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二・二六事件

1936年(昭和11年)は動乱の年だった。軍国主義の風潮が社会を取り巻く中、2月26日には陸軍の過激な国粋主義の青年将校たちが「昭和維新」を旗印に蹶起(けっき)、重臣を殺害し、首都の中枢部を4日間に渡って占拠するというわが国近代史上初のクーデターを起こしている。いわゆる二・二六事件である。

歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、近衛歩兵第3連隊の下士官兵1400人は行動を開始した。

1936年(昭和11年)2月26日午前5時過ぎ、栗原安秀中尉、林八郎少尉、池田俊彦少尉、対島勝雄中尉率いる300人は、雪が降りしきる中、首相官邸を襲撃。警察官4人を射殺し、岡田啓介首相と間違えて秘書官の松尾伝蔵大佐を射殺してしまった。岡田首相は女中部屋の押し入れにもぐり込んで難をまぬがれたらしい。

坂井直中尉、高橋太郎少尉、麦屋清済少尉、安田優少尉率いる150人は、四谷仲町の斎藤実(まこと)内大臣私邸を急襲。機関銃から弾丸40発を発射して殺した。

このあと、高橋、安田両少尉は、30人を連れて、上荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸へ行き、ピストルで応戦した同総監を射殺した。

中橋基明中尉、中島莞爾少尉率いる100人は赤坂の高橋是清(これきよ)大蔵大臣私邸を襲い、「天誅!」と叫んで同蔵相を射殺した。

安藤輝三大尉率いる150人は、麹町三番町の鈴木貫太郎侍従長官邸に乱入。侍従長をピストルで撃ち、軍刀でとどめを刺そうとしたが、夫人に懇願されて思いとどまり、侍従長は一命をとりとめた。

また、他の兵400人は警視庁を占拠し、朝日新聞も襲撃した。

この事件には実は伏線があった。青年将校が横断的に結合して国家革新をはかろうとする皇道派と、総力戦体制の国家をめざす幕僚を中心とした統制派の陸軍内部の主導権をめぐる確執であった。

前年の1935年(昭和10年)、皇道派の真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)教育総監が更迭されたことに怒った皇道派の相沢三郎中佐が、統制派のポープの永田鉄山(てつざん)軍務局長を刺殺するという事件が発生した。

青年将校たちは相沢裁判をテコに「昭和維新」決行を心に誓い、荒木貞夫大将や真崎ら皇道派将官は、青年将校の運動を陰にバックアップし、自派の影響力拡大をもくろんだのであった。

午前8時半ごろ、占拠した陸相官邸に真崎が勲1等の勲章を佩(は)き、意気揚々とやって来た。磯部浅一元1等主計が「閣下、統帥権干犯(かんぱん)の賊類を討つために蹶起しました」と語ると、真崎は得意げに「とうとうやったか、お前たちの心はよお、わかっとる、よおー、わかっとる」と言った。

実際、皇道派軍人は蹶起部隊を擁護し、「穏便な解決」に奔走した。「諸子が蹶起の趣旨は天聴に達したり」とする説明文を作成、占拠を解けば不問に付すという妥協案が作られ、また、「勅語」を与えて帰順させるなども検討された。

しかし、事態は真崎や荒木の思惑通りには運ばなかった。何よりも天皇自身が激怒し、「暴徒、叛乱軍」と明確に規定したからである。天皇は事件を報告する川島義之陸相に対し、「叛乱軍を速やかに鎮圧するのが先決」と叱責の声をあびせた。こうした中で、流れは「叛乱軍鎮圧」に傾いていくのであった。最初は蹶起部隊に同情的だった杉山元(はじめ)参謀次長も、第1師団の甲府および佐倉部隊の首都投入を指示した。自軍出身の岡田首相、鈴木侍従長、斎藤内大臣を襲撃された海軍の行動も早かった。横須賀の第1水雷戦隊を芝浦に上陸させ、土佐沖の連合艦隊のうち第1艦隊を東京に、第2艦隊を大阪に向けた。

2月27日になると、さらに、蹶起部隊の旗色は悪くなった。天皇は「朕(ちん)が最も信頼せる老臣をことごとく倒すは、真綿にて、朕が首を締むるに等しき行為なり」と述べ、事態の収拾に手間取る陸軍首脳に対ししびれを切らし、「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定に当たらん、馬を引け」とまで言い切ったのである。午後4時、第1艦隊は東京湾で艦を横1列に並べ、すべての砲門を市街に向けた。

2月28日午前5時8分、ついに「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅(ほうちょく)命令が下され、この時点で青年将校たちの「昭和維新」の夢は完全に破れたのだった。

2月29日朝から、「兵に告ぐ」の放送を始め、飛行機、戦車、アドバルーンを繰り出して「今からでも遅くない」という帰順勧告が開始された。

投降が始まり、最強硬派安藤輝三大尉のピストル自決(未遂)を最後に、全員投降した。

この事件後、参加部隊は満州に送られ、多くの戦死者を出した。

翌3月1日、緊急勅令が出され、3月4日、東京陸軍軍法会議が特設される。当初から被告人には弁護人を付けられず、将校らの発言も制限された。審理は1審制で非公開、わずか1ヶ月半で結審する「暗黒裁判」だった。

7月5日、安藤輝三、栗原安秀、村中孝次、磯部浅一ら17人に死刑判決が言い渡された。

7月12日、村中、磯部を除く15人の死刑が執行された。

翌1937年(昭和12年)8月15日、黒幕とされる思想的指導者の北一輝(本名・輝次郎/1883年4月3日生まれ。事件のとき「数え」年齢で54歳)、西田税(みつぎ)に死刑判決が言い渡された。現在では北一輝は指導者ではなかったとする説が有力のようだが、、、。

8月19日、北一輝、西田税、村中孝次、磯部浅一の4人の死刑が執行された。

9月25日、真崎大将に無罪の判決が下り、事件の全てが終わった。彼らの運動に理解を示し、利用もした皇道派の将官たちは不問とされた。特に、事件の黒幕の真崎の無罪は “昭和史の謎” とされる。

事件後、行方の知れなかった「二・二六事件裁判記録」を発掘・閲覧した弁護士の原秀男(元陸軍法務官)は、公判記録を次のように読み解いた。真崎は天皇の怒りを知って震え上がり、さっさと手の平を返して保身をはかったのではないか。また、統制派は、この粛軍裁判を利用して皇道派を完全におさえ、軍の主導権を握っていったのではないかと。

そして東条英機に代表される統制派の手によって、日本はファシズムへの道を本格的にたどることになるのである。

約2ヶ月後の4月18日には国号を「大日本帝国」と統一。翌1937年(昭和12年)7月7日には蘆溝橋事件が勃発し、日中戦争が開始された。

二・二六事件を元に製作された映画に次の作品がある。

『叛乱』(DVD/監督・佐分利信&阿部豊/出演・細川俊夫、佐分利信/2008)

『銃殺2.26の叛乱』(監督・小林恒夫/出演・鶴田浩二、岸田今日子、佐藤 慶、丹波哲郎・・・/東映/1964)
『叛乱』のリメイク版

『動乱』(DVD/監督・森谷司郎/出演・高倉健&吉永小百合/2006)

『226』(VHS/監督・五社英雄/出演・萩原健一・・・/1993)

二・二六事件をモチーフにした小説に『ねじの回転 Febrauary moment』(集英社/恩田陸/2002) がある。

参考文献など・・・
『日録20世紀』(講談社/1998年2月10日号)
『犯罪の昭和史 1』(作品社/1984)
『夢一途』(集英社文庫/吉永小百合/1993)
『磯部浅一と二・二六事件 わが生涯を焼く』(河出書房新社/山崎国紀/1989)

『雪はよごれていた 昭和史の謎 二・二六事件最後の秘録』(日本放送出版協会/澤地久枝/1988)

『妻たちの二・二六事件』(中公文庫/澤地久枝/1975)

『二・二六事件 昭和維新の思想と行動』(中公新書/高橋正衛/1965)

『父と私の二・二六事件 昭和史最大のクーデターの真相』(光文社NF文庫/岡田貞寛/1998)

関連サイト・・・
東京紅團
2.26事件を巡る

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