御宿かわせみと川越


<目 次>
一両二分の女鬼の面雨月かくれんぼお吉の茶碗清姫おりょう宝船まつり長助の女房横浜慕情鬼女の花摘み江戸の精霊流し十三歳の仲人小判商人「御宿かわせみ」読本

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「一両二分の女 御宿かわせみ9 平岩弓枝 文春文庫 1990年 ★★
商用で江戸へ来た男が大金を持って次々と姿を消す。月に六両の生活費を五人の旦那で都合するという安囲いの女≠ェ関係しているらしい――表題作のほか七篇。大川端の旅籠「かわせみ」の女主人るい、年下の恋人で剣の達人・神林東吾、彼の親友で八丁堀同心の畝源三郎、名トリオの勘が冴えわたる江戸情緒ゆたかな人情捕物帳。
 川越から来た女

「鬼の面 御宿かわせみ13 平岩弓枝 文春文庫 1992年 ★
厄年の男は青鬼の、女は赤鬼の面をかぶるという節分の豆まきの最中に、日本橋の麻苧問屋の主人が倉の中で殺される。逃げていった男は鬼の面をつけていた。表題策ほか「麻布の秋」「忠三郎転生」「春の寺」など江戸情緒をたたえた名品六篇を収録。大川端の御宿『かわせみ』を舞台に展開される人情捕物帳シリーズ。解説・山本容朗
 春の寺

「雨月 御宿かわせみ17 平岩弓枝 文春文庫 1995年 ★
大きな荷を背に男が『かわせみ』の軒先で雨宿りをしていた。二十数年前に生き別れた兄を尋ね、本所深川の寺を廻っているという。兄弟は再会を果たすも、雨の十三夜に永久の別れを迎える。表題作ほか、「尾花茶屋の娘」「春の鬼」「百千鳥の琴」など七篇を収録。御宿『かわせみ』の面々がおくるおなじみの人情捕物帳シリーズ。
 尾花茶屋の娘
 春の鬼

「かくれんぼ 御宿かわせみ19 平岩弓枝 文春文庫 1997年 ★
御殿山のお屋敷の庭でかくれんぼをしていた源太郎と花世が、迷い込んだ隣家で遭遇した殺人事件。その背後には、一通の手紙を巡って西国の雄藩から前御台所までも巻き込む複雑な事情があったと分ったが、肝心の手紙の行方が杳として知れず……。表題作ほか「マンドラゴラ奇聞」「薬研堀の猫」「江戸の節分」など全八篇を収録。
 残月
 一ツ目弁財天の殺人

「お吉の茶碗 御宿かわせみ20 平岩弓枝 文春文庫 1998年 ★
「かわせみ」の女中頭・お吉が、大売出しの骨董屋で一箱一両の古物の山を買い込んできた。いい買物でしたと得意顔のお吉だが、掘り出し物には裏があり、数日後、骨董屋の主人が殺されて……。東吾の鋭い洞察が事件を解決する表題作ほか、「花嫁の仇討」「怪盗みずたがらし」など、お馴染みの人情捕物帳全八篇を収録。
 お吉の茶碗

「清姫おりょう 御宿かわせみ22 平岩弓枝 文春文庫 1999年 ★
轟く雷鳴の中、材木問屋の女主人が惨殺された。この殺人と宿屋を狙った連続盗難事件の陰に、いま江戸で評判の祈祷師、清姫稲荷のおりょうの姿がちらつく。果たして、その正体は? 表題作ほか、「横浜から出て来た男」「穴八幡の虫封じ」「阿蘭陀正月」など全八篇を収録。旅籠「かわせみ」を取り巻く人々の江戸情緒豊かな人情捕物帳。
 横浜から出て来た男
 蝦蟇の油売り
 月と狸
 春の雪

「宝船まつり 御宿かわせみ25 平岩弓枝 文春文庫 2002年 ★
東吾が花世や源太郎を伴って出かけた宝船祭で、村の幼児がさらわれた。時を同じくして、旅籠「かわせみ」に逗留していた名主の嫁が失踪。二つの事件を結びつける手がかりは、奇しくも二十年前の同じ宝船祭で起った子さらいなのか……。表題作ほか、「冬鳥の恋」「神明ノ原の血闘」「大力お石」「大山まいり」など全八篇を収録。
 冬鳥の恋
 大力お石

「長助の女房 御宿かわせみ26 平岩弓枝 文春文庫 2002年 ★
深川の長寿庵の主人であり、源三郎の下で岡っ引を長年つとめてきた長助が、お上から褒賞を受けた。町内あげてのお祭騒ぎの中、取り残されたように、一人ぼんやり店番をする女房おえい。が、そのおえいが気になる人物を見かけ、目の前で思わぬ事件がおこる。表題作ほか、「千手観音の謎」「嫁入り舟」「唐獅子の産着」など全八篇。
 嫁入り舟

「横浜慕情 御宿かわせみ27 平岩弓枝 文春文庫 2003年 ★★
源太郎、花世らを連れて外国船で賑う横浜を訪れた東吾。美人局に身包みはがされて、首をくくろうとした英国人船員のために、一肌脱ぐことになるが……。お馴染みの江戸情緒に、横浜の異国情緒が花を添えた表題作ほか、子供の頃別れた母と娘の切ない行き違いを描いた「鬼ごっこ」「鳥頭坂今昔」「鬼女の息子」など全八篇を集録。

 鳥頭坂今昔
   (前略)
 万三が手を止めた。油断のない体つきで東吾と向い合った。
「あんた、彦三郎を知ってたんだな。いや、あんたの探してた相手が彦三郎だったのか」
 東吾の口調は変らなかった。畑の道に立っている姿にはなんの緊張もない。
 万三がふっとうつむいた。
「あなた様は怖いお人だ。わしがあいつを追って行くのをみただけで、なにもかもお見通しか」
「彦三郎は昔、あんたに何をしたんだ」
「あいつは彦三郎じゃございません。川越に来た時は彦松でございました」
 今からざっと二十年も昔のことだといった。
「わしは川越の百姓で、女房は娘が八つの時に患いついて死にましたが、娘と二人、まあ幸せと思わなけりゃ罰が当る毎日で……」
 男手で育てた娘が十七になった時、村に行商で彦松がやって来た。
 月に一度くらいの割合で近在を廻り、女子供の喜びそうな品物を売って歩いていた男がどうやって自分の娘に近づいたのか、万三は全く知らなかった。
 気がついたのは、娘がかけおちを決めた日のことである。
「三日も前から大雨が続いていて、わしは田んぼの見廻りに出ていたんですよ。隣の婆さまがかけて来て、娘が彦松と江戸へ行く、むこうで落ついたら、必ずお父つぁんを迎えに来るから、それまでよろしくお頼み申しますと頭をさげて出て行ったと……婆さまは慌てて娘をひき止めたが、彦松が鳥頭坂の下の御代(ごだい)橋の袂で待っているからと、ふり切って行ってしまったと知らされて、わしは雨の中を走ったですよ」
 田から鳥頭坂までは遠かった。
 「お城の辰の方角で、坂の上に熊野神社があります。坂の下には不老川(としとらずがわ)が流れていて、その坂は、あそこの地蔵坂と同じで川へ向って突き出した恰好の坂でございました。鳥頭の首から頭へかけての形に似ているから鳥頭坂だと寺の坊さんが教えてくれたもので……」
 万三が顔を上げて、石神井川のむこうにのぞける鳥頭坂を眺めた。
「わしが坂の上までかけつけた時、娘は橋の袂に立っていましたで、わしは娘の名を呼んだが……」
 距離はあるし、降りしきる雨音で父親の声は娘に届きはしなかった。第一、その時、雨音よりもすさまじい川の音が御代橋へ襲いかかっていたものだ。
「わしには何がなんだかわからなかったんです。川の水が橋を押し流したのも、娘の立っていた所が岸ごとえぐり取られて川ん中へ消えちまったのも……傍へたどりついてみるまでは、なんでそうなったのか……」
 万三が黙り込み、東吾と源三郎は声を失って、その姿をみつめた。
 再び、万三が口を開いたのは、茶店の方角から客を送り出す女達の声が聞こえて来てからであった。
「あとで、わしは知ったですよ。彦松の厄介になっていた寺の和尚さんから、その朝早く、彦松が江戸に急用があるからと、俄かに旅立って行った。それも、娘の待っている御代橋のほうではなく、まるっきり反対の街道へ出る道をまっしぐらにかけて行ったと。それで、わしは何もかも合点がいったです」
 彦松は娘を玩具にし、かけおちの約束をしたものの、その日になって面倒になり、結局、約束の場所には行かず、おいてきぼりにした。
「川の水が増して、橋が流され、娘が死んだのは、運が悪かったのかも知れません。ですが、わしは彦松が憎い。八つ裂きにしても飽き足らんと思ったですよ」
 四十近い年で万三は故郷を捨てた。
 江戸へ出て、たまたま道中、知り合った人の口ききで煙管職人の家で働くことになったという。
 最初に落ついたのは駒込のほうだったが、たまたま王子権現へ参詣に来て、鳥頭坂の名を知った。
 娘が死んだ場所と、地形もそっくりなら、名も同じ鳥頭坂に、つい惹かれてこっちへ来ることが多くなり、茶店で働いていたおかつと知り合った。
「おかつという女はご亭主に死に別れて、八つの娘を抱えて、父親の残した田畑と茶店の手伝いで暮しを立てていたんです。死んだ娘も八つで母親をなくしてましたんで、そんな所も話が合って……おかつと夫婦になりましたんですが……」
 江戸へ去った彦松への怒りと怨みは消えなかった。
「それでも二十年の歳月が過ぎ、娘のおたみはいい亭主を持ちましたし、孫も三人……」
 忘れていた幸せが戻って来た今となって、日本橋川の袂で彦松をみつけてしまった。
「自分が自分でなくなりました。ただもう、橋の上に立っていた娘の姿と、川に流された時のことだけで頭の中が一杯になっちまって……」
 力を失ったように、草に腰を下した。
「人を殺せば、自分がどうなるか知らないわけじゃあございません。ですが、自分からお上に人を殺しましたと出て行く気には、どうにもなれませんで……申しわけのねえことでございます」
 すがるような目が、東吾に注がれた。
    (後略)
 有松屋の娘

「鬼女の花摘み 御宿かわせみ30 平岩弓枝 文春文庫 2005年 ★
花火見物に東吾と深川へやってきた麻太郎と源太郎は、腹をすかせた幼い姉弟を目にし、たまらず大福餅を買って貰い、すすめる。姉弟はどうも身内から折檻を受けているようで、気にかかって仕方ない。「かわせみ」次世代の子供たちの成長が頼もしく微笑ましい表題作ほか、全七編を収録。江戸の風物詩もゆたかな不朽の人気シリーズ。

 浅草寺の絵馬
      四
 お手柄はお石であった。
 川越から「かわせみ」へ帰ってきた高砂屋孝太郎が、床の間に真新しい位牌をおいて合掌するのを見て、
「それは、どなたのお位牌ですか」
 と訊いたのが、この一件を解決する端緒になった。
「実の母親のでおます」
 とお石に答えた孝太郎が、ふと涙を浮べ自分は捨て子だったと打ちあけた。
「浅草寺の御本堂の観音様の絵馬の前へおき去りにされて居りましたのを、養父母がみつけたそうで、このたび、浅草寺をお訪ねして、坊さまからその場所も教えて頂きました」
 高砂屋孝兵衛夫婦は、商用で江戸へ出て来て浅草寺へ参詣に行った。
「お袋様は前年に流産をして、この先、子は産めぬとお医者からいわれていたそうでございまして。他ならぬ浅草寺さんで廻り合うた子やさかい、観音様の御慈悲やと思い、坊さまに願って、手前を貰うたとのことでございます」
 それから二十三年経った今年、父親から一通の文をみせられた。
「浅草寺の坊さまからのお文で、手前が養父母に抱かれて上方へ去(い)んだ後に、ほんまの母親が浅草寺へ来たそうでございます」
 暮しに困って我が子を捨てたものの、後悔して浅草寺へやって来た。その母親の居所はこれこれじゃと知らせて来た文を、養父母は二十数年間、黙殺した。
「お袋さまが泣いて、いうて下さいました。赤ん坊の手前を死んでも返(か)やしとうなかったんやと……」
 江戸へ出て、浅草寺を訪ね、実の母親にも会って来るようにと養父母に勧められて、孝太郎は江戸へ出て来た。
「浅草寺へ参りまして、お年寄の坊さまからお話をうかがいました。あちらは捨て子がけっこう多いそうで、一人一人、きちんと書きつけにしてございます」
 川越へ訪ねて行ったのは実母に会うためだったが、その母親は昨年、病死していた。
「ええお方の後妻に入って、子も三人、今度、対面して参りましたが、三人とも人のよい、優しい弟、妹で、母は安らかな一生を終えたいうことがようわかりました」
 江戸へ戻って来て、改めて浅草寺を訪ね、新しく位牌を作ってもらって来たとのことであった。
「坊さまがおっしゃったことでございますが、子を捨てる親にも運、不運があるとやら。手前と同じように一度捨てた親がまた取り返しに来て連れて戻ったものの、年頃になってそのことが子に知れて、なんや、しっくり行かなくなってしもうたのか、その子が親を捨ててどこやらへ去(い)んで、未だに帰って来ん。親は六十を過ぎて、浅草寺さんの境内で飴売りをしながら、いつか我が子が戻って来るやも知れんと、観音様にお願いし続けて居る。ほんまに気の毒なことやと思いました」
 自分は養父母に慈しまれて成人し、店を継ぐまでになり、実母は川越でやはり幸せな生涯を終えた。
「それはそれで、観音様の思し召しやと納得して居ります」
 という孝太郎の話に、お石は感動して、それを東吾とるいの前で語った。
    (後略)

「江戸の精霊流し 御宿かわせみ31 平岩弓枝 文春文庫 2006年 ★
先頃、業者の紹介で「かわせみ」にやって来た女中のおつまは二十五歳、無口だが気がつき、勤めぶりにかげひなたがなかった。盆休みに故郷へ帰ったはずのおつまだったが、浅草界隈で男と一緒のところを目撃されてしまう。流されるように生きていく女の哀感を江戸の風物詩とともに描いた表題作ほか全八篇。

 野老沢(ところざわ)の肝っ玉おっ母あ
    (前略)
 夕方、東吾が帰って来た。
 畝源三郎が一緒である。
「鉄砲洲稲荷のところで出会ったんだ。たまには一杯やろうとひっぱって来たのさ」
 嬉しそうに嘉助にいっている声を聞いて、お吉は早速、台所へとんぼ返りをする。
 るいと千春に出迎えられて居間へ通り、着替えをする中に、お石が酒を運んで来る。
 そこで、お石の姉の話が出た。
「野老茶屋なら知っています。入ったことはありませんが、川越生れの主人が五、六年前に出した店で、まあ居酒屋に毛の生えたようなものですが、麦飯にとろろ汁が名物でけっこうはやっているようですよ」
 安価で腹一杯になるのが御時世柄、うけているらしいと源三郎がいう。
「姉さんの亭主は板前をしているのか」
 と東吾に訊かれて、お石は首をかしげた。
「もともと野老沢の人ですから、板前さんには無理な気がしますけど……」
 もっとも、山芋の皮をむいたり、すり下したりするのは、誰にでも出来る。
「同郷なのか」
「村は違いますけど……」
 お石の生れた村はその昔、久米川宿と呼ばれた宿場の近くらしいのだが、そこから眺められる八国山の麓に徳蔵寺という臨済宗の寺がある。
 八国山というのは、その山に登ると上野国の赤城山、下野国の日光山、常陸国の筑波山、安房国の鋸山、相模国の雨降山、駿河国の富士山、信濃国の浅間山、その他、甲斐の山々が見えるところから名付けられたそうだとお石は懸命に指を折って数えた。
 野老沢にいた時分、徳蔵寺の坊さんに教えてもらったことらしい。
「徳三さんは、たしか、そのお寺の近くの人だったと思います」
 会ったことは何回もないが、野老沢で採れる山芋を買い集めて川越の商家へ売りに行っていて、その中にその店へ奉公したというような話を大人達がしているのを聞いたことがあるという。
「徳三さんが江戸へ出て来ていたのも知りませんでしたし、姉さんが徳三さんの嫁になったことも……」
「姉さんはどういう縁で徳三の嫁になったんだ。そんな話はしなかったのか」
 徳三が山芋を川越の商家へ売りに出かけていたとすると、江戸の野老茶屋の主人は川越の人ということだから、案外、そういった線で徳三が野老茶屋へ奉公したのかも知れないと推量しながら、東吾が訪ね、お石は顔を赤くした。
「姉ちゃん……姉は自分から押しかけて嫁になったと……」
「そうすると、以前からいい仲だったのか」
「一昨年の正月に、徳三さんが村へ帰って来たんだそうです。徳蔵寺に用があったとかで、その時……」
「成程」
 久しぶりに故郷へ戻って来た男は江戸暮しが身についていて田舎娘には惚れ惚れするほどよく見えたのかも知れないと、東吾は口に出さなかったが、なんとなく微笑ましく思った。
    (後略)

「十三歳の仲人 御宿かわせみ32 平岩弓枝 文春文庫 2007年 ★
「かわせみ」へ奉公に来た頃は、山出しの猿公(えてこう)といわれたお石だが、女中頭のお吉の丹精の甲斐あって、気のつく働き者の娘に成長した。ある日、大店の嫁にという話がくる。一大決心で嫁ぐことにしたものの、お石も「かわせみ」の人々もその日を思うと何故かしら涙が出てきてしまうのだった。表題作ほか全八篇。

 十八年目の春
    
    (前略)
 初天神は一月二十五日。
 平川町にはその町名の起こりになったように江戸で屈指の天神社、平川天神がある。
 もともと、平川天神は文明年間に太田持資(のちの道灌)が川越三芳野の天神社を江戸城に勧請したのが、徳川家康が入国して後、いったん、平川口の外へ移され、更に現在の場所に落ち着いた。別当は天台宗、長松山竜眼寺となっている。
    (後略)

    
 新兵衛とおそのがかけおちしたのか、そうではないのか、生きているか、死んでしまったのか、とにかく十八年前に双方の親が手を尽くしてもわからなかったことが、今更、どうやって調べる方法があるのか、今、調べて判ることなら十八年前に明らかになっている筈だと東吾がいい、るいもこれ以上、他人の家の事情にふみ込む気持はなくて、丸屋と老松屋の確執に関してはそれっきりになった。
 考えてみれば、親子でも感情の行き違いや意見の相違などで憎み合ったり、疎遠になっている例は世間に少くない。
 三月二十五日のことである。
 今年は初天神に参詣しなかったから、とるいがいい出して、千春とお吉を伴って亀戸天神へ出かけ、帰りに千春がおねだりをして深川佐賀町の長寿庵へ寄ると、そこに畝源三郎と東吾がいた。
「お前達を迎えかたがた永代橋を渡って来たら、源さんと長助に会ってね」
 丸屋の新兵衛とおそのが帰って来たんだ、と聞いて、るいは仰天した。
「帰って来たというのは当りませんね」
 といったのは源三郎で、
「どちらも、父親が今年、還暦になったので、どんなふうか様子みがてら訪ねて来たといったところでしたよ」
 と苦笑する。
「やっぱり、二人はかけおちだったんですか。いったい、どこにいたんです」
 お吉がまくし立て、長助が我がことのように恐縮した。
「それがその、とんでもねえ所にかくれていやがって……」
 川越の在だといった。
「新兵衛の乳母(おんば)さんが一人暮しをしていたんです」
 新兵衛が五つの時に丸屋から暇を取って夫と川越へ帰ったが、その後、夫にも二人の子にも先立たれて僅かな田畑を作って暮していた所へ新兵衛はおそのを連れて頼って行った。
「乳母さんも一人っきりで心細かったから、下にもおかず面倒をみる。そこでおそのさんが身二つになったてわけでございます」
「赤ちゃんが出来ていたんですか」
 るいが感嘆し、お吉が合点した。
「それじゃ、かけおちせざるを得ませんですよね」
「たいしたものですよ」
 いささか皮肉をこめて源三郎が話した。
「その子が……女の子ですがね、十八、その下の男が十五。新兵衛は八年前から団子や饅頭を作って川越の御城下へ売りに出て、それがけっこう評判で、昨年は町はずれに小さな店をかまえたっていうんですから」
「だったら、なんで親御さんの所へたよりの一つもよこさなかったんですか」
 お吉の苦情に東吾が眉を寄せた。
「町役人から知らせがあって、源さんが新兵衛とおそのに会って話を聞いたそうなんだがね。要するに二人とも、親がうっとうしかったのさ」
「我々も親として考えておかねばなりませんね」
 満更冗談でもない口調で源三郎が続けた。
「新兵衛は子供の頃から、威張り散らす父親が怖くて好きになれなかったそうですし、おそののほうは物心つく時分から娘にべったりの父親を重荷に感じていた。特に、父親がお前のために後添えをもらわなかった、お前のために不自由なやもめ暮しをしたといわれるのが、ほとほと嫌だったそうです」
「そんな勝手な。親御さんはどんな思いで我が子を大事に育てたか。親の苦労も知らないで、よくそんなことがいえますね」
 子供のないお吉が憤慨し、子供のある長助がぼそりといった。
「まあ、親の気持ちなんてもんは、自分が子を持ってみねえとわからねえといいますからねえ」
「それじゃ遅いんですよ。第一、新兵衛さんもおそのさんも自分の子供を持ったんじゃありませんか、少しは親の気持ちが……」
「わかるようになったから、還暦にもなっている親の様子をみに、川越から来たんだろうよ」
 冴えない顔で東吾がいい、源三郎がうなずいた。
「しかし、お吉さんのいうように遅すぎましたよ」
 丸屋はつい三日前に、おつねと与之助の仮祝言を行っていたし、老松屋もそれを聞いて親類から養子を迎える話を決めている。
「それじゃ、帰りたくても、二人とも帰れませんね」
 お吉がかっがりし、源三郎が冷えた酒に口をつけた。
「少くとも、親子の仲を修復するには遅すぎたってことですな」
 新兵衛とおそのは各々の親の家に一泊もせず、今夜の舟で川越へ帰るといった。
 女達が蕎麦を食べ終え、まだ長助に用があるという源三郎を残して、「かわせみ」の一行は大川端町へ向った。
    (後略)

「小判商人 御宿かわせみ33 平岩弓枝 文春文庫 2008年 ★
長助の近所の質屋に空巣が入った。犯人を捕えて取り戻した銭箱に、メキシコ・ドルラルと呼ばれる洋銀が一枚……。日米間の不公平な通過両替を利用し、闇の両替で私腹を肥やす小判商人を追って、東吾や源三郎、そして麻太郎と源太郎の少年コンビが活躍する表題作をはじめ、騒然とした幕末の世情と揺れる人の心を描く七篇を収録。

 手妻師千糸大夫
    (前略)
 卵焼が運ばれて来て、東吾はお秋母子に勧めた。
「かまわず食べなさい。俺は甘いのは苦手でね」
 お秋が礼をいって、娘の前へ皿を近づけたてやった。娘は素直に箸を取る。
「この子、お伊乃っていうんです。父親の名が伊太郎というものですから、父親の父親、あたしには舅に当る人がつけてくれました」
 川越の雑穀問屋で武蔵屋という店の主人がお秋の夫だという。
「上方の大店へ修業に来ていて、むこうで知り合ったんです」
 武蔵屋では代々、当主になる男は大坂の万石屋という店へ奉公して商売のいろはを学ぶことになっているのだと、お秋は話した。
「万石屋っていうのが、お主筋に当るんだとか。うちの人も十五で大坂へ来て十年間、働きました」
「菊花亭秋月を見初めたんだな」
「最初はそうでしたけど、万石屋の大番頭さんが心配して、あたしに会って下さいまして、幸い、気に入られたかして、本気で苦労する決心があるのなら、芸人をやめろ、万石屋に女中奉公出来るよう、旦那様にお願い申してやるといわれましてね」
 そのかわり奉公している中は伊太郎と口もきいてはいけない、他人のままで辛抱するようにと命じられた。
「あたし達、丸一年いいつけを守りました」
 伊太郎が十年の奉公を終え、川越へ帰る時、つられて武蔵屋へ行った。
「すんなり行ったわけじゃありませんでしたけど二年目に姑さんが舅さんを取りなしてくれて祝言をあげ、翌年、この子が生まれました。あとは信じられないほど順調で……」
 さりげなく話しているお秋の目のすみに涙がたまっているのを見て、東吾はお秋の苦労が想像出来た。
「あんただから出来たんだな。あんたはいつも死にもの狂い、一生懸命の女だったから……」
 鰻が運ばれて来て、お秋はそっと袖口で涙を拭いた。
「実をいうと、万石屋の大番頭さんは、あたしの師匠の乾坤坊玄細斎を贔屓にしていて下さって、その筋から道がついたんですけどね。玄斎師匠からいわれたんです。人間死ぬ気になれば辛抱出来ないことはない。江戸でお前を助けて下すった若先生や麻生宗太郎先生、お役人の畝源三郎旦那のお顔を潰さないよう、しっかりやれと……」
 東吾が渡してやった山椒の粉を鰻にふりかけながら、また、涙声になった。
「あんたが、川越の大店のお内儀さんになっていると知ったら、源さんも宗太郎も大喜びするだろう。俺も満足だ」
「本当に、そう思って下さいますか」
「思うとも……但し、菊花亭秋月ほどのいい女に、それほど苦労させて女房にした、あんたの御亭主が、いささか面白くないがね」
「また、そんな嬉しがらせを……」
 恥かしそうに鰻飯を食べはじめた。
    (後略)

「「御宿かわせみ」読本」 平岩弓枝編 文春文庫 2003年 ★
累計1000万部を突破した人気シリーズ「御宿かわせみ」。その世界を著者自ら語るインタビューをはじめ、「かわせみ」を演じた俳優たちの楽屋話や当時の江戸の町の地図、人名録、蓬田やすひろの絵入り名場面集など、その魅力を余すところなく詰め込んだ一冊。また、文庫化に際し、『「御宿かわせみ」ここが知りたい!』を特別収録。

 御宿かわせみの世界


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作成:川越原人  更新:2020/11/02