[ 事件 index / 無限回廊 top page ]

東大闘争と日大闘争

1964年(昭和39年)の慶応大学費闘争、1965年(昭和40年)の早大学費・学館闘争、1966年(昭和41年)の中央大学費闘争を前駆とした大学闘争の波は急速にひとつの統一的な高まりを見せ始め、1968・9年(昭和43・44年)には「大学解体」をスローガンにした全国全共闘運動へと発達していった。1968年(昭和43年)のピーク時には全国の大学の約8割に当たる165校が紛争状態に入り、その約半数の70校でバリケード封鎖が行われた。東大闘争と並んでその一方の極をなした日大闘争はそうした闘争の頂点であった。

[ 東大闘争 ]

東大に限らず、幾つかの大学医学部で、登録医制やインターン制など医学部研究教育の改革問題については紛争が起こっていた。

1968年(昭和43年)1月29日、登録医制に反対する東大医学部自治会と41青医連(66年度卒業の研修医)が無期限ストに突入。

2月19日、上田内科春見医局長に対し、学生や研修生が監禁、暴行。

3月11日、春見事件で、医学部教授会が17名の学生や研究医を大量に処分し、その処分学生の中に当日東京にいなかった者まで人違い処分したことから闘争はさらに激化。

6月15日、処分に抗議する医学部学生数十人が安田講堂を占拠。

6月17日未明、大学側は直ちに機動隊を導入してこれを排除。この事件をきっかけに闘争は全学部に波及。

6月20日、法・理・薬学部を除く7学部が無期限ストに突入して、安田講堂前で1万人の学生の参加による集会を開催。

6月21日、大河内一男総長が大衆団交を拒否。

6月28日、大河内総長と学生代表との「総長会見」を安田講堂で行ったが、「大衆団交」を求める学生側と話し合いがつかず、ついに大河内総長がドクター・ストップによって学生のヤジの中に退陣、物別れに終わる。

7月2日、安田講堂を再び占拠。

7月5日、講堂内集会において全学共闘会議(代表・山本義隆)が結成され、医学部不当処分撤回や機動隊導入自己批判など7項目を要求することで闘うことを明らかにする。

山本義隆・・・1941年、大阪府生まれ。東京大学理学部物理学科卒業。東京大学大学院博士課程中退。現在、学校法人駿台予備学校勤務。主な著書・・・『知性の叛乱 東大解体まで』(前衛社/1969)/『重力と力学的世界』(現代数学社)/『古典力学の形成』(日本評論社)/『解析力学』(共著、朝倉書店)/『磁力と重力の発見』(みすず書房)/『一六世紀文化革命』(みすず書房)/ 訳書に、カッシーラー『アインシュタインの相対性理論』(河出書房新社)/ カッシーラー『実体概念と関数概念』(みすず書房)/ ボーア『因果性と相補性』(岩波書店)/ ボーア『量子力学の誕生』(岩波書店)などがある。

同日、教養学部も無期限スト突入。

7月23日、全共闘を支援する全学助手共闘会議も結成。

10月12日、全共闘側が全学無期限ストに突入。

11月1日、大河内総長、全学部長、評議員が紛争の責任をとって辞任。加藤一郎法学部教授を総長代行とする新執行部が発足。

11月4日、林健太郎文学部長らが文学部学生との団交でそのまま自由を奪われ、1週間にわたって監禁状態が続く。

11月12日、綜合図書館前で全共闘と民青学生の衝突事件発生。

11月22日、東大安田講堂前で、「東大・日大闘争勝利全国学生総決起大会」を開催。

12月29日、加藤代行が坂田文相と会い、翌年の東大入試の中止を決定されたが、1月15日までに事態収拾の場合は再協議という条件が付される。

1969年(昭和44年)1月18日、大学側は機動隊8500人を構内に導入し、封鎖中の校舎を次々と解体し、安田講堂の解体を図った。機動隊による放水や催涙ガスなどに対して、学生約500人が安田講堂に立て篭もって、火炎ビンや投石などで激しく抵抗、翌19日の夜まで35時間にわたって激しい攻防戦が繰り広げられた。これで、300人以上が逮捕され、重傷者76人を含む多数の負傷者を出した。

2009年(平成21年)1月14日19時58分〜21時54分、日本テレビ系列で「日本史サスペンス劇場」枠で『特別版 東大落城 〜安田講堂36時間の攻防戦・・・40年目の真実〜』と題して放送された。

[ 日大闘争 ]

1968年(昭和43年)1月の日本大学理工学部教授の裏口不正入学あっせん謝礼にからむ脱税事件と、5月に東京国税局の調査によって明らかになった22億円の使途不明金問題を発端として日本大学学生が爆発した。この使途不明金は、研究費、研修費などの名目で教職員に支給されたヤミ給与が大部分であったが、組合対策費や政治家などへの対外渉外費といったものもかなり含まれていた。

この国税局の脱税調査のさ中の3月に、経済学部会計課長の富沢広の失跡や理工学部会計課徴収主任の渡辺はる子の自殺という事件が起きている。利潤優先のマスプロ教育と学生の自治活動などに関しての時代錯誤的な管理体制に対する学生たちの長い間の不満があった。日本最大のマンモス大学において、膨大な学生数に比べて教授陣容や教育施設の貧弱さ。学生の集会は禁止され、ビラや掲示なども全て許可制で、自治会活動に関しては大学側と癒着した右翼・体育会系学生の暴力的圧殺があった。

5月20日ごろから、各学部で学科やサークル単位で開かれ始めた学生たちの会合が次第に学部単位の抗議集会へと高まりを見せていった。

5月23日、神田三崎町の経済学部1号館前に集まった約2000人の日大生による初めてのデモを行なったが、のちに学生たちはこのデモを偉大なる200メートルデモ≠ニ呼んだ。これに対し、いち早く校舎をロックアウトし、体育会系学生による集会妨害を図る大学側に反発する学生の数が増え続けた。

5月25日、約5000人が集まって神田三崎町の白山通りが学生デモで埋め尽くされる。

5月27日、経済・文理・法・芸術・商・農・理工・歯学の各学部の学生有志による全学総決起集会が開かれ、(1)全理事総退陣、(2)経理の全面公開、(3)集会の自由の承認、(4)不当処分の白紙撤回、(5)検閲制度撤廃の5つのスローガンが採択され、日大全共闘が結成される。議長は秋田明大(あけひろ/「めいだい」と呼ばれていた)。

秋田明大・・・1947年、広島県生まれ。1965年、日本大学経済学部入学。日大闘争ではアジ(agitation/扇動、大衆の不満をあおりたてて闘争に導くこと)を得意とはしなかったが、「大衆」「自己主張」「自己否定」「自然発生」「大学解体」などの言葉を好んで使い、茫洋とした包容力で全国的に名を高めた。現在、故郷の広島県呉市で自動車修理工場を営んでいる。運動にはニ度と関わらないような言動もあったが、2007年に国民投票法に反対する運動や憲法9条擁護運動への賛同人として再び表に出るようになった。主な著書・・・『獄中記 異常の日常化の中で』(全共社 ウニタ書舗/1969) / 『大学占拠の思想』(三一新書/1969)

6月11日、経済学部で開かれた学生集会に、大学側が雇った右翼などが乱入し、200人以上の学生が負傷した。これにより、学生は全学無期ストに突入、バリケードを築いて校舎を占拠。

9月30日、大学側はついに大衆団交に応じ、両国講堂において3万5000人の学生と古田重ニ良(じゅうじろう)会頭以下全理事が出席して、翌日午前3時まで約12時間続けられたが、大学側が全面屈服し、経理の全面公開や検閲制度の廃止、全理事の即時退陣などの確認書に署名。

10月1日、佐藤栄作首相が閣僚懇談会で、「この大衆団交は集団暴力であり、許せない」と発言したことを受けて、大学側は確認書を白紙撤回し、全理事もそのまま居座る。

10月5日、全共闘議長の秋田明大など8人に公安条例違反、公務執行妨害の疑いで逮捕状が出される。

11月22日、東大安田講堂前で、「東大・日大闘争勝利全国学生総決起大会」を開催。

それ以降、大学側は機動隊の導入により各学部のバリケードを解体。

翌1969年(昭和44年)3月12日、秋田議長が潜伏先の渋谷で逮捕される。

東大、日大闘争の終焉後、学生たちの間ではシラケが進行していったが、一部のセクトは、急速に過激化、武装化への飛躍を見せるようになった。そのひとつが赤軍派である。「よど号」ハイジャック事件 / 連合赤軍あさま山荘事件 / 日本赤軍と東アジア反日武装戦線 / 日本赤軍テルアビブ空港事件

参考文献など・・・
『新左翼二十年史』(新泉社/高沢皓司・高木正幸・蔵田計成/1981)
『ドキュメント 連合赤軍 「あさま山荘」事件 「東大安田講堂」から「集団リンチ事件」までの1200日』(VHS/文藝春秋/解説・佐々淳行/1997)

『1968年には何があったのか 東大闘争私史』(批評社/唐木田健一/2004)

『美と共同体と東大闘争 【討論】三島由紀夫VS東大全共闘』(角川文庫/三島由紀夫&東大全共闘/2000)

『果てしなき進撃 東大闘争反撃宣言 (SANICHI REVIVAL SERIES)』(三一書房/東大全学共闘会議/1991)
『東大闘争から地域医療へ 志の持続を求めて (医療・福祉シリーズ)』(勁草書房/三浦聡雄&増子忠道/1995)

『東大落城 安田講堂攻防七十二時間』(文芸春秋/佐々淳行/1993)

『バリケードを吹きぬけた風 日大全共闘芸闘委の軌跡』(朝日新聞社/橋本克彦/1986)
『叛逆のバリケード 日大闘争の記録 (SANICHI REVIVAL SERIES) 』(三一書房/日大文闘委書記局[編]/1991)

[ 事件 index / 無限回廊 top page ]