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吉展ちゃん誘拐殺人事件

【 誘拐 】

1963年(昭和38年)3月31日(日)、東京台東区入谷(いりや)378、現在の台東区松が谷3丁目××番地に、工務店を経営する村越繁雄の自宅があり、すぐ前の西側の道を挟んで区立入谷南公園がある。

午後5時40分ごろ、村越繁雄の長男の吉展(よしのぶ)ちゃん(4歳)は、いつものように「ママ、公園に遊びに行く」と母親の豊子に告げ、水鉄砲を持って入谷南公園に出かけた。

公園といっても自宅から目と鼻の先。吉展ちゃんだけでなく、家族にとっても、この公園は自宅の庭同然の感覚があった。だから、4歳の子供が1人で公園に遊びに行くといっても、さほど心配することではなかったのである。

ところが、午後6時ごろ、吉展ちゃんの姿が消えてしまう。3月下旬の6時ごろといえば、まだ薄明るく、公園には遊んでいた子ども、子守りをしている親、くつろぐ老人など、20人くらいの人がいた。そんな状況の中で吉展ちゃんは消えたのである。

午後7時ごろ、帰宅しない吉展ちゃんを不審に思った父親の繁雄は最寄りの下谷(したや)北署へ届け出た。

下谷北署は、迷子か事故ではないかと見て、3月31日の夜から翌4月1日にかけて、付近一帯の捜査、聞き込みに当たった。その結果、30歳前後の男に話かけられた後、行方不明になっていることが分かり、誘拐の疑いがあるものとして、警視庁捜査一課は下谷北署に捜査本部を設置した。

その30歳くらいの男が吉展ちゃんに話かけるのを見たのは、近所に住んでいた4つ年上の菊雄君だった。

公園で遊んでいた菊雄君はそろそろ、自宅に帰ろうと公衆トイレの前の水飲み場まできて吉展ちゃんを見つけた。吉展ちゃんはそこで水鉄砲の中に水を入れようとしていたが、なかなか入らない。それで、菊雄君は「それなら、こっちがいいよ」と言って、トイレの手洗い場を教え、そこで水を入れてやろうとするが、水鉄砲自体が壊れていたようで水が入らない。

諦めた菊雄君は、水鉄砲を吉展ちゃんに返し、トイレを出て自宅に向かおうとしたとき、背後から男の声が聞こえてきた。「坊や、何してんだい? ほう、すごい鉄砲だな」身長160センチぐらいのグレーのレインコートを着た30歳前後のやせた男だった。

警察の捜査は、当然ながらこの男の行方を追うことになったが、村越家が従業員6人を抱える規模の工務店やアパートを経営しているにもかかわらず、それまで日本では営利を目的とした誘拐の事例が少なかったということ、また、村越工務店は同業者や近所の評判がきわめてよいことから、怨恨の線は薄いと見ていた。そうしたことなどから、警察は、同性による性的ないたずらを目的とした変質者の犯行の可能性が強いと見ていた。だが、これは違っていたことが後になって分かる。

それから、連日のように、新聞、テレビ、ラジオからは「吉展ちゃんはまだ帰ってこない」「消息は消えたまま」「全国から励ましの手紙・電話」あるいはまったく逆の「いやがらせ」・・・・・・などの言葉があふれていた。

【 身代金要求 】

人質の人命を最優先させ、警察とマスコミとの間に一切を報道しないことを約束した「報道協定」を結んだ。

だから、一般市民には、以後、何の進展も見せないまま、2週間が過ぎ去っていったかのように見えたはずである。だが、水面下では、犯人とのやり取りが進展していた。

吉展ちゃんが行方不明になってから2日後の4月2日午後5時40分、村越家に犯人らしき男から身代金を要求する電話が入る。電話に出たのは工務店の従業員である。犯人の声は電話につないだテープに録音しておいてある。

犯人   「50万、揃えておいて下さい」
従業員 「50万?」
犯人 「うん、競馬場んとこ」
従業員 「駐車場ですか?」
犯人 「競馬場」
従業員 「新橋駅前の競馬場ですか?」
犯人 「うん」

新聞紙を目印に持って来いと犯人は言ったが、日時は告げていない。50万円はすぐに準備できず、村越家の者と警察は古新聞でニセ札を作り、それを風呂敷に入れた。それを持った繁雄は電話が切れてから10数分後に、7人の刑事と共に新橋駅西口の場外馬券場へと向かったが、繁雄に近づいてきた人はいなかった。

この頃の大学卒の新入社員の月給は2万円程度だから50万円といえば、2年分に相当する金額である。

翌3日午後7時過ぎ、犯人らしき男から電話が入るが、その男は前日の新橋の件にはふれず、「3日以内に子どもを返すから、金を用意しておけ」と告げただけだった。

翌4日午後10時過ぎ、犯人らしき男から電話が入る。このときに受けたのは母親の豊子だった。

母親  「子どもは無事ですか?」
「はあ?」
母親 「子どもは?」
「うーとね、元気でやってます」
母親 「そうですか。声だけでもいいですから私、聞かせてもらいたいんですけど」
「聞かせるからね、スンブンガミ(新聞紙)に包んでね、用意しといてよ」
母親 「あのう、お金はね、もう、用意して待っているんです。私、もうホントに、どうしていいか分からないんですよ」
「だからね、金はどっか一定の場所に置いてもらって・・・」
母親 「ああ、置いてあります」
「金を受け取ったらね、お子さんを返すようにすっからね」
母親 「ああ、そうですか。その前にね、確実に坊やがいるってことを私に知らせないと、ホントにお金もあげられないんですよ」
「うっかり、こっから(子どもを)表なんか連れて歩けないよ。それができんなら、別にね、何も心配しねんだよ」
母親 「でも、確実にお宅ですか?」
「まつげえないよ」
母親 「間違いないですか?」
「ああ、まつげえないよ」

豊子が電話の相手が犯人であることを確認したのには理由があった。それまで村越家に数々の吉展ちゃんの安否を気遣う電話や激励の電話があったが、逆に、多くのいやがらせ電話もあったからである。それは、一般市民より裕福な村越家に対する嫉妬や憎悪であった。

豊子が受けたこの電話は4分にも渡る長電話であった。とすれば、逆探知で犯人が電話した場所が特定できたはずである。だが、そうではなかった。当時は日本電信電話公(現・NTT)の「通信の守秘義務」があったから逆探知はまだ、許可されていなかった。この事件がきっかけとなったかどうか分からないが、同年に、被害者の要請があった場合に限り逆探知が認められることになった。戦後の誘拐事件の検挙のうち95.5%が逆探知によるものだという。

このあと、犯人らしき男から数回の電話があり、5日夜、指定された地下鉄入谷駅にお金の受け渡しに行ったが、犯人は現れなかった。さらに、その翌6日の朝、指定された上野駅の近くの公衆電話でも待っていたが、犯人は現れなかった。いずれも、本当の犯人からの電話であったのかどうか分かっていない。

同日午後11時、犯人らしき男から電話が入る。この男は吉展ちゃんが履いていた靴の特徴を言ったので、本当の犯人であることが分かった。

「あの、ビニールのやつでね、バンドのついたやつだよ。“尾錠”のついたね」

2時間後の7日午前1時ごろ、犯人から電話が入る。このとき、6人の警察が村越家の2階に待機していた。

「警察に連絡しないこと。時間はこれからすぐ。受け渡しの場所は『品川自動車』。その建物の横に車が5台止まっている。前から3番目の小型4輪の荷台に目印として吉展ちゃんの靴を置いてきたので、そこに金を置いておけ。村越工務店の車できてもいいが、車から降りるのは豊子さん1人だけ。金を置いたらまっすぐ家に向かうこと。吉展ちゃんは、金をもらった1時間後に返す」

指定された「品川自動車」は村越家の前の通りを東に一直線に行った、昭和通りに面した場所にあった。距離にして300メートル。徒歩でも5分とかからない。

今度はニセ札ではなく、本物の一万円札で50枚用意した。それは万一、犯人を取り押さえることができなかった場合、ニセ札では犯人が怒って吉展ちゃんに危害を加えたり返さなかったりする恐れがあるからだ。

だが、一万円札のナンバーを控えておかなかったという致命的なミスを犯してしまう。

村越家の車であるトヨエースの運転を買って出た親戚の者がすることになった。豊子を乗せ、捜査員の1人を荷台に潜り込ませ出発した。残りの5人の捜査員は目立たぬように、2階から隣家の物干し台を伝って裏道に出て、そのまま裏道を自分の足で走って「品川自動車」に向かうことになった。迂回コースだから、距離にすると500メートルぐらいだろう。車とほとんど一緒に駆け出した。ここに捜査員の計算違いがあった。車の方が先に着いてしまうのは明らかだった。

現場の捜査の責任者の鈴木警部補は「品川自動車」に同時に到着できるように、運転手に対し「待て」という意味の合図のつもりで右手を挙げたのだが、それを運転手が「発車」という意味の合図と勘違いして車を出してしまったために犯したミスであった。

午前1時36分、豊子を乗せた車が「品川自動車」に到着すると、指定された車を見つけ、吉展ちゃんの靴を発見して金をその荷台において立ち去った。自宅に戻る途中で、車に一緒に乗っていた捜査員が降りて再び、「品川自動車」に向かった。そのときに一番先に現場に到着した捜査員でも車より3分遅れていて午前1時39分だった。そのあと、走ってきた5人の捜査員がばらばらに到着。全員が揃ったのは午前1時41分である。

それぞれ分担しておいた位置で物陰に隠れ、息を殺して犯人を待った。だが、30分経っても犯人らしき人物は現れなかった。捜査員たちはここでもミスを犯している。彼らが見張っていたのは「品川自動車」の正面に止まっていた車で、犯人が指定した車は横に止まっていた車だった。およそ1時間半が経過した時点で現場からお金がなくなっているのが判明した。実は警察が見張る以前にお金を奪って持ち逃げしていたのだ。わずか3分ほどの間の出来事だった。

「品川自動車」に到着した時点で、すでにお金を奪われていたことに捜査員の誰もが気付いていたが、犯人に逃げられてしまったショックで動けなかった、という説もある。

このように、犯人が身代金の奪取に成功した例は非常にまれである。

犯人は電話で「吉展ちゃんは、お金をもらった1時間後に返す」と言っていたが、お金を奪ったあとは犯人からの電話はなく、また吉展ちゃんも戻ってきていない。

警察内部では、この失態を隠すために箝口令(かんこうれい)がしかれた。マスコミや世間に知られる前に、吉展ちゃんを無事に救出して犯人を逮捕したいと思っていた。警察は威信と名誉を賭けて事件の解決に全力を注いだ。だが、捜査は、いっこうに進展しなかった。

【 公開捜査 】

お金を奪われてから6日後の4月13日の朝、警視庁の原警視総監は、マスコミを通じて犯人に異例の呼びかけをした。「罪を憎んで人を憎まずの気持ちでいる。犯人よ、どうか吉展ちゃんだけはどのような方法でもよいから、返してほしい」顔をこわばらせ、犯人に対して頭を下げて懇願した。

19日、警察は初の公開捜査に踏み切った。これにより、営利誘拐であったことが、一般市民の知るところとなった。また、警察の犯人取り逃がしという失態もマスコミから流れ、厳しい批判の目が警察に向けられた。25日から、犯人から村越家にかけられた脅迫電話の録音をテレビやラジオで公開。

犯人の声は低く落ち付き払った声で、ところどころに出てくる特徴的な言いまわし(新聞紙→スンブンガミ、尾錠)やなまり(間違いないよ→まづげえないよ)があったことから、警察は犯人を40歳〜50歳の関東北部から東北出身で、入谷付近に土地勘のある男と見ていた。

公開捜査により、声が似ている人を知っている、という通報が1万件も寄せられたが、捜査員はそれらをひとつずつ丹念に調べていった。声が似ているかどうか、犯行当時のアリバイ、奪取されたお金の3点にポイントをおいた。

【 重要参考人 】

複数の通報に、「時計修理工の小原保(こはら・たもつ/当時30歳)」があった。小原の近所に住む人や職場関係の通報もあったが、身内の弟からの通報もあった。

公開捜査(4月19日から)に踏み切ってから約1ヶ月経った5月21日から3週間に渡り、警察は小原を取り調べた結果、逮捕せずに釈放した。

[ 1つ目の理由 ] 声が似ていないこと。警察が推理した犯人の声は40歳〜50歳で、小原は30歳だったからだ。

[ 2つ目の理由 ] 見た目にもはっきりと分かるくらい右足が湾曲していたこと。歩き方に特徴があり、そういう人が誘拐すれば、人目にもつきやすいし、犯人はたった3分かそのくらいでお金を奪ったすばしっこいやつだから、この点で疑問。

[ 3つ目の理由 ] 小原は事件が起きる前はお金に困っていたが、事件後、密輸でお金を稼いだとも言っていて、これが20万円であったとしていること。

[ 4つ目の理由 ] 小原のアリバイだった。小原によれば、3月27日から4月3日にかけて故郷の福島に帰省していたということである。(吉展ちゃんが行方不明になったのは3月31日の午後6時ごろ)

( 小原が主張するアリバイ )

(1)3月27日、午後3時か4時ごろ、磐城石川駅に着き、駅前で従兄弟に会った。夜はA方の藁(わら)ぽっち(藁を積んだもの)で寝た。

(2)3月29日、朝9時ごろ、藁ぽっちで寝ていたところをAに追い出された。夜は実家の土蔵にかけられていた落とし鍵を木の枝で開け、中の凍(し)み餅を食べた。

(3)3月31日、夜はまたA方の藁ぽっちで寝た。

(4)4月1日、夜は同じく藁ぽっちで寝た。

(5)4月2日、60歳ぐらいのBに見つかった。

(6)4月3日、上野に午後1時ごろ着き、その足でCを訪ねた。

小原が警察で取り調べを受ける直前に、実はこんなことがあった。5月の初旬、文化放送の社員が行きつけの喫茶店で「声によく似た人を知っている」という噂を耳にする。それで、同じ文化放送の伊藤登にこの話をした。伊藤は早速、声の主の録音を思い立ち、半月後に張り込みを決行。その相手は小原保だった。

伊藤は小原がよく行く飲み屋「清香」を探し出し、そこで、小原の単独インタビューにこぎ着けた。「清香」は小原の10歳も年上の恋人N子が都内の荒川区で一人でやっていた一杯飲み屋で、その2階は2人が同棲していた場所でもあった。

伊藤は小原に犯人がどういう男であるかを推理させてみた。それに対し小原は次のように答えている。

「結局、その、犯罪のやり方が緻密だということは、法律のことを知っている人じゃないかと、そういうことも考えられますけれども。まあ、そういった教養のある人は、ああいった残酷なこと、残酷とはまだ言えませんけれども、残酷なことをやる人間だとは思いません」

さらに、犯人の年齢が幾つくらいかと訊かれ、「30から50くらいの範囲の人でしょう」と答えた。

伊藤は小原が犯人ではないかと確信した。その理由として、吉展ちゃんが生きているかどうかを訊かれると、沈黙し、しどろもどろになったこと、足の悪い小原が割と敏速な動きをしていたと思ったことと、さらに、局に戻ってすぐに、再度確認のため小原に電話しているが、そのときの声が非常に似ていたことであった。

8月、小原は湯島天神で賽銭泥棒しているところを現行犯で逮捕された。このとき、東京簡易裁判所は懲役1年6ヶ月・執行猶予4年の判決を言い渡した。

12月、小原はまたも窃盗の容疑で築地署に逮捕された。工事現場から盗んだカメラを質入れしていたことが偶然にも発覚してしまったのだ。

捜査員は小原の身柄を警視庁に移し、11日から、勾留期間いっぱいのおよそ2ヶ月にも渡って、吉展ちゃん事件について2回目の取り調べをしたが、前回同様、逮捕にこぎつけるまでには至らなかった。

1964年(昭和39年)4月下旬、小原は執行猶予の身でありながら、12月に窃盗を働いたことで、懲役2年の刑が確定して前橋刑務所に収容された。

小原は恋人のN子とも別れてしまう。

♪ 君も君も 人の子ならば あの子の生命 かえしておくれ・・・ 

藤田敏雄作詞、いずみたく作曲の『かえしておくれ、今すぐに』という吉展ちゃんのことを歌った歌が、各社競作の形で製作される。フランク永井、ザ・ピーナッツ、ボニー・ジャックスなどが歌った。ラジオから流れるこの歌を聴く度に、身をきられる思いをしたと、小原保はのちに自供している。

【 本人歴 】

1933年(昭和8年)1月、小原保は福島県石川郡石川町の山間の貧農の10番目の子どもとして生まれたが、すでに長男、次女が死んでおり、2年後には弟が生まれている。

小学校への通学は家からは1時間もかかった。しかも、くねくねとした山道。靴はまだ満足に履けない時代で、冬の通学は子どもには辛いものだった。

小学4年生のとき、ちょっとした右足のアカギレからばい菌が入り骨髄炎にかかってしまった。それで、足を手術しなければならなくなり、その結果、足が曲がってしまい歩行にも支障をきたした。繰り返し歩行練習を行い、松葉杖なしで歩けるようになったが、そのために学校を2年休学することになった。

この不自由な足、休学したこと、同級生よりも2歳も年上になったことが、小原の人格を歪ませ、学校を休みがちになり、万引きなどをするようになってしまう。

小学校を卒業し、14歳で石川町の時計店に住み込みの見習い職人として働いた。これは小原の父親が小原のことを思い、座って仕事のできる職業と考えたからである。ところが、その一家が疫痢(えきり)にかかったため、半年後に実家に戻った。

16歳のとき、正式な技術を身につけるために、宮城県仙台市にある宮城県身体障害者職業訓練所の時計科で学んだ。

その後、仙台市の時計店に就職したが、肋膜炎(ろくまくえん)を患い、療養のため帰省することになった。

病気が回復に向かった頃、周辺の家を巡回して時計の修理をするようになっていた。

20歳のとき、新聞の求人欄で職を見つけ、あるデパートの時計部に就職。そこでは2年間働いたが、同僚の女性が自分の足のことを嘲笑ったことに逆上し退社。

それからしばらくは失業の身、借金も重ねた。そうして職場替えを繰り返し東京へと流れ着いた。

小原は荒川区南千住に住んでいたが、東京でも職を転々とした。やがて、N子と出会う。N子も恵まれない環境に育った人間であった。2人がお互いを魅きつけたのは、社会からはじき出された者同士で、初めて心を許せる存在を見つけたからだったようだ。

しかし、一方で、仕事関係などで生じた借金が20万円にもなっていた。

1963年(昭和38年)3月27日、30歳になった小原は金策のため、故郷の福島に帰ったが、実家では門前払いされることを知っていたため、立ち寄ることもなかった・・・。

【 平塚八兵衛刑事の登場 】

1965年(昭和40年)3月31日、事件から丸2年経ったこの日、下谷北署の捜査本部はついに解散となった。

だが、これで捜査は終了したわけではなく、警視庁捜査1課に少数の専従捜査員の本拠を置き、捜査を継続することになった。これはFBI(米連邦検察局)が実施している犯罪捜査方式を真似たもので「FBI方式」と呼ばれた。この事件の専従捜査員に指名されたのは事件当初から捜査に当たっていた4人だけだった。

さらに、警察史上に前例のない大胆な決断を下した。それは、今まで捜査に関わったことのない人間を当てて、白紙の状態に戻して捜査を開始するというものだった。そこで登場したのが、平塚八兵衛部長刑事だった。

平塚八兵衛(1913〜1979)・・・初任地の鳥居坂署で外勤(交番勤務)だったが、ドロボーの検挙率が警視庁管内でナンバー1になり、その後、本庁に引き抜かれ、捜査1課に配属。以来、退職するまで32年余りを捜査1課一筋。巡査から巡査部長、警部補、警部、警視といずれも無試験で昇進した。その間に関わった主な事件に、小平義雄連続殺人事件(1945〜1946)、帝銀事件(1948)、下山事件(1949)、スチュワーデス怪死事件(1959)、吉展ちゃん誘拐殺人事件(1963)、カクタホテル殺人事件(1967)、3億円事件(1968)などがある。「落としの八兵衛」「ケンカ八兵衛」「オニの八兵衛」と様々な異名をもつ。この吉展ちゃん事件では犯人の小原保を自供に追い込み、「落としの八兵衛」に相応しい活躍で警察功績章を授章している。カクタホテル殺人事件では「自殺の偽装」を見破り、犯人を検挙。帝銀事件では冤罪の可能性がありながら警察界最高の警察功労章を授章。下山事件では他殺の可能性がありながら事件から約6ヵ月後に自殺と断定して捜査を打ち切り、スチュワーデス怪死事件では重要参考人とされた人物を取り調べまでしておきながら逮捕することができず、3億円事件では迷宮入りとなり時効を迎えてしまった。平塚は3億円事件の捜査本部キャップを最後に引退しているが、当時、在職中に警察功績章と警察功労章の両章を授章したのは平塚八兵衛だけらしい。平塚の著書に『三億円強奪事件 ホシを追いつづけた七年間の捜査メモ』(勁文社/1975)がある。関連書籍として『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』(新潮文庫/佐々木嘉信/産経新聞社[編]/2004)があるが、これを原作としたテレビドラマが、2009年(平成21年)6月20・21日の両日午後9時から2時間20分に渡り、テレビ朝日開局50周年記念ドラマスペシャルとして同名タイトル『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』(平塚役・渡辺謙)として放送された。

小原の3回目の取り調べのために、小原を東京拘置所に移監。

5月14日、平塚は小原のかつての恋人のN子のところに出向くが、ここで新しい情報を得ることができた。事件直後、小原が密輸で20万円を稼いでN子に預けたことは知っていたが、その他に弟に30万円ほど見せていたという。そうすると計50万円。身代金の額と一致する。

3日後の17日、平塚と望月の両刑事は小原の故郷・福島へ小原のアリバイの真偽を確かめるために出向いた。

[ 小原が主張するアリバイ → 調査結果 ]     

(1)3月27日、午後3時か4時ごろ、磐城石川駅に着き、駅前で従兄弟に会った。夜はA方の藁(わら)ぽっち(藁を積んだもの)で寝た。

→従兄弟が小原を見たという証言は正しかった。この日、藁ぽっちもあった。

(2)3月29日、朝9時ごろ、藁ぽっちで寝ていたところをAに追い出された。夜は実家の土蔵にかけられていた落とし鍵を木の枝で開け、中の凍(し)み餅を食べた。

→藁ぽっちで寝ていたのをAに追い出されたのは事実。しかし、小原の実家の話では土蔵の鍵は壊れてかかっておらず、凍み餅もこの年は作っていなかった。

(3)3月31日、夜はまたA方の藁ぽっちで寝た。

→Aは小原を追い出した朝、また、そこで寝られるとまずいと思い、藁ぽっちを焼いてしまっていた。だから、藁ぽっちはもう消えていた。

(4)4月1日、夜は同じく藁ぽっちで寝た。

→同じく藁ぽっちはなかったはず。

(5)4月2日、60歳ぐらいのBに見つかった。

→Bが小原を見たというのは事実だが、それは3月28日だったことが判明した。

(6)4月3日、上野に午後1時ごろ着き、その足でCを訪ねた。

→Cの証言は正しい。

小原が福島にいたことが証明できるのは3月30日までであった。

また、こんなことがあった。小原の家の横道で、老婆が泥田の中から這い上がってきて、平塚と望月の両刑事の前でいきなり土下座をした。保の老いた母親だった。「私は保をそんな人間に育てた覚えはないが、もし保がやっているんなら、早く真人間になって本当のことを言うようにいってやって下だせえ」そう言って、頭を地面にこすりつける。

文化放送の伊藤が録音した小原の声と脅迫電話の声が同じ人間の声なのかを、声紋の専門家であった東京外語大学物理研究室の秋山和儀助手に依頼。1ヶ月後、秋山は脅迫電話の声をソナグラフで分析し、30歳前後の声と推定した上で、双方の声がよく似ていると結論を出した。

また、現在、声紋鑑定の第一人者である日本音響研究所の鈴木松美所長は当時、科学警察研究所に在籍しており、小原の身代金要求の電話の録音テープを声紋鑑定している。(この他にも声紋鑑定を行なった専門家がいるようですが不明)

日本音響研究所

鈴木松美・・・1941年(昭和16年)1月1日、東京生まれ。近畿大学理工学部卒。ソルボンヌ大学および岐阜歯科大学の研究科を修了。警察庁科学警察研究所技官、科学技術庁技官を歴任。その間、KAY・エレメントリック研究所客員研究員、FBI科学捜査研究所留学を通して研究を深める。アキノ氏暗殺事件や吉展ちゃん誘拐事件、甲府信金女子職員誘拐殺人事件、グリコ・森永事件、日航ジャンボ機御巣鷹山墜落事故などの重大事件や事故を解明したことで知られている。主な著書・・・『音の犯罪捜査官 声紋鑑定の事件簿』 / 『いい声になるトレーニング 人に好かれる。信頼される。』 / 『誰も知らない声の不思議・音の謎』 / 『日本人の声』 / 『バウリンガル はじめて犬と話した日』

6月23日、東京拘置所で平塚八兵衛による小原の取り調べが始まった。この取り調べには制約が設けられており、正式な取り調べではなくあくまで任意でのものだということ。勾留期間も10日間であった。この日は本論に関係ない話で終わっている。

翌24日から本格的な取り調べを開始した。だが、小原は三白眼の目をジーッとさせてノラリクラリと話をはぐらかしたり、猿のマネをしたり、黙秘権を行使した。

あとで分かったことだが、なんとしても、しゃべるまいと頑張ったのは、犯人だと分かったあと、家の者が “村八分” にされることを心配したからだという。実際にそうなったのだが。

また、夜、寝れないからと言って睡眠薬を要求した。のちに分かったことだが、飲んだふりをして、あとでまとめて飲んで自殺しようと考えていたのだった。

7月3日(金曜日)、この日は勾留期間最後の日だったが、平塚は小原と何気ない世間話をした。そこで、小原が1963年(昭和38年)4月、福島から東京に戻ってきた日に、近所の火事の話をした。火事とは西日暮里のゴム工場の大火のことだった。小原は4月3日に東京に戻ったと言っていたが、大火は4月2日だった。小原は自ら墓穴を掘ったのである。

平塚 「おい、小原、黙って聞いていりゃあ、いつまでうそを言い通すつもりだ。いいか、よく聞けよ。俺が、お前のお婆さんや、血を分けた兄弟から聞いてきた話を全部しゃべってやる。お前の言うことが本当か、肉親の言うことが本当か、性根をすえて返事しろっ!」

ドスのきいた声だった。それからいきなりアリバイのことをまくし立てた。やがて、小原が入手して借金の返済に充てた金の話になった。小原はそれまでその金を密輸で儲けた金だと言い張ってしのいできた。平塚はその金と吉展ちゃんの身代金に関係があるに違いないと思い、問い詰めた。だが、小原はまたもはぐらかそうとしていた。

小原 「それは、月曜日になったら話します」
平塚 「そうすっと、関係ないとも関係あるとも言えないわけか?」
小原 「月曜日になってから話します」
平塚 「それはね、関係あるとか関係ないとか、君、ひと言じゃないか、あんた?」
小原 「関係ありません」
平塚 「関係なしと?」
小原 「ええ」
平塚 「保君ね、吉展ちゃん事件に関係ないなんて言い切って、あとでまたシッポを巻くんじゃないのかい? 僕は言っとくよ」
小原 「いや、そういった、シッポを巻くようなことはしないっす」
平塚 「いやねえ、君はね、関係がない金だと君が言い切った以上はね、これはあとが出ないということですよ。あとの君の真相が話せないという裏付けですよ、これは」
小原 「はたして、そうなるかどうか」
平塚 「君はあんた、これまで我々にね、材料を突きつけられて、君、それでもまだ逃げられると思っているの? それでもまだ、言い訳がつくと思ってんの、あんた?」
小原 「いや、自分がやったことに対しては、言い訳をしようとは思わない」
平塚 「言い訳しようと思わなければ、はっきり言葉に表れてもよさそうなもんだよ、君。良心があったら」
刑事 「そうだなあ」
平塚 「私はね、保君よ、君が海のものとも山のものとも分からんで、僕らくっついてんじゃないんだよ、君、君が言うね、福島のアリバイにしても、これ全部、崩れちゃってるんだ。いいかね、そして今度は、そこへもってきて、声の声紋が一致しているんだぞ。それから、あの事件当夜、君が金を稼いでいって、現実にN子に20万、D(弟)に30万見せてると、うん。これで君、何が不服なんだい? 君の性根はだね、いわゆる吉展ちゃん事件に関係ある金だと。しかし自分は今、心の整理ができていないから、月曜日まで待ってくれというんだと。ということのひと言に過ぎないんじゃないの、君? それを君が違うと言うから、おかしくなっちゃうんだよ。それが君のね、本音だとしたら、悪党だぞ君は!」
刑事 「そうだよ。もうね、そうねえ、お互い声を荒たげないでさあ・・・・・・」
平塚 「それが君の本音だとしたら、本当に悪党だぞ君! それほどにまで君が悪党になりきってるとは、思わなかったよ、君!」
刑事 「その理屈、分かるでしょう?」
小原 「分かります」
刑事 「ねえ、うん」
平塚 「だって君、吉展ちゃんとは関係ない金だということになればね、月曜日にこようが、日曜日にこようが、本論に入れないということですよ、これは」
刑事 「そういうことになりますね」
小原 「いや、本論になるのは間違いないんですよ」
平塚 「本論になるなら、これ関係ありですよ。本当のこと言って本論に入るというなら、あんた、吉展ちゃんに関係ある金ですと。答えはひとつですよ。イエスかノーですよ」
小原 「そういう風に言われちゃうと、どうしょうもないんだなあ」
刑事 「あんた、回りくどくねえか、うん?」

平塚は小原の母親が平塚に対してしたように、床に土下座して「早く真人間になって本当のことを言え!」と言った。それから間もなくして小原は落ちた。

小原  「(泣き出す)・・・・・・関係あります・・・・・・」
平塚 「何に関係あるんだ?」
小原 「(泣きながら)吉展ちゃんのお母さんから盗った金です」

翌4日、小原は自分の方から「何から話したらいいんでしょうか」と切り出した。「まず、仏さん(吉展ちゃん)を出せ」と言うと、それからはダーッと一気に全部話した。吉展ちゃんは村越家から直線距離にして700メートルのところにある円通寺の墓地に埋められていた。遺体は2年3ヶ月もそのままにしてあったので、すでに白骨化が進んでいた。遺体はいったん警察で解剖されたあと、村越家が檀家になっている回向院に納められ、寺の正面には吉展ちゃんを供養した2メートル以上もある「吉展地蔵尊」が祭られている。

小原は潔く次のように自供した。

<吉展ちゃんを殺害する4日前の1963年(昭和38年)3月27日、金策のため故郷の福島に帰ったが、借金のあてもなく、やむなく野宿して過ごすうちに無為に4日が過ぎてしまった。上野駅に戻る車中で、以前、三ノ輪の映画館で見たある映画作品の予告編を思い出した。それは、幼児を誘拐して身代金を取る映画『天国と地獄』(監督・黒澤明/主演・三船敏郎/東宝/1963年3月1日公開/ 『天国と地獄』[DVD/2003])だったが、自分でもやれるのではないかという気になり、3月31日、通りがかった台東区の入谷南公園で遊んでいた吉展ちゃんを誘拐した。身代金を入手するまでは吉展ちゃんを手放すわけにはいかないが、さりとて人目につきやすく、また、家族の元に返せば自分が片足に障害をもっているところからすぐに犯人であることが発覚するおそれもあり、逡巡しながら円通寺裏の墓地まで来たところで、寺の住職とすれ違った。このとき、自分の姿を見られたと思った。実際には住職は覚えていなかったのだが、墓石に腰かけながら泣き出しそうになった吉展ちゃんを抱き上げてなだめていたが、ほどなくして眠ったのを見て、この機にと、首を絞めて殺し、傍らにあった墓の下の石室にそのまま死体を隠した。2日後の4月2日、吉展ちゃんの失踪を報じた新聞で親元の氏名と住所を知り、上野駅にあった案内図で村越家の場所を確認し、その後、8回に渡って身代金を要求する電話をかけ、指定した置き場所から現金50万円を奪い取った。>

【 その後 】

1966年(昭和41年)3月17日、東京地裁は小原保に対し死刑の判決を言い渡した。

3月31日、弁護側は、小原は新聞の報道で被害者が吉展ちゃんと知ったのであって、それで身代金を要求することを思いついたくらいで、計画性はなかったとして反論し、控訴した。

9月20日から控訴審が始まり、計3回の公判の末、11月29日、東京高裁は控訴を棄却。

この判決を不服とした弁護士側は、最高裁に上告した。

1967年(昭和42年)10月13日、最高裁は1、2審の死刑判決を支持して上告棄却。これで死刑が確定した。

1969年(昭和44年)6月、教戒師の山田潮透帥(日蓮宗僧侶・故人)は荒れ狂った日々を送る小原に対して、宗教へ導こうとするが、受け入れようとしなかったので、心の寄りどころとして短歌を勧めた。

やがて、小原は『土偶』という短歌の同人誌の存在を知る。これは、長期療養者や回復者を会員とする雑誌であった。小原は『土偶』を主催する森川邇朗氏に宛てて入会を申し込んだ。

森川氏は当惑したが、小原の入会依頼の手紙から真剣な態度を読み取り同人に加えた。その後、森川氏の指導のもとでめざましい上達をし、その才能は広く世間に知られていった。

朝あさを籠の小鳥と起き競べ誦経しずかに処刑待つ日々

これは『土偶』に初めて掲載された小原の短歌である。小原は文鳥を飼っていたのだ。

1971年(昭和46年)3月20日、旧巣鴨プリズンの東京拘置所が廃監になり、葛飾区小菅(こすげ)1丁目の旧小菅刑務所が東京拘置所と改称した。この日、巣鴨から小菅へ約2000人の収容者が一斉に移動した。その中に小原保もいた。旧巣鴨プリズン跡地には、サンシャイン・プリンスホテルが建てられた。

死刑が確定すると、朝9時からの1時間を恐れる毎日の生活が始まる。いわゆる“お迎え”はおよそ、午前9時から10時、朝食後から運動までの時間にあるいうのが慣例になっている。通常の巡視や掃除の時間がいつになく急いで行われたりすると、死刑囚の舎房はそれだけで一気に恐怖のるつぼになり、全員が息をひそめて緊張した静寂に包まれるという。

小原が獄中で詠んだ短歌にこういうのがある。

この時間過ぎれば今日も生きらるる祈りの如く聴く鐘の音よ

今日来るか明日かと処刑待ついまを弛まざるなり作業の手指

だが、小原への死刑執行の言い渡しはその前日にあった。この日の午後、昼寝の時間に短歌を詠む。

明日の日をひたすら前に打ちつづく鼓動を胸に聞きつつ眠る

1971年(昭和46年)12月23日、死刑が執行された。38歳だった。このとき、小原は傍らにいた看守に言った。「今度、生まれてくるときは真人間に生まれてきますからと、どうか、平塚さんに伝えてください」この言葉は看守の口から電話で、当時、府中署の「3億円事件」(1968年12月10日事件発生)の特捜本部にいた平塚刑事に伝わった。

1980年(昭和55年)に発行された『昭和万葉集』という短歌の本に次の歌がある。福島誠一とは小原保のペンネームである。

詫びとしてこの外あらず冥福を炎の如く声に祈るなり (福島誠一)

小原保の著書(大浜秀子編集)に『氷歌 吉展ちゃん事件から二〇年 犯人小原保の獄中歌集』(中央出版企画/1983)がある。

『司法統計年報』によると、略取・誘拐事件の犯人は1960年(昭和35年)からどんどん増えている。1960年(昭和35年)は53人、1961年(昭和36年)は57人、1962年(昭和37年)は67人、吉展ちゃん事件があった1963年(昭和38年)は107人であった。

1963年の略取・誘拐事件が前年に比べて多いのは、同年3月1日封切りの誘拐事件を題材にした映画『天国と地獄』で、身代金の強奪に成功するというストーリーの影響もあるが、この映画からヒントを得た吉展ちゃん誘拐事件で、身代金の強奪に成功したことも影響している。

1963年(昭和38年)3月31日、吉展ちゃん事件が起き、4月19日には、公開捜査に踏み切ったのだが、このことにより、犯人取り逃がしという失態があったことが、一般市民の知るところとなり、厳しい批判の目が警察に向けられていた。そんなときに、5月1日には埼玉県狭山市で女子高生が誘拐され、身代金20万円を要求する脅迫状が舞い込み、指定の場所に刑事が40人も張り込んでいたものの犯人を取り逃がし、しかも、5月4日に、この女子高生が遺体で発見されるという狭山事件が起きた。5月23日、警察はあせって、予断で被差別部落の石川一雄青年を逮捕し、犯人に仕立ててしまった。1977年(昭和52年)8月、最高裁で無期懲役が確定してしまう。1994年(平成6年)12月21日、石川は31年7ヶ月ぶりに仮出所するが、今でも再審請求中である。

刑法では略取と誘拐の両罪は次のように一緒に規定されている。

224条・・・未成年者を誘拐した者は3ヶ月以上7年以下の懲役
225条・・・猥褻、結婚等の目的で誘拐した者は1年以上10年以下の懲役
225条の2・・・身代金目当ての略取・誘拐は無期または3年以上の懲役

なお、刑法225条の2の規定は、この種の事犯が頻発したため、1964年(昭和39年)になって急遽、新設された。

1964年(昭和39年)4月1日、この吉展ちゃん事件をきっかけとして警視庁の殺人事件を担当する捜査1課の第3強行担当班の中に「特殊班捜査係」を新設した。警視庁内部ではこの特殊班を通称「SIT」と呼ぶことが多い。公式には特殊班捜査係を英訳して「Special Investigation Team」としているが、実はこれは後講釈らしく、「捜査のS」「1課のI」「特殊班のT」にしたというのが本当らしい。

この事件を元にした小説に『誘拐』(文芸春秋/本田靖春/1977)がある。第39回文藝春秋読者賞と第9回講談社出版文化賞を受賞した。

また、小説『誘拐』がテレビ朝日系列の『土曜ワイド劇場』枠でテレビドラマ化され、『戦後最大の誘拐・吉展ちゃん事件』(演出・恩地日出夫/小原保役・泉谷しげる/1979年6月30日放送)と題して放送された。この作品は文化庁芸術祭優秀賞、テレビ大賞、芸術選奨文部大臣新人賞、第17回ギャラクシー大賞を受賞した。

1990年(平成2年)4月8日、NHKの『NHKスペシャル』で『声 〜吉展ちゃん事件取り調べテープ〜』と題して平塚刑事が小原保を取り調べしている最中の声(このページに記載されている会話内容の一部)が公開された。

参考文献など・・・
『誘拐殺人事件』(同朋舎出版/斎藤充功/1995)
『あの死刑囚の最後の瞬間』(ライブ出版/大塚公子/1992)
『誰も知らない「死刑」の裏側』(ニ見文庫/近藤昭二/1998)
『「命」の値段』(日本文芸社/内藤満/2000)
『捜査一課 謎の殺人事件簿』(二見書房/近藤昭二/1997)

『誘拐捜査 吉展ちゃん事件』(創美社/中郡英男/2008)
『一万三千人の容疑者 吉展ちゃん事件・捜査の記録』(集英社/堀隆次/1966)
『誘拐』(文芸春秋/本田靖春/1977)

関連サイト・・・
日本音響研究所

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