[ 事件 index / 無限回廊 top page ]

阿部定事件

【 時代背景 】

1936年(昭和11年)は動乱の年だった。軍国主義の風潮が社会を取り巻く中、2月26日には陸軍の過激な国粋主義の青年将校たちが「昭和維新」を旗印に蹶起(けっき)、重臣を殺害し、首都の中枢部を4日間に渡って占拠するというわが国近代史上初のクーデターを起こしている。いわゆる二・二六事件である。

陸軍内部の派閥対立で収拾に手間取る中、天皇は終始「叛乱軍」と主張、鎮圧を求めた。青年将校らの野望はついえ、東条英機らに代表される統制派が陸軍の主流となり、日本は戦争への道をひた走ることになる。

約2ヶ月後の4月18日には国号を「大日本帝国」と統一。翌1937年(昭和12年)7月7日には蘆溝橋事件が勃発し、日中戦争が開始される。

こうした重苦しい時代背景の中で、世間の人々は社会の不安を吹き飛ばすような阿部定事件にかっこうの息抜きとして飛びついたらしい。当時の新聞の中には阿部定のことを “世直し大明神” と呼んだものさえあったとか。当時はこの事件がなければやりきれないような暗澹たる時代で、それゆえに、当時のマスコミはセンセーショナルにこの事件のことを報じたようだ。

【 遺体発見 】

1936年(昭和11年)5月15日から東京市(現・東京都)荒川区尾久1881の待合「満佐喜(まさき)」に、男と女の2人連れが居続けていたが、18日午前8時ごろ、そのうち、女だけが「水菓子を買いに行く」と言って外出し、そのまま帰って来なかった。しかも、男の方がなかなか起きてこないので、不審に思った同家の女中の伊藤もとが、午前11時ごろになって2階4畳半の「桔梗(ききょう)」の間を覗いて見たところ、男が蒲団の中で惨殺されていたのを発見した。

東京・・・1868年(明治元年=慶応4年)、江戸を「東京」と改称。1878年(明治11年)、東京府15区6郡成立。1889年(明治22年)、東京府15区に市制、東京市とする。1893年(明治26年)三多摩(北、南、西多摩)郡を神奈川県より移管。1932年(昭和7年)、府下5郡82町村を東京市に編入、20区を新設し、合わせて35区となる。この時点で、現在の東京23区とほぼ同じ範囲となる。1943年(昭和18年)、東京府は東京都となり、同時に東京市を廃して区を東京都の直下に置くこととなった。1947年(昭和22年)、22区に統合。その後、板橋区から練馬区を分離し、23区となる。

男は枕を窓側にして、赤い絹の腰ひもで絞殺されており、その顔にはタオルがかけてあった。蒲団の敷布には<定吉二人きり>と7〜8センチ角の楷書でしたため、男の左大腿部には血液で<定・吉二人>と書かれ、左腕に<定>と刃物で刻まれていた。さらに、男の局所が陰のうもろとも切り取られていた。

被害者の男は東京市中野区の「吉田屋」という鰻料理店の主人の石田吉蔵(きちぞう/42歳)、逃走した女は「田中かよ」と偽って同家の女中になっていた阿部定(当時32歳)であることが判明した。

阿部定の年齢の「32歳」は「数え年齢」だが、阿部定の生年月日が1905年(明治38年)5月28日なので、現在使用されている「満年齢」では、1936年(昭和11年)5月18日に事件を起こした時点で「30歳」ということになる。

ちなみに「数え年齢」とは生まれた時点で「1歳」とし次の年の元日を迎えた時点で1年加えて「2歳」となる、というように、以後元日を迎えるごとに年齢が加算される計算法で、「数え年齢」と「満年齢」は常に1歳か2歳違いとなる。この「数え年齢」から「満年齢」に変わるのは1950年(昭和25年)以降。

【 犯行に至るまでの過程 】

1936年(昭和11年)2月1日、阿部定は東京市中野区新井538で鰻屋を営んでいる「吉田屋」に女中として入り、すぐに主人の石田吉蔵と懇意になった。元々、定は好色な女であり、吉蔵もまた次から次へと愛人を作るほどの女好きであった。

最初のうちは「吉田屋」の中で妻のとく(当時43歳)の目を避けながら情痴を繰り返していたが、いずれは2人の関係が分かってしまうので、外の料亭などに泊まり込むことが多くなった。そうした情痴を繰り返しているうちに定は吉蔵を自分のものだけにしておきたいという気持ちが強くなっていった。

4月19日、定は吉蔵と応接間で灯りを消して関係していたところを女中に見られてしまい、妻の知るところとなった。

4月23日、定は吉蔵と家出して渋谷の待合「みつわ」へ行く。

4月27日、定と吉蔵が多摩川の料亭「田川」へ行く。ここでは芸者を寝床にまで呼んで酒を飲み、乱痴気騒ぎをした。定はいきなり蒲団をめくって、小さくなっている吉蔵のモノをなめては、平気な顔をしてお酒を飲み、キスしたり頬をなめたりした。

4月29日、定は浅草の芸妓(げいぎ)屋「歌の家」に行き、芸妓の山子から10円借りて旅費にし金策のため名古屋へ行った。

4月30日、名古屋で芸妓をしていたときに知り合った名古屋市市会議員で中京商業高校の校長の大宮五郎(当時49歳)に「南陽館」で会って100円と旅費をもらって帰り、尾久の待合「満佐喜」へ行き、5月5日の夕方まで寝床を敷きっぱなしにして吉蔵と情痴の限りをつくす。そのあと、上京してきた大宮五郎に銀座で会い120円もらう。

5月6日、定は吉蔵を円タク(一定の距離を1円で走るタクシー)で中野まで送って行ったが、やはり別れられず、中野町の「関弥」で一泊する。

5月7日、定は吉蔵とやっとの思いで別れ、定は昔、関係のあった遠縁の稲葉のところに行く。

5月10日、明治座で芝居を観る。

5月11日、定は稲葉の家を出ることにした。やはり、定にはどんなことがあっても絶対に吉蔵を離したくないという気持ちがあった。2人は中野駅で落ち合い、駅前のおでん屋で酒を飲み、円タクで尾久の待合「満佐喜」へ行く。

5月12日、吉蔵は「首を絞めるのはいいんだってね」と定に言うと、定は「それでは絞めて頂戴」と言うので、吉蔵は関係しながら定の首を絞めたが、「何だかお前が可哀想だから厭だ」と言うので、今度は、定が上になって吉蔵の首を絞めたが、吉蔵は「くすぐったいからよせ」と言った。

5月15日、定は上野で肉切り包丁を買った。また、この日、東京駅で大宮五郎に会い、銀座で食事し、品川の「夢の里」で休憩し50円もらう。そのあと、吉蔵を電話で呼び出し、再び「満佐喜」へ行く。

5月16日、定は吉蔵に抱かれていると、吉蔵のことがとても可愛いと思うようになり、吉蔵を噛んだりしたが、定は「今度はひもで絞めるわよ」と言って、枕元にあった自分の腰ひもを手に取り、吉蔵の首に巻きつけて、両手でひもの端を持ち、定は吉蔵の上になって情交しながら首を絞めたり緩めたりした。初め、吉蔵は面白がって首を締めると舌を出してふざけたりした。定は「首を絞めると腹が出てオチンコがピクピクして気持ちがいい」と言うと、吉蔵は「お前が良ければ少し苦しくとも我慢するよ」と言った。吉蔵はそのころヘトヘトに疲れて目をショボショボさせていたので、定は「厭なんでしょう、厭ならもっと絞めるわよ」と言うと、吉蔵は「厭じゃない厭じゃない、俺の体はどうにでもしてくれ」と言った。

5月17日午前1時頃、寝ている吉蔵の首に細ひもを巻きつけて絞めると、吉蔵は定の偽名である「かよ」という名前を「かよ、かよ」と苦しそうに叫んだ。定もその苦しそうな声を聞くと現実に戻り、驚いてひもを解いた。首には二重の傷跡が残ってしまった。吉蔵は鏡で自分の首を見て「ヒドいことしたなあ」と言っただけで少しも怒らなかった。

朝早く外出して、銀座「資生堂」で目薬と傷跡の薬とカルモチン30錠を購入してきた。その薬で介抱する定に吉蔵は「お前はオレが眠ったらまた首を締めるだろう。今度、絞めるときはそのまま緩めないでくれ。ひと思いに苦しまずに殺してくれ・・・」と言ったという。

カルモチン・・・催眠鎮静効果のある化合物。自殺目的などで大量服用し、急性中毒を引き起こす場合があるが、致死性は低い。「カルモチン」は商品名で武田薬品工業から市販されていたが、現在は販売中止になっている。

5月18日の朝、定は吉蔵の首を絞め、吉蔵の言った通り緩めることもなくそのまま強く絞めて殺してしまった。

吉蔵が死んだことが分かった定は自分を楽しませてくれた吉蔵の局所を切り取って自分の肌から離したくないと考えた。局所を切り取るというのは定の吉蔵に対する愛情であり、これ以上の表現はないというのが定の考えであった。

「それは一番可愛い大事なものだから、そのままにしておけば湯棺のとき、お内儀さんが触るに違いないから、誰にも触らせたくない」と後に供述している。

【 本人歴 】

1905年(明治38年)5月28日、阿部定は、東京市神田区新銀(しんしろがね)町(現・東京都千代田区神田多町〔たちょう〕/神田区と麹町区が統合して千代田区になる)の畳屋の娘として生まれた。8人兄弟の末っ子。次男と三男は定が10歳ぐらいのときに死に、また、四男は生後まもなく養子に出されており、長女は生まれてすぐ死んだので、残ったのは長男の新太郎、次女のとく、三女の千代、それに四女の定の4人である。

父親の重吉(じゅうきち)は実直で律儀な畳職人だった。家には6人ほどの職人がいて、忙しいときは10人〜15人ほどの職人が出入りしており、経済的には不自由はなかった。

定は神田尋常小学校へ入学するが、派手好きで見栄っ張りの母親のカツに勧められて、小学2年ごろから三味線を習い、そのために学校の勉強がおろそかになり、定は自然と勉強が嫌いになっていった。小学校を卒業してからも、1年ぐらいは裁縫の稽古に通い、先生を自宅に呼んで習字を習っていた。

10歳のとき、定はその家にいた職人からいろんな話を聞かされ、男と女のすることを知っていた。

15歳のとき、長男の新太郎はかなりの道楽者だったが、浅草へ遊びにばかり行っていた。次女のとくを自宅から追い出し、それまで外に囲っていた水商売の女と結婚し、自宅で一緒に暮らすようになった。

丁度そのころ、三女の千代が自宅にいた職人を婿養子にしたため、長男の新太郎は両親が千代夫婦に家を相続させるつもりではないかと思い、新太郎夫婦は千代夫婦を虐めるような毎日が続いた。

両親は定にこの揉め事を見せたくないと思い、毎日のように、外に遊んでおいでと小遣いをやるようになった。

定が友達の福田ナミ子の家に遊びに行ったとき、ナミ子の兄の友達の慶応の学生が遊びに来ていて、2階でその学生とふざけているうちに関係してしまう。

そのとき、大変な痛みがあり、2日くらい出血し、驚いて、自分はこれで娘ではなくなったのだと思い、恐ろしくなって母親にこのことを話した。母親のカツはこの学生の自宅に会いに行ったが、相談には乗ってくれず、泣き寝入りになってしまった。定はこれで嫁に行けなくなってしまったと思いつめる。母親は「お前さえ黙っていれば分からないことだし、お前が知らないことを男がしたのだから何でもない」と言って慰めた。

いったん、異性の肌の感触を知った定は、神田界隈の不良少年と付き合うようになり、浅草へも行くようになった。

職人を婿にした三女の千代は、家出したり、離婚して家に戻ったかと思えば、近所に愛人をつくったり、さらに、長男の新太郎は家の金を持ち出したりで、父親の重吉は畳屋をやめて、次女のとくが嫁いでいる埼玉県坂戸町に新しく家を建てて移転した。

定も坂戸に移ったが、ここでも近所の男を愛人にして評判になったので、父親の重吉は怒って「そんなに男好きなら娼妓(しょうぎ)に売ってしまう」と言い出した。

18歳のとき、紹介屋を通して前借金300円で横浜市中区住吉町の芸妓置屋「春新美濃」に抱えられ「みやこ」の名前でお座敷に出るようになった。

その頃、定の家は東京に貸家が5、6軒あったので、暮らしは楽で金に困っていたわけではなく、前借金の一部を、紹介屋へ連れて行ってくれた稲葉(遠戚に当たる)へのお礼にして、他は自分の小遣いなどにした。

定は稲葉とも関係があり、吉蔵殺しの犯行の10日ほど前にも会っている。

19歳のとき、横浜神奈川区の「川茂中」に移るが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災(死者9万1802人、行方不明者4万2257人)に遭い、富山市清水の「平安楼」へ移り、「春子」と名乗った。それから、信州飯田町の「三河屋」へ移り、「静香」と名を改めた。

22歳のとき、大阪の飛田(とびた)遊郭「御園桜」で娼妓となり、「園丸」という名に変えた。

23歳のとき、名古屋の「徳栄楼」、大阪の松島遊郭「都楼」では「東」と名乗り、丹波篠山の「大正楼」では「おかる」「育代」と名乗った。

26歳のとき、娼家を脱走。以後、神戸のカフェーで「吉井信子」と名乗り、その後、大阪、横浜、名古屋を転々とし、カフェーの女給、高等淫売、妾などをする。

29歳のとき、母親のカツ死去。

30歳のとき、父親の重吉死去。

31歳のとき、名古屋で市会議員で、中京商業高校の校長の大宮五郎と知り合い妾となる。

32歳のとき、東京市中野区の鰻屋「吉田屋」で女中として働くことになり、そこの主人の石田吉蔵に出会う・・・。

【 その後 】

5月18日の朝、定は吉蔵を殺害して「満佐喜」を出たあと、大宮五郎に会い、日本橋のそば屋に寄り、大塚の旅館「緑屋」に入って2時間ばかり休憩して別れた。

そのあと、大宮五郎は定の殺人事件になんらかの関係があるのではないかと疑われ、尾久署に二晩も留置されて取り調べを受けている。

定は万世橋あたりで、事件のことを報じる号外が出て予想以上に大騒ぎになっているのを知る。古着屋で着替えをしたが、その後、大阪に行って死ぬことも考えたという。

5月20日午後5時半ころ、定は品川の駅前の旅館「品川館」で逮捕された。

旅館「品川館」に、臨検に訪れた高輪署の安藤刑事は、「大和田直」という偽名で投宿していた女の部屋を訪ねた。そのとき、女はビールを飲んでいた。女は自らを阿部定と名乗った。

所持品の中にはハトロン紙で包まれた吉蔵の局所が帯の間にはさんであった。他に、吉蔵の猿股、褌、メリヤスのシャツ、刃渡り15センチの肉切り包丁があった。定は切り取った吉蔵の局所を眺めて少し舐めたり、ちょっと当ててみたりしたと、のちに供述している。

各新聞は一斉に号外を出して「阿部定逮捕」を報じた。このとき、国会では2つの委員会が開かれていたが、委員長の緊急動機で会を中断、全員、号外を読み耽ったという。

定と関係した男たちは、彼女がアクメに達すると体が震え出し、それから1時間近く失神したと一致して証言している。そのうちの1人、中京商業高校の校長の大宮五郎はこの事件のため職を失うが、最初に定と関係したとき、欲情した彼女の淫水が多いことに驚いて、他の病気ではないかと問い質している。これらの点から定の精神鑑定をした東大の村松常雄教授は、彼女を先天的なニンフォマニア(淫乱症)と診断。

定は吉蔵を、死んでもいいほど愛していたが、同時に大宮先生を非常に尊敬していて、関係を断てなかったと、のちに供述している。

2人が過ごした東京都荒川区の待合「満佐喜」と定が逮捕された品川区の旅館「品川館」は事件後に大繁盛した。

「満佐喜」では事件のあった部屋に2人の写真を飾り、2人が使ったドテラや読んでいた『主婦の友』(1917年 [大正6年] 創刊)まで展示した。

「品川館」では定が泊まった部屋を逮捕時のまま保存し、旅館の主人はスクラップブック片手に、熱弁をふるってその夜の定を再現したそうである。

また、逮捕前日に定に呼ばれて体をもんだマッサージ師は新聞社や雑誌社の取材謝礼でマイホームを新築した。「あんた、新聞読んだ? 私(定)、怖いので見出しだけしか見なかったので、聞かして頂戴」と言うので、私(マッサージ師)が下腹部を切った話しをすると、ニヤッと笑った様子がさも満足そうなので、ぞっとした、という。

大阪のバスガイドの組合が会社に対して、「切符を切らせてもらいます」という言葉を変えて欲しいと申し出た。大きい声で「切らせてもらいまあす」と言うと、客が一斉に笑い出す。それが恥ずかしくて耐えられないということのようだ。

11月25日、東京地裁1号法廷で第1回公判が開かれた。傍聴者は前夜から押しかけて列をつくり、やむを得ず、裁判所は午前9時開廷のところ、午前5時に入廷させた。

12月21日、東京地裁は、定に対して懲役6年という軽い刑(未決勾留120日通算)を言い渡した。定、検事ともに控訴せず、定は女子刑務所の栃木刑務所(栃木市)に収監された。

女子刑務所には、札幌刑務所の女区(札幌市)、福島刑務支所(福島市)、栃木刑務所(栃木市)、笠松刑務所(岐阜県羽島郡笠松町)、和歌山刑務所(和歌山市)、岩国刑務所(山口県岩国市)、麓(ふもと)刑務所(佐賀県鳥栖市)、沖縄刑務所(沖縄県南城市)の女区がある。

刑務所における定は模範囚で、普通の女囚が日に1320枚ずつこなすセロハンの紙細工を2300枚ずつ、ほとんど2人分消化していった。

定の人気は刑務所収容後もいっこうに衰えず、刑務所に送られてきた定への結婚申し込みは400通以上、出所後は1万円(当時で約1600万円)でスカウトしたいと申し込んできたカフェーが2つ、映画会社がひとつ、なにかの拍子に外に出て来るかもしれないと期待して刑務所の門前に弁当持参で来る常連もいたという。

定が予審廷(現行制度にはない)で予審判事に対して供述した調書が外部に持ち出され、印刷されて非公然に売買された地下出版本があった。警察がその一部を押収して調書原本と照合したところ、内容が完全に同一であることが判明し、ますます値が上がったという。一説によると、研究のために、特に調書の筆録を許可された精神分析学者の高橋鉄が、研究費欲しさにこれを少部数刷り、好事家に高値で密売したものが、さらに暴力団によって拡大再生産されたのではないかと言われているが、真相は明らかになっていない。

1941年(昭和16年)5月17日、前年(1940年)の皇紀2600年祝典による恩赦で減刑され、奇しくも犯行から丸5年目のこの日、刑務所を仮出所した。

皇紀・・・神武天皇即位の年を第1年とする日本の紀元で、皇紀元年は西暦紀元前660年だから、西暦1940年は皇紀2600年にあたる。

刑務所長などの配慮で、阿部定は「吉井昌子」と名前を変えて、誰にも過去を知られず暮らすことになった。その名前で結婚をし、戦時中は埼玉県に疎開していた。

だが、終戦後、定とその夫が平和に暮らしているところに、新聞記者が取材で訪れた。これによって、夫は妻が世間を騒がせた定であることを知り、それまで平和であった暮らしが崩壊した。

また、カストリ雑誌ブームの中で再び、阿部定事件が脚光を浴び、興味本位の『昭和一代女お定色ざんげ』などいろいろ書かれた。そのため、1947年(昭和22年)9月、定はその著者と出版社を名誉毀損で東京地検に告訴している。

その後、作家の長田幹彦主催の劇団で、自ら「阿部定劇」のヒロインを演じて全国を巡業した。

その後、温泉地の旅館の女中、料理屋の女中、バーやおにぎり屋の経営者になったりして、あちこちを転々。自分の知名度を利用し、逆にそれを利用されたりした。

1959年(昭和34年)、某料理屋の女中頭として、東京料飲店同志会から優良従業員として表彰されている。

1971年(昭和46年)、千葉県市原市の「勝山ホテル(現・廃業)」で、「こう」という名前で働いていた。ここでは、65歳という高齢にもめげず、若い男に金品を貢いでは気を引いていたそうであるが、置手紙を残したまま、姿を消して、以後、消息を断っている。

その後、ある老人ホームに入っているらしいという情報もあるとかないとか。

この事件を元に製作された映画や音楽に次のような作品がある。

『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』(DVD/監督&脚本・石井輝男/阿部定役・賀川雪絵/石田吉蔵役・若杉英二/阿部定本人が特別出演/2005)この作品はオムニバス形式になっており、他に、ホテル日本閣殺人事件、高橋お伝、小平義雄連続殺人事件も扱っている。

『実録 阿部定』(DVD/監督・田中登/阿部定役・宮下順子/2005)

『愛のコリーダ』(VHS/監督・大島渚/阿部定役・松田英子/石田吉蔵役・藤竜也/フランス/1998) 1972年(昭和47年)秋、フランスのプロジューサー・アナトール・ドーマンに依頼された大島渚が監督を務めたポルノ作品。日本では制作する上で性器・性交を映したフィルムを現像して所持したらその時点で没収されてしまう問題があったため、大島はネガフィルムをフランスから輸入し、日本で撮影して未現像のままフランスに送り返すことにした。未現像のフィルムなら税関をパスするからだ。現像・編集はフランスで行い、完成品をそのまま上映することができた。フランスでは1975年(昭和50年)4月26日にポルノが全面解禁になっている。1976年のカンヌ国際映画祭で、監督週間のオープニングで上映され絶賛された。フランスでは『L'Empire des Sens(官能の帝国)』というタイトルで大ヒット。また、ブラジルでも1年以上の大ロングランヒットとなった。日本での公開では製作サイドとしては不本意な大幅な修正(合計約2分間の本編プリントのカットなど)が加えられて上映された。ちなみに「コリーダ(corrida)」とは「闘牛」とか「走り」という意味のスペイン語。

『愛のコリーダ』(CD/2003) アメリカのクインシー・ジョーンズが本映画に捧げたことで知られる名曲「愛のコリーダ」は1981年度のグラミー賞を受賞した。

『SADA』(DVD/監督・大林宣彦/阿部定役・黒木瞳/石田吉蔵役・片岡鶴太郎/1998)この作品は第48回ベルリン国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞した。

『愛のコリーダ 2000』(DVD/監督・大島渚/阿部定役・松田英子/石田吉蔵役・藤竜也/フランス/2000)これは『愛のコリーダ』のオリジナルをフランスから取り寄せた作品。税関や映倫の審査で受けたカットはあるものの監督の製作意図に限りなく近いノーカット版で公開された。

『阿部定 最後の七日間』(DVD/監督・愛染恭子/阿部定役・麻美ゆま/石田吉蔵役・松田信行/2011)

1996年(平成8年)に『日経新聞』朝刊に連載されていた『失楽園』(渡辺淳一)は阿部定事件をモチーフに書かれたものだが、ベストセラーになり、同名タイトルで映画化された。

『失楽園』(DVD/監督・森田芳光/出演・役所広司/2006)

『愛のコリーダ』摘発事件

[ 『愛のコリーダ』摘発事件 ]

1976年(昭和51年)1月、阿部定事件を元に製作された映画『愛のコリーダ』のスチール写真や脚本をまとめた単行本の著者の大島渚監督と出版元の三一書房社長の竹村一がわいせつ文書販売罪に問われた。検察側は映画の方を摘発しようとしたが、フィルムがフランスで現像・編集されているため、起訴ができず、本を検挙したらしい。1977年(昭和52年)12月21日、東京地裁で初公判が開かれた。被告は血の気の多い大島渚に、反権力を掲げる竹村一。それに文化人500人が応援した。公判では卑猥な言葉が飛び出し、裁判そのものがわいせつ罪に抵触するのではないかといった様相を呈していたが、初公判から白熱した展開を見せた。竹村社長が「この写真を見て君たちのチンポが勃ったというのか。これでおっ勃たんなら異常だというのか。その歳で性的興奮するほうが異常だ。権力をかざす前に肉体鑑定してもらったらどうだ」と息巻いた。これに対し、検察も「裁判長! 被告の言葉は検察官を侮辱するもの」と負けてはいなかった。最後になって傍聴席から評論家の竹中労が拍手をすると、裁判長が退廷を命じた。それに対し、竹中は「なぜいけないのか?」「バカ!」と言ってしまったため、結局、3万円の罰金を科せられた。その後も文化人や有名人が被告側証人として出廷し、わいせつや表現の自由について主張した。教科書裁判で知られる家永三郎は、カタブツ人間だった軍人の父親がもっていたという秘戯画、春画の2点を見せ、「スチール写真やシナリオを本にして出版したとしてもそれを問題にする方がおかしい」と主張した。法廷で証人がポルノ画を広げて見せたのは裁判所始まって以来のことだった。被告側はさかんに「わいせつとは何か」「わいせつでなぜいけないのか」と検察側に詰め寄ったが、検察側は「徒(いたずら)に性欲を興奮又は刺激せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義に反するもの」という1958年(昭和33年)の最高裁の定義を繰り返すだけだった。証人に立った警視庁保安一課の警部補は「私がわいせつだ、と思ったらわいせつだ」と開き直ってしまった。1979年(昭和54年)10月19日、東京地裁は「わいせつの基準は社会通念の変遷によって変わる」として無罪を言い渡した。東京地検が控訴。1982年(昭和57年)6月8日、東京高裁で控訴が棄却され無罪となった。この裁判の特徴は「チャタレー裁判」(1950年起訴、最高裁でイギリスの作家・D・H・ロレンスの長編小説『チャタレー夫人の恋人』の翻訳者の伊藤整に罰金10万円、出版会社の小山書店の小山久二郎社長に罰金25万円の判決が下り確定)や「サド裁判」(『悪徳の栄え』事件/1961年に起訴、最高裁で抄訳した澁澤龍彦に罰金7万円、出版した現代思潮社の石井恭二社長に罰金10万円の判決下り確定)と異なり、(1)映画の脚本とスチール写真が起訴されたこと、(2)現存する日本人の原作が起訴されたこと、(3)被告側が文学・芸術作品だから無罪であると主張したのではなく、「わいせつ、なぜ悪い」として、わいせつそのものの根源までさかのぼってその本質を究明しようと、法廷闘争を展開したことにあった。

『愛のコリーダ』摘発事件の関連書籍・・・
『愛のコリーダ』(三一書房/大島渚/1979)
『猥褻の研究 「愛のコリーダ」起訴記念出版』(三一書房/「愛のコリーダ」起訴に抗議する会」/1977)
『失われた「愛のコリーダ」 その再現とポルノ映画論』(出帆社/小川徹/1976)

参考文献など・・・
『残虐犯罪史』(東京法経学院出版/松村喜彦/1985)
『悪女たちの昭和史』(ライブ出版/松村喜彦/1992)
『阿部定正伝』(情報センター出版局/堀ノ内雅一/1998)

『昭和性相史 PART1』(第三書館/下川耿史/1992)

『昭和性相史 PART4』(第三書館/下川耿史/1993)
『津山三十人殺し』(草思社/筑波昭/1981)
『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)

『ワケありな映画』(彩図社/沢辺有司/2011)
『お定色ざんげ 阿部定の告白』(河出文庫/木村一郎/1998)
『阿部定事件 愛と性の果てに』(新風舎文庫/伊佐千尋/2005)
『愛するがゆえに 阿部定の愛と性』(文春文庫/伊佐千尋/1997)
『阿部定手記』(中央文庫/前坂俊之/1998)
『阿部定 学生と読む阿部定予審調書』(D文学研究会/清水正/1998)
『阿部定「事件調書全文」 命削る性愛の女』(コスミックインターナショナル/本の森編集部/1997)
『阿部定伝説』(ちくま文庫/七北数人/1998)

『ドキュメント日本人10 法にふれた人』(学芸書林/谷川健一・鶴見俊輔・村上一郎/1969)

関連サイト・・・
東京紅團阿部定(失楽園)事件を歩く

[ 事件 index / 無限回廊 top page ]