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日本赤軍テルアビブ空港事件

【 赤軍派の登場 】

東大、日大闘争を頂点とした全共闘による大学闘争の敗北により、学生たちの間ではシラケが進行していったが、一部のセクトは、急速に過激化、武装化への飛躍を見せるようになった。そのひとつが赤軍派である。東大闘争と日大闘争

1969年(昭和44年)5月、赤軍派は、トロツキズムを基盤とした共産主義者同盟(第2次ブント)の中の関西を中心とする武闘路線派から生まれた。それまでの大学闘争、街頭闘争の総括を経て、早急に軍隊を組織して、銃や爆弾で武装蜂起する必要があると、結成した。そのときのメンバーは京大、同志社大、立命館大などを中心とする活動家約400人(うち高校生活動家約90人)であった。その後、9月4日、日比谷野音で開かれた全国全共闘結成大会に、初めて公然と姿を現した。

9月21・22日、武器奪取、対権力攻撃として、阿倍野派出所など3ヶ所の交番に火炎ビン攻撃を加えた「大阪戦争」。同月30日、「日大奪還闘争」をスローガンに神田、本郷一帯で同時多発ゲリラ闘争を展開した「東京戦争」は、いずれも失敗に終わる。10・21国際反戦デー闘争(新宿騒擾事件一周年闘争)には、最初の鉄パイプ爆弾を登場させ、新宿駅襲撃、中野坂上ではピース缶爆弾によるパトカー襲撃などを行った。

11月5日、首相官邸や警視庁を襲撃するために、鉄パイプ爆弾による軍事訓練をしようとハイキングを装い、山梨県塩山市の大菩薩(だいぼさつ)峠にある「福ちゃん荘」に集結するが、かねて密かに内偵捜査を進めていた警察により、53人(うち高校生9人)という大量逮捕を出し、大打撃を受けた。

1970年(昭和45年)1月16日、この国内の取り締まり強化により、東京で約800人、2月7日、大阪で約1500人を集めて蜂起集会を開いた。東京の集会では世界革命戦線構築として「国際根拠地建設、70年前段階蜂起貫徹」と銘打った。

3月15日、最高幹部の塩見孝也(たかや)議長(京大)が逮捕される。塩見が所持していた手帳に<H・J>の文字があったが、公安警察はそれが「ハイジャック計画」を意味するとまでは読みとれなかった。

世界革命戦線構築の具現として、3月31日〜4月3日、田宮高麿をリーダーとする9人の赤軍派のメンバーが、日航機「よど号」ハイジャックによる北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)入りを敢行。「よど号」ハイジャック事件

【 日本赤軍の誕生 】

1971年(昭和46年)2月26日、さらに、中近東アラブ・ゲリラ、PLOのアラファト議長やPLOの武装ゲリラ組織「PFLP」(パレスチナ解放人民戦線)との連帯を求めて、奥平剛士(おくだいらつよし/26歳/京大工学部)は旅立った。その2日後の28日、重信房子(明治大/2月2日、同志の奥平剛士と結婚入籍したためパスポートは「奥平房子」となっている)があとを追った。レバノンの首都・ベイルートに着いた2人は、PFLPの庇護と支援を得て海外赤軍派をつくった。

これによる日本赤軍(当初、「アラブ赤軍」「赤軍派アラブ委員会」と称していたが、正式に「日本赤軍」と名乗るのは1974年以降である)の誕生と、赤軍派の新たな闘いへの転機ともなった。

2人は、早速、活動を開始し、重信は対外的な公然活動、奥平は革命戦士になるため、バールベックにある軍事訓練所に入った。

10月、安田安之(24歳/京大工学部)の他、山田修、檜森孝雄がベイルート入りし奥平たちと合流した。

1972年(昭和47年)2月、山田修が水中訓練中に事故死し、奥平は、かねてから連絡を取っていた岡本公三(こうぞう/24歳/鹿児島大農学部4年生/「よど号」ハイジャック事件の9人のメンバーのうちの1人である岡本武の弟)を帰国する檜森孝雄を使って呼び寄せることにした。

2月29日、岡本は大学に休学届けを出し、下宿を引き払って日本を旅立った。ベイルートに着いた岡本は、訓練場のあるレバノンのバールベックに行き、奥平や安田と共に、自動小銃による射撃訓練を中心に手榴弾の投げ方などの訓練も行った。

ある日、バールベックの山に登ったとき、奥平が言った。

「死ぬ気で革命をやってもなかなか達成が困難なのに、死ぬ気がない奴が革命をやろうとしたってダメなはずだぜ。3人で華々しく死んで、オリオンの星になろうじゃないか」

奥平の言葉に岡本も安田も深くうなずいたのであった。

その後、丸岡修(当時22歳/会社員)が参加し、アラブ赤軍のコマンドは4人となった。

1972年2月19日〜28日、連合赤軍によるあさま山荘銃撃戦。連合赤軍あさま山荘事件

5月8日、アラブ・ゲリラは、サベナ航空機をハイジャックし、イスラエルのテルアビブのロッド空港(現・ベングリオン空港/日本赤軍側は、「リッダ空港」と呼んでいる)に着陸させ、逮捕されている多数の同志の釈放をイスラエルに要求した。イスラエル側は強行手段に出て、ゲリラを射殺した。

この事件の報復のために、PFLPは、ロッド空港奇襲作戦を計画した。だが、どのようにして、厳重な警戒網を突破するかが問題だった。PFLPは、アラブ人だとチェックが厳しいが、日本人なら空港内に入るのは難しくないはずだと思いついた。そこで、奥平に協力を依頼してきた。

奥平は、すでに、あさま山荘の敗北、続いて発覚した大量リンチ殺人事件を知っていた。国内の同志のぶざまな行動に、憤りと悲しみと恥ずかしさで、じっとしていられない思いだった。奥平は、安田、岡本と相談し、PFLPの要請に応じることで、真の世界革命戦士のあるべき姿を見せ、理想に殉じようと決心した。

【 テルアビブ空港襲撃 】

ロッド空港は、周囲をアラブ諸国に封鎖されているイスラエル唯一の玄関口である。ここに、発着する飛行機は、アラブ諸国が領空通過を認めないため、つねに地中海の上に出る。西行きの便は、イランの首都・テヘランを発ったあと、トルコ領空に入り、いったん地中海の上空に出たあと、西からテルアビブに接近する。

奥平と岡本と安田の3人は、イタリアの首都・ローマ発の東行きの便という逆の路線だったから地中海上の最短距離を飛び、約3時間でテルアビブに着くことができた。

5月30日午後10時過ぎ、彼らを乗せたエール・フランスの132便がロッド空港に着陸。タラップを下り、ターミナル・ビルに向かう。

彼らはビルに着いて、予防注射証明書(イエローカード)を示し、出入国手続きのカウンターに出て、イスラエル入国の証印をもらい、一般の旅行客の中に目立たないようにまぎれ込んだ。

やがて、3人は何事もなく、広々として明るい通関ホールに出た。すでに、見取り図でよく検討しており、どこからカラシニコフ自動小銃を発射し、どの方向へ手榴弾を投げるかも決められていた。ホールに出ると3人は洗面所に入った。

そこで、まずパスポートを破り捨てた。奥平剛士は「スギサキ・ジロー」、岡本公三は「ナンバ・ダイスケ」、安田安之は「トリオ・ケン」と名乗っていた。にせパスポートを破ってから殺戮作戦に入るのだが、作戦終了と共に、顔の識別が不可能になるような状態で自爆するように指示されていた。そして、PFLPは作戦終了直後に宣言を出し、テルアビブの国際空港は、3人のアラブ人、バッサム、アハマッド、サレフによって襲撃されたと発表する予定であった。

岡本公三は「ナンバ・ダイスケ」という偽名を使ったが、「難波大助」は実在した人物で裕仁皇太子(のちの昭和天皇)暗殺未遂事件(虎ノ門事件)で現行犯逮捕された共産主義テロリストであった。

[ 虎ノ門事件 ] 1923年(大正12年)12月27日午前11時少し前、当時日比谷公園の角にあった帝国議会へ開院式に臨席のため摂政宮(当時、皇太子であった昭和天皇・裕仁)がお召車で虎の門を通過するとき、難波大助(当時26歳)が群集の中からステッキを手に現れた。ステッキの先端を外すとピストルが現れ、車の中の皇太子に発砲した。銃弾はわずかに皇太子の顔をそれたが、難波はその場で現行犯逮捕され皇太子の車はそのまま走り去った。難波大助は山口県の名家の生まれで少年の頃は皇室中心主義者であり、軍隊への入隊を希望していた。だが、19歳の頃、カール・マルクスなど外国の急進的思想を学び始めた。1919年(大正8年)には普通選挙運動に加わった活動家だった。1921年(大正10年)、日本の代表的マルキストでマルクス思想の権威である河上肇の記事を読み、献身的な共産主義者の自己犠牲のみが革命を起こすと信じ込んだ。1923年(大正12年)関東大震災で大被害を被り、以前から反動が強まっていた朝鮮人や無政府主義者のせいにされた。左翼仲間や朝鮮人のリンチがあり、難波は皇太子を暗殺して仕返しをしてやろうと考えた。逮捕された難波は精神異常であったと発表されたが、こうしたウソの文書を公表させることによって動揺した民衆を落ち着かせた。裁判は非公開で行なわれ、1924年(大正13年)11月13日、死刑の判決が下され、2日後に処刑された。1921年(大正10年)から1940年(昭和15年)の間、日本では暗殺が多発したが、左翼による暗殺はこの事件だけだと言われている。この事件で左翼への弾圧が強まり、1925年(大正14年)に共産主義者と疑わしい者を検挙し、裁判をせずに拘束することを官憲に認める治安維持法が成立した。

午後10時半ごろ、通関ホールに戻ると、ベルトコンベアの上に乗っている手荷物を急いで拾い上げた。鞄を開くとクラシンコフ自動小銃、予備弾倉、手榴弾を取り出して、直ちに襲撃行動を開始した。

ブルルルル・・・・・・という音がして、誰かが悲鳴をあげた。遠く離れた人たちは、電気がショートしたのかと思って天井を見上げた。しかし、一瞬のうちに事態をさとり、恐怖におののいた。「伏せろ!」という声がおこって、誰もが伏せた。柱の陰に逃げ込む人々もいる。

たちまちにして一面が血の海になった。形容もできない悲鳴が聞こえ、傷ついた人々が必死になって逃れようとしたり、子供や母をかばおうとした。岡本は、銃を手にして、ターミナル・ビルの近くに停まっていたイスラエル航空機の方に走り、自動小銃で、イスラエル航空機を狙撃した。

それから機首の周りをぐるりと回って、その横に停まっていたスカンジナビア航空機に向かって手榴弾を2発立て続けに投げた。1発はエンジンの中に投げ、他の1発は車輪のあたりに投げた。スカンジナビア航空機の周囲にいた人々は驚いて一斉に逃げ出した。

岡本は、手榴弾が不発ではないかと不安になった。彼は機首の横をかすめて尾翼の方へ駆けて行った。すごい爆発音がして、スカンジナビア航空機と一緒に炎に包まれるはずだったが、何も起こらない。

誰かが迫ってくる。岡本はそのまま無我夢中で走った。岡本を追ったのは、イスラエル航空の運航係をしている男だった。この男は、元警官で、コペンハーゲン行きのスカンジナビア航空機の荷物の積込みに立ち会っていたが、いかにも元警官らしい敏捷さですばやく岡本を追った。たちまち岡本は、この男に抱きつかれ、首を絞めつけられた。男は、左腕で岡本の首を絞めつけながら、右手でウォーキートーキーのボタンを押し、救援を求めた。

俺は死ぬチャンスを逃した・・・・・・

岡本はそう思ったとたん著しい疲労に襲われた。岡本を押さえつけている男は岡本に訊いた

“Are you a passenger ?” (お前は旅行客か?)

岡本は “Yes” と答えてぐったりした。

この事件で、奥平と安田の2人を含めて26人が死亡、73人が重軽傷を負った。奥平と安田の死亡には、自爆説とイスラエル側の反撃説の2つの説があり、はっきりしない。

【 その後 】

やがて、国境警備隊、続いて陸軍も到着し、何人もの人々が折り重なるようにして岡本を押さえつけた。そして、引きずり出すと、ターミナル・ビルの外にある警備隊詰所に連れて行った。

日本人ゲリラの他にも潜伏している連中がいるにちがいないというので、ぞくぞく陸軍の兵士たちが空港に集まった。どこかに爆弾が仕掛けられているかも分からなかった。それで、イスラエル国防軍中部軍管区司令官のアルフ・ゼビ少将はイライラしていた。それから、岡本の訊問が始まったが、彼は何を尋ねられても黙っている。

「こいつはオシじゃないのか!」と、ゼビ少将は怒鳴った。

5月31日午前2時ごろ、警官が通訳のできる若い日本人を見つけて連れてきた。その日本人は、ヘブライ大学の研究生としてユダヤ民族史を研究している石田友雄で、その夜、東京からエール・フランス機でやってくる知人を出迎えるためにテルアビブの空港に来た。ところが、空港に着いて車から降りると空港ビルが閉鎖され、兵士たちがたくさん集まっている。「日本人テロリストがエール・フランス機を爆破して、多くの乗客が死んだそうだ」という話を聞き、びっくりしているところに警官が近寄って来て「もしも日本人なら手助けをしてくれないか」という。

ヘブライ大学の石田研究生が訊問室に入ったとき、岡本は紙に日本語で何か書きつけていたが、第2の訊問室に移るとき、奥平と安田の2人の変わり果てた姿を見せられたとたん、大声をあげて泣き出した。第2の訊問室に移っても、なお激しく泣いている。

「一体、どうしたの。何かして欲しいことがあったら言ってみてよ」石田研究生がそう言うと、岡本は「殺してくれ、銃殺してくれ」と、紙に書いたのだった。ゼビ少将がいらだちながら石田を見て、「一体、こいつは何て書いたのか?」と訊く。「よし、そうか。分かった」ゼビ少将は、そう言ってから、自分のピストルを示し、岡本をにらみつけ、「もしも、お前が真実を語るならば、ピストルを貸してやろう。死なせてやる。オーケー? もしも真実を語るならば、希望通りにしてやる」と英語で言った。ところが、このころの岡本の英語力は非常に低く、ひと言ごとに、石田の方を見て翻訳を欲しがる。「何か食べたいか?」「コーヒーを飲むか?」といったことさえも、石田の方を見る。

ゼビ少将は、契約書を作ることに決め、部下にタイプライターを持ってこいと怒鳴った。この契約はのちに軍事法廷において「利益誘導」ではないかと問題になったが、その契約書の内容は次のようなものだった。

(1)これはナンバ・ダイスケとアルフ・ゼビの間の契約である。
(2)ナンバは尋問者の問いに答えて真実を正直に申し述べる。
(3)尋問者は、訊問が終わったときに、ナンバに弾丸を1発だけこめたピストルを与える。
(4)ナンバは他の目的のためにはそのピストルを使用しない。
(5)ナンバの手紙は、東京のイスラエル大使館を通じて家族に手渡される・・・・・・。

この契約書は英語でタイプされ、石田は岡本とゼビ少将の間に入ってこの契約を取り決めるのに苦労した。そのあと、東京から電報が入り、「ナンバ名義のパスポートは偽造」ということが分かった。

「お前は約束通りに協力してないじゃないか!」ゼビ少将は声をふるわせて岡本を責め、「約束は破棄だ! ピストルは渡さん」と叫んで契約書を破り捨てた。

7月13日、イスラエルの軍事法廷の4日目、「今日はしゃべれる」ということを知った岡本は、入廷のときからにこにこし、自分の前のマイクを調整してくれる廷吏に、“Is it OK?” (調子はいかが?)などと大声で訊き、はればれとした顔付きをしていたという。

初めて手錠をはずされた岡本は、腹に力を入れるように大きく息を吸い、立ち上がって胸を張って陳述を始めた。

「これから私が述べることは、私が捕まって以来ずっと考えてきたとこであります。さまざまな憶測が世間では行われていることと思うが、これは私の率直な意見です・・・・・・」

そこまでしゃべったとき、裁判長が「ちょっと待て」と岡本に合図して、通訳の石田研究生に、「そこまで区切って訳してください」と命令した。ずっと最後まで一気にしゃべるつもりでいた岡本は虚をつかれ、陳述が通訳される間、岡本はむっつり黙り込んだ。

「私の職業は赤軍兵士です・・・・・・」

そこでまた通訳が入る。独特のテンポとリズムでわれとわが精神を高揚させながら、一種の酔いの中で、革命理論をぶちまくりたいのに、これではやりにくい。岡本はいらだって怒鳴った。

「ぼくは早くやりたいです。続けたいです」

「どこまでしゃべったか分からなくなる」

しかし、日本人にとっても難解な革命用語が飛び出し、主語が混乱する岡本の陳述を、イスラエル軍人によって構成される法廷で、理解してもらえそうなヘブライ語におきかえることはなかなか難しい。翻訳しても、すぐに理解できず、裁判長が疑問を出し、それに対して石田友雄とウリ・エプスティンの両通訳が協力しながら疑問に答える。岡本はその間、ときには哀願するように、またときには怒り狂ったように通訳にせっつき

“I want to continue” (続けて言わせてほしい)

と英語で叫んで、右のこぶしを振ったりした。

岡本は陳述の中で語る。

「私も日本人である以上は、日本に帰って革命戦争を起こすべきだと考えていた。しかし、世界革命戦争は全世界的に起こされるべきであり、地域的な性格を持つべきではない。どこでも開始されるべきであるけれども、その初期においては、その有効性をめぐって論じなければならないと考えている。特に、日本における浅間の事件以来、われわれは大いに考えた。われわれは、誤りを率直に正さなければならない・・・・・・」

陳述は最後の段階にさしかかった。

「最後に述べておきたいことがひとつだけある」

「われわれ3人は、死んでオリオンの3つ星になろうと考えていた。それは子どものころ、死んだらお星様になるという話を聞いたからである。信じられないまでも、納得する気はあった。外国での習慣は知らないけれど、われわれが殺した人間も、何人かは星になったと思う。革命戦争はこれからも続くし、いろんな星がふえると思う。しかし、死んだあと、同じ天上で輝くと思えば、これも幸福である」

1972年(昭和47年)8月1日、岡本の終身刑が確定した。

その後、獄中で旧約聖書を読みふけっているということが報じられ、また獄中のやせ細った岡本がテレビカメラに映し出されたこともあった。

1985年(昭和60年)、岡本が捕虜交換で日本赤軍に戻る。

1987年(昭和62年)11月21日、成田空港で、日本赤軍の丸山修が逮捕された。

1997年(平成9年)2月中旬、レバノンに身分を偽って潜伏していた岡本の他、日本赤軍のメンバー4人(足立正生、和光晴生、山本萬里子、戸平和夫)が発見され、レバノン当局に身柄を拘束された。5人は、旅券偽造、不法入国などの罪で起訴された。

1998年(平成10年)6月、レバノン破棄院(最高裁に相当)で、上告中の5人に対し、原審を支持する決定を下した。岡本は禁錮3年となった。

2000年(平成12年)3月17日、岡本がレバノンに政治亡命した。レバノン政府は、この5人のメンバーのうち、テルアビブ空港襲撃事件で、一躍アラブの “ヒーロー” となった岡本だけの政治亡命を認めたようである。

3月21日、岡本がレバノンの刑務所を出所した。

3月29日までに、最高裁はハイジャック防止法違反などに問われた丸岡修に対し、1、2審での無期懲役の判決を支持して上告を棄却した。

11月8日、大阪府高槻市に潜伏していた日本赤軍最高指導者の重信房子が逮捕された。

2001年(平成13年)3月5日、重信房子とパレスチナ戦士との間に生まれた娘の重信メイ(戸籍上は「メイ」だが、本当の名前は「命」と書いて「めい」と読む/当時28歳)が日本国籍を取得。

4月14日、重信房子は都内で開かれた支援者集会にメッセージを寄せ、日本赤軍の解散を表明した。

2002年(平成14年)3月30日、東京都千代田区の日比谷公園で日本赤軍でテルアビブ空港襲撃事件の計画段階から関わった檜森孝雄が灯油をかぶって焼身自殺した。54歳だった。

5月4日、3月30日に自殺した檜森が残した手記から、当初はテルアビブ空港の管制塔を襲撃する予定だったことが分かった。

2003年(平成15年)5月6日までに、岡本公三がベイルートで共同通信の記者の取材に応じたことが判明した。休憩を挟みながら約4時間に及んだインタビューの中で、岡本は「武装闘争のためには、人を殺すことも仕方がなかった」と振り返り、「早く日本に帰りたい。イスラエルで刑期を終えたので、日本でまた裁判になるのはおかしい」と述べた。

刑法5条・・・外国で受けた裁判がすでに確定した者であっても、その同じ行為について、さらに処罰してさしつかえない。ただし、犯人が外国で言い渡された刑の全部、または一部の執行をすでに受けてしまったときには、刑の執行を減軽または免除する。

2006年(平成18年)2月23日、東京地裁は重信房子に対し懲役20年(求刑・無期懲役)を言い渡した。村上博信裁判長は「自らの主義、主張や行動の正当性を絶対視し、多数の者の生命を危険にさらすことを意に介しない卑劣で自己中心的な犯行」と指摘。一方で「グループで中核的な立場にあったが、犯行を主導したとまで断ずることはできない」と有期刑とした理由を述べた。

3月6日、重信が東京地裁での判決を不服として控訴。

2010年(平成22年)7月15日、最高裁第2小法廷(竹内行夫裁判長)が重信房子の上告審で被告側の上告を棄却。これで懲役20年とした1、2審判決が確定。

その他の日本赤軍による事件については日本赤軍と東アジア反日武装戦線のページ、参照

事件関係者の著書・・・
『日本赤軍20年の軌跡』(話の特集/日本赤軍/1993)
『わが愛わが革命』(講談社/重信房子/1974)
『十年目の眼差から』(話の特集/重信房子/1983)
『大地に耳をつければ日本の音がする』(ウニタ書舗/重信房子/1984)
『ベイルート1982年夏』(話の特集/重信房子/1984)
『資料・中東レポート 1』(ウニタ書舗/重信房子/1985)
『資料・中東レポート 2』(ウニタ書舗/重信房子/1986)
『日本赤軍私史 パレスチナと共に』(河出書房新社/重信房子/2009)
『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』(幻冬舎/重信房子/2001)

『秘密 パレスチナから桜の国へ母と私の28年』(講談社/重信メイ/2002)
『中東のゲットーから』(ウェイツ/2003)

『天よ、我に仕事を与えよ』(田畑書店/奥平剛士遺稿編集委員会/1978)
『公安警察ナンボのもんじゃ』(新泉社/丸岡修/1990)

参考文献・・・
『新左翼二十年史』(新泉社/高沢皓司・高木正幸・蔵田計成/1981)
『戦後欲望史 転換の七、八〇年代篇』(講談社/赤塚行雄/1985)
『日本の公安警察』(講談社現代新書/青木理/2000)
『死刑』(現代書館/前坂俊之/1991)
『世界暗殺者事典』(原書房/ジョージ・フェザリング/沢田博訳/2003)
『毎日新聞』(2000年11月8日付/2006年2月23日付/2006年3月6日付/2010年7月16日付)
『京都新聞』(2002年5月5日付)
「共同通信」(2003年5月6日付)

参考にしなかったその他の関連書籍・・・
『銃口は死を超えて 岡本公三裁判全記録 テルアビブ空港襲撃事件の全貌』(新人物往来社/単行本/徳岡孝夫/1974)

参考・関連サイト・・・
人民新聞

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