千葉市の沿革 江戸時代

江戸時代の千葉市域

1590(天正18)年、徳川家康は北条氏滅亡後の関東に移され、約250万石の領地を支配する大名となり、関東各地はその一族や家臣が配属されました。現在の千葉市域は佐倉藩領、生実藩領、幕領(天領)、旗本の知行地などに分割支配されました。

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江戸時代の支配状況

生実藩主「森川氏」

江戸時代、干葉市内に陣屋を持つ唯一の大名・生実藩の森川氏。森川氏は、織田家に仕え、「堀部(堀場)氏]を名乗っていましたが、1565(永禄8)年、氏俊のときに徳川家康に仕え、「森川氏」を名乗りました。初代藩主の重俊は「大阪の陣」で活躍し、1627(寛永4)年生実藩1万石の大名に封じられ、生実に陣屋を置き、1871(明治4)年の廃藩置県にいたるまで森川氏は12代250年にわたり、この地を支配しました。

御成街道と御茶屋御殿


御成街道は、1614(慶長19)年大御所・徳川家康が東金へ鷹狩に行くために、佐倉藩主・土井利勝に命じて、わずか三日三晩(実際には10日前後)で造らせたという。船橋から東金までの全長37キロメートルの街道で、別名「一夜街道」、「提灯街道」などといわれています。



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御茶屋御殿跡 (若葉区御殿町)

御茶屋御殿

徳川家康が東金への鷹狩りのために休憩・宿泊所として造営されたものです。この御殿の外に「船橋御殿」や「東金御殿」、「土気の茶亭」が設営されましたが、これらは1671(寛文11)年頃に取り払われました。家康のために、全国に40近くの御殿が造られましたが、全面的に遺構を止めているのは「御茶屋御殿」のみです。
御殿跡は、御成街道から約180m入った所にあり、1辺約120mの方形で、周囲に幅約5m、深さ約3mの空堀と高さ約2mの土塁がめぐらされ、南北2か所の出入□にはかつて枡型の土塁が築かれていました。全面的な発掘調査の結果、内部には御主殿・広間・近習部屋・賄所等のある建物や従者の大長屋、番所、馬屋、鷹部屋等の建物、井戸等があったことが確認されています。