[ 事件 index / 無限回廊 top page ]

おせんころがし殺人事件

1926年(大正15年=昭和元年)、栗田源蔵は秋田県雄勝(おがち)郡新成村(現・羽後町)の川猟師の三男として生まれた。父親は病弱で、母親が代わりに出稼ぎに出ていた。低収入の上、12人も兄弟がいて極貧の家庭であった。

栗田は内気でおとなしい子どもだったが、ひどい夜尿症のため、「小便小僧」「寝小便やーい」とからかわれた。母親の愛情を全く受けずに育った。小学校では尿臭のためイジメにあい、学校をさぼって、ひとりで近くの山で遊ぶことが多かった。家計を助けるため小学校を3年で中退して、農家に作男、子守りとして奉公に出された。しかし、いずれも寝小便を嫌われて首になり、1年で14、5ヶ所も勤め先を変えた。

1945年(昭和20年)6月、19歳のとき、弘前の歩兵連隊に入隊したが、夜尿症のため、わずか2ヶ月で除隊となった。栗田はこのように、夜尿症に苦しめられ、これが原因で次第に歪んだ性格を形成していくことになる。

終戦後、栗田は北海道美唄炭鉱の坑夫になった。荒っぽい男たちとの共同生活や肉体労働によって、それまで内向的だった栗田は粗暴で荒々しい性格に変わっていった。

1946年(昭和21年)8月、窃盗、物価統制令違反、食糧管理法(現在、廃止)違反で懲役1年6ヶ月の実刑判決を受け服役して1年で仮出所した。

1948年(昭和23年)2月、栗田は米、落花生を東京に売るヤミ屋をやるうち、村井はつ(17歳)と知り合い、やがて、結婚まで誓い合うような仲になった。ところが、はつの友人である鈴木芳子(20歳)とも結婚の約束をしており、三角関係に悩むことになった。ある日、静岡県駿東郡原町(現・沼津市)の海岸ではつから「芳子をどこに隠したの。芳子とは別れてよ」と厳しく責められた栗田は、「好きなのはお前だけだよ。邪魔になったから芳子は殺して、そこに埋めたよ。このことは黙っとけよ」と言った。はつは驚き、「警察に知らせなくちゃ・・・」と駆け出そうとしたので、捕まえて「お前を可愛がってやるからな」と言って性交した。そのあと、警察へ密告されることをおそれて手ぬぐいではつの首を絞めて殺したが、生き返るような気がしたので、念のため、石で頭を数回殴り、死体は芳子と同じように砂浜に穴を掘って埋めた。

酒に酔って殴り合いをして殺人未遂、傷害で懲役2年の判決を受け服役して1年で仮出所した。

1950年(昭和25年)、窃盗罪で懲役10ヶ月の判決を受け服役した。

1951年(昭和26年)、仮出所した後、仙台、福島で泥棒を続けながら生活していた。

8月8日、栗田は栃木県の小山駅で途中下車した。この日は蒸し暑い日で昼間、盗んだ酒を飲み干し、いい気分になっていた。日が暮れてから、盗みに入れそうな家を物色していたが、ある家の窓から中を覗くと、蚊帳の中で乳児とその母親の増山文子(24歳)が寝ていた。その姿を見て欲情した栗田はズボンを脱いで、侵入した。そのことに気づいて驚いた文子は「誰か来てえ」と叫んだが、栗田は布団に押し倒し、布で首を絞めながらレイプし、そのまま絞殺した。乳児は無事だった。タンスにあった着物や帯などをリュックに詰めると、栗田は死体に布をかぶせて屍姦した。そのあと、鍋、釜を庭に埋めるという奇妙な行動をとり、勝手口に排便した。排便は度胸をつけ、自分を落ち着かせるための犯人の行動で、当時の泥棒や殺人ではしばしば見られたらしい。

10月10日午後11時ころ、自転車に乗って家を物色していた栗田は、千葉県の上総興津駅の待合室で3人の子どもを連れた主婦の小林ふよの(29歳)を見かけた。栗田はこの女とやりたくなった。そこで、「送ってあげよう」と優しい声で話しかけ、長男の幸男(5歳)を自分の自転車に乗せて押し歩き、ふよのは背中に次女の幸江(2歳)を背負って長女の幸子(当時7歳)の手を引いた。真っ暗い道を5人は目的地に向かって歩いていった。途中、栗田は「いい体しているなあ」「俺にやらせろ」と何度も言い寄ったが、ふよのは「こんなところではだめよ。家に帰ってからね」と適当にあしらいながら帰途を急いだ。

10月11日午前1時ころ、安房郡興津町(現・勝浦市)の「おせんころがし」にさしかかった。「おせんころがし」とは太平洋の荒波が洗う急峻な断崖絶壁にある道で、一歩足を踏み外すと助からないという難所だった。昔、「おせん」という娘が転がり落ちたところからこの名がついたと言われている。

栗田は突然、怒りを爆発させた。

「頭にきた。やらせないなら、皆殺しにしてやる!」

自転車を止め、女性に襲いかかった。子どもたちが泣き出した。

「うるさい!」

大声で怒鳴った栗田は長男の幸男を自転車から引きずり下ろし、石ころで頭をメッタ打ちにし、両手で抱え上げて、十数メートル下の海めがけて断崖から投げ落とした。驚いて母親のふよのにしがみついた長女の幸子の手を掴んで引きずり、頭や顔を殴り、断崖から突き落とした。

「助けて、何でもするから!」

栗田は腰をぬかしてへたり込んでいたふよのを草むらに押し倒してレイプし、布で首を絞めて、崖から投げ落とした。最後に、寝ている次女の幸江の首を右手で絞めつけながら、左手拳で殴り、崖下に投げ落とした。

だが、崖の途中で引っかかっていることに気づいた栗田は、自転車用のランプを手に崖下に下りていき、中腹に転落していた3人をさらに石で殴打してとどめをさした。長女の幸子だけは崖の茂みにじっと身を潜めていたために探し出されずに命拾いしている。

1952年(昭和27年)1月13日夜、数日前に千葉県剣見川(けみがわ)町(現・千葉市花見川区内)の家に盗みに入って着物がたくさんあったことを知った栗田は、再び同じ家に侵入した。目を覚ました主婦の鈴木きみ(24歳)が騒いだため、タオルで首を絞めて窒息死させた。一緒にいた叔母の鈴木いわ(63歳)も物音に気づいて騒いだため、出刃包丁で腹を刺して殺害した。そのあと、すでに死んでいた主婦のきみを屍姦した。

事件があったとき、栗田は千葉県剣見川町の妹夫婦が暮らす家に寄宿していたが、1月13日に殺害した主婦の家に残された指紋によって栗田の犯行と判り、1月17日、千葉県警に逮捕された。栗田源蔵(当時26歳)が殺したのは結局、女6人、幼児2人の計8人であった。

最後の千葉県剣見川町の事件のみ千葉地裁で、その他は宇都宮地裁で審理された。

1952年(昭和27年)8月13日、千葉地裁で死刑判決が下り、翌1953年(昭和28年)12月21日、宇都宮地裁でも死刑の判決が下った。1審で、2度の死刑判決を受けるという珍しいケースとなった。

栗田はそれぞれの判決に対して控訴したが、これ以降、急に動揺し始める。

12月28日、医務部で癇癪を起こして大暴れした。

1954年(昭和29年)10月21日、栗田は控訴を取り下げたいと申し入れ、死刑が確定した。

栗田は獄中で「懺悔録」という手記を書いた。その中で計11件の殺人を告白しているが、千葉県小湊町での「おせんころがし」の事件は無実と主張している。首を絞めてのセックスや屍姦は、9歳のとき近所の老人から「女と寝るときは叩いたり、絞めたりすると、とてもいいぞ」と教えられ、それを実行して喜ばせようとした、とも書いている。

12月、栗田はこの「懺悔録」を売ろうとして、幾つかの新聞社、放送局、雑誌社に手紙を出したり、弁護士や教誨師に頼んだりしているが、結局、たいして売れないだろうからと言われ、あっさり諦めている。

1955年(昭和30年)に入ると、栗田は不安、不眠、吐き気がひどくなり、医務部通いの常連になった。特に、夜眠れないからと医官の往診と睡眠薬の注射を求める回数が増えた。気分がすぐれないという理由で房内で何日も横になったままでいたかと思うと、大声を上げ、壁を叩くなどの自傷行為に走り、収拾のつかない混乱と爆発を起こした。

2月、栗田はプロテスタントの教誨を受けた。牧師に対し、「おせんころがしでの事件で被害者となった女性が子どもを連れて泣いている夢を見るんです」と言った。

7月22日、栗田は千葉県小湊町の「おせんころがし」での殺人事件について再審請求を行なった。栗田の書いた再審申立意見書によると、この事件の当日、秋田県N町にいて洋品店に忍び込んで、窃盗事件を起こしているからアリバイがあるという。おせんころがしでの事件を自供したのは、宇都宮の刑事から「おせんころがしの件は君がやったことにしてくれ」と頼まれ、煙草や食料を差し入れされたからだという。だが、この再審請求は1ヶ月半後に棄却された。

10月12日、今度は、千葉県剣見川町の殺人事件について再審請求を行なった。その理由は、真犯人は妹の夫のSだということだった。栗田によると、SとSの友人をともなって盗みに入ったが、Sが近眼のため、物音に驚いて立ち上がった婆さんを包丁で刺してしまい、そのあと、Sとその友人が娘を強姦して殺したのだという。だが、11月にこの再審請求は棄却された。

12月中ころ、栗田は洗礼を受けた。だが、「あの牧師は差入れが多いが、こっちの坊主は差入れは少ない」などと文句ばかり言っていた。栗田にとっては差入れだけが目当てで宗教はどうでもよかったのである。

1956年(昭和31年)2月10日、栗田は東京拘置所から死刑台のある宮城刑務所仙台拘置支所に移監された。

当時の東京拘置所には死刑を執行する設備がまだなく、関東矯正管区の拘置所の死刑囚は仙台にある宮城刑務所仙台拘置支所に送られ、死刑執行された。東京拘置所で死刑の執行が行なわれるのは1966年(昭和41年)からである。

その直後から栗田は再審申立、抗告申立、即時抗告申立などを繰り返した。だが、いずれも棄却された。栗田がそうしたのは申立をしている間は死刑が執行されないと弁護士に教えられたからだった。棄却の通知が来ると不安になり、慌てて申立をする。その繰り返しだった。

同年、死刑廃止か存続かをめぐって国会で死刑制度の是非について論議されたが、このとき、法務省が死刑を維持する理由として、「特殊な極悪人が世の中にはおり、淘汰する以外にない犯罪者がいるのだ」として、栗田源蔵はその代表として名指しされた。

1957年(昭和32年)3月、東京拘置所の精神科医官である加賀乙彦(本名・小木貞孝)は宮城刑務所の死刑確定者の調査に出かけて栗田に再会した。

加賀乙彦・・・1929年(昭和24年)、東京生れ。作家。東京大学医学部卒。東京拘置所医務部、北フランスの精神病院、東大医学部精神医学教室、東京医科歯科大犯罪心理学教室等で勤務の後、創作活動に専念。主な著書・・・『フランドルの冬』(1968年、芸術選奨文部大臣新人賞)/『帰らざる夏』(1973年、谷崎潤一郎賞)/『宣告』(1979年、日本文学大賞)/三部作『永遠の都』(「岐路」『小暗い森』『炎都』(1998年、芸術選奨受賞)。

東京拘置所では狂暴だった栗田は、ここで過ごした1年で、すっかり痩せてしまい、体重75キロの体格のいい体が全体的に骨張った感じになり、どことなくもの悲しげで、声も低く元気がなくなった。

「東拘にいるときは全く考えもしなかったが、ここにいると1ヶ月に一度ぐらいお迎えが来るんです。見ているととてもやりきれない。呼び出された男が強張った顔をして前を通って行くときは本当に辛いもんです。自分もいつかああなると思うと、とてもイヤです。ええ、自分は死ぬのは何でもない。ただ、自分が “無実の罪”で死刑になれば、母や妹が可哀相だから、何としても生きたい。先生、生きたいんです。助けてください。・・・・・・夢が多いんですよ。胸の上に重たいモノがのってきて、もがいても体がちっとも動かない。必死になってもがくと小便をもらしているんです・・・・・・」と訴えて泣いた。

1959年(昭和34年)10月14日、死刑が執行された。33歳だった。

参考文献・・・
『死刑囚の記録』(中公新書/加賀乙彦/1980)

『身の毛もよだつ殺人読本』(宝島社/1998)

『日本犯罪図鑑』(東京法経学院出版/前坂俊之/1985)

『実録 戦後殺人事件帳』(アスペクト/1998)

『日本の大量殺人総覧』(新潮社/村野薫/2002)

「おせんころがし殺人事件」の画像

[ 事件 index / 無限回廊 top page ]