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勝田清孝連続殺人事件

  殺害日とその当時の
勝田清孝の年齢
殺害場所 被害者 被害者の職業 被害品
1972年
(昭和47年)
  9月13日 24歳 京都市
山科区
中村博子(24歳) クラブホステス 現金1000円
1975年
(昭和50年)
  7月6日 26歳 大阪府
吹田市
藤代玲子(35歳) クラブ経営 現金約10万円
1976年
(昭和51年)
  3月5日 27歳 名古屋市
中区
伊藤照子(32歳) クラブホステス 現金約12万円
1977年
(昭和52年)
 6月30日 28歳 名古屋市
南区
増田安紀子(28歳) マージャン荘の
パート従業員
現金4万円
  8月12日 28歳 名古屋市
昭和区
識名ヨシ子(33歳) 美容師 45万円相当の
ダイヤの指輪
 12月13日 29歳 神戸市
中央区
井上裕正(25歳) 労金職員 現金約410万円
1980年
(昭和55年)
 7月31日 31歳 名古屋市
名東区
本間一郎(35歳) スーパーの
夜間店長
現金576万円余りと
商品券
1982年
(昭和57年)
  10月31日 34歳 滋賀県
草津市
神山光春(27歳) 溶接工 現金4万円

『殺人百科 四』(徳間文庫/佐木隆三/1993)によると、勝田清孝の犠牲になった者は全部で22人(女19人、男3人)いるが、そのうち立件できたのは上記の表の8件(女5人、男3人)とのこと。もし、すべての殺人事件において勝田が関わっていたとすれば、戦後最大のシリアルキラーということになる。

1948年(昭和23年)8月29日、勝田清孝は、京都府相楽(そうらく)郡木津町(現・木津川市)にある鹿背山という集落で専業農家の長男として生まれた。勝田にはひとつ違いの姉がいる。

1964年(昭和39年)4月、京都府立木津高校の農業科に入学した。普通科志望だったが、担当に無理だと言われて変更した。

1965年(昭和40年)11月18日、バイクで女性のハンドバッグをひったくり木津署に逮捕された。勝田の部屋の天井裏から十数個のハンドバッグ、木津高校から盗んだスピーカー、校内食堂の食券などが出てきた。

12月24日、大阪府の和泉少年院へ送致され、高校は退学処分になった。

1966年(昭和41年)7月7日に仮退院すると、父親が勤める奈良市の自動車部品工場に就職した。自動車学校に通い免許を取得すると、父親がファミリアを買い与えた。工場内でロッカー荒らしが続出すると、「少年院帰り」は従業員に白い目で見られ、居づらくなって退職した。その後、父親に職を紹介してもらったが、どこも長続きしなかった。

1967年(昭和42年)、隣町に住む1歳下の女性と付き合うようになり、結婚を考えたが、「少年院帰りとは一緒にできない」「家の格が違う」と双方の両親に反対された。

1968年(昭和43年)9月、20歳になった勝田はこの女性と大阪へ駆け落ちし、生野区のアパートで同棲生活を始めた。勝田は鉄工所で、女性は縫製工場で働いた。

1970年(昭和45年)2月、奈良市の運送会社に転職、長距離トラックの運転手として名古屋など各地を走り回った。

3月23日、両家の両親に認められて、内縁の妻と結婚式を挙げ、奈良市に新居を構えた。

1971年(昭和46年)7月、長男が誕生した。

1972年(昭和47年)1月、奈良市加茂町で第一勧業銀行(現・みずほ銀行/以下同)の女子行員(19歳)が暴行されたあと殺害されるという事件が起きた。警察は「少年院帰り」の勝田を疑い、勝田が勤める運送会社の従業員に根掘り葉掘り勝田のことを訊いて回った。帰り際に、社長から「お前、人を殺したのか」と詰め寄られた。勝田には身に覚えがなかった。友人の証言でアリバイも証明された。勝田は警察への不信を募らせていった。周囲の目が変わり、居づらくなった。

そのうっぷんを晴らすため、元々、派手好きということもあるが、スナックではレミーマルタン、ヘネシーといった高価な酒を飲んで、ホステスにチップをはずみ、マーキュリーとかトランザムといった超高級車を買ったり、裏庭に200万円以上もするアマチュア無線用のアンテナの鉄塔を建てたり、ゴルフの会員権を購入したりの分不相応の生活をした。やがて酒代のツケや毎月10万6000円の支払いがあったという車のローンなどの借金がかさみ、これを払うために空き巣を始めるようになった。

1972年(昭和47年)3月、23歳のとき、勝田は父親に勧められて、消防職員採用試験を受験し合格した。4月1日、相楽中部消防組合に正式採用され消防士になる。このとき、縁故採用の噂が立った。

[ 1 ] 1972年(昭和47年)9月13日未明、24歳のとき、京都市山科区で空き巣に入れそうなアパートを探していたところ、窓が10センチほど開いている部屋を発見。部屋は電気がついていなかったが、その隙間から部屋の中を覗くと、ハンドバッグが見えたので、これを盗もうとして忍び込んだ。だが、その部屋の住人であるクラブ「花宴」のホステスの中村博子(24歳)に見つかってしまったので、「金を出せ」と脅かしたが、「金はない。私の体でよければあげる」と言われ、関係した。顔を見られている上に、逃げようとしたときに騒がれたので、パンストで絞殺。このとき、財布から1000円を盗んでいる。

この事件では、警察が「痴情関係のもつれ」という疑いを持ち、顔見知りの犯行と見て、第一発見者でもあり、同棲相手でもあったクラブのマスターと殺害された博子のお店の常連客の自動車セールスマンが疑われることになった。

1974年(昭和49年)、勝田は消防副士長に昇格したものの、金使いが荒かったため、お金に困り、非番や公休日を利用して長距離輸送のアルバイトを始めた。そして、そのアルバイト先で、犯罪を起こすことになる。

[ 2 ] 1975年(昭和50年)7月6日未明、26歳のとき、大阪府吹田市で空き巣に入れそうなマンションを探していたとき、大阪市北区で高級クラブを経営している藤代玲子(35歳)がフェアレディZから降りるところを発見。玲子に近づき、バッグをひったくろうとして、もみ合いになり、そばに落ちていたロープで絞殺。その後、遺体をフェアレディZに乗せて、その車を運転して移動させ、農業用水池に隠し、証拠隠滅のため指紋の付いた玲子の車に放火した。このとき、現金約10万円を奪っている。

勝田はそれまでの経験で、水商売の女性が持ち歩くバッグの中にかなりのお金が入っていることを知っていたため、一見して、ホステスあるいはクラブ経営者と思った女性を狙って、バッグをひったくる犯行を繰り返していた。

この事件でも、警察は顔見知りの犯行と見て、殺害された玲子の同棲相手(当時25歳)や、犯行当夜、玲子と会う約束をしていた会社社長(当時45歳)が疑われている。

[ 3 ] 1976年(昭和51年)3月5日午前2時過ぎ、27歳のとき、名古屋市中区で獲物を求めて走行中、高級クラブ「グレカボシャード」のホステスの伊藤照子(32歳)が運転するシボレー・カマロを発見。その後をつけ、照子が車を降りて、アパートに向かって歩いていたところを、後ろから近づいてバッグをつかんだが、騒がれたため、絞殺。さらに、念のために、首に巻いてあったスカーフをきつく絞めた。その後、遺体をカマロに乗せ、その車を約40分ほど運転して移動させ、遺体を田んぼに隠した。このとき、捜査をかく乱させるために、むき出しにした下半身にすすきの穂を差し込んだ。カマロはそこから15キロ離れたところに捨てている。このとき、現金約12万円を奪った。

この事件では、この日の午前2時ごろに、殺害された照子と一緒に食事していた弁護士(当時43歳)が疑われ、プライバシーをズタズタにされ、廃業に追い込まれている。また、照子が勤めていたクラブ「グレカボシャード」では、連日、刑事が来て常連客への聞き込みが続いたため、客足が遠のき、懸命な営業努力にもかかわらず、結局、お店はつぶれてしまったという。

勝田は相変わらず車を買い替えたり、酒を飲み歩いたり、飲み屋の女性と関係を持ったりする派手な生活を続けていたため、借金はふくれ上がっていく一方であったが、裏では真面目な消防士を装っていた。

10月1日、28歳のとき、勝田は消防士長に昇格した。

[ 4 ] 1977年(昭和52年)6月30日午前2時ごろ、28歳のとき、名古屋市南区で空き巣に入れそうなマンションを探していたとき、マージャン荘に勤めるパート従業員の増田安紀子(28歳)が、鍵をかけずに犬と一緒に外出するところを発見。中に忍び込み、奥の部屋の家具の中から4万円入りの封筒を持って出ようとしたところ、帰ってきた安紀子と出くわしてしまい、安紀子が騒いだため、部屋の中に連れ戻し、傍らにあったひものようなもので背後から絞殺した。

この事件で、殺害された安紀子と愛人関係にあった会社員(当時35歳)が疑われているが、安紀子との愛人関係を支えるために会社の帳簿を操作し、売上げ代金を誤魔化していたことが発覚し、逮捕された。明らかな別件逮捕だが結局、詐欺事件としてはかなり重い懲役2年の判決を受け、1年4ヶ月服役している。のちに、勝田清孝の犯行と分かり、愛知県警が直接、謝罪しているが、それまでの6年余りの間、会社員の汚名は消えることはなかった。

7月6日、安紀子を殺害した6日後に勝田は大胆にも夫婦で朝日放送製作の「夫婦でドンピシャ!」というクイズ番組の録画撮りに行っている。精悍な消防士で登場し、冗舌が目立つごく、普通の亭主ぶりだった。「僕は(女性は)ヤセ型のほうを好むんですわ。顔は毎日見飽きてるけど、スタイルからいうたらね、100人中10番で合格ですわ」と妻を自慢した。さらに、「妻の一番イヤな顔は?」と訊かれて「そらやっぱりアレですねえ。えっへっへっへ・・・・・・(中略)・・・・・・夜のあのときのクライマックスの顔にしときます」と語ったという。このとき、賞金8万円と商品券10万円を手にしている。8月20日、放送された。

[ 5 ] 8月12日午後11時ごろ、28歳のとき、名古屋市昭和区で空き巣に入れそうなマンションを見つけ、後日のために下見でもしておこうと思い、ゴルフ帽子やサングラスなどで変装して中に入り、3階通路をうろついていると、目の前のドアが開き、その部屋の住人であるポーラ愛知販売会社で美容師をしている識名ヨシ子(33歳)に、「あんた誰? 何してんの」ととがめるような口調で言われ、そのあと、騒がれそうな気がしたので、ヨシ子を部屋の中に押し込んで後ろから羽交い締めにしたが、顔を見られたので、通報されるのを恐れ、パンストで絞殺。遺体をベッドと壁の間に隠した。このとき、45万円相当のダイヤの指輪を盗んでいる。

殺害されたヨシ子はバツイチで独身だったが、同じ会社の部長(当時29歳)と愛人関係にあり、部長はマンションを借りて、ヨシ子をそこに入居させていた。部長は翌13日と14日に合鍵でヨシ子の部屋に入っているが、殺害されていることに気づかずに帰っている。16日、再び、ヨシ子の部屋を訪ねると異様な匂いがしたので、部屋の中を調べると、ヨシ子が死んでいるのを発見、警察に通報した。部屋を調べた結果、ヨシ子のダイヤの指輪がなくなっていた他は、タンスの中にあった現金40万円が手付かずになっていたため、顔見知りの犯行の線で捜査が行われた。第一発見者でもあり、愛人でもある部長が疑われ、連日のように事情聴取を受けるが、このことで、部長は会社を辞め、妻と離婚した。妻は同じ会社の社長の娘だったことから、部長は将来の社長候補と目されていたが、それも、一瞬にして消えてしまった。

偶然にも、勝田が殺害した5人の女性には、いずれも複雑な人間関係があった。大金などを盗まれた形跡もないことから、警察は、怨恨や痴情のもつれが原因として、顔見知りの犯行と判断し捜査を進めるが、このことが事件の真相を分かりにくくしていた。

また、こうした捜査によって、疑われた関係者はその後の人生を大きく狂わされることになった。

[ 6 ] 12月13日午後5時過ぎ、29歳のとき、神戸市中央区のビルの北側通路で兵庫労働金庫神戸東支店職員の井上裕正(25歳)めがけて散弾銃を発射。左肩から肺にかけて散弾30数発が入り、井上は2日後に出血多量で死亡した。このとき、現金約410万円が入ったカバンを奪っている。猟銃は11月20日、奈良県天理市の銃砲店の前に駐車している車から盗んだものだった。このときの犯行に使ったトラックは12月9日、名古屋市内の青果会社の駐車場から盗んだものだった。

12月30日、次男が誕生した。

1980年(昭和55年)2月15日、31歳のとき、名古屋市瑞穂区で、瀬戸信金瑞穂通支店職員(当時43歳)を散弾銃で脅して、小切手3通、収入印紙21枚、額面総計26万6100円が入った鞄などを奪った。

[ 7 ] 7月31日午前0時過ぎ、31歳のとき、名古屋市名東区のスーパー「中部松坂屋ストア」(現・マックス・バリュ)の駐車場で帰宅しようと車の運転席にいた夜間店長の本間一郎(35歳)に散弾銃を突きつけ、「静かにして言うことを聞けば何もしない」などと脅迫。本間を事務所に連行し、金庫を開けさせ、総額576万円余りの現金と商品券を奪った。その後、本間に盗難車のカローラを運転させ、中区にある車庫に止めたところで、本間が銃を奪おうとするなど抵抗したため、散弾銃を胸にめがけて一発発射、出血多量で死亡させた。散弾は前年の12月8日に名古屋市内の車のトランクから、散弾銃は12月29日に名古屋市内の猟銃愛好家の自宅から盗んだものだった。

11月8日、32歳のとき、勝田は車上狙いで逮捕され、懲役10ヶ月・執行猶予3年の判決を受け、消防組合を懲戒免職になった。消防士として在職中、救難救助訓練に励み、表彰を受けること約20回に及び、全国競技大会に2年連続入賞していた。その後、勝田は妻と子ども2人とともに京都府城陽市のマンションに転居し、勝田はトラック運転手になった。

1981年(昭和56年)2月、愛知県小牧市の「ホーエー家電小牧店」で店員を脅し、107万円を強奪した。

1982年(昭和57年)2月、33歳のとき、京都市や山科区でスナックを経営する女性(当時32歳)と知り合い、9月、同区内に密会のためのマンションを借りた。部屋代は月5万2000円、家具に200万円かけた。この頃には妻に愛想をつかされ別居状態だった。

10月27日午後9時ごろ、34歳のとき、勝田は名古屋市千種区で、警察に「近くに盗難車っぽい黒い車があるから調べてくれ」という内容の電話をした。午後9時25分ごろにも「早く来てください。不審者もいる」という電話をした。愛知県警千種署の田代北派出所で勤務中だった長橋裕明巡査(当時33歳)がやがて徒歩で現場に現れた。だが、そこには誰もいなかったので、長橋巡査は近くに停めてあったクラウン・スーパーサルーンのナンバーを控えて戻ろうとした。そのとき、突然、クラウンに乗っていた勝田が長橋巡査をはね飛ばした。さらに、勝田は「どうした」と声をかけて、鉄棒で数回殴って全治4ヶ月の重傷を負わせ、腰につけたサックからニューナンブ38口径の拳銃を奪った。

10月31日午前2時50分ごろ、静岡県浜松市鹿谷町(現:浜松市中区鹿谷町)の「トウア名残店」にヘルメット、サングラス、タオルで覆面し、右手に拳銃を持って侵入した。同店の店員3人に対して「騒ぐな。名古屋で拳銃が強奪された事件を知っているだろう。この拳銃がそうだ。金を出せ」と言って脅した。だが、店員がスキを見て、店外に脱出したため、勝田はあわてて店外へ脱出した。

[ 8 ] 同日午後8時過ぎ、千葉市へ帰宅途中であった溶接工の神山光春(27歳)は、大津サービスエリアの上り線駐車場に車を停車させていた。そこへ、勝田が助手席に乗り込み、「名古屋まで乗せて行ってくれ」と強引に頼んだ。走り出してすぐ、勝田のジャンパーのポケットから拳銃が足元にこぼれ落ちたが、拾い上げて「逃げると撃つぞ」と脅して、瀬田西インターチェンジから国道1号線に出て、名古屋方面に向かわせた。

午後9時30分ごろ、滋賀県草津市の路上で、神山は車を急停車させ、勝田の右手につかみかかり、拳銃を奪おうとしたが、勝田はこれをふりほどき、神山を何かで縛ろうとして、後部座席に移動しようとした。そのとき、神山は再び、勝田の手をつかんで、拳銃を取り上げようとした。怒った勝田は神山の胸に拳銃を発砲、後部座席に神山を乗せたまま、勝田は名古屋市内の深夜スーパーを狙うため、国道41号線を名古屋に向けて走った。神山は「水をくれ」「冷たいものをくれ」と言っていたので、まだ生きていたことに驚き、病院を探すが、見つからず、まもなく静かになったので、死亡したと判断した。このとき、勝田は神山から現金4万円を盗んでいる。名古屋での強盗を諦め、小牧インターチェンジから高速道路に入った。

翌11月1日午前2時ごろ、勝田は養老サービスエリア下り線駐車場に着くと、車から降り、血の付いた手袋をエリア内のゴミカゴに捨てた。このとき、ガソリンスタンド従業員の小畑俊弘(当時43歳)に一部始終を見られてしまったと思い、スタンドの売上げ金を奪おうとして、隠し持っていた短銃を小畑に突きつけ、「名古屋の短銃事件を知っているやろ。売上げ金を出せ」と脅かした。小畑が逃げようと後ずさりしたとたん、勝田は弾丸を胸に命中させ、全治2ヶ月の重傷を負わせた。勝田は売上げ金を諦め、逃げる途中、ジャンパーなどを脱ぎ捨て、京都方面に向かうトラックに乗せてもらい、大津サービスエリアに駐車しておいた自分のクラウン・スーパーサルーンで家に戻った。

同日、警察庁は警官から強奪した拳銃を使ったこの強盗殺傷事件を広域重要「113号事件」に指定した。警察庁広域重要指定事件

11月28日午前9時半ごろ、勝田は京都市山科区のスーパー「エポック山科店」に侵入、拳銃で脅かし現金152万7000円を奪って逃走した。

1983年(昭和58年)1月31日午後1時半ごろ、名古屋市昭和区にある従業員9人の引越しセンターの社長をしている塚本祝栄(当時31歳)が、従業員に支払う給料102万円を下ろすため、社有車であるクラウン・カスタムで会社から200メートルほどの第一勧業銀行(現・みずほ銀行)御器所(ごきそ)支店の裏にある駐車場に着いた。

午後1時45分ごろ、塚本がクラウンに戻り、乗り込もうとしたと同時に、勝田が助手席に乗り込んできて短銃を塚本の左わき腹に突きつけた。「本物だぜ。警察が持っている短銃だぞ。あの事件を知ってるか。もし、声を出したり、変なことをしたら、撃つぞ」勝田は冷静だった。塚本は勝田の指示通りに102万円入った封筒を放り出すと、勝田は「車を出せ」と指示した。塚本は駐車場の外に出たら殺されると思い、車をバックさせては前進させて時間稼ぎをしていたが、そこへ人が通ったので、今がチャンスだと思い、左手で短銃をはねのけ、両手で勝田の右腕と短銃をつかんだ。勝田はあわてて逃げようと助手席から転げ落ち、車外に出てもみ合い、塚本は勝田に馬乗りになって押さえ込んだ。目撃した客が、銀行に入って知らせると、支店長が5人の行員に指示して駐車場に走らせた。さらに、非常通報装置を押すとともに、110番に通報した。

午後1時50分ごろ、警察がかけつけ、勝田を逮捕した。

逮捕から8日後の2月8日、勝田は取り調べ官に対し、今回の「113号事件」を起こす前、1972年から1977年にかけて、5人の女性を殺害していたことを一気に自供した。さらに、1977年と1980年に2人の男性を殺害したことも自供した。

迷宮入りになっていた5人の女性殺しについては、勝田の犯行とは思っていなかったらしく、取調官は何度も勝田に「本当におまえが殺したのか」と確認している。

勝田は留置場に入ったころ、夜になると、怨霊のようなものにおびえていた。それで、なかなか寝付けず便秘に悩まされていた。そこで、早く全部自供してしまおうと思ったという。

この「113号事件」で殺害した1人を含む、8人(女5人、男3人)の殺害に加え、窃盗や強盗など(約400件)を繰り返したとして、戦後犯罪史上に残る33もの罪に問われることになった。

勝田は、『冥海に潜みし日々』(創出版社)という獄中手記の印税を遺族への弁償金に充てるつもりでいたが、本は期待したほど売れず、結局、絶版になってしまった。実売8000部余りで、印税は約85万円だったという。

1986年(昭和61年)3月24日、名古屋地裁は7件の強盗殺人と広域重要「113号事件」のふたつに対して、求刑通り死刑判決を言い渡した。

勝田は判決後、日を追って人間不信に陥り、徹底してマスコミを嫌い、死刑廃止運動にもそっぽを向いて、仏教による月1回の教誨も断って、自分の殻に閉じこもり、獄外との連絡を絶っていた。ただ、車の雑誌を定期購読する他、推理小説などは読んでいた。

マスコミ各社はあらゆる手段で、獄中の勝田と接触を試みたが、いずれも失敗。勝田をますます遠い存在に追い込む結果となった。

そんな勝田の頑固で重い心の扉を叩き続け、人知れず8年間に渡って文通や面会を続けている1人の女性がいた。「カトリック名古屋教区正義と平和委員会」に所属する名古屋在住の主婦でもあるクリスチャンの来栖(くるす)宥子であった。

来栖は勝田の獄中手記『冥海に潜みし日々』を読み、心を動かされて手紙を出すようになったのだが、それは、控訴が棄却された頃から8年間で600通。勝田から寄せられたのは400通。面会は200回を超えている。勝田は「たった一人の心友」と呼んで心を開いていった。のちに、来栖は『勝田清孝の真実』(恒友出版/1996)を出版した。

1988年(昭和63年)2月19日、名古屋高裁で控訴棄却。

1994年(平成6年)1月17日、来栖の実母(藤原家)がこれからも交流が続けられるようにと養子縁組した。同日、最高裁で上告棄却。被告人・藤原清孝として死刑が確定した。

その後も未決時代からやっていた点訳を、目の不自由な人へのご奉公とボランティアで続けた。

2000年(平成12年)11月30日、名古屋拘置所で死刑が執行された。52歳だった。

この事件を元に、大下英治が 『勝田清孝の冷血』(現代書林/1983)を書いたが、これを原作として、映画 『連続殺人鬼・冷血』(VHS/監督・渡辺譲/主演・中山一也/1987)が製作された。

主演の中山一也・・・1956年(昭和31年)、北海道出身。1983年(昭和58年)、中山一也は芥川賞作家の高橋三千綱が原作・監督した『真夜中のボクサー』(VHS)の主役に選ばれたが、降板となった。代役は田中健が務めた。同年2月28日、東京都渋谷区のNHKの廊下で中山が高橋の左股を果物ナイフで刺し、全治10日間の怪我を負わせる事件を起こした。その後、高橋は中山の情状酌量を申し入れ、罰金10万円の略式命令となった。1987年(昭和62年)4月7日、北海道富良野市にある脚本家・倉本聰の自宅前で中山が割腹自殺を図るが、倉本本人によって発見され、未遂に終わった。なお、中山と倉本との間に面識はなかった。1988年(昭和63年)1月9日、松竹本社ビル1階にある映画館「松竹セントラル」に中山がトヨタ・センチュリーで突入、ガラス扉など5枚を破壊したとし、器物損壊の容疑で緊急逮捕された。調べに対し、故意であったことを認めたが、その理由については供述しなかった。しかしその後、「自分のような有望な俳優を使わない日本の駄目な映画界に一石を投じる為、もっと若い元気ある役者を使おう、というキャンペーンで突っ込んだ」と、自著やインタビューで述べている。その後も『オレたちひょうきん族』に端役で出演した際に安岡力也と一触即発の状態になったり、税務署での暴力沙汰、黒澤明が監督を務めた映画『影武者』(DVD)のオーディションに書類選考で落選したことで面接会場に趣き、黒澤に暴言を吐くなど、幾度となく問題行動を起こしつつ、暴力映画やVシネマを中心に出演。2004年(平成12年)に公開された『IZO』では、20年ぶりに主役を務め、江戸時代の有名な殺し屋・岡田以蔵を演じた。・・・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋。

参考文献・・・
『連続殺人事件』(同朋舎出版/池上正樹/1996)

『113号事件 勝田清孝の真実』(恒友出版/来栖宥子/1996)

『男と女 エロスの犯罪』(東京法経学院出版/平龍生/1985)
『殺人百科 4』(徳間文庫/佐木隆三/1993)
『毎日新聞』(2000年11月30日付)

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