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狭山事件

【 事件発生 】

1963年(昭和38年)5月1日午後3時半ころ、埼玉県狭山市内の富裕な農家の娘で川越高校入間川分校別科1年の中田善枝(16歳)が「今日は(私の16歳の)誕生日だから」などと友人らに言い残して、いつもよりも早く自転車で下校した。この日の朝食は誕生日のお祝いとして赤飯だったが、帰宅後に自宅で誕生日の特別な計画はなかったという。

午後6時過ぎになったが、善枝は帰宅せずに行方不明になった。この日は午後2時ころから小雨が降ったりやんだりしていたが、午後4時20分ころから本降りになった。

川越高校入間川分校は定時制で、本科は夜間の4年制、善枝が通っていた別科は昼間の2年制で家政科のみ。地元では花嫁教室と呼んでいる。2年制の別科を終えても、高校卒業の資格は与えられず、各種学校扱いである。別科の1年生はこの年、17人だった。1学年1クラスで善枝はホームルーム長。善枝は18日しか学校に行っていない。

午後6時50分ころ、四女の善枝が帰宅しないのを心配した中田家の長男・健治(当時25歳/農業)が車(日産ブリスカという乗用貨物車で後ろに屋根のない荷台が付いていてピックアップで農機具や出荷物を積めるので農家では人気があった)を運転して約4キロ離れた入間川分校へ行き、善枝がいるかどうか訪ねた。だが、すでに昼間部の全生徒は帰宅していたので、別コースを通って善枝が帰宅したと考えた健治は入曽駅に寄って午後7時30分ころ、帰宅した。ところが、善枝はまだ帰っていなかった。

中田家から西武新宿線の入間川駅(現・狭山市駅/以下同)までは直線距離にして3.2キロで、さらにその先500メートル行ったところに入間川分校がある。新宿方面への隣の入曽駅へは中田家からも入間川駅からも直線距離にして3キロ離れており、中田家と入間川駅と入曽駅を直線で結ぶとほぼ正三角形になる。そのことから健治がわざわざ遠回りになる隣の入曽駅に行った理由がはっきりしない。善枝は自転車通学しており、電車を利用することがないので駅で待ち合わせることはない。

この日の善枝の授業は午前9時から始まり、45分授業で1時限目がペン習字、2時限目から4時限目まで調理の実習でカレーライスを作り、それを午前11時50分から昼休みにかけて食べて、午後1時からの5時限目は音楽、6時限目は英語だった。午後2時35分に授業が終わっている。いつもはそれからクラブ活動があり、善枝は卓球をして夕方の5時ころに下校し、午後6時ころに帰宅している。

善枝の放課後の目撃証言(↓<>内)については『狭山事件 50年目の心理分析 証言に真相あり』(勝どき書房/殿岡駿星/2012)を採用した。幾人かの目撃者が証言したその目撃時刻を無視してしまうことになるが、時間の経過とともに学校から遠ざかっていく最も自然な推測をした殿岡説にした。他の著者による著書には、目撃者が証言したその時刻がほぼ正しいと仮定しているものが幾つかあり、一度下校したものの再び学校に戻って再び下校、と推測しているものもある。ありえないわけではないが、不自然かつ学校に戻る途中の目撃証言がないことなどから参考程度とした。

< この日、善枝が下校した時刻を級友Nがのちの裁判で証言している。級友Nはいつも帰宅するとき、入間川駅発の電車で午後3時24分かあるいは午後3時54分のいずれかで帰っていたので、時間を気にしていた。いつもは午後3時24分発の電車に乗って帰るので、その1分前に下校した善枝のことはよく覚えていたという。また、教室のわきに自転車置き場があるので、そこから自転車をころがして出ていくのを見ていて、自分は午後3時54分発の電車で帰宅したと言った。

午後3時半ころ、善枝は入間川駅近くにある狭山郵便局に寄って、翌年行われる予定の東京オリンピックの記念切手(10円切手)10枚購入した。善枝は登校前に狭山郵便局に立ち寄り、東京オリンピック記念切手の購入の予約を入れている。切手はクラスメイト全員で共同購入することになっており、ホームルーム長である善枝が予約の仕事を任されていた。善枝は担任教諭から受け取った立替金を支払ったものの窓口が混雑していたため、遅刻するのを心配した局員に午後に来るように言われ、放課後に受け取っている。その後、同じく入間川駅近くの小沢毛糸店に寄り、裁縫用の針刺しをひとつ購入している。

その後、主婦が入間川駅から川越方面に向かった西武新宿線ガード下(通称・第1ガード)で自転車を横に置いて雨宿りしているように見えた善枝を目撃している。その時刻を午後3時20分としているが、時計を見ていないので正確とは言えない。その時刻は午後3時40分ころだったのではないかと推測している。

さらに、中学時代の担任の先生が第1ガードから川越方面に向かったところにあるガード下(通称・第2ガード)で、善枝が立っているのを目撃している。その時刻を午後3時としているが、正確には午後3時40〜50分ころだったのではないかと推測している。

さらに、善枝が卒業した堀兼中学3年生の生徒が加佐志街道の「澤の道」の関口自転車店付近で自分とは逆に東へ自転車で走っていった1年先輩の善枝とすれ違ったと言った。その時刻ははっきりしていない。 >

中田家の母親のミツは事件が起きる10年前の1953年(昭和28年)に死亡(44歳)。祖父母はそれぞれ1946年(昭和21年)、1957年(昭和32年)に死去している。ということで、父親の栄作(当時57歳)のほかは長男の健治、次男の喜代治(当時19歳/入間川分校4年生)、三男の武志(当時11歳/堀兼小学校6年生)、長女(当時27歳)は事件から8年以上前に家を出ており、事件当時は東京都北区のクリーニング店に住み込みで働いていた。次女の登美恵(当時23歳/家事)、三女は1943年(昭和18年)に2歳で死亡。四女の善枝という構成であった。

ひとまず、夕食を食べてから対策を考えることにして健治は家族とともに夕食のうどんを食べた。健治は靴を脱がず、玄関の土間の縁台の前の長イスに座ってうどんを食べていたが、他の家族4人(父親の栄作、次男の喜代治、三男の武志、次女の登美恵)は居間でうどんを食べていた。

それから10分後の午後7時40分ころ、健治が玄関口のガラス戸に白い封筒が挟んであるのを見つけ、それを三男の武志に取らせ、健治が受け取った。ここで、玄関口のガラス戸に一番近い位置(長イスからガラス戸まで約4メートル)にいた健治が自分で取らずに居間にいた武志を呼んで封筒を取らせた理由をのちの裁判で健治本人が「武志がいたずらしてガラス戸に何かを挟んだと思ったので本人に取らせた」と証言している。封筒の封はなぜか、すでに切られていて、「中田江さく」と宛名が書いてあった。健治は手紙は父親の栄作宛てになっているにもかかわらず、封筒の中の大学ノートを破った紙を取り出した。ここで健治が勝手に封筒から手紙を取り出した理由がはっきりしない。封がすでに切られていたとしても、この時点では手紙がどんな内容なのか分かっていないので栄作に封筒ごと渡すのが当たり前だと思うのだが。健治が封筒から紙を取り出したとき、次男の喜代治が下に落ちた善枝の高校の身分証明書を見つけて拾った。全家族が手紙を見る。健治と父親の栄作が主に読み、次女の登美恵が傍らでのぞいた。

そこには「子どもの命が欲しかったら、2日夜12時、佐野屋(酒類雑貨商)の前に20万円の金を持ってこい」という内容の脅迫文が書いてあった。10分前に帰宅したときには脅迫状がなかったから、その10分の間に脅迫状が持ち込まれたことになる。脅迫状をガラス戸に挟んでいるところを中田家の誰かに見られるかもしれないというリスクがありながら犯人は脅迫状をわざわざ被害者宅に出向いて届けたことになる。健治はすぐに片道1分はかかる隣の親戚の中田玉平に脅迫状を持って行って見せて、事件が起きていることを知らせた。ここで、わざわざ親戚である隣の家まで知らせに行った理由がはっきりしない。

玄関から南へ22メートル離れたところに物置があり、栄作は物置の軒下にある車(日産ブリスカ)のそばにいたが、車のわきに善枝の自転車があるのを発見した。その場所は善枝がいつも置いている場所だった。その後、健治が戻ってくるまでどういう訳か暗闇で電燈もつけずに待っていた。

午後7時50分ころ、健治が隣の親戚の家から自宅に戻り、物置に行くと、栄作が健治に善枝の自転車があることを伝えた。健治は「犯人がここまで自転車に乗ってきたのだ。親父さん警察に行くから車に乗ってくれ。自転車には触らないで。犯人の指紋が付いているかもしれないから」と言って、奥から電燈のコードを引っ張り、灯りをつけてみると自転車は雨に濡れていたが、サドル部分は濡れていなかった。自転車があれば、もしかしたら(脅迫状はいたずらで)善枝が帰って来ているのかもしれないと思ったりするものだが、そう思った様子はない。また、脅迫状と同様に自転車を返しにきたところを中田家の誰かに見られるかもしれないというリスクがありながら犯人はわざわざ被害者宅に自転車を返しにきたことになる。

その後、脅迫状には「警察に話したら子どもは殺す」と書かれてあったが、健治は躊躇することなく、車の助手席に栄作を乗せて運転し、午後7時55分ころ、堀兼駐在所に届け出た。午後7時40分に脅迫状を発見してからわずか15分後には駐在所に届け出たことになる。巡査は届け出調書に「午後7時55分」と記入している。その後、駐在所から狭山署に連絡され、緊急捜査体制が取られた。脅迫状には健治の指紋と駐在所の警察官の指紋しか発見されなかったことから中田家の健治以外の家族が手に取って読んでいないことが分かる。健治が車を運転中、栄作には自分に宛てた脅迫状を手に取って読み返したいという思いはなかったのだろうか。

この日の午後7時半から40分までの間に犯人は中田栄作の家の玄関のガラス戸に脅迫状をはさむことができているが、実は同じ「中田」姓の家が近くに10軒あり、犯人は近くのU宅に寄って「中田栄作さんの家はどこですか?」と訊いている。それに対しUは「4軒先だよ」と答えている。Uが玄関に出てみると若い男が立っていて、すぐに自転車をころがして道路の方に消えてしまったので顔はよく見えなかったようだ。1審ではのちに逮捕、起訴されることになる石川一雄を見て「この男だ」と証言したが、2審では「石川さんではない」と証言を変えている。

[ 脅迫状 ]

(誤字や句読点、改行、取り消し線は原文のまま/横書き)

少時様  このかみにツツんでこい

 子供の命がほ知かたら4月29日の夜12時に、

五月2日

金二十万円女の人がもツての門のところにいろ。

さのヤ

友だちが車出いくからその人にわたせ。

時が一分出もをくれたら子供の命がないとおもい。ー

刑札には名知たら小供は死。

もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにか江て気名かツたら

子供わ西武園の池の中に死出いるからそこ江いツてみろ。

もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにかえツて気たら

子供わ1時かんごに車出ぶじにとどける、

くりか江す 刑札にはなすな。

気んじょの人にもはなすな

   子供死出死まう。

もし金をとりにいツて、ちがう人がいたら

そのままかえてきて、こどもわころしてヤる。

<『犯人 「狭山事件」より』(晩聲社/殿岡駿星/1990)>

部落解放同盟東京都連合会狭山事件狭山事件資料室狭山事件の脅迫状

脅迫状が入っていた封筒の宛名は、<少時様中田江さく>になっていた。

「少時」は「しょうじ」と読むとして、苗字だとすると、「庄司」や「東海林」が一般的で、名前だとすると、「正二」「昇治」などとなるのだが、誰のことなのか分かっていない。

脅迫状と封筒にある「取り消し線」は1本ではなく、何本も引かれてあったが、取り消された文字が判読できるものであった。冒頭部の「少時様」が消されており、「4月29日」が消されて、その文字の下に「五月2日」、「前」が消されてその文字の下に「さのヤ」、封筒の「少時様」が消されて「中田江さく」にそれぞれ訂正されている。

「4月29日」は事件当時は「4月28日」とされていたが、事件から十数年たった段階で赤外線写真で分析したところ、「4月29日」であることが分かっている。

この脅迫状の文字の使用について特徴をあげると次のようになる。

(1)「つ」を「ツ」、「や」を「ヤ」というようにいくつかのひらがなに対しカタカナが使用されている。また、「ツ」については、「もって」(持って)を「もツて」、「いって」(行って)を「いツて」、「かえって」(帰って)を「かえツて」というように、本来、促音(小さい「っ」)を用いるべきところも同じように「ツ」としている。

(2)「し」を「知」、「で」を「出」、「な」を「名」、「え」を「江」、「き」を「気」、「し」を「死」というようにいくつかのひらがなに対して漢字が使用されている。

(3)「知」→「し」→「死」→「し」、「な」→「名」→「な」、「江」→「え」→「江」→「え」というようにひらがなと漢字が混じって使用されている。

(4)「おくれたら」(遅れたら)が「をくれたら」、「子供は〜」が「子供わ〜」といった誤用が見られる。だが、「おもい」(思い)、「刑札には名知たら」(警察に話したら)とあることから「お」「は」の文字自体は知っているようだ。

(5)「刑札」「小供」などのように間違った漢字が見られる。

(6)「子供」→「小供」→「子供」というように正しい漢字の間に間違った漢字が見られる。

(7)下から5〜3行目の「くりか江す〜子供死出死まう」は他の文に比べて大きい字で書かれている。

この脅迫状は誤用が多いので、一見国語能力が低い人が書いたように見えるが、(3)〜(6)から推測して文字の誤用をわざとしてそれによって、国語能力が低いように偽装した可能性があった。

脅迫状には「20万円を女の人がもって佐野屋のところにいろ」とあることから、犯人が中田家の家族に善枝以外にも女性がいることが分かっていた可能性がある。「女の人」であれば誰であってもいいと解釈すれば、女性警察官であってもよかったはずだが、そうしようと思った様子はない。

2日夜、健治は次女の登美恵を車に乗せて途中まで送った。その後、登美恵は佐野屋までの330メートルの街灯のない道を歩き、午後11時50分ころ、指定された佐野屋の前で20万円に見せかけた偽造紙幣を持って立った。辺りは真の闇であった。脅迫状では「友だちが車で行くからその人に渡せ」となっていたが、3日午前0時10分ころ、その犯人は佐野屋から東へ30メートル地点の茶畑の中から登美恵に声をかけた。

犯人  「おいおい、来てんのか」
登美恵  「来てますよ」
犯人☆  「警察に話したんべ。そこに2人いるじゃねえか」
登美恵  「1人で来てるから、ここまでいらっしゃいよ」

(実際に交わされた会話はもう少し長いようだが、会話内容については証言者により多少食い違いがある。証言の中から共通した部分を取り上げると、だいたい上記のような会話がされたことになる。)

会話を交わした後、犯人は張り込みに気づいて逃げてしまった。このとき、警察官は40人で張り込んでいたにもかかわらず、犯人が逃走してから、慌てて追いかけるという大失態をしてしまった。犯人に近い位置で張り込みをしていた警察官には年輩の人が多かったことが原因のようである。この「年功序列の配置」はのちの2審・東京高裁での元警部の証言でも明らかになっている。

約1ヶ月前に、東京で起きた吉展ちゃん誘拐殺人事件(同年3月31日に誘拐・殺害)で犯人を取り逃がしていた警察は、面目まるつぶれの状態で、善枝の遺体が発見された4日当日、柏村信雄警察庁長官は辞表を提出し引責辞任した。

上田明埼玉県警本部長は「犯人は必ず土地の者だという確信をもった。近いうちにも事件を解決できるかもしれない」と言い、中勲(なかいさお)捜査本部長も「犯人は土地カンがあることは今までの捜査でハッキリしている。近日中にも事件を解決したい」と強気の発言をした。

5月3日、捜査官は犯人を取り逃がした夜が明けてから調べ始めたが、犯人の足跡らしきものが佐野屋の東南方向の畑に見つかり、その臭いを警察犬に追わせると不老川(としとらずがわ)という小さい川の近くまで行ってあとは分からなくなったという。そしてその足跡や臭いの跡が消えた場所から遠くないところに石田養豚場があった。そこで、警察は犬がその近辺で臭いを追えなくなったのは犯人が石田養豚場の者だからと考えたのである。経営者の石田一義やその家族、従業員は狭山市内の被差別部落の出身者であった。この段階から狭山事件は部落差別問題と関わりを持ち始めるようになる。

また、午後3時ころ、狭山市入間川井戸窪の雑木林で善枝の自転車についていたゴムひもが見つかった。

5月4日午前10時半、強姦殺害された善枝の遺体が、雑木林から麦畑に出たところの農道に埋められていたのが発見された。遺体を埋めた穴は縦166センチ、横88センチ、深さ86センチで、善枝はうつぶせの状態になっていた。セーラー服は着たままでスカートはまくられ、ズロースがひざまで引き降ろされていた。セーラー服のポケットには東京オリンピック記念切手10円切手10枚とその予約受付領収証、ハンカチ、裁縫用の針刺しが残されていた。<月島食品工業の月印テーブルマーガリン>と印刷してあるタオルで目隠しがしてあり、顔の下にはビニール片が1枚敷いてあった。このビニールは築地の青果会社「丸京」が堀兼農協を通じて堀兼地区のゴボウ農家に配布した霜除け用のもので、そばの土中から発見されたビニール片も同じものと思われた。さらに敷かれたビニールのそばからはその青果会社の名が記された荷札も一緒に発見されている。両手は後ろ手に手拭いで縛られていた。手拭いは五十子米穀店が宣伝用に配ったものであった。頭の上には縦20センチ、横16センチ、高さ13センチ、重さが6.6キロの玉石が置かれていた。両足は靴をはき、靴下はきれいだった。首と足首は細引きで縛ってあった。その縛り方はアメリカのカウボーイが投げ縄に使うような「すごき結び」で絞められていた。その細引きの端にはビニール風呂敷の端が結びつけてあった。そしてその両端の切れたビニール風呂敷がその遺体発見場所から20メートル離れた芋穴(さつまいもを貯蔵するために掘られた穴)の底に置かれていた。芋穴は深さが3メートルで横穴もある。足首を縛っていた細引きには荒縄が結びつけられてあった。荒縄は4本に分かれていて1番長いのが6メートル90センチ、次が6メートル75センチ、5メートル58センチ、4メートル80センチとなっていた。また、遺体の上にはかなりの量の茶の葉がかぶせられていた。踏み固められた農道を掘り起こし、しかも中に死体を入れておきながら現場は土が少しも盛り上がっていなかったことから残土処理をした形跡があった。

遺体の隠し場所をすぐ近くの雑木林にせず、人が通る農道にしたことやタオルで目隠ししたり、顔をビニール、頭を玉石で(遺体を掘り出すときに使われるスコップなどから)保護したのは、早い段階に顔がきれいな状態で発見されることを犯人が望んでいたからで、犯人は後の葬式などで被害者の死顔を見る立場にいる人という推理ができるが、逆にそういう立場にない犯人がそういう推理をさせるために、偽装した可能性も考えられなくもない。証拠になるようなタオルや手拭い、荒縄や細引きなどをわざわざ遺体に縛ったまま残したのは捜査を混乱させるためと考えると、それらのモノは盗んできたモノとも推理できる。一見、国語能力が低い人が書いたように見える脅迫状と関連付けて、タオルや手拭いを市内の被差別部落から盗んできた可能性がある。

同日の夜、埼玉県警に依頼された五十嵐勝爾鑑定医が中田宅で司法解剖した(この当時の農村部の殺人事件では被害者宅での解剖は珍しいことではなかった)。死因は首を絞めたことによる窒息死。他に頭、首、左鼠けい部に生前に受けたと思われる傷があった。また、善枝は生前に姦淫されていた。精液の血液型はB型だった。死亡推定時間は善枝が最後に食事したときから最低3時間を経過したころと認められるという。死斑から「死体は数時間仰向けにされ、それからうつ伏せにして埋められた」と証言した。これは死斑が背中にも腹部にも胸にも出ていたので分かった。弁護側は新たに京都大学教授で医学博士の上田政雄医師に再鑑定を依頼して鑑定書を提出した。これによると、「暴力による性交でない可能性もある」ということが分かった。五十嵐鑑定でも善枝はすでに処女ではなかった可能性があることが分かっている。また、死体は農道に埋める前に死体を隠す目的で、殺害後、芋穴に逆さ吊りにしたことになっているが、逆さ吊りにした場合に、足首を縛ったときにできる細引きの跡が残っていないことからその可能性がないことが分かった。後頭部にかなり大きな傷があったが、これは死後にできた可能性が強いことも分かった。さらに、左口唇部下部の擦過傷と右大腿部上部にあった擦過傷は死体を引きずったときにできたものと見ている。上田鑑定では首に残された傷から幅の広い凶器かあるいは幅の広い鈍体(手拭いやマフラー、腕など)で絞めたかのいずれかだとした。死体の胃の内容物に250CCものかゆ状になった流動物があった。五十嵐鑑定では「食後最短で3時間強」としているが、上田鑑定では「かなり多く残っているので食後2時間くらいと考えるのが適当」と見ている。胃の中からトマト、ナス、タマネギ、ニンジン、ジャガイモ、米粒、小豆などが見つかっているが、その日の学校の料理実習で善枝はカレーライスを食べた。その内容は米、肉、ジャガイモ、タマネギ、ニンジン、福神漬けだった。ところが、胃の中にはカレーライスの黄色い色素が残っていないし、食べたはずのないトマトがあった。善枝は学校を出てからどこか別のところでトマトを含んだ食事をしたことになる。

[ 1人目の変死者 ] 5月6日、運送会社・西武通運の従業員の奥富玄二(31歳)が農薬を飲み、井戸に投身自殺した。奥富は中田家に住み込みで働いていたこともあり、善枝と交際があった。奥富の建てたばかりの新居は遺体発見現場から200メートルしか離れていない。事件当日、運送会社を早退してからのアリバイは不明だった。血液型はB型で、善枝の膣内にあった残留液と同じ血液型。脅迫状の筆跡と酷似している。誕生日に合わせて奥富が善枝と待ち合わせした可能性が大きい。奥富は翌日に自分の結婚式を控えていた。

同日、特捜本部は、石田養豚場の経営者の石田からスコップ紛失届を入手し、石田養豚場に出入りしていた部落民に対する見込み捜査を開始した。

当時の篠田弘作国家公安委員長は「犯人に死なれてはたまらない。必ず生きたまま捕らえる」と発表した。

5月7日、捜査本部は奥富が自殺して1日しか経っていないにもかかわらず、「奥富玄ニにはアリバイがあった」と発表して捜査を打ち切った。あくまでも、生きたまま犯人を捕らえることに執着した。

[ 2人目の変死者 ] 5月11日、現場付近で怪しい3人組を見たと警察に届け出た田中登(31歳)がノイローゼになり、包丁で心臓を突いて自殺した。「警察に情報提供したのに、逆に犯人扱いされた」と悩んでいたらしいが、この自殺にも不可解な点が多い。

同日午後5時ごろ、狭山市入間川東里の小麦畑で農作業をしていた人がスコップを発見した。善枝の遺体が発見された地点から西へ124メートル離れたところだった。このスコップは石田養豚場から盗まれたものだった。そこでスコップに付いていた土を調べたところ、遺体を埋めた地点の土と同じものという鑑定結果が出たことから遺体を埋めたときに使ったスコップと認定された。

【 逮捕 】

1963年(昭和38年)5月23日、被差別部落の青年の石川一雄(当時24歳)が、ケンカや上衣の窃盗の別件で逮捕された。石川は事件の3ヶ月ほど前まで石田養豚場に勤めていた。ちなみに、石川も血液型はB型である。また、石川とその家族が住んでいた狭山市内の被差別部落は被害者の中田善枝の遺体が埋められていた場所の近くであった。その部落には石田養豚場関係者が多く住んでいた。

共同通信社は逮捕前から有力容疑者が石川一雄であるという情報を入手していたが、逮捕前日の5月22日、工事現場で働いていた石川を撮影している。身長155センチの青年がスコップを動かす手を休め、はにかんだ微笑でこちらを向いている写真は記者がさりげなく話しかけているところをカメラマンがおよそ10メートル離れた位置から隠し撮りしたものだった。やがて幾つかの新聞や雑誌にこのときの写真が使われ、「ふてぶてしい笑い」などと酷評されたりした。

逮捕された5月23日、石川宅の家宅捜査をベテラン刑事12人が約2時間17分かけて行った。家の中はもちろんのこと、庭の土まで掘り返したり天井裏や屋根の上まで調べた。そしてノートやメモ帳、封筒、地下足袋などを押収した。だが、これらの押収品はひとつとして事件に結びつくものはなかった。

同日の『サンケイ新聞』夕刊に、中田家の長男・健治の自作の詩が掲載された(誤字や句読点、改行は原文のまま)。

善枝の位牌の前で犯人逮捕の報をきき

「善枝! 本当にこの人なのか?」

と聞いても遺影は何もいわず、表情すら

変えられないのです

全国から多大なる激励、慰めの手紙をいただき

一刻も早く今日のこの日を待って居たのですが

長びいてしまいました。これも農村という古

くからの何ものかが ひそんで居たのではないのか?

と責めざるお得ないのです

この様な憎むべき犯罪が善枝以外に誰の許

にも起こらぬ様、世の皆様にお願ひ致します



苦しかった事だろう 善枝よ!

安らかにねむりたまえ!

<『犯人 「狭山事件」より』(晩聲社/殿岡駿星/1990)>

5月25日、善枝の遺体発見場所から北へ300メートル離れた雑木林と桑畑の境の溝から桑畑の持ち主によって善枝の教科書やノートなど12点が見つかった。

警察は石川を別件で逮捕しておきながら、最初から善枝殺しでの取り調べを行っており、外部に対しても逮捕当日から「筆跡などで石川が犯人であることに確信がある」などと発表した。

しかし、石川はウソをついていない証拠として、ポリグラフにかけることを希望するなど、あくまで本件については否認し続け、勾留満期の6月17日、警察は石川を保釈しなければならなかった(別件については起訴)。

6月17日、警察は保釈と同時に警察署前で今度は本件の「殺人」で再逮捕した。しかも、へき地の川越署警察分室へ身柄を移し、弁護士の接見を妨げるなど、石川の孤立化をはかり、一気に「自供」に持ち込もうとした。

6月18日、2回目の石川宅の家宅捜査を刑事14人が2時間8分かけて行った。石川宅の古井戸に潜って調べるため、米軍ジョンソン基地から酸素ボンベを持った米兵3人も応援にきた。だが、この日も事件に結びつくような証拠は何も見つからなかった。

6月19日、石川はハンガーストライキをやるなど激しい抵抗をした。

6月20日、石川は裁判官の勾留質問に対して、はっきりと否認の態度を示していた。だが、激しい抵抗のあと、疲れ果て警察の言いなりになって「自供」してしまう。

6月21日、石川は善枝が持っていたカバンを捨てた場所の地図を書かされ、この「自供」に基づいてカバンが「発見」されたが、このカバンは遺体発見地点から435メートルも離れていた。

6月23日、石川が単独犯行を「自白」。

6月26日、3回目の石川宅の家宅捜査で「自供」に基づいて善枝が持っていた万年筆が、石川の自宅の台所の鴨居の上から「発見」された。このときは3人の刑事がやってきて24分で終わった。

4人の刑事は兄の六造に対し「鴨居の上に石川君が何か置いてあるかもしれない、と言うので見てくれ」と言った。そのとき1人の刑事はカメラを構えていたそうだ。六造が鴨居に手を滑らすと万年筆が出てきた。そのとき、パチリとシャッターが下ろされた。これまで2回も家宅捜査しているにもかかわらず、鴨居を探さなかったことや普通なら指紋が出るかもしれないのにその万年筆を人に触らせたことが不思議であった。

6月29日、石川が善枝の腕時計を捨てた場所を「自供」。

7月2日、石川の「自供」に基づいて腕時計を捨てたとされる場所の付近から、時計が「発見」された。

警察はこれら、カバン、万年筆、腕時計が「自供に基づいて “初めて” 発見された」ことをもって、これこそ石川が真犯人であることの動かせない証拠だと言い立てた。

7月9日、石川は強盗強姦死体遺棄の容疑で浦和地検(現・さいたま地検/以下同)に起訴された。

【 裁判 】

1963年(昭和38年)9月4日、浦和地裁(現・さいたま地裁/以下同/内田武文裁判長)で第1回公判が開かれた。

12月13日、善枝の姉の登美恵が近くの極東第5空軍のジョンソン基地に勤めている男(当時26歳)と結婚した。相手の男は2つ年上で兄・健治の同級生であった。ところが、婚姻届を出しても挙式も同居もせず、山下姓になった登美恵は依然として中田家にとどまっていた。

このことについて戸籍上で夫だった男はのちの東京高裁での第60回公判で「勤め先であるジョンソン基地に扶養家族を届けていれば税金面で有利になるからで、暮のボーナスに関連して早めた。結納金を交わしていたし、いずれ一緒に暮らすつもりだった」と述べた。

1964年(昭和39年)3月11日、11回目の公判であるこの日、浦和地裁は石川一雄に対し、死刑の判決を言い渡した。この間、石川はひと言も否認の言葉を漏らさなかった。

3月12日、石川は死刑判決を不服として控訴した。

[ 3人目の変死者 ] 7月14日、善枝の姉の登美恵(24歳)が死刑判決直後から精神に異常をきたし、自宅で農薬を飲んで自殺した。死刑判決がよほどショックだったようだが、これは、登美恵が真犯人を察知してしまったために、陥ったパニックから派生したものと見られている。

戸籍上の夫だった男はこのとき、フトンに寝かされていた登美恵の遺体を見ている。遺書らしいものがあって、「幸せになって下さい」と書いてあるのを読むが、受け取ったわけではなく、また死因を確かめることもなく、通夜にも葬列にも参列しなかった。のちの公判でこの男は法廷で証言をしているが、「遺書はよく覚えていない」「自殺の理由については深く考えなかった」「どのような方法で自殺したかも別に訊かなかった」などと答えている。この男は約1年後に別の女性と再婚している。

9月10日、東京高裁で、第1回公判が開かれた。このとき、石川は「刑事さんから、別件だけでも10年の懲役だが、犯行を認めれば、10年で出してやると言われ、信じた」「このことは弁護士にも話していない」と自分の無実を公判において初めて主張した。

[ 4人目の変死者 ] 1966年(昭和41年)10月24日、事件当時、スコップが盗まれた石田養豚場に勤めていて、養豚場経営者である石田一義の兄・石田登利造が、西武線入曽駅近くの踏切りで電車に轢かれて死亡した。登利造は捜査本部の参考者リストに載っていた。警察は自殺と断定した。

1968年(昭和43年)11月14日、東京高裁での第30回公判で弁護団が脅迫状の筆圧痕問題を新事実として提出。

1960年代後半から全世界に広がったベトナム反戦運動や1966年(昭和41年)からの中国の「文化大革命」、1968年(昭和43年)のパリの「5月革命」などの時代背景の影響もあって、1969年(昭和44年)1月の東大安田講堂を占拠した学生による東大闘争など、全国の大学で学園闘争が吹き荒れるようになった。そうした時代と狭山裁判は関わっていくことになる。東大闘争の概要は東大闘争と日大闘争

1969年(昭和44年)11月、被差別部落出身学生による「狭山差別裁判糾弾」を掲げた「浦和地裁占拠闘争」に始まり、この頃から部落解放同盟が本格的に狭山裁判に乗り出すことになる。解放同盟による全国大行進が行なわれ、公正裁判要求の署名は300万人を超え、文化人や地方議員による公正裁判を求める声明・決議が相次いで出された。

1970年(昭和45年)12月3日、部落解放同盟中央本部が『狭山差別裁判』を発行。

1971年(昭和46年)5月29日、「狭山差別裁判に対する公正裁判要求、石川一雄氏の即時釈放」を求める100万人署名運動、始まる。

1972年(昭和47年)7月27日、弁護団が石川の無実を裏付ける「6つの鑑定書」を提出。

11月28日、井波裁判長、定年退官。代わって第4刑事部の寺尾正二裁判長が担当することになった。

ちなみに、寺尾正二裁判長は1974年(昭和49年)8月28日に神奈川県平塚市の団地で起きた、いわゆるピアノ騒音殺人事件に東京高裁の裁判長として関わった人物である。この事件でのちに起訴された大浜松三(事件当時46歳)は1975年(昭和50年)10月20日、1審の横浜地裁小田原支部で死刑判決となり、大浜は控訴を希望していなかったが、弁護人が説得して大浜に控訴趣意書を書かせた。その後の東京高裁が命じた精神鑑定では「パラノイアに罹患していて責任能力なしの状態にあった」とされたが、大浜は弁護人に相談もせずに控訴を取り下げてしまう。この控訴取り下げを有効と認める決定を下したのが寺尾正二裁判長である。

1974年(昭和49年)10月31日、東京高裁は石川と弁護団の「被告は無実である。自供は全て、警察の誘導によって造り上げられたものだ」という主張をことごとく斥けて、寺尾裁判長は、無期懲役の判決を下した。石川と弁護団はただちに上告した。

確定判決となった東京高裁での判決に基づいた事件の筋書きは次の通りであった。筋書きはほとんど石川の「自白」によるものである(<>内)。

< 石川一雄は、それまで勤めていた石田養豚場を辞めたのち、兄のやっている鳶の仕事の手伝いをしていたが、父親への借金を返し、東京の姉のところへ行って働く金が必要であった。そこで、1ヶ月前に東京で起きた幼児誘拐事件、いわゆる「吉展ちゃん事件」をまねて、子どもを誘拐し、20万円を取ることを計画し、4月28日の午後、脅迫状を自宅で書いた。妹のノートを破った紙にボールペンを使い、漢字が書けないので、妹の『りぼん』という雑誌を手本にして、ふりがなを頼りに漢字を選んで脅迫状を書いた。脅迫状はジーパンのポケットに入れたまま、持ち歩いていた。

5月1日の朝、仕事に行くと言って、弁当箱を持って家を出たが、仕事には行かず、パチンコなどをして時間をつぶした。午後2時ごろ入間川駅に戻り、あてもなくブラブラと歩いて、山学校のほうへ行った。山学校の手前の十字路で、自転車に乗った女子高生の中田善枝がやって来たので、とっさに誘拐しようと考え、自転車の荷台を押さえ、「用がある」と言って止めた。中田善枝は黙って雑木林までついて来た。途中、父親の名前と家の場所を尋ねたら、素直に答えた。

雑木林の中に連れ込み、松の木に手ぬぐいで後ろ手に縛り、タオルで目隠しをしたが、特に抵抗なく、腕時計と3つ折り財布を取った。急に強姦する気になり、いったん手を解いて、松の木から離れたところで縛り直し、近くの杉の木のところで押し倒して、強姦しようとすると、「キャー」「助けて」と大声で悲鳴を上げたので、右手を広げて首を上から押さえつけた。強姦し終わって気が付くと中田善枝は死んでいた。

近くの檜の下で30分ぐらい考えたあと、死体を両手で抱えて雑木林を出て、畑の中の農道を通って200メートル離れた芋穴まで運んだ。死体を芋穴のそばに置いて、荒縄と麻縄を盗んできて、芋穴に逆さ吊りにした。

被害者の自転車に乗って脅迫状を届けに中田善枝の自宅に向かった。途中で、カバン、教科書、ゴムひもを捨てた。カバンを捨てるとき、中から筆箱だけを取り出し、ポケットに入れて持ち帰った。中田善枝宅の近くの農家で、「中田宅は、どこか」と尋ねる。中田宅の玄関の戸のすきまに脅迫状を差し入れた。

そのあと、以前勤めていた石田養豚場に行きスコップを盗み、芋穴に戻って、死体を引き上げて、すぐそばの農道に穴を掘って埋めた。帰るときにスコップを近くの麦畑に放り投げて捨て、夜の9時過ぎに家に帰った。

翌5月2日の夜10時ごろ、身代金を奪うために、兄の地下足袋をはいて家を出て、佐野屋の脇の畑で待った。12時ごろ「おばさんのような人」がやってきたので声をかけたが、近くに人がいたようなので金を取らずに逃げて帰った。その後、持ち帰った筆箱は風呂場のたき口で燃やし、中にあった万年筆は、鴨居の上に置いた。腕時計は11日ごろに路上に捨てた >

この「自白」に疑問がないか検証してみると・・・

[ 足跡 ] 身代金受渡し場所の佐野屋近くの踏み荒らされた畑に犯人のものと思われる地下足袋の足跡が残されていた。警察が石膏を流して採取した足跡の数は40個以上もあったが、5月4日付けの鑑識課の報告書では、10文〜10文半の大きさの地下足袋による足跡とされた。5月23日に、石川逮捕とともに、地下足袋5足を押収したが、それらの大きさはいずれも9文7分であった。そこで、警察は現場の足跡は9文7分の押収した地下足袋によってできたもので、破損痕も一致するとした。

[ 指紋 ] 不思議なことに、石川の指紋が検出されていない。脅迫状や封筒に7つ、善枝が持っていた万年筆に3つの指紋が残されているのだが、いずれも、照合不可能とされている。

[ 筆跡 ] 石川は別件逮捕される2日前の1963年(昭和38年)5月21日に警察によって次のような上申書を書かされている(誤字や句読点、改行などは原文のまま/横書き)。

上申書

狭山市入間川2908

石川一夫 24才

はたくしわほん年の五月一日のことにツいて申し上ます

五月一日わにさの六造といツしよにきんじよの水村しげ

さんのんちエやねをなしにあさの8時ごろからごご4時

ごろまでしごとをしましたのでこの日わどこエもエでません。

でした そしてゆうはんをたべてごご9時ごろねてしまい

ました

昭和38年5月21日        狭山けいさツしよちようどの

右 石川一夫

<『犯人 「狭山事件」より』(晩聲社/殿岡駿星/1990)>

部落解放同盟東京都連合会狭山事件狭山事件資料室石川さんの上申書の写真

当時、石川は「一雄」の「雄」という字が難しくて書けずに「一夫」と書いていた。石川のこの文章と脅迫状の文章を比べて学習院大学教授の大野晋が表記能力と句読点について鑑定したが、それによると、脅迫状では「警察」を「刑札」と書いているが、漢字を書く能力が低かった石川がこの字を書くはずがないという。また、脅迫状は10ヶ所以上も正確に句読点が使用してあるのに、石川が書いた上申書には1ヶ所しかなく、しかもそれは「どこエもエでません。でした」と極めて幼稚な付け間違いをしている。「石川には脅迫文を作る能力がない」と結論付けた。脅迫状の文章構成と用語について京都市教育委員会の磨野久一指導主事が鑑定しているが、それによると、当て字は普通当然漢字で書くべき字に用いるものだが、脅迫状では「帰って」を「か江て」、「来なかったら」を「気名かったら」のように、ひらがなで書くところを明瞭な漢字で当てているのが特徴。また、脅迫状の文章は全体的にまとまっている。「二十万円」とせず「金二十万円」と金額表現をしている点や訂正箇所が少ないことから、一気に脅迫状を書き上げられるだけの文章構成力のある者と考えられるとしている。そして、脅迫文は小学5年修了程度の学力である石川が書いた文章とは考えられないと結論付けた。

これらの鑑定結果に対し、脅迫状と封筒の筆跡については、脅迫状の筆跡と石川の筆跡が一致するという警察関係者の鑑定結果が真っ向から対立した。

東京高裁の寺尾裁判長は、警察関係者の鑑定の結論にそのまま依拠していたが、石川は教育程度が低く、逮捕された後に作成した図面に記載した説明文を見ても誤りが多い上に、漢字もあまり知らないことが判り、そうしたことから、「漢字の知識」については無視できずにいた。

そこで、「決め手」となったのが、『りぼん』(集英社/1955年創刊)という少女雑誌だった。石川は、妹が友達から借りていた『りぼん』から、振り仮名を頼りに漢字を拾い出して、それを見ながら脅迫状を作ったというのだ。ところが、脅迫状にある<刑札>の<刑>と<西武園>の<武>は『りぼん』にはなかった。さらに、『りぼん』は事件が起きる7ヶ月前にすでに友達のところに返されていたことが、あとになって判る。

石川の「自白」によると、妹のノートを破いて脅迫状を書き、ボールペンを使用して訂正し、封筒はつばでなめて封をしたことになっているが、実際は、石川の家から押収した妹のノートと脅迫状に使ったノートは違うものであり、訂正箇所も万年筆を使用しており、封筒は2種類のノリで封がされていた。

[ 目撃者 ] 善枝が行方不明になった5月1日、善枝が石川に突然呼びとめられ、自分の自転車を押しながら、石川に付いて行ったとされているが、白昼、農作業をしている人たちがいる畑の間の道を歩いたというのに、目撃者は1人もいない。

2人が出会った地点から700メートル離れた雑木林の杉の木の下で、石川が強姦したあと、手で絞殺したことになっているが、このとき、善枝が「キャーッ、助けて!」と悲鳴を上げているにもかかわらず、その犯行時間と重なる時間帯に、その雑木林のすぐ隣りの桑畑で除草剤をまく作業をしていた人が悲鳴を聞いていない。その人は桑畑のすぐわきの道に車を止めており、除草剤の補給に10回くらい車と桑畑を往復したが、人影は見なかったと供述している。殺害現場の杉の木のところからその人が作業していた地点は20〜40メートルの距離で、車からまっすぐに見通すことができるところに杉の木はあった。

また、5月4日に、善枝の農道に埋められた遺体が発見されているが、この現場での目撃者もいない。

[ 血痕 ] この事件の場合、善枝が後頭部に出血しているので、それを運搬したとされる石川の着衣に血痕が付いているか否かが当然、問題にされたはずなのだが、警察は着衣を調べていなかった。東京高裁の寺尾裁判長は、「もし、鑑定していたら、付いているのが判ったかもしれない」と、公平とは思えない言い方をした。

[ 遺体の運搬 ] 殺害した雑木林から遺体を両手で前にかかえて、畑の農道を通って200メートル離れた芋穴まで運んだということになっているが、雑木林に死体を隠しておく方が人目につきにくく安全であるにもかかわらず、人家のある方へ向かって運ぶのは不自然である。

弁護団は死体を前にかかえて200メートル運ぶことができるのかどうかを実験した。被害者と同じ54キロの重さの人形を使って、ボディビルや水泳をしているという4人の男が「自白」と同じやり方で運んでみたが、4人のうち1人はまったく運べず、他は50メートル、100メートル、166メートルが限界であった。「自白」では途中で休んだとか、持ち変えたという供述はない。

[ 芋穴に逆さ吊り ] 遺体を芋穴に逆さ吊りにしたと「自白」したことになっているが、医師の鑑定により遺体の足首にはそのようなことをした跡が残っていないことが判明している。

[ タオルと手拭い ] 遺体を埋める際にタオルで目隠しをして縛っているが、タオルは東京都江戸川区月島食品工業の社名入り宣伝用で8434本作られ、取引先などに配られた。石川はこのタオルの配布先である保谷市(ほうやし/現・西東京市)の東鳩製菓の保谷工場に3年間勤めていたことがあり、そこの野球チームに参加していた。工場内の親善試合で毎年50本ぐらいタオルが参加賞として配られていたから石川はそれを毎年もらっていたはずだと検察側は主張した。

また、後ろ手にして両手を手拭いで縛っているが、この手拭いは事件のあった年の正月に狭山市入間川の五十子米穀店が得意先に配った165本の中の1本であることが分かっている。捜査当局はすべてを回収しようとしたが、どうしても7本が出てこなかった。165本のうち1本を石川の姉の夫がもらっていた。さらに石川の近所の家の手拭いが1本なくなっていたので捜査本部はどちらかの1本を石川が手に入れて使ったのではないかと推測した。

[ 3大物証 ] 善枝が持っていたカバン、万年筆、腕時計を「3大物証」と言うが、カバンはすでに発見された教科書などが捨てられていた場所から150メートルも離れていないところから「発見」されている。

万年筆は、すでに、2回も丹念に家宅捜査されているにもかかわらず発見されていないが、その後、石川の「自白」によって、石川の家の台所の鴨居から「発見」されている。鴨居に万年筆を置いてみると、どうやっても部屋の隅々から丸見えであることが分かっている。

腕時計は、数人の捜査官が、探し回っても発見できなかった同じ場所から、78歳の視力が不確かな老人によって、3日後に、偶然「発見」されている。

この腕時計は7月2日に発見されたことになっているが、その4日前に、警察官がその腕時計を石川に見せ、石川もそれをはめてみて「善枝ちゃんは案外、腕が太かったんだ」と警察官たちと談笑した、と石川は公判で述べている。

さらに、この3大物証が善枝の物であることに疑問があった。まず、カバンについては発見されたのは革製のダレスカバンだったが、善枝の父親・栄作が警察で供述した調書によると、善枝が持っていたのは、一見革製に見える旅行カバンであるということからニセモノである可能性があった。万年筆は科学警察研究所が調べた結果、発見された万年筆はペン先がほとんど使われていない新しいものでインクはブルーブラックだった。だが、善枝の日記やノートに出てくる字のインクはライトブルーだったことからニセモノである可能性があった。腕時計については発見されたのはシチズンペットだったが、善枝が持っていたのはシチズンコニーであったことからこれもニセモノである可能性があった。

また、カバンや腕時計の捨て場所の自供図面については、「警察官が2枚のザラ紙を重ねて地図を書き、下の方の紙を渡されて、その筆圧によってできた溝をなぞって書いたもの」と石川は公判で述べている。

[ ポリグラフ ] 検査結果の分析を通してみても、多くの疑問がある。

ポリグラフ・・・ギリシャ語で「多くの事柄を描きとめてゆく」という意味。GSR(皮膚電気反応)、呼吸、脈波など、本来、別々の器械であったものを1つにし、それぞれの身体的変化を同時に記録できるようにしたもの。「ウソ発見器」は俗称。

この他にも、石川を犯人とする判決には多くの疑問や矛盾があった。

1976年(昭和51年)1月28日、弁護団が最高裁へ上告趣意書を提出。

1977年(昭和52年)7月末、三一書房から『狭山事件 無罪の新事実』(亀井・栗崎共著)が刊行された。事件当時、埼玉県警所沢署長だった細田行義と中田家の次男・喜代治の新証言を主な内容とするもので、犯人とされる石川一雄は犯行を1963年5月2日夜と自白しているが、身代金の受け渡しと張り込みの失敗は1日夜だったという点だった。捜査関係者中枢と被害者身内との双方からの証言は一致しており、信頼性・確実性から「石川真犯人説」を根底から覆すものだった。しかし、その新証言を証拠化する作業はされなかった。

8月9日、最高裁で、口頭弁論も行わず、上告を棄却。

8月11日、石川、弁護団が異議申し立て書を提出。

8月16日、最高裁は、異議申立てを却下(15日付)し、無期懲役が確定した。

8月30日、石川、弁護団が第1次再審申し立て請求。

9月8日、石川が千葉刑務所へ入所。

[ 5人目の変死者 ] 10月4日、中田家の次男・喜代治が首吊り自殺した。自分の中華料理店「山王亭」の経営不振が原因だと言われたが、その遺書は女言葉で書かれ、演歌の歌詞のような感じがあって奇妙なものだった(<>内)。

< 私の生きる道はどこかしら。社会も流れ、私も流されるとしたら、余りにもさみしい夜になるでしょう。あすの社会も余り変わりはないけれど、私はただ、私はただ、私の社会のなかに、きょうという日を見つめて生きるのです。そしてまた、私は古いものの中に、いつでもいいところもあることを願いたい。いまを生きるのです。けれども、これは余りに遠すぎた夢かしら。すべては終わり、すべては夢だったのね。 >

[ 6人目の変死者 ] 12月19日夜、三一書房から刊行された『狭山事件 無罪の新事実』(亀井・栗崎共著)に書かれた新証言について調査取材中のフリージャーナリストの片桐軍三(36歳)が東京都豊島区北池袋の小路で襲撃された。片桐は右側部陥没、頭蓋底骨折、右肋骨骨折の重症だったが、現場すぐ近くの救急病院が頭部外傷を見落としていたため、いったん帰宅したものの1時間後、2軒目の救急病院に再搬送され、硬膜外血腫除去の手術を受けたが、手遅れで、21日朝、死亡した。奇妙なことに、警視庁池袋署は小路にあった風俗店階段からの転落事故として捜査を終了するが、それは法医学上ありえなかった。

1979年(昭和54年)4月11日〜27日、息子・一雄の無実を訴え、両親の石川富造(当時81歳)、リイ(当時73歳)、全国行脚。

1980年(昭和55年)2月7日、東京高裁、再審請求棄却。

2月12日、東京高裁へ異議申し立て。

1981年(昭和56年)3月25日、東京高裁、事実調べを一切行なわず、異議申し立てを棄却。

3月30日、石川一雄、弁護団、最高裁へ特別抗告。

10月31日、最高裁に特別抗告補充書を提出。

1983年(昭和58年)10月31日、弁護団が最終の鑑定書、補充書を最高裁に提出。

12月15日、和島岩吉弁護士が申し立て書補充書を最高裁に提出。

1984年(昭和59年)7月14日、石川富造、最高裁へ出向き、息子・一雄の無実を訴える。

1985年(昭和60年)5月28日、最高裁、第1次再審請求の特別抗告を棄却。

11月23日、石川一雄の父親・富造が死去。87歳だった。

1986年(昭和61年)4月5日、石川一雄の姉・よねが死去。62歳だった。

8月21日、東京高裁第4刑事部に、第2次再審請求。

11月12日、家宅捜査に関わった元刑事7人の新証言で、鴨居に万年筆はなかったと証言した。

12月5日、東京高検に証拠開示請求。

12月18日、4通の筆跡鑑定、浜田意見書を提出。

1987年(昭和62年)3月28日、石川一雄の母親・リイが死去。81歳だった。

1988年(昭和63年)9月2日、東京高検が善枝の遺体が埋められていた穴のルミノール反応検査報告書を証拠開示。その他の証拠は開示を拒否。

1990年(平成2年)12月20日、再審請求補充書を提出。

1991年(平成3年)8月20日、81人の法学者が事実調べを求める署名を東京高裁に提出。

10月〜翌1992年(平成4年)、社会党国会議員が千葉刑務所と法務省に対し、仮出獄連続要請行動。

7月7日、第1回家宅捜査を行った元刑事が「鴨居に万年筆はなかった」と証言した。

1993年(平成5年)3月15日、弁護団が意見書を提出。

5月14日、殺害方法についての法医学鑑定書、筆跡に関する調査報告書、自白の信用性などについての意見書追加書面を提出。

1994年(平成6年)12月21日、石川一雄が31年7ヶ月ぶりに仮出所。関東地方更生保護委員会が石川の仮出所を公表した。出所したことを一般に公表するのは極めて異例である。

他に公表したケースとしては、1997年(平成9年)に起きた神戸須磨児童連続殺傷事件の加害者の元少年A(当時14歳)の仮退院がある。2004年(平成16年)3月10日、関東地方更生保護委員会がAの仮退院を認める決定をし、これによりAが東京都府中市の関東医療少年院を仮退院、これを公表した。

1996年(平成8年)8月21日、IMADR(反差別国際運動)が国連人権小委員会で狭山事件の証拠開示を訴える。

12月21日、石川一雄が狭山事件を支援してきた早智子と結婚。

1997年(平成9年)2月18日、弁護団が追加意見書(筆跡)を東京高裁に提出。

1998年(平成10年)11月6日、国際人権規約委員会が「弁護側がすべての証拠にアクセスできるよう、法律および実務を改めること」を日本政府に勧告した。

12月8日、指紋に関する元警察鑑識課員の鑑定書を提出。

1999年(平成11年)3月23日、弁護団が東京高検の検察官と証拠開示について折衝。多数の未開示証拠と証拠リストが存在することを確認。証拠リストを求める書面を提出。指紋についての鑑定人尋問、鴨居の検証を求める書面を提出。

6月10日、東京高検の亀井検事と証拠開示について折衝。東京高裁に斎藤鑑定を提出。

6月23日、東京高裁第4刑事部の高木俊夫裁判長と面会。事実調べと証拠開示の勧告を求める。

7月7日、東京高裁第4刑事部の高木裁判長が事実調べを行わず、再審請求棄却。

東京高裁第4刑事部の高木俊夫判事は、1997年(平成9年)3月19日に東京都渋谷区で東京電力のエリートOLの遺体が発見されたいわゆる東電OL殺人事件の控訴審で裁判長として関わった人物である。この事件ではネパール人のゴビンダ・プラサド・マイナリが逮捕・起訴されたが、2000年(平成12年)4月14日、東京地裁で無罪判決となった。刑事訴訟法345条には無罪となった場合は勾留は失効されるとされており、マイナリは不法滞在により本国へ強制送還されるはずであった。だが、検察は再勾留を要請し、東京地裁と東京高裁第5特別部は再勾留を認めなかったが、5月8日、東京高裁第4刑事部(高木俊夫裁判長)が再勾留を決定した。その後、第4刑事部で控訴審が開始され、12月22日、東京高裁の高木俊夫裁判長は決定的証拠が何ひとつないにもかかわらず、マイナリに無期懲役を言い渡した。即日、弁護側は上告した。2003年(平成15年)10月20日、最高裁で上告棄却。10月23日、弁護団が最高裁決定に対し異議申し立て。11月4日、最高裁が異議申し立てを退ける決定をし、これで無期懲役が確定した。結果的にはのちにマイナリが再審請求し、DNA鑑定が行われ、2012年(平成24年)11月7日、東京高裁(小川正持裁判長)での再審判決公判で無罪となった。

刑事訴訟法345条・・・無罪、免訴、刑の免除、刑の執行猶予、公訴棄却、罰金または科料の裁判の告知があったときは勾留状はその効力を失う。

7月12日、東京高裁第5刑事部の高橋省吾裁判長に異議申し立て。

2000年(平成12年)3月31日、異議申立補充書・新証拠を提出。

5月22日、『朝日新聞』の朝刊に「狭山事件の再審を求める文化人の会」による意見広告が掲載される。

その意見広告の内容は、脅迫状とそれを手本に石川一雄が書かされたものを並べて、脅迫状が石川の手によるものか、問答式で読者に考えてもらうものであった。

2001年(平成13年)7月2日、『毎日新聞』の朝刊に「狭山事件の再審を求める文化人の会」による意見広告が掲載される。

2002年(平成14年)1月23日、東京高裁第5刑事部の高橋裁判長が異議申し立て棄却。

東京高裁第5刑事部には2001年(平成13年)5月19日に14歳の少女に現金を渡してみだらな行為をしたとして児童買春・児童ポルノ禁止法違反の疑いで警視庁に逮捕された東京都中野区のM判事(当時43歳)が所属していた。蒲田(かまた)署の調べではMは同年1月20日午後4時10分ごろから午後6時ころまでの間、川崎市川崎区内のホテルで少女が18歳未満であることを知りながら現金2万円を渡してみだらな行為をした疑いがあった。のちに、同年4月にもカラオケボックスやホテルで15歳と16歳の少女の体に触っていたことが判明する。Mは1983年(昭和58年)に司法試験に合格し、山口地裁・家裁判事や津地裁・家裁判事、東京地裁判事を経て2000年(平成12年)4月から東京高裁刑事5部の判事に就任している。Mは逮捕後、少女買春の言い訳として「仕事のストレス」をあげたが、「仕事」の中には狭山裁判の異議申し立ての書類を見ることもあったと思われる。2001年(平成13年)7月23日、東京地裁で初公判が開かれ、山室恵裁判長は被告への補充質問で、12年後輩のM判事を睨みつけ、「言葉は悪いが、単なるロリコン、単なるスケベおやじだったのではないのか」と言い、公判の最後には「日本の司法の歴史の中でとんでもないことをしたというのは分かってますな」と問いかけた。とっさに何度も頭を下げるM判事に向かって、「まさかこういうことで裁判官を裁くとは思っていなかったよ」と言った。検察側は「家裁の併任勤務が長いにもかかわらず、少年の保護を担う責務と反した」と厳しく指摘し、懲役2年を求刑し結審した。8月27日、東京地裁は懲役2年・執行猶予5年を言い渡した。11月28日、裁判官弾劾裁判所はMに対し罷免を言い渡した。不服申し立てはできず罷免が確定。Mは法曹資格を失い、5年間は資格回復を求めることができない。裁判官の罷免は20年ぶりで5人目。

1月29日、最高裁に特別抗告申し立て。

2003年(平成15年)5月23日、日比谷野音で不当逮捕40ヶ年糾弾中央総決起集会。

9月30日、最高裁に特別抗告補充書提出。

12月10日、主任弁護人の山上益朗が死去。74歳だった。中山武敏が主任弁護人になる。

2004年(平成16年)3月23日、故山上益朗の遺志を受け継ぎ補充書を提出。

10月29日、弁護団が石川本人の上申書などを最高裁に提出。

2005年(平成17年)3月16日、最高裁が請求を退けた東京高裁決定を支持し、特別抗告を棄却。

2007年(平成19年)3月1日、、「狭山事件の再審を求める市民の会」が第3次再審請求を認めるよう求める約92万人の署名を東京高裁に提出した。同会事務局長の鎌田慧らが会見し「新証拠の事実調べをすれば、無罪は明らか」と訴えた。

2008年(平成20年)5月23日、第3次再審請求で弁護団は法医学者の鑑定書などの新証拠を東京高裁に提出した。鑑定書は、被害者の死因は帯状のもので首を絞めた「絞殺」と指摘し、首を手で絞めた「扼殺」とした確定判決と矛盾するとしている。

2009年(平成21年)5月22日、第3次再審請求中の弁護団は石川の自白で自宅から見つかった善枝から奪ったとされる万年筆について、「被害者宅に届いた脅迫状を書いたものではない」とする鑑定書を新証拠として東京高裁(門野博裁判長)に提出した。2審の東京高裁で行われた鑑定では、脅迫状の一部が万年筆で書かれたとする結果が出ている。この万年筆は石川の自白により発見されているため、確定判決では殺害を認めた自白の信用性を高める有力な証拠とされた。鑑定書は万年筆製造業者や元警察官が作成したもので見つかった万年筆のペン先と脅迫状に書かれた文字の太さが異なっていることなどを主張している。

12月16日、東京高裁(門野博裁判長)は第3次再審請求で検察側に初めて証拠開示を勧告した。対象は(1)殺害現場とされる雑木林で血痕の有無を調べた報告書(2)雑木林近くにいた男性の証言に関する捜査記録(3)石川の筆跡鑑定に使われた文書(4)石川の取り調べ時のメモなど。

2010年(平成22年)5月13日、東京高検は第3次再審請求を巡り石川が「自白」した捜査段階の取り調べ録音テープなど36点の証拠を弁護団に開示した。弁護団によると、開示されたのは、石川が自白した取り調べ録音テープ9本、雑木林近くにいたものの弁護団には「争う声は聞いていない」と証言した男性の供述調書、石川の筆跡が分かる書類4通などの証拠。高検は血痕の捜査報告書を「見当たらない」と説明した。

2013年(平成25年)10月17日、弁護団が新たな証拠を東京高裁に提出した。弁護団が提出した新証拠は検察から開示を受けた50年前の「手拭い」に関する捜査報告書などで中田善枝の手を縛った手拭いは現場近くの米穀店が得意先に配った165本のうちの1本で事件後、警察は石川宅にこの手拭いがある事を確認しており、弁護団は「手拭いがあったこと自体、石川さんが無実である証拠」としている。しかし、検察側は47年前、捜査にあたった検事が法廷で「警察が石川宅に行く前にTBSテレビがその犯行に使われたと同種類の手拭いをテレビで放送した」「石川が本当に家にあったものを犯行に持っていったとすれば、石川の家にはない訳だから、後でどこからか都合したんじゃないか」と、石川側がニュースを見たあと、アリバイ工作をした可能性などを証言、確定した判決でも、この証言に添う形で「石川の家族が工作した疑いが濃い」と認定された。この日の会見で弁護団は、新たに明らかになった捜査報告書によると、警察が石川宅の手拭いを確認したのは事件発生5日後の5月6日の昼の午後0時20分である。TBSが手拭いのニュースを報じたのは同じ日の昼ニュースの正午過ぎだとして、「ニュース放映後、わずか17分以内に手拭いを他から入手することは不可能だ」と検察官の証言に疑問を投げかけ、確定した判決には合理的疑いが生じたと主張した。

2015年(平成27年)9月3日までに第3次再審請求をしている弁護団は石川宅の勝手口から見つかった善枝の万年筆について、石川が描き、発見のきっかけになったとされる勝手口の略図を赤外線撮影し、新証拠として東京高裁に提出した。略図は自白の通りに発見されたとする2審の無期懲役判決を支える重要な証拠とされるが、弁護団は「捜査側が改ざんしたのは明らか」と主張している。

弁護団の中北龍太郎事務局長によると、略図には石川が鉛筆で家の見取り図を示した輪郭線や、「をかてのいりぐち」と記した勝手口に当たる部分に、捜査員がペンで引いた複数の線がある。弁護団は鉛筆とペンインクでは赤外線を吸収する性質に違いがあることを利用し、略図を赤外線で撮影。鉛筆線を強調して判別したところ、略図のペン線の下には輪郭線以外に鉛筆線はないことが分かった。このことから弁護団は「万年筆の隠し場所を特定するようなことは書かれてなく、勝手口のかもいにあると特定しているのは捜査員が書き加えたペンによる線のみ」とし、「改ざんした略図を基に、石川の自白によって万年筆が発見されたように装ったのは明らか」としている。

10月11日までに第3次再審請求している石川の弁護団は、検察側が被害者の万年筆の隠匿場所に関する供述調書などを証拠開示したと明らかにした。開示されたのは、石川宅を家宅捜索した元警部を1987年に聴取した時の検察官の調書やメモ、石川が逮捕直後にかけられたポリグラフ検査の記録原紙2本。弁護団は3回目の捜索で石川宅のかもいの上から万年筆が発見された不自然さや、石川や被害者の指紋が検出されていない点、被害者が使っていたインクが違うことなどを指摘。元警部は1986年10月、2回目の家宅捜索の際、勝手口のかもいで、節穴のボロが詰めてあった所を調べたと証言している。万年筆発見の基となったとされる略図の改ざんを主張する弁護団は「開示された証拠を精査し、万年筆の捏造を明らかにする」としている。ポリグラフ検査の原紙についても、既に開示されている取り調べテープなどと合わせて分析していく。一方、脅迫状を被害者宅に届ける途中でオート三輪車に追い越されたという石川の自白に関する証拠については、検察側は見当たらなかったと回答した。追い越されたという供述は有罪判決の根拠の一つになっている。捜査当局は捜査初期段階に既にオート三輪車が走行していたことを知っており、自白を誘導した疑いが強いと主張している弁護団は、あらためて捜査書類の開示勧告を高裁に申し立てた。

2016年(平成28年)8月29日、第3次再審請求で、弁護側は事件後に石川の自宅から見つかった万年筆に関する鑑定結果を東京高裁に新証拠として提出したことを明らかにした。万年筆は被害者の持ち物と認定され、有罪判決を支える重要な証拠になった。弁護側はこの万年筆に入っていたのと同種のインクなどを用いた実験を実施。その結果を基に、被害者が事件当日に書いた文字と石川宅の万年筆のインク成分が異なり、インクが入れ替えられた可能性もないとして、「万年筆は被害者ではなく別人の物だった。再審を直ちに開始すべきだ」と主張している。

2020年(令和2年)5月29日、検察官が東京高裁に弁護団が提出した万年筆に関する新証拠に対する反論の意見書を提出。

6月15日、第3次再審請求で、弁護団が東京高裁に再審請求補充書と新証拠を提出。第3次再審で証拠開示された腕時計についての捜査報告書を新証拠にしたもので、被害者の腕時計を捨てたという石川の「自白」後に行なわれた捜索の報告書。

12月8日、第3次再審請求で、弁護団が東京高裁に3次元スキャナによる計測にもとづいた足跡新鑑定を提出。

12月15日、検察官が東京高裁に弁護団が提出した殺害方法、逆さづり、後頭部の出血(犯行現場における血痕の不存在)、死体運搬についての新証拠に対する反論の意見書、石山c夫・帝京大学医学部名誉教授による意見書を提出。

12月16日、第3次再審請求で、東京高裁に弁護団がスコップについて、検察官の意見書の誤りを明らかにした意見書を補充書とともに提出。

12月18日、第3次再審請求で、東京高裁に弁護団が万年筆について新証拠を提出。

【 推理 】

犯人は善枝と面識のある中年男という見方は当初から根強くあった。根拠はまず、善枝は中学時代、ソフトボール部キャプテンで体力があり、生徒会副会長を務めるなど、男を毅然とたしなめる強い性格だったことから見知らぬ男に簡単に誘拐されるとは思えないこと。ちなみに、善枝の身長は158.5センチ、体重は約60キロだった。

次に、犯人の声。善枝の姉・登美恵と刑事、民間人数人が聞いているが、地元訛りのある中年の声だったと言っている。さらに、現場に残された地下足袋の足跡も中年を連想させる。

胃の内容物から、下校後、まもなく殺されたと見られている。司法解剖で性経験があったことが判っているが、強姦ではなく合意のもとでの性交と見られている。

善枝の日記に、<身内と喧嘩して、くやしい、くやしい>という一節があるとして、部落解放同盟は、犯人は身内の者で、殺害動機は遺産相続、近親憎悪であろうと見ている。

『犯人 「狭山事件」より』(晩聲社/殿岡駿星/1990)には、はっきりと名指しで誰が犯人であるとは書かれてはいないのだが、1990年(平成2年)4月13日付で、著者はある人宛てにいくつかの質問を列挙した手紙を出している。それは宛先人が事件に関して重大なことを知っている可能性があるという前提で質問した内容になっている。その宛先人が誰であるかをここでは言えませんが、その相手から返事がきたのは4月19日で手紙には<書状は確かに受け取りました。その設問にはお答えする事は出来ません。平成2年4月18日 ○○○○(自分の名前)>と3行だけ書かれてあった。

(上記で挙げた書籍以外にも犯人を推理した書籍はありますが、さまざまな理由などにより今のところ、その推理した書籍をここで取り上げるつもりはありません。)

狭山事件をモデルに製作された映画に次のような作品がある。

『狭山の黒い雨』(監督・須藤久/製作・部落解放同盟大阪府連/モノクロ/1973)
『フィルム・レポート 狭山事件 真犯人は誰か』(製作・「狭山事件」製作委員会/原案・亀井トム/1976)
『狭山裁判』(監督・阿部俊三/石川一雄役・谷隼人/製作・部落解放同盟埼玉連合/東映/1976)
『狭山事件 石川一雄・獄中27年』(監督・小池征人/企画・中央狭山闘争本部+部落解放同盟中央本部/音楽・坂田明/シグロ作品/カラー/1990)

参考文献など・・・
『狭山事件 50年目の心理分析 証言に真相あり』(勝どき書房/殿岡駿星/2012)

『犯人 「狭山事件」より』(晩聲社/殿岡駿星/1990)
『ドキュメント狭山事件』(文春文庫/佐木隆三/1979)
『狭山裁判の超論理』(解放出版社/半沢英一/2002)
『狭山事件とは 冤罪とその構造』(部落解放研究所/森井ワ/1988)

『知っていますか? 狭山事件一問一答』(解放社/部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部編/1994)

『自殺者 現代日本の118人』(幻冬舎アウトロー文庫/若一光司/1998)

『裁判官 Who'sWho 東京地裁・高裁編』(現代人文社/2002)
『戦後ニッポン犯罪史』(批評社/礫川全次/2000)
『狭山事件』(草思社/鎌田慧/2004)
『狭山事件 46年目の現場と証言』(風早書林/伊吹隼人/2009)
『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)
『最終推理 狭山事件 浮びあがる真犯人』(明石書店/甲斐仁志/2014)
『差別が奪った青春 実録・狭山事件』(解放出版社/劇画・木山茂/1978)
『狭山事件と再審』(解放出版社/和島岩吉/1984)
『虚偽自白はこうしてつくられる  狭山事件・取調べ録音テープの心理学的分析』(現代人文社/浜田寿美男/2014)
『狭山裁判と科学』(教養文庫/武谷三男/1977)
『狭山差別裁判 第7集』(部落解放同盟中央本部編/1975)
『狭山事件 第2集』(辺境社/亀井トム/1974)
『毎日新聞』(2000年4月14日付/2000年5月8日付/2000年12月22日付/2001年5月20日付/2001年7月23日付/2001年8月27日付/2001年11月28日付/2002年1月24日付/2003年10月21日付/2003年10月23日付/2003年11月5日付/2004年3月10日付/2004年10月29日付/2005年3月18日付/2007年3月1日付/2008年5月23日付/2009年12月17日付/2010年5月13日付/2016年8月30日付)
『産経新聞』(2009年5月22日付)
『さいたま新聞』(2015年9月3日付/2015年10月11日付)
『TBS系(JNN)』(2013年10月17日付)

関連・参考サイト・・・
部落解放同盟東京都連合会狭山事件
狭山事件
太宰治「思ひ出」の雲祥寺「狭山事件」をみんなで考えましょう「狭山事件」とは・・・

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