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古谷惣吉連続殺人事件

【 事件発生 】

「105号事件」は広域重要指定事件の制度ができて5つ目の指定となるが、過去4件の指定は、いずれも連続窃盗事件で殺人事件ではこの事件が初めてである。警察庁広域重要指定事件

  殺害日
遺体発見日
殺害場所 被害者 被害者の
職業
被害品
1965年(昭和40年)
10月30日 11月29日 神戸市垂水区
須磨浦公園近くの
松林の中の
自宅の小屋の中
大沼伊勢蔵
(58歳)
廃品回収業 数千円?入りの
財布
11月3日
(鑑識の
結果から
推定)
11月9日 滋賀県大津市錦織町の
柳ヶ瀬水泳場の
売店「柳屋」の中
大島馬吉
(59歳)
水泳場の
売店「柳屋」の
留守番
 
11月22日 11月22日 福岡県粕屋郡新宮町の
一軒家の自宅内
黒木善太
(54歳)
英語塾の
教師
現金5000円
トランジスターラジオ
腕時計
ズボンなどの衣類
12月3日 12月11日 京都市伏見区下鳥羽の
名神高速道路の
鴨川鉄橋下の
バラックの中
市川清治
(60歳)
廃品回収業  
12月3日 12月11日 京都市伏見区
下鳥羽中島河原田町の
京川橋下の
バラックの中
広垣平三郎
(67歳)
廃品回収業  
12月5日 12月17日
(古谷の
自供により
発見)
大阪府高槻市の
国道171号線の
高槻橋下の
バラックの中
山本正治
(53歳)
土建手伝い  
12月12日 12月12日 兵庫県西宮市大浜町の
海べりの
バラックの中
奥村善太郎
(69歳)
廃品回収業  
12月12日 12月12日 兵庫県西宮市大浜町の
海べりの
バラックの中
山本嘉太郎
(51歳)
廃品回収業  

古谷惣吉(ふるたにそうきち/上記の連続事件当時51歳)は、上記の8件の殺人事件の他に、これより14年前の1951年(昭和26年)5月23日、古谷(当時37歳)は坂本登(当時20歳)と共に、福岡市で浮浪者を絞殺して6800円を奪い、6月20日に北九州市で一人暮らしの老人を絞殺して230円奪っていた。坂本は死刑判決になったが、古谷は証拠不充分で懲役10年の判決でともに確定した。

さらに、古谷には1964年(昭和39年)11月〜翌1965年(昭和40年)5月、鳥取県米子市と愛媛県松山市でも、老人と老婆を殺害した嫌疑をかけられていたが、古谷本人の否認と証拠固めが弱かったため、この2件の強盗殺人は起訴に至らなかった。しかし、この米子と松山の事件も古谷の犯行であったことはほぼ間違いない事実のようである。

ということで、立件されなかった事件を含めると古谷惣吉の犠牲になった者は全部で12人ということになる。

1965年(昭和40年)11月9日、滋賀県大津市錦織町の柳ヶ瀬水泳場の売店「柳屋」の中で、その売店の留守番をしていた大島馬吉(59歳)が、死体になって発見された。後ろ手に縛られて、首にはタオルが巻きつけられて死んでいた。鑑識の結果、殺害されたのは11月3日と推定された。

11月22日、福岡県粕屋郡新宮町の一軒家で、英語塾の教師をしている黒木善太(54歳)が、殺されているのを夕方になって、外出先から帰った妻が発見した。心臓部を刃物でひと突きされ、血だらけで死んでいた。現金5000円、腕時計、トランジスターラジオ、衣類が奪われていることが分かった。

早速、強盗殺人事件として、捜査を始め、現場から犯人の物と思われる遺留品をタンスの裏から見つけた。Vネックの白セーター、靴下1足、ズボン、シャツの4点だった。鑑識課員は、やがてズボンの裏地の白い布に、<大沼伊勢蔵>と記入されているのを発見した。部屋の壁にかけていたズボンがなくなっていることから、はき替えて逃走したものと見て、<大沼伊勢蔵>を追及した。そして、警察庁の前科者カードにその名前を見つけた。前科が2つあり、ともに窃盗事件だったが、2つ目の窃盗事件で、1年半服役し、1948年に出所して以来、行方が分からなかったが、ほどなくして、神戸市で廃品回収業を営んでいることが判明した。早速、5人の刑事が神戸へと向かった。

11月29日、神戸市垂水区須磨浦公園近くの松林の中の自宅小屋の奥の部屋の中で、廃品回収業を営んでいる大沼伊勢蔵(58歳)が、フトン3枚をかぶって死んでいた。踏み込んだ刑事がそのフトンをめくってみると、首にはヒモが三重に巻かれ、すでにミイラ化した死体であった。後になって、1ヶ月前の10月30日に殺害されていたことが分かる。ひき出しに、300円ほど残っていたが、大沼が普段、使っている財布が見当たらず、強盗殺人の可能性が強かった。

警察が、福岡−兵庫−滋賀を、1人の犯人の線でつないで考えたのは、(1)留守番の老人を狙っている、(2)犯行現場が海岸寄りのひと気のない一軒家、(3)死体をフトンでかぶせて発見を遅らせている、(4)10月下旬から11月下旬に集中発生している、など手口の点で共通性があったからであった。

さらに、滋賀−兵庫を結ぶ証拠が出た。神戸市の現場にあった、銀行預金通帳を入れるビニール袋が滋賀銀行のもので、大津市で殺された大島は、この銀行に預金していた。兵庫県下には、滋賀銀行の支店は一軒もなく、通帳を入れるビニール袋は、犯人が運んできた可能性が強いと見たのである。

12月9日、警察庁は、この一連の事件を広域重要「105号事件」に指定した。

12月11日、京都府警では、広域重要「105号事件」の捜査のために、この日、一斉に一人暮らしの老人をパトロールしていた。午後2時40分ごろ、京都市伏見区下鳥羽の名神高速道路の鴨川鉄橋下のバラックの中で、廃品回収業の市川清治(60歳)が殺されているのを九条署の刑事が発見した。四方を古畳とテントの古布で囲った、わずか1坪ほどの小屋から足を突き出して、うつ伏せに倒れていた。首には紺マフラーが巻きつけてあった。よほど苦しんだのか舌を3分の1ほど噛み切っている。やはり、体にはフトンがかぶせてあった。殺害したのは12月3日だった。

同日、市川清治の死体発見から3時間後、九条署の刑事は市川の死体発見現場から鴨川をさらに800メートル下った、伏見区下鳥羽中島河原田町の京川橋下のバラックの中で、廃品回収業の広垣平三郎(66歳)が死体になっているのを発見した。電気コードを首に巻きつけられ、あお向けになって倒れていた。ここでも、死体にはフトンがかぶせてあった。こちらも殺害したのは12月3日であった。

12月12日、現場で採取した指紋が福岡県警保管の指紋原紙とほぼ一致して、前科8犯の古谷惣吉(当時51歳)が強盗殺人で全国指名手配された。

同日、兵庫県警は廃品回収業者を重点的にパトロールしていた。芦屋署の3人の派出所巡査は、芦屋市とは堀切川を挟んで対岸の西宮市大浜町の海べりに廃品回収業者のバラック小屋があるのに気づき、行った。小屋には奥村善三郎(69歳)と山本嘉太郎(51歳)が死体になっていた。2人とも頭を割られていた。殺害されたのは死体が発見される直前だった。

そして、裏口にはハンチングの男がたたずんでおり、あっさり自分が古谷惣吉であることを認めた。

12月17日、古谷は山本を殺害したことを自供した。大阪府高槻市の国道171号線の高槻橋下のバラックの中で、自供通り、土建手伝いの山本正治(53歳)の死体が発見された。山本はうつ伏せになり、首にはワイシャツが巻きつけられ、フトンがかぶせてあった。殺害したのは12月5日だった。

【 本人歴 】

1914年(大正3年)2月16日、古谷惣吉は、長崎県上県(あがた)郡上県町仁田村志多留(したる)の裕福な兼業農家の5人兄弟の長男として生まれた。志多留は日本と韓国との間に浮かぶ対馬にある。

4歳のとき、母親が死去。地元の尋常小学校を卒業して広島の叔母に引き取られる。

1930年(昭和5年)、16歳のとき、窃盗で捕まり岩国少年刑務所に入所。1933年(昭和8年)、窃盗で懲役8ヶ月。1935年(昭和10年)、窃盗で懲役2年。1937年(昭和12年)、窃盗と詐欺で懲役3年。1941年(昭和16年)、窃盗で懲役6年。

1951年(昭和26年)5月23日、37歳のとき、坂本登(当時20歳)と共に、福岡市で浮浪者を絞殺し6800円を奪い、6月20日、北九州市で一人暮らしの老人を絞殺して230円奪っていた。その後、坂本は逮捕され、裁判で死刑判決になったが、共犯に「ソウさん」という人物がいると主張した。警察の取調べでも、共犯に古谷がいることは遺留指紋などで確認できていた。だが、警察はそれほど熱心に追及しなかった。

1952年(昭和27年)3月、偽名をかたって、恐喝未遂事件を起こして懲役3年。

1953年(昭和28年)9月、加古川刑務所から仮出所後、姫路市内で窃盗で捕まり、指紋照会から1951年(昭和26年)5〜6月の九州での2件の強盗殺人がバレてしまった。改めて、古谷の強盗殺人の裁判が福岡地裁で開かれたが、1955年(昭和30年)6月、証拠不充分で、懲役10年の判決になった。

1964年(昭和39年)11月9日、熊本刑務所から仮出所。そのまま、熊本市の更生保護会「熊本自営会」に入った。ここでは土工をした。

1965年(昭和40年)5月5日、51歳のとき、「熊本自営会」の主幹から2000円、同僚から3000円を借り、熊本市郊外へレクリエーションに出かけたあと、姿を消した。

8月19日、古谷は警察になりすまし、福岡市箱崎の廃品回収業者の井頭富太(当時69歳)をタオルで首を絞めて失神させて、福岡銀行の定期預金証書一通と日本興業銀行の利付興業債券保護預かり帳一通を奪って、現金化の手続きに成功し、48万円を獲得した。

その後、10月30日をはじめとして約1ヶ月半に渡り、次々と金目当てに老人を襲って殺人を繰り返した。

【 その後 】

古谷は8人を殺害した罪などで起訴された。

検察官は「昭和刑事犯罪史上洵に極悪非道無類」と断じ、「僅かの金銭に対する自己の気まぐれな欲望を満足させるために」「執拗に且つ連続的に敢行した被告人の所為は、天人共に許さない行為であり」「人類のため社会のため公憤に耐えない」として、死刑を求刑した。

1971年(昭和46年)4月1日、神戸地裁は、「日本の犯罪史上かつてない凶悪な事件であり、この極悪非道の罪を償うには最高の刑罰しかない」と死刑を言い渡した。

1975年(昭和50年)12月13日、大阪高裁で控訴棄却。

1978年(昭和53年)11月28日、最高裁で上告棄却。死刑が確定した。

古谷は神戸拘置所から大阪拘置所に移管されたが、身寄りがなく、手紙を書く相手は兵庫県警の退職刑事だけだった。関係者の証言では、仏のように穏やかな日と野獣のように暴れる日が交互にやってきたという。

元刑事に宛てた手紙に短歌らしいものが書かれていた。

<厚恩を背負いてのぼる老いの坂、重きにたえず涙こぼるる>

1985年(昭和60年)5月31日、大阪拘置所で古谷惣吉の死刑が執行された。71歳だった。

参考文献・・・
『殺人百科』(文春文庫/佐木隆三/1981)

『現代殺人事件史』(河出書房新社/福田洋/1999)

『連続殺人事件』(同朋舎出版/池上正樹/1996)

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