[ 事件 index / 無限回廊 top page ]

日大ギャング事件

日大ギャング事件はアプレ・ゲール犯罪として取り上げられる事件だが、他にバー「メッカ」殺人事件光クラブ事件などがある。

アプレ・ゲール・・・「アプレ」は前置詞「〜の後」、「ゲール」は「戦争」という意味で、「アプレ・ゲール」は「戦後」を意味するフランス語。「アプレ・ゲール」は、本来、第一次世界大戦後の文化運動を言うが、日本では太平洋戦争後の世代や文化をそう呼び、芸術運動の言葉として使われていた。それがいつのまにか反社会的な行動をとる若者たちに対して、「アプレ」または「アプレ・ゲール」と代名詞のように使われるようになった。

1950年(昭和25年)9月22日、東京都千代田区の派出所に血だらけの男が「強盗に襲われた」と駆け込んだ。男は日本大学本部会計課員の八木下茂(当時20歳)、用務員の金山忠一(当時62歳)、日本大学の運転手の佐藤清寿(当時40歳)の3人で、日本大学本部職員100人余りの給料191万円を富士銀行(現・みずほ銀行)神田支店と千代田銀行(現・三菱東京UFJ銀行)小川支店から下ろして、ダットサンで帰校途中、強盗にあった。

強盗犯人は日本大学本部詰め運転手の山際啓之(やまぎわひろゆき/当時19歳)で、山際は帰校途中のダットサンに「ヘイ・スタップ」と米語で叫んだ。運転手の佐藤は職場の同僚ということで気易く車を停めて山際を乗せたが、山際は車に乗り込むと佐藤の脇腹にジャックナイフを突きつけた。佐藤は仕方なく言われるままに車を運転した。山際は大手町労働省前で停車を命じ、八木下の右首筋を切りつけ、給料入りのボストンバッグを奪い、3人を車外に放り出し、そのまま車を運転して逃走してしまった。

通報を受けた丸の内署員が駆けつけてみると、会計課員の八木下は9針も縫う重傷だった。やがて、ダットサンは大手町の富士銀行前で乗り捨ててあるのが発見された。

犯人の山際は1949年(昭和24年)2月、臨時の雇いとして日本大学本部に勤め、7月に運転免許をとって輸送課に移った。この間に日本大学文学部の藤本藤次郎教授の娘の藤本佐文(さぶみ/当時18歳)と親しくなり、金をつくって、2人で高飛びしようとしたらしいことが分かった。

犯人の山際は佐文と夫婦を装い、東京都品川区でCIE(GHQの民間情報教育局)の2世と称して部屋を借り、潜伏していた。

だが、肩鞄やボストンバッグなどに千円札、百円札、十円札などがむき出しにぎっしり詰められていることや連れの女がいることで、下宿の主婦はギャング事件の犯人ではないかと思い、通報した。

2日後の9月24日午後4時、2人は逮捕された。

逮捕されるまでの2日間、2人はダブルベッドや洋服、ボストンバッグなどに30万円を使い込んでいた。

警察に踏み込まれたとき、2人はダブルベッドに寝そべっていたが、容疑事実を突きつけられ強く同行を求められると、山際は佐文に向かって

「オー・ミステイク!」

と肩をすぼませ、手を広げて叫んだという。一躍、この言葉は流行語になった。その後、この事件は、「オー・ミステイク事件」とも呼ばれるようになった。

山際のアメリカ人に対する憧憬は相当なもので、腕に<ジョージ>と刺青を彫っており、警察の取調べに対しても米語を使った。

佐文も強盗傷害幇助罪で送検された。山際は懲役4〜7年の不定期刑、佐文は懲役2年・執行猶予3年の判決だった。

参考文献・・・
『犯罪の昭和史 2』(作品社/1984)

『戦後欲望史 混乱の四、五〇年代篇』(講談社文庫/赤塚行雄/1985)

[ 事件 index / 無限回廊 top page ]