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ピアノ騒音殺人事件

【 事件発生 】

1974年(昭和49年)8月28日、その日は朝から蒸し暑かった。神奈川県平塚市の団地の3階の奥村宅から、いつものようにピアノの音が聞こえ始めた。

「少しくらい遠慮すればいいものを、わざとやっていやがる!」

気温が高くなるにつれ、その音は奥村宅の真上の4階に住む大浜松三(当時46歳)の異常に高ぶった神経をイラつかせた。

午前9時20分ころ、奥村家の主人(当時36歳)が出勤し、妻の八重子(33歳)がゴミ袋を持って玄関から出た。それを見ていた大浜は刺身包丁を手に取ると、その奥村宅に走り込んだ。

ピアノを弾いていた長女のまゆみちゃん(8歳)の胸をひと突きして死亡させ、続いて傍らにいた次女の洋子ちゃん(4歳)を刺して死亡させたあと、マジックで襖に乱暴になぐり書きした。2人の子どもを刺しても、大浜の興奮はおさまらなかった。本当に憎いと思っていたのは母親の八重子であった。

<迷惑をかけているんだから、すみませんのひと言くらい言え。気分の問題だ。大体、来た時も挨拶にこないし、しかもバカヅラしてガンをとばすとは何事だ。人間、殺人鬼にはなれないものだ・・・>

来た時・・・入居して来た時

そこまで書いたとき、八重子が戻ってきた。洗濯機のスイッチを押し、それから子ども部屋の隣りの居間に入ってきた。大浜は居間に飛び込むと、ためらわずに八重子の胸を狙って刺身包丁を突き刺し死亡させた。

【 本人歴 】

1928年(昭和3年)、大浜松三は東京都江東区亀戸で生まれた。3男3女の三男だった。家業は書店であった。小学校時代は成績優秀で、ずっと級長だったが、3年生のとき、近所の吃音(きつおん)の子と遊んでいるうち、自分も吃音するようになって悩んだ。

旧制中学に入り、国語の授業で指されて教科書を読んだが、上手く読めず屈辱的な体験をして、劣等感を抱いて学習意欲を失い、怠惰になり、みるみる成績が落ちた。

卒業して疎開先の山梨県で敗戦を迎えた。その後は親類の車体組み立て工場に勤めていた。この頃、吃音はいっそうひどくなって職場ではちょっとしたことで腹を立てた。また、家庭では兄たちと毎日ケンカして、近所の人と顔を合わせても、目をそらして口をきかなかった。

1948年(昭和23年)、国鉄(現・JR)中央線の東京都国立(くにたち)駅の職員になった。IQは109あって「頭の良い男」と見られていた。

1951年(昭和26年)、競輪に熱中した挙句、小額の公金を横領して逃げ、金がなくなると、ひったくりをやって逮捕され、懲役1年・執行猶予3年の判決を受けて、国鉄を解雇された。その後、旋盤工場に就職したものの長続きせず、自宅でぶらぶら過ごしていた。

1955年(昭和30年)、家出して、1年ほど東京都港区新橋でホームレスとして過ごした。

1956年(昭和31年)、亀戸の自宅に戻り、再び旋盤工として働き始めるが、工場を次々と替った。吃音のため先輩に嫌われ、仕事を教えてもらえず、勤労意欲を失ったという。

1959年(昭和34年)、農家の婿養子になったが、妻が別れた前夫と密会しているのが気に入らず、まもなく離婚した。その後、八王子へ移り、アパート住まいを始めて、日野市の自動車工場で働いた。アパートの住人はほとんどが夫婦者で小さい子供が多い。しかし、大浜は隣人たちと挨拶を交わさず、子供に声をかけることもなく「気難しい変わり者」と見られていた。

1963年(昭和38年)ごろ、大浜の身に異変が起きた。自動車工場は二交替勤務で、夜勤のとき昼間アパートで寝ていると、原因不明の「ドカーン」という音がする。

これが数日続いて眠れなくなった。これは、近所のガラス戸の開閉音が爆弾の炸裂音のように聞こえていたようだ。大浜はこの音を聞くと、脳が破壊されるような気がするという。

同じアパートの夫婦者に、ステレオの音が大きいと苦情を言って大喧嘩したこともあった。

それ以降、騒音に異常反応を示すようになった。アパートの子供たちの遊び声がうるさいと叱りつけたり、よく吠える近所の犬を何匹か殺して、警察に通報されたりした。

1964年(昭和39年)7月、大浜はアパートを出て転職した。

1965年(昭和40年)、知人の紹介で結婚した。妻は明るい性格で気立てが良かったが、大浜は相変わらず気難しく無口で、妻に対して暴力をふるった。やがて、仕事を辞めて自宅でぶらぶらし始めた。

そして、雀の鳴き声が気になり始めると、木によじ登ってビニールテープを「雀よけ」と称して張り巡らした。

1967年(昭和42年)、大浜は八王子市内の会社に就職し、夫婦は寮に移った。ここでしばらく小康状態は保つものの、やがて、隣人の話し声がうるさいと抗議し始め、口論が続いて退職した。

1970年(昭和45年)4月、大浜と妻が神奈川県平塚市田村の県営横内団地34号棟の4階に入居した。大浜はテレビを見ているときはイヤホンを使っていた。

6月、大浜家に続いて、奥村家の親子4人が階下に入居してきた。その日に、さっそく棚を取り付けるため、ハンマーでがんがんやり始めた。

静かな夫婦と騒々しい親子が、厚さ12センチの床の上と下で暮らし始めた。

階下の亭主は腕っぷしの強そうな男で、女房は外ですれ違っても、挨拶するどころか、「フンッ」といった顔つきで大浜を見たりした。

大浜は階下の物音は戸の開閉まで気にしながら、抗議に行ったことはない。むしろ、自室の物音が階下の一家を刺激して報復を招いていると考えた。だから、妻に口やかましく注意し、部屋には厚いマットを敷いて、忍び足で歩いた。

にもかかわらず、階下では日曜大工の音が激しくなった。大浜は日曜はトラブルを避けるため、自分の方が朝から外出した。

1973年(昭和48年)夏ころから、この横内団地で、ピアノやエレクトロンなどの楽器騒音が問題化した。幼稚園や小学校へ通う子のいる家庭で、競い合うようにしてピアノなどを買うようになり、部屋を飾るのが流行しはじめ、団地の近くに音楽教室ができたりした。

だが、団地の自治会活動が活発なお陰で、すぐにこのことが議題のひとつに取り上げられ、音量を絞ったり、練習は昼間だけに限るなど、自粛の約束をつくったりした。でも、全ての人がこの約束を守っていたわけではなかった。

11月、階下の奥村家にピアノが運び込まれた。小学2年の長女がピアノを習い始めたからである。その後、毎日、練習曲が響き始めた。

大浜は、その頃、失業しており、妻は愛想を尽かして実家に帰っていた。階下で、ピアノの練習が始まると、図書館に行って本を読んで一日を過ごしたり、釣りに行って退屈をまぎらわせていた。

「自分だけがなぜこんなに悩まなければならないのか? 自分はもう生きていけない。自殺するかもしれない。自分はもう死んでもいいけれど、自分をこれほどまでに苦しめた2人の女だけは生かしておけない」

大浜は仕返しをすることを決意し、刺身包丁を買ってきた。

1974年(昭和49年)8月28日、事件が起こる。

【 その後 】

犯行後、大浜は海で死ぬことを考え、さまよったが、死にきれず3日後の8月31日に自首した。

1975年(昭和50年)10月20日、横浜地裁小田原支部で大浜に死刑の判決が下った。

大浜にとっては望み通りの判決で控訴はしないと言ったが、弁護人は控訴手続きを取った。大浜は不満の意を表したが、弁護人は説得して控訴趣意書を書かせた。この大浜自筆の控訴趣意は原稿用紙80枚に及ぶ、妄想の集大成であった。

騒音に悩む人々の同情が集まり、助命嘆願活動も行われた。

1976年(昭和51年)5月、東京高裁は東京医科歯科大教授の中田修に精神鑑定を命じた。その結果、大浜は犯行当時、パラノイアに罹患しており、責任能力なしの状態にあったと判断した。

10月5日、大浜は弁護人との相談なしに控訴を取り下げた。自ら「控訴取下申立書」を作成し、拘置所長を通じて裁判所に提出した。

「死刑を免れて無期懲役になったところで、刑務所での生活がうまくいくとも思えない。騒音過敏と不眠症で、人生に疲れ果てている。ここでの生活は、自殺もままならない。それならいっそ、処刑された方がいい。もし、精神鑑定で異常と結論が出て免責されても、一生を病院で過ごさねばならぬ。したがって、処刑によって自殺の目的を遂げたい」

12月16日、東京高裁第4刑事部の寺尾正二裁判長は、控訴の取り下げを有効と認める決定を下した。

ちなみに、寺尾正二裁判長とは冤罪事件として有名な1963年(昭和38年)の狭山事件の東京高裁での審理で1972年(昭和47年)11月28日、前の井波裁判長が定年退官したあとを引き継ぎ、1974年(昭和49年)10月31日、被告人の石川一雄に無期懲役判決を下すまで裁判長として関わった人物である。

1977年(昭和52年)4月16日、東京高裁第5刑事部の谷口正孝裁判長は、第4刑事部の決定を支持し、死刑が確定した。

「ピアノ騒音殺人事件」は近隣騒音殺人事件の第1号であったことから、世間の注目を集めることになったが、この頃から、こういった近隣騒音が原因の殺人事件が起きるようになる。

同年、同じ神奈川県で起きた「ペット殺人事件」もそのうちのひとつである。

[ ペット殺人事件 ]

この事件は「ピアノ騒音殺人事件」とは逆で、騒音を出した人が、その騒音に対して苦情を言ってきた人を殺してしまった事件である。

1974年(昭和49年)11月6日、神奈川県川崎市幸区の市営河原町団地の1号棟8階の820号室に住む白タク運転手のW(当時24歳)が飼っている愛犬ポメラニアンのチビが昼、夜かまわずキャンキャンなくのに、耐えられなくなった向かいの814号室に住むバー・ホステスの小関正子(35歳)が文句をつけた。

「お宅の犬どうにかならないの。大体、団地内で犬を飼ってはいけない筈じゃないの?」

「うるせい。てめえの知ったことかよ!」

Wは、そう言って、正子に殴りかかった。それで、正子もつい、カッとなって犬を8階から下へ投げ捨て殺してしまう。

結局、正子がチビのために17万円を支払うということで示談が成立。

Wは、その夜はチビのための通夜ということで、翌7日の午前1時ごろまで団地近くのスナックで、妻の洋子(当時21歳)と一緒に酒を飲んだ。スナックのママ相手に、いかに可愛らしい犬だったかを身振り手振りで何度も同じことを語った。

団地に戻ると、Wは、またムラムラとしてきた。妻と2人で、棒で正子の部屋のガラス窓を破って乱入し、Wは包丁で正子を刺した。

Wはその後、正子と共に病院へ一緒に行ったが、医者から死んだと聞かされると「俺はあのイヌを子どもと同じように可愛がっていた。自分の子どもを殺されたと同じだ。これでチビのカタキをとったぞ。成仏しろ」と叫んだ。

1982年(昭和57年)10月6日、東京都中野区で近隣の騒音が原因で5人を包丁で刺し殺すという事件が起きている。中野近隣騒音殺人事件

参考文献など・・・
『戦後欲望史 転換の七、八〇年代篇』(講談社/赤塚行雄/1985)

『実録 戦後殺人事件帳』(アスペクト/1998)

『現代殺人事件史』(河出書房新社/福田洋/1999)

『白昼凶刃』(小学館/佐木隆三/2000)

『狂気 ピアノ殺人事件』(文春文庫/上前淳一郎/1982)

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