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光クラブ事件

光クラブ事件はアプレ・ゲール犯罪として取り上げられる事件だが、他にバー「メッカ」殺人事件日大ギャング事件などがある。

アプレ・ゲール・・・「アプレ」は前置詞「〜の後」、「ゲール」は「戦争」という意味で、「アプレ・ゲール」は「戦後」を意味するフランス語。「アプレ・ゲール」は、本来、第一次世界大戦後の文化運動を言うが、日本では太平洋戦争後の世代や文化をそう呼び、芸術運動の言葉として使われていた。それがいつのまにか反社会的な行動をとる若者たちに対して、「アプレ」または「アプレ・ゲール」と代名詞のように使われるようになった。

「人間の性は、本来、傲慢、卑劣、邪悪、矛盾であるが故に、私は人間を根本的に信用しない」これは、山崎晃嗣(あきつぐ)のモットーであった。

山崎の父親の山崎直は、千葉県木更津市生まれで第一高等学校(現・東京大学教養学部)から京都帝国大学医学部を卒業した医学博士で、のちに木更津市長にもなった。母親の夫沙子は上野の音楽学校(現・東京芸術大学?)出身。山崎晃嗣は5人兄弟の末弟として生まれた。

1943年(昭和18年)、山崎は第一高等学校から東京大学法学部に進むが、戦争中は学徒兵として軍隊に入り、幹部候補生を経て、終戦近くに陸軍主計少尉に任官。北海道旭川の北部第178部隊の糧秣(りょうまつ)委員となっていた。

1945年(昭和20年)1月5日、山崎はこのとき23歳の見習士官だったが、童貞を失った。北海道登別温泉の一夜のことだった。この日の日記には次のように記されている。

<寒い冬の雪の夜、布団に入ってはじめてしる女の肉体はおそろしく煽情的だった。わたしは女が好きだ。十二位で手淫をはじめてから、ひたすら求めたのは女陰だった。せめて中学を卒業する前に、一回くらい性交したいものと思いつつ果たさず、××正次君との同性愛でわずかに欲情をみたし、高等学校でも同様、○○俊夫との同性愛で自らみたしてきた・・・・・・○○とはときどき訪問し合い、三合の焼酎に酔い、ともどもに戯れ、マスターベーションをし、キッスし合った>

終戦の頃の様子を、山崎は日記に次のように書いている。

<日ごろ勅諭(ちょくゆ)だとか戦陣訓ばかりのセリフで尽忠奉国を説いていた軍人将校は、ポツダム宣言受諾と同時に赤裸々な人間にかえった>

山崎は終戦の知らせを受けたとき、上官の命令で、食糧「疎散」(隠匿)の片棒をかついだ。密告され、横領罪で逮捕された山崎は、上官をかばい1人泥をかぶった。懲役1年6ヶ月・執行猶予3年の判決を受け、出獄したとき、約束に反して隠匿物資は分配済みで、上官らは山崎にビタ一文の分け前もよこさなかった。山崎は「義理」とか「人情」とかいうものに甘くもたれかかっていた自分に愛想をつかした。

山崎は「人間の能力の限界」を探求する決心をし、観念的合理主義を脱却して、行動的合理主義を実践する。

1946年(昭和21年)2月、山崎は東大に復学してから、まだ誰もやったことがないと言われることに挑戦した。それは全ての科目で「優」をとることだった。そのためにまるで電車の時刻表のような日記を記していった。一番左の欄に、24時間を5分〜30分ごとにきざみ、次の欄に「有益時間1〜6等」「無益時間」「中立時間」「睡眠時間」「女色時間」などを表す「○」や「△」などの記号や数字を書き、次の欄には勉強した内容などを書き込んでいた。これらはすべて「人間の能力の限界」を探求する山崎の人生観を行動に移したものであった。

その結果、20科目中、「優」17科目、「良」3科目という最優秀の成績を挙げた。だが、完全主義者の山崎は「全優」を達成できなかったことにショックを受け、<教授の嗜好、気まぐれに相当依存さる優、良、可の区分に全生活を賭けるのが馬鹿らしくなった>と日記に書き記している。

また、山崎は合理主義に基づいて、自分の性生活の様子を克明に日記に記していった。たとえば、智子という35歳の愛人とのセックスについて、次のように書いている。

<三月十五日。試験の準備をこころみていると、夕方六時ごろ智子が来た。十八日の約束だったが、待ちきれなくなったのよ、というのだった。私は彼女を泊めてしまった。女は六回も性感の喜びに浸ったが、私は四回射精したのみだった。彼女は朝九時ごろ帰って行った>

<三月二十六日。夜帰る。智子にはぼくの精液を吸わせた。彼女は月経がない、妊娠したらしい! ぼくは妊娠させたことはない。新しい経験は人生の歓喜だ。困難な問題であるほど、処理に平然たるのが愉快である。ぼくはまず、堕胎へ万全の策を講じよう。失敗だったら、女を扇動して自殺させてもよい。世の中は退屈だ。いまぼくに興味があるのは、二十七科目に優をとること、高等試験に優秀成績で合格すること。性交を楽しむこと。外に若い女をものにすること。この二つに週一日以下の日をあてること、以上>

<女は激しい年増の恋で、私を熟愛している。そうして、私が田舎に帰らぬ限りは、日々通って来る。家事を棄てて泊り込む。試みに見給え。生活記録統計表を。五月一日より六月三日まで三十四日間に、射精回数五十九回。射精せざり日わずかに五日、即ち十五%、四回射精した日が二日、三回が四日、二回は十三日、即ち四十%に及んでいる>

山崎はセックスにおいて、愛情とか誠意といったメンタルなものを一切認めなかった。山崎には6人の情婦がいたが、そのうちの1人の葉子が、“あなたは人の誠意が分からない人だ” と非難したことがあった。それに対し、山崎は、「誠意とはいいわけと小利口に逃げることである。私の誠意を見てくださいという言葉ほど履行されぬものはない。人は合意にのみ拘束される」と一蹴している。

1948年(昭和23年)9月、山崎は自分の頭の良さを客観的に確認するために、金貸し業をやり始める。東京都中野区鍋屋横丁に「光クラブ」を設立した。友人の日本医大生の三木仙他を専務にし、自分は社長となった。1万5000円の資金全部を新聞広告に使い、<遊金利息、月1割3分><確実と近代性をほこる日本ただひとつの金融会社>と銘打った。集まった資金は商店、中小企業者に、月2割1分(21%)から3割(30%)の高利で短期貸付けされた。

山崎の試みは当たった。月に1割3分(13%)の配当金だから、100万円で月13万円の配当となり、当時はそれだけでも充分暮らしていけた。金を後生大事にしまっていた後家さんからヤミ成金までどっと、「光クラブ」に集まってきた。

4ヶ月後の1949年(昭和24年)1月には銀座に進出。資本金600万円、株主400名、社員30名を擁していた。

当時、山崎は26歳、三木は25歳。「光クラブ」という変わった会社名と、学生が中心となって経営にあたっている金融機関ということで、素人ウケし、業界でも特異な存在だった。

だが、利息制限法に定める法定利息は月9分(9%)であった。当然ながら、月1割3分(13%)で民間人の融資を募っていた「光クラブ」は警察に目をつけられた。

7月4日、山崎は物価統制令銀行法違反の容疑で京橋署に逮捕された。山崎は持ち前の法律知識を駆使して取調官に法律論争を挑み、9月には処分保留で釈放された。このとき、留置所で週刊誌のインタビューに応じて、「人生は劇場だ。僕はそこで脚本を書き、演出し、主役を演ずる」と発言、その居丈高な態度が世間を驚かせた。だが、山崎の逮捕に動揺した390人余りの債権者からの約3000万円の債権取り立てに直面し、行き詰まってしまう。

支払い期限である11月25日が迫っていた。この日まで、約3000万円のうち、とりあえず300万円を返済する約束が債権者委員会との間で取り交わされていた。期限を延期することが可能であったが、山崎は敢えてそれをしなかった。

11月24日、期限の前夜12時近くに、銀座松屋裏の木造2階建ての事務所の一室で山崎(27歳)は青酸カリを飲んで自殺した。

残された日記の最後には、次のように記されていた。

<私の合理主義からは、契約は完全履行を強制されていると解すべきだ。・・・・・・契約は人間と人間との間を拘束するもので、死人という物体には適用されぬ。私は事情変更の原則を適用するために死ぬ。私は物体にかえることによって理論的統一をまっとうする>

さらに、書簡紙に次のような遺書を残した(縦書き)。

一、御注意、検視前に死体に手をふれぬこと。法の規定するところなれば、京橋警察署にただちに通知し、検視後、法に基き解剖すべし。死因は毒物。青酸カリ(と称し入手したるものなれど、渡したる者が本当のことをいったかどうかは確かめられし)。死体はモルモットと共に焼却すべし。灰と骨は肥料として農家に売却すること(そこから生えた木が金のなる木か、金を吸う木なら結構)。

二、望みつつ心安けし散るもみじ理知の命のしるしありけり。

三、出資者諸兄へ、陰徳あれば陽報あり、隠匿なければ死亡あり。お疑いあればアブハチとらずの無謀かな。高利貸冷たいものと聞きしかど死体さわればナル・・・・・・氷カシ(貸ー自殺して仮死にあらざる証依而如件[よってくだんのごとし])。

四、貸借法すべて清算カリ自殺。晃嗣。午後一一時四八分五五秒呑む、午後一一時四九分・・・・・・

< 『戦後欲望史 混乱の四、五〇年代篇』(講談社文庫/赤塚行雄/1985) >

この「一一時四九分」の後、なお5、6字続いているが、判読できなかったらしい。

最期まで合理主義を貫き通した男であった。

山崎晃嗣の著書に『私は偽悪者』(牧野出版/2006) / 『私は天才であり超人である 光クラブ社長山崎晃』(文化社/岡山泰「編]/1949)がある。

山崎晃嗣をモデルに書かれた小説に、三島由紀夫の『青の時代』 、北原武夫の『悪の華』、高木彬光の『白昼の死角』 、田村泰次郎の『大学の門』などがある。 田村泰次郎は『肉体の門』が有名。

三島由紀夫は山崎より2歳ほど年下で、同じ東大法学部に入学しており、<交流があった>と書いてある書籍(だったか雑誌だったか忘れたが、)もあるようだが、1970年(昭和45年)11月25日、三島が45歳のとき、東京都新宿区市谷本村町の陸上自衛隊東部方面総監部でバルコニーに立って演説をし、その後、割腹自殺している。山崎が自殺した日が11月24日で三島が自殺したのが11月25日だった。なぜか、山崎の自殺した日も11月25日とし、<三島由紀夫が自殺する日に11月25日を選んだのは山崎の命日だったからではないか>という推測を書いてある書籍(だったか雑誌だったか忘れたが、)を読んだことがある。山崎をモデルに小説を書いたほどだから、そういうこともなくはないと思うのだが、一日の違いは問題ではない・・・? 三島由紀夫事件

小説『白昼の死角』は同じタイトルで映画化された。『白昼の死角』(VHS/監督・村川透/出演・夏樹勲/1990)

小説『大学の門』も同じタイトルで映画化された。『大学の門』(監督・佐藤武/出演・中村彰ほか/新東宝/1948)

テレビドラマでは、『青い光芒』(演出・大原誠/山崎晃嗣役・根津甚八/原作・鈴木肇/1981年7月26日〜8月16日・4回放送/NHK)、日本テレビ系列の「ザ!世界仰天ニュース緊急特別版」の枠内で放送した『落ちた偶像 光クラブ事件=x(山崎晃嗣・萩原聖人/他・加藤晴彦、光浦靖子/2006年6月28日21:00〜22:54)がある。

参考文献など・・・
『犯罪の昭和史 2』(作品社/1984)

『戦後欲望史 混乱の四、五〇年代篇』(講談社文庫/赤塚行雄/1985)

『人間臨終図鑑 上巻』(徳間書店/山田風太郎/1986)
『新説 光クラブ事件 東大生はなぜヤミ金融屋になったのか』(角川書店/保坂正康/2004)

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