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大阪池田小児童殺傷事件

 【 事件発生 】

2001年(平成13年)6月8日午前10時15分ころ、大阪府池田市の大阪教育大学付属池田小学校の東門に乗用車で乗り付け、出刃包丁(刃渡り約15.8センチ)をもった男が1階の教室の窓から侵入。2時間目の授業が終わって休憩中だった児童を襲った。1・2年の4つの教室と周りの廊下などで児童8人を次々と殺害、児童13人と教師2人の計15人に重軽傷を負わせた。

現行犯で逮捕された男は精神科へ通院歴があったという理由で、当日、フジ産経以外は名前も顔も伏せられて報道されたが、翌日、警察の公式発表に従い、全紙で名前を公表、一部を除き顔写真も掲載された。男は宅間守(当時37歳)といった。

宅間は池田小を何回も下見し、自宅からのルートや逃走経路など各種情報をカーナビゲーションに入力していた。宅間の自宅から押収したパソコンには<小学校を襲う><包丁で刺す>などと記された詳細な犯行計画書が発見された。さらに、宅間は六法全書を熟読し、捜査や裁判、刑法についても研究しており、「完璧な犯行」を目指していた。そして、行動を起こすが、刑事責任を免れるため、精神障害であることの利点をいかして「詐病」していた。

【 本人歴 】

1963年(昭和38年)11月23日、宅間守は兵庫県伊丹市で次男として生まれた。兄がおり、7つ違いだった。父親は鹿児島県出身、母親は地元出身で伊丹市内の工場で職場結婚し、守が生まれた年にマイホームを建てた。

出生時4キログラムあった守は両親が共働きだったので父方の祖父母に預けられて育った。

付近の住民の証言によると「3歳のころ、三輪車で堂々と道の真ん中を走り、車が渋滞して数珠つなぎになるのを見て喜んでいた」という。

小学校に入ってからは両親と生活をした。体格がよく腕力があったので、弱い者いじめをして担任教師から注意を受けた。暴力的な体質は母親に対して暴力をふるう父親の影響を受けている。通知表には<行儀、根気など学習態度に問題あり。裏に回って友達をいじめ、泣かせている>と書かれてあった。同級生の証言によると「教室で飼っていた金魚10匹の尻尾を全部ハサミで切り、ストーブで焼いて喜んでいた」という。本人も「小1のとき、ネコを新聞紙に包んで火をつけた」と認めている。周囲からは宅間ではなく「アクマ」と呼ばれていた。

守は小学6年になると担任教師に「大教大(大阪教育大)の付属中学に入りたい」と言ったが、担任教師は「お前の成績ではムリや」と言って相手しなかった。

結局、公立の中学校に進学するが、弱い者いじめはやめなかった。その頃、父親は工場を退職しタクシー運転手になっていたが、弱い者いじめをしていることを教師から知らされると、「鉄拳制裁」と称して容赦なく守を殴りつけた。母親は守を産んでからも「乳房の形がくずれるから」と母乳を与えず、自分の手で育てていない。後の法廷で守は「子育てというのは幼児期が勝負。それができないヤツは子どもを産む資格がない。だからこういう子ができる」と供述している。

1979年(昭和54年)4月、守は兵庫県尼崎市の県立工業高校に進学した。2年生の3学期に「身体がだるくて、精神的にしんどい」と訴えるので、母親が伊丹市の精神病院へ連れて行くと「精神神経症または神経症」と診断された。その後、高校を退学し、父親から離れて暮らすことを望んでいた母親と一緒に家を出てアパート暮らしを始めた。

1981年(昭和56年)4月、伊丹市内の市立高校(定時制)に編入学したが、初めから欠席することが多く、そのうちまったく登校しなくなったので秋には除籍になった。その後、身長184センチで顔立ちも悪くない17歳の少年は女漁りに夢中になった。

11月25日、18歳のとき、航空自衛隊に入隊し、山口県防府(ほうふ)市にある第一航空教育隊に所属した。その後、転属となり、愛知県小牧市の第一輸送航空隊整備群検査隊で勤務するようになったが、下宿先に家出した少女を連れ込んで性的な関係をもったことが補導した警察官を通じて発覚し、「愛知県青少年保護育成条例違反」で事情聴取され、航空自衛隊の整備指令から「自衛隊の品位を傷つけた」と訓戒処分を受けた。

愛知県青少年保護育成条例

1983年(昭和58年)2月10日、航空自衛隊を除籍し、引っ越し会社などを転々としながら、知り合いの女性を次々に呼び出してレイプまがいの肉体関係を重ねた。

1984年(昭和59年)11月21日、大阪市東淀川区の不動産会社に勤務していたが、家賃の集金を口実にマンションに住んでいる女性の部屋に上り込んで、いきなり顔面を殴りつけ首を絞めつけるなどして強姦するという手口で犯行を繰り返していた。これで強姦罪で告訴された。

12月12日、21歳のとき、伊丹市内の病院へ精神病を装って逃げ込むことにした。ここは守が高校2年のとき、母親と一緒に一度「身体がだるい、精神的にしんどい」と訴えて「精神神経症または神経症」と診断された病院だった。守は「幻聴が聞える、誰かに陥れられている気がする」と医師にウソを言い、母親も「暴力をふるわれている」と口裏を合わせていたので病院の閉鎖病棟に入れられた。

1985年(昭和60年)1月4日、病院の医師から「2〜3年は入っていろ」と言われ、絶望のあまり、衝動的に病院の5階にあたる屋上から隣接している車庫の屋上へ飛び降り、アゴの骨などを折る。その後、整形外科病院に移る。

7月30日、アパートから整形外科に通院していたが、伊丹市内の春日神社付近で通行人とトラブルを起こし、傷害と器物損壊の罪で逮捕された。だが、病院で「精神分裂病」と診断されて釈放された。

「精神分裂病」という名称は “schizophrenia”(シゾフレニア)を訳したものだが、2002年(平成14年)の夏から「統合失調症」という名称に変更されている。

8月19日、JR大阪駅前でタクシー運転手に暴行した。これで「精神保健および精神障害者福祉に関する法律」により、神戸市内の病院で「精神分裂病の疑いがあるが、境界線なので入院の必要なく、通院治療6ヶ月を要する」と診断された。

精神保健及び精神障害者福祉に関する法律

しかし、強姦罪で告訴されているので11月になって逮捕され、大阪地検が起訴する前に嘱託医に精神保健診断を受けさせたら「理非善悪を弁別する能力があり、性格異常とみられる」とされ、起訴された。

1986年(昭和61年)7月31日、大阪地裁で強姦罪で懲役3年の実刑判決となり、奈良刑務所に収監される。

1989年(平成元年)3月11日、奈良刑務所から出所すると、両親に生活費を要求したが、父親は反省の情がない者に要求を突き付けられる筋合いはないと突っぱねた。その上で家に残した守の持ち物を古物商に買い取らせ、そのカネを渡して勘当した。

3月24日、裁判所に財産の分配を求めるため「親子関係円満調整の調停」を申し立てたが、6月13日、裁判所から「調停しない」とされた。

1990年(平成2年)5月、26歳のとき、看護婦試験の名簿から適当に選んで電話をかけたところ、19歳年上の女性(当時45歳)につながった。そこで「西宮市の泌尿器科医師」と偽って女性と会って関係し、6月14日、この看護婦と強引に結婚した。だが、守が医師でないことが分かり、相手方の調停申し立てによって、6月26日、協議離婚した。わずか12日間の結婚生活だった。

看護婦・・・保健婦助産婦看護婦の一部を改正する法律(改姓保助看法)が2001年(平成13年)12月6日に成立、12月12日に公布、翌2002年(平成14年)3月1日に施行された。これにより、保健婦・士が「保健師」に、助産婦が「助産師」に、看護婦・士が「看護師」に、准看護婦・士が「准看護師」となり、男女で異なっていた名称が統一された。

10月12日、同じく26歳のとき、最初の妻と同じく19歳年上の教員(当時45歳)と婚姻届を提出する。この女性は守の中学時代の教師で作家・小松左京の実の妹、大阪教育大卒だった。

1993年(平成5年)4月、29歳のとき、妻の勧めで伊丹市営バス運転手の試験を受けた。強姦罪の前歴があり、公務員に採用されるのは不可能と思われたが、妻のコネクションで有力な政治家から「更生を妨げるべきではない」と要請を受けて伊丹市は採用した。

7月1日、交通局運輸課のバス運転手として勤務するが、9月にテレホンクラブで知り合った女性に対し強姦事件を起こす。告訴されるが、妻の尽力によってなんとか示談にもっていった。

1994年(平成6年)9月21日、30歳のとき、2番目の妻と協議離婚が成立。

1995年(平成7年)5月16日、31歳のとき、同僚のバス運転手とケンカして戒告処分。

11月27日、32歳のとき、伊丹市交通局で知り合った44歳年上の女性と養子縁組。苗字が変わる。

1996年(平成8年)12月15日、33歳のとき、神戸市内のホテルのお見合いパーティーで2歳年上の女性と知り合う。

1997年(平成9年)1月17日、養母に暴力をふるい、カネを奪ったことから養子離縁が成立。

3月30日、お見合いパーティーで知り合った女性と強引に結婚式を挙げる。

12月8日、34歳のとき、夫の離婚歴が分かり、3番目の妻が離婚調停を申し立てる。

12月13日、妻が堕胎手術を受ける。

1998年(平成10年)4月1日、守の希望により伊丹市立の小学校に技能員として配置。

6月5日、妻が夫に200万円を支払うことで協議離婚が成立。

8月21日、加古川市内の職業安定所で3番目の妻に傷害を負わせて簡易裁判所で罰金15万円の判決。

9月10日、傷害事件で伊丹市が停職1ヶ月の処分。

10月18日、お見合いパーティーで知り合った2歳下の女性と4回目の結婚。

12月8日、35歳のとき、吹田市内の精神病院で外来診察を受け始める。

1999年(平成11年)2月、42歳の兄が商売に失敗し、家庭が崩壊したので刃物で首を切って自殺。

3月12日、勤務先の小学校で教師4人に精神安定剤入りのお茶を飲ませ、薬物中毒の傷害事件で逮捕される。

3月23日、神戸地検の嘱託医が簡単な心理テストや問診だけの簡易鑑定で「精神分裂病」と診断。責任能力がないとして不起訴処分(起訴猶予)で釈放、措置入院となった。この措置入院はわずか39日で退院する。

4月12日、伊丹市が分限免職処分。

5月7日、長期入院を恐れ「幻覚、幻視はなかった」と医師に打ち明ける。

5月10日、退院したあと「精神分裂病のため労働ができない」と傷病手当金を申請して兵庫県市町村職員共済組合から翌年の10月まで毎月20万円を受領する。

8月18日、吹田市の精神病院で4回目の診察を受け、「精神分裂病ではなく、人格障害の要素が高い」とされ、投薬を断られる。

2000年(平成12年)9月8日、36歳のとき、元養母方へ侵入して浴室の窓ガラスを割り、逮捕される。

9月10日、伊丹市内の精神病院が21歳のとき措置入院させていたことから「精神分裂病」と診断して起訴猶予になる。

10月10日、大阪府に「日常生活に制限がある」と精神障害者保健福祉手帳を申請する。

11月9日、大阪府が精神障害者保健福祉2級を交付する。

2級の障害とは「(疾患によって)日常生活が著しく制限を受けるか、制限を加える必要がある」というものだが、当時、タクシー乗務員として勤務しており、本来なら該当しない可能性の方が高かった。ところが、申請書に医師の所見が記されてあれば、書面審査だけで受理されることもあって、通院先の医師に頼んで所見を書いてもらい、手帳の交付を受けている。

11月21日、71歳の母親が要介護状態で老人ホームに入所する。

2001年(平成13年)6月8日、37歳のとき、大阪教育大付属池田小学校に刃物をもって侵入する・・・。

【 その後 】

宅間守は逮捕後の取り調べに対し、「俺は学校に行っていない。阪急池田駅前で百人をメッタ斬りした」と支離滅裂な供述をした。また、突然、「事件直前に薬物を10回分飲んだ。しんどい」と訴えて、取り調べを中断し、救急車で病院に搬送された。病院では胃洗浄などの手当てをして取り調べを再開したが、また異常を訴えて治療を受けた。こうした言動から宅間は精神障害者である疑いが出てきた。

だが、被害児童の遺体を検死した医師は宅間が精神障害者であることに疑問を抱いていた。

「犯人はめったやたらに包丁を振り回したわけではない。何度も凶器を持ち替え、明確な殺意をもって身体の重要な箇所を狙っている。精神障害者特有の常軌を逸した犯行とは違う」

宅間が大量に飲んだという薬物を通院先の病院で調べた結果、抗精神病薬「セロクエル」と抗鬱剤「パキシル」、睡眠剤「エバミール」の3種類である可能性が高いことが分かったが、これら全部を10回分一度に服用しても単に眠くなるだけで、奇怪な行動を起こしたり、過激な行動に出ることがないことが分かった。さらに、逮捕後に宅間の血液や尿を採取して鑑定しても薬物の成分が検出されなかった。捜査員が宅間にこれらの事実を突き付けると、「(意味不明の供述は)精神障害が重く、幻覚が出ているように装うためにやった。精神薬の影響があったように見せかけるためで、そうすれば言い逃れできると思った」と供述した。

事件から3ヶ月後に採録された宅間の供述調書に次のような記述がみられた(<>内)。

<表面的には悪いことをしたという思いはあるが、被害者に申し訳ないとか冥福を祈るという気持ちにはなっていない><私はもともと他人のことを考え、思いやる性格ではない。百人殺そうが、千人殺そうが、結局は自分のことしか考えていない><マスコミは騒ぎ過ぎだ。交通事故で大勢死ぬのと、私に殺されることとは何ら変わりないと思う>

2001年(平成13年)12月27日、大阪地裁で初公判が開かれた。この日の傍聴希望者は1320人になった。

2002年(平成14年)6月、被害者の祖父で、元芦屋大付属高校長の森脇徹が文芸社から『かくれんぼ』と題した本を刊行。

『かくれんぼ』

7月11日、第11回公判で宅間は弁護人から被告人質問を受けた。

―池田小学校を襲撃することをいつ決断したのか?

「前日の午後10時ころ。それまであった無差別殺人のうち、どの方法にしようか、いろいろ考えた」

―どんなことを?

「大型ダンプで商店街に突っ込み、通行院んを次々にひき殺すとか。ピストルがあったら女子高を襲い、1人を射殺して全員を裸にして屋上から飛び降りさせるとか。空港へ行ってスチュワーデスなどべっぴんな女を次々刺すとか」

―なぜ他人を襲う気になったか?

「とにかく無差別に・・・」

―なぜ池田小学校になったのか?

「警察の取り調べのころから供述しているようにそこらのアホな公立校の子どもを殺すよりは良い家庭の頭の良い将来のエリートたちに日ごろから目を付けていた」

―あまりにも突飛では?

「はい。いろんな理由はあるけど自分みたいな精神病院の屋上から飛び降りてケガしたような展望のないケッタイなおっさんに殺される。そういう不条理を世の中に分からせたてやりたい。なんぼ勉強できる子どもでも5秒か6秒で殺される。そういう衝撃を与えてやりたかった」

2003年(平成15年)3月14日、第20回公判で宅間の精神鑑定をした京都大学医学部の林拓二教授と京都府立洛南病院の岡江晃副院長の2人が連名で鑑定書を提出、証言した。

(1)犯行当時の精神状態はなんら意識障害もなく、精神病性の症状もなかった。

(2)本人を悩ませていた詮索癖、脅迫思考、他人の視線や音への敏感さ、嫉妬妄想は犯行に直接的な影響を与えていない。

(3)本件犯行がきわめて重大な犯罪であるという認識はその直前・直後も現在もある。

(4)犯行に踏み切らせた決定的なものは人格障害による情性欠如でいちじるしい自己中心性、攻撃性、衝動性である。

宅間の弁護団は宅間の心情を明らかにし、遺族に対し謝罪の気持ちをもたせようと、事件発生1ヶ月後の2001年(平成13年)7月から宅間に40通余りの手紙を書かせている。初めのころは被害者や遺族に対し謝罪や悔悟の言葉が出てきたが、公判が進むにつれ、<ぶすぶすとエリートの卵を刺し続けた。無差別に不愉快な思いをさせてやった>とか<こういう体験ができてよかった>などと身勝手な言葉ばかりが繰り返されるようになり、弁護団の目論見ははずれた。

5月、被害者の遺族である本郷由美子が講談社から『虹とひまわりの娘』と題した手記を刊行。のちにこの手記が刑務所で受刑者らの矯正教育用教材として採用されることになった。

『虹とひまわりの娘』

8月28日、大阪地裁で判決公判が開かれた。この日の傍聴希望者は2107人になった。

刑事訴訟法157条の4には被害者の精神的負担を和らげるのが主な目的で、被告人(加害者)のいる法廷で不安や緊張を感じるおそれがあるときに、それを和らげるために付添い人を付けることやビデオカメラを使って別室で証言すること(ビデオ・リンク方式)を認めている。「刑事訴訟法157条の4」には「傍聴」について規定されていないが、この日の判決公判では、一部の遺族の要望を受け、別室に設けたモニターカメラで傍聴できるようにした。大阪地裁が法廷外での傍聴を全国で初めて認めた例となった。

刑事訴訟法157条の4・・・裁判所は、次に掲げる者を証人として尋問する場合において、相当と認めるときは、検察官及び被告人又は弁護人の意見を聴き、裁判官及び訴訟関係人が証人を尋問するために在席する場所以外の場所(これらの者が在席する場所と同一の構内に限る。)にその証人を在席させ、映像と音声の送受信により相手の状態を相互に認識しながら通話をすることができる方法によつて、尋問することができる。

ちなみに、この事件以外で「ビデオ・リンク方式」による別室での証言をした例として、2002年(平成14年)3月6日に事件が発覚した北九州監禁連続殺人事件(概要)がある。2004年(平成16年)1月14日、福岡地裁小倉支部での第20回公判で小倉北区のマンションに監禁された被害者のうち1人だけ生き残った少女(事件発覚時17歳)の証人尋問で、虐待した松永太(逮捕時40歳/死刑確定)と緒方純子(逮捕時40歳/無期懲役確定)の両被告と同席せず、テレビ回線を通じ別室から「ビデオリンク方式」での証言となった。

大阪地裁は宅間守に対し死刑を言い渡した。

9月10日、弁護士側が判決を不服として控訴した。

9月26日、宅間自身が控訴を取り下げ、死刑が確定した。

12月27日、同年代の支援者の女性と12月上旬、獄中結婚していたことが分かった。女性の姓に合わせて「吉岡守」と改名した。5回目の結婚となる。

宅間は最初、この女性の愛情や支援に対して頑なに心を閉ざしていたが、自分に対する理解者が現れたことで少しずつ心を開いていった。執行の際、この女性に対しては感謝の気持ちを表すまでになったが、事件によって犠牲になった児童や被害者の遺族への謝罪は一切なかった。

2004年(平成16年)7月、被害者の両親と支援者が被害者遺族として2次的被害の経験をつづった『犯罪被害者支援とは何か』(ミネルヴァ書房/酒井肇ほか)を刊行。

『犯罪被害者支援とは何か』

9月14日、大阪拘置所で死刑が執行された。このころは死刑確定から5〜8年ほど経過した後に執行されているケースが多かったことから、確定からわずか1年というのは異例の早さの執行だった。40歳だった。

刑事訴訟法475条 死刑の執行は、法務大臣の命令による。第2項 前項の命令は、判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならない(罰則規定はない)。

宅間はこの条文について知っており、死刑の早期執行を望んでいた。弁護人に送った文書には<死刑は殺される刑罰や。6ヶ月過ぎていつまでもいつまでも嫌がらせをされる刑罰ではない。すぐ殺せば(精神的)ダメージがないので、しばらく嫌がらせをしてから執行する。そんな条文があるんか。法律家ならわしの身になれや。法律を遵守するのが法律家の仕事やろが。>と記載されていた。結果的には条文通りの「6ヶ月以内」ではなかったが、望み通りの早期執行となった。

参考文献など・・・
『宅間守精神鑑定書 精神医療と刑事司法のはざまで』(亜紀書房/岡江晃/2013)
『「宅間守精神鑑定書」を読む』(言視舎/飢餓陣営せれくしょん/単行本/2014.12)
『人はいつから「殺人者」になるのか』(青春新書/佐木隆三/2005)
『殺ったのはおまえだ 修羅となりし者たち、宿命の9事件』(新潮文庫/「新潮45」編集部/2002)

『なにが幼い命を奪ったのか 池田小児童殺傷事件』(角川書店/伊賀興一ほか/2001)
『凶獣』(幻冬舎/石原慎太郎/2017)

『新潮45』(2003年9月号)
『毎日新聞』(2001年6月8日/2001年6月9日/2001年12月27日/2003年8月28日/2003年9月10日/2003年9月26日/2004年9月14日)

この事件からヒントを得て制作された映画作品に『接吻 デラックス版』(DVD/監督・万田邦敏/出演・小池栄子&豊川悦司ほか/2009)がある。殺人事件を起こした男とその男をテレビで観て愛情を抱いた女性との異色のラブストーリー。

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