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金嬉老事件

【 事件発生 】

1928年(昭和3年)11月、金嬉老(キムヒロ)は、在日2世として、静岡県清水市(現・静岡市清水区)に生まれた。日本名は近藤安広、また金岡安広とも清水安広とも言った。本名は権禧老(クォンヒロ)。1931年(昭和6年)、父親は、丹那トンネル工事にも従事した建設労働者だったが、作業中に事故死した。1933年(昭和8年)、母親は再婚した。一家の生活は苦しく、金は小学5年で中退し、丁稚奉公に出た。1943年(昭和18年)、窃盗で捕まり、朝鮮人少年だけの少年院に入れられたが、敗戦で出所した。その後の約20年間も、窃盗、詐欺、強盗などの犯罪を繰り返し、刑務所を出たり入ったりするような生活だったが、刑務所暮らしが長く、娑婆にいたのは数年だった。獄中では努力して自動車整備士の免許を取ったが、出所しても、国籍、前科などが災いして、まともな職に就けず、ブローカーなどをして生計を立てていた。

1968年(昭和43年)2月20日午後8時ころ、金(当時39歳)は清水市内の歓楽街旭町のクラブ「みんくす」で、暴力団稲川一家幹部の曾我幸夫(34歳)とその部下の大森靖司(19歳)を自分のライフル銃で射ち、死亡させた。「金嬉老事件」の発端である。

その原因は手形のトラブルによるものだった。金は手形を担保に知人から18万円の借金をしたことがあった。金はこの借金を中古自動車で弁済したというが、手形はなぜか金の手許に戻らず、暴力団稲川一家幹部の曾我の手に渡った。曾我はこの手形をタテに金から35万円を取り立てようと図った。金は九州から青森まで日本全国を逃げ回るが、横浜に隠れていたところを曾我らに見つけられた。そこで、金は曾我に返済を約束して、2月20日にクラブ「みんくす」で会うことになったのだった。

金はこんなヤクザは殺すしかないと考えていたが、なかなか実行に移すことができないでいた。だが、曾我の「てめえら朝公(あさこう)が、ちょうたれたことこくな!」という罵声で、金は決心した。

金は「みんくす」の前に停めていた車からライフルを手に取り30発入りの弾倉をつめ、銃にはめこんで、店の中に戻った。曾我にライフルを突きつけると、待ってくれと慌てるかと思ったが、曾我は凄い度胸で、「なんだ、この野郎!」と腰の方に手を回し、ボックスから立ち上がろうとした。金はピストルを抜くのかと思い、慌てて引き金を引いた。続けざまに2発射った。2発の弾が曾我に当たったが、なお、睨んでふんばって立っている。曾我は唐獅子牡丹の刺青をしていて、いつも凄みをきかせていた男で、金もさすがにしぶとい奴だとびっくりする。さらに、3発、4発と射ち込んだ。5発目になって、どかっと腰を落とした。「これでよし。こんなダニを1人2人殺したからって何だ!」金はもう1発射ち込み、曾我が即死したことを確認した上で、そのまま引き上げようとしたが、さっきまでふんぞり返って悪態をついていた子分の大森がホステスの肩にしがみついて、ガタガタふるえているのを見て、憎しみが湧いてきた。脅しのつもりで、大森の尻やももの辺りに2、3発射ってから、外に飛び出し、車に乗って日本平へ上った。

日本平から清水の街を見下ろしたとき、金はこの39年間のことを思い出していた。日本に生まれ、育ち、朝鮮人としてくやしく思ったこと、惨めに思ったことを今こそぶちまけ、闘ってやるんだと決心する。その後、金は車を夢中で走らせた。行き先は決めていなかったが、大井川上流の寸又峡(すまたきょう)温泉に出た。金はカーラジオのニュースで、曾我だけでなく、子分の大森も病院で死亡したことを知った。

【 篭城 】

金は実弾1200発とダイナマイト13本を車に積んでおり、どこかに篭城して積年の怨みを晴らそうと考えた。そこで、「ふじみや旅館」に目をつけた。それは、前が広場になっていて、見晴らしがよく、下から登ってくる者がよく見えたからだった。

午後9時すぎ、金は「ふじみや旅館」に入り込み、旅館の家族6人と宿泊客10人の計16人を2階に集めて人質にとった。

その後、清水署に電話をかけ、「さっき、クラブ『みんくす』で起こった事件は俺がやった。名前は言えないが、処置は自分でつけるから安心しろ」と言った。

翌21日午前0時10分ころ、再び、清水署に電話を入れ、自分の居場所を教えた。

午前2時すぎ、静岡新聞にも、「俺は清水で人を殺した金だが・・・・・・」と電話し、経緯を説明した。このとき、知り合いの掛川署の大橋巡査と清水署の西尾刑事部長となら会ってもいいと言った。

午前8時、大橋と西尾の2人の警察官が「ふじみや旅館」に入って話し合った。金の要求は、清水署の小泉刑事が朝鮮人差別発言をしたことについて謝罪することと、静岡新聞とNHKの記者と会見させることの2つであった。金は「生きるのには、もう嫌気がさしてる。2つの要求を聞いてくれれば、死をもって、騒動を起こした責任をとる」と言った。

小泉刑事の朝鮮人差別発言というのは、前年の1967年(昭和42年)7月8日に、清水市内でケンカ騒ぎがあったときに、小泉刑事がそのケンカの当事者の1人に対して「てめえら朝鮮人は日本に来てでかい面するな!」と言ったとされる暴言のことだが、たまたま、その現場を通りかかった金がその言葉を耳にしており、その場で差別発言をした刑事が小泉刑事だと分かると、その後、金は近くの朝鮮料理店に入って電話を借り、清水署の小泉刑事を電話口に呼んで、抗議したが逆に、「何をこきやがるこの野郎。てめえら朝鮮人はそのくらいのこと、言われて当たりめぇだ」と侮辱された。だが、静岡県警はこのような抗議電話を受けた記憶のある者がいないことから小泉刑事の暴言の事実もなかったとした。

「ふじみや旅館」を経営する望月家では主人(当時34歳)は中部電力の社員で、その妻(当時29歳)に旅館の経営を任せていたが、2人の警察官が「ふじみや旅館」に入った頃、主人の母親(当時55歳)が旅館から脱出した。

午前9時50分、金の要求に従い、静岡新聞の大石記者とNHKの村上記者が金と会見した。ここでの金の要求は、警察が暴力団稲川一家幹部の曾我幸夫らの社会における実態を公表することと、さきほど警察官に出した要求と同じ内容の清水署の小泉刑事が朝鮮人差別発言をしたことについて謝罪することの2つであった。この会見の際、金は両記者に「遺書」と称する日記帳を手渡している。

午後0時半、人質となっていた宿泊客の2人が旅館から脱出した。

午後3時、NHKで、清水署の鈴木署長が謝罪した。

「金さん、あなたの言い分もあるでしょう。警察も悪い点はあったと思います。しかし、今はこれ以上、皆さんに心配をかけないことが第一です。早く自首してください」

このあと、静岡放送を通じ、午後3時26分、午後4時50分、午後6時50分の3回に渡って同じ趣旨の謝罪をした。いずれも録画によるものだった。

午後11時52分には、NHKで、小泉刑事が謝罪した。

「私の扱った事件で迷惑をかけて申し訳ない。しかし、どうか関係のない人を巻き添えにしないでもらいたい」

翌22日朝、テレビニュースで高松県警本部長も同じようなことを訴えた。謝罪というよりも自首を勧める説得のようなもので、金はこの程度の謝罪表明では満足しなかったが、同日のNHKの「スタジオ102」が金の日記にある訴えを紹介したのを見て、これを評価し午前8時半、「ふじみや旅館」経営の望月家の妻とその子ども3人(当時9歳の長女と8歳の次女と7歳の長男)の計4人を釈放した。

金はこの日から共同記者会見を重ね、全国民の注目を集めることに成功しヒーローになっていた。各テレビ局もワイドショーなどでスタジオから「ふじみや旅館」に電話を入れ視聴率を稼いだ。金を支持する「文化人グループ」などというものまで結成された。

篭城当初に見られた緊迫感は薄らぎ、カメラマンや記者なども銃をもって戸外を警戒している金に対し「金さん、ライフルを空に向けて射ってくれませんか」と要望したりした。したたかなマスコミは、金が空に向かって数発、乱射しているところから、さっとヘリコプターを映し慌てて上昇して逃げるヘリコプターの機影をつなげていかにもそれらしく演出した。のちに、金は法廷陳述でこうした問題を語りマスコミへの不満をぶちまけている。

23日午後5時半、人質の3人を釈放した。

篭城5日目の24日の朝、金は訪問者が差し入れた現金などのほか、自分の時計などを「ふじみや旅館」の主人に、迷惑料として与え、その日の午後3時ごろ、体調を崩した人質を解放しようとして玄関に出てきた。記者たちが金を取り巻いたが、その中に記者になりすました6人の警官が紛れ込んでいた。金はそのことに気づいてはいたが、気のゆるみがあった。というのは、高松県警本部長が明日(25日)の朝までに暴力団の実態について発表すると約束したからで、それさえすめば自殺して堂々と責任をとってやると考えていたのである。母親からも自決するときのための新しい下着が差し入れられていた。気のゆるみとともに疲労も出ていた。

記者になりすました警官が無防備の金に飛びかかった。1人がのどを絞め、他の2、3人が足を引っぱって、金をひっくり返した。警官と一緒になって、記者たちもタックルをかけた。金はこのとき、舌を噛み切って自殺しようとしたが、手錠やらメモ帳を口に突っ込まれ、大勢の人に押さえつけられて荷物でも運ぶように護送車の中に入れられた。結局、最後まで人質として残ったのは「ふじみや旅館」の主人と宿泊客4人の計5人だった。

【 その後 】

その後、金嬉老は静岡刑務所未決監独房に身柄を移され、殺人、監禁、爆発物取締規則違反で起訴された。裁判では作家の金達寿らが特別弁護人になった。

1970年(昭和45年)4月、金が静岡地裁での公判で、希望していた爆発物を入手したといった内容のことを言った。そこで、弁護側が刑務所内の保護義務違反であると静岡地裁に現物の差し押さえ・調査を要求した。

その調査の結果、刑務所内での金に対する特別待遇の実態が明らかになった。散歩や面会なども自由で、金品の持ち込みも制限がなく、脱獄道具にも使用できる出刃包丁、ヤスリ、ライターなどのほか、カメラ3台、望遠レンズ、テープレコーダー、トランジスタラジオ、ベンジン、香水、金魚鉢などもあり、金の機嫌をとるために看守が手渡したエロ写真まであった。これは、金が自殺をほのめかしたり、巧みな弄舌を操ったことで規則違反がエスカレートしたものだった。

特別待遇は刑務所上級職員の間で申し送り事項になっていた事実があり、管理体制が問題となって衆議院法務委員会でも責任追及が行われた。その結果、法務省矯正局長以下13人の法務関係者上級職員、専従職員13人が停職、・減給・戒告・訓告などの処分を受けた。金に包丁を差し入れたとされる看守が殺虫剤を飲み自殺した。

1973年(昭和48年)6月17日、静岡地裁は金に対し無期懲役を言い渡した。検察側、弁護側ともに控訴した。

1975年(昭和50年)6月11日、東京高裁で控訴棄却。

11月4日、最高裁で上告が棄却された。

11月25日、8通の異議申立書を提出するも申立棄却で、無期懲役が確定した。

金は日本語は極めて流暢で、短歌なども詠み、「ふじみや旅館」のふすまに、<罪もないこの家に大変迷惑を掛けたことを心から申し訳なく思います。此の責任は自分の死によって詫びます。お母さん不幸をお許し下さい>と木炭で書きつけたりしていたが、母国語ができず、獄中で朝鮮語を学習しはじめた。

1999年(平成11年)9月7日、金は韓国渡航を条件に千葉刑務所から仮釈放された。事件から31年が経過し、金は70歳になっていた。

仮釈放された受刑者が日本国内での保護観察を経ずに出国することは異例だが、法務省は「外国人の場合で帰国した方が更生保護に資する場合は認められる措置」としている。

在監中の金に対し、暴力団幹部の関係者を名乗る脅迫状が届いていたため、法務当局は2日前の5日、服役していた府中刑務所から千葉刑務所に移送していた。韓国では亡き母親の生まれ故郷である釜山市で暮らすことになった。

仮釈放に尽力した身元引受人の僧侶の朴三中(パクサムジュン/当時56歳)によると、金に対し、国会議員が高級マンションを提供し、生活費は日本の親類が仕送りするなど、暮らしに不自由はなかったという。韓国では金を主人公にした映画『金の戦争』が1992年(平成4年)に製作され、支援者から「民族差別に抗した英雄」と歓迎されもした。慰問や講演に追われる毎日が続いたが、一方で金を英雄視するのはどうかという人が少なからずいたのも事実で、講演も少なくなっていき、忘れられつつあった。

1980年(昭和55年)、金は獄中で韓国人女性と結婚していた。

2000年(平成12年)の初めごろからこの妻と同居するようになったが、4月、妻が現金や預金通帳など約6000万ウォン(約600万円)相当を家から持ち出したまま行方を絶った。

9月3日、金(当時71歳)は釜山市内のアパートに押し入り、部屋にいた男(当時46歳)を長さ1メートルの手製竹やりで脅し、約1時間に渡って室内に監禁。軽いケガを負わせ、室内の布団などに火をつけた。金も男ともみ合いになった際にあごにケガを負った。その後、金は通報によって駆けつけた警察官によって取り押えられ、殺害目的の犯行として、殺人未遂と放火容疑で逮捕された。

金はこの男の妻(当時43歳)と前年11月ごろに自らの後援会を通じて知り合っていた。また、男の妻は朴三中が住職を務める同じ市内の慈悲寺の信徒で花屋を経営しており、金が日本から携えてきた母親の遺骨が置かれた霊前に毎週のように花を送っていたという。

戸籍上の妻がカネを持ち逃げして、間もない2000年(平成12年)6月、2人は急速に親しくなり、2人きりで旅行もした。ある日、彼女から「2人の仲を疑った夫が私を殺そうとしている」と相談された金は8月25日、仁川(インチョン)市の旅館に彼女と宿泊した際、夫の殺害を計画し、同月30日にもアパートを訪れて、刃物を取り付けた棒で夫を脅し、警察に連行されていた。

「一度思いつめると誰の忠告も聞かず、とことん行ってしまうところがある」と話す知人が多く、韓国に姦通罪があるということを知らなかったのではないかと語る人もいた。

この事件により、同年10月に予定されていた「朝鮮人・権禧老」と題したミュージカルの上演が急遽、中止になった。

金と相手の女性は「それぞれの相手と離婚し、結婚する」と “獄中宣言” したという。

同年12月、釜山地裁は、金嬉老に対し懲役2年6ヶ月を言い渡した。「性格障害者」という精神鑑定のため、光州市の治療監護所(日本の医療刑務所にあたる)に収容された。

2010年(平成22年)3月26日、金嬉老が前立腺がんのため、韓国・釜山市の病院で死去した。81歳だった。

金嬉老の著書に『われ生きたり』(新潮社/1999)がある。

この金嬉老事件を元に本田靖春が『私戦』(潮出版/1978)を書いたが、この作品がテレビドラマ化された。『実録犯罪史シリーズ 金(キム)の戦争 ライフル魔殺人事件』(演出・小田切正明/主演・ビートたけし/脚本・早坂暁/フジテレビ/1991年4月5日放送)。この作品は、放送文化基金賞優秀賞、日本民間放送連盟賞、放送批評懇談会ギャラクシー賞奨励賞を受賞した。

参考文献など・・・
『私戦』(講談社文庫/本田靖春/1982)
『戦後ニッポン犯罪史』(批評社/礫川全次/2000)
『戦後欲望史 黄金の六〇年代篇』(講談社文庫/赤塚行雄/1984)

『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)

『金嬉老の真実 寸又峡事件の英雄の素顔』(日本図書刊行会/阿部基治/2002)
『AERA』(2000年9月18日号)
『毎日新聞』(1999年9月7日付/2010年3月26日付)
『週刊文春』(2001年8月16・23日 夏の特大号)

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