第2章 映画作品

第3節 『人生狂騒曲』

 キリスト教を題材にいかに生きるべきかを描いたモンティ・パイソンは、間にライブフィルム『LIVE AT THE ハリウッドボウル』(監督:テリー・ヒューズ&モンティ・パイソン)を挟み、人生の意味とは何かをテーマに映画を制作した。この究極的哲学的命題を抱えた映画『モンティ・パイソン人生狂騒曲』では、初心にかえりオムニバスの構成がとられ、誕生から死、そしてあの世までが描かれる。監督は引き続きテリー・ジョーンズが担当している。

 といって、深いテーマだからといってもモンティ・パイソンであるが故、遊びは忘れない。冒頭いきなり本編とは関係ない事になっている短編映画『クリムゾン 老人は荒野を目指す The Crimson Permanent Assurrance』が始まる(このパートのみテリー・ギリアムが監督)。不当に虐げられ働かされる老人の反乱を描いた短編が終わると、いよいよ本編が始まる。

 場所はレストランでいつ料理されるかわからない水槽の中。それぞれモンティ・パイソン6人の顔をもつ6匹の魚の朝の挨拶から始まる。水槽の外では友人の魚ハワードが料理となって食べられている。「生きるってなんだ?」「知るか」

 以下、出産、同第三世界編(序で紹介した部分)、学習、戦うこと、映画の折り返し、中年、臓器移植、晩年、人生の意味、死と続く。だが、あらゆる場面で深刻な問題ははぐらかされ、結局人生の意味について納得のいく回答は導かれてはこない。それどころか人生は無意味であるかのように描かれていく。

 女は病院で子供を生むが、出産の場に夫(アイドル)は立ち合えず、出産は一般にショーとして公開される。カトリックたちは精子を神聖視し、そのため多くの子供たちが生まれるが、彼等は結局人体実験用に売られ、無駄に死んでしまう。中年夫婦(ペリン、アイドル)は中世英国地下牢風ハワイ料理店で今まで考えたこともない人生の意味を考えるが、何について論じているのか自分でわからない。臓器提供の資格を持つ男(ギリアム)は生きたまま肝臓を奪われる。ウェイター(アイドル)はカメラに向かって自分にとっての人生に意味を語る。「ある日母が幼い僕をひざにかかえていった。ガストン、世界はとても美しいわ。世界へ出てみんなを愛すのよ。みんなを幸せにし平和と安らぎを与えなさい。それでウェイターに」自分の処刑方を選ぶことを許された囚人(チャップマン)は、自由を与えられ、そして死んでゆく。

 人生とは何かという問いにことごとく無意味な回答を提出し続け、映画の終わりに司会者(女装したペリン)は一つの回答として文章を読み上げる。「生きる意味とは、健康に気をつけ、良書を読み、全ての人と仲良くすること」そして文章の書かれた紙を放り投げ、まるで関係のない映画についての雑談を始める。「ところでついに待望の究極のポルノが完成してひさびさに映画界が活気づいてるわ。家族向け映画くそくらえよ。人々が求めてるのはスプラッタにフリークス、バイオレンスにセックスよ。それこそ映画だわ!」

 人生の意味を探る映画でありながら、その回答を放り投げ、結局は人生は無意味であるということを肯定し、無意味であるのだからこそ人生を楽しもうという、いわば『ライフ・オブ・ブライアン』と同じ回答がここにある。人生は無意味であるのだから争いだって下らない。クレジットの後に字幕が表われる。「出演して下さった魚の方々に感謝します。我々は将来世界中の魚類がお互いに食い合う事をやめ、形や色の違いを超えて平和な魚類社会を築く事を心から望みます」そう、我々は冒頭で現われる魚たちと同様、無意味な存在なのだといっているのである。

 そして、哲学的命題にそれは無意味なものだと回答し、現われるのは「空飛ぶモンティ・パイソン」のタイトルアニメの映るテレビである。テレビは宇宙を漂っていき、やがて見えなくなる。モンティ・パイソンは去り、そのままこの映画が最後の作品となった。


最後の作品 その後発表されたCD、パソコン用CD-ROMがあるが、それらは過去の作品の再構成なので実質『人生狂騒曲』を最後と考えることにする。

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