海風通信 after season...

FLIGHT RECORDER #005 『城ヶ島・銀の輪』

FILE No.063-18.06.15


▲安房崎側から見る洞門というのも、実は珍しい?
現地調査日:2017年07月18日/2018年05月27日
対象所在地:三浦市三崎町城ヶ島・三浦市三崎町小網代
調査の目的:馬ノ背洞門・荒井浜笠懸
備    考:カブのイサキ第09話『銀の輪』参照のこと


◆馬ノ背洞門×ヒコーキ=やっぱりアレですか?

 今回のレポートは場所も特定されている上に、設定も詳細に描かれているにも関わらず、実はほとんどの事象において明確な根拠が見つけられないパターン。まぁ、そんなこと言っちゃ、『カブのイサキ』ほぼ全編を通してそうなんですけどね。
 物語の場所は「城ヶ島」、そしてあの巨大なアーチ岩は「馬ノ背洞門」をモチーフとしたものだということは、たぶん異論のないことでしょう。イサキの飛行ルートからも、安房崎側から島の裏側に回り込み、断崖絶壁に沿って東方面から馬ノ背洞門に辿り着いていることが分かります。
 馬ノ背洞門は、波風の浸食によって天然のアーチ橋を形成した、城ケ島を代表する景勝地。危ういほどのバランスで繋がっている岩の形状もスゴイのですが、さらに驚くのは関東大地震による隆起によって、陸上へと乗り上がってしまったという事実です。かつては洞門の下部分は海面に浸かっていて、小舟が通ることもできたそうですよ。関東大地震、恐るべしです。それにしても、よくアーチ部分が壊れなかったものですね。
 このアーチ部分、思わず渡ってしまいたい気分に駆られますが、風化浸食が激しいので、もちろん通行禁止です。でも、昭和中期の旅行ガイドブックなどを見てみると、当時は普通に渡っている人がたくさんいた感じですね。『銀の輪』作中で、アーチ部分に人がいっぱい立っている様は、そんなおおらかな時代の状況からイメージを得たのかも知れません。ちなみに、『カブのイサキ』第1巻1ページ目のカラーイラストにも、ひょっとして馬ノ背洞門かも知れないシーンが描かれていますね。(サイズが10倍になってないのが気になりますが。)
 …と、ここまでは明確で良いのです。問題なのは、あの『お祭りイベント』なのですね。
▲有名な洞門風景ですが、反対側に行くのは、けっこう大変。 ▲洞門のこっちっ側、初めてだ オレ。
 シロさんから依頼をもらって、城ヶ島で開催されるお祭りに参加することになったカジカとイサキ。そのお祭りの設定やら約束事が、セリフを通じてかなり細かく述べられています。まるでかつては、ホントに城ケ島でこのような神事があったのではないかと(もちろんヒコーキとかではないにしても)思わせられてしまいそうです。が、実際はいろいろな文献を調べ上げて見ても、そのような記述(*1)は見られませんでした。歩射や引目といった、いわゆる神社で行う一年の吉凶を占う弓射神事である『的祭り』というものの可能性も否定できませんが、そもそも島の代表的な神社は海南神社の分霊社であり、本家の三崎の海南神社が的祭りをしていないのに、こちらがしているとも考えにくいのです。
 まぁ、グダグダと細かいことを書いてしまいましたが、もっと直感的に、「乗り物に乗って、的を射る」という有名なお祭りが三浦にはあるということを、もう皆さんは気付いていると思います。そう、油壷の荒井浜で行なわれる『道寸祭り』の笠懸ですね。調べたところによると、笠懸や流鏑馬など、馬で的を射るという行事を行っているのは、三浦半島では油壷と逗子だけということです。そのような中、とりわけ城ケ島にも近く、より三浦らしさが感じられるであろうという観点から、今回、私はあえて油壷のお祭りを考察の題材とさせていただきました。
▲油壷・荒井浜海岸で行なわれる笠懸神事。 ▲カブの機体に描かれていた、雁股状の鏃は見受けられない。
 このお祭りの詳細については、別ページにてレポートした通りです。それらを踏まえた上で作品中の設定と比較して見てみると、的を射るというホントに大まかな流れは合っているものの、実際は『銀の輪』の作中とはかなりの点で異なっていることに気付かされました。
 まずは神事としてですが、この笠懸は的当てによって吉凶や縁起を占うというよりは、弓馬術の技量を競うために披露される「武芸」という趣きが強いのです。そして装束、イサキも時代がかった武者のような恰好をしている点で共通なのですが、笠懸では頭部に被るのは檜笠ではなく、烏帽子なのですね。これは見た目的にも大きな違いと言えます。(カジカが花嫁のような恰好をしているのは、結局ナゾのままでした。)さらには的の形状なども、全然違うものなのです。(※かつては、丸い同心円の描かれた霞的を使用していたということです。)
 こうした点から推察すると、実は逗子の流鏑馬の方が、条件としては合致しているように思えました。より儀式的であり、縁起を計る神事であるということ。頭部装束も射笠(綾檜笠)を着用しているという点。そして的も式的・板的・陶器の的と3種あり、この陶器の的が立体構造になっていて、内部に紙吹雪などの仕掛けを入れることができるということ…。これらのことから、芦奈野センセイはおそらく、笠懸よりは流鏑馬を参考にしてこのお話を作り出したのでは?と思えるのです。それにしても、この物語のタイトルにもなった「銀の輪」というアイテムについては、とうとうその発想のきっかけとなるような事象を見つけることはできませんでした。何か、見落としているものがあるのかも知れません。
 というわけで、なにやら逗子の流鏑馬のほうに軍配が上がりそうな気もしますが……う〜ん、でも雰囲気的には油壷の方が三浦半島的で、その長閑さが良いんですよねぇ。油壷と城ヶ島は、かつて定期船で繋がっていたという縁の深さも、なんとなく気になるところでもあります。
▲烏帽子をかぶる射手。イサキのは左の人の笠に近い。 ▲笠懸に使われる板的には、同心円も星(*2)も描かれてない。
 ところで、ヒコーキで流鏑馬のようなコトをするという突飛なお話は、一体どうやって発想したのでしょうか?こうしたことを考えながら、再び城ヶ島の馬ノ背洞門に立った時、昨年、遅ればせながらその存在を知ることになった、『グライダー広場』に思いが巡りました。
 「グライダー……。ラジコングライダーの縮尺目線で、馬ノ背洞門を見れば……。」
 これはあくまで私の事実無根の推測ですが、かつてラジコングライダーが城ヶ島南斜面の空を賑わせていた頃、誰かが腕試しと称して、グライダーを洞門の中にくぐらせていた、というようなヤンチャをしていたとしたら?そうした行為を芦奈野センセイが見ていた、もしくは耳にしていたとしたら……?
 
 行き過ぎた想像は止め処なく広がりますが、今はただ、潮騒だけが洞門を通して響いてくるのみです。


(*1)鎌倉時代、源頼朝を始めとする武将たちが城ヶ島に訪れた際に、遊戯として笠懸を行なっていたという言い伝えは確認できました。
(*2)的の中心部にある黒丸のこと。「図星」というのは、まさにこれのことです。
参考文献:三浦半島の伝説/田辺 悟 編著 
三浦半島の風物/石原正宜 著