千葉市の沿革 奈良~平安

古墳時代

水田耕作を中心とした農耕は、「むら」を発展させました。農耕の共同作業は指導者を生み、さらに指導者は有力者となり、やがて「むら」を統括する首長隣、支配者になっていきました。支配者は、権威の象徴として墳丘を持つ古墳を築きました。この時代を古墳時代と呼び、前期、中期、後期の3期に区分します。
市内には、4世紀末から5世紀初頭頃にかけて、大覚寺山古墳(中央区生実町)や七廻塚古墳などの大規模な古墳が築かれました。後期(6世紀後半~7世紀)になると、人形塚古墳(緑区おゆみ野)などの築造を最後に、大化の薄葬令(646年)の影響をうかがわせる小円墳を主体とした群集墳を築く時代へと推移し、さらに方墳郡の築造をもって古墳時代は終わりを迎えます。後期頃には「むら」の数や規模も拡大し、人口が増加したと考えられています。

奈良・平安時代

奈良時代には、律令制に基づく治世を行なうために地方行政単位ごとに役所が設けられます。しかし、「墾田永世私財法」(743年)などの土地法の変更と律令体制の弱体化は、有力な社寺・貴族らによる土地私有化を後押しし、千葉にも八条院領千葉荘が成立しました。また争いごとの調停者として新たな権威(武家)が求められていきます。