第2章 映画作品

第2節 『ライフ・オブ・ブライアン』


 夜空に星が流れ、砂漠を三人の賢者(チャップマン、クリース、ペリン)が駱駝でやってくる。一軒の家を見つけ中に入ると、母(ジョーンズ)と生まれたばかりの赤ん坊がいる。賢者たちは言う。我々はこの幼子にお仕えするために主に導かれやってきた。幼子は神の御子であり救世主でありユダヤの王であるのだと。幼子の名はブライアン Brian。母に贈り物を渡し、ブライアンにひざまづき去っていく賢者たち。しかし賢者たちは家の外で何かに気付くと、再び戻り母の手から贈り物を奪い取る。彼らはそのまま隣へと進む。そこには後光の射す両親に見守られた赤ん坊のいる馬小屋がある。

 『モンティ・パイソン・ライフ・オブ・ブライアン』は、イエス・キリスト Jesus Christと同じ日に生まれた男、ブライアン(チャップマン)の人生を描く、モンティ・パイソン三本目の劇場用映画である。監督はテリー・ジョーンズが担当。この作品では、『ホーリー・グレイル』にも増して大きな、西洋世界に生きる人々の精神の拠り所であるキリスト教を題材としている。

 時は西暦33年、舞台はローマ支配下のユダヤ、エルサレム。母と二人暮らしの青年ブライアンはユダヤ人であり、支配者ローマ人を憎んでいる。ある日母と共に家に帰るとブライアンの見知らぬローマ兵が母を待っている。母はローマ兵に体を売ることで生計を成り立たせていたのだ。母をなじるブライアン。しかし母はブライアンに打ち明ける。お前の父もローマ人なのだ。ブライアンは母がローマ兵に強姦されて生まれたのだ。だからお前がどんなにローマ人を憎んでも、お前にもローマ人の血は流れているのだ。それを聞き、ブライアンは一層ローマ人への憎しみを沸き立たせる。彼はユダヤ人であることに誇りを持っているのだ。ある日ブライアンは仕事先のコロシアムでユダヤ人の反体制組織(クリース、アイドル、ペリン、スー・ジョーンズ=デイヴィス Sue Jones Davies)に出会い、参加する。

 ブライアンは、多くの登場人物の例に漏れず、人種や階級、組織に依存したがる人間として描かれる。そしてここで、第1章で触れた人種、階級についてのモンティ・パイソンの姿勢がはっきりと表われてくる。まず、先の粗筋からわかるとおりブライアンはユダヤ人であって同時にローマ人である。精神的にはユダヤ人のつもりでも、しかし彼自身はどちらでもない。ローマ人側につくことはできないし、ユダヤ人側にしても彼とはどこかちぐはぐになってしまう(そのことはものわかりが悪くいつまでたっても本題が議論されないというギャグで現わされる)。ブライアンは下層階級の人間であるが、最下層ではない。上の人間については、上流だからといって優れているとはまるで思えない描かれ方をし、同時に下層の人間にも同情の眼差しはない。どの人種、どの階級に対する思い入れもない。あるのは全て笑いの対象であり、どれも同じように間抜けであるということである。それはブライアンの行動をとおして描写されていく。

 だが、何にも依存が許されないブライアンとは違い、人々は何かにすがらなければ生きていけない。世は正に救世主ブームである。街のあらゆるところには自称救世主があふれ、講釈をたれている。ちょっとしたことからローマ兵に追われる身となったブライアンは、逃げる途中一人の救世主(ペリン)を突き落とし代わりに講釈台に立ってしまう。逃げようとするのだが民衆が講釈を迫り、追手の目を誤魔化すために講釈をしなければならなくなってしまう。適当に出鱈目な講釈をして逃げるが、民衆の目にはその行動が奥ゆかしく見え、本当の救世主に祭り上げられる。

 ブライアンは何にも所属できず、何にも依存できない。にも関わらず、ブライアン自身は民衆に依存される存在となっていく。この映画全体を貫いて繰り返し表現されるギャグは、何かに依存する人々や、何かに所属することをよしとする人々がいかに愚かで馬鹿馬鹿しい存在かといったものである。彼を追って家の窓の下に集まる人々にブライアンは説得する。「あなた方は私などいなくても生きていける素晴しい人達です。だから私なんかに頼らないで自分自身の力で生きて下さい」民衆はその言葉を聞き入れるような返事をしながら、なおも救世主ブライアンの言葉を求める。結局何の効果もないのである(因みにこの場面でアイドル扮する民衆の一人がブライアンの母に「あんたバージン?」と質問する処女懐胎をネタにした台詞がある)。

 やがてブライアンはローマ兵に捕えられ、十字架に磔にされる。クライマックスでブライアンは救われるのかといったサスペンスがあるが、その期待はことごとく裏切られる。議論中心で実践の伴わない反政府組織の連中はブライアンを助けに行くと見せかけて、ブライアンを殉死する英雄とし、その勇気を賛え、去っていく。ローマ総督(ペリン)は民衆の支持を得るために囚人一名の釈放を許可し、ブライアンが許可されるが、釈放しに来たローマ兵(クリース)の「ブライアンはどいつだ」の質問に囚人全員(140名)が名乗りをあげ、磔になるのを楽しみにしていた男(アイドル)がブライアンとして釈放されてしまう。続いて武装した別の反政府組織が現われる。ローマ兵は逃げ惑う。しかし彼らも助けに来たのではなく、勇者ブライアンとともに殉死を選び、先に自決してしまう。反政府組織の紅一点で本作品ヒロインのジュディス(スー・ジョーンズ=デイヴィス)は磔になっているブライアンに「あなたのしたことは素晴しいわ、私はあなたを忘れない」と言い、去っていく。母は「この親不孝者」と言い放ち、悪態をつきながら去っていく。こうしてブライアンは助かるあらゆる望みを失う。もう死ぬしかないのだ。その時隣で磔になっている一人の男(アイドル)が話しかけてくる。「人生には悪いときもあるよ。でもくよくよ考えるのはやめにして、そんな時には歌でも歌うんだよ」男は歌い始める。「いつも人生の明るいところを見ていよう、もし人生が腐ったもんならそんなことは忘れて笑って踊って歌おう、そして口笛でも吹こう」磔になっている人々はいつのまにか皆一緒になって歌っている。男は言う「ブライアン元気出せって」

 カメラは十字架から遠ざかり、映画は終わっていく。エリック・アイドルのナレーション「難しく考えちゃ駄目よ〜。人間なんてのはさ、0から生まれて0に戻るわけ。何か損することあるかい? 何もないでしょう。だいたい俺たちは百まで生きられやしないんだからさ、楽しくやろうぜチョンチョン、なんてね」

 自分が何者なのか、何に所属しているのか、そんなことは知ったことではない。ただそこに自分がいるのはもう仕方ないし、受け入れてしまえばいいのだ。でも別にそんなことで自分は左右されないし、何かにすがるのもご免だ。そうなっているのは仕方ないけど、その中で好きなように生きていけばいいのだ。ローマ人の仕打ちはひどいかもしれないけれど、それでも楽しいことはいくらでもある。救世主なんかいなくても楽しくやっていけるのだ。そんなメッセージがこの作品には表われているのである。象徴的な場面がある。街を歩いているブライアンの後を乞食(ペリン)が追ってくる。今は違うけれどあわれな病人だった私にお恵みを。16年間患った病気がイエス様に治されて、乞食としては商売あがったりだ。乞食には不可欠の同情もひけやしない。そう、救いなどなければないで、うまくやっていたのである。

 こうしてモンティ・パイソンは西洋世界の根幹であるキリスト教にも頼らない、自分自身に立脚した生き方を描く。そしてそれは表面上キリスト教を馬鹿にしたものととられ、プロテスタントの信者たちはこの映画の上映反対運動を起こした。

 この事件からもわかるとおりもはやモンティ・パイソンは単なるギャググループではなくなった。この次に制作された作品も、恐らくはここでの発展によるものなのだろう。


チョンチョン 原語版と大意が同じため、広川太一郎による吹き替え版の台詞をそのまま引用している。因みに「チョンチョン」は第一期第三回でのエリック・アイドルの台詞“Nudge Nudge”を吹き替えた時のもので、『ライフ・オブ・ブライアン』原語版ではこの言葉はない。↑戻る

上映反対運動 Kim“Howard”Johnson, The FIRST 20 YEARS OF MONTY PYTHON, 1st ed., London, PLEXUS, 1989, PP.212.↑戻る

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