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寿産院事件

1948年(昭和23年)1月12日朝、当時の早稲田署の柴山、小野の2人の警官がパトロールしていたとき、東京都新宿区榎町15番地付近で長崎竜太郎(当時54歳)という葬儀屋がかさばった木箱を4箱持っていたので、不審に思った警官が木箱を調べてみると、そこから5人の赤ちゃんの死体が出てきた。問い質すと、「この死体は、新宿区柳町の寿(ことぶき)産院というところから頼まれたもので、今、火葬場に運ぶ途中だ」という。さらに、警察署にこの葬儀屋を連行して詳しく聞くと、「今までに30件以上こういうケースを扱った。赤ちゃん1人につき500円貰って埋葬していた」と白状した。

この5人の赤ちゃんの死体を国立第一病院で調べたところ、死因は3人は肺炎と栄養失調、あとの2人は凍死と判明した。さらに、慶応病院で解剖した結果、胃袋には何も食べ物が入っていなかったことが判った。

1月15日、寿産院の会長で、助産婦の石川みゆき(当時52歳)とその夫の石川猛(当時58歳)が逮捕された。

助産婦・・・保健婦助産婦看護婦の一部を改正する法律(改正保助看法)が2001年(平成13年)12月6日に成立、12月12日に公布、翌2002年(平成14年)3月1日に施行された。これにより、保健婦・士が「保健師」に、助産婦が「助産師」に、看護婦・士が「看護師」に、准看護婦・士が「准看護師」となり、男女で異なっていた名称が統一された。

寿産院では、それほどの設備がないにもかかわらず、戦時中から新聞の3行広告で、赤ちゃんの子育てに困っている譲り手と貰い手の両方を募った。譲り手の親からは赤ちゃん1人につき4000円〜1万円を養育費としてもらい受け、貰い手からは謝礼として500円を受け取っていた。譲り手として、戦争や戦災で夫を亡くした未亡人、水商売の女性、外娼婦などが多かった。

だが、終戦で男たちがどっと復員し、ベビー・ブームとなり、寿産院では預かった赤ちゃんばかりになってしまった。

みゆきは、赤ちゃんにろくにミルクも与えずにいた。そのため、赤ちゃんがギャーギャー泣いてうるさかったが、生理のときはイライラが募って、つい、布団でくるんで窒息死させてしまったり、そのまま放っておいて餓死させてしまったという。

寿産院では、1944年(昭和19年)4月〜1948年(昭和23年)1月までの4年間に、204人の赤ちゃんを貰ったが、うち103人が死亡していた(「204人のうち169人が死亡した」「112人のうち85人が死亡した」と記載してある参考文献もある)ことが判明した。また、石川夫婦のほかに、寿産院に勤めていた元助手の貴志正子(当時25歳)も共犯であったことが判明した。

さらに、この夫婦は当時乳児養育用の貴重品である配給の砂糖や、預かった子が死ぬと葬祭用に特配されるお酒をヤミに流して、そっちの方からも儲けていた。

石川夫婦は、赤ちゃんを餌食にした鬼のような夫婦ということで世間の非難を一斉に浴びた。

また、この大量の赤ちゃんの死亡届を不思議に思わず受付けていた新宿区役所の態度にも問題があった。当時の区長は「死亡届は実親の名になっているので判らなかった」と言い、葬祭用に特配されるお酒の切符を発行していた経済課は「書類が揃っているから出した」と言った。埋葬許可証を発行していた衛生課も同じ態度だった。

みゆきは、東大病院付属産婆講習所の卒業で、東京都産婆会牛込支部長の肩書きをもち、前年に自由党から新宿区議選に出て落選していた。猛は憲兵軍曹で除隊後、警視庁巡査を8年勤めた男だった。

1948年(昭和23年)10月11日、東京地裁は、みゆきに懲役8年、猛に懲役4年、偽りの死亡診断書を書き添えていた医師の中山四郎に禁固4年、元助手の貴志正子に無罪を言い渡した。葬儀屋の長崎竜太郎は不起訴処分になった。

石川夫婦は控訴した。

1952年(昭和27年)4月28日、東京高裁で、みゆきに懲役4年、猛に懲役2年と半分に軽減された判決が下った。

ちなみに、1949年(昭和24年)4月、避妊薬の使用が公認され、6月、経済的な理由による妊娠中絶が認可された。

参考文献・・・
『犯罪の昭和史 2』(作品社/1984)
『極悪人』(ワニマガジン社/1996)
『日本猟奇・残酷事件簿』(扶桑社/合田一道+犯罪史研究会/2000)
『戦後女性犯罪史』(東京法経学院出版/玉川しんめい/1985)

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