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東電OL殺人事件

【 遺体発見 】

1997年(平成9年)3月19日午後5時半ころ、東京都渋谷区円山(まるやま)町の木造2階建てのアパート「喜寿荘」の1階101号室の空き部屋で、東京電力に勤める渡邉泰子(39歳)が絞殺死体で発見された。

バーバリーのベージュのコート、下には青のツーピース、下着にも乱れはなかった。長い髪の毛にはなぜかボールペンが絡まっていた。死体の頭部の近くには取っ手が根元からはずれたショルダーバッグがあり、口が開いていた。バッグの中にあった財布の中の現金は473円、未使用のコンドーム28個、名刺入れの中の名刺には、<東京電力東京本社 企画部 経済調査室副長 渡邉泰子>とあった。身長169センチに対し体重44キログラムであり、拒食症という摂食障害があったようだ。

また、トイレの中の和式水洗便器のブルーレット水溶液内には使用済みのコンドームがあり、コンドームの中には精液があった。

発見者は家主から鍵を預かり、「喜寿荘」の管理を任されていた近くのネパール料理店「K」の店長のMだった。Mは、前日、101号室の玄関脇の小窓が10センチほど開いたままになっているのに気づき、そこから中を覗くと、仰向けに寝た状態の女の上半身が見えたので、玄関のドアノブを回すと鍵はかかっておらずドアが開いた。そこには女ものの靴が一足きちんと揃えてあった。Mはネパール人の女性だと思い、ネパール語で声をかけたが、返事がないので、熟睡しているものと思い、その場を立ち去った。だが、次の日、さすがに気になってもう一度部屋を覗き、女がまだ「寝ている」のを見て、もしやと思い、警察に通報したのだった。

捜査本部の調べで、死因は絞殺によるもので、死亡推定日時は8日夜から9日未明の間とされた。

泰子は杉並区永福で母親と妹の3人で暮らしていた。父親も東京電力に勤めていたが、1977年(昭和52年)7月に、50代の若さで他界している。泰子は千代田区内幸町(うちさいわいちょう)にある東京電力本社に勤めていたが、毎日午後5時20分に定時退社していたのに帰宅はほとんど深夜だった。調査した結果、泰子は1991年(平成3年)ころから勤務後は渋谷区円山町界隈に出没し、すぐ近くの道玄坂のホテル街で売春したり、なじみの客と待ち合わせをして売春し、一日に客を4人とるノルマを自分に課し、終電で帰るという毎日を繰り返していたことが判明した。さらに、1996年(平成8年)6月ころからは品川区西五反田のSMクラブ「マゾッ娘宅配便」(捜査当局は最初の頃は「魔女っ子宅配便」と発表していたが、これが間違いであるとのちに訂正した)に在籍し、勤務先が休日である土日や祭日の午後0時30分ころから午後5時ころまでは「マゾッ娘宅配便」の事務室で待機し、客をとっていた。そのあとは円山町界隈で深夜まで売春していた。のちの裁判で泰子が売春していたことを母親が知っていたことが明らかになる。

また、泰子には数々の奇行が見られた。コートの裾をたくし上げて路上で放尿。道に落ちているビール瓶を拾って酒屋で1本5円に換金。さらに、その小銭を集めて、百円玉に、百円玉がたまると千円札に、そして千円札がたまると一万円札に“逆両替”。ホテルで布団を大便や小便で汚して出入り禁止になっても性懲りもなく利用。帰りの終電の中で菓子パンをムシャムシャ・・・。

泰子は慶応大学経済学部を卒業すると、東京電力に入社した。その後、エリートコースを進み、管理職となった。会社では仕事を完全にこなしていたが、服装は地味で、人付き合いもなく、これといった男性との噂も聞かず、孤立した存在だったという。ちなみに、父親は東大出身で、母親は日本女子大出身、妹は東京女子大を出て大手電器メーカーに勤めている。

昼のエリート・キャリアウーマンには全く別の夜の顔があった。それを知ったマスコミが放っておくわけがなく、泰子のプライバシーは滅茶苦茶にされた。

マスコミは円山町周辺の取材をして、泰子が通りかかった男に声をかけているところや男と腕を組んで歩いている姿を目撃したという話を書いた。東電の管理職である泰子が金目当てで売春しているとは考えられないと、スポーツ新聞や週刊誌はいろんな憶測記事を書き、ある週刊誌は全裸写真まで掲載した。泰子の母親は耐え切れず警察に抗議した。東京法務局は、行過ぎた内容は人権侵害に当たるとして再発防止の異例の勧告を行なった。その後、少しは鎮静化したようだった。

泰子の手帳には十数人の男性の名前、電話番号がメモされていた。捜査本部はメモに記されていた男性を次々と調べていった。その結果、殺害があったとされた8日夜に、一緒に食事をしてホテルへ行った会社員がいることが判明した。この日は土曜日で泰子の会社は休みだったが、午前11時20分に自宅を出て、電車で渋谷経由、五反田へ向かった。行き先は休日の職場にしていた「マゾッ娘宅配便」だった。ここで泰子は2万5000円で客をとり、うち1万円をお店側に渡し、残りの1万5000円が泰子の取り分になっていた。この日、マンションの一室にある「マゾッ娘宅配便」の事務所で午後5時ころまで客を待っていたが、1人もつかなかった。その後、会社員と電話で約束の上、午後6時40分ころ、渋谷のハチ公前で落ち合い、午後7時10分過ぎ、円山町のホテルへ入り、午後10時16分にチェック・アウトした。この時刻はホテルに備え付けの防犯ビデオの映像で確認された。そして、午後10時半ころには、泰子とは別れており、その後のこの会社員のアリバイは完全だった。このとき、会社員は泰子に売春代として4万円払っている。

殺害があったとされた8日から4日後の3月12日、現場から10キロ以上離れた豊島区巣鴨の民家の庭先で泰子の定期券が発見された。この西永福ー新橋間の定期は殺害があったとされた8日から1週間前の3月1日に購入したもので、有効期限は8月31日まであり、泰子本人が捨てたとは考えられない。捜査本部は犯人が捜査の撹乱を狙って無関係な場所に捨てたものとみていた。

捜査本部の聞き込みにより、8日午後11時25分ころから45分ころまでの間に、泰子と思われる女性が東南アジア系の男性と「喜寿荘」101号室に入るのを目撃したという男の証言を得た。ただ、この時点では目撃した男を「東南アジア系の男性」とは証言しておらず、警察の誘導によって作られた可能性もある。また、午後11時45分ごろ、同じアパートの2階に住む女子高生が階段を降りてきて101号室の前を通りかかったとき、中から女の喘ぐような声がもれてくるのを聞いている。その後、女子高生は9日午前0時半過ぎ、再び自宅を出たが、そのときにはその声は聞こえなくなっていた。さらに、泰子が以前から「喜寿荘」101号室をセックスする場所に利用していたことも判明した。

【 逮捕 】

1997年(平成9年)5月20日、ネパール国籍のゴビンダ・プラサド・マイナリ(当時30歳)が逮捕された。マイナリは事件当時、殺害現場となった「喜寿荘」の隣りの粕谷ビル401号室にネパール人の仲間4人と一緒に住み、仕事先である千葉市内JR海浜幕張駅近くのインド料理店「幕張マハラジャ」で働いていた。

警察がマイナリを疑ったのは、事件当時、マイナリが「喜寿荘」101号室の鍵を持っていたと見なされたことと目撃証言であった。マイナリは妻と2人の子どもを国に残し、1994年(平成6年)2月28日に90日間の短期滞在ビザで来日。いくつかのレストランの店員として働き、家族に送金していた。5月29日、ビザ失効。1996年(平成8年)暮れ、マイナリは姉が来日するという知らせを受けた。そこで、姉と一緒に暮らしたいと思い、4人の同居人に「喜寿荘」101号室に移ってほしいと話をもちかけた。1997年(平成9年)1月、マイナリはアパートの管理をしていたネパール料理店「K」の店長Mから同室の鍵を借り、4人に室内を見せた。だが、4人は部屋代が高いことなどを理由に借りることを渋った。また、その後、姉の来日も延期になって、4人が転居するという話はなくなっていたが、マイナリは鍵をMに返さないままにしていた。だが、3月5日に、同居人のネパール人のリラに鍵をMに返しておいてほしいと依頼し、翌6日、リラはMに鍵を返していたことが判明する。そして、泰子はその2日後の8日夜に殺害された・・・。

泰子の死体が発見されたのは、3月19日だが、この日の深夜、仕事から帰ったマイナリは粕谷ビルに入ろうとしたところを、刑事に呼び止められ、名前や勤め先を訊かれ、自室の中まで調べられている。翌20日、マイナリは自分の勤め先のインド料理店「幕張マハラジャ」に電話を入れ、警察にいろいろと訊かれて部屋の中まで調べられたことを告げ、オーバーステイ(不法残留)のことで警察にいずれバレることが気になるので、しばらく休ませてほしいと頼んだ。22日、自ら渋谷署に出向いて、オーバーステイの事実を明かした。翌23日、警視庁に逮捕され、31日、東京地検にこの件で起訴された。

5月20日、東京地裁で、マイナリはオーバーステイの件、つまり入管難民法(出入国管理及び難民認定法)違反(不法残留)で懲役1年・執行猶予3年の判決を受けた。そしてその日の午後、すぐに警視庁により泰子殺害および現金4万円を奪った強盗殺人容疑で逮捕され、6月10日、東京地検に起訴された。

入管難民法70条・・・次の各号(下記の「5号」以外省略)のいずれかに該当する者は、3年以下の懲役若しくは禁錮若しくは300万円以下の罰金に処し、又はその懲役若しくは禁錮及び罰金を併科する。

5号 在留期間の更新又は変更を受けないで在留期間を経過して本邦に残留する者

さらに、母国への退去強制手続き(強制送還)が発動される場合がほとんど。ただし、難民(戦争の危機、宗教対立や民族対立による迫害により住む場所を追われた人々)については特別に処罰が免除される。

【 裁判 】

1997年(平成9年)10月14日、東京地裁で初公判が開かれた。マイナリは、取り調べから公判に至るまで、一貫して泰子殺害を否認した。また、泰子とは全く面識がないと主張していた。だが、1999年(平成11年)3月25日、東京地裁での第25回公判で翻し、泰子に路上で誘われて顔見知りになったと証言し、4月26日の第26回公判では、泰子と3回会ってセックスしたことを認めた。

最初は1996年(平成8年)12月20日ごろで、マイナリは勤めから帰る途中、泰子に、「セックスしませんか。1回5000円です」と声をかけられた。マイナリは「ホテル代がない」と言うと、泰子は「どこでも構わない」と言うので、粕谷ビル401号室の自室へ連れ込んで事に及んだ。このときは同居人2人も泰子の相手をした。

泰子はたとえ1000円の客でも相手をし、客の所持金が少ない場合は、ホテル代を節約させるためもあるが、泰子自身、「どこでも構わない」と言っているように、場所を気にしていなかったようで、殺害があったとされた8日の前日にも「喜寿荘」向かいの駐車場で中年の男とセックスしていたことが警察により確認され、他にも、路地の物陰やビルの非常階段でセックスしているところを付近の住人などから目撃されている。また、そうしたことが公判での客の証言からも明らかになっている。

同年大みそか近い頃、突然、同室を訪れてきた泰子に、「今日もセックスしませんか」と言われたが、このときは同居の2人が反対したため何もなかった。

翌1997年(平成9年)1月末、路上で泰子に、「今日もセックスするなら5000円です」と言われたが、前に同居人が泰子を追い返したことを思い出し、「友人たちが邪魔になるかもしれない。どうしよう」と言うと、泰子は「どこでも構いません」と言ったので、マイナリは「喜寿荘」101号室へ持っていた鍵で開けて入り、事に及んだ。

3回目は2月25日から3月2日までのいずれかの日に、粕谷ビルの階段の踊り場に立っていた泰子に、「今日もセックスしませんか」と誘われて、同じく101号室で事に及んだ。このとき使ったコンドームを部屋のトイレに捨て、鍵をかけずに部屋を出た。鍵をかけなかったのは、また同じように部屋を使うことになると思って、そうしたのだという。そうすると、鍵を返した日が殺害した日より前であっても後であっても問題にはならないということになる。また、それ以降は泰子には会っていないと証言した。

3月5日、マイナリが鍵を管理人のMに返すように同居人のネパール人のリラに頼んで鍵を渡し、リラは「3月6日に私が返却した」と捜査の段階で供述しているが、結局、連日連夜の取り調べで、「3月6日に私が返したというのは嘘でした」という調書を作成された。検察はこの調書を公判に提出し、「事件当日にはマイナリが鍵を持っていた。だからマイナリが犯人だ」というストーリーを主張した。

その検察側のストーリーによると、殺害があったとされた3月8日の2日後の10日にマイナリ自身が管理人のMに鍵を返却した、ということになっているが、これでは自分が犯人だと表明しているようなもの。また、死体が発見されたときは「喜寿荘」101号室には鍵がかけられていないので、誰でも自由に出入りできる状態にあり、鍵を持っていることが犯人であるということを決定付けることにはならない。

泰子の手帳には次のような記載があった。これはマイナリが証言したあとに証拠として開示されたものあり、マイナリがこの手帳の記載に合わせて証言したわけではない。

1996年

 12月12日<?外人3人(401)1.1万>

 12月16日<外人(401)0.3万>

1997年

 1月29日<?0.5万>

 2月28日<?外人0.2万>

< 『東電OL殺人事件』(新潮社/佐野眞一/2000) >

マイナリは泰子と初めて会った日を12月20日ころと証言しているが、泰子の手帳の記載の<外人><3人><401>から判断して、2人が初めて会った日は、12月12日と見ていいようだ。<?>とあるのは「名前が分からない人」という意味とも読めるが、はっきりとしたことが分かっていない。12月16日も同じく、<401>と記載されており、マイナリの部屋であると見ていいのだが、マイナリの証言にはない。マイナリが泰子と会ったことを覚えていないだけなのか、あるいはこの<外人>はマイナリではなく、同居人4人のうちの1人であることが考えられる。その後の1月29日と2月28日はマイナリの証言とほぼ一致するが、1月29日に「外人」と記されていないのはどうしてなのか分かっていない。マイナリではないのか? 2月28日にマイナリが泰子に渡した金額は泰子の手帳によると2000円だが、マイナリは5000円より少ない金額を渡したことだけは覚えているという。マイナリはこのとき、丁度5000円分のお金がなく、お釣をもらうつもりで1万円札を出したが、泰子にお釣りがないと言われて細かい金額を渡している。このとき、泰子は「足りない分は次に会ったときでいい」と言ったという。

トイレに捨ててあったコンドームの残留精液から検出された血液型はB型で、DNA鑑定を行なった結果、マイナリのそれと一致した。

検察側はコンドームを使って捨てた日を殺害があったとされた3月8日ころとし、泰子の手帳にあった2月28日の<外人>はマイナリではないと主張し、弁護側はコンドームを使って捨てた日を泰子の手帳にあった2月28日ころと主張した。

精子は射精した時から時間の経過とともにその形が崩れていくことが分かっていることから、それが何日経過したものかを帝京大学医学部講師の押尾茂が鑑定した。精液入りコンドームは死体が発見された3月19日に発見されているが、このコンドーム内の精子が約10日前のものなら検察側が、約20日前のものなら弁護側の主張が正しいということになる。

鑑定では任意に選んだ男性から採取した精液をブルーレット溶液に混ぜ、その精子の日毎の変化を調べて、死体発見現場のコンドーム内の精子の状態と比較し、コンドーム内の精子が何日前のものなのかを推定した。

死体発見現場のコンドーム内の精子の形状は頭部のみしかなく、尾はあってもほとんど痕跡程度であった。一方、鑑定用に採取した精子は10日間、放置したものは頭部と尾部が分離したものが約40%であったが、20日間、放置したものは約80%が分離していた。この結果からすると、死体発見現場にあったコンドーム内の精子は尾部が痕跡程度しか残っていないということから、20日は放置されていたという結論になる。しかし、押尾講師は「自分の実験は清潔な環境でやったからこうなったが、現場のトイレは不潔だろうから、実験で20日かかった分離崩壊が現場のトイレではわずか10日で起きても不思議はない」という趣旨の意見でまとめている。

だが、「不潔な環境だと精子の崩壊が早い」という意見は仮説に過ぎず、科学的合理性のない結論であった。

マイナリの勤務先のインド料理店「幕張マハラジャ」のタイムカードの記録によれば、泰子が殺害があったとされた8日、マイナリは午後10時少し過ぎに退店しており、それから電車を乗り継いで渋谷へ行き、さらに徒歩で粕谷ビル近くに着き、午後11時25分ごろに2人でいるところを男に目撃された、とされているが、これが可能かどうかがひとつの争点となった。

海浜幕張駅発東京行きの京葉線は午後10時台は7分発、12分発、22分発、37分発、52分発、59分発の6本あるが、このうち12分発と59分発の2本の電車は隣駅の新習志野どまりで接続電車もないため、除外すると、7分発、22分発、37分発、52分発の4本になる。

マイナリが勤めるインド料理店と海浜幕張駅は急いで歩いても5分はかかる。マイナリは午後10時の閉店後、あとかたずけをして、ウエイターの制服を私服に着替えて駅に向かって午後10時22分発の電車に乗ったと証言した。

渋谷署の警察官が実際に歩いて調べたところでは、7分発の電車に乗り、最短距離を歩いてなんとかギリギリ間に合い、22分発では間に合わないという結果を出している。ただ、7分発では間に合うといっても、これには泰子との売春の交渉をした時間が含まれていない。

また、警察はこの目撃証言をのちに「午後11時25分」から「午後11時25分以降」と訂正、初公判の検察の冒頭陳述では「幕張マハラジャ」を退店したのは、同店のタイムレコーダーが2分40秒進んでいたとして、「午後9時57分ごろ」としている。

検察側はマイナリが7分発の電車に乗車したと主張し、弁護側は7分発の電車に乗り込むのは無理があり、22分発の電車に乗車したと主張した。

巣鴨の民家の庭先で見つかった泰子の定期入れについては、マイナリの指紋は検出されておらず、また、マイナリにとっても巣鴨は友人や職場の同僚がいるわけではなく、まったく土地勘のない場所であり、謎のまま放置されていた。

現場から採取された陰毛は全部で16本あった。うち12本はDNA鑑定の結果、泰子とマイナリのものだと判明した。残り4本のうち3本の陰毛は最後まで誰のものか判明しなかった。

泰子の血液型はO型だが、現場にあった泰子のショルダーバッグの取っ手からはマイナリと同じB型の血液型物質が検出された。だが、DNA型については普段それを持ち歩いている泰子のDNA型のものが圧倒的に多く、結論としてはマイナリと同じ型のDNAがあったとは認定されなかった。

1999年(平成11年)12月17日、東京地裁での求刑公判で、検察側は無期懲役を求刑した。

2000年(平成12年)1月24日、東京地裁で弁護側は最終弁論で、「被告には動機がなく、犯人であることと矛盾する証拠もあり、他に犯人がいる可能性が高い」として無罪を主張した。

4月9日、陸上自衛隊第1師団の記念行事に石原慎太郎東京都知事が出席し、「東京では不法入国した三国人、外国人の大きな犯罪が繰り返されている。大災害が起きたら騒擾(そうじょう)事件も想定される」という発言をし、在日外国人たちから強い批判を浴びた。

4月14日、東京地裁で大渕敏和裁判長は、マイナリに対し無罪を言い渡した。

大渕裁判長は「被告が犯人であると推認できるように思われる」としつつも「被告以外の者が犯行時、アパートにいた可能性が払拭できない上、被告を犯人とすると、矛盾したり、合理的に説明できない事実も存在する」また、精子の鑑定結果については、「(押尾講師の実験の)数字等を根拠にする限りは本件精液は10日間以上放置されていた可能性の方が、20日間放置されていた可能性より高いとなどと断定することができないことは言うまでもない」と述べた。

刑事訴訟法345条には「無罪、免訴、刑の免除、刑の執行猶予、控訴棄却、罰金または科料の裁判の告知があったときは勾留状はその効力を失う」と規定されており、マイナリは1997年(平成9年)5月に、入管難民法違反で有罪判決を受け、確定していることから、入管当局に収容され、その後、国外退去の手続きに入った。

4月18日、東京地検は控訴した。「国外に出ると控訴審が実質上、不可能になる」として、通常であれば釈放後、入管難民法違反の有罪判決による強制送還になる被告の身柄に関して、検察側は東京地裁に勾留への職権発動を要請した。

弁護側は「マイナリ被告は控訴審の文書の送達先としてネパール大使館を指定しており、帰国しても審理を進めることは可能」などと主張し、勾留に反対する意見書を東京地裁に提出していた。

4月19日、東京地裁は勾留しないことを決め、弁護側、検察側の双方に通知した。

勾留は「罪を犯したと疑うに足りる相当な理由」がある場合に認められる(刑事訴訟法60条)と規定されており、マイナリの場合は3年間の審理の結果、無罪となっているので勾留される理由はなかった。

すると、東京高検は一転して東京高裁へ勾留の要請をした。

4月20日、東京高裁第5特別部は裁判官3人で協議した結果、検察側の要請を退け、勾留の職権発動をしない決定を出した。

裁判長は「1審判決の訴訟記録が届いていない段階では、高裁は勾留する権限をもっていない」という初判断を示した。

5月1日、控訴審の担当部が東京高裁第4刑事部になる。

東京高裁第4刑事部(高木俊夫部長)は1999年(平成11年)7月8日、狭山事件での第2次再審請求を棄却した部局でもある。

東京高検は今度は職権で勾留するよう担当部の東京高裁第4刑事部に再勾留を要請。東京地検が東京地裁に行なった申し立てを含めると3度目となる。

5月2日、東京高裁第4刑事部は一件記録を東京地裁から受け取った翌日のこの日、「5月8日に勾留質問をする」と宣言した。勾留質問とは、勾留前に被告人の弁解を聞く手続きであり、勾留することを前提としたものであった。

3年に及ぶ裁判の記録をたった1日で読んで精査したとは思えず、記録を読む前から勾留に前向きであったと思わざるを得ない。

5月8日、東京高裁第4刑事部の高木俊夫判事は「犯罪を疑う相当な理由がある」などと判断して勾留を決定した。

マイナリ被告は入管施設から東京拘置所に移送された。弁護側は決定を不服として勾留理由の開示を東京高裁に求めた。

5月12日、東京高裁で、勾留理由の開示の手続きが行なわれた。

職務権限による再勾留の理由を問い質した弁護団に対し、東京高裁は次のように答えた。

「1審の記録を慎重に検討した結果、罪を犯したと疑う相当な理由があると判断した。また、強制退去手続き中で日本に定まった住居がなく、証拠隠滅や逃亡のおそれもある」

これに対し弁護団は「勾留は逆転有罪を想定した刑の執行の確保が目的で、勾留制度の濫用だ」と厳しく批判した。

5月15日、弁護側は東京高裁第4刑事部が「犯罪の疑いがある」として職権で勾留したことを不服として東京高裁に異議を申し立てた。

申立書で、弁護人は(1)無罪を言い渡されたマイナリ被告は犯罪に足る相当な理由はない。(2)帰国後は妻子と両親のもとに住み、出頭要請には応じると述べており、逃亡のおそれはない、と主張し、勾留決定を取り消すよう求めた。

5月17日、法務省入国管理局は、写真週刊誌『FRIDAY』を発行する講談社に対し、謝罪記事の掲載などを求める抗議文を送った。『FRIDAY』5月5日号に、東京入管内でマイナリ被告に義兄が接見した際の隠し撮り写真を掲載したことに対し、入管はマイナリ被告は撮影を承諾していないことや接見室での撮影が禁止されているなどの理由からの抗議だった。

これに対し、『FRIDAY』の加藤晴之編集長は「無罪判決にもかかわらず、勾留され続けているのは司法当局による重大な人権侵害。被告の心身耗弱を伝えることは充分な公益性がある」と判断して掲載したと話した。

5月19日、東京高裁第5刑事部(前述の「第5特別部」とは別の部局)は3人の裁判官で協議した結果、弁護側の勾留決定を取り消すよう求めていた申し立てを棄却した。

その理由を、相当な嫌疑の有無の判断については「一件記録を精査検討すると、被告人が本件強盗殺人の罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があることは明らかである」のひと言で済ませている。

1ヶ月前の4月20日、東京高裁第5特別部において3人の裁判官の協議によって職権発動をしない旨の決定をしているが、このときの協議に加わった3人のうちの1人の裁判官は、5月19日の東京高裁第5刑事部で協議した3人の裁判官のうちの1人である。わずか1ヶ月の間に前とは正反対の判断を下したことになる。この裁判官Mは4月から東京高裁に赴任したばかりの判事で、2001年(平成13年)5月19日に14歳の少女に現金を渡してみだらな行為をしたとして児童買春・児童ポルノ禁止法違反の疑いで警視庁に逮捕、その後、起訴されて、8月27日、東京地裁で懲役2年・執行猶予5年の判決。11月28日、裁判官弾劾裁判所では罷免を言い渡され、不服申し立てができず、罷免が確定している。

5月23日、弁護側は東京高裁がマイナリ被告を職権で勾留したことを不服として、最高裁に特別抗告した。

6月27日、最高裁は3対2の小差で弁護側の特別抗告を棄却する決定を出した。

5人の判事のうち2人は反対意見を述べたが、「1審無罪の場合でも、控訴審の裁判所は審理の段階を問わず被告を勾留できる」との初判断を示し、東京高裁での勾留決定を支持した。

7月31日、弁護側は東京高裁にマイナリの勾留の取り消しを再度、請求した。

8月7日、東京高裁は弁護側の勾留取り消し請求を棄却した。弁護側は異議申し立てをした。

8月10日、東京高裁は弁護側の異議申し立てを棄却した。

8月14日、弁護側は東京高裁に勾留取り消し請求していたが、退けられていたため、「勾留の理由が示されていない」と、最高裁に特別抗告した。

8月18日、私選弁護人5人が「被告に資力がないため国選弁護人に選任されるよう要請したが、認められなかった」ことを理由に東京高裁に辞任届を提出し、受理された。刑事訴訟法では3年以上の懲役または禁錮刑の事件では弁護士がいなければ開廷できないと定めており、同日午後に予定されていた控訴審第1回公判は行なわれなかった。

8月23日、控訴審の弁護人の私選国選問題で2人を国選、3人を私選にすることが決まる。

8月24日、東京高裁で控訴審初公判が開かれた。1審で無罪判決になったマイナリの再勾留を求めた東京高検の要請に対し、職務権限で再勾留を決定した東京高裁第4刑事部の部長の高木俊夫が裁判長となった。このことについては問題がなかったのだろうか・・・。

9月27日、最高裁は弁護側の勾留取り消しを求めた特別抗告を棄却する決定を出した。

11月6日、弁護側は東京高裁が異議申し立てを棄却したことを不服として、最高裁に特別抗告した。最高裁に勾留取り消しを求めた特別抗告はこれで3回目。

東京高裁の公判では、弁護側からコンドーム内の精液の古さの問題については押尾実験に終わらせずに裁判所できちんと鑑定してほしい」と鑑定申請したにもかかわらず、裁判所はこれを却下した。

12月22日、東京高裁で判決公判が開かれた。

「原判決を破棄する。被告人を無期懲役に処する」

高木俊夫裁判長が主文を読み上げ、ネパール語に翻訳され始めたとき、マイナリは日本語で突然、「神様、やっていない」「神様、助けてください」と裁判長に向かって叫び、傍聴席を振り向いてもう一度、「やってない」と叫んだ。

結局、マイナリと泰子殺害とを結びつける決定的証拠を検察側が何ひとつ提出できなかったにもかかわらず、高木裁判長は「被告が犯行に及んだことは充分に証明されており、合理的な疑いを生じない」と述べた。

同日、弁護側は上告した。

2001年(平成13年)2月下旬、上告審において弁護側は事件と同じ時期の2月下旬に、日本大学医学部法医学教室の押田茂實(しげみ)教授に鑑定を依頼した。

それは、本物の便器内の汚水による精子の崩壊を観察するというものであったが、その結果はやはり、10日間の放置では頭部のみになっている精子は約40%で、20日間の放置では80〜90%となり、「不潔な水だと崩壊が早い」という帝京大学医学部の押尾講師の意見が正しくないということを証明するものであった。

3月25日、市民団体「無実のゴビンダさんを支える会」の結成集会が、都内で開かれ、日本ネパール協会関係者ら約150人が集まった。

日本ネパール協会

松本サリン事件でマスコミから犯人扱いされた河野義行(こうのよしゆき)の「冤罪を生む構造」という講演もあり、会場には「疑惑の銃弾」事件の三浦和義も姿を見せたという。

7月5日、弁護側が新たな鑑定書を添えて、上告趣意書を最高裁に提出した。鑑定書は「現場に残されたマイナリ被告の体液は、事件当日のものでない可能性が高い」としている。

2003年(平成15年)10月1日、弁護側が補充鑑定意見書を最高裁に提出。

10月20日、最高裁3小法廷の藤田宙靖(ときやす)裁判長は無期懲役とした2審判決を支持して被告の上告を棄却する決定を出した。最高裁小法廷は、記録を精査しても2審判決に重大な事実誤認は見当たらないと判断した。

10月23日、弁護団は最高裁決定に対し異議を申し立てた。申立書は「記録を精査すれば、被告の無罪は明らか。2審判決には、重大な事実誤認があり、破棄しなければ著しく正義に反する」と指摘。「決定の内容には明白な誤りがある」としている。

11月4日、最高裁第3小法廷の藤田裁判長は被告人の上告棄却決定に対する異議申し立てを退ける決定をした。これで、無期懲役とした2審・東京高裁判決が確定した。弁護側は冤罪を主張し、再審を求める方針を明らかにした。

東電OL殺人事件はマイナリの逮捕から裁判で判決が下されるまでの手続きにおいて外国人に対する差別が見られた。『神様、わたしやっていない!』(現代人文社/無実のゴビンダさんを支える会[編]/2001)によると、事件のあった1997年(平成9年)の外国人事件の勾留率は99.0%(日本人は76.1%)、また、判決言い渡し時点での勾留率は97.7%(日本人は61.4%)だという。1審では「疑わしきは罰せず」「疑わしきは被告人の利益に」という法の理念に基づいた裁判の原則が生かされたが、控訴審や上告審ではその原則が踏みにじられた形となった。

2005年(平成17年)3月24日、マイナリが東京高裁に再審を請求した。

2011年(平成23年)7月21日、東京高検が被害者の泰子の体から採取された体液のDNA型鑑定を行った結果、殺害現場に残されたマイナリとは別人の体毛と一致したことがこの日、分かった。また、東京高検が警察庁のDNA型データベースに照会した結果、一致する人物がいなかったことも分かった。

被害者の泰子が第三者と現場の部屋に行った可能性が浮上し、再審が開始される公算が出てきたが、別人が犯人であることを直接示すものではない。

9月16日、東京高検が事件当日に第三者が殺害現場で泰子と接触した可能性を示すDNA型鑑定結果に対する意見書を東京高裁と弁護団に提出。

11月1日、弁護団が遺体の胸や下腹部周辺など計3ヶ所の付着物から第三者のDNA型が検出されたとする鑑定書を新証拠として東京高裁に提出。

2012年(平成24年)1月20日、弁護団が泰子の下着の付着物に関するDNA型鑑定の結果が東京高検から開示されたことを明らかにした。前年9月から進められた計15点の試料の追加鑑定で下着の十数ヶ所でマイナリをうかがわせる型は検出されなかったが、完全な形では検出されなかったDNA型も複数ヶ所で見つかり、弁護団が泰子と最後に接触したと主張する「第三者」が泰子の体内に残した精液や殺害現場に落ちていた体毛のDNA型と「矛盾しない」という結果だった。

2月7日、東京高検は追加のDNA鑑定を求めていた物証42点のうち、東京高裁が鑑定は不要との意向を示している27点について、独自に鑑定を実施する方針を固めた。42点のうち泰子の胸や着衣などの付着物15点の鑑定はすでに終了。いずれもマイナリのDNA型は検出されず、胸に付着した唾液などからは事件に関与した可能性が浮上している第三者の型が検出された。このため高裁は先月24日の3者協議で残る27点の鑑定は「原則として実施しない」との意向を示していた。しかし、検察内部で「真相解明のため、全ての物証を鑑定すべきだ」との意見が強まり、高検が独自の鑑定実施を決めた。27点は被害者の手や着衣などの付着物。

4月26日、東京高裁で弁護団による3者協議(非公開)があった。弁護団によると高検は同日までに泰子に付着していた微物など27点について独自に実施したDNA型の鑑定書を高裁と弁護側に開示。いずれも「型の確定や個人の特定は不可能・困難」と結論付けているという。

5月22日、東京高検が独自に実施していた物証27点のDNA鑑定結果を踏まえ、「受刑者の有罪判決に誤りはない」とする最終意見書を東京高裁に提出した。

6月7日、東京高裁はマイナリの再審請求を認め、刑の執行を停止する決定も出した。最大の焦点だった再審請求審での新たなDNA型鑑定結果について小川正持裁判長は「公判で証拠提出されていれば有罪認定できなかったと思われ、無罪を言い渡すべき明らかな新証拠」と評価。「受刑者以外の男が被害女性と性的関係を持った後に殺害した疑いを生じさせている」と指摘し、確定判決を強く疑問視した。

同日、検察側は執行停止になるとマイナリの釈放手続きが始まるため、再審開始と執行停止の各決定に対する異議を申し立て、釈放手続きの停止も申し立てた。

6月11日、入管当局がマイナリに対し強制退去命令を出した。

6月15日、マイナリ(当時45歳)が母国のネパールに向けて妻(当時42歳)と長女(当時20歳)、次女(18歳)とともに出国。

7月31日、検察側の異議申し立てが退けられる。

8月2日、検察側が裁判のやり直しを認めた東京高裁の決定について、最高裁に不服申し立てをしないことを決めた。裁判のやり直しが確定する。

10月10日、検察側が追加実施した鑑定の結果、泰子の爪の付着物からマイナリとは別人の第三者のDNA型が検出されたことが分かった。

10月18日、東京高検がマイナリを犯人とするには合理的な疑いが生じたとして無罪を求める意見書を東京高裁(小川正持裁判長)に提出。

10月19日、弁護団が「(東京高検が無罪主張に転じたことを受け)極めて当然。控訴の判断自体が誤り。元被告の無実は1審・無罪判決の段階で明らかだった」とする意見書を東京高裁に提出。

10月29日、東京高裁で再審第1回公判が開かれ、検察が異例の無罪主張をして、即日結審。

11月7日、東京高裁で再審判決公判が開かれ、2000年(平成12年)4月14日の1審の無罪判決に対する当時の検察側控訴を棄却し、ゴビンダ・プラサド・マイナリを無罪とした。小川正持(しょうじ)裁判長は「本件強盗殺人は被告(マイナリ)以外の者が犯人である疑いが強く、被告を犯人とするには合理的な疑いがある」と述べた。

無罪が確定したマイナリは国に補償を請求できる。マイナリは約15年間拘束され、補償は上限額が適用されれば6800万円余りになるとみられる。

刑事補償法4条・・・抑留又は拘禁による補償においては、前条及び次条第2項に規定する場合を除いては、その日数に応じて、一日千円以上一万二千五百円以下の割合による額の補償金を交付する。懲役、禁錮若しくは拘留の執行又は拘置による補償においても、同様である。

拘束期間を15年、1年を365日、補償額を12500円として単純計算すると・・・15×365×12500=6843万7500円になる。

2013年(平成25年)5月22日、マイナリが獄中にいた当時の日記をまとめたネパール語の著書『罠(わな)にかけられた15年』をネパール国内で出版。

6月8日、東京都内でマイナリの支援団体のメンバーらが呼びかけ人となった「なくせ冤罪!市民評議会」の設立総会が開かれた。誤判の原因を究明するための第三者機関設置や取り調べの全面可視化の法整備などを活動目標とすることを確認。代表に「無実のゴビンダさんを支える会」(解散)で事務局長を務めた客野美喜子(当時61歳)を選出。

7月10日、マイナリが今度は日本語での獄中手記『ナラク ゴビンダ・マイナリ獄中記』(希の樹出版/今井恭平[編・解説])を日本で出版。

『ナラク ゴビンダ・マイナリ獄中記』(希の樹出版/今井恭平[編・解説])

タイトルの「ナラク」はネパール語で「地獄」を意味する。サンスクリット語に由来し、日本語の「奈落」と語源が同じ。マイナリが前年の2012年(平成24年)6月に釈放されて帰国する前日、「さよならナラク」と日記を締めくくったことからタイトルを「ナラク」にしたらしい。

この東電OL事件を題材にした小説に『鹹湖(かんこ)〜彼女が殺された街』(集英社/鳴海章/1998)/ 『ダブルフェイス』(幻冬舎/久間十義/2000) / 『グロテスク』(文藝春秋/桐生夏生/2003)がある。

この東電OL殺人事件からヒントを得て制作された映画作品に『恋の罪』(DVD/監督・園子温/出演・水野美紀ほか/2012)がある。

参考文献・・・
『東電OL殺人事件』(新潮社/佐野眞一/2000)
『東電OL症候群』(新潮文庫/佐野眞一/2003)
『誰が私を殺したの』(恒文社/朝倉喬司/2001)『女性未解決事件ファイル』(新風舎文庫/朝倉喬司/2007)
『神様、わたしやっていない!』(現代人文社/無実のゴビンダさんを支える会[編]/2001)
『「東電OL殺人事件」行 迷宮のヒロイン』(沖積舎/真樹龍彦/2005)
『東電OL強盗殺人事件 午前0時の逃亡者』(リアン合同会社/永島雪夫/2008)
『東電OL事件 DNAが暴いた闇』(中央公論新社/読売新聞社会部/2012)
『「東電女性社員殺害事件」弁護留書』(書肆アルス/石田省三郎/2013)
『毎日新聞』(2000年4月18日付/2000年4月19日付/2000年4月20日付/2000年5月1日付/2000年5月8日付/2000年5月12日付/2000年5月17日付/2000年5月23日付/2000年6月28日付/2000年7月31日付/2000年8月14日付/2000年8月18日付/2000年9月28日付/2000年11月6日付/2001年3月25日付/2001年7月5日付/2003年10月21日付/2003年10月23日付/2003年11月5日付/2005年3月24日付/2011年7月21日付/2011年9月4日付/2011年9月16日付/2011年11月2日付/2012年1月20日付/2012年2月7日付/2012年4月26日付/2012年5月23日付/2012年6月7日付/2012年6月11日付/2012年6月15日付/2012年7月31日付/2012年8月2日付/2012年8月28日付/2012年10月10日付/2012年10月17日付/2012年10月18日付/2012年10月19日付/2012年10月29日付/2012年11月7日付/2013年5月23日付/2013年6月8日付/2013年7月5日付/2013年7月10日付)

関連サイト・・・
藤本大学東京電力OL強盗殺人事件控訴審判決について
無実のゴビンダさんを支える会

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