22年)3月20日、フジテレビ系列で午後9時から2時間10分に渡って、「土曜プレミアム特別企画」として、『地下鉄サリン事件から15年』(被害者の会代表世話人の高橋シズヱ役・原田美枝子)が放送された。

関連・参考サイト・・・
宗教団体アーレフ 公式サイト
オウム裁判対策協議会
オウム真理教脱会者の集い カナリヤの詩
生きてかえれ! 坂本弁護士一家殺害事件 5年10ヶ月の軌跡
リカバリー・サポート・センター
全国犯罪被害者の会 NAVS【あすの会】
ひかりの輪
あの朝、地下鉄でサリンを写した

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