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連合赤軍あさま山荘事件

事件関係者の人名の後ろに( )で括って年齢の他、最終学歴や職業などを記したが、大学など在学中・休学中・中退・卒業の区別がつかない者は学校名だけにした。

【 赤軍派の登場 】

東大、日大闘争を頂点とした全共闘による大学闘争の敗北により、学生たちの間ではシラケが進行していったが、一部のセクトは、急速に過激化、武装化への飛躍を見せるようになった。そのひとつが赤軍派である。東大闘争と日大闘争

1969年(昭和44年)5月、赤軍派はトロツキズムを基盤とした共産主義者同盟(第2次ブント)の中の関西を中心とする武闘路線派から生まれた。それまでの大学闘争、街頭闘争の総括を経て、早急に軍隊を組織して、銃や爆弾で武装蜂起する必要があるという理由で結成された。そのときのメンバーは京大、同志社大、立命館大などを中心とする活動家約400人(うち高校生活動家約90人)であった。その後、9月4日、日比谷野音で開かれた全国全共闘結成大会に、初めて公然と姿を現した。

9月21・22日、武器奪取、対権力攻撃として、阿倍野派出所など3ヶ所の交番に火炎ビン攻撃を加えた「大阪戦争」、9月30日、「日大奪還闘争」をスローガンに神田、本郷一帯で同時多発ゲリラ闘争を展開した「東京戦争」は、いずれも失敗に終わった。

10月21日、10・21国際反戦デー闘争(新宿騒擾事件一周年闘争)には、最初の鉄パイプ爆弾を登場させ、新宿駅襲撃、中野坂上ではピース缶爆弾によるパトカー襲撃などを行った。

11月5日、首相官邸や警視庁を襲撃するために、鉄パイプ爆弾による軍事訓練をしようとハイキングを装い、山梨県塩山市の大菩薩(だいぼさつ)峠にある「福ちゃん荘」に集結するが、かねて密かに内偵捜査を進めていた警察により、爆発物取締法違反、凶器準備集合罪の容疑で53人(うち高校生9人)が逮捕された。

1970年(昭和45年)1月16日、国内の取り締まり強化により、東京で約800人、2月7日、大阪で約1500人を集めて蜂起集会を開いた。東京の集会では世界革命戦線構築として「国際根拠地建設、70年前段階蜂起貫徹」と銘打った。

3月15日、「日本のレーニン」と言われた赤軍派最高幹部の塩見孝也(たかや)議長(京大)が破壊活動防止法違反(予備・陰謀)容疑で逮捕された。塩見が所持していた手帳に<H・J>の文字があったが、公安警察はそれが「ハイジャック計画」を意味するとまでは読みとれなかった。そのときまでに逮捕された者は222人にのぼり、赤軍派は壊滅状態に陥っていた。

当時、「赤軍罪」という呼び名があった。六法全書にはそんな罪状は記載されていなかったが、赤軍派のメンバーであるというだけで、逮捕の理由にされてしまった。公安警察の監視下に置かれていた赤軍派のメンバーは、うかつに道路を横切ることもできなかった。歩行中に信号機の色が変わっただけで、道交法違反の現行犯として逮捕されたし、わざと体をぶつけられて抵抗すると、すぐに公務執行妨害の現行犯で逮捕された。

3月31日〜4月3日、世界革命戦線構築の具現として、田宮高麿(たかまろ/当時27歳/大阪市立大)をリーダーとする9人のメンバーが日航機「よど号」ハイジャックし、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)入りを敢行する。「よど号」ハイジャック事件

翌1971年(昭和46年)2月26日、赤軍派はさらに、中近東アラブ・ゲリラ、PLOのアラファト議長やPLOの武装ゲリラ組織「PFLP」(パレスチナ解放人民戦線)との連帯を求めて、奥平剛士(おくだいらつよし/当時26歳/京大)はパレスチナへ旅立った。その2日後の28日、重信房子(当時25歳/明治大/2月2日、同志の奥平剛士と結婚入籍したためパスポートは奥平房子となっている)があとを追った。レバノンのベイルートに着いた2人は、PFLPの庇護と支援を得て海外赤軍派をつくった。これによる「日本赤軍」の誕生と、赤軍派の新たな闘いへの転機ともなった。日本赤軍と東アジア反日武装戦線

2月から7月にかけて、森恒夫(つねお/当時27歳/大阪市立大)をリーダーとする武闘派は、マフィアの頭文字から取ったM作戦(↓)を展開。「革命のためには盗みも許される」という森の「徴発の論理」に従い、郵便局、銀行などを襲い、資金奪取に成功するが、当日あるいは後日、幾人かが逮捕されている。

M作戦の他に、P(ペガサス・人質をとる)作戦、B(ブロンコ・海外拠点づくりのため、同志を海外に送り出す)作戦がある(「よど号」ハイジャックやPFLPとの連帯)。

2月22日 千葉県市原市辰巳台郵便局から現金71万8678円強奪。
2月27日 千葉県茂原市高帥郵便局から現金9万4900円強奪。
3月 4日 千葉県船橋市夏目郵便局から現金1万5350円強奪。
3月 5日 神奈川県相模原市横浜銀行相模台支店から現金150万9000円強奪。
3月22日 宮城県泉市振興相互銀行(現・仙台銀行)黒松支店から現金115万9200円強奪。
5月15日 神奈川県横浜市吉田小学校から給与の現金321万6539円強奪。
6月24日 神奈川県横浜市横浜銀行妙蓮寺支店から現金326万円強奪。
7月22日 鳥取県米子市松江相互銀行(現・島根銀行)米子支店から現金605万1600円強奪するが、警察の検問にひっかかり逮捕された。

6月17日、極左各派は全国32都道府県103ヶ所で3万人が参加する「沖縄返還調印阻止闘争」と銘うった武闘を展開し、837人が逮捕された。

同日午後8時59分、赤軍派は、明治公園オリンピック道路で全共闘デモを規制中だった2機、5機の密集隊列に向かって公園の暗い茂みから鉄パイプ爆弾が投げ込み、轟然と爆発。このとき、2人の機動隊員が腹部裂傷、大腸露出の重傷を負った他、合わせて37人が重軽傷を負った。

残った幹部には森の他に、坂東(ばんどう)国男(当時24歳/京都大卒)、植垣康博(当時23歳/弘前大4年)、山田孝(27歳/京大)らがいた。

【 京浜安保共闘の登場 】

1967年(昭和42年)、日本共産党と中国共産党の対立が表面化し、日本共産党は党内の「親中国派」を除名した(自ら脱退した者もいた)。この離党した彼らとブントの分派であるML派のメンバーが、毛沢東思想を基盤とした「日本共産党(革命左派)神奈川県委員会」の武装集団の「人民革命軍」の公然組織としてつくったのが、京浜安保共闘であり、1969年(昭和44年)に誕生していて、赤軍派の誕生とほぼ、同時期であった。理論的指導者は川島豪(当時28歳/岐阜大中退、東京水産大[現・東京海洋大/東京商船大と東京水産大が統合して東京海洋大学に名称を変更/以下同]卒)。「革命は銃から生まれる」という過激路線であった。

京浜安保共闘は京浜工業地帯の労働者や学生が中心の集団だが、「武装闘争によって政権が生まれる」というスローガンを掲げ、結成直後の9月から11月にかけて米軍基地、米国大使館などの爆破、同未遂事件など、過激な闘争を展開。

 9月 3日 米大使館火炎ビン襲撃事件・ソ連大使館火炎ビン襲撃事件
 9月 4日 愛知外相訪米阻止羽田空港火炎ビン事件
10月21日 米軍横田基地米軍機炎上事件
10月31日 岐阜県下におけるダイナマイト窃盗事件 (〜11月4日)
11月 5日 米軍厚木基地爆破未遂事件
11月 6日 米軍立川基地爆破未遂事件
11月17日 横浜の米国館爆破未遂事件
11月29日 第1次米軍輸送列車妨害事件

だが、この一連のゲリラ闘争によって12月8日、川島豪を始め、25人が逮捕され、脱走者も40人近くとなった。

残った幹部には、永田洋子(ひろこ/当時24歳/共立薬科大[現・慶応義塾大学薬学部]卒 → 慶応大学病院薬局研究生 → 明電舎の診療所勤務 → 神奈川県済生会病院勤務)、坂口弘(当時23歳/東京水産大中退)、吉野雅邦(まさくに/当時21歳/横浜国大中退)、寺岡恒一(21歳/横浜国大)などがいた。

1970年(昭和45年)9月、投票により永田が委員長に選任される。11月、拡大党会議を開催し、川島が主張してきた政治ゲリラ闘争から軍事ゲリラ闘争へと戦術転換を図り、攻撃目標も交番襲撃に移行すると発表。

12月18日、東京都板橋区の志村署上赤塚交番(現・高島平署上赤塚交番)で拳銃を奪おうとして3人で襲撃するが、そのうちの1人、柴野春彦(24歳/横浜国大4年)は巡査に射殺される。W・M(当時25歳/横浜国大)とK(当時18歳/定時制高校)にも弾が当たり、その場で逮捕された。

柴野春彦は愛知外相訪米阻止・羽田空港火炎ビン事件、1969年(昭和44年)10月21日の10・21闘争で米軍横田基地に手製爆弾を投げ込み、基地内に侵入して米軍機にガソリンをかけて放火炎上させた事件、岐阜県赤坂山石灰採掘現場からダイナマイト15本、雷管30本を盗んだ容疑などで指名手配中の人物だった。

1971年(昭和46年)4月から12月にかけて、射殺された柴野春彦の復讐戦とみられる爆弾テロが発生した。18日前後に多いのはそのためである。

4月26日 貫井北町交番缶詰爆弾爆破事件
 8月 7日 本多警視総監公邸爆破未遂事件・千葉成田署爆破事件
 8月22日 警視庁「大橋荘」(職員寮)消火器爆弾爆破事件
 9月18日 高円寺駅前交番爆破事件
10月16日 警視庁「松原荘」爆破事件
10月18日 警視庁「青戸荘」爆破事件・西新橋1丁目日本石油(現・JX日鉱日石エネルギー)本館内郵便局で小包2個が爆発。1個は後藤田正晴警察庁長官宛てに、もう1個は新東京国際空港公団(現・成田国際空港株式会社)今井栄文(よしふみ)総裁宛てになっていた。
10月24日 中野警察署自転車置き場爆破事件・本富士署弥生町交番爆破事件・代々木署清水橋交番爆破未遂事件・板橋署仲宿交番爆破未遂事件・荻窪署四面道交番爆破未遂事件・養育院前交番爆破未遂事件

12月18日(上赤塚交番事件1周年記念日)、警視庁警務部長の土田国保宅に届けられた小包を夫人の民子(47歳)が開けたとたん、手足がバラバラに飛び散って即死。そばにいた四男(当時14歳)も重傷を負った。その後、この事件で元法政大学生ら18人が起訴されたが、全被告の無罪が確定している。

同日午後6時から、京浜安保共闘と赤軍派は合同で板橋区民会館に約7000人を集め「12・18柴野春彦虐殺弾劾1周年追悼集会」を開催した。

12月24日、新宿伊勢丹デパート前の四谷署追分交番でクリスマスツリーに見せかけた爆弾が爆破。巡査の2人が重態、軽傷を負った他、通行人10人も巻き添えをくって負傷した。

1971年(昭和46年)2月17日、永田、坂口の命令により、吉野、寺岡ら6人が、栃木県真岡(もおか)市の塚田銃砲店を襲って、猟銃(散弾銃)10丁、空気銃1丁、散弾実砲2300発を強奪するが、このうち2人が車で逃走中、逮捕される。このとき、奪った武器が、のちの「あさま山荘」での銃撃戦に使われることになる。

強奪した銃は、群馬県館林市のアジトに運ばれた。その後、新潟県長岡市のアジトに潜んでいたが、ここも危険ということで、北海道に渡り、札幌市内にアジトを設定。

4月上旬、永田と坂口はひそかに上京し、都内で赤軍派の森と接触し、奪った銃2丁と実弾200発を現金(M作戦と称し、郵便局や銀行で奪った金)30万円で売却。

4月下旬、この資金で、山梨県北都留郡丹波山村小袖の炭焼き小屋にテントを張って、通称「小袖ベース」を設置、同志17人が集結した。ここでは、銃奪取のための警察の派出所・駐在所調査計画を立てるとともに、実弾の射撃訓練を行った。

鍾乳洞で猟銃による実践訓練をしていたが、向山(むこうやま)茂徳(21歳/諏訪清陵高校卒)が逃走したので、警察への通報をおそれてアジトを撤収。

7月上旬、山梨県東山梨郡三富村(現・山梨市)破不山のふもとにテントを張って、通称「塩山ベース」を設置。

7月下旬、交番襲撃のための調査に、志願して同行していた早岐(はいき)やす子(21歳/日大看護学院中退)が名古屋市内から逃走。警察への通報をおそれてアジトを移動する。

永田、坂口、吉野、寺岡らは協議した結果、「組織防衛のためには、個人的な感情を抜きにして、逃走した2人を殺さなければならない。革命達成のためには、やむを得ない犠牲である」として、この2人を殺害することを計画した。

8月4日、早岐やす子を誘い出して車に乗せ、船戸大橋付近で絞殺し、死体を千葉県印旛(いんば)沼付近に運び、前日に土を掘ってつくっておいた穴に衣服を剥ぎ取り埋めた。

8月10日、小平のアジトに、向山茂徳を言葉巧みに誘い出し、酒を飲ませて泥酔させた上で絞殺し、死体を早岐が埋められている穴から10メートル離れたところに穴を掘り、向山の衣服を剥ぎ取り埋めた。

神奈川県丹沢に、テントを張って、通称「丹沢ベース」を設置。地下活動のアジトにした。そこでは、理論学習、爆弾製造、ゲリラ訓練などを行っていた。

10月24日ごろ、同志の2人がここから逃走し、名古屋で逮捕されたことをラジオを聴いて知り、それによって、アジトの場所が当局によって知られることをおそれ、また、寒さも厳しくなってきたこともあって、静岡県大井川にアジトを移動させ、通称「大井川ベース」を設置。

11月21日ごろ、同志5人が逮捕されたのを知り、同月下旬、群馬県北群馬郡伊香保町(現・渋川市)の榛名(はるな)山に移り、温泉宿の跡地を利用して新アジトを建設、通称「榛名山ベース」を設置。このとき、メンバーは20人(うち女性9人)であった。

【 連合赤軍の誕生 】

12月20日ごろ、そこへ、森恒夫率いる赤軍派9人(うち女性1人)が合流して、計29人(うち女性10人)からなる連合赤軍が誕生することになった。

トロツキズムの世界同時武装革命の赤軍派と毛沢東主義の反米愛国一国革命論の京浜安保共闘は、お互いに路線を譲り合い、赤軍派は毛沢東主義を再評価し、京浜安保共闘は「反米愛国」の路線を下し、統合して「連合赤軍」を創設することで基本的合意が成立した。

両集団は、武力革命を目指す点においては一致していた。赤軍派は資金はあるが、銃器はないし、大菩薩峠での大量逮捕で、人員は減り、幹部たちもいなくなっている。一方、京浜安保共闘は銃器はあるし、アジトも持っている。そうしたことから、この2つの集団が団結して行動を共にすることは、お互いにとって都合がよかった。

彼らの行動指針として、革命戦士として戦うには、まず、全メンバーを共産主義化させることを党建設の中心として位置づけることであった。それは、人間の共産主義化であり、人間改造の手段として「総括」があり、銃器奪取闘争、殲滅(せんめつ)戦争がある。敵を倒すことで日本革命戦争=味方の飛躍ー建軍という常に発展性を有した新たな地平が開かれる、としている。

連合赤軍としてのリンチ殺害は12人だが、他に京浜安保共闘はこの年の8月にすでに2人をリンチ殺害しているので計14人ということになる。

下の表の1と2は京浜安保共闘による殺害事件で、3〜14は連合赤軍による殺害事件

  殺害日 被害者

職業

旧所属
1971年(昭和46年)
8月4日 早岐やす子(21歳) 日大看護学院中退 京浜安保
8月10日 向山茂徳(21歳) 諏訪青陵高卒 京浜安保
12月31日 尾崎充男(22歳) 東京水産大 京浜安保
1972年(昭和47年)      
1月1日 進藤隆三郎(21歳) 秋田高卒 赤軍派
1月2日 小嶋和子(22歳) 市邨学園 京浜(中京)安保
1月4日 加藤能敬(22歳) 和光大 京浜安保
1月6日 遠山美枝子(25歳) 明治大 赤軍派
1月6日 行方正時(25歳) 岡山大 赤軍派
1月15日 寺岡恒一(24歳) 横浜国大 京浜安保
10 1月16日 山崎順(21歳) 早大 赤軍派
11 1月30日 山本順一(28歳) 会社員 京浜(中京)安保
12 2月5日 大槻節子(23歳) 横浜国大 京浜安保
13 2月8日 金子みちよ(24歳) 横浜国大 京浜安保
14 2月10日 山田孝(27歳) 京大 赤軍派

早期武装蜂起のためには、少数尖鋭で果敢に行動し、最大の成果をあげなければならない。共産主義化された革命戦士を自認していた森、永田の命令を忠実に実行する者だけが、“鉄の意志” を持った兵士と認定されることとなった。密閉された空間で、同志たちは、いつしか永田、森の独裁的支配に従うようになっていった。

2人の気に入らない者は、規律違反、日和見、反共産主義的などの理由で「総括」のリンチにかけられ、殴られ、蹴られ、縛られた上、極寒の中に放置されて凍死させられた。2人の命令だけが至上で、どんなリンチでも平気で行うのが真の革命戦士であり、少しでも異を唱える者、動揺を見せる者は容赦なく処罰された。

一部の同志はこうした集団リンチを免れ、脱走に成功している。だが、脱走したものの逮捕されると、アジトの場所が知られることになるため、脱走するおそれのある者まで「総括」の対象となった。

この「人民裁判」は7人の中央執行委員会(C・C)によって行われた。中央執行委員長の森恒夫、副委員長の永田洋子、書記長の坂口弘、その中央執行委員には、坂東国男、吉野雅邦、寺岡恒一、山田孝の4人がいた。といっても、実際は、委員長の森と副委員長の永田が「判決」を下し、他の5人はそれに同調するだけだった。拒否したりビビったりすれば、中央執行委員であっても「総括」された。実際、寺岡と山田が“死刑”に処せられている。

「総括」と呼ばれたリンチには「芟除(さんじょ)」と「死」の2つがあった。「芟除」とは、刈り除くという意味で革命戦士になれなかった者に対し、全員で顔や腹を殴りつけ一歩も歩けない状態にしアジトの外の柱に縛り付け食事を与えないままに放置、寒さと飢えで死なせること。「死刑」は文字通り、罰してすぐに殺してしまうことである。「総括」期間は人によって違うが、1日〜12日間であった。

この「榛名山ベース」では、12月31日から翌1972年(昭和47年)1月17日にかけ、8人を殺害し、車で死体を運び、榛名山のふもとの倉渕村の十二塚山林に埋めた。

12月31日、尾崎充男(みちお/22歳/東京水産大/京浜安保共闘)を殺害。尾崎は最初の犠牲者であった。その理由は公然活動と非公然活動を区別せず、公然活動のメンバーに不用意にも銃の隠し場所を教えたことであった。全員から顔や腹を殴られアジトの外の柱に体を縛られ食事も与えられないまま、寒さと飢えで死んでいる。

翌1972年(昭和47年)1月1日、進藤隆三郎(22歳/秋田高卒/赤軍派)を殺害。

1月2日、小嶋和子(22歳/市邨学園/京浜[中京]安保共闘)を殺害。小嶋は「永田さん、いやになっちゃう。加藤が寝ていると変なことするんだもん」と訴え出たが、永田に「あんたにも責任がある」と言われ、他の全員に殴る蹴るなどの暴行を受け、その後、小屋の外に放置され凍死した。

1月4日、加藤能敬(よしたか/22歳/和光大/京浜安保共闘)を殺害。加藤には未成年の2人の弟がいるが、2人とも榛名山ベースに来ており、永田の命令により兄の能敬を2人の弟の加藤倫教(みちのり/当時19歳/東海高校卒)と加藤M(当時16歳/東山工業高校)は涙を頬に流し泣きじゃくりながら体を震わせて殴った。それは朝まで続けられ、気づいたときには死んでいた。

1月6日、遠山美枝子(25歳/明治大/赤軍派)と行方(なめかた)正時(22歳/岡山大/赤軍派)を殺害。

1月15日、寺岡恒一を殺害。寺岡は中央執行委員であったが、「こんな調子ではいつ自分がやられるか分からない」と以前から親しくしていた、書記長でもある坂口弘に分かってくれるだろうとつい、口をすべらせてしまったのが凶となってしまった。そのまま、森や永田の耳に入り、ナイフやアイスピックで刺され、最後には首を締められるという凄まじい死刑を執行された。

1月16日、山崎順(21歳/早大/赤軍派)を殺害。

1月中旬、I・H(当時21歳/東京水産大/京浜安保共闘)が榛名山ベースから逃走。I・Hが逮捕されることによって、アジトの場所を知られるのをおそれ、移動する。残り20人になる。

連合赤軍は移動のとき、温泉客に紛れ込んでバスに乗ったが、あまりにもひどい悪臭のため、運転手や他の乗客に気づかれ、あとで、群馬県警に通報されることになった。

群馬県沼田市上発知町の山林内にテントを張って、通称「迦葉山(かしょうざん)ベース」を設置。

1月30日から2月8日にかけて3人を殺害し、死体を車で運んで迦葉山のふもとの利根郡白沢村の雨乞山に埋めた。

1月30日、山本順一(28歳/会社員/京浜[中京]安保共闘)を殺害。山本は妻のY・Yに対する態度がブルジョア的だと言われ革命意識の低さだと結論づけられ殺されている。

2月1日から1ヶ月に渡り、警視庁は指名手配犯人の森、永田、坂口ら10人をテレビのスポットCMとして流して協力を呼びかけている。

2月3日から、森と永田は資金調達のため東京に潜伏、17日に妙義山ベースで合流することになっていた。

2月5日、大槻節子(23歳/横浜国大/京浜安保共闘)を殺害。

2月8日、金子みちよ(24歳/横浜国大/京浜安保共闘)を殺害。金子は妊娠中だったが、同志と肉体関係がある、物質欲が強いなどの理由で手足を緊縛された上で交代で殴られ、外の床下の柱に縛られて凍死した。金子は吉野雅邦の妻であった。

2月8日ころ、森と永田がベースを離れたことで、急に開放感があふれ、坂口が代わりに指揮していた。

同志のY・Y(山本順一の妻/当時28歳/京浜[中京]安保共闘)は夫の順一が凄惨なリンチで殺されたあと、周囲の目が冷たくなり、監視が厳しくなったが、生後3ヶ月の自分の子どもを残し、スキを見て逃げ出した。

N・A(当時22歳/日大看護学院/京浜安保共闘)とM・T(当時24歳/工員/京浜安保共闘)の2人も迦葉山ベースから逃走。これをきっかけにアジトを移動。

2月9日ころ、坂口はレンタカーで上京し、森と永田に3人が逃走したことを報告したが、このとき永田は坂口に対し、「私は森さんが好きになったから、あなたと別れて森さんと結婚する。これが共産主義化の観点から正しいことだと思う」と、一方的に離婚を申し渡され、坂口は「分かった」と答えたという。永田は8日に27歳の誕生日を迎えている。

永田と坂口は結婚して2年余り経っていたが、永田がこれまでやってこれたのは坂口の助けによるところが大きかった。革命運動における理想的な夫婦としてうらやましがられていたほどだった。

同志数人が前橋市のレンタカーで車を借りようとしたが、そこの社員は、格好があまりにも汚く、ジャンバーはテカテカで、髪は浮浪者同然、これは危ないと思って断っている。

2月上旬、群馬県碓氷郡松井田町(現・安中市)の山林にテントを張って、通称「妙義山ベース」を設置。坂口が東京から戻る。

2月10日、1週間前からリンチを加えてられていた山田孝を殺害。山田は最後の犠牲者だった。車で死体を運んで、妙義山のふもとの甘楽郡下仁田町の通称「上野山」に埋めた。

タクシー運転手は、髪はボサボサで、顔はすすけ、手が泥と埃まみれになって、ひどい悪臭を放つ2人の男女を乗せている。あとで、2人を乗せたことを群馬県警に通報する。このときの2人とは森と永田だったが、15日の朝刊で榛名山ベースが群馬県警に発見され、捜査網が敷かれたことを知る。だが、あえて危険を覚悟で、同志と合流することを決意する。

2月16日、O・S(当時22歳/慶応大/赤軍派)、S・M(当時24歳/横浜国大/京浜安保共闘)の2人が逮捕される。

2月17日、群馬県警は午前6時から警察官ら500人を動員して、妙義山の山狩りを開始していたが、午前9時35分、東京方面に活動で出向していた森(当時27歳)と永田(当時27歳)の2人が妙義山ベースに戻る途中の籠沢上流の洞窟付近で逮捕される。

このとき、森と永田はナイフで機動隊2人に抵抗して機動隊の肘にケガを負わせている。永田は捕まったとき、捜査員に「今、東京でなにか起きていないか?」と訊いたという。本気で革命の勃発を信じていたのである。

森がこのとき所持していた現金(M作戦で得た資金)は343万390円で、永田は46万1000円であった。また、その洞窟には98万円が隠されていた。

同日夜から翌18日朝にかけて、警視庁は群馬県警の警察官470人を動員、群馬県内をしらみつぶしに検問、周辺の栃木、茨城、長野、埼玉、新潟、神奈川の各県警から合計1300人、警視庁から1000人を動員して幹線道路などを一斉検問に当たった。

2月18日、森と永田の逮捕を報じるニュースをラジオで聴いて知った残りの9人は、これで「総括」がなくなるとホッとしたと同時に、逮捕される危険を感じて長野県側に山越えし、軽井沢町のレイクニュータウン若草山に逃げ込んだ。そこでカマクラを作って中に入り休憩した。

2月19日午前6時ころ、植垣康博、I・K(当時23歳/日大看護学院/京浜安保共闘)、A・N(当時22歳/弘前大3年/赤軍派)、T・M(当時22歳/市邨学園短期大卒/京浜安保共闘)の4人は衣類、食糧などを購入のため、山を降り、国鉄(現・JR)軽井沢駅に姿を現したが、売店のおばさんが4人を不審に思い、駅員にそのことを伝え、駅員の通報により4人が逮捕される。

植垣らの4人の逮捕をラジオを聴いて知った残りの5人は、定期便のトラックを運転手ごと奪い逃走。このとき、人数が減ったために持ち運べなくなった武器はカマクラに残して出ることになった。

正午ころ、カマクラから約500メートル離れた長野県軽井沢町レイクニュータウンの無人の「さつき山荘」に侵入し潜伏。5人のうち3人がカマクラに残してきた幾つかの武器のうち銃3丁を取りに戻り、再び、「さつき山荘」へ。台所にあった食糧などを食べ、くつろいでいた。

このとき、4人の機動隊が約30センチの積雪に残る乱れた足跡を追って「さつき山荘」に近寄り、午後3時5分ごろ、中の様子を見ようとしたところ、連合赤軍は逮捕を免れようと、所持していた銃やライフルなどを乱射。これに対し、機動隊も威嚇射撃などで応戦。このとき、警官1人が顔や脚に全治3週間のケガを負った。午後3時20分ころ、連合赤軍は血路を開いて雑木林や唐松林を抜けて坂道をかけ登って逃走。

このとき、5人では持ちきれないため、5連銃2丁、上下2連銃2丁、ライフル1丁、鉄パイプ爆弾1個を「さつき山荘」に残している。

【 あさま山荘銃撃戦 】

[ 1日目 ] 2月19日午後3時半ころ、「さつき山荘」から連合赤軍の5人は一団となって逃走し、そこから約500メートル離れた軽井沢町大字発地(ほっち)字牛道514−181番地の河合楽器の保養所「あさま山荘」(レイクニュータウン別荘番号728号)に玄関口から土足のまま入って、管理人夫人の牟田泰子(当時31歳)を人質にして3階の「いちょうの間」に篭城した。

この5人とは、坂口弘(当時25歳/東京水産大中退/京浜安保共闘/本籍・東京都台東区浅草)、坂東国男(当時25歳/京都大卒/赤軍派/本籍・滋賀県大津市)、吉野雅邦(当時23歳/横浜国大中退/京浜安保共闘/本籍・広島県広島市)、加藤倫教(当時19歳/東海高校卒/京浜[中京]安保共闘/本籍・愛知県刈谷市)、その弟の加藤M(当時16歳/東山工業高校/京浜[中京]安保共闘/本籍・愛知県刈谷市)であった。

加藤倫教とその弟の加藤Mには兄の能敬がいたが、榛名山ベースでリンチによって殺害されている。また、吉野雅邦の妻の金子みちよも迦葉山ベースでリンチにより殺害されている。

坂口が「あさま山荘」を選んだのは、その山荘の玄関に車があり、人が住んでいると判断したからであった。5人は玄関から入り、すぐ脇の鍵がかかっていた管理人室をこじ開けると、中にいた泰子に銃を突きつけ「動くな、静かにしろ、逃げると撃つぞ」と脅迫した。

管理人でもあり、泰子の夫でもある郁男(当時35歳)は、6人の宿泊客を案内してスケート場に出かけていた。

「いちょうの間」に入り、泰子を座らせて、後ろ手に手首、足首、ひざなどを縛って、さらに、全身をハシゴに縛りつけた。口にはハンカチを押し込み声が出ないようにした。その後、状況に応じてロープを解いたりした。

坂口、坂東、吉野の3人で、これからどうするかを話し合った結果、表にある車で逃走するという意見もあったが、山荘が崖に建てられていて守りやすいということで、立て篭もることで意思統一した。道路に面した玄関は実は3階にあり、その下に2階、1階があった。

南側の玄関口や1階の非常口などをタンス、鏡台、机、ソファー、布団、畳などで、北側のバルコニーにも畳などを持ち込んでバリケードを築いた。

このとき、連合赤軍が所持していた武器は、ライフル1丁、拳銃1丁、上下2連銃3丁、5連銃1丁、爆弾数個、実包約700発であった。

「さつき山荘」に残されたライフル銃が20口径であったことから、警視庁で試射した結果、至近距離では警備用の楯2枚を貫通することが判り、楯は針金で2枚、あるいは3枚重ねることになった。

警察は約30センチの積雪に残された乱れた足跡を追って「さつき山荘」にいた犯人が「あさま山荘」に逃げ込んだことを知る。

午後7時ごろ、「いちょうの間」にテレビを持ち込んで見ていると、森、永田の2人や軽井沢駅で逮捕された4人の映像に続き、「あさま山荘」の遠景が映し出され、この山荘が北側から攻められないことが分かり喜んだ。まさに、天然の砦だった。

「あさま山荘」は標高1169.2メートルに位置しており、また、2月ということもあって、夜間は零下15度にもなった。のちに、軽井沢町内の食堂などの協力で現地の警察へ食事が配給されたりしたが、届く頃にはカチンカチンに凍って食べられる状態になく、キッチン・カーの手配をすることになった。当時、最先端商品だった日清食品の「カップ・ヌードル」が活躍することになる。

さらに、革ジャンパー防寒衣300着、電熱防寒靴300足を要請した。警察にとっては、寒さとの闘いでもあった。

県警本部は全県下の警察官に最大動員の非常召集をかけ、軽井沢署に「連合赤軍軽井沢事件警備本部」を設置。632人編成の警備部隊を編成し、388人で「あさま山荘」を包囲。

警察庁でも、直ちに「連合赤軍あさま山荘警備本部」が富田警備局長を本部長として設置された。

「あさま山荘」派遣幕僚団として、後藤田正晴警察庁長官の任命により、そのトップに、丸山昂(こう)警備局参事官、NO.2に佐々淳行(さっさあつゆき)警備局付警務局監察官が任務にあたり、長野県警察本部長の野中庸(いさお)を補佐することになった。

佐々淳行・・・1930年(昭和5年)、東京生まれ。東京大学法学部卒業後、国家地方警察本部(現・警察庁)に入庁。目黒警察署勤務をふりだしに東大安田講堂事件などで警備幕僚長として危機管理に携わる。1961年(昭和36年)より初代内閣官房安全保障室長を務め、昭和天皇大喪の礼警備を最後に退官。主な著書・・・『東大落城』(文藝春秋読者賞) / 『連合赤軍「あさま山荘」事件』 / 『公務員研修双書 危機管理』 / 『戦時少年佐々淳行』

他のメンバーとして、警備局調査課の菊岡平八郎理事官(広報)通信局無線通信課の東野英夫専門官(通信担当)、警視庁からは健康管理本部長の医学博士梅沢勉参事官に、中島安二医師、石川三郎警備部付警視正に、国松孝次広報課長、富田幸三広報主任(警部補)、警備部宇田川主席管理官に、9機大久保伊勢男隊長西海弘・高垣修両副隊長、佐藤益夫・宮本喜代雄警備課課長代理伊藤幸二郎調査課係長、小野弘警備課係長、福家敬総務課報道主任。さらに、後日、公安第1課の亀井警視が参加。のちに、衆議院議員になった亀井静香代議士である。

後藤田正晴警察庁長官は6項目からなる指示を出した。

(1)人質牟田泰子は必ず救出せよ。
(2)犯人は全員生け捕りにせよ。射殺すると殉教者になり今後も尾を引く。国が必ず公正な裁判により処罰するから殺すな。
(3)身代わり人質交換の要求には応じない。特に警察官の身代わりはたとえ本人が志願しても認めない。殺されるおそれあり。
(4)銃器、特に高性能ライフルの使用は警察庁許可事項とする。
(5)報道関係と良好な関係を保つように努めよ。
(6)警察官に犠牲者を出さないよう慎重に。

銃器の使用に関して、現場指揮官の判断に委ねるという意見は却下された。

[ 2日目 ] 2月20日午前6時ころ、まず、警察側は説得作戦を取った。トランジスタ・メガホンを使って機動隊広報斑員が連合赤軍に向かって呼びかけた。

「山荘にいる諸君に告げる。君たちは完全に包囲されている。のがれることはできない。これ以上罪を重ねることはやめなさい。管理人の奥さんはまったく関係ない人だ。早く返しなさい。君たちの仲間はすでに逮捕された。君たちも抵抗をやめて出てきなさい。君たちの家族や友人もみんな心配している。無駄な抵抗はやめて出て来なさい」

だが、連合赤軍は発砲で応じるのみであった。1日でも長く闘い、絶対に降伏しないことを確認し合った。結局、最後、逮捕されるまで何の要求もせず、話し合いにも応じず、銃の発砲が続けられた。

さらに、バリケードを強化し、南側の玄関の上や屋根裏に警察部隊を狙撃するための銃眼を幾つか作った。

警察側は兵糧攻めが利くかどうか検討したが、管理人の郁男によると、「あさま山荘」には20日分ほどの食糧の備蓄があることに加え、6人の宿泊客のために食糧を買い込んであったということなので、この線での闘いは無理と判断。

連合赤軍の方も、食い延ばしをすれば1ヶ月は大丈夫と判断していた。

電話線は2回線とも通じていたが、警察側がかけても誰も応答はしなかった(2度ほど相手が出ているが、すぐに切られている)。その後、電話は連日かけ続けられた。だが、後日、その呼び出し音がうるさいからと座布団をかけて音を遮断していた。

[ 3日目 ] 2月21日、警察は早朝から「さつき山荘」の実況見分を行い、その結果、現場から吉野雅邦の指紋を発見。「あさま山荘」にも吉野がいるものとみていた。

午後2時過ぎ、人質の牟田泰子の夫の郁男が手紙と共にバナナ、リンゴ、ミカンを盛った果物籠を差し入れたいと言い出した。大久保伊勢男警視庁第9機隊長は「俺が届ける」と言って、ヘルメットを脱ぎ、拳銃帯革をはずして「牟田さん、ご主人からの差し入れの果物です。赤軍派の諸君、撃つんじゃないよ、ちゃんと受け取って泰子さんに渡しなさい」と大声を出し、山荘の玄関にその手紙入り果物を置いて引き返した。幸い、赤軍派からの発砲はなかったが、果物籠は夜になってもそのままで放置されていた。

午後3時50分ころ、警視庁からの通報で、「警備心理学研究会」の先生方を篭城事件処理のために心理学的指導を受けよ、という指令により、宮城音弥東京工業大学名誉教授、島田一男聖心女子大教授、町田欣一警視庁科学捜査研究所技官の3人が現場に到着。

現場では広報車の脇で機動隊の広報主任の巡査部長がハンドマイクを持って、説得活動を続けていた。

「山荘内の諸君に告げる。君たちに人質にされている奥さんはふだんから体が弱いので、ご主人や両親、家族の人たちは大変心配している。はるばる九州からかけつけている人もいる。君たちが関係のない奥さんを苦しめることをやめて、一刻も早く家族の元へ返してやりなさい」

宮城、島田両先生の意見によると、「現状では心理学的には連合赤軍側が有利で、警察側が逆に追い詰められている。疲労を避け、交代で休息することが大切。隊員が充分、情報を知らされておらず、インフォメーション・ハングリーとなってイライラしている。情報をこまめに全隊員に伝達せよ。人間は40時間眠らないとまいってくる。明かりや音による陽動作戦で犯人たちを眠らせないようにせよ。山荘が静まり返っているのはよい兆候ではない」ということだった。

この騒動の間に、西沢権一郎長野県知事から多量の煙草と飴玉の差し入れがあった。

午後5時ころ、警視庁のヘリコプターで吉野雅邦の両親と坂口弘の母親の菊枝(当時58歳)が現場にかけつけ、山荘近くの警備車から呼びかけを行う。それは20分ぐらい続けられた。

「まあちゃん、聞こえますか。牟田さんを返しなさい。これではあんたの言っていた救世主どころじゃないじゃないの。世の中のために自分を犠牲にするんじゃなかったの。こうなった以上、普通の凶悪犯と違うところを見せて頂戴。武器を捨てて出て来て。それが、本当の勇気なのよ」(吉野淑子[当時51歳])

「牟田さんの奥さん、申し訳ありません。奥さんを返してください。代わりが欲しいなら私が行きますから」(坂口菊江)

寒風吹きすさぶ零下10数度の雪地獄からマイクをしっかり握りしめて涙にむせびながら切々と訴える2人の母親の呼びかけは、機動隊と報道陣の心を打った。

広報斑の機動隊員も思わずもらい泣きの涙があふれてきて記録ができなかったという。

午後7時25分ころ、立ち入り禁止区域内に侵入したスナック喫茶経営者の田中保彦(30歳)を軽犯罪法違反で逮捕した。「人質の身代わりになるために来た」と言ったこの男を午後11時20分に釈放した。

[ 4日目 ] 2月22日午前9時23分、吉野淑子と坂口菊江を乗せた特型警備車が山荘玄関前約10メートルまで接近し、説得を再開。

「昨日、ニクソンが中国に行ったのよ。社会は変わったのです。銃を捨てて出てきなさい。森さんたちも捕まったけど無傷だった。警察は出て来たら絶対撃たないと言ってます。早く出てきなさい。牟田さんの奥さん、元気ですか、何とお詫びしてよいか・・・」(吉野淑子)

前日の21日、ニクソン米大統領が北京を訪れ毛沢東と会談し、歴史的な米中国交正常化が実現した。

「10時に電話するから奥さんの声だけでも聞かせておくれ。奥さんをベランダに出して家族の皆さんに姿を見せてあげておくれ」(坂口菊江)

「あさま山荘」を取り巻く1100人の警察部隊や1200人の報道陣は犯人側の応答をに耳を澄ましていたが、突然、1発の銃声が静寂を破った。吉野淑子が「お母さんを撃てますか」と言ったが、吉野はためらわずに1発発砲した。弾は2人の母親を乗せた特型警備車に命中した。

午前11時40分ころ、北側斜面の視界が開けた雪と氷のスロープを、日野市から来た島田勝之(当時29歳)という画家とSBC・信越放送の桂富夫記者(当時37歳)が警戒線を突破して山荘に近づこうとしていたところを警察に取り押さえられた。

その騒ぎのスキを突いて、田中保彦が北側斜面をよじ登り、山荘西側を廻って南側玄関に到達した。そして、昨日、大久保9機隊長が玄関前に置いた果物籠を取り上げ、玄関のドアを半開きにして内部に向かって呼びかけた。

「赤軍さん、赤軍さん。私も左翼です。あなた方の気持ちは解かります。中へ入れてください。私も昨日まで留置場に入っていたんです。私も警察が憎い。私は妻子と離縁してきた。私は医者をやっております。新潟から来たんです」

そう言ったかと思うと警察部隊の方に向かって手を振ったりウインクしたりした。

吉野が「おい、帰れ。帰らないと撃つぞ」と大声で怒鳴ったが、男は知らん振りで、また警察部隊の方に向かって手を振ったりウインクしたりした。

坂口はこのとき、この男を警察だと思い、管理人室の押し入れの銃眼から田中に向けて拳銃を発射した。

田中はその場に倒れたが、しばらくすると立ち上がり、手摺りにすがりながら階段を這い上ってきた。警察が駆け寄って「おい、大丈夫か」と声をかけると「ああ痛え、俺か?俺は大丈夫だ」と呟くが、意識は朦朧としているようだった。このときは後頭部に弾が当たっていたが、弾がそれて命に別状ないと思われていた。

ところが、救急車で軽井沢病院へ運ばれ、レントゲン写真を撮ったところ、38口径拳銃の弾が脳内に留まっていた。佐久病院に移送され、弾の摘出手術を受けたが、3月1日、死亡した。田中は麻薬取締法違反などで何回も警察に厄介になったことのある薬物中毒者と判明した。

果物籠はこの田中という男によって山荘内に差し入れられたが、手紙は泰子が目を通したあと、取り上げられた。しばらくして、坂口はテレビの放送で自分が撃った男は民間人であったことを知る。

昼過ぎ、軽井沢署に「救援連絡センター・モップル社」と名乗る4人が訪れ、連名の申し入れ書を野中県警本部長に提出し、面談を求めた。直接、現場の赤軍派と会って話しがしたいとのこと。

モップル社の4人・・・浅田光輝(立教大教授・反党運動家)、丸山照雄(山梨、身延山久遠寺住職・モップル赤軍派)、水戸巌(東大原子核研究所助教授・反党運動家)、木村荘(弁護士)

だが、警察はこの4人の男たちに対して、身の安全については自己責任ということを言うと、「東京の本部と相談してから返事します」と言って早々に退散したが、記者クラブで自分たちに都合のいいことばかり言って、警察批判の記者会見をやり、軽井沢町の「美登里荘」に宿泊して連合赤軍支援の宣伝活動を開始した。このとき、関係者は10人になっていた。

彼らが付近住民や野次馬に配ったビラには「連合赤軍銃撃戦断固支持。山狩警官ピストルで射殺を企む。威嚇でなくて本当だ。警視庁から狙撃斑50人集めた」とあった。

野次馬の数が次第にふくれあがり、レイクニュータウン別荘地帯の入り口で、交通を遮断して上には行かせないよう規制していたが、違法駐車は3000台を超え、野次馬の数は2、3000人になっていた。中には天体望遠鏡を担いでいる者までいた。そして、屋台までが立ち並んだ。

警備心理学研究会の提言もあったことから「擬音作戦」を立案し、石川三郎警視庁警備部付警視正の直接指導で実施することになった。

それは、催涙ガス弾の発射音、機動隊指揮官の号令、警備車のディーゼルエンジン音などを録音したテープを、防弾の特型警備車の拡声器に仕掛け、「あさま山荘」に接近して擬装攻撃の陽動作戦を行い、また、屋根に向かって投石を行い、連合赤軍の犯人たちを眠らせないようにし、できるだけ発砲させて弾薬を消耗させようという作戦であった。この作戦は最後まで続けられた。

連合赤軍はすぐに、これがテープからの音であることを見破ってしまうのだが、その音によって連日、寝不足になっていた。

警察側は「擬音作戦」の開始の信号を照明弾1発の打ち上げと決め、2発打ち上げは、犯人たちが人質を盾に銃を乱射しながら突撃してきたときの合図と決めていた。

午後8時過ぎから、警察側は「あさま山荘」への送電をストップした。山荘では、米国大統領ニクソンが中国訪問したというテレビニュースを見ていたときであった。テレビが見られなくなったので、携帯ラジオで警察の動きを知ることとなった。

午後11時過ぎ、山荘を明るく照らした投光器をライフルから発射された1発の弾丸が破壊した。

[ 5日目 ] 2月23日午前1時20分、照明弾が2発打ち上げられた。犯人たちが人質を盾に突撃してきたときの合図である。

「非常呼集だ。全員配置につけ。拳銃に弾をこめ。特型警備車以下、全車輛ライト点けろ、クセノン、ハロゲン投光機スイッチ・オン、ライフル斑、所定の位置につけ」

だが、20分経っても何も起きない。結局、現場信号係隊員のミスと判明した。「擬音作戦開始」の合図をしようとして間違って照明弾を2発打ち上げてしまったのである。

午前7時、篭城から87時間が過ぎた時点で金嬉老事件の人質監禁事件の記録を更新した。

金嬉老事件・・・1968年(昭和43年)2月、静岡県清水市(現・静岡市清水区)で暴力団2人を殺した上、ライフルとダイナマイトを持って、旅館に人質13人を監禁して87時間篭城した事件。

「さつき荘」に残っていた指紋を照合した結果、坂東国男であることが判明。坂東の母親の芳子(当時47歳)にも呼びかけの協力をお願いすることになった。

山荘では、銃眼の数を増やしバリケードもドアを釘で打ちつけるなどして補強した。

午後1時半から夕方にかけ、樋口俊長関東管区公安部長の提案により、石のように堅い凍土をツルハシ、スコップで掘って、山荘南側の道路に土のうで高さ1.5メートル、長さ5メートルの土塁を築いた。その間、連合赤軍はしきりに、その作業中の警察に対して銃を発砲した。

午後3時から約2時間に渡り、警察側は発煙筒10発、催涙ガス弾21発を使用してできるだけ山荘に近づき、人質安否確認のため強行偵察したが、成果は得られなかった。その間にも山荘の銃眼は増えていった。

連合赤軍は、接近してくる警察に対し警戒していたが、ラジオで、これが強行偵察であることを聴き、踏み込んでこないことを知った。

強行偵察の目的は他に、犯人の顔写真を撮ることであったが、ピント合わせなどにとまどって、まともに顔が判る写真が1枚も撮れてないことが分かり、現場で写真を撮っていた報道カメラマンにお願いして犯人の顔が撮れている写真をこっそり分けてもらい、これを東京に送った結果、犯人の1人は坂口弘であることが判明した。

これで、吉野、坂東、坂口の3人がいることが判明したが、あと1人なのか2人なのか依然として判らない状態が続いた。

隣の芳賀山荘から指向性集音マイクをつけた竿を「あさま山荘」に近づけたり、屋根に上って煙突から秘聴マイクをぶら下げたりの集音作業を毎日やっていた。だが、泰子らしき人の声は拾うことはできなかった。

一度だけ、女性の声が入ったことがあった。何回も繰り返し聞くのだが、それは「ヘビ キモチワルイ」というヒステリックな女性の声だった。22日以来、送電をストップしているのでテレビやラジオからの声ではないはず。携帯ラジオの声の可能性はなくもないが・・・。

夜になって、岡山県の「士誉の会」という右翼団体がやってきた。命がけで山荘に飛び込み、日の丸を立てる、という目的であったが、粘り強い説得で、写真だけ撮ることを許可して帰ってもらった。

[ 6日目 ] 2月24日午前5時半ころ、泰子の夫の郁男や泰子の父親、弟による呼びかけが行われた。

「泰子、元気か、寒くないか、皆来ているから頑張るんだよ」

このとき、泰子はいたたまれない気持ちになり、そばにいた坂口に「夫を安心させたいので、ちょっとでいいから、顔を出させてください」と哀願したが、坂口は拒否した。

午前9時半ころ、坂東国男の母親の芳子の呼びかけが行われた。

「中国とアメリカが握手したのよ。あんたたちが言っていたような時代が来たのよ。あんたたちの任務は終わったのよ。早く出てらっしゃい。あんたたちが世の中をよくしようとしてやったことはみんなが認めてますよ。警察の人もほめてますよ」

「お母さんはお前を生き甲斐にして今日まで一生懸命働いてきたのよ。人を傷つけるのは愚かなことです。鉄砲撃つなら私を撃っておくれ。早く出てきてお母さんと一緒にあたたかい御飯を食べようよ。あんたたちのことはみんな認めている。・・・・・・警察にも立派な人がいます。ニ枚舌を使うことはない。警察の人が撃たないと約束したのよ。早く出てきなさい」

午後4時10分、警察は「君たちが抵抗をやめないので我々は武器を使用する」とメガホンから流し、銃眼に向け高圧放水開始。その放水した水は屋根や軒から流れ、みるみるうちに凍って氷柱になって垂れ下がる。やがて、玄関のドアのガラスが破られ、そこを狙ってガス弾が撃ち込まれた。

このとき、坂東と加藤倫教が銃眼から放水車めがけて猟銃を6発発射したが、ラジオで、これが強行偵察であることを知る。

[ 7日目 ] 2月25日、山荘内では、バリケードの補強をした。

午後4時15分ころから45分まで、警察は土のう積み作業を行った。その間、連合赤軍は3ヶ所の銃眼から猟銃を合計16発、発砲したが、負傷者はゼロだった。

この日の夜、濃い霧が発生した。吉野はこの霧を利用して脱出することを提案した。そのためにはトンネルを掘らなくてはならなかったが、周りがタイルで固められていることが分かり断念した。

日刊紙、週刊誌、月刊誌、テレビ、ラジオなどの取材記者の数は600人を超え、カメラマンの数も約600人になっていた。軽井沢署の柔剣道場を仮設記者クラブとし、毎日、午前8時、11時、午後2時、4時、8時、11時の6回、記者会見を開いた。最後の記者会見では深夜1時に及ぶこともあった。また、記者団の要望で日本電電公社(現・NTT)にかけあって、加入電話100回線ケーブルを軽井沢署に引いてもらい、そのうち22回線を記者クラブ専用とした。

[ 8日目 ] 2月26日午前5時、泰子の夫の郁男に続いて、泰子の母親、弟、義母、叔母らが呼びかけを行った。

午前11時30分から午後3時過ぎまで、軽井沢町の「ますや旅館」の大広間で、長野県警本部とマスコミとの間で「Xディ取材報道協定」締結のための大会議が開かれた。日刊紙、週刊誌、月刊誌、ラジオ、テレビ合計56社が集まっていた。この日、報道ヘリコプターは16機であった。

昼ごろから、土のう積み作業を行ったが、土塁は長さ10メートルになった。

午後6時40分、警察は今までの情報を総合して、7人の中央執行委員会の1人である寺岡恒一が山荘にいるものとみて、寺岡の両親の一郎(当時60歳)と百合子(当時50歳)を現場に呼び寄せて説得が行われた。だが、寺岡恒一は同年1月15日、榛名山ベースで同志からリンチによって殺害されていた。当然、「あさま山荘」にはいるはずもなかった。

「君たちの理論は正しいかもしれないが、私たちには理解できなかった。大衆の支持も得られなかった。独走してはならない。泰子さんは君たちの姉さんに当たる。か弱い女性に危害を与えてはならない。人間愛があるなら泰子さんを返すことだ。君たちの評価はこれからの君たちの行動にかかっている」

山荘の中では、リンチによって殺害した寺岡のことを思い出し、複雑な思いでその両親の呼びかけを聞いていた。

午後7時半ころ、坂口の母親に続いて、吉野の両親による呼びかけが行われた。

「弘、その中にいるでしょうか。犠牲者を出さないうちに冷静になって、これ以上皆さんに迷惑をかけないで今すぐ出てきなさい。お願いです」

「雅邦、中にいるのか、お父さんだよ、冷静になってください。何の関係もないご婦人を早く返してあげてくれ・・・」

坂口は加藤が持ってきた泰子のバッグを受け取ると、中を確認して、泰子に渡した。泰子は中から善光寺と成田山のお守りを取り出し、ハンカチを割いてひもを作り、首にかけた。泰子は助け出されるまでそうしていた。

この日の夜、坂口、坂東、吉野の3人は話し合いを行った。警察から攻撃されても泰子を解放はしないが、中立を守らせようということになった。

泰子を呼び「警察がもし、攻めてきても顔を出したり、逃げたりしないでもらいたい。警察がきても我々が守る」と彼らは言った。

泰子が「こんなことで、ここで死にたくない」と答えると、「我々はここで死んでも本望だ」と言った。さらに、泰子が「私を楯にして脱出しないでください。それからあとで裁判になったときに、私を証人に呼ばないでください」と言うと「分かった。そうする。我々は言ったことは守るから、安心して」と答えた。

[ 9日目 ] 2月27日午前7時ころ、寺岡の父親に続いて、吉野の母親による呼びかけが行われた。

この日、ラジオで警察の動きに関するニュースがなく、坂口は警察が何か仕掛けてくるのではないかと察していた。マスコミは「報道協定」により、警察の動きが判るようなニュースは流していなかったのだ。

19人目の身代わり志願者が来訪。自宅を出るとき、裁断機で切断したという小指を差し出して「この決意を汲んで欲しい」と言ってきた。丁重にお断りして引き取ってもらった。

この日も、土のう積み作業が行われ、屋根裏の銃眼から合計10発発砲したが、その都度、ガス弾が打ち込まれた。

泰子は「銃で人を撃ったり、人を殺すことはしないでください。私を楯にしてでも出ていってください」と言った。

[ 10日目 ] 2月28日、Xデー当日、警備部隊1635人(うち警視庁からの応援部隊548人)、特型警備車輛9輌、高圧放水車4輌、10トン・クレーン車1輌。

午前8時、警告広報開始。

「連日に渡る警告や説得にもかかわらず、君たちは何の罪もない泰子さんを監禁している。監禁時間は200時間を超えた。もう、これ以上待つことはできない。これ以上罪を重ねることなく泰子さんを解放して銃を捨てて出てきなさい。また、話し合うなら、白布を持って警察部隊の見えるところに立ちなさい・・・」

連合赤軍側は、警察が今までよりも語調が強く、具体的に、白布・・・と言ってきたことで、今日が山場になると覚悟を決めていた。

坂口は昨日に引き続き、ラジオに耳を傾けていたが、それによって警察の動きを知ることはできなかった。

午前9時50分ころ、警察からの最後の通告がスピーカーから発せられた。

「山荘の犯人に告げる。君たちに反省の機会を与えようとする我々の警告にもかかわらず、君たちは何ら反省を示さない。最後の決断の機を失って一生後悔することのないよう考えなさい。今こそ君らの将来を決するときだ。まもなく泰子さんを救出するため実力を行使する」

「泰子さんを救出する」とは言っているが、この時点になっても警察は泰子の生死の確認はできないでいた。

しばらくして、バルコニーや風呂場に向かって一斉にガス弾が撃ち込まれた。山荘正面からは、幾つかある銃眼めがけて高圧放水を開始した。

坂東、吉野らは、放水の合間をみては特型警備車、放水車に向かって狂ったように銃を撃ち始めた。

坂口はラジオで10時から警察による救出作戦が始まったことを知る。

午前10時54分、クレーン車に吊った工事用のモンケーン(大鉄球)が白いモルタルの壁を破壊。続いて、2撃、3撃、凄い破壊音を響かせながら壁面にめり込み、破孔はどんどん大きくなっていき、そこを狙ってガス弾を撃ち込み、放水した。

連合赤軍は猟銃、拳銃、手製爆弾などで抵抗するが、次々と銃眼が壊されていった。

午前11時17分、2機山野決死隊、3階南西側管理人室から山荘内に突入。

午前11時24分、9機長田幹夫中隊、1階突入、占拠。

午前11時27分ころ、吉野がクレーン車と2輌の放水車を指揮していた警視庁特科車輛隊の高見繁光警部(42歳)を散弾銃で狙撃し、弾丸が前額部に命中。高見警部は病院に運ばれたが死亡した。

警視庁第2機動隊の大津高幸巡査(当時26歳)は土のうを飛び越え、山荘内に突入しようとしたが、その瞬間、山荘正面の銃眼から散弾銃が火を噴いた。大津隊員は顔面に被弾して、真逆様に土塁の向う側に転落した。同僚2人が大楯をかざして土塁の向う側に下り、大津隊員を助け出した。大津隊員は左眼に無数の鉛の粒弾があたり、それが原因で左眼を失明する重傷を負った。

午前11時54分ころ、坂東が土塁端の大楯の隅から敵の様子を偵察していた警視庁第2機動隊長の内田尚孝警視(47歳)をライフル銃で狙撃し、弾丸が前額部に命中。内田警視は病院に運ばれたが死亡した。

突然、クレーン車のエンジンが停止した。放水車の水が誤ってクレーン車のエンジンにかかり、エンストしてしまった。防弾板の外に出て修理するのは自殺行為に等しく大鉄球による破壊作戦は断念する。

午後12時38分、警察庁から拳銃使用の許可が出る。だが、それは「適時適切な状況を判断し、適時適切に拳銃を使用せよ」というものだった。

午後1時、警察の攻撃が一時中断。午後2時50分、3階調理室を確保していた2機部隊に対し、鉄パイプ爆弾1発が投げ込まれ炸裂。これにより、警察は5人の重軽傷者を出してしまう。

鉄パイプ爆弾は他に3個あったが、点火式だったため放水により起爆剤が湿ってしまい使用不能になっていた。

午後3時30分ころ、再び、攻撃を開始した。高圧放水による攻撃だったが、それは「いちょうの間」まで水が入り込んだ。放水が終わるとガス弾の一斉射撃が始まり、「いちょうの間」はガスが充満した。連合赤軍は耐えきれずに、北側の窓ガラスを割って、交代で外の空気を吸った。

警察は、さらに「いちょうの間」と隣の談話室(食堂)の境の壁を壊し始めた。その間にもガス弾を撃ち続け、壁の穴が大きくなると、そこから放水した。その水で、「いちょうの間」は30センチ浸水した。連合赤軍の5人はライフルや拳銃で抵抗するが、壁の穴はさらに広がっていった。

午後6時20分ころになって、入り口とその壁の穴から楯を前面にかざして一斉に「いちょうの間」に飛び込んで5人を逮捕した。人質の泰子さんは5人に囲まれるようにしてベッドに横になっていた。連合赤軍が篭城してから、約219時間ぶりに無事、人質を救い出した。泰子はこのとき、体をぐったりとさせ、目は閉じたままだったが、生きていた。

報道陣は協定を守って、山側のロープの内側でカメラの放列を布いて待機していた。「人殺しッ」「お前たち、それでも人間かッ」「殴れ、殴れ」記者たちから罵声が飛び交い、本気で殴りかかったやつもいた。

結局、この「あさま山荘銃撃戦」で、警察側は、3人が死亡(うち1人は民間人)、27人が重軽傷を負った(うち9人が入院、うち1人はSBC・信越放送記者)。連合赤軍の5人はカスリ傷を負った程度であった。

警察側は、この「あさま山荘銃撃戦」で、催涙ガス弾3126発、発煙筒326発、ゴム弾96発、現示球83発、放水量15万8500リットル(2時間30分)使用したが、拳銃で発砲した弾はわずか16発であった。しかも、それは威嚇射撃であった。連合赤軍側が発砲した弾は104発であった。

「あさま山荘」事件だけに費やした予算は国費2675万6000円、県費6983万7000円、総額9659万3000円であった。

なお、現場には現金(M作戦で強奪したお金など)75万1615円が遺留されていた。

同日、坂東の父親の坂東基信が滋賀県大津市の自宅で首吊り自殺した。51歳だった。

この日、各テレビ局は大幅に番組を変更し、現場中継を夕方まで流し続けた。NHKの午前9時40分から午後8時20分の連続放映(途中、5分間ニュースを3回挿入・視聴率89.7%を記録)をはじめ、民放もCM削減という異例の措置で現場の生々しい光景を放映。累積到達視聴率は98.2%に達した。

【 その後 】

1972年(昭和47年)3月7日、同年の2月16日に逮捕された奥沢修一が「これは大久保清事件よりも、もっと恐ろしいことなのです」と震えながら、12人の同志をリンチの上に殺害したことを自供した。最後に殺害された山田孝の遺体が掘り起こされたのを初めとして、3月13日までに12人全員の遺体を掘り起こした。

前年の1971年(昭和46年)の大久保清連続殺人事件で、いくつもの遺体を掘り起こさなければならなかった群馬県警は、この年、この事件によってまたしても遺体を堀り起こすことになった。群馬県警は“穴掘り県警”と揶揄される。

赤黒く膨れ上がった両頬、突き出した前歯、首にヒモ跡、男女の区別さえ分からなくなっている者、苦しんで自ら舌をかんでいる者、肋骨が6本折れている者、内臓が破裂している者など、まさに凄惨を極めていた。また、女の遺体はどれも髪の毛を刈られていた。

「恐ろしい、ああ、どうしてこんなことになっちゃたの!・・・恐ろしーいッ!」

金子みちよの母親は娘の変わり果てた姿を見たとき、そう絶叫し慟哭しながら「恐ろしい」という言葉を繰り返し叫んでいたという。

3月10日、Y・Yを逮捕。3月11日、M・Tを逮捕。3月13日、I・Hを逮捕。3月14日、N・Aを逮捕。これで、連合赤軍のメンバー29人(うち女性10人)は、リンチにより殺害された12人(うち女性4人)を除いて、全員、逮捕されたことになる。逮捕者は17人(うち女性6人)。

逮捕された坂東国男は、佐久警察署での取り調べで、40日間、ひと言も発せず、何を話しても押し黙っていたが、(2月28日に警察部隊と闘っている息子の姿をテレビで見て、それを苦に自殺した)父親の位牌を目の前で見せられると、「ありがとう」とひと言を発して静かに語り出した。「12人に対しては間違ったことをしてしまいました。父に対しては本当に申し訳ないことをしてしまいました。心からお詫びし犠牲者の冥福を祈ります」

5月24日、長野家裁は少年の加藤Mに対し中等少年院(現・第1種少年院)に送致することを言い渡した。

7月20日、森恒夫は東京拘置所で自己批判書を書いた。

<・・・私自身がどうして、あのときああいう風に行動したんだろう、としばしば思い返さざるを得ない様な一種の “狂気” だと思っている。・・・(中略)・・・考えてみれば、革命にとって狂気は多かれ少なかれ必要なことであり、その意味では狂気ではない。しかし、実際には、それらが革命にとって必要な精神の領域を越えて狂気として働いたのである。・・・(中略)・・・私は自分が狂気の世界にいたことは事実だと思う><私は革命の利益から考えて、有罪であり、その罪は死刑である、ということである。私が、亡き同志、他のメンバーに対していった「革命家たるものは革命の利益に反することをした場合、自らの死をもって償わなければならない・・・」ということを文字通り守らなければならないということである>

1973年(昭和48年)1月1日、森恒夫は初公判を前に東京拘置所で首吊り自殺した。29歳だった。

同志の永田洋子は、同じ東京拘置所で、この報せを聞いて、「森さんはずるい!! 卑怯だ! 自分だけ死んで」と叫んだという。

森恒夫の自殺がきっかけとなって、東京拘置所では「保安房」と呼ばれる自殺防止房が設置された。この部屋には突起物がなく、窓も開かずそのため、風通しや採光も悪い。さらに、電灯の下でテレビカメラによる24時間監視の態勢がとられている。用便中でも扉の監視孔から覗けば丸見えの状態であったが、1998年(平成10年)1月21日から各房に便器の衝立が備え付けられた。

1974年(昭和49年)10月、京浜安保共闘の理論的指導者の川島豪が横浜拘置所から出所した。

1975年(昭和50年)8月4日、坂東国男が日本赤軍によるクアラルンプールのアメリカ大使館占拠事件の超法規的措置によりリビアに逃亡。その後、日本赤軍と合流した。

だが、坂口弘はこれに応じなかった。坂口はリンチ殺害事件において、14人の「総括」に関係しており、高い確率で死刑が予想された。事実、のちに死刑判決を受ける。釈放の呼びかけに応じれば、生命は確保されるにもかかわらず、坂口は拒否した。クアラルンプールのゲリラからの国際電話に対して、直接、「君たちは間違っている。私は出ていかない。君たちは大衆の支持を得ることはできないであろう」とのみ答えたという。坂口はアメリカのベトナム戦争敗戦後、アメリカはアジアを軍事侵略することはなく、この時点において武装闘争は正しくないと考えたのではないかと言われている。

1977年(昭和52年)9月28日、日本赤軍の丸岡修、和光晴生、西川純、それとクアラルンプール事件で超法規的措置により釈放された連合赤軍の坂東国男と同じく同事件で釈放された東アジア反日武装戦線狼≠フ佐々木規夫の5人によるダッカ事件が起きる。ダッカ事件の詳細は日本赤軍と東アジア反日武装戦線

1979年(昭和54年)3月29日、東京地裁は、吉野雅邦に対し無期懲役、加藤倫教に対し懲役13年を言い渡したが、吉野に死刑を求刑していた検察側が控訴した。

1982年(昭和57年)6月18日、東京地裁は、永田洋子と坂口弘に対し死刑、植垣康博に懲役20年を言い渡した。

1983年(昭和58年)2月2日、東京高裁は、吉野雅邦に対し第1審通り検察側の控訴を棄却し、無期懲役の判決を下した。3月、千葉刑務所に入所した。

1984年(昭和59年)7月20日、永田洋子は1974年(昭和49年)ごろから体の不調を訴えていた。1983年(昭和58年)の5月にすさまじい頭痛が始まって以降、嘔吐、目の異常、失禁、失神などの悲惨な病状があった。しかし、東京拘置所は、仮病扱いか、精神的なものと単純に片付けて、せいぜい頭痛薬を出すだけだった。だが、永田の痛みや苦しみは嘘ではなく、脳腫瘍であることが判り、この日、手術を受けることになった。このとき、永田本人には脳腫瘍であることは告げず、手術も腫瘍そのものを摘出するのではなく、脳圧を下げるという対症療法としてバイパスを通すものだった。

1986年(昭和61年)9月26日、東京高裁は、永田洋子、坂口弘に対し控訴棄却。植垣康博も1審と同じく懲役20年の判決だった。

1987年(昭和62年)1月、加藤倫教が出所。

1989年(平成元年)5月28日、『朝日新聞』学芸欄の朝日歌壇に、坂口弘の作品が掲載された。このときの選者の島田修二は「東京都 坂口弘」とある作者のことを知らずに選歌されたらしい。

連休の最終の日の夕まぐれ死すと打たれし電報を受く

同年12月の最後の週、再び、坂口の作品が掲載される。選者は佐佐木幸綱で、選評で「作者は連合赤軍事件被告」と紹介した。

死刑囚と呼ばるるよりも呼び捨ての今がまだしもよろしかりけり

歌意は1989年(平成元年)12月からマスコミでの呼称法が変わり、報道各社が犯罪報道について、犯罪者や刑の確定者をそれまで呼び捨てにしていたものが、呼称付きで報道することになったが、坂口はこの屈辱感に堪えられず、呼び捨ての方がましだと詠んだのであった。

その後、何度か紙面に坂口の作品が掲載されるようになると、世間から注目されるようになり、作品は、『坂口弘 歌稿』(朝日新聞社/1993)と題して出版された。

同年12月27日、元赤軍派議長の塩見孝也が懲役18年の刑を終えて出所した。未決勾留期間も含めて19年9ヶ月に及ぶ獄中生活だった。

1990年(平成2年)4、5月ごろから、永田は前のような病状を訴えるようになり、現在は半年に一度、MRIをとっているが、本人にその結果の説明はない。

12月9日、京浜安保共闘の理論的指導者の川島豪が胃癌で死亡した。49歳だった。

1993年(平成5年)2月19日、最高裁は、永田(当時48歳)、坂口(当時46歳)に対し、上告を棄却し、1、2審同様、死刑の判決が下った。植垣康博も1、2審同様に懲役20年だった。あさま山荘事件からすでに21年が経っており、植垣はその間に留置所や拘置所に拘束されていたため、残り5年半の懲役となった。

死刑が確定すると親族や弁護士以外の面会が難しくなるため、最高裁で判決が下る半年ほど前に、永田は関係者と獄中結婚した。永田の意思で夫が永田姓を名乗ることになったそうだが、この夫が大のマスコミ嫌いらしく、永田の近況を聞き出すのは難しい状況にあるという。

1998年(平成10年)10月6日、植垣康博が甲府刑務所で5年の懲役刑を終え出所。27年ぶりの娑婆だった。その後、静岡市安東でスナック「バロン」を経営。

2000年(平成12年)6月2日、坂口は東京地裁に再審請求を行なった。申立書の中で弁護側は、警官2人と民間人1人が銃撃により死亡した「あさま山荘事件」において、(1)いずれの発砲も狙撃ではなく殺意はなかった。(2)警官1人の死因は銃撃によるものではなく搬送された病院での医療ミスだったと主張。これを裏付ける新証拠として、医師の鑑定書などを提出した。

2001年(平成13年)7月4日、永田が東京地裁に再審請求を行なった。弁護人は「殺人の共謀はなく、凍死についても予測できなかった」と傷害致死を主張、再審請求に必要な新証拠として当時の気象記録などの提出を予定している。

2002年(平成14年)2月19日、連合赤軍の5人が「あさま山荘」に人質をとって立て篭もった日から30年経ったこの日、現場近くに建てられた顕彰碑「治安の礎」前で、長野県警による慰霊祭が行われた。事件で殉職した警察官の遺族や、当時同県警本部長だった野中庸(当時80歳)ら関係者約30人が出席。黙とうの後、関一県警本部長(当時52歳)が「(殉職した)2人の尊い警察官魂を胸に刻んで治安の維持に当たりたい」と追悼の辞を述べ、出席者が次々と献花した。

2006年(平成18年)11月28日、東京地裁(高橋徹裁判長)が坂口と永田の再審請求について、棄却する決定を出した。弁護人が即時抗告。

2011年(平成23年)2月5日、東京拘置所で永田が病死した。65歳だった。永田は脳腫瘍が悪化し、面会者が訪れても相手が判別できない状態になっていることが元赤軍メンバーら関係者による集会で明らかになっていた。

2012年(平成24年)3月5日、東京高裁(出田孝一裁判長)が坂口の再審請求審で即時抗告を棄却。

3月8日、坂口の再審請求審で弁護人が最高裁へ特別抗告。

2013年(平成25年)6月24日、最高裁第3小法廷(岡部喜代子裁判長)が坂口の再審請求審で特別抗告を棄却。

被告人 旧所属 あさま山荘事件に関与  東京地裁 東京高裁 最高裁  備考
森恒夫 赤軍派    × 初公判が始まる前の1973.1.1 東京拘置所で自殺。29歳だった。
坂東国男 赤軍派 1975.8.4 日本赤軍によるクアラルンプール事件の超法規的措置でリビアに逃亡。

その後、日本赤軍と合流し、1977.9.28 ダッカ事件に関与。現在、逃亡中。
吉野雅邦  京浜安保 無期懲役
1979.3.29
無期懲役
1983.2.2
- 上告せず無期懲役が確定。 
加藤倫教
(事件当時19歳)
京浜(中京)安保  懲役13年
1979.3.29
- 控訴せず懲役13年が確定。

1987.1 出所。

出所後は実家の農業を継ぐ。
永田洋子 京浜安保   死刑
1982.6.18
死刑
1986.9.26
死刑
1993.2.19
2011.2.5 東京拘置所で病死。65歳だった。 
坂口弘
植垣康博 赤軍派    懲役20年
1982.6.18
懲役20年
1986.9.26
懲役20年
1993.2.19
1998.10.6 出所。

出所後は静岡市でスナック「バロン」経営。
加藤M
(事件当時16歳)
京浜(中京)安保 長野家裁  -
中等少年院
1972.5.24
退院。

事件関係者の著書・・・
『封建社会主義と現代 塩見孝也獄中論文集』(新泉社/塩見孝也/1988)

『「リハビリ」終了宣言 元赤軍派議長の獄中二十年とその後の六年半』(紫翠会出版/塩見孝也/1996)
『さらば赤軍派 私の幸福論』(オークラ出版/塩見孝也/2001)
『赤軍派始末記 元議長が語る40年』(彩流社/塩見孝也/2003)
『監獄記 厳正独房から日本を変えようとした、獄中20年』(オークラ出版/塩見孝也/2004)
『いま語っておくべきこと 対談・革命的左翼運動の総括』(新泉社/川島豪&塩見孝也/1990)

『わが思想の革命 ピョンヤン18年の手記』(新泉社/田宮高麿/1988)
『飛翔二十年 「よど号」でチョソンへ』(新泉社/田宮高麿/1990)
『社会主義国で社会主義を考える ピョンヤン1990』(批評社/田宮高麿/1990)
『祖国と民族を語る(田宮高麿ロングインタービュー)』(批評社/高沢皓司(聞き手)/1996)
『日本を考える三つの視点』(ウニタ書舗/田宮高麿/1983)
『銃撃戦と粛清 森恒夫自己批判全文』(新泉社/森恒夫1984)
『十六の墓標 上』(彩流社/永田洋子/1982)
『十六の墓標 下』(彩流社/永田洋子/1983)

『続 十六の墓標』(彩流社/永田洋子/1990)
『氷解』(講談社/永田洋子/1983)
『愛と命の淵に』(福武書店/永田洋子&瀬戸内寂聴/1986)
『私生きています』(彩流社/永田洋子/1986)
『獄中からの手紙』(彩流社/永田洋子/1993)
『あさま山荘1972 上』(彩流社/坂口弘/1993)
『あさま山荘1972 下』(彩流社/坂口弘/1993)
『続 あさま山荘』(彩流社/坂口弘/1995)
『坂口弘歌稿』(朝日新聞社/坂口弘/1993)
『永田洋子さんへの手紙』(彩流社/坂東国男/1984)
『兵士たちの連合赤軍』(彩流社/植垣康博/1984)
『連合赤軍27年目の証言』(彩流社/植垣康博/2001)
『連合赤軍 少年A』(新潮社/加藤倫教/2003)

『優しさをください』(彩流社/大槻節子/1986)
『わが愛わが革命』(講談社/重信房子/1974)
『十年目の眼差から』(話の特集/重信房子/1983)
『大地に耳をつければ日本の音がする』(ウニタ書舗/重信房子/1984)
『ベイルート1982年夏』(話の特集/重信房子/1984)
『資料・中東レポート 1』(ウニタ書舗/重信房子/1985)
『資料・中東レポート 2』(ウニタ書舗/重信房子/1986)
『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』(幻冬舎/重信房子/2001)

一連の連合赤軍による事件をモデルにした作品に次のようなものがある。

立松和平の小説『光の雨』 が同タイトルで映画化された。『光の雨』(DVD/監督・高橋伴明/出演・大杉漣&萩原聖人&裕木奈江&高橋かおり&・・・/2002)

佐々淳行の著書『連合赤軍「あさま山荘」事件』(文春文庫/1999) を原作として映画『突入せよ! あさま山荘事件』(DVD/監督&脚本・原田眞人/佐々淳行役・役所広司/2002)が製作された。

『夜の谷を行く』(文藝春秋/桐野夏生/2017)

『鬼畜大宴会』(DVD/監督・熊切和嘉/出演・三上純未子&澤田俊輔&・・・/2002)  この作品は元々は大阪芸術大学映像科の学生たちの卒業制作作品で、「ぴあフィルムフェスティバル’97」のPFFアワードで準グランプリを受賞、のちに劇場で公開された。

『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』(DVD/監督・若松孝二/2009) この作品は2008年のベルリン国際映画祭で国際芸術映画評論連盟賞&最優秀アジア映画祭賞、東京国際映画祭<日本映画・ある視点>作品賞を受賞した。公式ガイドブック・・・『若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』(朝日新聞社/「実録・連合赤軍」編集委員会+掛川正幸/2008)

『ドキュメント 連合赤軍 「あさま山荘」事件 「東大安田講堂」から「集団リンチ事件」までの1200日』(VHS/文藝春秋/解説・佐々淳行/1997)

『田原総一郎の遺言 永田洋子と連合赤軍』(DVD/出演・田原総一郎&水道橋博士/2012) これはジャーナリスト生活50年を迎えた田原総一朗が東京12ャンネル(現・テレビ東京)のディレクターだった時代に手掛けたドキュメンタリー作品。

ノンフィクション・ノベルとして『死者の軍隊(上) 連合赤軍の彼方に』(彩流社/金井広秋/2015) / 『死者の軍隊(下) 連合赤軍の彼方に』(彩流社/金井広秋/2015)

漫画では山本直樹の講談社刊『レッド 1』(2007) / 『レッド 2』(2008) / 『レッド 3』(2009) / 『レッド 4』(2010) / 『レッド 5』(2011) / 『レッド 6』(2012) / 『レッド 7』(2013) / 『レッド 8』(2014) がある。

1970年(昭和45年)、日本のパンクバンドの原点ともなった「頭脳警察」というロックバンドがデビュー。パンタ(中村治雄)とトシ(石塚俊明)で結成。名前の由来はフランク・ザッパの『WHO ARE THE BRAIN POLICE?』という曲からとったもの。その過激な革命精神や批判性、攻撃的なパフォーマンス(デビューから1ヵ月後、パンタが日劇ウェスタンカーニバルのステージ上で手淫)は伝説となっているが、1972年(昭和47年)、『頭脳警察1』(ファーストアルバム/ライブ盤/ビクターレコード)の中にある全10曲のうち『世界革命戦争宣言』『赤軍兵士の詩』を含む5曲が過激な歌詞がレコード制作基準倫理委員会(レコ倫)に抵触して発売中止になっている(ちなみにジャケットは3億円事件犯人のモンタージュ写真が使用された)。だが、これに懲りずにビクターレコードは急遽、スタジオ録音アルバムである『頭脳警察セカンド』を制作。このアルバムでは『銃をとれ』を含む5曲が問題となり、発売からわずか1ヶ月で回収されてしまう。だが、ビクターレコードはあきらめることなく、サードアルバムの『頭脳警察3』を制作。このアルバムは無事に店頭に並んだ。1975年(昭和50年)、解散。その後、発売禁止となった『頭脳警察1』は自主制作盤として600枚販売された。『1(ファースト)』 / 『頭脳警察セカンド』 / 『頭脳警察3』 / 『頭脳警察’73 10.20 日比谷野音』

参考文献など・・・
『連合赤軍「あさま山荘」事件』(文春文庫/佐々淳行/1999)
『あさま山荘事件』(国書刊行会/白鳥忠良/1988)

『あさま山荘1972 上』(彩流社/坂口弘/1993)

『あさま山荘1972 下』(彩流社/坂口弘/1993)

『「あさま山荘事件」の真実』(ほおずき書籍/北原薫明/1996)
『浅間山荘事件の真実』(河出書房新社/久能靖/2000)

『氷解 女の自立を求めて』(講談社/永田洋子/1983)

『氷の城 連合赤軍事件・吉野雅邦ノート』(新潮社/大泉康雄/1998)

『新左翼二十年史』(新泉社/高沢皓司・高木正幸・蔵田計成/1981)

『戦後女性犯罪史』(東京法経学院出版/玉川しんめい/1985)

『人間臨終図鑑 上巻』(徳間書店/山田風太郎/1986)

『日本の公安警察(講談社現代新書/青木理/2000)

『57人の死刑囚』(角川書店/大塚公子/1998)

『脱獄者たち 管理社会への挑戦』(青弓社/佐藤清彦/1995)

『「彼女たち」の連合赤軍 サブカルチャーと戦後民主主義』(角川文庫/大塚英志/2001)
『放送禁止歌』(知恵の森文庫/森達也/2003)
『[実録]放送禁止作品』(三才ムックvol.184/2008)
『墜落捜査 秘境捜索 警察官とその妻たちの事件史』(さくら舎/飯塚訓/2013)
『2022年の連合赤軍 50年後に語られた「それぞれの真実」』(清談社Publico/深笛義也/2022)
『虚ろな革命家たち 連合赤軍 森恒夫の足跡をたどって』(集英社/佐賀旭/2022)
『毎日新聞』(2000年6月2日付/2001年5月16日付/2001年7月4日付/2001年9月19日付/2002年2月14日付/2002年2月19日付/2006年12月2日付/2011年2月5日付/2012年3月5日付/2012年3月8日付/2013年6月25日付)
『週刊文春』(2001年8月16・23日 夏の特大号)
『週刊新潮』(2001年8月16・23日 夏季特大号)

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