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小平義雄連続殺人事件

【 7件の凶行 】

  殺害日 殺害場所 被害者 被害者の職業
1945年
(昭和20年)
 5月25日 東京都品川区の
第一衣糧廠女子寮
宮崎光子
(21歳)
挺身隊員
 6月22日 栃木県上都賀郡
真名子村の雑木林
石井ヨリ
(30歳)
主婦
 7月12日 栃木県上都賀郡
清洲村の雑木林
中村光子
(22歳)
事務員
 7月15日 東京都北多摩郡
清瀬村の雑木林
紺藤和子
(22歳)
出版社社員
 9月28日 東京都北多摩郡
清瀬村の雑木林
松下ヨシ江
(21歳)
出版社経理事務員
 12月30日 栃木県上都賀郡
西方村の雑木林
馬場寛子
(19歳)
無職?
1946年
(昭和21年)
 8月6日 東京都港区の
芝公園裏の山道
緑川柳子
(17歳)
無職

検察側は上記の7件の他に、1945年(昭和20年)10月31日、「東横デパート」別館地下で篠川達江(17歳)が殺害された事件、1946年(昭和21年)6月9日ごろ、芝高浜町の廃車置場で阿部よし(15歳)が殺害された事件、7月22日ごろ、芝公園2号地で17〜18歳の氏名不詳の女性が殺害された事件の3件を加え、計10件で起訴したが、これらの3件については小平義雄(逮捕時41歳)が否認しており、証拠不充分で斥けた。だが、ほぼ間違いなく小平によって殺害されたと見られている。また、小平はこれ以外にも約30件の婦女暴行を行っており、これらの件については認めている。

「数え年齢」から「満年齢」に変わるのは1950年(昭和25年)以降だが、小平義雄については現在使用されている「満年齢」とした。被害者の年齢については「数え」なのか「満」なのか不明で、参考文献によってもその年齢が異なっているが、その年齢はすべて『日本の大量殺人総覧』(新潮社/村野薫/2002)を参考にした。ちなみに「数え年齢」とは生まれた時点で「1歳」とし次の年の元日を迎えた時点で1年加えて「2歳」となる、というように、以後元日を迎えるごとに年齢が加算される計算法で、「数え年齢」と「満年齢」は常に1歳か2歳違いとなる。

1945年(昭和20年)から約3年間は日本においては “食うこと” があらゆる要求に先行した時代だった。敗戦によって、それまで戦争を中心に回っていた産業がストップし、軍需工場で働いていた400万人は失業し、9月17日には、枕崎台風(死者・行方不明者3756人)で農作物は壊滅状態、さらに600万人ほどの復員兵、引揚者がこれに加わり、“食いもの” に集中的な欠乏と混乱があらわれ、食糧難は殺人的でさえあった。そうした時代にこの事件は起きる。

1943年(昭和18年)8月、小平義雄は、東京都品川区の海軍第一衣糧廠(しょう)にボイラー係として就職した。

衣糧廠・・・「衣糧」は衣服と食糧のことで「廠」は壁仕切りのないただっ広い建物のこと。

1944年(昭和19年)2月、前科を隠して、知人から紹介された女性と2度目の結婚をする。

1945年(昭和20年)2月、男児出生。4月、東京大空襲により妻を富山の実家へ疎開させる。

[ 1 ] 1945年(昭和20年)5月25日、小平(当時40歳)は、品川区の勤務先の海軍第一衣糧廠女子寮で、挺身隊員の宮崎光子(21歳)を口説いたが断られてしまった。そこで、馬乗りになって首を絞めたのだが、そのとき射精してしまった。このときの快感はかつて経験しなかったものだった。仮死状態になったところで、タバコをふかしながら蘇生するのを待った。やがて、光子は観念したのか、自らモンペを脱いでしまう。そこで強姦し絞殺した。死体は庭先の防空壕に隠した。

挺身隊員・・・「挺身」は自ら進み出ること、自分の身を投げ出して物事をすること。大日本帝国が第2次世界大戦中に創設した勤労奉仕団体のひとつで、主に未婚女性によって構成されていた。戦争当時、日本の労働力が逼迫する中で、強制的に職場を配置換えする国家総動員法下の国民総動員体制の補助として行われ、工場などでの勤労労働に従事した 。女子挺身隊は女子勤労挺身隊、略して挺身隊とも言う 。

6月13日、この事件で憲兵隊の捜査が始まり、別の男に容疑がかかった隙を見て、衣糧廠を退職。

[ 2 ] 6月22日、東武鉄道新栃木駅で、今市町に疎開中の人妻の石井ヨリ(30歳)に「米を安く売ってくれる農家がある」と声をかけ、そこからバスに乗って真名子停留所で降り、近道があるからと、栃木県上都賀郡真名子村の山林に連れ込んだが、少し歩いたところで、ヨリが怪しんで引き返そうとしたため、背後から飛びかかって投げ倒し、顔を殴ってから姦淫した。途中で、相手が性的に反応しているのが分かって、一緒に楽しんだ。翌朝4時までに3回強姦したあと、首を絞めて殺した。死体は近くの掘りの中に投げ込んだ。このとき、現金180円と唐草模様の大風呂敷1枚と小風呂敷1枚を奪った。

[ 3 ] 7月12日、渋谷駅でキップを買う行列で並び合った横浜市の事務員の中村光子(22歳)を「日帰りで買出しのできる農家がある」と誘い、浅草に行って東武線に乗り換えて金崎駅で降り、近道があるからと、山林に入り、栃木県上都賀郡清洲村の山中で、強姦しようとしたが、光子がナイフを取り出して抵抗した。だが、殴り倒して強姦し絞殺した。このとき、現金40円ぐらいと腕時計1個、アルマイト製楕円形弁当箱を奪った。

[ 4 ] 7月15日、池袋駅でキップを買う行列の中にいた、リュックサックを背負って防空頭巾にモンペ姿の出版社社員の紺藤和子(22歳)に「一緒に買出しに行こう」と声をかけ、武蔵野線に乗って、清瀬駅で降り、4キロほど歩いて、こっちが近道になっているからと、東京都北多摩郡清瀬村の雑木林の中に入ってから間もなくして襲いかかった。いきなり両手で首を絞めて下半身をあらわにして姦淫したあとで絞殺した。このとき、現金60円を奪った。

7月18日、妻の富山の実家を訪ねて、「不二越鋼材東富士製鋼所」の守衛として働く。

8月15日、終戦。

9月21日、退職。富山の薬をかき集め、東京の渋谷の道玄坂で売るが思ったほど売れなかった。

[ 5 ] 9月28日、東京駅で友人を待っていた出版社経理事務員の松下ヨシ江(21歳)を「米を売ってくれる農家に案内する」と誘い、東京都北多摩郡清瀬村の雑木林の中で強姦しようと首を絞めようとしたが、ヨシ江は自ら裸になった。雨上がりの雑木林の中は水たまりになっていたので、着物を濡らしたくないとの配慮からだと思った。そこで、ヨシ江を抱え込むような体位で姦淫した。だが、そのとき、栗拾いしている子供の声がしたので、あわてて声が出ないように首を締めたが、絞め過ぎて死んでしまった。それでもかまわず、そのまま姦淫した。

11月1日、富山に行き、薬代を清算。東京に戻り、妻の弟がやっている運送会社を手伝う。

12月、妻子を富山に迎えに行き、渋谷区羽沢町で親子3人で暮らす。

[ 6 ] 12月30日、東武鉄道浅草駅で、母の疎開先の日光へ行こうとしていた馬場寛子(19歳)に「米が安く買える農家がある」と声をかけ、金崎駅で降りて、近くの山林を近道だと言って、栃木県上都賀郡西方村の山中に入ったが、暗くなったから帰ろうと言い出したので、殴りつけて両手で首を絞めて強姦した。そのあと、息を吹き返したので、マフラーで強く絞めて殺した。このとき、現金10数円奪った。

1946年(昭和21年)3月1日ごろから芝高浜町のランドリー兵舎で雑役夫として働く。

3月15日、歌舞伎俳優の片岡仁左衛門(65歳)の一家4人が食物の恨みから同居人の座付作者の飯田利明(当時22歳)によって殺される事件が起きている。このとき、飯田は同居していた自分の妹まで殺害してしまう。無期懲役の判決が下った。

5月に開始されたNHKラジオ放送の街頭録音の第1回テーマは「あなたは何を食べていますか?」だった。

5月9日、長野県市田村で一家7人を斧で殺し、玄米4俵を奪う食糧強盗事件発生。

5月19日、食糧メーデー(食糧危機突破人民大会)が開かれる。

[ 食糧メーデー不敬事件 ] 5月19日、皇居前広場で行われた「食糧危機突破人民大会」に約25万人の労働者が参加した。大会終了後、首相官邸へデモ行進するなかで、日本共産党員で田中精機工業に勤める事務員の松島松太郎(当時29歳)がのちに不敬罪に問われることになるプラカードを持って参加した。プラカードの表には<ヒロヒト詔書 日ク 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク 食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ 日本共産党 田中精機細胞>、裏には<働いても働いても、何故私たちは飢えているのか、天皇ヒロヒト答えよ>と書かれていた。6月22日、松島は不敬罪で起訴された。天皇が人間になったのに、まだ不敬罪はあるのか。検事局は「天皇制は現に存在する以上、元首としての天皇に対して不敬罪は完全に成立する」とした。しかし、GHQ(連合軍総司令部)は、すべての人間が法の前に平等であり、「天皇だけが特別の法的保護のうちにぬくぬくとしていることはできない」とした。11月2日、東京地裁で名誉毀損罪で懲役8ヶ月の判決。1947年(昭和22年)6月28日、東京高裁は不敬罪を名誉毀損の特別罪として存在しているとした上、天皇に対する誹謗は「日本国ならびに日本国民統合の象徴にひびを入らせる」と認めたが、新憲法の公布とともに不敬罪の大赦令が施行されたことを理由に免訴の判決を下した。あくまでも無罪を求める松島に対し、1948年(昭和23年)5月26日、最高裁は上告を棄却し、戦後初めての不敬罪は確定した。

ギョメイギョジ・・・御名(天皇裕仁)、御璽(天皇の印)のこと。

刑法73条から76条までは皇室に対する罪を規定しており、73条が大逆罪、74条が不敬罪、75条と76条が天皇の家族の保護に関する規定であった。だが、憲法14条の「法の下の平等」に反することから、刑法の一部が1947年(昭和22年)10月26日に改正、11月15日の施行により、73条から76条まで削除され、皇室に対する罪も一般の罪として処罰されるようになった。

1946年(昭和21年)6月、慶応大学与論科学研究会が行った学童調査で「最近うれしいと思ったこと」と問われて、子どもたちの大半が「お米や白パンが配給されたとき」と答えている。その配給が遅配・欠配することがあり、そんなとき、子どもたちの犯罪が急増した。

6月10日、新橋ヤミ市のボスの松田組組長射殺事件発生。

7月9日、2人組の米泥棒、長野県平村の山小屋で登山客の学生5人を殺傷。

[ 7 ] 8月6日、小平は1ヶ月ほど前の7月初めに就職の斡旋を依頼してきた緑川柳子(17歳)と知り合っていた。柳子は相撲の行司として有名な式守伊三郎(本名・緑川義一郎)の三女である。小平が柳子にパンを与えてからは離れなくなった。山手線の電車で、スカートの中に手を入れて陰部をいじったが、嫌がる様子はなかった。それが、この日になって嫌だ、と言ったので、都内港区の芝公園裏の山道に連れ出し、強姦して絞殺した。

8月17日、東京の芝公園の増上寺境内の裏山で、人の高さほどに生い茂った雑草を刈り取っていた作業員が全裸の緑川柳子の腐乱死体を発見した。柳子は、8月6日に小平義雄という男と一緒に出かけていることが分かっていたことにより、8月20日にあっさり警視庁に逮捕されている。

【 本人歴 】

1905年(明治38年)1月28日、小平義雄は、栃木県上都賀郡日光町大字細尾の商人宿「橋本屋」に生まれた。小平は6番目の子どもで三男だった。

家系は、母方には裁判長や弁護士になった人がおり、格別の異常は見られないが、父方では父の兄弟5人中、常人はただ1人という異常な血統であった。

父親は義侠心に富んだ性格だったが、飲む・打つ・買うの三拍子がそろっており、家業は思うようにいかず、やがて旅館は人手に渡り、山林や畑地も売り払ってしまう。

そんな家庭に育ったせいか、日光尋常小学校西分校に入学するが、成績は悪く、男子23人中21番だった。

小学校に小平の査定要項の記録が残っている。<小学1年・・・不注意、不熱心、無精にして喧嘩せざる日なし><小学3年・・・不注意にして不熱心なれば成績不良なり><小学6年・・・粗野にして乱暴、奸智(かんち)に長(た)け盲動す、成績不良>

「操行」は6年間、「丙」であった。つまり、品行が良くなかった。

また、ドモリがひどく、意思がうまく伝わらないとき、すぐ激昂した。弱い者いじめはするが、女性は例外でむしろ親切でさえあった。

1917年(大正6年)3月、小学校を卒業したが、しばらく家にいた。

1918年(大正7年)になって、東京へ出て、池袋の「東洋金鋼」に見習い工として数ヶ月、銀座の「亀屋食料品店」で店員として2年間働いた後、日光へ帰り、地元の「古河電工」の精鋼所で働いた。

1923年(大正12年)6月、18歳のとき、自ら海軍に志願し、横須賀海兵団に入隊するが、この軍隊生活が、元々、粗暴であった彼の性格を助長させることになる。女を知ったのは海軍に入ってからで、横須賀の淫売を買ったのが最初だった。19か20歳の頃である。軍艦の乗組員として、オーストラリア、ヨーロッパに寄港するが、その先々で売春婦を知る。ひと晩泊まって4、5回やったこともあったという。

山東(さんとう)出兵、済南(さいなん)事変では、海軍陸戦隊員として「日清紡績」の工場警備にあたったときは市街戦で中国兵6人を銃剣で刺殺。この戦功によって、勲八等旭日章を授かっている。また、太沽(タークー)では、中国人の家に押し入り、女を強姦したり、妊婦の腹を裂いて胎児を引き出すなどの残虐非道な行為をした。

1929年(昭和4年)5月、24歳のとき、三等機関兵槽となって、海軍を除隊し、精鋼所に復職。

1932年(昭和7年)1月、職場の工場長の姪を紹介され、見合い結婚した。だが、6月ごろに妻は実家に帰ってしまった。理由は、小平が遠戚の娘を妊娠させ私生児を生んでいたことで、親が離婚させようとしていたからだ。

7月2日、復縁を迫った小平は妻の実家に押し入り、妻の父親を殴殺、家族6人にケガをさせてしまう。

1933年(昭和8年)2月4日、東京控訴院(現・東京高裁)は懲役15年の判決を下し、小菅(こすげ)刑務所に服役することになったが、大日本帝国において慶事が重なり2度の恩赦で刑期が短縮されることになった。

東京控訴院・・・1947年(昭和22年)、「東京控訴院」から「東京高等裁判所」に改称。

1940年(昭和15年)9月23日、7年半で仮出所する。小平は35歳になっていた。その後、東京へ出てボイラーマンとして働く。草津に養生に行き、3日に一度は女を旅館に連れ込んだという。

1941年(昭和16年)8月、36歳のとき、サイパン島へ渡り、飛行場建設のため、ローラー運転手として働く。

12月8日、日本軍はハワイの真珠湾奇襲攻撃により太平洋戦争へと突入する。海軍省から派遣された慰安婦を買うことがあった。また、21歳になる娘と関係し妊娠させてしまったことがあった。

1942年(昭和17年)4月、東京に帰り、蒲田の「日本製鋼」で半年、大森の「鈴木製氷」で8ヶ月働いた。この頃から芸者遊びをするようになる。女性を伊東や草津へ連れて行くこともあった。

1943年(昭和18年)8月、海軍第一衣糧廠にボイラー係として就職。のちに主任級になり、下に5、6人の助手がつくようになる。給料は170円、食事付きで、暮らしは楽であった。また、女性が入浴中によく覗き見をした。

1944年(昭和19年)2月、39歳のとき、前科を隠して、知人から紹介された女性と2度目の結婚をする。妻がお産のため、入院すると、手近の女性に手当たり次第に手をつけた。同じアパートに住んでいた未亡人、23歳になるその娘、市電の運転手の妻、お産の手伝いにきてくれた妻の知り合い、その妹・・・。

1945年(昭和20年)2月、男児出生。東京大空襲により、4月、妻を富山の実家へ疎開させる。

その後、5月25日から翌1946年(昭和21年)の8月6日にかけて7人の女性を殺害する事件を起こすことになる。

【 その後 】

[ 小平義雄の供述 ] 

「私は衣糧廠に1年半もいましたから女人操縦はずいぶん研究しました。女に気に入るには衣装でも買ってやるのが一番です。私は相手のスタイルを見て話しかけるのです。『僕は元、大映にいて着付けの方を屋っていたんだよ』などとでたらめを言って『あんたは紺色のブラウスを着て白いスカウトをはいたら曲線美がすばらしくなるよ』とか言ってやると女はほとんど100パーセント有頂天になってしまいますね。しかし、終戦前後は何といっても食糧が女の心を一番動かしました。私はそれを利用したのです」

「まず、女を殴り、次いで頚部を絞め仮死状態にする。この絞め方は、右手を前に、左手を後ろにし、両手で少し上に持ち上げる。2、3分そうしていると、洟を垂らし、手をだらりと下げ、仮死状態になるのである。このときすぐに交わるとは限らない。むしろ30分ぐらい待ち、蘇生したところで、揺り動かす。「私どうしたの、どこかへ行ってたの?」たいていの女が、不思議そうに問いかけ、失禁していることに気づく。そこで、着ている物を脱ぐように命じ、体に付着した糞尿を拭き取ってやる。もはや抵抗を諦めているので、体をひろげて、自らを重ねる。その行為の間、女は目を開いて宙を見つめ、両手を伸ばしている。女を横にして陰部を見て、今入れんとする瞬間がなんともいえないのです。殺されてもいいと思うときがあります。日本刀で後ろから首を切られても構いません。陰部ばかりを見ています。顔なんか見ていません。入れると夢中で私だけ腰を使います。終わると早く始末してしまいます」

[ 小平義雄の妻の供述 ] 

「結婚してから毎晩のように要求はあったのは確かです。稀にひと晩に2回ということもありました。40になろうとする男にしては少ししつこいのではと思うこともありました。ですが、変な要求はしないし、交わり自体はあっさりしたもので、首を締めるようなことはありませんでした。愛妻家とは彼のような人のことを言うのだと思っていました。性的な会話がひとつもなかったから、まさか浮気はしないだろうと安心しきっていました。逮捕されて新聞に載ってからも、しばらくは夫がしたこととは信じられませんでした」

[ 鑑定人の内村祐之(ゆうし)東京大学精神医学教室主任教授・松沢病院院長の供述 ] 

「精神病質である。要するに、本件犯行当時の小平の精神状態には、強烈な性的衝動と、残虐な暴力行為に傾き易い性格特徴が併存していた。この両者が合流したので、性的内容を備えた暴力犯罪がここに生じたのである。それは生まれつき特別な性格と衝動性の組み合わせを持った性格異常者の犯罪で、かかる種類のものは、その軽いものまで数えれば、世上にははなはだ多数に存在する。ただ本件が希有の大事件となるに至ったのは重い強姦殺人の形で、同一人が1年余りの長きに渡って犯行を反復継続したからである。実に、このこと自体、小平の性格異常の決して軽くないことを示すものである。本事件全体が、一時の感動や衝動によって突発したようなものではなく、むしろ計画的に意識的に行われたものと見える。それゆえ私は、小平は犯行当時、自己の行動の許すべからざることを正しく判断のできる理性は勿論、この判断に従って、ある程度まで自制をなし得る意思能力をも把持していたものと認める。すなわち、小平の性欲衝動も感情激発性もそうとう強いものであったに違いないが、しかし、いかにしてもこれらを制御し得ないほど重篤かつ高度の性格異常者ではなかったと判断する。従って小平ははなはだ珍しい型の生来性性格異常者で、しかもなお責任能力のある人格と判定するのである」

内村祐之・・・明治30年、東京に生れる。大正12年、東大医学部卒業。東大精神科、松沢病院を経て、昭和2年、北大教授。昭和11年、東大精神医学教室主任教授兼松沢病院長。昭和33年、東大教授退官。昭和35年、国立精神衛生研究所長。東大名誉教授、財団法人神経研究所名誉所長、同顧問。日本学士院会員など歴任。医博。昭和55年9月17日、逝去。『日本の精神鑑定』(共著)/ 『精神医学者の滴想』などの著書がある。

1947年(昭和22年)6月18日、東京地裁は、「精神病質ながら責任能力あり」と判定。死刑判決を言い渡したが、小平は「死刑は残虐な行為である」と控訴した。

1948年(昭和23年)2月28日、東京高裁で控訴棄却判決。

11月16日、最高裁で上告棄却判決が下り、死刑が確定する。

12月1日、東京拘置所から死刑台のある宮城刑務所仙台拘置支所に移送される。

当時の東京拘置所には死刑を執行する設備がまだなく、関東矯正管区の拘置所の死刑囚は仙台の宮城刑務所仙台拘置支所に送られて死刑執行された。東京拘置所で死刑の執行が行なわれるのは1966年(昭和41年)からである。

1949年(昭和24年)4月ごろ、妻が初めて面会に訪れた。

「自分が疎開していたばかりに、あなたの世話が出来ず、このような結果を招いた。あなたの罪の責任は私にあります」と泣きくずれた。

小平はこの妻の真心が救いになり、教誨師の指導でそれまで捨てバチな態度が変わった。人一倍子ぼんのうな小平は、一人息子の将来について「死刑囚の子供としていじけないように育ててもらいたい」と妻に頼み、信仰へと一歩踏み込んだ。

それからは、落ち着いた生活ぶりになり、熱心な読書と反省の日々は暴行殺人鬼を人間小平に変えていった。

「被害者からみれば、私は八つ裂きにされても当然でしょう」と心の余裕も出来た。

同年10月5日午前7時、小平は、「所長さんがお呼びだよ、小平」という看守の普段と違う緊張に震えた声に、全てを察した。

小平は房内をきれいに掃除、この日のために用意してあった新しい下着と下帯に着替え、紺縞あわせの獄衣に着直した。編み笠をかぶり、特別通用門をくぐって刑場へと向かった。

そぼふる秋雨をながめ、教誨師に「こういう落ち着いた日に死ねるのは幸福だ」と言った。

午前9時25分、所長よりおごそかに執行の言い渡しがあった。

「何か遺言はないか・・・」との所長の問いかけに、小平は毛筆を取った。便箋2枚に走り書きの遺言をしたためた。

<自分は荘厳な気持ちですべてを清算し、静かな気持ちで死んで行きます。長い間、お世話になった人々によろしくお伝え下さい。家族の者もどうぞ天命を完うしてください>

小平は覚悟ができたのか、すっかり諦めきった淡々とした表情。関係者はその従容とした態度に胸が打たれた。

出された供物のマンジュウを3つ名残り惜しそうにゆっくり食べた。

再び、筆をとり辞世の句を書いた。

<亡きみ霊、赦し給へし過去の罪、今日の死を待ち、深く果てなん>

「もうほかに、何か言い残すことや欲しいものはないか」所長が最後の慈悲を示した。

「タバコを1本喫わせて下さい」

小平は差し出された「ひかり」を胸の奥まで吸い込んだ。

やがて落ち着いた態度で死刑台に上り、午前9時50分、死刑が執行された。44歳だった。

この事件を元に製作された映画に次の2本の作品がある。

『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』(DVD/監督&脚本・石井輝男/小平義雄役・小池朝雄/2005) この作品はオムニバス形式になっており、他に、高橋お伝、阿部定などの事件も再現している。

『戦争と一人の女』(DVD/監督・井上淳一/出演・江口のりこ&永瀬正敏ほか/2014) この作品は坂口安吾の官能文芸作品『戦争と一人の女』(←この商品自体はコミック:青林工藝舎/漫画・近藤ようこ/2012)を映画化したものだが、DVD作品には原作にはない小平義雄をモデルとした連続殺人鬼が登場する。

参考文献・・・
『殺人百科(3)』(文春文庫/佐木隆三/1987)

『日本犯罪図鑑』(東京法経学院出版/前坂俊之/1985)

『犯罪の昭和史 2』(作品社/1984)
『日本猟奇・残酷事件簿』(扶桑社/合田一道+犯罪史研究会/2000)
『戦後欲望史 混乱の四、五〇年代篇』(講談社文庫/赤塚行雄/1985)

『日本の大量殺人総覧』(新潮社/村野薫/2002)

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