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津山三十人殺し事件

 

【 惨劇 】

津山三十人殺し事件で登場する人物については都井睦雄を除いてすべて仮名とした(阿部定事件、鬼熊事件は実名)。

岡山県津山市から北へ20キロ行ったところの中国山地の鳥取との県境に近いのどかな山村で、わが国犯罪史上、未曾有の大惨劇が起こった。

岡山県苫田(とまだ)郡西加茂村大字行重(ゆきしげ)の貝尾部落とその隣の坂本部落を舞台に、1人の青年がわずか1時間半の間に、村人30人を惨殺するという事件であった。

西加茂村は全戸数約380戸、人口約2000人、貝尾部落は全戸数23戸、人口111人、その隣の坂本部落は全戸数20戸、人口94人という小さな村であった。

この両部落の住民はその大部分が零細農で、山田の耕作や養蚕を主な産業とし、冬の間は雪に閉ざされ、男は長期の出稼ぎや山に入って炭焼きをする者が多い。村には老人と婦女子だけが残る。「夜這い」など性的に放縦な旧習が色濃く残る地域でもあった。

1938年(昭和13年)といえば、日中戦争の最中で、日本軍が徐州を占領した5月19日の直後にこの事件が起きている。

5月21日午前1時ごろ、岡山県苫田郡西加茂村大字行重字貝尾779番地に住む農業の都井睦雄(といむつお/22歳)は、中6畳の間のこたつに祖母と向かいあった位置で寝ていたが、祖母が目を覚まさないように気を配りながら、そっと起き足音を忍ばせて屋根裏部屋に上がった。ちなみに、都井の自宅は貝尾部落のほぼ真中に位置していた。都井は祖母と2人暮らしであった。

都井睦雄の年齢を「22歳」としているが、これは「数え年齢」で、現在使われている「満年齢」では都井の生年月日が1917年(大正6年)3月5日なので、事件のあった1938年(昭和13年)5月21日の時点で「21歳」ということになる。ちなみに「数え年齢」とは生まれた時点で「1歳」とし次の年の元日を迎えた時点で1年加えて「2歳」となる、というように、以後元日を迎えるごとに年齢が加算される計算法で、「数え年齢」と「満年齢」は常に1歳か2歳違いとなる。この「数え年齢」から「満年齢」に変わるのは1950年(昭和25年)以降。

都井は自分を邪魔者扱いする部落民を殺害しようと綿密な襲撃計画を立てていた。

特に、自分と肉体関係がありながら嫁いでいった2人の女性に対しては激しい敵意と殺意を抱いていた。都井はこの2人の女性が村に帰って来る日を調べて知り、あるいは小さな村だから、「誰が何をするとか、した」というのは、いやでも耳に入っていたのかもしれない・・・。都井はそのときを犯行の日と決めていた。そして、その日がやってきた。

前日の5月20日午後4時ごろ、自転車で襲撃予定の家への道を何度も往復して入念に下見している。午後5時ごろ、送電線の電柱に登って電線を切断し、部落全体を真っ黒闇にした。電灯会社に修理の依頼をしに行く村人はいなかった。

都井は親しい友人に、「どうせ肺病で死ぬんじゃから、阿部定以上のどえらいことをやってやる」と漏らしていた。

阿部定事件・・・2年前の1936年(昭和11年)5月18日、愛人を絞殺し局所を切り取るという前代見聞の猟奇事件。

屋根裏部屋に上がった都井は、黒詰め襟の学生服に、両足は軍事訓練に使うゲートルを固く巻いた。これは青年学校で軍事訓練用に買わされたもので、1、2度しか使用していない新品同様のものだった。そして、地下足袋に足を通した。鉢巻き状に巻きつけた頭の手拭いに2本の小型懐中電灯を取り付け、さらに、自転車用のナショナルランプをひもで首から胸に吊り下げ、さらに、別のひもで胴に固定し、暗闇の中で相手を照らし出すようにした。日本刀1振りと匕首(あいくち)2口を左腰にさしてひもでくくり、この上をさらに皮のベルトでしっかりと締めた。手には猛獣狩り用口径12番9連発に改造したブローニング猟銃を持ち、ポケットには実弾100発を入れ、弾薬、実弾100発を入れた雑嚢を左肩から右脇にかけた。まるで、2本の角が生えた阿修羅さながらである。

この地方では、夜間川漁をするとき懐中電灯1個を手拭いなどで頭上につける風習があった。また、都井が愛読した雑誌『少年倶楽部』(前年の12月号)には剣付き銃(懐中電灯もくくりつけられている)を構えた日本兵が中国人を突き殺そうとしている漫画が載っているので、これに着想を得たようにも思える。

5月21日午前0時ごろ、小雨が降ったがすぐに止み、ときどき雲の間から月が見えた。春とはいえ、うすら寒い夜だった。

軒目 戸主 死亡者 生存者
都井睦雄
(22歳)
祖母・よね(76歳) [ 戸主・睦雄(22歳)が
30人殺害後に自殺
]
岸本勝之
(?歳)
母・つきよ(50歳)
弟・吉男(14歳)
弟・守(11歳)
妹・みさ(19歳)は
8軒目の寺川千吉宅で死亡
戸主・勝之(?歳)
西田秀司
(50歳)
戸主・秀司(50歳)
妻・とめ(43歳)
長女・大友良子(22歳)
妻の妹・岡庭千鶴子(22歳)
(一家全滅)
岸本高司
(22歳)
戸主・高司(22歳)
内妻・西田智恵(20歳)
母の孫・寺中猛雄(18歳)
母・たま(70歳)が重傷を負う
寺川政一
(60歳)
戸主・政一(60歳)
長男・貞一(19歳)
内妻・野木節子(22歳)
五女・とき(15歳)
六女・はな(12歳)
四女・ゆり子(22歳)は
6軒目の寺川茂吉宅で軽傷を負う
寺川茂吉
(45歳)
父・孝四郎(86歳) 戸主・茂吉(45歳)
妻・伸子(41歳)
次男・進ニ(17歳)
四女・由紀子(21歳)が軽傷を負う
寺川好ニ
(21歳)
戸主・好ニ(21歳)
母・トヨ(45歳)
(一家全滅)
寺川千吉
(85歳)
長男の内妻・平地トラ(65歳) 戸主・千吉(85歳)
妻・チヨ(80歳)
長男・朝市(64歳)
孫・勲(41歳)
孫の妻・きい(38歳)
丹下卯一
(28歳)
母・イト(47歳)は
病院に運ばれるが
6時間後に死亡
妹・つる代(21歳)は
8軒目の寺川千吉宅で死亡
戸主・卯一(28歳)
10 池山末男
(37歳)
父・勝市(74歳)
母・ツル(72歳)
妻・宮(34歳)
四男・昭男(5歳)
戸主・末男(37歳)
長男・洋(15歳)
次男・彰(12歳)
三男・正三(9歳)
11 寺川倉一
(61歳)
妻・はま(56歳)は
病院に運ばれるが
12時間後に死亡
戸主・倉一(61歳)
長男・優(28歳)
12 岡部和夫
(51歳)
戸主・和夫(51歳)
妻・みよ(32歳)
(一家全滅)

[ 1人目] 午前1時40分ごろ、都井は屋根裏部屋から下り、中6畳の間に入ってこたつでぐっすりと寝入っている祖母のよね(76歳)の首を薪割り用の斧で切断した。首は鮮血とともに50センチほど飛んで転がった。

[ 2人目] 最初に襲ったのは、北隣にある岸本勝之宅だった。ここは5人家族だったが、勝之は呉海兵団に入団中でいなかった。田舎だから戸締りはしていなかった。何度かの夜這いで勝手を知り尽くしていた都井は、奥の6畳間に忍び込んだ。都井は未亡人である母親のつきよ(50歳)と肉体関係があったが、最近になって拒絶されるようになり、村中にそのことを言いふらされていたため、特に強い恨みを抱いていた。猟銃の使用は近所に聞こえると思い、日本刀をそっと抜いて、半裸で熟睡していたつきよの首、胸を突き刺した。刀の先は畳を突き抜けた。最後に口の中にも突き刺した。

[ 3・4人目 ] 続けて、母親の隣に寝ていた弟の吉男(14歳)とその弟の守(11歳)を日本刀でメッタ斬りにして惨殺。妹のみさ(19歳)は仕事のために、寺川千吉宅で寝泊まりしていて、このときは、難を逃れてはいるのだが、都井はみさが千吉宅に寝泊りしていたことを知っていた。

[ 5人目 ] 3軒目は西田秀司宅だった。ここには4人がいた。ここも鍵をかける習慣はなかった。都井は妻のとめ(43歳)と肉体関係が何度もあったが、とめは村中に「何度も挑まれたが断った」と言いふらしていた。都井は4畳間に寝ていたとめの腹部に猟銃を突きつけて発砲した。とめはこの猟銃のダムダム弾を受け内臓が飛び出して即死した。

[ 6・7・8人目 ] 隣の部屋では、3人がこたつに入って寝ていた。長女の大友良子(22歳)と主人の秀司(50歳)と妻の妹の岡庭千鶴子(22歳)であった。都井は良子とも肉体関係があったが、他家に嫁いだ。だが、風邪で寝込んでいたとめを見舞いに、良子と千鶴子が来ていた。都井はそのことを知っていた。都井は良子が帰って来て、村にいるこの日を虐殺の日に選んだ理由のうちのひとつにしていた。3人が銃声で飛び起きたところを猟銃で至近距離から射殺。3人とも体に大きな穴が開き即死した。

[ 9・10人目 ] 4軒目は岸本高司宅だった。ここは4人家族だった。ここも鍵をかける習慣はなかった。表戸から侵入した都井は、ひとつ布団に就寝していた主人の高司(22歳)と内妻の西田智恵(20歳)を猟銃で射殺。妊娠6ヶ月の妻は腹部に銃弾を受けて即死した。智恵は5番目に殺害された西田とめの次女である。

[ 11人目 ] そのあと、甥の寺中猛雄(18歳)が、飛びかかったが、都井は銃床で殴り倒し下顎を陥没させ、猟銃で胸を撃ち抜いた。

[ 重傷 ] 都井は、うずくまって震えていた母親のたま(当時70歳)の前に仁王立ちになり、落ち着いた声をゆっくりと押し出し、「お前んとこには、もともと恨みも持っとらんじゃったが、西田の娘を嫁にもろたから、殺さにゃいけんようになった」と言った。「頼むけん、こらえてつかあさい」たまは都井の足元にひれ伏して哀願した。「ばばやん、顔を上げなされ」と命じ、銃口で頭を押し上げて胸をめがけて発射した。たまはふっとんで転がったが、奇跡的に一命をとりとめた。たった1人生き残ったたまは「若い者が死んでわしが生き残るとは、神も仏もありゃせんがのう」と運命の皮肉を嘆いた。

[ 12人目 ] 5軒目は寺川政一宅だった。ここは6人家族だった。度重なる銃声で、寺川宅の家族は皆、起きていたが、戸締りをしていなかった。表玄関から侵入した都井は、「何事か」と言って出てきた主人の政一(60歳)の胸を猟銃でぶち抜いて射殺。

[ 13・14・15・16人目 ] 夢中で窓からおもてに飛出した長男の貞一(19歳)の背中を猟銃でぶち抜き射殺。、五女のとき(15歳)と六女のはな(12歳)が、廊下の雨戸を開けて外に出ようとしたところを猟銃で射殺。内妻の野木節子(22歳)を廊下の隅に追い詰め、立ちすくんだところを胸をめがけて猟銃で撃ちこみ死亡させた。寺川貞一と野木節子は6日前の5月15日に結婚式を挙げたばかりだった。

[ 軽傷 ] 四女のゆり子(当時22歳)と都井は深い仲だったが、ゆり子は都井をふって他の男と結婚した。恨んだ都井が新婚の夜の寝室に夜這いをかけたため、ゆり子は離婚せざるを得なくなった。都井はよりを戻そうと図ったが、その後、ゆり子は他の村の男と再婚してしまった。3日前から、ゆり子は帰宅していた。それを知っていた都井がこの日を虐殺の日に選んだ理由のうちのひとつであった。ゆり子は、裏口から素早く脱出し、近くの寺川茂吉宅に逃げ込んだ。都井がもっとも恨んだ、ゆり子は軽傷を負っただけで済んでいる。寺川ゆり子は同年1月9日に同部落の丹下卯一と結婚したが、同年3月20日に離婚させられ、その後、同年5月5日に、他の村の男と再婚した。半月前のことだった。

[ 17人目 ] ゆり子が逃げたことに気づいた都井は、すぐ後を追った。6軒目の寺川茂吉(当時45歳)宅は元々、都井の襲撃の計画に入っていなかったが、悲劇の巻き添えとなってしまった。ここは5人家族だった。表戸を閉めた直後に、都井がやってきて「開けろ、開けぬと、撃ちめぐぞ」と怒鳴った。離れの隠居所にいた父親の孝四郎(86歳)が雨戸を開けると、都井は孝四郎めがけて猟銃を連射。胸に5、6センチの穴が2つでき即死した。

[ 軽傷 ] ゆり子と主人の茂吉と妻の伸子(当時41歳)と次男の進二(当時17歳)は、全部の戸を閉め切った。都井は銃を乱射したり、裏戸を激しく叩いた。茂吉はこのままでは全員殺されると判断し、次男の進二に寺川元一宅へ急を知らせ、助けを求めるように命じた。そこで、進二は横入り口から飛び出し、裏の竹薮へ走り込んだが、都井に見られてしまった。都井はすぐにあとを追いかけ、進二も追いかけられたことに気づいたので、竹の葉が密生している藪の中に身を伏せ、じっと息を殺したので、都井の目をくらますことができた。都井は「逃げると撃つぞ」と大声で叫びながら追いかけたが、発砲はしなかった。進二を見失っていたが、裏口の前にきて、さも進二を捕まえたような口ぶりで「こら、進二、白状せよ」「白状せぬと撃つぞ」と大声で2回怒鳴り立てた。妻の伸子は「あんた、進二が捕まったけん」と全身をわなわなと震わせ、泣きながら茂吉にとりすがった。ゆり子も「うちのためにとんだことになったですけん。すまんことです。堪えてつかあさい」と言って泣きじゃくった。茂吉は、こっそりと裏口の戸に近寄り、板戸の隙間から外の様子を覗った。戸のすぐそばには都井が立ちはだかっているが、進二がいないことが分かって安心した。だが、そのあと、都井は「どうしても開けんなら、斧を持ってきて打ち割るぞ」と怒鳴り散らして、銃床で裏戸を激しく叩いたあと、戸の外から家の中に向けて連続2発発砲した。このときの1発が、茂吉の娘の四女の由紀子(当時21歳)の大腿部に命中し、軽傷を負わせている。

ようやく、このころになって断続的に深夜の山間に響き渡る銃声、絶叫や悲鳴で、異常を知った村人が騒然と騒ぎ出した。

[ 18・19人目 ] 7軒目は高台にある寺川好二宅だった。ここは未亡人の母親のトヨ(45歳)と息子の好二(21歳)の2人で暮らしていた。やはり、ここも鍵をかける習慣がなかった。都井は金品によってトヨと情交を重ねていたが、別の男に走り、西田良子と寺川ゆり子の結婚の媒酌人を買って出たのを恨んでいた。都井がさんざん発砲したあとにもかかわらず、そのことに気づかずに熟睡していた2人を布団の上から銃口を押しつけて射殺した。

[ 20・21人目 ] 8軒目は都井の自宅の南隣の寺川千吉(当時85歳)宅であった。ここは、家族6人の他、養蚕手伝い2人の計8人が寝ていた。都井は寺川千吉宅には恨みはなかったが、かつて都井との情交を拒んだ丹下卯一宅の妹のつる代(21歳)と岸本勝之宅の妹のみさ(19歳)の2人が養蚕室で寝ていたところを、猟銃で各2発ずつ銃弾を浴びせた。1人は脳味噌が飛び散り、もう1人は腹部から腸が飛び出して即死した。

[ 22人目 ] もう1人、同じ部屋で寝ていた長男の朝市(当時64歳)の内妻の平地トラ(65歳)は「堪えてくれ、こらえてつかあさい」と懇願したが、都井は猟銃を2発発砲、腹部が貫通して即死した。

養蚕室を飛び出した都井は、母屋の縁側の雨戸を開けて押し入り、表6畳の間に踏み込むと、こたつに坐りこんでいた千吉を3つの照明が捕らえた。千吉は都井を見上げたが、格別の反応を示さず凝然と端座したままであった。都井は「年寄りでも結構撃つぞ。本家のじいさん(寺川孝四郎のこと)も殺(や)ったけんのう。どないしてやろか」と言いながら、銃口を千吉の首にあて、ちょっと考えてから「お前はわしの悪口は言わんじゃったから、堪えてやるけんの。せやけど、わしが死んだらまた悪口を言うことじゃろな」と言ってニヤリと笑った。

そのあと、都井は表6畳から奥納戸に踏み込んだ。ここでは、朝市が布団にもぐりこんでいた。朝市は都井と千吉のやりとりを聞いて、これは助かるかもしれないと思い、震えながらも寝たふりをした。都井は3つのひかりで朝市を照らすと、いきなり枕を蹴飛ばした。朝市はびっくりして起き上がろうとすると、その胸を銃口で押し戻し「若い者(勲夫婦)は逃げたな。動くと撃つぞ。おとなしくせえ」朝市は都井を見上げて両手を合わせ「決して動かんから助けてくれ」と必死で哀願した。都井が「それほどまでに命が惜しいんか」とからかうように言うと、朝市は手を合わせたまま何度も子供のように大きくうなずいた。「よし、助けてやるけん」と都井はそう言って千吉宅を出た。千吉の妻の寺川チヨ(当時80歳)は床下にもぐりこみ、孫の寺川勲(当時41歳)とその妻の寺川きい(当時38歳)は2階に隠れていた。

[ 23人目 ] 9軒目は丹下卯一(当時28歳)宅だった。ここは3人家族だったが、妹のつる代(21歳)は寺川千吉宅の養蚕室ですでに、射殺されていた。丹下宅にも別棟に養蚕室があり、たまたま、母親のイト(47歳)が、保温用の炉の火の具合を見ていたところに、都井が現れ「娘(つる代)はもう殺(や)った。今度はお前じゃ」と言って、猟銃で連射し、重傷を負わせた。嵯峨野病院に運ばれたが、6時間後に死亡した。卯一は、母屋で寝ていたが、母親の絶叫と銃声で目を覚まし、いち早く脱出して難を免れた。卯一は一時期、寺川ゆり子と結婚していたから、都井の標的の対象になっていたかもしれない。

卯一は西加茂の駐在所に行ったが、巡査が不在だったため、加茂町駐在所へ行き、息をはずませながら、事件の発生を知らせた。約3キロのあぜ道を走り、途中、自転車を借りて20分後に到着した。午前2時40分ころだった。

「駐在さん、大変だ、起きてくれ。人殺しだ」という卯一の叫び声に今田武雄巡査は寝床からはね起きた。窓には顔見知りの卯一が口をぱくぱくさせている。卯一の話しを聞く前に「都井が殺(や)ったか?」と今田巡査は怒鳴った。日ごろから都井の動静が気にかかっていたのである。今田巡査はすぐに、電話で津山署宿直の北村警部補に報告した。隣村の東加茂村巡査駐在所の米沢巡査にも連絡した。消防組の集合の手配も頼んだ。また、医者の手配、万一の場合には鉄道電話を借りることと、この異常事態の発生を報せるために町や村の半鐘を乱打することなどを妻に昂奮して命じ、卯一と共に貝尾部落に向かった。

[ 24人目 ] 10軒目は池山末男(当時37歳)宅だった。ここは8人家族だったが、伊勢神宮に修学旅行中だった長男の洋(当時15歳)を除いて他の7人はここの自宅にいた。都井がここを襲撃の対象に加えたのは、池山末男が寺川マツ子(当時35歳/池山勝市の五女、20歳のとき寺川弘と結婚)の兄だったからだった。都井はマツ子と関係があったが、都井が肺結核にかかったと知ると急に心変わりをした。末男は、裏の雨戸を開けておもてへ飛び出した。このとき、すでに、裏に回っていた都井が末男を見つけるなり乱射したが、末男は夢中で竹薮の中に駆けこんで難を免れた。都井は家の中に入りこむと、猟銃で妻の宮(34歳)の心臓をぶち抜いた。

寺川マツ子一家は危険を察知し、子ども4人を連れて夫と3日ほど前に京都に引越した。このとき5番目に殺害された西田とめを一緒に京都に逃げようと誘ったが、とめは「殺されるほど憎まれてはいない」と言ってその誘いを断っている。都井はマツ子一家が逃げたことを知っていた。

[ 25・26・27人目 ] さらに、四男の昭男(5歳)に発砲。昭男は肝臓や腸が飛び出して即死した。母親のツル(72歳)は、左肩を弾が貫通して死亡。父親の勝市(74歳)は、必死でおもてに逃げようとしたためか、都井はめちゃくちゃに発砲。勝市は胸を射抜かれた他、全身に6発の銃弾を浴び、肺を露出して死亡した。次男の彰(当時12歳)と三男の正三(当時9歳)は、都井が見逃したのか、かすり傷ひとつ負わずに助かっている。

[ 28人目 ] 11軒目は集落の高台にある村一番の財産家の寺川倉一(当時61歳)宅だった。ここは3人家族だった。倉一は金にものをいわせて、寺川マツ子、岡部みよなど、何人かの村の女と関係していた。都井が坂を登る途中、胸のナショナルランプが消えたが、坂を登り切ると、「倉一はいるかア」と怒鳴りながら、表門から走り込んだ。妻のはま(56歳)がローソクを手に雨戸を開け、何事が起こったのかと、おもてを見渡しているところだった。「2つ目が来るぞい」はまが倉一と長男の優(当時28歳)に振り向いて叫んだ瞬間、都井の猟銃が火を吹いた。はまはローソクを持った右手に弾を受けたが、痛みを堪えて急いで雨戸を閉め、駆け寄った倉一と2人で必死で都井の侵入を防いだ。都井は閉まっていた雨戸に向かって猟銃を5発乱射し、はまの右腕を射抜き、重傷を負わせた。それを見て、倉一は、雨戸を押さえるのを止め、2階へ駆け上がって窓を開けて「助けてくれえ、助けてくれえ、人殺しじゃ、誰か来てくれえ」と何度も絶叫した。高台のため、村人全員にこの声が届いたという。都井は倉一に向けても発砲したが、弾は1階の軒の屋根瓦を貫いただけだった。倉一はあわてて部屋の中に身を伏せた。都井は倉一を諦めここを離れた。はまは嵯峨野病院に運ばれたが、出血多量で、12時間後に死亡した。

[ 29・30人目 ] これまでは全て貝尾部落での出来事だったが、12軒目は貝尾部落の北西に位置する坂本部落の岡部和夫(51歳)宅だった。都井は約2キロの山腹のけもの道を駆け抜けて、ここにたどり着いている。ここは夫婦2人暮らしだった。妻のみよ(32歳)と都井は何回も関係したが、夫の和夫は、これを阻止しようとあれこれ腐心した。そして、最近では、みよまでが冷たくなっていた。岡部宅は都井の夜這いを警戒していながら、表戸に戸締りをしていなかった。あるいは、寺川倉一のために、みよが錠をはずしておいたのかもしれない。和夫は都井を撃退するために、ごく最近、空気銃を買っている。和夫はこのとき、それを持ち出して応戦しようとした。だが、都井は猟銃で7発撃って、妻もろとも射殺した。

こうして、約1時間半に渡る惨劇は終わった。

被害者は、死亡者30人(即死28人、重傷を負い、のちに死亡した者2人)、重傷者1人、軽傷者2人の計33人であった。

午前3時ごろ、岡部宅をあとにして、樽井部落の武田松治(当時66歳)宅に現れた都井は「今晩は、今晩は」と呼びながら、松治らが寝ている部屋に上がりこんだ。松治は都井の姿を見て強盗だと思ったという。都井は「おじいさん、ふるえなさんな、おじいさん、急ぐんじゃ、紙と鉛筆をもらいたい。警察の自動車がこの下まで、自分を追うて来ておる」と言った。松治は紙を探していると、都井は、その部屋に寝ていた松治の孫に「アッチャン、君とこはここじゃな。おじいさんでは間に合わぬ。鉛筆と雑記帖を出してくれ」と言った。孫が鉛筆と書きかけの雑記帖を出すと、都井は雑記帖の一部を破り取り、「なんぼ俺でも罪(とが)のない人は撃たぬ。心配しなさんな」アッチャンには「勉強してえらくなれよ」と言った。都井はそれから急いで出ていった。

孫は「あれが都井じゃ」と言った。そこで、松治は初めて、岡部みよと密通の噂があった都井という男であることを知った。

都井からアッチャンと呼ばれた篤男(あつお)は都井の「お話」を聞きに集まった子供たちの1人であった。

松治は都井が遺書を書くつもりで紙と鉛筆を要求したのだと察したが、小学5年の篤男にはその意味が解からなかった。

都井の自殺死体が発見されたのは、そこから山に3.5キロ入った仙の城山頂であった。

そばには、身につけていた懐中電灯、鉢巻き、日本刀1振り、匕首2口、自転車用ナショナルランプ、雑嚢が体からはずされ並べられていた。地下足袋も脱いできちんと揃えて置いてあった。

黒詰襟の学生服のボタンをはずし、ブローニング9連発猟銃を手に取ると、シャツの上から心臓部に銃口をあてた。両手で銃身をしっかりと握り、右足を伸ばして親指を引き金にかけた。銃声と同時に、その手から銃が1メートルほど吹っ飛び、都井はのけぞって倒れた。即死だった。

自殺現場には遺書があり、自宅でも2通の遺書が発見されている。死亡推定時刻は午前5時ごろだった。

[ 自殺現場にあった遺書 ]

( 全文/誤字はそのままとした)

愈々死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、ニ歳の時からの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事を行った、楽に死ねる様にと思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙が出るばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるして下さい、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから(たとい自分のうらみからとは言いながら)決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくさされば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。
思う様にゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係のあった寺川ゆり子が貝尾に来たから、又西田良子も来たからである、しかし寺川ゆり子は逃した、又寺川倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言う者はほとんどいない、岸本順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。
 もはや夜明けも近づいた、死にましょう。

< 『津山三十人殺し』(草思社/筑波昭/1981) >

「愈々」・・・「いよいよ」

自殺現場で遺書を書くことをいつ思いついたのだろうか。初めからそのつもりだったが、殺害することばかり考えていたため、うっかりして紙と鉛筆を持って行くのを忘れてしまったとも考えるられるが、この遺書を読むと、「殺すべき人を殺さず、殺さなくてもいい人を殺してしまった」と計画通りにいかなかったことを書いているところ以外は自宅にあった遺書と内容が重複していることから、あとで思いついたと考えるのが自然のようだ。計画通りに「殺すべき人だけを殺した」なら自殺現場で遺書は書かなかったかもしれない。

[ 自宅にあった遺書 その1 ]

( 単に 「書置」と上書きしたもの/全文/誤字はそのままとした)

自分が此の度死するに望み一筆書き置きます。ああ思えば小学生時代は真細目な児童として先生にも可愛がられた此の僕が現在の如き運命になろうとは、僕自身夢だに思わなかったことである。
 卒業当時は若人の誰もが持つ楽しき未来の希望に胸おどらせながら社会に出立つした僕が先ず突きあたった障害は肋膜炎であった。医師は三ヶ月程にて病気全快と言ったが、はかばかしくなく二年程ぶらぶら養生したが、これが為強固なりし僕の意志にも少しゆるみが来たのであった。其の後一年程農事に労働するうち、昭和十年十九歳の春再発ときた。これがそもそも僕の運命に百八拾度の転換を来した原因だった。
 此の度の病気は以前のよりはずっと重く肺結核であろう。痰はどんどん出る、血線はまじる、床につきながらとても再起は出来ぬかも知れんと考えた。こうしたことから自棄的気分も手伝いふとした事から西田とめの奴に大きな恥辱を受けたのだった。病気の為心の弱りしところにかような恥辱を受け心にとりかえしのつかぬ痛手を受けたのであった。それは僕も悪かった。だから僕はあやまった。両手をついて涙をだして。けれどかやつは僕を憎んだ。事々に僕につらくあたった。僕のあらゆる事について事実の無い事まで造りだしてののしった。
 僕はそれが為世間の笑われ者になった。僕の信用と言うかはた徳と言うかとにかく人に敬せられていた点はことごとく消滅した。顔をよごされてしまった。僕はそれがため此の世に生きて行くべき希望を次第に失う様になった。病気はよくなくどちらかと言えば悪くなるくらいで、どうもはかばかしくなく昔から言う通りやはり不治の病ではないかと思う様になり、西田の奴はつめたい目をむけ、かげにて人をあうごとに悪口を言うため、それが耳に入るたびに心を痛め、日夜もんもんとすること一年、其の間絶望し死んでしまおうかと思った事も度々あった。
 けれど年老いた祖母の事を思い先祖からの家の事を思う度に強く強くそして正しく生きて行かねばならぬと思いなおして居た。けれど病気は悪くなるばかりとても治らぬ様な気分になり世間の人の肺病者に対する嫌厭白眼視、とくに西田とめと言う女のつらくあたること、僕は遂にこの世に生くべき望み若人の持つすべての希望をすてた。そうして死んでしまおうと決心した時の悲しさは筆舌につくせない。僕は悲しんだ泣いた。幾日も幾日も、そうして悲しみのうちに芽生えて来たのはかやつ[ 西田とめ ]に対する呪いであった。これ程迄にかくまでに、僕を苦しめにくむべき奴にさげすむかの女にどうせ治らぬ此の身なら、いっそ身をすてて思いしらせてやろう。かやつは以前はつらかったのだが、今は何不自由なく活(くら)して居るからおごりたかぶり僕等如き病める弱きものまでにくみさげすむのだろう。にくめべにくめ、よし必ず復讎をしてかやつを此の社会から消してしまおうと思うようになった。その外に僕が死のうと考える様になった原因がある。寺川弘の妻マツ子である。彼の女と僕は以前関係したことがある(かの女は誰にでも関係すると言う様な女で僕が知っているだけでも十指をこす)。それがため病気になる以前は親しくして、僕も親族が少いからお互に助けあって行こうと言っていたが、病気に僕がなってからは心がわりしてつらくあたるばかりだ。はらがたってたまらなかったがじっとこらえた。あれほど深くしていた女でさえ、病気になったと言ったらすぐ心がわりがする。僕は人の心のつめたさをつくづく味わった。けれど之も病気になるが故にこの様なのだろう。病気さえ治ったら、あの女くらい見かえすぐらいになってやると思っていたが、病気は治るどころか悪くなるばかりに思えた。医師の診断も悪い。そうする中に一年たったある日マツ子がやってきた。僕は何時もにらみ合っていずに、少し笑顔で話してもよいがなと言ってやった。するとマツ子の奴は笑顔どころかにらみつけた上鼻笑いをし、さんざん僕の悪口を言った。故に自分もはらをたて、そう言うなら殺してやるぞとおどし気分で言った。ところがかやつは殺せるものなら殺して見ろ、お前等如き肺病患者に殺される者がおらんと言ってかえっていった。此の時の僕の怒り心中にえくりかえるとは此のことだろう。おのれと思って庭先に飛出したが、いかんせん弱っている僕は後が追えない。彼奴は逃げかえってしまった。僕は悲憤の涙にくれてしばし顔があがらなかった。そうして泣いたあげく、それ程迄に人をばかにするなら、ようし必ず殺してやろうと深く決心した。けれどその当時は僕は病床から少しもはなれることが出来ぬ位弱っていたから、きゃつが見くびったのも無理はなかった。一丁も歩けなかった僕だった。けれどもそれ以来とめの奴、マツ子の奴のしうちに深くうらみをいだき、その上病気の悪化なども手伝い全く自暴自棄になってしまった。その後は治ると言う考えをすててしまって養生した。それは養生したのは少しでも丈夫になってきゃつ等に復讎してやるためだった。それからは前とは考えをちがえて丈夫になる様につとめた、そうして神様に祈った、どうか身体を丈夫にして下さいましてきゃつ等を殺して下さい。きゃつらを殺しましたら其の場で命を神様にさしあげますと、全く復讎に生きる僕だった。ずいぶん無理をして起きもしまた歩きもした。ひたすらうらみにもえてどうきの高い心臓をおさえ、病気が出ていたむ胸をおさえて。ところが不思議に治るかんねんをすてたら、今迄の様な心配が無くなったせいか、少しも快方に向わなかったのが次第に良くなっていった。其の時のうれしさ、これなら西田のきゃつ等やマツ子の奴にも復讎出来ると思った。こういう考えが自分の心中にある故にか僕の動作に不審な点があったのか世間一般の人が疑惑の眼を持って見だした。親族の者も同様に時々祖母に注意するらしい。祖母が僕の動作に気をつける。僕はかくしにかくした。けれど一旦疑った世間の目はつめたい。俄に僕を憎み出した。それにつれて僕の感情も変ってとめの奴やマツ子ばかりでなく殺意を感じだしたのは多数の人にであった。しかしその間にも以前小学校時代先生皆の人に可愛がられて幸福に活して居た当時を思い起こしてなつかしい時もあった。そう言う時には小さい感情にとらわれず、人に対するにくしみをすてて真細目なりし以前の様な僕になろうかと考えた事もあった。ああからださえ丈夫であったらこんな心にもならぬにとたんそくしたこともあった。けれど世間の人はぎわくそしてにくみへと次第につのっていった。僕もそれを見またかんじる時、よい方にたちかえると言うような考えを棄却していった。
 そうして心をいよいよきめると、殺人に必要(この頃が昭和十二年の始め頃だったのだろう)(此の頃にはからだは大分丈夫になってきていた)な道具を準備した。農工銀行より金を借用し鉄砲を買い猟銃免許を受けて火薬を買った。そうして銃が悪いので又金を個人借用して新品を神戸より買った。そうして刀を買い短刀を求めた。ようやくして大部分の品をととのえた。之までととのえるにも色々と苦心した。人に知られてはいけない、親族や祖母、姉等に知られてはいけない。そうして極力ひ密を守ったが、マツ子の奴はこれを感づき自分が殺されると思ったのか、子供をつれて津山の方に逃げてしまった。こうしたことが原因になったのか、世間の人も色々とうわさする様になったので、自分は評判は高くなって警察署に知られてはすべてが水のあわとなるから、なるべく早く決行すべきだと考えて居たやさき、ふとしたことから祖母のおそれるところとなり、姉は一宮の方に嫁(い)っとるので少しも知らなかったが、祖母が気附いたらしい。親族にはかったのだろう、一同の密告を受け其のすじの手入れをくらい、すべてのものをあげられてしまった。その時の僕の失意落たん実際何とも言えない。火薬は勿論のこと雷管一つも無いように、散弾の類まで全部とられてしまった。僕は泣いた。かほどまで苦心して準備をし今一歩で目的に向えるものをと。
 けれども考えようではこの一度手入れを受けた事もよかったのかも知れん。その後は世間の人はどうか知らんが、祖母を始め親族の者は安心したようである。僕はまたすぐ活動をかいしした。加茂駐在所にて説論を受けてかえると、そのあくる朝すぐ北田勇一氏を訪れ、金四円の札にてマーヅ火薬一ヶ、雷管附ケース百ヶをば津山石田鉄砲店より買って来てもらった。銃も大阪に行き買った。刀は桑原加藤歯科より買い、短刀を神戸より買った。之までの準備はごくひみつにひみつを重ねてしたのだからおそらく誰も知るまい。之で愈々西田とめ其の他うらみかさなる奴等に復讎が出来るのだ。こんな愉快なことはない。どうせ命はすててかかるのだ。けれどマツ子の奴一家が逃げたのは実際残念だ。きゃつは僕が一度手入れをくうや家に一旦かえり、家具少々を持って一家全部京都か東京の方面に逃げていってしまった。きゃつらをほかいて死ぬるのは情けないけれどしかたがない。自分としては外に何も思い残すことはないが、くれぐれもマツ子の奴等を残すことは情けない。
 けれど考えて見れば小さい人間の感情から一人でも殺人をすると言うことは非常時下の日本国家に対してはすまぬわけだ。また僕の二歳の時に死別した父母様に対しても先祖代々の家をつぶすとは甚だすまぬわけである。此の点めいどとやらへ行ったら深くおわびする考えである。またたった一人の姉さんに何も言わずにこのまま死するのも心残りの様ではあるがさとられてはいけぬから会わずに死のう。つまらぬ弟を持ったとあきらめてもらうよりしかたがない。ああ思えば不幸なる僕の生がいではあった。実際体なりと丈夫にあったらこんなことにもならなかったのに、もしも生まれかわれるものなればこんどは丈夫な丈夫なものに生れてきたい考えだ。ほんとうに病弱なのにはこりごりした。僕の家のこと姉のこと等を考えぬではないけれど、どうせこのまま活していたら肺病で自滅するより外はない。そうなると無念の涙を飲んだまま僕は死なねばならぬ。とめ等の奴は手をたたいてよろこぶべきだろう。そうなったら僕は浮ばれぬ。決して僕のうらみはそうなまやさしいものではないのである。
 右が僕のざんげと言うかこうなった動機である。
 五月十八日 記之
 (早く決行せぬと身体の病気の為弱るばかりである)
 僕が此の書物(かきもの)を残すのは自分が精神異常者ではなくて前持って覚悟の死であることを世の人に見てもらいたいためである。不治と思える病気を持っているものであるが近隣の圧迫冷酷に対しまたこの様に女とのいきさつもありして復讎のために死するのである。少しのことならいかにしいたげられてもこう心持ちを悪い方にかえぬけれど長年月の間ぎゃくたいされたこの僕の心はとても持ちかえることは出来ない。まして病気も治らぬのに、どうして真細目になれよう、またなったとてどうなるものか。
 寺川マツ子の奴は金を取って関係しておきながらそれと感づき逃げてしまった。あいつらを生かして居いて僕だけ死ぬのは残念だがしかたがない。

< 『津山三十人殺し』(草思社/筑波昭/1981) >

「真細目」は「真面目」の誤りと思われる。

この遺書を読むと、犯行の動機や綿密な計画を立てていたことが分かる。それと共に、自己顕示欲が強い反面、内向的で傷つきやすく、他人の言動や評価といったものに敏感に反応する神経質な面もあったようだ。ひとつ噂が立つと、30分もしないうちに村全体に広がってしまうような社会で、都井は必要以上に過敏に考え込み、さらに、「不治の病」と恐れられていた肺結核に悩まされ、次第に被害妄想・関係妄想が大きくなってしまったようだ。

[ 自宅にあった遺書 その2 ]

( 「姉上様」と上書きしたもの/全文 )

非常時局下の国民としてあらゆる方面に老若男女を問わずそれぞれの希望をいだき溌溂と活動している中に僕は一人幻滅の悲哀をいだき淋しく此の世を去って行きます。
 姉上様何事も少しも御話しせず死んで行く睦雄、何卒御許し下さい。自分も強く正しく生きて行かねばならぬとは考えては居ましたけれども不治と思われる結核を病み大きな恥辱を受けて、加うるに近隣の冷酷圧迫に泣き遂に生きて行く希望を失ってしまいました。たった一人の姉さんにも生前は世話になるばかりで何一つ恩がえしもせずに死んで行く此の僕をどうか責めないで不幸なるものとして何卒御許し下さい。僕もよほど一人で何事もせずに死のうかと考えましたけれど取るに取れぬ恨みもあり周囲の者のあまりのしうちに遂に殺害を決意しました。病気になってからの僕の心は全く砂漠か敵地にいる様な感じでした。周囲の者は皆鬼の様なやつばかりでつらくあたるばかり病気は悪くなるばかり、僕は世の冷酷に自分の不幸な運命に毎日の様に泣いた。泣き悲しんで絶望の果僕は世の中を呪い病気を呪いそうして近隣の鬼の様な奴も。
 僕は遂にかほどまでにつらくあたる近隣の者に身を捨てて少しではあるが財産をかけて復讎をしてやろうと思う様になった。それが発病後一年半もたっていた頃だろうか。それ以後の僕は全く復讎に生きとると言っても差支えない。そうしていろいろと人知れぬ苦心をして今日までに至ったのだ。目的の日が近づいたのだ、僕は復讎を断行します。けれど後に残る姉さんの事を思うとあれが人殺しのきょうだいと世間のつめたい目のむけられることを思うと、考えがにぶる様ですが、しかしここまで来てしまえばしかたがない、どうか姉さん御ゆるしの程を。
 僕は自分がこの様な死方をしたら、祖母も長らえて居ますまいから、ふ愍ながら同じ運命につれてゆきます。道徳上からいえば是は大罪でしょう。それで死後は姉さん、先祖や父母様の仏様を祭って下さい。祖母の死体は倉見の祖父のそばに葬ってあげて下さい。僕も父母のそばにゆきたいけれど、なにしろこんなことを行うのですから姉さんの考えなさる様でよろしい。けれども僕は出来れば父母のそばにゆきたい。そうして冥土とやらへいったら父母のへりでくらします。それから少しの田や家はしかるべく処分して下さい。尚簡易保険がニつ、五十銭ずつ毎月はるやつがあるのですが、もらえる様でしたらもらって下さい。おねがいします。
 ああ僕も死にたくはないけれど、家のことを思わぬではないけれど、このまま活していたらどうせ結核にやられるべきだろう。そうしたら、近隣の鬼の様な奴等は喜ぼうけれど僕はとてもうかばれぬ。どうしてもかなり丈夫で居る今の間に、恨みをはらすべきです。復讎々々すべきです。では取急ぎ右死するに望み一筆かきおきます。僕がこのような大事を行ったら、姉さんはおどろかれる事でしょう。すみませんがどうかおゆるし下さい。
 こう言うことは日本国家の為、地下に居ます父母には甚だすまぬことではあるが、しかたありません。兄さんにもよろしく。
 五月十八日 記之
 おなじ死んでもこれが戦死、国家のための戦死だったらよいのですけれども、やはり事情はどうでも大罪人と言うことになるでしょう。
(どうか姉さんは病気を一日も早く治して強く強く此の世を生きて下さい、僕は地下にて姉さんの多幸なるべきを常に祈って居ます)

< 『津山三十人殺し』(草思社/筑波昭/1981) >

都井は、「姉(ねえ)さん」ではなく「姉(あね)さん」と呼んでいた。姉さんに対しては特別な思いを持っていたようだ。

【 本人歴 】

1917年(大正6年)3月5日、都井睦雄は岡山県苫田郡加茂村大字倉見に生まれた。

父親の真一郎(当時38歳)は農業を営むかたわら炭焼きを生業としていた。後備役の陸軍上等兵で、かなりの大酒豪だったが、柔和で円満な人物であり、性格や素行にまったく問題はなかった。日露戦争に従軍し、帰還後、見合い結婚した。

母親の昌代(当時22歳)は農家の娘で17歳で都井家に嫁いだ。短気で怒りっぽくきつい性格だが、まずは平均的な農家の主婦だった。

都井家は中流の農家で、父母の夫婦仲は良かった。父方の祖父も肺結核に冒され、62歳で亡くなっていたが、祖母のよね(当時55歳)と3つ違いの姉の美奈子(当時4歳)がいた。

1918年(大正7年)7月、それまで連日漸騰を重ねていた米価が一升50銭7厘を突破したため、全国各地で米騒動が起こった。

よねは「米が値上がりするんは、わしら百姓にとってはありがたいことじゃが、なんや物騒な世の中になったもんじゃけん。わしら百姓は殺されるんとちがうか。怖いのう」と怯えた。

12月1日、睦雄が2歳のとき、父親の真一郎が肺結核で死亡した。39歳だった。父親の死後、今度は母親が寝込んだ。

1919年(大正8年)4月29日、睦雄が3歳のとき、母親の昌代が父親と同じ肺結核で死亡した。24歳だった。

6月3日、天井知らずの米価は、ついに一升59銭に暴騰。このため、加茂村を含む加茂5郷の小学校長たちは、連署してそれぞれの役場へ、10割増棒の陳情書を提出した。

よねにとって、小学校長は聖人君子そのものであったから、この増棒要求は、彼女を米騒動以上に仰天させた。

「校長さまともあろうお方が、なんちゅうことをしんさるんじゃろうのう」

これが、のちになって、睦雄かわいさによる学校軽視に結びついていく。

1920年(大正9年)、息子夫婦が相次いで結核により死亡したことで、よねは2人の孫を連れて同郡同村小中原塔中(たっちゅう)に移転した。そこは1年契約の借家だったが、ここで3年暮らすことになった。

姉弟で遊ぶことが多かったから、睦雄は3つ違いの姉の美奈子に主導権を握られる。当然、女の子の遊びが多かった。

幼い姉弟は、昔ながらの童唄を歌いながら、まりつきやお手玉遊びに興じた。姉はお手玉が上手だった。3つ年下の睦雄はいつも奇跡でも見るように目を輝かせ「姉(あね)しゃんはうまいな、姉しゃんはうまいな」と言っていた。睦雄はおとなしい子供で、姉とも仲が良くあまり喧嘩したことがなかった。

1922年(大正11年)、よねは2人の孫を連れて、自分の里である同郡西加茂村大字行重字貝尾に引っ越した。祖母はこの地に永住するつもりで家を買った。屋敷、田畑合わせて500円は倉見の土地山林を処分して作った。この家は構えだけは大きく立派であった。よねにとっては生まれ故郷であり、知り合いも多く、気兼ねなく暮らせたが、美奈子や睦雄にとっては見知らぬ土地であったため、しばらくは2人っきりで遊ぶ日が続いた。

この家には忌まわしい過去があった。30人殺し事件の被害者の1人である平地トラの姑の寺川チヨ(30人殺し事件当時80歳)の語るところによれば、この家は元はチヨの住宅であったが、ここに居住していたとき(30人殺し事件の63年前)、チヨの先夫の寺川忠次郎が別部落の藤林徳蔵の妻のたえと徳蔵宅で密通し、その現場を徳蔵に見つかったことに対し、忠次郎が腹をたてて一旦、自宅に引き返して日本刀を持って徳蔵宅に乗り込み、たえを殺害して無理心中を図ろうとしたが、たえを斬ることができず、徳蔵を斬りつけた上、切腹自殺した事件があった。この忠次郎が21歳であったことや犯行の荒筋が30人殺し事件と似ていた。何かの因縁かもしれない。

1923年(大正12年)、睦雄は早生まれだから、当然、この年に小学校に上がらなければならなかったが、病弱を理由に1年延期した。

これは睦雄が学校に行きたがらないのに加えて、祖母がかたときも手元から離したがらなかったからで、役場の学事係が何度か説得に足を運んだが、その都度、よねは「あと1年待ってつかあさい」と言い、学事係の担当は根負けして就学延期を認めたという。

9月1日、関東大震災が発生。死者9万1802人、行方不明者4万2257人を出した。直接の影響はなかったが、朝鮮人の暴動に関する流言が全国に広まり、祖母は米騒動のときよりもおびえ、それまでほとんど戸締りもせず就寝していたのに、雨戸や窓に厳重に鍵をかけ、2、3日は着たままで寝た。その上、駐在巡査や郵便配達に、「うちは年寄りと子供でけですけん、気ぃつけてつかあさい」と真顔で頼み、失笑を買った。

睦雄は相変わらず外へは出ず、姉が学校から帰ってくるのを待って2人で遊んだ。

1924年(大正13年)4月、睦雄は西加茂尋常高等小学校に入学した。自宅からは4キロの道をゲタをはいて歩いて通った。就学前は学校に行きたくないといっていたが、いったん入学してみると、他の児童となんら変わるところなく通学した。役場の学事係も、担任教師も、これを見てほっと胸をなでおろした。

そればかりではなく、睦雄はきわめてすぐれた成績を取った。

10点評価で、修身「9」、国語「9」、算術「10」、図画「8」、唱歌「8」、体操「8」、操行「中」という好成績で、クラスで2番であった。

修身・・・今の「道徳」にあたる。操行・・・品行。

担任の伊藤かや子訓導は、<従順にして教師の命をよく守り、級中の模範児童たり。故に学業も上位にして申し分なき><教室内に於いては他の児童の世話をなしよき児童>と評価がいいが、<健康やや悪く、風邪を引き欠席すること多し。努めて出席なすよう訓戒す>としている。

訓導・・・小学校正教員の旧称。

事実、睦雄の1学年の出席日数は184日で、病気欠席が55日、事故欠席が22日、合計77日欠席している。これは、よねのさしがねによるもので、学籍簿には<祖母よねは一人の男孫の事とて、我儘に育てたるものの如し。僅かの風雨にも学校を欠席せしめたるの風あり>と記載されている。

初めのうち教師は、本当に病気と信じていたが、あまりにも度重なるので家庭訪問したところ、発熱して寝ているはずの睦夫が祖母とはしゃぎ回っているのを見て、初めて事情を知ったという。

だから、よねにとって長い夏休みは天国のようなものだった。よねは2学期が始まっても、睦雄を学校に行かせず、思い切って長期欠席させることにした。その理由は「腸が下った」というものだった。睦雄は3学期もほとんど欠席した。

睦雄は家に閉じこもっていたから、顔が蒼白く、小学校の友達から「青」というアダ名をつけられていた。

睦雄が入学してまもない頃、美奈子はひどく恥ずかしい思いをしたことがあった。彼女が下校途中、級友と連れ立って下校する睦雄と出会った。そのとき、睦雄は大声でこんな唄を合唱していた。

 一で いも屋のオッサンと
 二で 肉屋のオバサンが
 三で 酒を飲み酔うて
 四つ 夜中にとび起きて
 五つ いろうやらくじるやら
 六つ むげさく突っ込んで
 七つ 泣くやら笑うやら
 八つ やめたりまたしたり
 九つ 子供に見つけられ
 十で とうとう大評判

美奈子は真っ赤になって叱りつけた。睦雄は姉の前では2度とこの唄を口にすることはなかったという。

1925年(大正14年)、睦雄は2年生になった。修身の成績が「9」から「8」に、算術の成績が「10」から「9」に下がったが、他の科目は変わらず、また欠席も病欠が14日、事故欠が17日、計31日と激減した。このときの評価は<沈着にして学習態度良好なれども、隣人に誘われ私語多し>となっている。

ある日、睦雄はチャンバラごっこをして、左の目の上を突かれて、わずかに血をにじませて泣きながら帰ってきたとき、祖母は仰天してうろたえた。そして相手の子供の家に、血相を変えて怒鳴り込んだ。

「睦雄は都井家の大事なあととりじゃけん。もう少しでめくらになるとこやったやないけ。親がいないからいうて、ばかにしとるんじゃろ。2度とこんなまねしてみい。わしゃただでおかんがの」

普段は控え目なくらいのよねが、このときはまるで狂乱とでもいうような態度に、相手方はびっくりしてしまい、のちのちの語り草となった。

1926年(大正15年・昭和元年)、3年になると、さらに欠席は全部で25日と減った。成績の方は修身と体操が「8」から「9」に変わり、他は2年のときと同じだった。担任の二木文江は「性格素直に体格も良く、別に病弱とも思いませず。学業も良好にて、愛すべき児童であった様に覚えます」と、事件後、警察の照会に答えている。

睦雄は級長に選ばれた。この日、睦雄はわき目もふらず自宅へ向かった。「おばはん、わし級長になったんじゃ」睦雄はそう叫びながら、土間へ駆けこんだ。よねは睦雄が出して見せた任命書を持って飛出し、近所に触れて回った。姉の美奈子もわがことのように喜んだ。

翌日の昼に、よねは赤飯を炊き、近所に配りながらまた、ひとくさり、孫の頭の良さを触れ回った。

7月20日、鬼熊事件が起こった。のちに、30人殺し事件で都井が山中に逃亡したとき、官憲を「第2の鬼熊事件では」と恐れさせた事件である。

[ 鬼熊事件 ]

千葉県香取郡の荷馬車曳きを生業とする岩淵熊次郎(35歳)は、情婦である上州屋のおけいが他の男に心を寄せたのを怒り、復縁を迫ったが、断られると薪で撲殺した。さらに、男の家に放火し山の中に逃げ込んだ。そのため、熊次郎は「鬼熊」と呼ばれた。所轄警察署では消防団員の応援を得て山狩りを行ったが、見つからず、鬼熊は機会を見ては山を下り、同情を寄せる村人から飯を食わせてもらい、また山の中に逃げ込む。この間、鬼熊を捕まえようとした警官2人が殺された。日本中の各新聞は鬼熊事件を連日のように報じた。政治家や官僚の腐敗、警察の横暴ぶりに、辟易していた多くの人は、鬼熊の警官殺しに内心拍手を送った。この間、東京日日新聞記者が鬼熊と会見して、その会見記事を発表するなどのことがあって、事件はセンセーショナルになった。1万人余りの延べ人数による山狩りも虚しく、鬼熊は49日間、逃げ通した。だが、鬼熊は、9月30日未明、先祖の墓の前で、ストリキニーネを飲んだ上、カミソリで咽喉を切って自殺した・・・。

ストリキニーネ・・・主に殺鼠剤に使われている毒物。その他としては鳥やもぐらの駆除剤にも用いられる。摂取して1時間以内に、神経質になる、筋肉の硬直、痙攣発作、呼吸困難や呼吸麻痺がみられ、死に至る。

鬼熊の妻子が自宅の庭先で泣いている写真が新聞に大きく載った。それを見て、睦雄がよねに、これはなんだと訊いた。よねは写真の説明文を読んで聞かせ、「おとうがいんでかわいそうじゃの」と言うと、睦雄は「おかあがいるけん、わしよりええがの」と言った。わきでこのやりとりを美奈子は聞いていたが、その通りだと思ったという。

睦雄はこの年の秋祭りの露店で、『少年倶楽部』の古本を5冊も買った。他の露店には煮スルメや天狗の面、コマなどのおもちゃがあり、美奈子は「睦雄は本ばかり買うて、余(よ)の物は要らんのか」と心配して言ったが、睦雄は「要らん」とキッパリと言った。

睦雄は『少年倶楽部』を隅から隅までボロボロになるまで読んだ。さらに、新刊の『少年倶楽部』を月ぎめで購読し始めるようになった。美奈子も一緒に『少女倶楽部』を購読したが、睦雄はさっさと『少年倶楽部』を読み終え、美奈子がまだ、半分も読んでいない『少女倶楽部』まで読んでしまっていた。『少年倶楽部』は小学5、6年生中心の雑誌であったが、そのまま大人の雑誌に載せてもおかしくないような程度のものもあったという。そういう雑誌を小学3年生の睦雄が興味を持って愛読したということは、やはり知能指数が高かったということだろう。のちに、『キング』や『講談倶楽部』も読むようになった。

この年の12月25日午前1時25分、天皇嘉仁(よしひと/47歳)崩御、裕仁(ひろひと)親王が践祚(せんそ)し、即日、「昭和」と改元されたが、午前1時25分までが「大正」、それ以降が「昭和」と1日の中に2つの元号があったことになり、昭和元年は6日と22時間35分しかなかったことになる。岡山県は30年来の大雪に見舞われ、奥地山間部では28日になっても改元を知らなかった村があった。

ちなみに1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、昭和天皇崩御。午後2時36分、小渕恵三官房長官により新元号を「平成」と発表し、翌8日から施行した。ということで、昭和64年は7日間しかなかったことになる。

1927年(昭和2年)、睦雄は4年生になって、理科が加わり「10」を取った。また、図画が「8」から「9」に上がった。しかし、再び、欠席が増え、病欠40日、事故欠7日、計47日も欠席した。だが、級長の任を解かれることはなかった。

担任の島川貞二訓導は<性格、朴直にして沈着なり。快活なる点はやや欠け、陰性なる点あり。剛毅にして意地もあり、一方的なる点もありたり。健康、頑健なる身体にあらず。頭痛持にて欠席多く、従って体操、運動等は好まず。学業成績、特に知能学科に於て秀で、記憶正確にして常に優等なりき。技能学科はややこれに次ぐ。操行、学校中に於ては真面目にして、服装容儀端正、言語明白、動作正確なれども敏ならず>と評価した。

1928年(昭和3年)、5年生になり、日本歴史と地理が増えたが、どちらも「9」を取った。理科は「10」から「9」に、図画と体操は「9」から「8」に落ちた。

<心性朴直にして飾気なく、極めて赤裸々にして、学習欲旺盛なり。言語明瞭容儀端正なり>と評価されるが、<頭痛持にて学校を欠席するを常とせり>とされた。病欠5日、事故欠56日、計61日欠席した。しかし、相変わらず級長の座にあった。

1929年(昭和4年)、6年生になり、<本年は頭痛も起こらず熱心に学習す>とあり、修身が「10」、図画と唱歌の「8」を除いて他は「9」であった。<一面理屈ぽくあるが、大体に於て良き児童なり>と評価された。美奈子はこの春、高等科(現在の中学に当たる)2年を卒業して、よねと共に、野良仕事をしていた。

1930年(昭和5年)、睦雄は小学校を卒業し、そのまま同校の高等科1年へ進んだ。成績は歴史が「10」で、読方、綴方、書方、地理、理科、図画、手工、農業が「9」、修身、算術、唱歌、体操が「8」だった。病気欠席は1日もなく、事故欠が32日であった。ここでも級長だった。担任の杉崎次郎訓導は<性温和、健康中位、学業優等、操行上、言葉少なく謹厳たる優等生なり>と評価している。

睦雄の1級下に浅井孝子という少女がいた。色白でほっそりしたおとなしい子だった。ある日の放課後、睦雄は下校して自宅に向かう孝子の手に提げた風呂敷包みの結び目に折りたたんだ画用紙を突っ込み、走り去った。

孝子がおそるおそる引っぱり出し、用心深く広げてみると、それは教科書ぐらいの大きさで、画面いっぱいにお下げ髪の少女の顔が描いてあった。鉛筆で丹念に濃淡をつけたもので、写真のように細密な絵だった。当時『少年倶楽部』で評判だった「敵中横断三百里」の椛島勝一(かばしまかついち)の挿絵のタッチを睦雄が苦心してまねて描いたものだった。その顔の横に「孝子さんの肖像」と書いてあり、一番下に小さく「ぼくは孝子さんが好きです」と書かれて、「都井睦雄」の署名があって、認印まで捺してあった。

孝子はその絵を見たとき、自分より睦雄の姉の美奈子に似ていると思ったが嬉しかった。孝子はその絵を自宅に持ち帰り机の引出しにしまったが、6歳の弟が引っぱり出し、いたずらしているのを母親が見つけ、孝子を叱りつけた上、担任の女性教師に届けたのである。

この教師は翌日、都井宅を訪ねて姉の美奈子に事情を話して、その絵を返した。叱責に来たわけではなかったが、今後を温かく見守ってほしい、という意味のことを告げて帰った。美奈子はそのことを睦雄にはひと言も話さなかった。その絵が自分に似ていることが、気になって、つい言いそびれてしまったようだ。

1931年(昭和6年)、高等科2年に進級した睦雄は、さらに成績が上がった。歴史、読方、地理、理科、農業が「10」、修身、綴方、書方、図画、手工が「9」で、算術、唱歌、体操が「8」だった。病欠2日、事故欠15日と欠席も減った。

高等科2年になると、級長の他、それよりも上の「総長」ができて選挙の結果で決められたが、選挙の結果、3人が同点となり、そのうちの1人が睦雄だったが、理由ははっきりしないが、睦雄は総長にはなれず、級長になった。だが、睦雄はこれについてはそれほど気にしていたようには見えなかったという。

3学期に入って間もないある日、睦雄は学校で担任教師に呼ばれ、「成績がいいから、このまま百姓になるのはもったいないな。それに家庭の方も、学資を出せない暮らしでもなさそうだ。どうだ、上の学校にみんか」と言われた。睦雄も当然、進学するつもりでいた。

睦雄は帰宅するなり、よねに岡山の県立一中に進学したいと申し入れた。そのためには睦雄が下宿生活をしなくてはならなくなり、いずれ、美奈子も嫁に行くことになって、よねは自分1人だけ残ることになるので強く反対した。その日の夕食は気まずい雰囲気になり、よねはろくに箸もつけず、早々に布団にもぐりこんでしまった。低くすすり泣く声が漏れてきた。

翌日、睦雄は担任教師に進学しないことを伝えた。

9月18日、満州事変勃発。

1932年(昭和7年)、睦雄は卒業式が終わって間もなく、高熱を出して寝込んだ。よねと美奈子の懸命の看病で、2、3日で熱は引けた。肋膜炎だった。しばらく、自宅静養すれば回復するだろうと嵯峨野病院の医師は診断した。寝ている必要はないが、農作業は厳禁と指示されたので、卒業後の3ヶ月はぶらぶらして過ごした。

肋膜炎・・・おもに結核菌による肋膜の炎症。

睦雄の顔色がよくなってきたので、医師に診てもらうと完治したという診断だった。美奈子はよねの反対を押し切って、睦雄を村の補習学校に入学させた。だが、睦雄は熱心な生徒ではなく出席した日数はほんの数えるくらいしかなかった。

補習学校・・・「農業ニ必須ナル知能ヲ授クルト同時ニ普通教育ノ補習(公民教育)ヲナス」ことを目的に、当時の全国の農村地区に村単位で設置された学校。

19になった姉の美奈子に縁談があったのは、この年の秋だった。よねの「わしゃ、お前の嫁さま姿を見るのを楽しみにしとるんじゃ。それに曾孫の顔も早く見たいでの」の言葉に、それまで乗る気がなかった美奈子が心を動かされ、とにかく見合いだけならということで、一応承諾する気になった。

すると、そこへ自分の部屋に閉じこもっていた睦雄がのっそりと顔を出して、露骨に見合いすることに反対した。

しばらくして、睦雄は美奈子が縁談を断ったと聞かされたとき、蒼白い頬にぱっと赤みがさしたのを美奈子ははっきりと覚えているという。

「うちは嫁になど行かん。ずっとこの家にいるがな」と言うと、睦雄は満面の喜色を浮かべて、うんうんと大きくうなずくのだった。

美奈子は続けた。「せやから睦夫もな、家にばかり閉じこもっとらんと、みんなとようつき合わんといけん。今のまんまじゃ、体に悪い。せっかく治った病気が、またぞろぶり返してしもうがな」

このあと、少しの間、睦夫は補習学校にも真面目に通い、青年会の集まりにも顔を出すようになった。この頃、睦雄は酒を覚えた。

1933年(昭和8年)、秋の終わりに再び、美奈子に縁談が持ち込まれた。相手は同じ郡内の高田村で、農業を営む木島家の長男の一郎だった。この前のことがあるので、美奈子は睦雄になるべく分からないように気を遣ったが、睦雄に知られてしまった。だが、睦夫は前とは違った反応を見せた。

「姉しゃんはきれいじゃけん、もっとええところに嫁に行けると思うがの」

「なに言うとるね。もっとええとこってどんなとこや」美奈子は笑いながら訊いた。

「大学出じゃ。東京とまではいけんとも、岡山の会社に勤める大学出の嫁さんになれるん思うがの」

一時は失業者の代表とされ、「大学は出たけれど」の流行語まで生んだ大学卒の青年が、満州事変によって軍需産業が活況を見せ、経済界全般に波及効果をもたらして、産業界から引く手あまたで、適齢期女性の憧れの的になっていた。

1934年(昭和9年)3月15日、21歳になった美奈子は木島家に嫁入りした。相手の一郎は25歳だった。

姉が嫁いでから、睦雄は再び孤独に陥った。補習学校はもちろん、青年会の集まりにも全く顔を出さなくなった。自宅の屋根裏を改造して一室をこしらえ、この狭い部屋に昼となく夜となく閉じこもって、日を送るようになった。

だが、子供に対しては別だった。睦雄は近所の子供を集めては、よくいろいろな物語を聞かせることを楽しみにし、子供たちもこれを楽しみにし、睦雄によくなついた。睦雄の語るストーリーは『少年倶楽部』『キング』『富士』『講談倶楽部』などで読んだ小説を子供向けに直したもので、睦雄の話術はなかなか巧みだったから、子供たちに人気を博した。

里帰りした美奈子は、祖母のよねから弟のことを聞かされて、いつものように優しくたしなめた。

「畑仕事もせんで毎日ごろごろしていけんやないの。おばやんはもう年なんやから、あんたが仕事をせないけんのよ」

「わし百姓は嫌いじゃ」

「百姓の総領が百姓を嫌ってどうするね」

「嫌いなものは嫌いじゃけえ、せんかたないけんの」

「ほな、なにになる気ね」

「小説家になるんや」睦夫はぼそりと言葉を吐き出した。

美奈子は笑わなかった。

「睦雄、あんたが百姓が嫌いでもかめへん。小説家になりたいいうのも、うちは止め立てせえへん。だけんどなあ、いまごろごろしとるのはいけんよ」

「わしはもともと百姓は好かんじゃった。じゃから上の学校に進んで、勉強して、官吏か会社勤めをしよう思ったんや。そやけどおばやんが岡山の学校へ行くのはいけんて、許してくれんかった。上の学校へ行っとればいまごろはもう卒業や。なんにでもなれたんや。みんなおばやんがいけんのや」

「睦雄、すまんけんのう。わしが悪かったでな。かんにんやで」

祖母はこう言って泣き出す。こうなると、もう話し合いどころではなくなった。睦雄はすべては祖母の責任だと言い、それを免罪符のようにして、毎日を屋根裏の自室に閉じこもって暮らす日が続いた。

小説家になると言ったことが本気なのかは分からないが、『雄図海王丸』という小説をせっせと書いて、友人に読ませていた。

1935年(昭和10年)、この年、青年学校令が施行され、補習学校は青年訓練所と合併して青年学校になった。普通科、本科、研究科の3コースがあり、普通科は男女ともに2年課程で、尋常小学校を卒業して高等小学校にも中学校にも進まない者が入学する。本科は普通科または高等小学校の卒業生が入学し、男子は5年、女子は3年課程である。研究科は本科の卒業生が入学して男女とも1年間勉強することになっている。教科内容は修身、公民、職業(農業)の他、男子には教練、女子には体操と家事裁縫科が加えられていた。

睦雄は本科5年に編入された。村役場から通知を受けると、制服を購入して真面目に開校式に出席したが、義務制でないと知ると、それっきり2度と登校しようとしなかった。青年学校の義務制実施は4年後の1939年(昭和14年)からだった。

青年学校の教師は小学校の教員が兼任していたから、睦雄が小学校時代とは人が変わったように怠惰で不真面目になったことが職員室で話題になった。この中に最近、転任してきた田中恭司教師がおり、何度か都井の自宅に出向き、やっとのことで、睦雄の本心を聞くことが出来た。そこで、睦雄に専検の受験を勧めた。

専検・・・専門学校入学資格検定試験制度で、これにパスすると中学校卒業の資格が与えられ専門学校はじめ中学卒業の資格を要するすべての上級学校、及び職業を受験することができるもので、学歴のない者に対して開かれた登竜門だった。合格率はヒトケタ台だが、全科目を一度に合格する必要がなく、一度、合格した科目は次からの試験では免除される。今の「大検制度」にあたる。

睦雄は田中が師範学校時代に使った参考書を借り、通信講義録をとって勉強を始めた。

ある日、睦雄は津山市内の本屋で参考書を買ったが、そこを出たとき、2年前に津山市内の映画館で知り合ったひとつ年上の山内に会った。睦雄にとっては唯一の友人だった。睦雄は山内に手に抱えている包みのことを訊かれて、専検を受け教師になると答えた。

「あの写真持っとるか」山内は2年前に睦雄に売りつけた裸体写真のことに話題を変えた。「うん、持っとる」と言うと、山内は「それで、オカイチョウはどないした」それほど大きい声ではなかったが、睦雄は通行人を気にして顔を伏せた。「あれから誰ぞとオカイチョウやったんか」恥ずかしがる睦夫を面白そうに見ながら山内は重ねて訊いた。「やっとらん、わしやったことないんじゃ」睦雄は顔をそらしてつぶやくような声で答えた。

2日後、山内は睦雄を伴って大阪の賎娼(せんしょう)街へ行った。山内はここで、使い走りや見張りなどをして生活をしていた。当然、賎娼たちの何人かと性的な関係もあった。

山内は睦雄を木賃宿「加賀八」に連れていき、そこの佳子の部屋へ案内した。佳子は山内に頼まれ、睦雄の筆おろしをする。

このあと、夏から秋にかけて2、3度、大阪を訪ね、山内の紹介で何人かの賎娼と関係した。

だが、10月ごろから微熱が出て疲れを覚えるようになった睦雄は、大阪に行かなくなり、嵯峨野病院へ行って診察してもらった結果、肺尖(はいせん)カタルと診断された。嵯峨野医師は、「しばらくは野良仕事は休んで、うまいものでも食って、適当に散歩でもしていれば治る」と言って1週間分の薬を出した。

1936年(昭和11年)、睦雄は20歳になった。この年に起きた二・二六事件にはさして興味を示さなかったが、5月18日の阿部定事件には大いに関心をそそられ、自宅でとっている新聞だけでは足りずに、自転車で加茂町の新聞店まで買いに行った。

それから間もなくして、睦雄は、部落内の人妻の寺川マツ子(当時33歳)に情交を迫った。これが成功すると、睦夫は自信をつけたのか、これ以降、睦雄は人が変わったように部落内の女性に積極的に攻撃を開始する。

西田秀司の長女の良子(当時20歳)、次女の智恵(当時18歳)、寺川政一の四女のゆり子(当時20歳)、寺川茂吉の四女の由紀子(当時19歳)、丹下卯一の妹のつる代(当時19歳)、岸本勝之の妹のみさ(当時17歳)など、部落内の若い女性は軒なみだった。しかし、いずれも不成功に終わり、この年は暮れる。

だが、小説『雄図海王丸』の執筆は続いた。

1937年(昭和12年)1月4日、睦雄は大阪の山内を訪ねた。このとき、山内は阿部定の自供調書を睦夫に見せた。

阿部定の自供調書・・・阿部定が予審廷(現行制度にはない)で、予審判事に対して供述した調書が外部に持ち出され、印刷されて非公然に売買されたもので、警察がその一部を押収して調書原本と照合したところ、内容が完全に同一であることが判明し、ますます値が上がったといういわくつきの地下出版本。一説によると、研究のために特に調書の筆録を許可された精神分析学者の高橋鉄が研究費欲しさにこれを小部数刷り高値で密売したものが、さらに暴力団筋によって拡大再生産されたのではないかと言われている。

山内はあるやくざ組織の兄貴分から1冊50円で売れと命じられて3冊預けられ、うち2冊をすでに売り、残り1冊も買い手が決まって金を持ってくるのを待っているところだった。

それは教科書ぐらいの大きさで92ページの薄い本だった。『少年倶楽部』や『キング』が50銭、単行本が1円から1円50銭だったから50円は高かった。睦雄はこれを買いたいと言ったが、買い手が決まっていたので、10円を払って書き写すことになった。さすがに全部を書き写すことはできなかったが、絞殺するシーンを書き写すことが出来て睦雄は満足げだったという。

睦雄は部落の若者たちと全く交際をしないから、夜遊びや夜這いの仲間に加わることもなかったが、2月ごろから夜間1人で外出することが多くなった。

それは他人の夜這いの実情を目撃し、部落の男女の性的人脈を確かめ、動かぬ証拠をつかみ、その上で彼独自の性的行動を起こそうと企図していた。

まず、睦雄は隣接する坂本部落の岡部和夫(当時50歳)の妻のみよ(当時31歳)に着手した。和夫は「半聾唖者で馬鹿に近いお人よし」のためかどうか分からないが、妻が何人も変わっている。みよは5人目の妻だった。みよは大柄で豊満な体をしており、20も年上の50男とどうして一緒になったのか誰しも首をかしげたという。

3月の初めのある日、和夫が泊まりがけで岡山に出かけて、みよが1人で留守をしていたことを知った睦雄が、夜になってみよを訪ねて行った。3日前に村一番の資産家の寺川倉一(当時60歳)と関係したことをネタに情交を迫った。みよは倉一から一度、金を借りたが、それと相殺ということで関係し、以来数回、情交を重ねていた。睦雄もみよとの情交をそれから何度も重ねた。

4月1日、睦雄は岡山県農工銀行津山支店で、畜牛購入のためと称して、借入金の申込みをした。個人で直接申込むのは珍しかったが、3反歩の全田地を抵当に、同月26日、400円の現金を受け取った。睦雄はこれを結核の治療費に充てるつもりでいた。

睦雄は嵯峨野病院に通院しながら、嵯峨野医師を信頼していなかった。睦雄は津山市の書店、古本屋で、結核に関する本を片っ端から買い集め、通信販売で購入した通俗療養指導書などにも手を出して次々と読破していった。そして、本に書かれてあることをいろいろ試してみた。屠牛場で分けてもらった牛の血を飲んで腹痛になったり、石油を飲んで猛烈な嘔吐と下痢をしたこともあった。ペニシリンやストマイの発見されない時代だったから結核に対する特効薬はないのだが、当時は新聞、雑誌の広告を使ってさまざまな新薬、特効薬を派手に宣伝していた。睦雄はこれらの薬を次々と買い漁った。だが、その全ての薬に裏切られた。

睦雄は結核療養所に入ることも考えたが、祖母が自宅に1人残されることになるので、中学進学を断念したときと同様に、祖母と姉に説得されて諦めている。睦雄は寺川マツ子、岡部みよとの関係を療養所入りで断ち切られることも考えたのだろうか、割にあっさりと2人の意見に従った。

これ以降の睦雄の生活ぶりは贅沢を極めた。栄養をつけるためにバターやミルク、さらにバナナなどの果物などを、金にまかせてどんどん買い込み、自分で食べるだけでなく、睦雄の話を聞きにくる子供にも惜しげもなく分け与えたという。寺川マツ子と岡部みよに対しては、それ以上の品物を会う度に与えていた。マツ子に反物1反と5円を贈っている。

睦雄は、相変わらず蒼白い顔だったが、身長166センチ、体重60キロあり、がっちりとした体格だったから、見た目は病人のようではなかった。

5月になって、徴兵適齢届の受付けが始まった。睦雄は意外にも初日に届け出を出している。受付け事務の担当者は西加茂村役場書記兵事係の西田昇だったが、睦雄は「西田さん、わしは肺病ですけん。よろしくおたのみ申しますがの」と切り出した。西田は二重の意味で驚いた。ひとつは、道路をへだてて都井宅の西隣に住んでいるが、このときまで睦雄が結核とは知らなかったことで、もうひとつは、結核患者などということは誰しも隠したがることであり、徴兵適齢届に病気を記入する者などいなかったからだ。

同月22日、津山市で行われた徴兵検査の結果、睦雄は丙種合格となった。甲種と乙種は本当の意味で合格だが、丙種は実質的な不合格である。

軍医から結核と宣告された瞬間、睦雄は泣き出しそうな顔で、「軍医どの、ほんまに結核ですけんの? もういっぺんよく診てつかあさい」

軍医は大声で怒鳴りつけた。「きさまは日本帝国陸軍の軍医を疑うのか。きさまが結核であることはまちがいない。しっかり療養せい。そんな体で帝国陸軍の兵隊がつとまるか」

睦雄はその場で涙をポロポロとこぼしながら泣いた。

当時、軍国主義の華やかな時代で、徴兵検査で甲種合格することが、男子の一家の誇りであり、名誉とされた。睦雄の肺結核による不合格は死にも等しかった。住民の結核への恐怖と偏見は根強いものがあった。睦雄が失意の底に落ち込んだのも無理はなかった。

父親や母親が肺結核で死んだことも知り、自分も死期が近いと思い込んでいた。

6月の初めの夕方、都井宅の西隣に住む西田秀司の妻のとめ(当時42歳)が近所から自宅に戻るとき、睦雄が頼みたいことがあるからと声をかけ、自宅にまねき入れた。そして、背後からとめを抱きすくめ、寺川倉一と関係したことをネタに情交を迫ったが、「誰がそんなことを話ししていたんじゃ。言うてみい」と凄まれ、睦雄は言葉に詰まり黙り込んでしまった。

「お前は肺病で徴兵をハネられたんやないか。それやったら1日も早く病気を治して、お国のためにご奉公するのが若いもんのつとめやないか。それもせえへんで、肺病やいうてのらくらしくさっているんくせして、女に手え出すちゅうのんはなんじゃい。それにうちは亭主持ちじゃぞい。人のかみさんに手え出すちゅうのんは、とんでもないこっちゃ。お前がそないに恥知らずとは知らんかった。こら強姦やからな。お前のおばはんに話しして、駐在所にも知らせにゃいけん。このままほっといたらなにやらかすか恐ろしけんの」

睦雄は狼狽し、どうしていいのか分からなぬ風だったが、突然、畳に正座して両手をついた。

「どうか堪忍してつかあさい。堪えてつかあさい。この通りですけん・・・・・・」睦雄は涙を流しながら、畳に額をこすりつけた。

とめは、このことを部落中に言いふらした。

・・・・・・ということだが、とめは初め自分から誘って関係し、その後何回か情交を重ねたが、睦雄の行状が目にあまり評判が悪くなると、いち早く関係を断ち切り、自分も挑まれたがはねつけたと弁明して回ったのが真相とされている。自宅にあった睦雄の「書置」と上書きした遺書に、とめに対する恨みが長々と綴られている。

7月7日、蘆溝橋事件勃発。

7月9日、睦雄は岸本勝之の母親のつきよ(当時49歳)を訪ねた。睦雄は十円札をつきよに突き出して「関係してくれ」と言ったが、つきよは「そんなことをするなら、この金を祖母さんのところへ持っていって話をするぞ」と言ったら帰っていったと、つきよは公言している。

だが、睦雄が放言したところによると、岸本宅は勝之が海軍志願兵として呉海兵隊に入団中であり、家族は未亡人の母親のつきよ、長女のみさ(当時18歳)、次男の吉男(当時13歳)、三男の守(当時10歳)の4人だった。睦夫はみさを狙って夜這いに入ろうとしたところ、母親のつきよに見つかってしまった。そこで、十円札を出して、これでみさとさせてくれと頼んだが拒否され、睦雄はそれならあんたでもいいと、つきよに迫ったが、それも断られ、そこで、「寺川倉一にさせとるくせになんじゃい」と言うと、早く帰ってくれと押し出そうとした。そこで、こんなになっていて納まりがつかんと自分のものを引っ張り出して見せると、つきよは土間にゴザを敷いて睦雄を受け入れ、終わると10円を受け取ったと言うのだ。そして、以来数回、情交を重ねたという。どうやら、こちらが真相らしい。

次に、睦雄が狙ったのは、寺川好ニの母親のトヨ(当時44歳)だった。トヨもやはり未亡人で、寺川倉一と不倫の関係にあり、これをネタにやすやすと関係を結ぶことができた。トヨにも代償として金品を与えている。しかし、トヨも他の女たちと同様に、睦雄に情交を迫られたが、その都度、追い返したと吹聴している。

7月の終わりごろ、睦雄は津山市の石田鉄砲店から2連装の猟銃を75円で購入した。10月27日、津山警察署で乙種猟銃免許を受けた。

このときの免許収得の理由を次のように説明している。

結核患者なので労働は禁じられているが、散歩などの軽い運動は療養上不可欠である。しかし、国家非常のときにぶらぶらするのは単に散歩するのも申し訳なくまた、体裁も悪いので、兎などの小動物をしとめて、自給自足の足しにするとともに毛皮を軍装品の原料として当局に献納したい。徴兵検査に不合格となったが健康を回復したあかつきには直ちに入隊する覚悟でおり、そのとき1人でも多く敵兵を倒せるように射撃の腕を練磨しておきたい。

この時点では、これらの女性に対し、憎悪は芽生えていたかもしれないが、殺意までには至らず、銃を購入した真の理由は、銃を所持することによって西田とめたちに無言の圧力をかけて、彼女たちのいいかげんな言いふらしを止めさせることや、金品でもその気になってくれない若い娘たちを銃で脅して自由にすることであっただろうと推測している。

遺書には銃を購入したことを周りの人に知られてはいけないというようなことが書かれているが、実際は、これ見よがしに銃を携帯して部落内を歩き回り、関係のある女たちやその夫や寺川倉一たちにまで見せていた。

だが、睦雄の狙いは裏目に出てしまった。銃をかついで歩き回る睦雄の姿は、肺病や好色乱倫以上の畏怖を女たちにもたらし、かえって女たちから疎まれる事態となった。

1938年(昭和13年)、ある日、睦雄は同村樽井部落の金貸し業の森岡六郎を訪ねた。お金を借りるためである。このときは、結核療養所に入るための費用にしたいということで、わざわざ療養所のパンフレットまで持参して森岡に見せ、入所費用を説明した。だが、その理由は嘘だった。

2月中旬、森岡は家屋敷などの抵当物件を詳細に調査した上で、600円を貸し付けた。

2月23日、睦雄は神戸市湊東区の高木銃砲店を訪れ、津山市の石田銃砲店で購入した猟銃を差出し、新品を購入したいと申し入れた。主人はこの中古猟銃に80円の値をつけた。睦雄が購入を希望した新品の12番口径5連発ブローニング猟銃は190円だったから追金110円を支払わなければならなかったが、持ち合わせがなく、代金引換小包で送ってもらうことにした。

28日、加茂町郵便局でこれを受け取った。そして、屋根裏の部屋にこもって、弾倉を改造して9連発式に作りかえ、さらに、火薬、薬莢を買い入れて、猛獣用実砲(ダムダム弾)を製造した。この時期から銃を持って部落を徘徊したり、銃を持って夜這いに行くのを止めているが、夜這いそのものは続けていた。

睦雄は改造猟銃をこっそり持ち出し、山に登って射撃の練習をするようになった。部落内にこのときの銃声が聞こえていたが、蘆溝橋事件が勃発してから、中等学校における軍事訓練は一段と強化し、近郊の山野に出かけて演習を行っていたから、銃声が連日ように聞こえても、誰も怪しまなかった。

同じころ、睦雄は岡部みよとの情交現場を夫の和夫に見つかってしまい、あわてて逃げた。和夫は怒って、みよを里に帰らせた。

後日、睦雄は2人の男を伴って岡部宅に詫びに行った。1人は猟銃に関して知り合った炭焼き兼猟師の北田勇一(当時30歳)で、もう1人は北田の知人で農業の高岩三郎(当時45歳)だった。

このとき、睦雄は酒だけでなく、大きな肉の包みを差出した。岡部は大いに喜び、みよに酒盛りの支度をさせ、その肉でスキ焼きをして、和やかに飲み、そして食べた。

睦雄はこの肉を3日がかりで自分が仕止めた兎だと言った。岡部はこれを聞いてさらに喜んで歌まで歌い出した。

だが、実はその肉は、睦雄が飼っていたコロという名の犬の肉だった。睦雄はその肉を食ったふりをしていただけだった。北田は睦雄に見せたいものがあるからと、自宅の裏庭に連れて来られ、その犬の死体を見せられて、これがさっき食べた犬だと言われ、思わずゲエゲエ吐いた。

睦雄はその後も岡部みよに夜這いをかけて和夫の怒りを買っている。

このときから、再び睦雄は以前と同様に大っぴらに銃を持って夜這いに出かけ、相手の女性が拒否したり、隠れたり、あるいは女の夫や母親が邪魔をすると「ぶち殺してやる」と放言するようになった。このときの銃は改造した銃とは別のもので、入手先や日時など不明である。

3月7日、睦雄の祖母のよねが「睦雄に味噌汁に毒を入れられた」と言って騒ぎを起こした。10日ほど前から、よねは「年寄りの健康にいいから」と睦雄に、ある薬を勧められていたが、その薬はひどい臭気がして服用することはなかったが、睦雄は1日置きくらいにその薬を勧めていて、よねはとても飲めたものではないと頑として断っていた。そして、この日、よねは睦雄が味噌汁の中にその薬を入れているところを見てしまったのである。

このことがあって、睦雄は警察の手入れをくらうこととなった。

睦雄の承諾を得て屋根裏部屋を家宅捜索したところ、日本刀1振り、短刀1口、猛獣用実包81発、散弾実包311発、雷管付薬莢111個、雷管126発、火薬50匁(約187.5グラム)、鉛弾50匁、猟銃3挺、さらに身体検査の結果、匕首1口を携帯していた。

睦雄はこれらを猟銃免許も含めて取り上げられてしまった。

このうちの猟銃1挺は135円で売却し、睦雄がその代金を受け取った。

このことがあってから、加茂町駐在所の今田武雄巡査は、6回ほど睦雄の情況調査に赴き、その都度、面接して熱心に説諭し、ぶらぶらして遊んでいてはいけないからと仕事の世話ももちかけていた。

睦雄がこれらの凶器を警察に取り上げられたことで、村人はホッとした。これで、睦雄はおとなしくなるだろうと村人は勝手に思い込んだ。だが、そうはならなかった。睦雄は密かに凶器の入手に励んだ。

3月13日、睦雄は猟銃に関して知り合った北田勇一に、猟銃免許鑑札を落としたから、代わりに買ってきてほしいと頼んだ。北田は津山市の石田銃砲店で、マーヅ火薬1ヶ、雷管付ケース100ヶを睦夫から預かった10円で購入した。計5円70銭だったが、北田はお釣りは手数料としてあげると言われたのでもらっておいた。

4月5日、睦雄は東加茂村大字桑原で歯科の出張診療所を開設している医師の加藤公三(51歳)を訪ねた。歯の治療のためだが、翌日の6日、再び治療してもらい、そのあと、刀剣愛好会の会長でもある加藤公三に、岡山の連隊にいる従兄に軍曹に昇進した祝いとして、軍刀を贈りたいからと嘘を言い、7、80円の値がするところを昇進祝いということで、30円にまけてもらって日本刀を購入した。

4月中旬、睦雄は大阪に出かけた。そして、大阪では一流ホテルに数えられる心斎橋ホテルに泊まった。睦雄は山内に電話し、部屋に呼んだ。そして、匕首を手に入れたいから探してくれと頼んだ。

このとき、睦雄は加茂町に加藤という歯医者がいて、刀剣愛好会の会長やっているが、日本刀はおおかた集めたので、今度は匕首を欲しがっているというようなことを言った。もちろん嘘である。山内はなんとか探してみると答えた。

山内は今日は女はどうすると訊くと、睦雄はいつもの賎娼ではなく、高級淫売が欲しい、そのためにホテルに泊まったと言った。

「高級淫売やったら住吉アパートがええ」と山内は言った。住吉アパートは阿部定が高級淫売をしていたころ、住んでいたところだった。山内は今でもその仲間がいるはずだと言った。

山内はやくざから匕首を5円で手に入れ、9円で睦雄に売るつもりでいたが、睦雄は10円札を出して1円は手数料だと言った。こうして、匕首1口を手に入れた。山内が睦雄に会ったのはこれが最後だった。事件のとき、匕首は2口あったが、もう1口の匕首は入手先や日時は不明。遺書には匕首2口とも神戸で買ったとあり、山内のことは伏せてある。

4月下旬から5月上旬にかけて、睦雄は大阪や神戸に行き、鉄砲店を回って、中古のブローニング12番口径5連発猟銃1挺を160円で購入した他、火薬類などを入手した。さらに、銃は前のように9連発に改造した。ほぼ、この時期に凶器は揃っていた。

5月15日の夕方、寺川マツ子(35歳)は、睦夫からただならぬ危険を察知し、「都井睦雄がえらいことをやるそうだから、このまま村にいては危ないから京都の方へでも一緒に逃げよう」と西田とめ(43歳)を誘ったが、とめは「殺されるほど憎まれているはずがない」と言って、マツ子の誘いを断っている。それから2、3日後、寺川マツ子一家は荷物をまとめ、部落から姿を消した。睦雄はそのことを知っていて、遺書にもそのことを書いている。おそらく、引越ししたその日に睦雄の知るところとなったのだろう。

マツ子の誘いを断った西田とめは5人目の犠牲者となってしまった。

5月18日、睦雄は2通の遺書をしたためた。この日と翌19日に渡って、ノートや本、メモや新聞の切抜きなどを自宅の庭で燃やしている睦雄の姿を近所の人が見ている。

5月20日、睦雄が自転車に乗って、山の中や畑の中の細い道を何回となく村役場の方へ往復しているのを、何人もの村人が目撃している。役場の隣には駐在所と消防組の詰所があるから、部落民が急を知らせる時間を計測したものと推測される。

午後5時ごろ、睦雄は同村字石山部落の変圧器付電柱に登って導線を切断、同様に貝尾の変圧器付電柱に登って切断した。これによって、貝尾部落だけが真っ暗闇になった。

寺川元一は都井宅へ電灯を借りに行った。睦雄はロウソクをかざしてのっそりと出てきた。寺川は電柱に登って調べてみるから、自転車のナショナルランプを貸してくれと頼んだ。睦雄は自転車からランプをはずして寺川に渡した。寺川はランプを持って自宅近くの電柱に登って調べてみたがさっぱり分からず、電柱から下りると、そこに睦雄がいたので、「睦雄、お前頭がええから直してくれぬか」睦雄はゆっくり、頭を横にふり、ものうそうに「わし慣れとらんから出来やせん」元一からランプを返してもらい、のっそりと自宅に戻ったという。

それから約8時間後の翌21日に惨劇が起きる。

この事件にはひとつの奇妙な伝説がつきまとっている。「日華事変の最中なのであまりにも残虐なこの事件は、公表されなかった」というものである。だが、実際は、ラジオを始め、全国のマスコミがこぞって派手に報じており日本中にセンセーションを巻き起こしている。

事件が起きてから、いつごろのことか不明だが、姉の美奈子が肺結核によって死んでいる。

小説家の横溝正史は戦時中の1945年(昭和20年)4月から1948年(昭和23年)8月まで岡山県吉備郡岡田村に疎開していたが、そのときに津山三十人殺し事件のことを聞かされた。それが小説『八つ墓村』の誕生となったようである。小説の中では、過去にこんな事件があったという程度の扱いでしかないのだが・・・。他に岡山を舞台にした作品に『獄門島』『悪魔の手毬唄』などがある。

小説『八つ墓村』を元に製作された映画に同タイトルの次の作品がある。
『八つ墓村』(監督・松田定次/金田一役・片岡千恵蔵/東横映画/1951)
『八つ墓村』(DVD/監督・野村芳太郎/金田一役・渥美清/2002)
『八つ墓村』(DVD/監督・市川昆/金田一役・豊川悦司/2005)

『八つ墓村 上巻』(DVD/監督・池広一夫/出演・古谷一行ほか/2006)
『八つ墓村 下巻』(DVD/監督・池広一夫/出演・古谷一行ほか/2006)

西村望は津山事件を元に小説『丑三つの村』 を書いたが、こちらも同タイトルで映画化された。
『丑三つの村』(VHS/監督・田中登/都井睦雄役・古尾谷雅人/1993) 2003年(平成15年)3月25日、古尾谷雅人が自殺した。45歳だった。

他に津山事件を元に書かれた小説に『龍臥亭事件』(島田荘司)『夜啼きの森』(岩井志麻子) 、漫画では 『神かくし』(山岸凉子)に収録されている「負の暗示」がある。

参考文献・・・
『津山三十人殺し』(草思社/筑波昭/1981)
『天皇家の人々』(角川書店/神一行/2001)
『ミステリーの系譜』(新潮社/松本清張/1968)

『「八つ墓村」は実在する』(ミリオン出版/蜂巣敦/2005)

参考にしなかったその他の関連書籍・・・
『津山三十人殺し 最後の真相』(ミリオン出版/石川清/2011)
『津山三十人殺し 七十六年目の真実 空前絶後の惨劇と抹殺された記録』(学研パブリッシング/石川清/2014)

「津山事件」の画像

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