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少年ライフル魔事件

1947年(昭和22年)4月15日、片桐操は東京世田谷区に4人兄弟の末っ子として生まれた。子どもの頃から銃器に興味をもち、ミリタリー雑誌『丸』(潮書房)を愛読し、オモチャのピストルなどを振り回して遊んでいた。

中学に入ると、アメリカの銃砲年鑑『シューターズ・バイブル』や『ガン・ダイジェスト』なども原書で購入して辞書を引きながら銃の性能調べに熱中して読み漁って、銃器について詳しくなり、モデルガンを作ったりしていた。中学3年生のとき、父親は4500円するオモチャの銃を買い与えた。学校での成績は中以下で目立たない生徒だった。この頃、母親が亡くなっており、老いた父親と義母の3人で暮らしていた。兄夫婦は別棟で塗装業を営み、7歳年上の長姉は旅館の住み込み従業員、次姉は結婚していた。

1962年(昭和37年)、中学を卒業する頃、長姉が卒業祝いをかねて3万5000円のライフル銃と4000円の照準器を月賦で買い与えた。22口径の5連銃で「マスターライフルNO3」という種類だった。所持許可証は18歳に満たない片桐に代わり長姉が自分の名義にしておいた。

また、片桐は自衛隊に入れば銃器を扱えると思い、入試を受けたが不合格だった。自衛隊を諦め、近くの自動車修理工場に勤めた。

1963年(昭和38年)11月、職安で国内貨物船の見習いコックの仕事を見つけ船に乗り、月に一度は帰宅した。

1965年(昭和40年)4月15日、40日の有給休暇をとった。この日は片桐の18歳の誕生日である。自宅に戻った片桐は姉名義のライフルを自分名義に変更した。さらに自分の貯金が24万円ほどあったので、東京渋谷区の「ロイヤル銃砲火薬店」で3万9000円のSKBライフル銃を月賦で購入し、後楽園や立川の射撃場に行って射撃に熱中した。父親は片桐が持ち帰ってくる点数表を見てはあれこれと批評した。40日の有給休暇が過ぎたが、そのまま会社には戻らず退職願を出した。

7月29日午前11時ころ、片桐は神奈川県高座郡座間町(現・座間市)の山道をライフル銃を手にぶらついていた。このとき、巡回中の大和署の田所巡査(21歳)に声をかけられた。その呼び止め方が片桐の神経に触った。いかにも威圧的な感じであった。片桐は無視したが、田所巡査はなおも威嚇する声で呼び止めた。片桐は銃口を田所巡査に向けて撃った。その銃声を聞いて駆けつけてきた谷山巡査(当時23歳)も撃った。片桐は巡査のピストル、警察手帳、制服、ズボンを奪って、警官になりすまし、そこから100メートルと離れていない宮坂福太郎(当時33歳)方に現れ、近くで撃ち合いがあり、犯人に逃げられたので車を出してほしいと要請した。宮坂はその堂々とした警官ぶりにニセ巡査と見破ることはできなかった。田所巡査はその後、病院に運ばれたが、午後2時半ころ、死亡した。谷山巡査も左股貫通の重傷を負った。

その後、片桐は宮坂が運転するマツダ軽四輪の後部座席に乗り、行き先を指示した。住宅街を通り抜け、国道246号線を町田市に向かった。町田市の商店街に入り、宮坂は交番に訊けば逃げた犯人の情報が分かるかもしれないと思い、片桐に「交番に寄ってみたらどうか」と言ったが、片桐はあいまいに拒否の返事をした。

午後0時10分、宮坂は原町田交番前の交差点で急ブレーキを踏んだ。このとき、交番では町田署からちょうど事件の連絡を受けたところで、電話口に向かって「今、手配されてる車が来ましたっ」と怒鳴った。宮坂は車から降りると交番へ向かった。交番の警官は腰のピストルに手をやった。片桐は宮坂のあとを追ってピストルを宮坂の脇腹に突きつけ後退させた。

そこへ、トヨペット・ニューコロナが2人の前で停車した。片桐は宮坂を突き放して、ニューコロナの後部座席に飛び込み、運転していた谷川英男(当時30歳)に命じてそのまま走り去った。カーラジオからは「警察官が2人重傷」のニュースが流れ、片桐が乗り換えた車が手配されていることを伝えた。

その後、川崎市の稲田堤で停車中の日産セドリックのライトバンを奪って乗り換え、谷川に運転を命じて逃走した。ライトバンの持ち主は走行中のトラックを止め、警察へ通報するように頼んだ。

神奈川県警では、この頃になって本格的に捜査を開始した。機動隊パトカー6台、警らパトカー7台、交通機動隊の白バイ85台、交通パトカー16台を動員、33ヶ所に検問所を設けて緊急配備についた。だが、片桐の奪ったライトバンは多摩川を渡って東京都に入っていた。

午後2時過ぎ、小金井公園に到着した。そこで停車中の日産セドリックを乗車していた男女の2人ごと奪い、ライトバンを捨て、谷川を助手席に押し込んで、人質3人をピストルで脅しながら五日市街道から井の頭公園、さらに水道道路へ向かわせた。カーラジオからは「田所巡査が死亡」、さらに「乗り捨ててあったライトバンが発見された」「主要道路で3000人の警官が検問中」というニュースが流れた。

渋谷区に入った頃、気分が悪いと訴え出た人質の女性を代々木上原付近の内科病院前で解放した。その後、渋谷区の周辺をぐるぐる回っていたが、やがて「ロイヤル銃砲火薬店」の向いの渋谷消防署前で車を停めさせると、人質2人を残して片桐は車から降り、「ロイヤル銃砲火薬店」に向かった。この店は片桐がライフル銃を購入した店である。

午後5時、片桐は「ロイヤル銃砲火薬店」に入ると、店員の男女3人と女性店員の妹を人質に立て篭もった。弾薬庫を開け、ライフル銃に弾をこめ、雨戸や天井めがけて乱射した。さらに、人質たちに命じて、次々と店内の銃をもってこさせた。

「豊和M1カービンを持ってこい。こいつは30連発だから弾を30詰めろ」「次はウインチェスターM100だ、次はレミントンだ」と命じて、各種の銃の試射を楽しむかのように警官隊、報道陣、野次馬らに向けて発射し続けた。

近くを走る山手線30本も開通以来初めての全線ストップとなった。防弾チョッキ着用の警官7000人、ヘリコプター3機、パトカー延べ330台、装甲車、広報車など延べ60台という大捜査網であった。報道陣のヘリも空を飛び交っていた。

片桐は110番に電話して、パトカーやヘリの音がうるさいから、すぐに退かせろ、そうしないと人質を殺す、と脅した。さらに、女性店員に命じて冷蔵庫からビールを持ってこさせ、あおりながら合計133発乱射した。警察は5000人近くに膨れ上がった野次馬に被害が及ばないように躍起になった。

午後7時18分、第1機動隊が5丁のガス銃で催涙弾を撃ち込んだ。店内は白煙に包まれ、耐え切れなくなった片桐は人質を盾に裏口から飛び出した。このとき、人質の男性店員が片桐の隙を狙って持っていたライフル銃の銃身で片桐の頭を殴った。片桐は転倒しながらも何発か撃ったが、警官がなだれ込んで逮捕した。

この市街戦騒動で警官や野次馬ら合わせて16人が重軽傷を負った。

この事件当時16歳だった永山則夫は、渋谷の「西村フルーツパーラー」に店員として勤めていて、たまたま事件現場を直接目撃している。1968年(昭和43年)10〜11月、19歳になった永山は、連続射殺魔事件を起こしているが、片桐操によるライフル事件が永山に与えた影響は大きかったように思う。

少年犯罪の場合、少年法61条に基づき、被疑者の名前は公表しないのがマスコミのルールだったが、この事件はあまりにも凶悪で、反社会性が強いという理由で『読売新聞』は少年の名前を実名で報道した。

少年法61条・・・家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。(罰則規定はない)

逮捕後、片桐は取調べに対して次のように答えた。

「いろんな銃を撃ちまくることができて、たまっていたものを全部吐き出したような気分で、スカッとした。どうせ刑務所に行くんだろうから、代わりにベトナムに行きたい。好きなガンを思いっきり撃つことができるなら死んでもいい」

この言葉から平和な日本にもベトナム戦争の影が忍び寄っていると見る識者もいた。

裁判の結果は1審では無期懲役の判決が下されたが控訴、2審では逆に死刑判決となった。

片桐は1、2審とも、「銃への魅力はいまなお尽きない。将来、社会へ出て再びこのように多くの人に迷惑をかけることないような刑、死刑にしてほしい」と述べた。

2審の裁判長が片桐の希望を聞き入れて死刑の判決を下したわけではなく、矯正の余地がないと判断して死刑の判決を下した。

1969年(昭和44年)、最高裁では2審の判決が支持され、死刑が確定した。

1972年(昭和47年)7月21日、死刑が執行された。25歳だった。

参考文献・・・
『あの死刑囚の最後の瞬間』(ライブ出版/大塚公子/1992)
『20世紀にっぽん殺人事典』(社会思想社/福田洋/2001)
『日本の殺人者』(青林工藝舎/蜂巣敦/1998)
『嫌悪の狙撃者』(中公文庫/石原慎太郎/1981)

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