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バー「メッカ」殺人事件

1953年(昭和28年)7月27日、東京港区新橋のバー「メッカ」で、客がビールを飲んでいると、天井からポタポタと血がしたたり落ちてきた。驚いたマスターが、物置になっている天井裏を覗き込むと、軍隊毛布に包まれた男の死体が横たわっていた。首と両足を電気コードで縛られ、鈍器でメッタ打ちにされてできた傷が全身にあり、辺りは血の海だった。

被害者の身元は所持品から、証券ブローカーの博多周(40歳)と判明した。容疑者として、「メッカ」のボーイの近藤清(当時20歳)、被害者の知合いで、元証券会社社員の正田昭(当時24歳)、正田の麻雀仲間の相川貞次郎(当時22歳)の3人が全国指名手配された。7万5000枚もの手配写真を配り、大捜査体制が布かれ、7月29日に相川、8月4日に近藤が静岡で自首、10月12日、主犯の正田が潜伏先の京都で、麻雀友達の通報で逮捕された。

「メッカ」殺人事件は、正田が慶応大学経済学部卒で美青年、女遊び、麻雀、ダンスなどの遊興費に絡んでいたことから、マスコミはアプレ・ゲール犯罪の典型として取り上げた。

アプレ・ゲール・・・「アプレ」は前置詞「〜の後」、「ゲール」は「戦争」という意味で、「アプレ・ゲール」は「戦後」を意味するフランス語。「アプレ・ゲール」は、本来、第一次世界大戦後の文化運動を言うが、日本では太平洋戦争後の世代や文化をそう呼び、芸術運動の言葉として使われていた。それがいつのまにか反社会的な行動をとる若者たちに対して、「アプレ」または「アプレ・ゲール」と代名詞のように使われるようになった。

アプレ・ゲール犯罪として、取り上げられる事件に、光クラブ事件日大ギャング事件などがある。

逮捕されたとき、正田は「小生はただ、ナット・ギルティ(無罪)を主張するつもりです」という手記を書き、犯行を否認した。だが、18日になって、やっと「義理のある人(許嫁の母親)から、株式売買の証拠品代わりに預かった株券を売却処分してしまった。その金を返したい一念からやった」と自供した。

自供によれば、証券ブローカーの博多に「株を買いませんか」と「メッカ」に誘い出し、背後から電気コードで首を絞め、近藤が角棒でメッタ打ちにして殺害、現金41万円、腕時計などを奪った。正田は近藤に3万円、見張り役の相川に2万円と奪った腕時計を口止め料として手渡していた。

1929年(昭和4年)4月19日、正田昭は3人の兄、2人の姉をもつ6人兄弟の末っ子として大阪市天王寺区に生まれた。父親は小学校を卒業すると横浜へ出て英語を勉強して渡米した。カリフォルニア大学で法律を学び弁護士をして、大正の初めに帰国後、結婚し商船会社や電力会社に勤めたが、正田が生後5ヶ月のとき、父親が狭心症で死亡した。

母親は日本女子大を卒業しており、夫の死後は、女学校の体操教師をして家計を支えた。3人の兄は一流大学に進んだ。正田も慶応大学に入り、東京都杉並区荻窪の次兄のアパートから通学していたが、翌1949年(昭和24年)2月、次兄が藤沢市に家を買い、この家に次兄、次姉、母親、それに昭の4人が暮らし始めた。

同年の夏、20歳になった昭は藤沢市内のダンス教習所を覗き、19歳のダンス教師と恋に落ちた。2人は婚約したが、美貌の彼女は奔放で、正田は嫉妬に悩まされた。痴話喧嘩をしては別れ、またヨリを戻すという日々が続いた。3年生になった正田は、米軍の通訳のアルバイトや賭け麻雀で金を稼いだが、彼女との遊興費に消えていった。

大学卒業間際に、正田は日産自動車の採用内定をもらったが、健康診断で肺浸潤(しんじゅん)が見つかり、入社が取り消しになった。卒業後、腰掛けのつもりで中堅の三栄証券に就職したが、浪費癖は直らず、生活費に窮した挙句、他人から株式売買の証拠金代わりに預かった1700株の株券(見積り額約20万円)を売却処分したため、返済金に窮し、6月になって解雇され、恋人とも別れた。追い詰められた正田は、仕事上、顔見知りだった証券ブローカーの博多周に目をつけ、殺害する計画を麻雀仲間とともに立てる・・・。

1956年(昭和31年)12月15日、東京地裁で正田に死刑、近藤に懲役10年、相川に懲役5年の判決が下った。近藤と相川は刑に服したが、正田は控訴した。

1960年(昭和35年)12月21日、東京高裁で控訴棄却。正田は上告した。

1963年(昭和38年)1月25日、最高裁でも上告が棄却され、死刑が確定した。

公判中、兄の勧めで、正田はカトリックに入信した。一方で、小説の執筆も始めた。獄中で小説を書くことを認められたのは正田が初めてであった。

1963年(昭和38年)4月、『群像』(講談社/1946年創刊)の新人賞に投稿した小説「サハラの水」が、722篇中の最終5篇に残った。賞は逸したものの同作品が、8月、『群像』9月号に新人賞候補作として掲載された。これは、ユネスコの調査で砂漠にいった主人公が、さまざまな実存的思考を巡らす純文学的な短編であった。

1964年(昭和39年)から1965年(昭和40年)にかけて、正田は死刑囚の獄中手記を『犯罪学雑誌』に連載した。この手記は、1967年(昭和42年)7月、『黙想ノート』というタイトルの本としてみすず書房から刊行された。序文を弁護士の正木亮が書き、解説を精神鑑定人の吉益脩夫(しゅうふ)が書いており、「死刑囚の心理を示す資料」という形をとっている。こういう体裁にしたのは、未決囚の間は小説の執筆は認められていたが、既決囚の小説の執筆は禁止されていたからであった。

『黙想ノート』

吉益脩夫・・・明治32年、大垣市に生れる。大正13年、東大医学部卒業。東大精神科、松沢病院に勤務。昭和6年、東大文学部大学院(心理学)卒業。昭和11年、東大脳研究所講師。昭和20年精神医学教室助教授。昭和31年脳研究所教授。昭和34年、東京医科歯科大学犯罪心理学研究室教授。昭和40年、退官。医博。昭和49年7月14日、逝去。著書に『日本の精神鑑定』 (共著) / 『精神病の鑑別診断』(金原出版/菅又淳共著/1964) 、訳書として『ヒステリーの心理』(みすず書房/E・クレッチマー/1973)がある。

ちなみに、正木亮の著書に『獄窓の中の人権』(朝日新聞社/1968)/ 『死刑 消えゆく最後の野蛮』(日本評論社/1972)がある。

1967年(昭和42年)ごろから正田は望月光神父の勧めで福音書の文語訳を始め、1968年(昭和43年)11月にマルコ福音書訳、1969年(昭和44年)10月にルカ福音書訳を完成させた。

1968年(昭和43年)11月、正田の著書『夜の記録』が聖パウロ女子修道会から出版された。これは、日記形式で獄中の思いを同修道会発行の月刊誌『あけぼの』に連載したものをまとめた本であった。

1969年(昭和44年)12月9日、東京拘置所で死刑が執行された。40歳だった。

正田の死後、福音書訳は望月神父によって引き継がれ、「正田昭、望月光共訳『聖福音書』、185国分寺市××× 望月光発行、一九七七年」として出版された。

正田昭をモデルに書いた小説に、加賀乙彦(本名・小木貞孝)の『宣告』 がある。加賀は正田の獄中手記を連載した『犯罪学雑誌』の編集にたずさわっていた。

加賀乙彦・・・1929年(昭和24年)、東京生れ。作家。東京大学医学部卒。東京拘置所医務部、北フランスの精神病院、東大医学部精神医学教室、東京医科歯科大犯罪心理学教室等で勤務の後、創作活動に専念。主な著書・・・『フランドルの冬』(1968年、芸術選奨文部大臣新人賞)/『帰らざる夏』(1973年、谷崎潤一郎賞)/『宣告』(1979年、日本文学大賞)など多数。

参考文献・・・
『殺人百科(3)』(文春文庫/佐木隆三/1987)
『犯罪の昭和史 2』(作品社/1984)

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