千葉市の沿革 室町時代

分裂

室町時代以後、千葉一族は次第に分立・独立することによって衰退していきました。
やがて室町幕府の出先機関である鎌倉府の内部において鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏の問に内紛が生じると千葉一族もその争いに巻き込まれて両派に分かれて争うようになりました。
そして1455(康正元)年に公方派であった千葉一族の馬加康胤や原胤房は、上杉派であった干葉介胤直の居城、干葉城を攻めました。この戦いで、330年にわたり繁栄した城下町は灰燼に帰しました。康胤は、多古に逃れた胤直一族を追い、これを滅ぼしました

本佐倉城へ

干葉氏宗家を継承した康胤の孫輔胤、その子孝胤は、文明年間末頃、本拠地を印旛郡酒々井町の本佐倉城に移し、下総国一帯に勢力をふるっていましたが、第1次国府台合戦、第2次国府台合戦を経て戦国時代後期には小田原城を本拠地とする後北条氏に従うことになりました。そして、1590(天正18)年、干葉氏最後の当主であった千葉介重胤は、豊臣秀吉による北条征伐の際、小田原城に寵城したため所領を没収されました。
こうして関東の名族として重きをなした千葉氏は滅亡し、約470年にわたる下総国を中心とした房総半島北部の支配に終止符を打ちました。


土気城と「酒井氏」

酒井家の始祖「酒井定隆」は、1435(永享7)年、遠江(静岡県)に生まれ、古河公方の足利成氏や安房の里見氏に仕えた後、土気城を拠点として活躍しました。定隆の子の代で土気城の定治と東金城の隆敏に分かれましたが、両酒井氏は、小田原北条氏や下総の千葉氏と安房の里見氏との間にあって第1次・第2次国府台合戦を戦い抜きました。
しかし,堺市は576(天正4)年には北条氏に帰属し、1590年(天正18)年の豊臣秀吉による小田原合戦の際に滅亡しました。土気城は酒井氏5代100余年の居城でした。