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丸正事件

1955年(昭和30年)5月12日、静岡県三島市の丸正(まるしょう)運送店の店主・小出千代子(33歳)が遺体で発見された。3年前、父親が死亡、長男の栄太郎は運送店の一部で洋服仕立て業を営み、運送店の名義は次男の博になっているが、実質的には長女の千代子が受け継いでいるため、遺産相続上の争いが噂されていた

5月30日、沼津市の大一トラック運転手の李得賢(当時42歳)と助手の鈴木一男(当時33歳)が別件で逮捕され、翌日、鈴木一男は犯行を自供した。

6月22日、李得賢と鈴木一男の2人が現金6000円と預金証書を奪った強盗殺人で起訴された。起訴の根拠は3つあった。

(1)鈴木一男の自白。(2)被害者に猿ぐつわをかませていた手拭い。警察はその手拭いが李得賢のものだとしていた。(3)目撃証言。

2人の自動車運転手が丸正運送店の近くに李得賢の勤める大一トラックが停まっていたという証言。だが、自白は鈴木一男によれば、取り調べで血を抜かれるなどの厳しい拷問が加えられ、犯行の筋書きを覚えさせられたりしたという。また、猿ぐつわに用いられた手拭いは1954・55年(昭和29・30年)の両年、大一トラック藤枝営業所が年賀状用に客に配ったもので、捜査当局は李得賢がもらったものとしているが、その根拠はなく、2人が証言した大一トラック目撃の信憑性もあいまいであった。

8月7日、静岡地裁で第1回公判が開かれ、鈴木一男は取調官に強制されて自白したと無実を主張した。9月23日、李得賢が盗んだとされていた預金証書が被害者の実家で見つかった。

1957年(昭和32年)10月31日、静岡地裁は被害者の実家から預金証書が見つかっているにもかかわらず、李得賢に無期懲役、鈴木一男に懲役15年の判決を言い渡した。被告側は直ちに控訴した。

同年暮れ、鈴木一男の姉はえん罪事件の八海(やかい)事件(1951年、事件発生)で有名な正木ひろし(本名は「日」の下に「大」と書いて「ひろし」と読む/本人は「正木ひろし」「まさき・ひろし」を好んで用いた)弁護士に弁護人になってくれるように依頼したが、正木ひろしは多忙だったため、裁判官を辞め弁護士を開業したばかりの鈴木忠五に頼んだ。鈴木忠五は三鷹事件の裁判長を務めたので正木ひろしとは熟知の仲だった。こうして、控訴審からは鈴木忠五が弁護人を引き受けることとなった。

三鷹事件・・・1949年(昭和24年)7月15日午後9時24分、無人電車が中央線三鷹駅構内から暴走、改札口と階段をぶち抜き、交番を全壊して民家に突入し、6人が死亡、20余人が重軽傷を負った。共同謀議による計画的犯行と直ちに断じ、三鷹電車区分会執行委員長の飯田七三ら9人の共産党員と、同区検査係の非党員の竹内景助の10人が次々と逮捕された。10人は「電車往来危険転覆致死」容疑で起訴されたが、1年後の1950年(昭和25年)8月11日、1審判決は共産党員の共同謀議を「空中楼閣」と断じた。そして、竹内景助の単独犯行として無期懲役、他の9人に無罪の判決を言い渡した。高裁、最高裁の判決でも、事実認定の基本線は変わらなかったが、竹内に対しては、2審で死刑判決が下され、1955年(昭和30年)6月22日の最高裁判決でも8対7の1票差で、2審判決が支持され、竹内の死刑が確定した。1967年(昭和42年)1月18日、再審請求中、竹内は充分な治療を受けられずに脳腫瘍のため、東京拘置所で死亡した。1審判決が下るまで、否認、単独犯行、共犯説、単独犯行、全面否認、単独犯行と、めまぐるしくその供述を変え、高裁での死刑判決直後、全面否定して以降は無実を主張した。「自白」以外に物的証拠は何もなかった。共産党シンパである竹内は、この事件の罪を自分1人でかぶることにより、逮捕されたメンバー、あるいは窮地に立った共産党を救おうと考えていたようである。

1958年(昭和33年)12月、東京高裁は控訴を棄却した。被告側は上告した。上告審には正木弁護士も弁護団に加わった。正木ひろしと鈴木忠五の2人の弁護人は綿密な調査によって李得賢と鈴木一男は事件のあった夜、丸正運送店に立ち寄る時間はなく、犯行は内部の人間で長男の井出栄太郎、その妻の幸子、次男の博であると断定した。
1960年(昭和34年)3月、真犯人を名指しした上告趣意書を提出。最高検にも再調査を依頼したが、数日後、調査の必要なしという回答がきた。
4月1日、正木ひろしと鈴木忠五の2人の弁護人は記者会見を行い、真犯人の3人を公表した。
5月2日、井出栄太郎ら3人は正木ひろしと鈴木忠五の2人の弁護士を名誉毀損で告訴した。
刑法230条(名誉毀損)・・・公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。
死者の名誉を毀損した者は、虚偽の事実を摘示することによってした場合でなければ、罰しない。
7月19日、最高裁は上告を棄却し、李得賢の無期懲役と鈴木一男の懲役15年の刑が確定した。
10月、正木ひろしと鈴木忠五の2人の弁護人の共著『告発 犯人は別にいる』が発行される。
『告発 犯人は別にいる』(実業之日本社/鈴木忠五との共著/1960)
10月27日、弁護側は事件のあった夜、李得賢と鈴木一男のトラックを見たと証言した2人の運転手を偽証罪で東京地検に告発した。だが、東京地検は不起訴処分とした。
刑法169条(偽証)・・・法律により宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは、三月以上十年以下の懲役に処する。
11月15日、逆に井出家の3人は正木ひろしと鈴木忠五の2人の弁護人を名誉毀損と誣告(ぶこく)罪で告訴した。
誣告・・・刑法172条(虚偽告訴等)・・・人に刑事又は懲戒の処分を受けさせる目的で、虚偽の告訴、告発その他の申告をした者は、三月以上十年以下の懲役に処する。
1961年(昭和36年)5月、東京地検は正木ひろしと鈴木忠五の2人の弁護士を名誉毀損で起訴した。
12月27日、東京地裁で名誉毀損の第1回公判が開かれた。2人の弁護人は井出家の3人を名指ししているのだから、名誉毀損が認められなければ、2人の弁護人の主張が正しいということになり、3人は犯人ということになる。だから、この裁判は事実上の再審裁判とみられた。
全国から十数人の弁護士が駆けつけ、推理作家の高木彬光も特別弁護人として応援し、マスコミの注目を集めた。
1962年(昭和37年)4月、東京第一検察審査会は井出らの不起訴は相当ではないと結論を出した。
1963年(昭和38年)12月、正木ひろしと鈴木忠五の2人の弁護士側は李得賢と鈴木一男の決定判決に対する第1回再審請求を提出した。
1965年(昭和40年)5月、東京地裁は正木ひろしと鈴木忠五の2人の弁護士に対し、「真犯人説の立証は不充分である。両弁護人は正当な弁護活動を逸脱した」として、正木ひろしと鈴木忠五に禁錮6ヶ月・執行猶予1年の判決を言い渡した。2人はただちに控訴した。
1966年(昭和41年)、「丸正事件後援会」発足。正木ひろしが弁護人となった「チャタレー裁判」の被告人の作家の伊藤整が会長に就任した。
チャタレー裁判」
伊藤整訳『チャタレー夫人の恋人』摘発事件(チャタレー裁判)・・・イギリスの作家D・H・ロレンスの長編小説『チャタレー夫人の恋人』を出版社・小山書店の社長・小山久二郎が作家の伊藤整に翻訳を依頼。1950年(昭和25年)4月から上下2巻、合わせて15万部あまりを発行してベストセラーになっていたが、6月27日、警視庁によりその内容の一部に刑法175条の「わいせつ文書」の疑いがあるとして、摘発・押収され、9月13日、東京地検から起訴された。検察側は小説に露骨な性的描写があると判断しての起訴だったが、一方で、性の問題を追究した芸術的・思想的作品として世界的にも評価されている作品でもあった。そうしたことから正木ひろし弁護士を主任とする弁護団に加えて、中島健蔵、福田恆存の2人の評論家が特別弁護人となり、文壇は被告側支援に立ち上がり、憲法21条の「言論・出版・表現の自由」とともに性と学問、芸術の関係に関わる重大問題として裁判闘争を繰り広げた。1952年(昭和27年)1月18日、東京地裁は伊藤整に無罪、小山に「刺激的な広告方法」なども取り上げて罰金25万円を言い渡した。12月10日、東京高裁では伊藤整に対し、共同正犯の関係にあるとして10万円の罰金、小山は1審と同じく25万円の罰金という判決となった。1957年(昭和32年)3月13日、最高裁でも東京高裁の判決が支持され、刑が確定した。文書が「わいせつ文書」にあたるかどうかは社会通念に従って判断すべきで、芸術性・思想性とわいせつ性は次元を異にする概念であると規定。刑法175条は憲法21条(表現の自由)に違反しないとした。ちなみに、チャタレー裁判で検察側の証人として斎藤勇(たけし)東大名誉教授が出廷しているが、1982年7月4日、孫(当時27歳)によって殺害されるという事件が起きている(斎藤勇東大名誉教授惨殺事件)。その後のサド裁判(『悪徳の栄え』事件/1961年に起訴、最高裁で抄訳した澁澤龍彦に罰金7万円、出版した現代思潮社の石井恭二社長に罰金10万円の判決下り確定)、『四畳半襖の下張』裁判(1973年に起訴、最高裁で永井荷風の名作『四畳半〜』を掲載した雑誌『面白半分』の編集長の野坂昭如に罰金10万円、発行者の佐藤嘉尚に罰金15万円の判決が下り確定)、『愛のコリーダ』摘発事件(1976年に起訴、東京高裁で著者の大島渚と出版した三一書房の竹村一社長に無罪判決が下り確定)などにおける「わいせつ文書」の基準としても踏襲されることとなった。
丸正事件を取り上げ、正木ひろしが解説したTBSのドキュメンタリー番組が、最高裁、最高検の中止要請で放映3時間前に突然中止が決定になった。
1971年(昭和46年)2月、東京高裁は名誉毀損の控訴を棄却した。正木ひろしと鈴木忠五の2人の弁護士はただちに上告した。
1974年(昭和49年)4月25日、鈴木一男が千葉刑務所を出所。改悛の情を示さなかったため、満期での出所となった。その後、まもなくして、鈴木一男は無期懲役で服役中の李得賢に面会し、涙を流して謝った。
1975年(昭和50年)12月6日、正木ひろしが死去した。79歳だった。死亡により公訴棄却。<
1976年(昭和51年)3月23日、最高裁は名誉毀損の上告を棄却。鈴木忠五は半年間、弁護士資格を剥奪された。
1977年(昭和52年)6月17日、李得賢は罪状否認のまま、仮釈放となった。同月、鈴木忠五(当時82歳)が弁護士資格を回復、活動を再開した。
この事件を元に描かれた小説に『誓いて我に告げよ』(角川書店/佐木隆三/1978)がある。
正木ひろしの著書・・・
『近きより(1) 日中戦争勃発 1937〜1938』(現代教養文庫/1991)
『近きより(2) 大陸戦線拡大 1939〜1940』(現代教養文庫/1991)
『近きより(3) 日米開戦前夜 1940〜1941』(現代教養文庫/1991)
『近きより(4) 空襲警戒警報 1941〜1943』(現代教養文庫/1991)
『近きより(5) 帝国日本崩壊 1943〜1949』(現代教養文庫/1991)
『正木ひろし著作集(1) 首なし事件・プラカード事件・チャタレイ事件』(三省堂/1983)
『正木ひろし著作集(2) 八海事件』(三省堂/1983)
『正木ひろし著作集(3) 三里塚事件、菅生事件。丸正事件』(三省堂/1983)
『正木ひろし著作集(4) 社会・法律時評』(三省堂/1983)
『正木ひろし著作集(5) 弁護士さん・評論・随想』(三省堂/1983)
『裁判官 人の命は権力で奪えるものか』(光文社/カッパブックス/1955)
『告発 犯人は別にいる』(実業之日本社/鈴木忠五との共著/1960)
『首なし事件の記録 挑戦する弁護士』(講談社現代新書/1973)
『検察官 神の名において司法殺人は許されるのか』(光文社/カッパブックス/1956)
『弁護士 私の人生を変えた首なし事件』(講談社現代新書/1964)
参考文献など・・・
『20世紀にっぽん殺人事典』(社会思想社/福田洋/2001)
『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)
『世にも不思議な丸正事件』(谷沢書店/鈴木忠五/1985)

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