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1951年(昭和26年)1月25日午前9時ころ、山口県熊毛郡麻郷(おごう)村(現・田布施町)字八海(やかい)で、早川惣兵衛(64歳)とその妻のヒサ(64歳)の死体が隣人によって発見され、通報で警察が駆けつけた。
夫は寝室の布団の中で、顔、頭、全身をめった斬りにされ、妻は隣室との間の鴨居に首を吊って垂れ下がっていた。状況から、夫を殺した妻が自殺したものと見られていた。だが、刑事たちは首吊りを偽装工作と見破り、夫婦殺し事件として捜査を始めた。現場検証が行われ、物色の痕跡も見つかり、台所では焼酎の瓶が見つかった。瓶から近くに住む経木(きょうぎ)製造業の吉岡晃(当時22歳)の指紋が検出された。吉岡は、酒と女が好きな不良青年で、金に困っていたことも分かった。直ちに重要参考人として指名手配された。
1月27日、麻郷村の隣の柳井市内の遊郭に居続けていたところを逮捕された。厳しい追及に犯行を認めたが、内容は次のようであった(<>内)。
<小金を貯めているという噂のある早川家に目をつけ、盗みに入る決心をした。1月24日の夜、元気をつけるために飲み屋に寄って焼酎を飲み、さらに焼酎瓶を買ってチビチビ飲みながら早川宅に向かった。うまく侵入できたが、震えが止まらないので、瓶の残りの焼酎を一気に飲み、瓶を台所に置いて夫婦の寝室に入った。箪笥の取っ手に手をかけたとき、亭主が目を覚ました。近所だから顔を知られている。とっさに殺意を起こし、台所にあった斧を素早く取ってきて、亭主を一撃したが、抵抗され、夢中で斧をふるった。惨劇に気づいた細君は、恐怖のあまり腰が抜けて動けず、頭から布団をかぶった。そこで、馬乗りになると、口を押さえて窒息死させた。その後、室内を物色、箪笥から1万数千円を盗んだが、ふと思いついて首吊りの偽装工作をした。>
吉岡の衣服から被害者の血痕が検出され、自供により凶器の斧も発見された。これで、一件落着のはずだったが、捜査陣は納得しなかった。現場の状況などから、犯人は複数だと見ていたからである。取調官は、共犯者の名前を言え、と迫った。吉岡は、最初は驚いたが、何回も同じ追及を受けるうちに、警察の思い込みを利用しない手はない、このままいけば死刑だろうが、別に首謀者がいて、脅されて手伝ったことにすれば、罪は軽くなる、と判断した。そこで、遊び仲間の阿藤周平(当時24歳)ほか、稲田実(当時23歳)、松崎孝義(当時21歳)、久永隆一(当時22歳)の名前を言った。4人は逮捕され、密室で、首筋を線香であぶられたり、軍靴を改造したスリッパで殴られるなどの手荒い拷問を受け、吉岡の供述に合うような自供をさせられた。もちろん、証拠はなにもないのだが、捜査陣は予想通りの成果に酔い、阿藤が主犯で5人の共同犯行であるとマスコミに発表した。
公判で、阿藤、稲田、松崎、久永の4人は、拷問による自白だとして無実を主張した。
1952年(昭和27年)6月2日、山口地裁は、阿藤に死刑判決、吉岡、稲田、松崎、久永に無期懲役の判決を言い渡した。阿藤、稲田、松崎、久永は控訴したが、吉岡は罪を認め、控訴しなかった。だが、検察側が全員に死刑を求刑し、控訴した。
1953年(昭和28年)9月18日、広島高裁は、阿藤に対して死刑判決、吉岡に対して無期懲役の判決と第1審と同じであったが、稲田、松崎、久永の刑を懲役12年〜15年に軽くした。阿藤の内妻の木下六子(むつこ)は事件当夜、自宅で寝ていたと阿藤のアリバイを主張したが、「家族の証言」として受け入れられなかった。阿藤、稲田、松崎、久永の4人は上告したが、吉岡は上告せず、広島刑務所で服役した。
この頃、阿藤は藁にもすがる思いで、冤罪事件で有名な弁護士の正木ひろし(本名は「日」の下に「大」と書いて「ひろし」と読む/本人は「正木ひろし」「まさき・ひろし」を好んで用いた)に手紙を書き救いを求めた。手紙を読んだ正木はすぐに綿密な調査に取りかかり、その結果、冤罪を確信し、首吊り工作は1人でも可能だとし、1、2審判決の批判を開始した。
1955年(昭和30年)3月、さらに、正木は『裁判官 人の命は権力で奪えるものか』(光文社カッパブックス)というタイトルで、殺人現場の写真まで掲載した本を出したが、この本がこの年のベストセラー6位になり、山口県の小村の事件は全国に知れ渡った。
これに対して、田中耕太郎最高裁長官は『裁判官 人の命は権力で奪えるものか』 を“雑音だ” と罵り、山口地裁の藤崎ラ裁判長が、“裁判官は弁明せず”の伝統を破って、翌1956年(昭和31年)、『八海事件・裁判官の弁明』(一粒社)、さらに、その翌1957年(昭和32年)『証拠 続八海事件』(一粒社)というタイトルで反論本を出版した。
1956年(昭和31年)3月、正木の著書『裁判官 人の命は権力で奪えるものか』を原作として、映画『真昼の暗黒』(監督・今井正/脚本・橋本忍/製作・現代ぷろだくしょん/大映)が製作されたが、最高裁で審理中だったため、裁判所や映画会社の圧力がかかったが、屈することなく、公開に踏み切り、世間に衝撃を与えた。阿藤と目される男が、ラストシーンで、鉄格子に掴まり絶叫する。
「まだ、最高裁がある!」
『真昼の暗黒』はこの年の映画賞を総なめにした。「キネマ旬報」日本映画監督賞、ベストテン第1位、「毎日映画コンクール」日本映画賞、脚本賞、監督賞、音楽賞、「ブルーリボン賞」作品賞、脚本賞、監督賞、音楽賞、ベストテン第1位。
1957年(昭和32年)10月15日、最高裁は、シロの心証を強め、破棄差戻しの判決を下した。
花井検事総長は、「真相は明らかなのに最高裁が誤った判決をした」という談話を発表するとともに、特に八海事件専門の検事団を組織し、山口県警察部を大動員して、物凄い巻き返し攻勢に出てきた。卜部(うらべ)主任検察官によると、検察側調査の対象となった国民の延べ人数は1000人を突破したという。そこにはなにがなんでも4人の被告を有罪にしなければならないという決意があった。
そのため、担当弁護人の家宅捜査をやったり、1審以来、すでに何回も証人として出廷した多数の証人たちが、今度も同じ証言をしたのに対し、偽証の疑いがあるとして証言の後になってからも何度でも呼び出し、あるいは逮捕拘留して、その証言を変更させ、うち3人を起訴した。
検察側は、阿藤の内妻の六子にも、1週間以上に及ぶ取り調べを行って、偽証罪で逮捕、起訴した。六子は再婚していたが、度重なる証人喚問で夫婦仲が悪くなり離婚、3度目の夫と結婚していた。健気にも六子は、結婚のたびにその条件として最初の夫のために証言台に立つことの了解を求めていた。
1958年(昭和33年)12月、その六子も偽証罪という圧力の前に証言を変えてしまう。
新刑事訴訟法(1949年[昭和24年]1月1日施行)で改正された「法廷での自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には有罪とされない」といった原則が生かされていない実状が、混迷する裁判の根底にあった。
刑事訴訟法319条・・・強制、拷問又は脅迫による自白、不当に長く抑留又は拘禁された後の自白その他任意にされたものでない疑のある自白は、これを証拠とすることができない
刑事訴訟法319条2項・・・被告人は、公判廷における自白であると否とを問わず、その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪とされない
1959年(昭和34年)9月23日、広島高裁での差戻審判決は、吉岡の単独犯行と認め、阿藤、稲田、松崎、久永の4人に無罪を言い渡した。判決は、7年間の六子の阿藤に対する「真摯な態度と情熱に想いを致すならばこれと氷炭相容れない新証言は・・・・・・到底首肯するを得ない」と認定したのである。
8年8ヶ月ぶりに阿藤は釈放され、『真昼の暗黒』に感動した女性と結婚するはずであった。
だが、検察側が上告した。
1962年(昭和37年)5月19日、最高裁は、5人の共犯説を唱え、再び差し戻しの判決を下した。
1965年(昭和40年)8月30日、広島高裁での第2次差戻審判決公判で、阿藤を待ち受けていたのは、死刑判決であった。稲田、松崎、久永の3人に対しても最初の控訴審での懲役12年〜15年という同じ判決だった。
吉岡は良心の呵責に耐え切れなくなり、広島刑務所から最高裁に「私の単独犯行です」という上申書を17通出していたが、刑務所が握りつぶしていた。
1968年(昭和43年)10月25日、3度目の最高裁で、阿藤、稲田、松崎、久永の4人に無罪判決が出た。無罪を勝ち取るのに、逮捕されてから実に17年9ヶ月の歳月を要した。また、7度の判決という世界的にも珍しい裁判であった。
1審 山口地裁 1952年 (昭和27年) 6月2日 |
控訴審 広島高裁 1953年 (昭和28年) 9月18日 |
上告審 最高裁 1957年 (昭和32年) 10月15日 |
差戻控訴審 広島高裁 1959年 (昭和34年) 9月23日 |
第2次 上告審 最高裁 1962年 (昭和37年) 5月19日 |
第2次 差戻審 広島高裁 1965年 (昭和40年) 8月30日 |
第3次 上告審 最高裁 1968年 (昭和43年) 10月25日 |
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吉岡晃 | 無期懲役 | 無期懲役 | ― | ― | ― | ― | ― |
阿藤周平 | 死刑 | 死刑 | 高裁へ差戻し | 無罪 | 高裁へ差戻し | 死刑 | 無罪 |
稲田実 | 無期懲役 | 懲役15年 | 高裁へ差戻し | 無罪 | 高裁へ差戻し | 懲役15年 | 無罪 |
松崎孝義 | 無期懲役 | 懲役12年 | 高裁へ差戻し | 無罪 | 高裁へ差戻し | 懲役12年 | 無罪 |
久永隆一 | 無期懲役 | 懲役12年 | 高裁へ差戻し | 無罪 | 高裁へ差戻し | 懲役12年 | 無罪 |
判決後 | 阿藤、稲田、 松崎、久永の 4人が控訴。 検察側も控訴。 |
吉岡は上告せず 刑が確定。 阿藤、稲田、 松崎、久永の 4人が上告。 |
検察側が上告。 | 阿藤、稲田、 松崎、久永の 4人が上告。 |
1971年(昭和46年)9月、吉岡が事件以来20年8ヶ月ぶりに広島刑務所を仮出所した。その後、広島県呉市の鉄工所で工員として働き出した。
1975年(昭和50年)12月6日、弁護士の正木ひろしが死去。79歳だった。
現行の刑事訴訟法が施行されてからも見込み捜査に別件逮捕、強引な自白、起訴という冤罪のパターンは繰り返されてきた。死刑判決の後に無罪になった他の事件に、1949年(昭和24年)の松川事件(福島県で東北本線が脱線転覆、機関士ら3人が死亡した事件)や1950年(昭和25年)の二俣(ふたまた)事件(静岡県で一家4人が強盗犯に殺された事件)などがあり、検察庁の資料によると、1949年(昭和24年)から1955年(昭和30年)にかけて起訴後に真犯人が現れた事件は46件もあった。
阿藤周平の著書に『八海事件獄中日記』(朝日新聞社/1968) がある。
正木ひろしの著書・・・
『近きより(1) 日中戦争勃発 1937〜1938』(現代教養文庫/1991)
『近きより(2) 大陸戦線拡大 1939〜1940』(現代教養文庫/1991)
『近きより(3) 日米開戦前夜 1940〜1941』(現代教養文庫/1991)
『近きより(4) 空襲警戒警報 1941〜1943』(現代教養文庫/1991)
『近きより(5) 帝国日本崩壊 1943〜1949』(現代教養文庫/1991)
『正木ひろし著作集(1) 首なし事件・プラカード事件・チャタレイ事件』(三省堂/1983)
『正木ひろし著作集(2) 八海事件』(三省堂/1983)
『正木ひろし著作集(3) 三里塚事件、菅生事件。丸正事件』(三省堂/1983)
『正木ひろし著作集(4) 社会・法律時評』(三省堂/1983)
『正木ひろし著作集(5) 弁護士さん・評論・随想』(三省堂/1983)
『裁判官 人の命は権力で奪えるものか』(光文社/カッパブックス/1955)
『犯人は別にいる』(実業之日本社/鈴木忠五との共著/1960)
『首なし事件の記録 挑戦する弁護士』(講談社現代新書/1973)
『検察官 神の名において司法殺人は許されるのか』(光文社/カッパブックス/1956)
『弁護士 私の人生を変えた首なし事件』(講談社現代新書/1964)参考文献・・・
『犯罪の昭和史 2』(作品社/1984)
『現代殺人事件史』(河出書房新社/福田洋/1999)
『死刑』(現代書館/前坂俊之/1991)
『正木ひろし 事件・信念・自伝 人間の記録』(日本図書センター/正木ひろし/1999)
『正木ひろし著作集(2) 八海事件』(三省堂/1983)[ 事件 index / 無限回廊 top page ]