[ 事件 index / 無限回廊 top page ]

「よど号」ハイジャック事件

【 赤軍派の登場 】

東大、日大闘争を頂点とした全共闘による大学闘争の敗北により、学生たちの間ではシラケが進行していったが、一部のセクトは、急速に過激化、武装化への飛躍を見せるようになった。そのひとつが赤軍派である。東大闘争と日大闘争

1969年(昭和44年)5月、赤軍派はトロツキズムを基盤とした共産主義者同盟(第2次ブント)の中の関西を中心とする武闘路線派から生まれた。それまでの大学闘争、街頭闘争の総括を経て、早急に軍隊を組織して、銃や爆弾で武装蜂起する必要があると結成した。そのときのメンバーは京大、同志社大、立命館大などを中心とする活動家約400人(うち高校生活動家約90人)であった。その後、9月4日、日比谷野音で開かれた全国全共闘結成大会に、初めて公然と姿を現した。

9月21・22日、武器奪取、対権力攻撃として、阿倍野派出所など3ヶ所の交番に火炎ビン攻撃を加えた「大阪戦争」、9月30日、「日大奪還闘争」をスローガンに神田、本郷一帯で同時多発ゲリラ闘争を展開した「東京戦争」は、いずれも失敗に終わった。10・21国際反戦デー闘争(新宿騒擾事件一周年闘争)には、最初の鉄パイプ爆弾を登場させ、新宿駅襲撃、中野坂上ではピース缶爆弾によるパトカー襲撃などを行った。

11月5日、首相官邸や警視庁を襲撃するために、鉄パイプ爆弾による軍事訓練をしようとハイキングを装い、山梨県塩山市の大菩薩(だいぼさつ)峠にある「福ちゃん荘」に集結するが、かねて密かに内偵捜査を進めていた警察により、爆発物取締罰則違反、凶器準備集合罪の容疑で53人(うち高校生9人)が逮捕された。

刑法208条の2(凶器準備集合及び結集)・・・2人以上の者が他人の生命、身体又は財産に対し共同して害を加える目的で集合した場合において、凶器を準備して又はその準備があることを知って集合した者は、2年以下の懲役又は30万円以下の罰金に処する。

2 前項の場合において、凶器を準備して又はその準備があることを知って人を集合させた者は、3年以下の懲役に処する。

1970年(昭和45年)1月16日、国内の取り締まり強化により、東京で約800人、2月7日、大阪で約1500人を集めて蜂起集会を開いた。東京の集会では世界革命戦線構築として「国際根拠地建設、70年前段階蜂起貫徹」と銘打った。

3月15日、「日本のレーニン」と言われた赤軍派最高幹部の塩見孝也(たかや)議長(京大)が破壊活動防止法違反(予備・陰謀)容疑で逮捕された。塩見が所持していた手帳に<H・J>の文字があったが、公安警察はそれが「ハイジャック計画」を意味するとまでは読みとれなかった。そのときまでに逮捕された者は222人にのぼり、赤軍派は壊滅状態に陥っていた。

当時、「赤軍罪」という呼び名があった。六法全書にはそんな罪状は記載されていなかったが、赤軍派のメンバーであるというだけで、逮捕の理由にされてしまった。公安警察の監視下に置かれていた赤軍派のメンバーは、うかつに道路を横切ることもできなかった。歩行中に信号機の色が変わっただけで、道交法違反の現行犯として逮捕されたし、わざと体をぶつけられて抵抗すると、すぐに公務執行妨害の現行犯で逮捕された。

【 ハイジャック 】

世界革命戦線構築の具現として、3月31日〜4月3日、日航機「よど号」ハイジャックによる北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)入りを敢行する。

「フェニックス作戦」と名づけられたこのハイジャックは、日本で初めて起こったハイジャック事件であった。

ハイジャックを行った赤軍派の9人のメンバーは、リーダーの田宮高麿(たかまろ/当時27歳/大阪市立大)、サブ・リーダー格の小西隆裕(当時25歳/東大)、田中義三(よしみ/当時21歳/明冶大)、安部公博(当時22歳/関西大)、吉田金太郎(当時20歳/元工員)、岡本武(当時24歳/京大)、若林盛亮(もりあき/当時23歳/同志社大)、赤木志郎(当時22歳/大阪市立大)、柴田泰弘(当時16歳/神戸市内の高校)であった。

メンバーのうちの1人である岡本武には弟の岡本公三がおり、1972年(昭和47年)5月30日に奥平剛士と安田安之とともに、イスラエル・テルアビブ空港を襲って、26人の死者を出すという事件を起こしている。 日本赤軍テルアビブ空港事件

1970年(昭和45年)3月31日午前7時21分、羽田発福岡行き351便の日本航空ボーイング727ジェット旅客機「よど号」(乗員7人、乗客131人)が離陸。この日は春休みということもあって、ほぼ満員だった。乗客の中には、後に聖路加国際病院の理事長・名誉院長になる日野原重明(当時58歳)がいた。福岡での内科学会へ出席する途中だった。著書『生きかた上手』はベストセラーになっている。

『生きかた上手』

「よど号」・・・日本航空は創業時の1951年(昭和26年)から1971年(昭和46年)まで自社旅客機にはこうした愛称を付けていた。ボーイング727型機には日本の河川の名前が付けられ「よど号」の愛称は淀川に由来する。 その他のボーイング727型機の愛称には「ひだ号」 「たま号」「ふじ号」「とね号」などがあった。1952年(昭和27年)4月9日に乗員乗客計37人を乗せて伊豆大島の三原山の噴火口付近に墜落して全員死亡した日航創業1号機の「もく星号」(マーチン2-0-2)や1953年(昭和27年)から日本〜サンフランシスコ間を飛行した日航国際便1号機の「シティ・オブ・トーキョー号」(DC-6)が知られている。

乗員の7人のメンバーは、機長の石田真二(当時47歳)、副操縦士の江崎悌一(当時32歳)、航空機関士の相原利夫(当時31歳)、それと4人のスチュワーデスの神木広美(当時22歳)、久保木順子(当時23歳)、沖宗陽子(当時21歳)、植村初子(当時19歳/訓練生)であった。

スチュワーデス・・・1997年(平成9年)6月18日に改正、1999年(平成11年)4月1日に施行された男女雇用機会均等法により、現在、求人誌などの募集欄では「スチュワーデス」(Stewardess)などの偏った性別の表現ができなくなり、「フライトアテンダント」(Flight Attendant)や「客室乗務員」という名称に変更されている。現在では、他にCA(シーエー)あるいは「キャビンアテンダント」(Cabin Attendant / 和製英語)、「キャビンクルー」(Cabin Crew)と呼ばれることが多い。

ハイジャック決行日は、実は3月27日の予定であったが、当日に田中、安部、吉田、小西の4人が遅刻したため、田宮が中止を決め、4日後の31日に延期になった。それは搭乗手続きに時間を要することや確実に飛行機に乗るためには予約を入れなければならないこと、チケットをどこで買い求めるのかを知らない者がいたためであった。また、31日の決行に参加を表明しておきながらその当日に姿を現さなかった者が何人かいたが、決行の延期はなかった。

午前7時33分、富士山上空を飛行中に、乗客として乗り込んでいた赤軍派の9人が日本刀やピストル、ダイナマイトのようなものを振りかざして、乗客に向かって力強く叫んだ。これらの武器は偽物だった。

当時は金属探知機もボディチェックもなかったため、簡単に武器を機内に持ち込むことが出来た。この事件をきっかけとして、同年6月7日にハイジャック防止法(航空機の強取等の処罰に関する法律)が施行され、金属探知機や手荷物のレントゲン検査が義務づけられた。ちなみに「ハイジャック」は「乗っ取り」を意味し、「飛行機乗っ取り」は「ハイジャック」で、「バス乗っ取り」は正確には「バスハイジャック」と言うが、現在は「バスジャック」という呼び方が一般的になった。

「私たちは共産主義者同盟『赤軍派』です。・・・・・・(中略)・・・・・・私たちは北鮮(北朝鮮)に行き、そこにおいて労働者、国家、人民との強い連帯を持ち、そこにおいて軍事訓練等々を行い、今年の秋、再度、いかに国境の壁が厚かろうと再度、日本海を渡って日本に上陸し、断固として前段階武装蜂起を貫徹せんとしています。我々はそうした目的のもとに今日のハイジャックを敢行しました。・・・・・・」

新左翼は各セクト共に「反帝・反スタ(反帝国主義・反スターリン主義)」を掲げているが、北朝鮮の金日成首相(当時)もスターリニストであると認識しているにもかかわらず、赤軍派は北朝鮮への亡命を選択した。彼らの機関誌を読んでみると<まず打倒せねばなければならないのは、米国、日本、西ドイツの先進帝国主義国家であり、その打倒のためには、それぞれの国において、武装した労働者階級が蜂起しなければならない。それぞれの労働者を蜂起せしめるためには、当該資本主義国を取りまく「労働者国家」の支援がなくてはならない。アメリカに対してはキューバ、西ドイツに対してはアルバニア、日本においては北朝鮮が、それぞれ「労働者国家」としての革命の“根拠地”となる>とある。

彼らの一部は操縦室に押し入って、相原利夫航空機関士を縛り、操縦士に北朝鮮行きを命令した。別のグループは、男の乗客を全員後ろ手に、子ども連れや老人を除く女性は前で手を縛り、所持品を検査した。

午前7時40分、名古屋上空で、機内に副操縦士の江崎悌一のアナウンスが流れた。落ち着いた声であったが、初めてのことで動揺したのか、声がわずかに震えていた。

「こちらは操縦室でございます。只今、赤軍と称する人が押し入りましたので、皆さまの安全のために、一応、反抗しないように、皆さま、静かにそのままお願いいたします」

赤軍派メンバーは決行に当たって犯行声明文を残している。リーダーの田宮の文章は次のようなものだった。

<われわれは明日、羽田を発(た)たんとしている。われわれは如何(いか)なる闘争の前にも、これほどまでに自信と勇気と確信が内から湧き上がってきたことを知らない。・・・・・・最後に確認しよう。われわれは “あしたのジョー” である>

われわれは“あしたのジョー” である・・・何度倒されても立ち上がる、という意味で自分たちのことを「あしたのジョー」と表現した。「あしたのジョー」・・『少年マガジン』(講談社/1968年1月1日号〜1973年5月13日号にかけて連載された作品。原作・高森朝雄[梶原一騎]/絵・ちばてつや/アニメ主題歌・尾藤イサオ/作詞・寺山修司/作曲・八木正生)矢吹丈は60年代が終わりを告げようとした頃、大衆の前に突如として登場したアンチヒーローだった。プロボクサーの力石徹が宿命のライバルである主人公の矢吹丈と凄惨な闘いの末、勝利を得たものの、リング上で息を引き取った。編集部に弔電が殺到、ファンの間で本物の葬儀をしようという話が持ち上がり、このハイジャックが起きる1週間前の3月24日、寺山修司の企画で講談社講堂で取り行われた。会場は超満員。大半は小学生から高校生、中には大学生やサラリーマンの姿もあった。焼香、読経に続いてアトラクションのボクシング試合が行われた。ちなみに、矢吹丈のモデルはプロボクサーから後にコメディアンになった、たこ八郎(斎藤清作)と言われている。矢吹丈に顔は似ていないが、矢吹丈のノーガード戦法は、斎藤清作のファイトスタイルからヒントを得ている。だが、ほかにも矢吹丈のモデルになったと噂されているボクサーがおり、青木勝利、海老原博幸、小林弘などの名が挙がっている。

石田真二機長は平譲(ピョンヤン)に行くには燃料不足であるとして、赤軍派に対し、福岡行きを説得した。

午前8時59分、「よど号」は福岡・板付(いたつけ)空港に着陸し給油。空港は機動隊が1000人待機して厳戒態勢が敷かれていた。

政府も日本航空も、初めてのハイジャックにどう対応していいのか戸惑っていた。

午後1時35分、病人や女性、子どもら23人を解放して、なんの通告もなく、午後1時59分、福岡空港を離陸し、北朝鮮に向かうが、そのとき、石田機長が日航の福岡空港航路課から受け取った地図は朝鮮半島の形だけが判る白地図で、地図の上部には<航路図なし、121.5MCをつねに傍受せよ>と書かれていた。

「よど号」が福岡空港を飛び立ってから約35分経ったときだった。コックピットの右側に戦闘機の姿が見えた。機体にあるマークの部分が消されていて国籍不明であった。その戦闘機の操縦席の東洋人らしき兵士が親指を下に向けた。「高度を下げろ」というサインらしいことが分かり、石田機長は仕方なく高度を下げた。やがてスクランブル(緊急発進)をかけていた戦闘機は大きく上空に反転して消えた。

38度線付近あたりにさしかかったとき、石田機長は管制塔からの応答を求めていたが、平譲空港の管制塔からの無線と思われる声が緊急周波数121.5MCにあった。

「こちらはピョンヤン、進入管制周波数134.1MCにコンタクトせよ。こちらはピョンヤン、繰り返す・・・・・・」

石田機長は指示されるままに、121.5MCから134.1MCに変更した。切り替えると今度は明瞭な地上からの声が無線に飛び込んできた。

午後3時16分、誘導されてその空港に着陸するが、そこは、実はソウル郊外の金浦(きんぽ)空港だった。韓国側は、北朝鮮兵の服装でニセの歓迎プラカードを立てて出迎えなどをして偽装工作するが、赤軍派はこれを見破ってしまう。

赤軍派らは着陸直後に空港内に米軍機を発見し、その段階で偽装に気づいた。田宮が操縦席の窓から下にいた兵士に「Here is Seoul?」と訊くと、何も知らない兵士は「Yes, Seoul!」と答えたのだ。さらに、無線で交渉にあたっていた韓国側の担当官は、なおも、「ここはピョンヤンだ」と言い張るので、田宮が「それでは、金日成(キムイルソン)の大きな写真を持って来い」と言った。それだけはこの国にあってはならないはずのものだった。

ここで赤軍派がソウルであることを確認する場面は参考文献によって確認した相手や話した内容が異なっているが、その中で私(boro)が「気に入ったもの」を記載した。

翌4月1日、韓国側は「乗客を解放すれば、北朝鮮に行かせる」と説得するが、これには応じず、東京から来た山村新治郎運輸(現・国土交通省)政務次官(当時36歳)ら政府関係者が自ら“身代わり”になることを名乗り出て赤軍派と交渉した。

昼過ぎ、日本赤十字会の東竜太郎会長は朝鮮赤十字会の朴辛徳会長宛てに電報を入れる。<万一、やむをえず『よど号』が貴国に飛行した場合には、その安全な着陸、乗客及び乗員の健康と安全の確保、また、彼らの早急な帰国について貴国側の好意ある取り扱いがなされるよう、貴会の特別の御配慮をお願いしたい>

折り返し、朝鮮赤十字中央委員会から日赤本社に次のような返電が入る。<貴社が要請したJAL727ジェット旅客機が、朝鮮民主主義共和国北半部領域内に無事着陸できるようにし、着陸後、乗客乗員たちの身辺の安全を人道主義の見地から保証するであろうし、また、直ちに日本に送り返されるであろうという当該機関の確答を受けたことを知らせる>

3日午後2時28分、それまで膠着状態が続いていたが、残りの乗客99人全員とスチュワーデス4人全員が解放され、山村政務次官がその “身代わり” になった。

田宮たちは、乗り込んだ山村に「ご迷惑をかけて本当にすみません」とねぎらいの声をかけた。山村は「いやいや、これで次の選挙は大丈夫だよ」と答えた。田宮たちは大声で笑い合った。山村の人気は凄まじく、マスコミも「男、山新」と書き立て、春日八郎の歌で『身代わり新治郎』というレコードまで出た。実際、次の選挙では山村はトップ当選を果たすことになる。

乗客が解放される直前、奇妙なセレモニーが行われた。リーダーの田宮がマイクを持って立ち上がり「お別れのパーティーをやりましょう」と言って、赤軍派の1人ひとりが自己紹介をし演説をした。再び、マイクが田宮の手に渡ると、気分を出して詩吟をうなり出した。このとき、奇妙な連帯感がうまれ、乗客の1人が別れの歌を歌った。

午後6時5分、「よど号」は金浦空港を離陸、38度線を越えて、北朝鮮の平譲へと向かうが、石田機長の手元には白地図しかなく、また、日が暮れてしまって危険な状態だった。だが、石田機長は戦争中、夜間特攻隊の教官をしていた経験を生かし、肉眼で滑走路に見えた道に強行着陸することにした。上空飛行中、管制塔からの応答はなかった。着陸すると、そこは確かに空港ではあったが、平譲の美林(ミリム)空港という廃港であった。こうして、午後7時20分、北朝鮮に到着。赤軍派の9人はそのまま、北朝鮮側に収監され、3日間半に渡ったハイジャックは終わり、亡命は成功する。

4日午前9時10分、「よど号」は山村政務次官と乗員3人を乗せ、羽田に到着した。

【 その後 】

ハイジャックメンバー
(その当時の年齢)
その後 結婚相手
結婚年月日
その後
田宮高麿
(たかまろ/27歳)
1995.1.30
死亡(52歳)。
森順子(よりこ)
1977.5.1
北朝鮮在住。

1980.6.7 
黒田佐喜子とともに石岡亨(当時22歳)と松木薫(当時26歳)の拉致に関与した疑いがある。
小西隆裕(25歳) 北朝鮮在住。 福井タカ子
1976
2002.9.10
旅券法違反容疑で逮捕(当時56歳)。

2003.4.4
東京地裁で懲役1年6ヶ月・執行猶予4年の判決。

岡本武(24歳) 1988
妻の福留貴美子とともに事故死(42歳)とされているが未確認。
福留貴美子
1976
1988
夫の岡本武とともに事故死とされているが未確認。
若林盛亮
(もりあき/23歳)
北朝鮮在住。 黒田佐喜子
1976
北朝鮮在住。

1980.6.7 
森順子(よりこ)とともに石岡亨(当時22歳)と松木薫(当時26歳)の拉致に関与した疑いがある。
安部公博
(現姓・魚本/22歳)
北朝鮮在住。

1983.7.15 八尾恵とともに有本恵子(当時23歳)の拉致に関与した疑いがある。
魚本民子
1976

2004.2.24
旅券法違反容疑で逮捕(当時51歳)。

2004.10.6 
東京地裁で懲役1年6ヶ月・執行猶予4年の判決。

2004.10.20
弁護側が東京地裁での判決を不服として控訴。

2005.6.28
東京高裁で控訴棄却。

赤木志郎(22歳) 北朝鮮在住。 金子恵美子
1977.5.3
2001.9.18
旅券法違反容疑で逮捕(当時46歳)。

2002.10.15
東京地裁で懲役2年・執行猶予4年の判決。

2003.4.22
赤木志郎の妹(当時49歳)が旅券法違反などの容疑で逮捕される。

2003.6.20
東京簡裁で罰金10万円の判決。
田中義三
(よしみ/21歳)
2000.6.28
日本へ移送。国外移送略取、強盗致傷容疑で逮捕(当時52歳)。

2002.2.14
東京地裁で懲役12年の判決。田中が判決を不服として控訴。

2003.4.30
東京高裁で控訴棄却。田中が判決を不服として上告。

2003.6.25までに最高裁への上告を取り下げ、懲役12年の刑が確定。

2006.11.22
肝臓がんを患い、収監先の熊本刑務所から大阪医療刑務所に移監。

2006.12.15
病態が悪化したため千葉県の病院に入院。

2007.1.1
千葉県の病院で死亡(58歳)。

水谷協子
1977.5.5
2004.10.19
旅券法違反容疑で逮捕。

2005.5.30
東京地裁で懲役1年6月・執行猶予4年の判決。
吉田金太郎(20歳) 1985.9.4
死亡(35歳)とされているが、それ以前に死亡している可能性が高い。
(不明)
柴田泰弘(16歳) 1988.5.6
国外移送略取、強盗致傷容疑で逮捕(当時34歳)。

1993.11
懲役5年が確定。

1994.7.21
刑務所を出所。

2011.6.23
大阪市の自宅アパートで死亡(58歳)。

八尾恵
1977.5.4
1985.5.25
アパートの名義に偽名が用いられていたことで、有印私文書偽造・同行使容疑で逮捕(当時32歳)。

1988.6.15
住民票への登録が偽名でされていたことで、公正証書原本不実記載・同行使となり、簡易裁判所で5万円の略式起訴で釈放。

2002.3.12
金子恵美子の公判で有本恵子を北朝鮮に連行したと証言。

日航は見舞金として、金浦空港で降りた乗客には10万円、福岡空港板付空港で降りた乗客には5万円を配り、この事件に関しては以後、異議を申し立てないという一礼をとって終わりにした。ちなみに、この夏のボーナスが一流企業で10〜15万円であった。

4月15日、警視庁公安部が乗客乗員の証言や採取した指紋などから赤軍派9人全員の身元を割り出した。このとき、「安部公博」と間違って「梅内恒夫」と発表したが、その10日後に訂正の発表がされた。その理由として機内で採取した指紋は275個に及んだが、その中に梅内の指紋がないこと、また手配写真がよく似ていたために乗客が間違えた、という2点をあげた。このようにメンバーの特定は難航をきわめた。このときの指紋の鑑識を担当したのが、「有楽町3億円事件」や「オウム事件」でも活躍し、“指紋の神様”と呼ばれた警視庁鑑識課指紋捜査官の塚本宇兵であった。著書に『指紋は語る』がある。

『指紋は語る』

1972年(昭和47年)、山村政務次官とともに、国民的英雄になった石田機長は、実は事件のあった3月31日を最後に、国際線のパイロットになる予定であったが、有名になったことで女性スキャンダルが発覚し、上司に頼まれて日本航空を退社するはめになった。

ハイジャックのメンバーは、当時の金日成首相の計らいで、何不自由ない共同生活を保証されることになり、政治思想である主体(チュチェ)思想の講義を受ける日が続いた。日が経つにつれ、革命戦士として、凱旋帰国する夢は破れていった。軍事訓練も帰国することも許可されなかったのだ。やがて、共同で貿易会社を設立し、平譲市内に外貨ショップを開いた。

1975年(昭和50年)5月、金日成の「よど号」ハイジャック犯メンバーにも結婚相手を見つけて、代を継いだ革命を行なっていかなければならないという「教示」に従い、1977年(昭和52年)5月5日までに全員が結婚するという方針に基づき、メンバーたちは日本女性と結婚した。結婚相手の女性には日本国内でチュチェ思想研究会などの会員で北朝鮮に渡った者が多かった。また、その結婚相手は金正日が決めたという。

1976年(昭和51年)、小西隆裕が東大闘争時代に恋人だった福井タカ子と結婚。安部公博(現姓・魚本/以下同)と魚本民子が結婚。岡本武と福留貴美子が結婚。若林盛亮と黒田佐喜子が結婚(いずれもその日付は不明)。

1977年(昭和52年)5月1日、田宮高麿と森順子(よりこ)が結婚。5月3日、赤木志郎と金子恵美子が結婚。5月4日、柴田泰弘と八尾恵が結婚。5月5日、田中義三と水谷協子が結婚。吉田金太郎の結婚については不明。

メンバーとその家族に対しては相変わらず待遇は良かったし、衛星放送や新聞などで日本の事情を知ることができた。だが、そうした中、メンバーが次々と病死や逮捕などで、欠けていき、現在、北朝鮮に残っている「よど号」メンバーは4人(小西隆裕、安部公博、若林盛亮、赤木志郎)だけとなった。

1985年(昭和60年)9月4日、吉田金太郎が病死(35歳)ということになっているが、生存が確認できているのは1973年(昭和48年)までであることや結婚について不明なことなどから、1985年(昭和60年)以前に死亡している可能性がある。

1987年(昭和62年)11月29日の大韓航空機爆破事件が発生。乗員・乗客115人全員死亡。

1988年(昭和63年)、岡本武(享年42歳)が妻の福留貴美子とともに事故死ということになっているが、その死亡は確認されていない。

1月22日、神奈川県警外事課に、横須賀にある「Y」というスナックの経営者「佐藤」が大韓航空機爆破事件に関与しているかもしれないという密告電話が入った。その後、内偵を進めた結果、2月になって照会先の警察庁から、「佐藤恵子」こと八尾恵が1982年(昭和57年)2月にデンマークのコペンハーゲンで、当時ユーゴスラビラのザグレフにあった北朝鮮領事館副領事のキム・ユーチョルと接触していた事実や、不審な複数の日本人女性との接触、東欧、東ベルリンなどへの出入国記録などが含まれていた。

5月6日、犯行当時16歳だった柴田泰弘が密かに日本に入国したが、当日、逮捕された。柴田は八尾恵と北朝鮮で結婚している。

5月25日、柴田泰弘の妻の八尾恵(当時32歳)がアパートの名義に、「佐藤恵子」という偽名が用いられたことで、神奈川県警外事課により有印私文書偽造・同行使の容疑で逮捕された。県警は北朝鮮の工作員の物証を発見できるものと思い、八尾恵の自室やスナック店内などを家宅捜索したが、結局なにも発見できなかった。

刑法159条(私文書偽造等)・・・行使の目的で、他人の印章若しくは署名を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する文書若しくは図画を偽造し、又は偽造した他人の印章若しくは署名を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する文書若しくは図画を偽造した者は、3月以上5年以下の懲役に処する。

6月15日、柴田泰弘の妻の八尾恵が住民票への登録が偽名でされていたことで、公正証書原本不実記載・同行使となり、簡易裁判所で5万円の略式起訴を受け、「スパイ容疑」については証拠不充分のまま釈放された。

刑法157条(公正証書原本不実記載等)・・・公務員に対し虚偽の申立てをして、登記簿、戸籍簿その他の権利若しくは義務に関する公正証書の原本に不実の記載をさせ、又は権利若しくは義務に関する公正証書の原本として用いられる電磁的記録に不実の記録をさせた者は、5年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。

1989年(平成元年)12月27日、元赤軍派議長の塩見孝也が懲役18年の刑を終えて出所した。未決勾留期間も含めて19年9ヶ月に及ぶ獄中生活だった。

1990年(平成2年)12月20日、東京地裁で柴田泰弘に対し懲役5年の判決。上訴したが、1993年(平成5年)11月に懲役5年が確定。

1992年(平成4年)4月12日夜、「よど号」事件で“身代わり”となった山村新治郎衆議院議員は翌13日からの北朝鮮訪問に備えて、東京の議員宿舎から千葉県佐原市の自宅に戻った。北朝鮮との国交正常化を目指した自民党の訪朝議員団の団長として、北朝鮮に渡り、金日成主席生誕80周年慶祝行事に参加し、赤軍派に会って説得して帰国を勧めることを予定にしていたが、翌13日の午前0時半、高校を中退してノイローゼだった次女(当時24歳)に刺されて死亡してしまう。次女は判断能力がなかったということで不起訴になったが、4年後、自殺する。

1994年(平成6年)7月8日、メンバーにとって革命の師である金日成が死亡。82歳だった。

7月21日、柴田泰弘が出所。

1995年(平成7年)11月30日、田宮高麿が心臓発作で死亡。52歳だった。

1996年(平成8年)、田中義三はタイのパタヤで偽百ドル札90枚(当時で22万5000バーツ相当)を使用した5人のタイ人と外国人に協力したとしてカンボジアで拘束され、起訴された。

1999年(平成11年)6月23日、タイのチョンブリ地裁は田中に無罪を言い渡した。

2000年(平成12年)6月28日、田中が勾留先のタイ・バンコクから日本へ移送された。実に約30年3ヶ月ぶりの帰国である。田中は52歳になっていた。

12月15日、東京地裁で第1回公判が開かれた。被告人の田中は「よど号」事件について、乗客・乗員を人質にした行為は釈明の余地はなく、社会変革をめざす運動にあってはならないものだったと自己批判し、謝罪した。

「よど号」犯人グループは日本政府と話し合い、無罪の合意を得た上で帰国する「無罪合意帰国」を、支援者は、「高い人道的見地で解決していこう」とする「無罪人道帰国」をそれぞれ主張し、帰国実現に向けて宣伝活動している。そのうち、子女の帰国を最優先課題として取り組んでいた。

2001年(平成13年)5月15日、小西隆裕の長女(当時23歳)、田中義三の長女(当時22歳)、田宮高麿の長女(22歳)の3人が「帰国」した。

3人は記者会見で、「小さいときから日本人としての自覚をもって生きるように育てられたが、今、本当に日本に帰ってくることができました。これ自体が私たちはこの上ない喜びです。父母からこの向うに日本があると言われ、日本への思いをふくらませていました」とコメントした。

3人のうち田中の長女はすでに日本で始まっていた父親の義三の裁判を傍聴することを特に希望しての「帰国」であった。

9月18日、旅券法違反(返納命令拒否)の疑いで国際手配されていた赤木志郎の妻の金子恵美子(当時46歳)が北朝鮮から北京経由で帰国したところを逮捕された。調べによると、金子恵美子は海外で北朝鮮の工作員と接触した疑いがあるとして、1988年(昭和63年)に出された旅券返納命令に従わなかった疑い。

2002年(平成14年)2月14日、東京地裁はハイジャック事件などで強盗致傷罪(飛行機を乗っ取ったことで定期航路を運航されずに不法に利益を得たことから飛行機に対する強盗罪が適用される)などに問われていた田中義三に対し、懲役12年(求刑・懲役15年)を言い渡した。弁護側が判決を不服として控訴。

3月12日、東京地裁で旅券法違反事件の金子恵美子の公判が開かれたが、「よど号」ハイジャック事件のメンバーの柴田泰弘の元妻で、元スナック店主の八尾恵が検察側証人として出廷し、田宮高麿の指示で、19年前の1983年(昭和58年)、ロンドンで留学していた有本恵子(当時23歳)を騙して北朝鮮に連れ出したと証言した。証言によると、同年5月ごろ、有本に「北朝鮮の市場調査をしないか」と誘い、7月14日にデンマークのコペンハーゲンで、貿易関係者を装ったメンバーの安部公博と北朝鮮工作員のキム・ユーチョルに引き合わせ、翌15日、有本とキムがモスクワ経由で北朝鮮に向かったという。北朝鮮日本人拉致事件

9月10日、小西隆裕の妻の福井タカ子(当時56歳)とメンバーの子ども5人が経由地の北京から全日空機で「帰国」した。成田空港に到着した福井タカ子は旅券法(返納命令拒否)違反容疑で逮捕された。「帰国」したメンバーの子どもは、小西隆裕の次女(当時22歳)、赤木志郎の長女(当時22歳)、若林盛亮の長男(当時24歳)、安部公博の長男(当時23歳)、岡本武の長女(当時25歳)の5人。

10月15日、東京地裁は旅券法違反などの罪に問われた赤木志郎の妻の金子恵美子に対し、懲役2年・執行猶予4年(求刑・懲役2年)の有罪判決を言い渡した。

2003年(平成15年)4月4日、東京地裁は旅券法違反(返納命令拒否)の罪に問われた小西隆裕の妻の福井タカ子に対し、懲役1年6ヶ月・執行猶予4年の判決を言い渡した。

4月22日夜、赤木志郎の妹(当時49歳)が、北朝鮮・平壌から北京経由の飛行機で帰国し、旅券法違反容疑などで成田空港で逮捕された。1983年(昭和58年)4月ごろ、妹は兄の赤木志郎に会うために、また1986年(昭和61年)2月から1988年(昭和63年)4月までの間にグループに合流して生活するために、当時渡航が制限されていた北朝鮮に入国する際、義務付けられていた追加申請をせずに北朝鮮に渡航したほか、1986年(昭和61年)、パリの日本大使館で旅券を更新した際、虚偽の申請をした疑い。

4月30日、東京高裁は田中義三に対し、懲役12年とした東京地裁判決を支持し、被告側の控訴を棄却した。

5月14日、田中は東京高裁での判決を不服として上告した。

6月20日、東京簡裁は赤木志郎の妹に対し、求刑通り罰金10万円を言い渡したが、20日間にわたる勾留について「1日につき5千円に換算する」と異例の判断をして罰金を全額相殺した。弁護人の川口和子弁護士は、罰金の相殺について「微罪での長期勾留が行き過ぎと判断されたのでは」と話している。

6月25日までに田中義三が最高裁への上告を取り下げ、懲役12年の刑が確定した。

12月2日、柴田泰弘の妻の八尾恵の長女(当時25歳)と次女(当時23歳)が、八尾姓から元夫の柴田姓に名字を変更したことが関係者の話で分かった。「母親の姓のままでは帰れない」と周囲に話していたとされ、帰国に向けた手続きの一環とみられている。

2004年(平成16年)1月13日、メンバーの子ども6人が北朝鮮から北京経由で「帰国」した。「帰国」したのは、安部公博の長女(当時21歳)と次男(当時19歳)、田宮高麿の長男(当時20歳)、八尾恵の次女(当時23歳)、岡本武の次女(当時22歳)、田中義三の次女(当時17歳)。

2月24日、安部公博の妻で旅券法違反などの疑いで国際手配されていた魚本民子(当時51歳)が、北朝鮮から北京経由で帰国し、成田空港で逮捕される。

9月7日、メンバーらの子ども3人が北朝鮮から北京経由で成田空港に「帰国」した。「帰国」したのは、田宮高麿の次男(当時16歳)と、田中義三の三女(当時14歳)、赤木志郎の妹と支援者の間に生まれた長女(当時16歳)。

10月6日、東京地裁は旅券法違反(返納命令拒否)の罪に問われた安部公博の妻の魚本民子に対し、懲役1年6月・執行猶予4年の判決を言い渡した。

10月19日、田中義三の妻で旅券法違反の疑いで国際手配されていた水谷協子が帰国と同時に逮捕される。

10月20日、安部公博の妻の魚本民子の弁護側が10月6日の東京地裁での判決を不服として控訴した。

2005年(平成17年)5月30日、東京地裁は旅券法違反(返納命令拒否)の罪に問われた田中義三の妻の水谷協子に対し、懲役1年6月・執行猶予4年の判決を言い渡した。

6月28日、東京高裁は安部公博の妻の魚本民子に対し、懲役1年6月・執行猶予4年の1審・東京地裁判決を支持、控訴を棄却した。

2006年(平成18年)3月30日、韓国政府は、1967〜75年の外交文書を公開した。「よど号」ハイジャック事件で、福岡から北朝鮮に向かった「よど号」が金浦空港に降りた「偽装着陸」を「機長の意思による計画的な着陸」と結論を出した当時の韓国政府内部文書が含まれている。しかし、毎日新聞の取材に応じた日韓双方の直接当事者が全面否定しており、真相解明には至らなかった。「よど号」事件直後に作成された韓国外務省(当時)の内部資料「JAL機拉北事件措置経緯」には、よど号が韓国・北朝鮮の軍事境界線(休戦ライン)上空に接近した後にジグザグ飛行を始め、北朝鮮上空に進入した後、今度は南下して韓国側に戻り、金浦空港に着いたと記されている。また韓国空軍の説明として、よど号が福岡離陸直前に韓国の交信周波数を使うことになった。日航機は飛行位置を正確に把握できた。ジグザグ飛行で時間を稼ぎ、平壌到着予定時刻に時間を合わせた――などと指摘。これらを根拠に「金浦着陸は機長の意思」と主張し、「機長の身辺を考慮して」発表しなかったとも記している。しかし、「よど号」を金浦空港に誘導した蔡ヒ錫(チェヒソク)元管制官は毎日新聞の取材に「韓国中央情報部(KCIA、現・国家情報院)から『理由は聞かずに金浦に着陸させろ』と指示を受けた」と語った。石田真二元機長も「『平壌に入ってくるように』と管制官に指示され、降りただけ」と反論し、江崎悌一元副操縦士も「事前に韓国固有の周波数を使うよう指示は受けていない」と疑問を示している。

6月13日、柴田泰弘の長女(当時27歳)が北朝鮮から北京経由で関西空港に到着し「帰国」した。

11月22日、田中義三が肝臓がんを患い、収監先の熊本刑務所から大阪医療刑務所に移監される。

12月15日、田中義三が病態が悪化したため千葉県の病院に入院。

2007年(平成19年)1月1日、田中義三が死亡。58歳だった。

6月5日夜、ハイジャックメンバーらに1987年(昭和42年)に合流したとされる赤木(旧姓・米村)邦弥(当時52歳)が関西国際空港に帰国したところで旅券法違反(渡航制限)容疑で逮捕された。赤木は80年代に欧州でメンバーらの関与した反核運動にかかわったとされる。

2011年(平成23年)6月23日、大阪市浪速区の自宅アパートで柴田泰弘が死亡しているのが発見される。外傷はなく解剖の結果、病死とみられている。58歳だった。

12月17日、金正日(キムジョンイル)総書記が死亡。69歳だった。

2013年(平成25年)3月25日、「よど号」ハイジャック事件のメンバーや妻らによる欧州ルートの日本人拉致事件は金正日がメンバーらに下達した書簡を受けて実行した疑いがあることが関係者の証言で分かった。書簡はグループの勢力拡大の必要性を説いていたとされ、「よど号」犯グループはその後、海外で日本人獲得に動いていた。書簡は、1978年(昭和53年)5月6日に示された「日本革命に関する根本問題(56書簡)」。「主体的力量の準備」や「暴力革命の準備」などと記されていたという。関係者によれば、「よど号」犯グループのリーダーだった田宮高麿は「主体的力量の準備」について「(日本革命のために作った)自主革命党を発展的に成長させるため、メンバーを増やさないといけない」と話し、「よど号」犯メンバーの妻たちに欧州での日本人獲得を指示。書簡が出た翌年の1979年(昭和54年)から妻たちは頻繁に欧州各国に出入りし、その後、「よど号」犯メンバーの行動も確認されるようになった。北朝鮮日本人拉致事件

2017年(平成29年)7月18日、「よど号」ハイジャック事件で人質として巻き込まれた聖路加国際病院の名誉院長・日野原重明が心不全のため死亡した。105歳だった。北朝鮮在住の若林盛亮は毎日新聞の電話取材で「人に犠牲を強いたハイジャックに大義はなかった。私たちの思い上がりを気付かせてくれた恩人。生きている間に直接おわびしたかった」と語った。

11月14日、元赤軍派最高幹部の塩見孝也が都内の病院で死亡した。76歳だった。

事件関係者の著書に次のようなものがある。

塩見孝也の著書・・・『封建社会主義と現代 塩見孝也獄中論文集』(新泉社/1988) / 『「リハビリ」終了宣言 元赤軍派議長の獄中二十年とその後の六年半』(紫翠会出版/1996) / 『さらば赤軍派 私の幸福論』(オークラ出版/2002) / 『赤軍派始末記 元議長が語る40年』(彩流社/2003) / 『革命バカ一代』(鹿砦社/2014)
川島豪&塩見孝也共著の著書・・・『いま語っておくべきこと 対談・革命的左翼運動の総括』(新泉社/1990)

田宮高麿の著書・・・『わが思想の革命 ピョンヤン18年の手記』(新泉社/1988) / 『飛翔二十年 「よど号」でチョソンへ』(新泉社/1990) / 『社会主義国で社会主義を考える ピョンヤン1990』(批評社/1990) / 『祖国と民族を語る 田宮高麿ロングインタビュー』(批評社/高沢皓司(聞き手)/1996) / 『日本を考える三つの視点』(ウニタ書舗/1983)
田中義三の著書・・・『よど号、朝鮮・タイそして日本へ』(現代書館/2001)
島田滋敏の著書・・・『「よど号」事件三十年目の真実 対策本部事務局長の回想』(草思社/2002)
森順子の著書・・・『いつまでも田宮高麿とともに』(鹿砦社/2002)
八尾恵の著書・・・『謝罪します』(文芸春秋/2002)

「よど号」ハイジャック事件を元にテレビドラマが製作され、2002年(平成14年)9月23日、日本テレビ系列の「スーパーテレビ情報最前線」で『よど号ハイジャック事件 史上最悪の122時間』(田宮高麿役・仲村トオル/ 石田真二機長役・根津甚八/江崎悌一副操縦士役・別所哲也/スチュワーデスの沖宗陽子役・釈由美子/山村新治郎運輸政務次官役・鶴見辰吾)と題して放送された。視聴率は23.3%だった。

参考文献・・・
『宿命 「よど号」亡命者たちの秘密工作』(新潮文庫/高沢皓司/2000/第21回講談社ノンフィクション賞受賞)
『「よど号」事件122時間の真実』(河出書房新社/久能靖/2002)

『57人の死刑囚』(角川書店/大塚公子/1998)
『戦後欲望史 転換の七、八〇年代篇』(講談社/赤塚行雄/1985)
『日本の公安警察』(講談社現代新書/青木理/2000)
『SPA!特別編集ブックレット メディアが黙殺した[拉致事件]25年の封印を解く!!』(扶桑社/2002)
『よど号と拉致』(NHK出版/NHK報道局「よど号と拉致」取材班[編]/2004)
『足枷 アメリカの謀略にはまった「よど号」田中義三』(ポット出版/渡辺也寸志/1999)

『「拉致疑惑」と帰国 ハイジャックから祖国へ』(河出書房新社/よど号グループ[著]/鳥越俊太郎[検証]/2013.4)
『週刊文春』(2001年8月16・23日 夏の特大号)
『週刊新潮』(2001年8月16・23日 夏季特大号)
『毎日新聞』(2000年6月2日付/2001年5月16日付/2001年7月4日付/2001年9月19日付/2002年2月14日付/2002年2月19日付/2002年3月12日付/2002年9月10日付/2002年9月17日付/2002年10月2日付/2002年10月15日付/2003年4月4日付/2003年4月23日付/2003年4月30日付/2003年5月14日付/2005年5月30日付/2005年6月28日付/2011年6月24日付/2017年7月18日付)
『産経新聞』(2013年3月25日付)
『共同通信』(2003年6月25日付/2003年12月2日付/2004年1月13日付/2004年2月24日付/2004年9月7日付/2004年10月6日付/2004年10月20日付/2006年3月30日付/2006年6月13日付/2006年12月8日付/2007年1月1日付/2007年6月5日付/2011年12月19日付/2017年11月15日付)

[ 事件 index / 無限回廊 top page ]