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大久保清連続殺人事件

【 8件の凶行 】

群馬県高崎市の大久保清(当時36歳)は、強姦及び恐喝などの罪により、府中刑務所で約3年と8ヶ月間、懲役刑に服していたが、1971年(昭和46年)3月2日に仮出所し帰宅した。更生を誓い、一から人生をやり直すつもりでいたが、家族の態度がよそよそしく冷たい。大久保の兄は実家に帰っていた大久保の妻に対して「もう、清のところには戻らない方がいい」と言っていた。そのことを知った大久保は兄に対しては殺してやりたいという気持ちが募っていった。

だが、その矛先を変え、訴え出た被害女性の言葉ばかりを信用し、自分の言い分を取り上げなかった警察や検察に向けた。さらには、訴えた被害女性へと向けるが、復讐するのが難しいと判断し、その代わりとして、彼女たちと同じくらいの年齢の女性をできるだけ多く殺害して、思いっきり世間を騒がせてやろうと思うようになった。

仮出所した3月2日から5月14日に逮捕されるまでのわずか70日余りの間に、ベレー帽にルパシカを着て、白い新車のマツダ・ロータリークーペを一日平均約170キロとタクシー並みに走行し、127人の若い女性に対し、自らを画家や美術あるいは英語の教師などと偽り、「絵のモデルになってくれませんか」「モデルになってくれたら5万円差し上げます。私の絵は1枚30万円以上ですので、売れたときには、別途に10万円あげております」などと言葉巧みに誘い、車に連れ込んだ35人の女性のうち十数人とセックスし、その中でも、抵抗したり、警察へ被害届けを出すおそれがあると思った8人を殺害した。

最初の犠牲者を出した3月31日から5月10日に8人目の犠牲者を出すまで、わずか41日間の出来事だった。

しかし、この数字はあくまでも警察当局が確認している件数であり、被害者が届け出を出さずに表に出ていない事件が他にもある可能性があった。

殺害したあとの死体隠しは実に巧妙だった。穴を掘ってその中に死体を全裸、または半裸にして、金属探知機による死体の発見を防ぐため、金属製のものはすべて取り外して入れ、その死体の上に大小さまざまな石を置いて土をかぶせて埋めた。こうすることによって、上から掘ってもスコップが石にあたって死体まで届かないようにした。ある被害者の死体はU字溝の真下に収まるように埋めた。また、死体を遺棄する場所にもこだわり、造成地など工事の作業で土がかぶせられて、死体がより深く埋まるようなところを選んでいた。

「第2の小平事件(小平義雄連続殺人事件)」などと言われ、小平義雄と比較されることが多いが、小平が約1年2ヶ月かけて7人の女性を強姦し殺害しているのに、大久保はわずか41日で8人を強姦し殺害している。また、小平は戦中・戦後に女性を殺害しているが、当時、食糧難だったことを利用して「米を安く売ってくれる農家がある」などと言って誘い出し、山林に連れ込んで強姦し絞殺していた。この点は大久保と同じく、女性の心をうまく捉えていたと言える。

  犯行日
1971年
(昭和46年)
被害者 被害者の職業 被害者の
住所
群馬県
〜回目の
ドライブ
殺害&
死体遺棄場所
群馬県
3月31日 津田美也子(17歳) 高校生 多野郡 榛名湖畔
4月6日 老川美枝子(17歳) ウエイトレス 高崎市 高崎市の
「八幡工業団地」
造成用地
4月17日 井田千恵子(19歳) 県庁臨時職員 前橋市 高崎市の
「八幡工業団地」
造成用地
4月18日 川端成子(17歳) 高校生 伊勢崎市 榛名町の
烏川砂利採取場
4月27日 佐藤明美(16歳) 高校生 前橋市 高崎市の
「八幡工業団地」
造成用地
5月3日 川保和代(18歳) 電電公社
(現・NTT)職員
伊勢崎市 高崎市の
「八幡工業団地」
造成用地
5月9日 竹村礼子(21歳) 会社事務員 藤岡市
(会うのは2回目)
松井田町の桑畑
5月10日 鷹嘴直子(21歳) 家事手伝い 前橋市 下仁田町の畑

[ 1 ] 1971年(昭和46年)3月31日午後6時過ぎ、大久保は自分の車を運転し、群馬県にある国鉄(現・JR/以下同)新町駅前の駐車場に到着。ここで、前にドライブに誘ったことがある女性(当時17歳)と会う予定であったが、この女性が3人の友人を連れて来ていたので口実をもうけて断った。

それから、駅前のバス停で「画家だが、絵のモデルになってくれませんか」などと何人もの女性に声をかけるが失敗。仕方なく駅の待合室に入った。

午後6時40分ころ、6日前の3月25日に高崎駅の待合室で声をかけてドライブしたことのある多野郡の高校3年の津田美也子(17歳)を偶然、見かけたので声をかけた。

美也子は高崎市で高校生の男友達と会って来たばかりだったが、物足りないと思ったのか、大久保の誘いにあっさり応じ、車の助手席に乗った。

前橋市まで車を走らせ、市内の名曲喫茶「田園」で、前に会ったときに美大卒の画家で、「渡辺哉一」、28歳になると自己紹介した大久保は、ゴッホやマチスの話の他に、榛名(はるな)湖畔のアトリエの話をした。

午後8時半ころ、美也子は「ぜひ、アトリエに連れて行ってくれ」と言い出した。大久保はすぐに喫茶店を出て榛名山へ向かった。榛名神社の手前のところで、引き返そうとしたが、どうしてもアトリエに連れて行けと言い張るので、榛名湖畔まで登り、湖畔の売店で金を渡して、コーラ3本とファンタ3本を買わせ、榛名山の林道のゴミ捨て場の広場に車を移動し止めた。

午後9時半ころ、2人でコーラを1本ずつ飲んでから、助手席のリクライニングシートを倒して、関係した。美也子は関係が終わると急に強い態度になり、「アトリエに連れて行ってくれ、免許証を見せてくれ」と迫ってきたので、仕方なく免許証を見せたところ、名前や年齢が嘘で、アトリエのこともデタラメだと分かると、「私は、そんな馬鹿じゃない。騙されたのも悪かったが、あんたはひどい人だ。私の兄は検察官をやっている、一緒に警察へ行ってくれ」と言われたので、警察に行けば、捕まると思い、顔を右手のげんこつで1回殴ったところ、鼻血を出しながら、車から飛び出し「助けて」と逃げるのを、90メートルくらい追いかけて捕まえた。そのとき、美也子は「兄が検察官と言ったのは嘘です、ごめんなさい」と謝ったが、検事という言葉は誰でも使うが、検察官という言葉は若い女性が嘘で言うはずがないと思ったので、殺してしまおうと決意し、みぞおちに3回当て身をくれて、その場にあお向けに倒して馬乗りになり、両手で首を力いっぱい10分ぐらい絞めつけたところ、全身にケイレンを起こし、急に力が抜けるようにぐったりとなって死んでしまった。このとき、大久保は白い靴をはいていたが、その靴が汚れることを嫌って、靴と靴下を脱いで約60センチの穴を掘って死体を埋めた。その後、犯行に及ぶときは長靴を用意するようになった。

[ 2 ] 4月6日午後6時10分ころ、大久保は北高崎駅で、高崎市のウエイトレスの老川美枝子(17歳)に会った。

美枝子にも一度会っており、それは4月の初めの午後6時ころのことで、前橋から高崎に向かう途中、手を上げる女性がいたので、車を止めると「高崎の方へ行くんなら乗せてくれ」と声をかけられ「モテル若原」へ連れ込んで関係した。そのとき、住所は教えなかったが、電話番号を教えておいた女性である。美枝子は「唐沢富子」と名乗り、実際の年齢よりも5つも上の22歳だと言った。

美枝子と会うのが2回目になるこの日、車に乗せ、「モテル若原」へ連れて行き、約2時間ぐらいで出たが、「今度はいつごろ電話くれる」と訊くと、美枝子は急に態度を変え「いつごろかわからない。その前に誰か訪ねて行くよ」と言ったので、驚いて「なんだいそれは?」と訊くと、「私には旦那がいるんだよ」と言うので、「運送屋か?」と訊くと、「警察だよ」と答えた。

午後10時ころ、大久保は頭にきて、高崎市の「八幡工業団地」造成用地内の工事用道路に車を止め、「おまえの旦那は本当に警察か?」と念を押すように訊くと、美枝子は「怖いの?」と人を馬鹿にするような態度を示したので、頭にきて、襟首を片手で持ち、右平手で顔を4回くらい殴りつけたら、「何をするのよ」と開き直ったので、腕を持って引きずり降ろし、いきなりみぞおちに1発当て身をくれ、前かがみになったところを右腕で首を絞めると、ぐったりとなって死んだ。死体はそのまま、新設道路の側溝工事のために掘ってあった穴の中に投げ込んだ。

4月11日午後4時30分ころ、群馬県富岡市で路上を歩いていたA子(当時19歳)に「あなたと交際したいので、ちょっとでいいから車に乗って私の話を聞いてください」と言葉巧みに車の助手席に乗せ、藤岡、高崎、前橋市内などをドライブ。午後8時ごろ、榛名町(現・高崎市)の林道で車を止め、いきなり彼女をあお向けに押し倒して、口をふさぎ、首に手を巻きつけながら「おれは柔道四段だ。いやがると一晩中いじめるぞ」と脅かして乱暴。さらに、安中市の旅館に連れ込んで、いやがる彼女に対し再び乱暴した。

[ 3 ] 4月17日午後6時、大久保は前橋市の県庁臨時職員の井田千恵子(19歳)と前橋市の眼科医院の前で会った。

千恵子とはすでに4回会っていたが、自分のことを美大卒で、「渡辺哉一」と偽名を名乗り、29歳の中学教師と言っていた。

会うのが5回目となるこの日、暗くなってからのドライブで、行き先は軽井沢だった。大久保は車の中では散文詩のことなどを夢中になって話した。

午後8時半に軽井沢に到着。2人は駅の立食いそばを食べたあと、車の中で関係した。ところが、急に、千恵子は大久保の本名を言ったので、大久保は驚いて返事もできなかった。千恵子は大久保が刑務所に入っていたこと、妻子のあること、教員ではないことを近所で調べてしまったと話し、あざ笑うような態度でなじった。

「あなたのこと調べて嘘と分かってがっかりした。これで一緒になるとしたら考えちゃう。奥さんのところには帰らないの?」と言ったりして、大久保の家が近くなると、千恵子は「連れて行ってよ」とも迫った。

午後11時半ころ、仕方なく、家に行くふりをして、高崎市の「八幡工業団地」造成用地内の工事用道路に車を止め、いきなり、千恵子の首を殴りつけると、ドアを開けて車外へ逃げ出したので、追いかけて捕まえ、左手で右肩を押さえ右手の拳でみぞおち付近を殴打。前かがみになったところを突き倒してパンストを脱がせ、タオルを首に巻きつけて絞め殺した。死体は同じように側溝工事のために掘ってあった穴の中に投げ込んだ。

死体を埋める前に、ノートに詩を書きつけてビニールの袋に入れてそれを副葬品とした。

[ 4 ] 4月18日午後1時、大久保は伊勢崎駅で、伊勢崎市の高校生の川端成子(17歳)と会った。

成子とも一度、以前に会っており、それは3日前の15日だったが、伊勢崎市内で「お茶を飲みませんか」と声をかけドライブし、旅館に連れ込んで関係した。いきなりの性交渉に感激した大久保は帰りにパンストを3足買って渡し、家の近くまで送って行った。大久保は成子には、自分のことを太田中学の英語教師、「渡辺哉一」と言っていた。

会うのが2回目となるこの日、車を飛ばして桐生市に行き、喫茶店「牧歌」でコーヒーを飲み、そのあと、軽井沢へドライブすることになった。

車の中で、大久保は西洋や日本の音楽のことや民謡のことなどを話して聞かせた。そのあと、家族のことを訊いたら、成子は「父は派出所に勤務している」と言った。そして、「この前、会って関係したことは、強姦事件になるんだって」と付け加えた。

午後9時半ころ、大久保は頭にきて、「それでは事件にすればいいだろう」と言いながら、榛名町の烏川砂利採取場に停車。「お前、事件にしたいのなら、この前やったパンスト返せよ」と言うと、成子は「返せばいいんでしょ」と言って、パンストを助手席で脱ぐなり、大久保の顔に投げつけた。大久保は我慢できなくなり、顔を平手で殴りつけると、成子が車外に逃げ出したので、約30メートル追跡して、右手の拳でみぞおちを数回殴打。かがみ込んだところを成子が脱いだパンストを首に巻きつけて絞め殺した。死体は川原に約80センチの穴を掘って埋めた。

[ 5 ] 4月27日午後6時45分ころ、大久保は前橋市内で前橋市の高校生の佐藤明美(16歳)に会った。会うのはこの日で3回目であった。

1回目は4月11日ころで、バスを待っていた明美に大久保が「中学の教師です。ときどき会って話す友達になって下さい」と声をかけただけだった。2回目は同月14日ころで、車に乗って安中市の方へドライブし、夕食を食べたあと、モーテルに連れ込んで関係した。このとき、大久保は「これで靴下でも買いな」と言って1000円渡した。

会うのが3回目となったこの日、車に明美を乗せ、「レジャーハウス」というモーテルに入った。そこを出て、前橋の方に車を走らせていたが、そのとき、明美は「こないだの1000円で靴下を3足買ったけど、白、黒、肌色のうち、黒色はすぐ破れた」と言うので「何足あってもよいのだから、これで買いな」と言って1000円札を出したら、「 “でも”、悪いから」と言った。それで、大久保は「デモなんかするなよ、おまわりさんに捕まるから」と言うと、明美は「うちのおとうさんは、デモを取り締る指揮官です」と言った。大久保は頭にカリカリきて殺す気持ちになった。

午後10時ころ、高崎市の「八幡工業団地」造成用地内の工事用道路で停車。大久保は「俺はよう、警察官が大嫌いなんだ。俺も嘘を言ったけど、本当は前科があるんだ。外へ出よう」と荒々しく言って、車外に連れ出して、「ひどい野郎だと思うだろうが、俺はお前を殺すんだ」と脅すと、明美は「私が言ったのは嘘です、いやなことを言ってごめんなさい」と謝ったが、大久保は気持ちが収まらず、右拳でみぞおちを殴打。その場にかがみ込ませた上、背後から首にタオルを巻きつけて、絞め殺した。死体は、新設道路の側溝工事のために掘ってあった穴の中に引きずり込み埋めた。

[ 6 ] 5月3日午後4時過ぎ、大久保は伊勢崎駅で伊勢崎市の電電公社(現・NTT)職員の川保和代(18歳)に会った。会うのはこれで2回目であった。

1回目は桐生市の喫茶店「牧歌」で知り合い、西洋文学や音楽の話をして前橋方面へドライブし、モーテル「山翠」に入って関係した。

会うのが2回目となったこの日、軽井沢方面へドライブに行き、中軽井沢駅前の立ち食いそばを食べ、モーテル「日の出」に入った。

帰り道で和代は「桐生中学に渡辺という先生はいない、遊び半分の交際なのね」と切り出した。さらに、「最近、帰って来たんだってね」と刑務所帰りであることをほじり出した上で、車の中にあった3人目の犠牲者となった井田千恵子の写真を見つけ「この人の家を教えて」と迫るので、詮索されると殺人がバレるので、大久保はこの女も殺してしまおうと思った。

午後10時半ころ、高崎市の「八幡工業団地」造成用地内の工事用道路で停車し、車外に連れ出して、彼女の顔を平手で数回殴打。さらにみぞおちを右手拳で殴って、その場にかがみ込ませ、ビニール紐を首に巻きつけて、絞め殺した。死体は、新設道路の側溝工事のために掘ってあった穴の中に引きずり込み埋めた。

[ 7 ] 5月9日午後5時半ころ、大久保は藤岡市内で、藤岡市の会社事務員の竹村礼子(21歳)に会った。礼子と会うのはこれが2回目だった。大久保は礼子に絵のモデルを頼んでいたが、この日はその打ち合わせということで会った。ドライブするのは今回が初めてだった。

高崎の喫茶店「あすなろ」に入ろうとして、駐車する場所を探したが、見つからず、次に前橋の喫茶店「田園」に入ろうとしたが、ここでも、駐車する場所がなく、午後7時ころ、伊勢崎の喫茶店「小さな恋人」に入って、大久保は絵や登山、スポーツ、音楽のことを話しして聞かせたあと、そこを出て「ちょっと、ドライブしよう」と言って、車を走らせ、午後10時ころ、碓氷郡松井田町(現・安中市)の桑園内の農道で停車した。

車内で礼子の肩に手をかけてキスしようとしたところ、礼子はこれを拒否して、大久保の顔面を平手で1回殴り、「私の父は刑事だから変なことをすると言いつけるよ」などと叫んで車外へ飛び出した。約2、30メートル追跡して捕まえ、抵抗する礼子のみぞおちを右手拳で数回殴打し、自動車付近まで引きずり戻して乱暴。さらに礼子が悲鳴をあげるなどして騒いだため、礼子の下着を首に巻きつけ、絞め殺した。死体は農道付近の桑園を掘って埋めた。

[ 8 ] 5月10日午後6時50分ころ、大久保は前橋市の刀根橋付近で、前橋市の家事手伝いの鷹嘴直子(21歳)に会った。直子とデートするのがこの日で7回目であった。

「鷹嘴」は「たかのはし」あるいは「たかはし」と読むのが一般的な読み方のようだが、この事件で犠牲者となった「鷹嘴」はどのように読むのか不明。

車に乗せ、安中市の方へ車を走らせた。直子は「ハイライト」の煙を大久保の頬に吹きつけながら、「最近、刑務所から出て来たんだって?」とからかったので、かっとなって殴りつけ、妙義山の方へ向かい、途中の山林に入って車を止め、リクライニングシートを倒して仲直りのつもりで素っ裸にして抱いた。

直子は終わると、また、タバコをふかし、前科の話を始めた。直子を全裸にしたまま、フルスピードで妙義山の杉の木峠を越えた。

午後9時半ころ、碓氷郡下仁田町の空き地で停車。直子は落ち着きはらって、「この車に乗るのを見た人がいるわよ」と言った。大久保は脅されたと感じて、怒鳴り散らした。車内でいきなり、直子のみぞおちを右手拳で数回殴り、動けなくなったところをパンストで首を締め殺した。死体は空き地のわきの畑を掘って埋めた。

大久保と殺害の犠牲者となった8人の女性との間で交わされた会話は大久保の供述に基づいている。その供述によると、車に連れ込んだ女性が35人で、そのうちの十数人とセックスをし、このうち8人を殺害しているが、その8人のうち、5人の身内に警察官や検察官がおり、他の2人が大久保が「刑務所帰り」であることを予め知っていたことになる。このことについて1996年8月2日、テレビ朝日系列の『驚きももの木20世紀』という番組で「大久保清事件の謎」と題し放送された内容によると、犠牲者の身内に警察官や検察官がいたのは実際には3人(詳細不明)だったとしている。大久保が供述した人数と一致しないのは大久保が部分的にウソの供述をしている可能性もあるが、一部の犠牲者が身内に警察官や検察官がいないにもかかわらず、大久保に対し、自分の身を守るために、身内に警察官や検察官がいるとウソをついた可能性もある。もし、そのことで犠牲になった者がいたとすれば逆効果ということになる。

【 本人歴 】

1935年(昭和10年)1月17日、大久保清は、群馬県高崎市八幡村で、8人兄弟の三男として生まれた。祖父は小学校の用務員、父親の市次郎は国鉄(現・JR)の機関士だった。母方の祖母は中仙道の宿場町にあった安中の芸者でロシア人。大久保はロシア人の血が4分の1流れているクォーターということになる。母親のシンは10歳のとき、大久保家の養女となり、20歳の市次郎を婿養子に迎えている。

父親の市次郎は女癖が悪く、結婚後も近所の娘に手をつけたことが何回かあった。母親のシンは市次郎の浮気に気づいており、大きな腹をしたそば屋の女中が訪ねて来たことがあったが、追い返している。そんな市次郎を嘆いて自殺を意図したこともあった。

大久保の両親は3男5女をもうけたが、長男は生後まもなく死んでしまう。残された男の子2人のうち、両親は無口で無愛想な次男を極端に嫌い、口先達者な清を溺愛して「ぼくちゃん」と呼んで、わがままいっぱいに育てた。清は36歳のとき逮捕されているが、その頃になっても「ぼくちゃん」と呼ばれていた。

1941年(昭和16年)4月、地元の八幡村民国民小学校に入学。この年の12月8日、日本軍はハワイの真珠湾奇襲攻撃をしかけ、太平洋戦争に突入する。それまで、「外国人の子どもみたい」と可愛がられていた大久保は「敵国人とのアイノコだ」などといじめられるようになる。

大久保の小学校の担任教師による記録には<小学1年・・・学習に意欲がなく教科書などをよく忘れる。元気よく饒舌。どちらかと言えば、はしゃぎやのほうなり、学校にてほめられることは帰宅して語れど、悪しきことは不語。><小学3年・・・成績中の下である。これは学習中きちんとしているが、少しも意気を入れていないためである。言語明確にして、きちんとしているも、時々物を忘れる癖あり、宿題などはいつもやってこない。><小学6年・・・学習欲なく常に落ち着きなし、考えようともしない点多し。学業を嫌い、ほとんど考えようとしない、ときどき、大それたことをする早熟なり。>といった記述がある。

1945年(昭和20年)、小学5年に進級した年、群馬県もB29の空襲を受けるが、八幡の家は被害を免れ、大久保は特に、衣食については不自由はしていない。8月15日終戦。次兄は朝鮮に出征していたが、11月に復員。その間、彼の妻を手込めにしていた市次郎が原因で次兄の夫婦仲が悪くなり、妻の友人と浮気するようになる。これが原因で離婚。翌年、次兄は妻の友人と再婚した。

1946年(昭和21年)、小学6年生のとき、幼女を麦畑に連れ込んで、下半身をむき出しにし性器に石を詰め込むといういたずら事件を起こしている。被害者の親がこのことを抗議すると、シンは謝罪せず「ぼくちゃんがそんなことをするはずがない。その時間にぼくちゃんは家で一緒だった」と答えた。しかし、幼女は「ぼくちゃんにやられた」と言うと、今度は「子供のお医者さんごっこよ。目くじらたてるな」と、大久保をかばったという。

1947年(昭和22年)4月、八幡中学校に入学。大久保の中学卒業時の行動特徴記録がある。<社会性・・・口先がうまく、下級生をだます能力に優れ、級友に信用はない><情緒安定度・・・不安定で常軌を逸することあり><責任ある態度・・・実行が信用できないことが多い>

1949年(昭和24年)、中学3年のこの年、国鉄(現・JR)はGHQの指示により経営合理化のためと称して、人員整理を実行。父と次兄が解雇される。その後、農業をやりながら生活するためにヤミ屋を始めた。

1950年(昭和25年)、中学を卒業、高校へ進学せず、農作業を手伝う。市次郎は今度は再婚したばかりの次兄の妻を手込めにしてしまう。このことが原因で次兄夫婦は別居した。

1952年(昭和27年)4月、県立高崎商業高校定時制の分校に入学するが、出席が少なく授業料も未納のままだったので6ヶ月後に除籍される。その後、東京都板橋区の電気店に住み込みで働くが、近所の銭湯の女風呂をのぞいていたところを現行犯で捕まり店を解雇された。

11月、大久保は結婚した姉に引き取られることになり、姉の嫁ぎ先である横浜にある電気商会のラジオ修理店員として就職した。

1953年(昭和28年)4月、再び、実家に戻ってきた大久保は自宅で「清光電器商会」というラジオ修理販売店を開業するが、客とのトラブルから店の評判が落ち、売上げが落ちていった。そこで、同業者から部品を8回に渡り万引きするが、市次郎が損害をすべて弁償したことによって示談となり大久保は不起訴処分になっている。公式の犯罪記録はこれが最初となる。

1955年(昭和29年)7月12日、20歳のとき、最初の強姦事件を起こす。午後6時半ころ、大学の角帽に解禁シャツ、黒ズボンという格好で大学生になりすまし、伊勢崎市に住むA子(当時17歳)に丁寧な言葉使いで声をかけ、音楽や映画、登山の話を一方的にしゃべり続けると、A子はその話題の豊富さに共鳴して、前橋公園に誘われ、ベンチで雑談をしていたが、突然、A子をベンチの上に押し倒して、その上に乗りかかり、抵抗するA子の顔面を殴り、毛髪をつかんで首を押さえつけて強姦した。

大久保はすぐに逮捕されたが、初犯ということで懲役1年6ヶ月・執行猶予3年の判決を受ける。このとき、大久保が一方的に悪いにもかかわらず、シンは「・・・・・女は魔物と言うからの。女に経験のない若いぼくちゃんがだまされるんも、無理はないて。これからはせいぜい気をつけるこったや」と言って励ましている。

この頃から、大久保は数百CCのバイク「陸王」を乗り回すようになる。当時はまだ、マイカー時代ではなく、バイクが流行していた。

12月26日、7月12日に起こした強姦事件の判決が下りてから、わずか1ヶ月ほどで再び事件を起こす。午後2時45分ころ、前橋市内のバス停にいたB子(当時17歳)に「送ってやる」と言ってバイクに乗せて市内の松林内に連れ込み、B子の顔面を殴り、馬乗りになって姦淫しようとしたが、B子が必死で抵抗したため、目的が遂げられずに終わっている。このときの判決は懲役2年で、執行猶予中の刑期が加算され、3年6ヶ月の懲役刑となる。

1957年(昭和32年)2月、長野県の松本刑務所に入所。

大久保はここでの陳述では、高崎工業高校卒と言い、市次郎は問い合わせに対して、清は群馬大学を卒業し、工学部の研究生をしていたと言い、シンは夜学に3年間通っていたと回答している。

1959年(昭和34年)12月15日、模範囚となった大久保は刑期を6ヶ月残して刑務所を出所した。

1960年(昭和35年)1月19日、日米間で新安保条約が調印され、各地で民主主義の危機が叫ばれる中、戦後最大の大衆政治運動が盛り上がっていく。6月15日、全学連主流派が国会構内へ突入し、混乱の中で、東大生の樺(かんば)美智子(22歳)が死亡する事件が起きている。

4月16日午後1時ころ、大久保はジャンパーに編上げ靴、ポケットに鉢巻き用の手拭いと軍手という格好で全学連の活動家になりすまし、高崎市の喫茶店で前橋市の女子大生C子(当時20歳)に声をかけ議論を始めた。そのあと、C子を自宅に誘い、議論の続きを始めるが、話の途中で、突然、C子に飛びかかり押し倒したが、大きな悲鳴をあげて暴れたため大久保の両親が駆けつけ、難を逃れている。結局、両親が示談に持ち込んだため、C子は告訴を取り下げ、大久保は不起訴処分となった。

1961年(昭和36年)3月1日、26歳のとき、のちに妻となる渋川市の学生の柴田浩子(仮名/当時20歳)と知り合う。本が好きな彼女は毎日のように本屋に通っていた。そのとき、大久保がお茶に誘っているが、浩子は男性と交際したことがなかったため、そのときは断っている。

3月19日、再び、大久保は浩子を誘い、喫茶店に入った。そこで、大久保は浩子に結婚を前提とした交際を申し込んだ。浩子はこれを承諾したが、外で会うことを嫌っていたので、いつも大久保に実家に来てもらっていた。その後、大久保は週3回のペースで浩子の実家を訪ねるようになる。外で会うときは彼女の友人が同席する習慣だった。

大久保は自分の名前を「佐藤清司」と偽り、専修大学の4年生ということにしていた。共通の話題は詩や山の話だったという。また、結婚するまでの約1年間の交際期間中は肉体関係どころか、手を握ることすらなかったらしい。前科のあることなどを話すこともはなかった。

その後、浩子は「佐藤」という名前に疑問を抱き、そのことについて問い質すと、大久保はその場の思い付きで、理由を捏造して「大久保清」に変わると言った。

1962年(昭和37年)5月5日、27歳のとき、浩子と結婚する。

翌1963年(昭和38年)、長男誕生。

この年、谷川伊風というペンネームで詩集『頌歌』を自費出版している。ここには、22篇の詩が収められている。次の詩はその中の一篇。

もっと燃えていた

赤い太陽はあの古い国をも照らしている、彼は

メランコリックなソリに乗って走っていた。

永遠の旅に・・・・・・

自然は暗い道をあたえ、燃えていた心も闇とな

って・・・・・・

変死の者と同乗りした。

彼女にベーゼを求めた時、彼女は彼をボイコッ

トして総てを閉じた。

孤独な漂白の旅であれ、自己のライフ・ワーク

を求めて、永遠の旅を続けます。

君が山を愛する様に、私は歩みはじめた。

わが道! をひたすら歩いて行きます。

短い束の間の夢のような二人の邂逅でしたね。

惜しいけれど想い出はそっと過去の小箱に収め

ましょう。

愛しの君よ・・・・・・さようなら。

< 『連続殺人事件』(同朋舎出版/池上正樹/1996) >

1964年(昭和39年)、29歳のとき、自宅を改装して牛乳販売店を開業する。この頃から大久保は「共産党の仕事がある」「成田闘争へ行く」などと言って左翼を気取って、浮気をするようになり、夫婦の間で喧嘩が多くなっていった。

1965年(昭和40年)4月、2人目の子供、長女誕生。

6月3日、大久保は自分が配達した牛乳の空き瓶2本を盗もうとした少年を発見。少年の兄である牛乳販売業者の自宅に押しかけ脅迫して2万円を取り、さらに7万3000円の示談書を書かせるなどの脅迫をしたため、被害者が警察に届けて未遂に終わっている。大久保は恐喝及び恐喝未遂罪で、懲役1年・執行猶予3年となった。

この裁判で、妻の浩子が大久保に前科があったことを初めて知ることとなる。また、被害者が同業者だったこともあって、いいように言いふらされ、それが原因で売上げが激減し、大久保は仕事に対しやる気を失ってしまった。

その後、新車のいすず・ベレットを購入。車内にベレー帽、原稿用紙、詩集などを置いて、作家スタイルで再び、強姦事件を起こすようになる。

1966年(昭和41年)12月23日午後5時40分ころ、31歳のとき、安中市で高崎市の女子高生のD子(当時16歳)に「送ってやる」と言って車に乗せ、烏川堤防に連れて行き、車内で体を押さえながら強姦した。

1967年(昭和42年)2月24日午後8時ころ、32歳のとき、高崎市内のバス停で、以前から顔見知りの前橋市に住む女子短大生のE子(当時20歳)に「送ってやる」と車に乗せ、高崎市内の烏川河原に連れて行き、車内で首を締めつけた上で強姦した。大久保はE子と顔見知りだったことから足がつき逮捕されている。これにより、懲役3年6ヶ月の判決が下る。恐喝事件の執行猶予が取り消され、合わせて4年6ヶ月の懲役刑となった。7月7日、府中刑務所に入所した。

1971年(昭和46年)3月2日、府中刑務所を仮出所。大久保は36歳になっていた。

3月5日、更生するため、室内装飾品の販売を始めたいからと両親からお金を出してもらって、新車のマツダ・ロータリークーペを購入した。普通の客はサービスとしてシートカバーやフォグランプを要求するが、大久保は「そんなものは要らないからスペアタイヤ3本つけてくれ」と言い、車と一緒にガソリンをドラム缶で買った。さらに、画家や高校の教師を装うための小道具として、車の助手席には埴谷雄高の著書『死霊』、横文字が目立つ電気工学関係の専門書、絵筆などをさりげなく置いた。

その後、3月31日から5月10日までの41日間に8人もの女性を強姦しては殺害するという連続殺人事件を起こすことになる。

【 逮捕 】

1971年(昭和46年)5月10日午前1時半ころ、藤岡市の竹村製作所の社長である竹村光雄(仮名/当時36歳)は、藤岡警察署に電話して「私の妹で、21歳になる竹村礼子が夕方6時ごろ出かけたまま、この時間になっても帰らないのですが、市内のどこかで、女の子が被害にあった交通事故はなかったでしょうか」と問い合わせた。当直員は「そのような事故は発生していません」とだけ答えた。光雄は礼子が出かけたときの服装を伝え、捜してもらうようにお願いして電話を切った。

当直員は単なる家出人の届け出と判断して、管内の派出所勤務員に手配し、パトカーで管内警らを実施し、2時間捜索した。

礼子は前日の9日午後5時ころ、「学校の先生らしい人から絵のモデルになってくれと言われ、その打ち合わせのために出かける」と言って、自転車で家を出たまま帰宅していなかった。

光雄は藤岡市内で一睡もせず必死になって捜索を続けていたが、10日午前6時半ころ、市内宮元町の多野信用金庫の駐車場の隅に礼子が乗っていたはずの自転車が放置されているのを発見した。光雄は不審に思って、しばらく見張っていたところ、午前9時半ころ、マツダの車を運転してきた男が両手に軍手をはめて、自転車に近寄り指紋を消すような動作を始めた。男は大久保清だった。

怪しいと思った光雄は「失礼ですが、この自転車はあなたのですか」と声をかけた。大久保は光雄のジャンパーに<竹村製作所>とあるのを見て、「待っている人がきたから」と誰もきていないのに意味不明なことを言って慌てて立ち去った。光雄は男の乗ってきた車のナンバー「群55?285」を覚えておいて警察に通報した。

午前10時20分、県警交通指導課にナンバーを照会して、「群55な285」のマツダのロータリークーペの所有者が大久保清であることが確認された。

群馬県警は早速、大久保の自宅に捜査員を派遣したが、大久保の姿はなかった。捜査員は大久保の両親に事情聴取して、9日から10日にかけての大久保の行動について話を聞こうとしたが、両親は本当のことを言わなかった。この頃、大久保の妻の浩子は離婚準備を進めていて渋川市の実家に帰って別居中だったが、警察は事情聴取した。大久保は府中刑務所を出所してから、離婚を思いとどまらせようと11回ほど妻の浩子を訪ねていたが、浩子は大久保が訪ねてきた5月3日を最後に会っておらず、今はどこにいるか分からないと答えた。

第一通報者の竹村光雄は市内で従業員40人の竹村製作所を経営し、電気部品などを製作している。ここの従業員や友人、知人、同業者、礼子の勤め先の関係者などが詰めかけ、民間捜索隊を編成し、車1台に2、3人ずつ分乗して、昼に5台、夜に10台くらいの車で、独自の捜索を行った。大久保の自宅は警察が張り込むことになった。10日午後11時ごろ、民間捜索隊の1台が安中市内で大久保のロータリークーペを発見、約10分間追跡したが、逃げられてしまった。

5月12日、150人が70台の車に分乗し、県内18ヶ所を捜索した。

5月13日午後6時半ころ、民間捜索隊によって、前橋市内で大久保を取り押え、前橋署員に身柄を引き渡した。大久保は前橋署から「竹村礼子失踪事件」を捜査している藤岡署に移された。藤岡署はわいせつ目的誘拐罪で逮捕状を請求した。

5月14日午前2時15分、大久保を逮捕して、身柄を留置した。

恐るべき連続殺人が明るみに出た頃、地元で流行った戯れ歌がある。「大きな袋を肩にかけ・・・・・・」の因幡の白兎の替え歌である。

白いクーペに跨って

大久保来かかると

そこへ群馬の生娘が

パンティとられて丸裸

妙義の山で竿つかい

榛名の湖の湖水で竿洗う

よくぞ教えて下さった。

大久保清は偉い人

< 『殺人百科』(文春文庫/佐木隆三/1981) >

この事件があったあと、群馬県内ではマツダ系の車の売上げが激減、前橋市内のパチンコ店では「モデルにならない?」と女性を誘う男が増えるなどの奇妙な余波が続いたという。

【 その後 】

逮捕された大久保は当初、頑として口を割らなかった。その犯行の一部始終を自供するのは逮捕から80日あとのことだった。

その間、群馬県警の取り調べに対し、「俺は人間じゃない。血も涙もない冷血動物だ」と平然と反抗的な態度を繰り返していたという。

当時の科学捜査研究所長の須藤武雄は大久保が犯行に使った白のクーペの中から電気掃除機で採取した約200本の毛髪、陰毛を鑑識することになった。ただ、これだけでは誰の体毛なのか判別できないので、今度は公開捜査中の家に一軒一軒出向いて本人が使用していたブラシや下着などから体毛の収集を行った。その数、2000本。これらを車から採取した体毛と1本1本を丹念に比較分析した結果、8人の女性の毛髪や陰毛を全て分類した。

車の中から見つかった陰毛の中に「黄菌毛」という毛があった。通常は腋毛に見られるが、まれに陰毛にも見られることがあり、これは放線菌と呼ばれる微生物が毛に寄生して起こる一種の毛の病気で、陰毛における黄菌毛の発生率は0.2〜0.5%という低さだという。検査対象のひとりであった女性の下着からもこれと同じ黄菌毛が見つかった。大久保はこの女性に関して、全然知らないととぼけていたが、陰毛という物的証拠を突きつけられて、殺害事実と死体の埋葬場所を自供した。その供述通り埋葬場所からこの女性の死体が見つかり、この死体の陰毛を調べてみると、わずかだが、黄菌毛の痕跡が確認された。

また、8人目の犠牲者となった鷹嘴直子は、ロングヘアーでパーマをかけていたが、大久保の車のトランクからも、直子の毛髪と思われる髪の毛が見つかった。この毛髪には毛根から1.5〜1.8センチのところに色差があり、つまり、それは毛染めした毛であり、その日にちは同年4月1日前後だと判明した。捜査官が直子が毛染めした市内の美容室をあたってみると、3月31日に直子が毛染めしていたことが判明した。

車の中だけでなく大久保の着衣からも多くの毛が採取されたが、その中にキューティクルがほとんどない5センチほどの毛が1本発見された。調べた結果、それはヘアピースの一部であることが判明した。同年7月25日、公開捜査の対象になっていなかった女性の遺体が発見されたが、この女性がヘアピースを使用していたことが判明した。こうした地道な検査が大久保を自供に追い込む大きな決め手になった。

この事件で8人の遺体を掘り起こさなければならなかった群馬県警は次の年、連合赤軍によるリンチ殺害事件によって、またしても遺体を堀り起こすことになる。群馬県警は “穴掘り県警” と揶揄される。連合赤軍リンチ殺人事件については連合赤軍あさま山荘事件のページにその詳細を書いている。

1972年(昭和47年)4月1日から10月3日まで、大久保の精神鑑定は、東京医科歯科大学の中田修教授によって小田晋(当時、東京医科歯科大学助教授/2013年死去)、福島章(当時、東京医科歯科大学助教授/2022年死去)、稲村博(当時、東京医科歯科大学助手/1996年死去)の3人を助手として半年がかりで行なわれたという。

中田修・・・大正11年、兵庫県淡路島に生れる。昭和20年、東大医学部卒業。東大精神科、東京拘置所、松沢病院、都立梅ヶ丘病院などを経て、昭和34年、東京医科歯科大学犯罪精神医学研究室助教授。昭和40年、同教授。昭和63年、同名誉教授。第15期日本学術会議会員。医博。『日本の精神鑑定』(共著)/ 『犯罪精神医学』 / 『精神鑑定事例集』などの著書がある。

10月、大久保の獄中手記『訣別の章』がロングセラーズ社から出版された。アナーキストの大島英三郎が大久保と交わした手紙や大島を経由して両親に宛てた手紙の他に、ニーチェ、ショウペンハウエルなどを愛読し、大杉栄、金子文子などの無政府主義者たちに感動するといった意味のことが書かれているらしいのだが、下川耿史は著書『殺人評論』の中で、この獄中手記を「難しい言葉を多用して、国家権力への反発を述べているが、言葉が難しい割には浅薄で、他にひどくセンチメンタルな詩を長々と書き連ねており、これが36歳の男が書くものかと思うほどに実に少年っぽい」と批評している。

1973年(昭和48年)2月22日、前橋地裁は大久保に対し死刑を言い渡した。大久保は第1回公判で一連の猟奇的殺人の事実を全て認め、起訴事実に対し控訴しなかったため、死刑が確定した。

1976年(昭和51年)1月22日、東京拘置所で死刑が執行された。刑が確定してからわずか3年後という異例の早さだった。41歳だった。

この日は晴天だったが、東京は氷点下3.9度というこの冬一番の冷え込みを記録した。

死刑に立ち会う検事は、刑が確定した裁判所に対応した検察庁と決められている。大久保の場合、1審確定なので、本来ならば、前橋地検検事が立ち会うはずであったが、当時の法務省側は、なぜか “死刑嘱託” という、異例の処置を取った。こうしたいきさつから大久保の死刑執行には東京地検から検事が出向いてきた。

東京拘置所では死刑執行の言い渡しは前日という慣習が長かった。だから、この日、大久保は特別警備隊が自分の房の前で止まり鍵の開く音を聞いても平然と構えていた。鉄扉が重々しい音をたてて開き保安課長が正面に立ち警備隊員たちが大久保を取り囲む。「番号と名前、生年月日を言いなさい」と言われ、このときになって大久保は初めて事態を理解し、平然と構えていた姿勢がガクンと崩れ、呆然とした表情でへなへなと床にへたり込んだ。警備隊員に引きずられ失禁の雫をたらたらとたらしながら連行されていった。

東京拘置所の所長が「これでいよいよお別れだね」と告げると大久保は顔面を紅潮させ、目を真っ赤に充血させて前身をわなわなと震わせ、その場に腰を抜かして座り込んでしまった。「なにか言い残すことはないか。あったら今ここで何でも言いなさい」という言葉にも答えられず、かぶりを弱々しく振るのみであった。

大久保は両脇から刑務官に支えられて立ち上がった。別の刑務官が目隠しをする。読経の声が急に狂ったようにカン高いものになって響いた。仕切りのカーテンが開かれ一歩も歩けない大久保を引きずって踏み板の上に。首にロープがかけられ手錠、ひざ紐が施された。首ロープが絞められ、間髪を入れず踏み台が落下・・・。

大久保の死刑は、この日の午後にはマスコミによって一般社会に報じられた。これは、当時、他の事件で東京拘置所に張り付いていた報道陣にいち早くキャッチされたためであったらしい。

この事件を元に筑波昭が書いた『昭和四十六年 群馬の春 大久保清の犯罪』(筑波昭/草思社/1982)がテレビドラマ化された。『昭和四十六年 大久保清の犯罪「戦後最大の連続女性誘拐殺人事件」』(演出・山泉脩/主演・ビートたけし/TBS/1983年8月29日放送) 1983年4月11日にドラマの製作発表を予定していたが、遺族や被害者からのクレームで急遽、発表会見を取りやめるなど、当時から話題となった。

映画では『戦後猟奇犯罪史』(監督・牧口雄ニ/大久保清役・川谷拓三/東映/1976)がある。これは、大久保清連続殺人事件、西口彰連続強盗殺人事件、克美茂愛人殺人事件の3件の事件を再現したオムニバス形式の作品である。

大久保清を題材に書かれた小説に『天上の青(上)』(曽野綾子/1990)『天上の青(下)』(曽野綾子/1990) がある。ちなみに、「天上の青」とはソライロアサガオ(ヘブンリーブルー)を意味する言葉。

参考文献など・・・
『殺人百科』(文春文庫/佐木隆三/1981)

『連続殺人事件』(同朋舎出版/池上正樹/1996)

『殺人評論』(青弓社/下川耿史/1991)

『「鑑識の神様」9人の事件ファイル』(二見書房/須藤武雄監修/1998)

『戦後欲望史 転換の七、八〇年代篇』(講談社/赤塚行雄/1985)

『あの死刑囚の最後の瞬間』(ライブ出版/大塚公子/1992)

『衝撃犯罪と未解決事件の謎』(二見書房/日本テレビ「スーパーテレビ・情報最前線」・近藤昭二編著/1997)

『日本の大量殺人総覧』(新潮社/村野薫/2002)

『完全自供 殺人魔大久保清vs捜査官』(講談社/飯塚訓/2003)
『墜落捜査 秘境捜索 警察官とその妻たちの事件史』(さくら舎/飯塚訓/2013)

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