第1章 テレビ『空飛ぶモンティ・パイソン』

第1節 ギャグ


 1969年10月5日に始まった新番組『空飛ぶモンティ・パイソン』は、その第一回の放送で、大いなる決意を示している。ジョークが埋葬され、永遠に消えるのである。つまりは、新たなるジョークの誕生を示唆する。彼らが新しいジョークを作り出すという意思表示ともいえるだろう。そのスケッチは以下のようなものである。(括弧内はキャスティング)

 ある一人のジョーク作家(ペリン)が、ある新しいジョークを思いつき、原稿に記す。彼はそれを読み返し、そしてあまりのおかしさに笑い死ぬ。異変に気付き部屋へ入ってきた妻(アイドル)が落ちている原稿を読み、同じく笑い死ぬ。喜劇に襲われた家に警察が介入、笑い死にを避けるためレコードで葬送曲を流し警官達に哀歌を歌わせ一人の警官(チャップマン)がジョークを回収しに行くが、彼も笑い死ぬ。このジョークに軍が目を付ける。様々な実験の結果このジョークは50ヤードまで殺人効果を発揮することが判明。ドイツ語訳が行われる。一人一語ずつ翻訳させるようにしたが、誤って二語見てしまった一人が入院。完成した殺人ジョークはアルデンヌの戦いで初めて使用され、大きな威力を発揮、ドイツ側は死傷者が激増する。ドイツ将校(クリース)は捕虜の兵士(ペリン)からジョークを聞きだすが、やはり笑い死んでしまう。ドイツは対抗して独自にジョーク兵器開発にのりだすが、どれもこれもつまらない。1945年、戦争が終わり、ジョークも終わった。ジュネーブ協定でジョーク戦争は禁止され、1950年、最後まで残っていたジョークが埋葬され、永遠に消えた。墓碑には「無名ジョークの墓 To the unknown Joke」と記された。

 第一回の放送は、このスケッチを最後に終わる。いよいよ本格的に新しいギャグがやってくる、それを見せるのはこの番組の我々だ、という意思表示が「ジョークが死ぬ」ことに表されているのだ。ジョークは死に、モンティ・パイソンの作品として生まれ変わってくるのである。

 それでは、モンティ・パイソンの作品とはどのようなものなのか。一見して判ることは、本題を無視した会話が非常に多いことである。例えば、第一回放送、「これが芸術だ」という対談番組形式のスケッチ。ゲストは大物映画プロデューサー、エドワード・ロス(チャップマン)。インタビュアー(クリース)との対談が始まるが、インタビュアーはロスの名の呼び方にばかりこだわる。

 「エドワード、エドワードって呼んでもいいかい? いや、呼び方ってのは重要でね、特にこういう番組の場合だと。それじゃあテッド、テッドと呼んでも? 短くていいからね。僕のことはトムと呼んでくれ。それじゃあエディ坊や、君がそもそも」

 このようにして呼び名は次々と変わり(以下シュガープラム、プシーキャット、エンジェル、フランク、フラニー、エドワード卿)、プロデューサーは怒り映画についての話は進まない。

 続いてのゲストは作曲家アーサー・ジャクソン(ジョーンズ)。何故かミドルネームに「物置2つ Two Sheds」と入っている。インタビュアー(アイドル)は何故物置2つなのかということばかり質問する。怒り出す作曲家。今度は真面目にやると言った矢先に背後のスクリーンに物置のスライドが映し出され、結局話は進まない。

 第六回放送、芸術鑑賞の時間。偉大な音楽家、ヨハン・ガンボルプティ・デ・フォン・アウスファン・シュプレンデン・シュリター・クラスクレンボン・フリード・ディガー・ディングル・ダングル・ドングル・ドゥングル・バースタイン・フォン・ナッカー・スラッシャー・アップル・バンガー・ホロヴィッツ・ティコレンスィック・グランダー・ノッティ・スペルティンクル・グランドリッヒ・ミッツ・ワイマーク・ルーバー・ハンズフット・ガンビレイバー・シュネンダンケル・カルブスフレイッシュ・ミトラー・オウチャー・フォン・ハウトコープト・オブ・ウルム について。生存しているカール・ガンボルプティ・デ・フォン・以下同(ジョーンズ)にインタビュー。カール、インタビュアー(クリース)共にわずかな質問、返答の度にこの長い名前を繰り返すばかりで話は一向に進まない(都合六回繰り返される)。

 このように、本題は別にありながら、登場人物たちは常に他のことに気をとられる。これは、いくつかに分類されるモンティ・パイソンの特徴の一つではなく、むしろモンティ・パイソンの特徴の基本となっている部分であるといえる。それはあらゆる面においてそうであり、モンティ・パイソンでは常に何らかの状況にズレが生じていることから笑いが生まれる。それは笑いそのものの基本であってモンティ・パイソンばかりのものではないという意見もあるかもしれない。確かにそうともいえる。しかし、モンティ・パイソンについていえば、そのズレにこちら側の予想のつかなさがあるのである。

 例えば、今時これで笑いがとれはしないが、バナナの皮で滑って転ぶ、というギャグの古典がある。これなどは、予想のつくギャグの典型であろう。登場人物が歩いていて、突如転んでも観客は何故転んだのかわからないので、前もってバナナの皮の存在を知らせておく。伏線が張られているので、観客はバナナの皮が何らかの役割を果たすことを予想している。しかしモンティ・パイソンのギャグの起爆力が大きいのは、何らこちらが予想しない出来事が次々とおこるからである。

 アメリカンコミックのヒーロー、スーパーマン(ペリン)。しかし、彼はここではまるで目立たない。何故か? ここはスーパーマンの国で、誰もがスーパーマンだからである。一人のスーパーマン(ジョーンズ)が自転車に乗っていて転ぶ。少年スーパーマンが大人スーパーマンたちに知らせる。大変だ、自転車で転んだ。スーパーマンたちは慌てふためく。どうしよう。こんな時自転車修理マン Bicycle Repair Manがいてくれたら。それを横で聞いている冒頭のスーパーマン。「あ、あれはなんだ」皆の視線がよそを向いている隙に彼は自転車修理マンに変身する。「事故の現場はどこだい」現場へ向かう自転車修理マン。道路工事をしているスーパーマンたちが彼を見つけて口々に叫ぶ。「株の仲買人か」「測量技師か」「教区委員か」「いや」「自転車修理マンだ!」自転車修理マンは修理を終えるとどこともなく去っていく。「彼こそ僕らのヒーローだ」(放送第三回)

 凡庸な喜劇なら、スーパーマン登場によって彼が正義のためにどれだけ周囲に迷惑をかけているかを描くかもしれない。しかし、始まっていきなりその予想は覆され、スーパーマンしかいないことが説明される。となるとこれはスーパーマンの日常世界なのか。自転車で転ぶスーパーマン。日常ではなく事件だ。英雄であるスーパーマンしかいないのだから、きっと総動員でこの事態を回避するというスペクタクルコメディを見せてくれるのだろう。しかしスーパーマンたちはなすすべもない。そこへ自転車修理マン登場。いきなりスーパーマン以外のヒーローである。しかも自転車修理工。(私が)差別的といわれるのを覚悟でいえば、いわば社会の底辺の職業ともいえなくもない。それが英雄なのだ。ましてや、これは階級社会イギリスの番組である。我々日本人が考える以上に意表をつく展開以外のなにものでもなかろう。

 いうなれば、その展開に必然性がまるでないのである。バナナの皮で転ぶのは、人が歩き、その先にバナナの皮があるという組み合わせから必然的に導かれるものであるが、スーパーマンのヒーローが自転車修理工である必然性はなにもない。逆にいえば、自転車修理工でなく、それが牛乳配達人でも税理士でも教師でも大学教授でも八百屋でも、あらゆる「スーパーマン以外の立場のもの」であれば何だってよいのである。いくらでも可能性の残っている状態で、流れが一本に絞れていないため、観る側は何が起こるかまるで予測出来ない。そこへ突如自転車修理マンとなれば、そのズレの大きさだけに大きな笑いへと転化するのは必至であろう。

 このことから、ズレを作り出すのは、異質なものの組み合わせが有効であることが見えてくる。上記のスーパーマンの英雄自転車修理マンもその例であるし、他にもピカソが自転車に乗りながら絵を描くのに挑戦(第一回)、狩りと芝居が生き甲斐のインディアン(第六回)、スペイン人が歌い踊りながらラマについて説明する(第九回)など、数え上げたらきりがない。つまりは、作り手の側に非常に大きな想像力が要求されるのである。

 以上がモンティ・パイソンギャグの大きな独自の特徴であるが、もう一つ、彼らが描くスケッチの多くが、先の「自転車修理マン」でも触れたように階級差別、及び人種偏見に対してかなり意識的であるということについて述べておく。

 その典型的な例。イギリス郊外(と思われる)に住む初老の労働者(に見える)夫婦(夫:チャップマン、妻:ジョーンズ)。そこへ、都会(と思われる)に出ていった息子(アイドル)が帰ってくる。息子は身なりをきちんと整えている。母は泣き崩れるが父は出ていった息子を許さない。「炭坑夫なんて仕事がそんなにいいのか」息子は都会へ出ていったと(我々に)見せかけて、親に逆らって、労働者中の労働者、炭坑夫の道を選んでいた。では父はなにをしているのか。父は文化人で、著名な作家であり、上品な炭坑夫の息子を罵る。出ていき際、息子は父に言う。「いつかわかるよ、父さんにも芸術より労働の汗の尊いことが」「出ていけ、労働者め!」(放送第二回)

 本来なら炭坑の町を捨て都会へ出ていった息子が炭坑夫の父に罵られるのがいわゆる一般的イメージなのだが、ここでは芸術を捨て、(それよりも劣るという一般的イメージを持つ)炭坑を選ぶということが価値の逆転を生み、笑いを生じさせている。

 人種偏見については「SFスケッチ」というものがある。ある日イギリス上空にUFOが出現、怪光線を放ち、イギリス人を次々とスコットランド人にしてしまう。号外では「人間がスコットランド人になる」と発表(英国人が、ではない)。イギリスはパニックに襲われる。(放送第七回)

 といってモンティ・パイソンが下層階級や他人種に対して差別的なのかというとそうではなく、それは以下のようなスケッチを見るとわかる。

 「上流階級アホレース The Upperclass Twit of the Year」上流階級出身の五人の男たちが、非常に無意味な障害物競走をする。二段に重なったマッチ箱を飛び越えたり、車を運転して道行く老婆をひき殺したり、女の下着を脱がせたりといった、単なる下らないものから上流階級だから許されるということになっている(と思われる)いくつかの障害を乗り越え、優勝を争うというもの。レース参加の五人(ギリアム以外の五人)は表情から行動の全てにわたってアホそのものを演じ、徹底的に階級社会を揶揄している。つまりは階級差別にのっとった「正しい」差別をしているのでなく、階級差別という制度そのものをからかっているのだといえよう。こういった階級、人種についての彼らの姿勢は第2章で触れることにする。


ジョーク 本編中で‘joke’と呼ばれるのでそれにしたがったが、本論文中の「ギャグ」と同意と判断する。↑戻る

捕虜の兵士(ペリン) モンティ・パイソン作品は自らが出演することを前提とした作品作りを行っているため、登場人物が増えると一人何役も掛け持ちすることとなる。なお、これはギャグとしては扱われない。↑戻る

スーパーマン 原題 'Superman', 1938〜, DC COMICS、小野耕世『バットマンなりたい-小野耕世のコミックス世界-』、晶文社、1974年、pp.102, pp.170 ↑戻る

ピカソ 1881〜1973年, 近代の代表的画家、代表作『泣く女』『ゲルニカ』 ↑戻る

インディアン 今なら「ネイティブ・アメリカン」。しっかり書いておかないとうるさい奴がいるんだよ。↑戻る

空飛ぶモンティ・パイソン VOL.1 空飛ぶモンティ・パイソン VOL.2 スーパーマン ディレクターズカット版


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