千葉市の沿革 昭和初期

陸軍関係の学校・施設

1908(明治41)年6月の交通兵旅団と鉄道連隊第2大隊の椿森移転以来、本市には陸軍歩兵学校、気球聯隊など多くの陸軍施設が中央区(椿森、弁天)や稲毛区(作草部、天台、穴川、小仲台、園生)の台地に集積し、その総面積は約462ヘクタール(約140万坪)に及びました。
現在、跡地は、学校や公園、公共施設などに利用されています。

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千葉空襲

1931年(昭和6)年9月の満州事変、1937年(昭和12)年7月の日中戦争に続き、1941年(昭和16)年12月8日、太平洋戦争が勃発し、1945年(昭和20)年8月の終戦まで15年間にわたる戦争の時代が続きました。
1944(昭和19)年7月から8月にかけてマリアナ諸島(グアム・サイパン・テニアン)を占領した米軍は、B29による日本の本土空襲を開始しました。
千葉市への空襲は数回ありましたが、米軍資料によると、米軍が明確に千葉市を目標としたのは、1945(昭和20)年6月10日と7月7日(七夕空襲)の2回でした。この空襲により、中心市街地の約7割が焼け野原となりました。2回の空襲により死傷者は1,595名、被災戸数8,904戸、被災者数4万1,212人に及びました。


戦後復興

1945年(昭和20)年8月15日、ポツダム宣言の受諾により、太平洋戦争が終結しました。空襲による家屋の焼失、物価高騰、食糧不足など、市民生活は困窮を極めました。しかし、そのような苦しい中、人々は必死で復興に向けて立ち上がりました。
終戦後、政府の「戦災復興計画基本方針」に基づき、千葉市は都市計画委員会を中心に、戦災復興院、県などと協議を重ねて本市の復興計画を立案、1946(昭和21)年6月27日に117万坪(386.8ha)の事業認可を受けました。
この計画により、国鉄千葉駅、国鉄本千葉駅、京成千葉駅の移転を中心として道路、公園などの整備が行なわれ、昭和55年に事業は完了しました。

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栄町通り