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独白 2020年

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2020.12.27
静音ということで三代にわたって使ってきたオーディオ・ファン御用達の、それなりのメーカー製Winパソコン Intel Core i7 の排気音がうるさくなってバックアップ用に降格した。新しくはファンなし Intel Core i3-8145U これで十分。環境音は聞こえるのに動作しているとは思えない。自分使用の最大の負荷は音声ファイルの切り出しで、高速なほど楽できると大枚はたいてきたけれど。オーバースペックだったとは。

2020.12.12
絵画系の公募展の楽しさは知っていたけれど、音楽にもあるのね。「ベートーヴェン・ジャンボリー2020」 今時、練習も思うようにできないプロも含む混成のオーケストラで、様々な経歴の指揮者8人が交代でベートーベン交響曲5,6,7番を楽章を分担して振る。
プロのオーケストラを競べても指揮者によって演奏がどう変わるかは分からない素人にも違いが分かった。ノッたオーケストラでは指揮者も変わる。音楽を楽しむ機会を創り出したベェートーヴン万歳。

2020.12.9
すごいよな ベートーベンの交響曲を家庭でも聴けるように、リストはピアノ曲に編曲した。それを今はホールの演奏会でも聞ける。さらに、どこでもヘッドホーンでも聴ける。この凄さ、素晴らしさがようやく分かり始めた。

2020.12.6.
剰余価値原理
物質代謝秩序なくして生命は存在できない。
生命秩序は物理化学秩序の上にある。
物質代謝の余剰があって、余剰をめぐって収奪が成り立つ。
余剰は社会抗争の物理化学的条件である。

生命の基礎代謝は存続の絶対的価値である。
基礎代謝を収奪する社会は存続できない。
物質代謝秩序を社会化して人類は進化した。
社会的物質代謝秩序の発展により、人間は成長する。

今村仁司著「抗争する人間」の「はじめに」を読んで。吐露せずにはいられなくなった。

2020.12.5
人間社会
「人間が社会を形成する。」なんて、とんでもない。
社会なしに人間は生まれない。
社会なしに人間は育たない。
社会なしに人間は生きられない。

試せば証明できる。
試せば人間を否定する。
例証は数多あまたある。
社会の物質代謝なしに、人間社会は成り立たない。

反省
先人の業績に己の成果
くらべる傲慢
突き詰め及ばぬ
一時いっとき閃喜ひらめき
人口膾炙経たる
礎の角に砕けよ

2020.12.4
昔は「今日、悪人に出会ったたらどうするか」を教訓にした。今日、交流手段、社会組織運営技術の行き届いた下では悪人が権力を浚い易い。どこにも、いつでもいる悪人に人類はこれからどう対する。

2020.11.28
この世界、この宇宙で最も平らなのは事象の地平面なの?
「事象の地平そのものの上にある点では、光はブラックホールの中心から同じ距離を保ちながら、ぐるぐると永遠に回り続ける。<日経サイエンス2021年1月号『宇宙の謎“ブラックホール”』R.ペンローズ著 p96>」
光速度でも差を測れないほどの滑らかさということ? その平面、球面での電子・陽電子の対生成が引き剥がされる? 球対称であるか、楕円球であるかはともかくも。

2020.11.27
「他の内閣より良さそうだから」支持します。でも、「コロナ対策」も「マイナンバー・カード」も信用できません。政治と身近な問題の乖離は民主主義の問題です。

2020.11.26
抗して
時に 命かけ、
なぎ、育み、あまね
人の証

思いも至らず
理知をもあなど
驕る人の浮薄

連なる人の
協働に、交流に
人類史は拓く

2020.11.7
穴あき五円硬貨の重心は存在するか?存在するから重心点の位置が定まる。その重心点では硬貨を支えることができないから存在しない。
二重スリットの両方を通り抜ける光子、電子はスリットの位置に存在したか?
全く関係ないか?

2020.10.28
首相は若い研究者も大切な研究時間を削って学術会議に参加しろと指図する。

人々が命をもかけて大切に育てて来た歴史的宝を一顧だにせず、狭量な自説を吹聴する者が増えている。

2020.10.27
まともであろうとした時代の政治は賭博を規制した。今では政治が賭博に乗り出す。

速度は時間の経過によって測る。出発点と到達点の位置は同時には測定できない。不確定性原理ではないが、相対性理論でも同時性が成り立たないのだから。限りなく近い距離の実在問題でもある。
確率論的存在と決定論的存在との違いは観測には関係ない、存在そのものの有り様では。デヴィッド・マーミン著「マーミン 量子のミステリー」p48でフト思った。

2020.10.26
今月13日に「詩集 とおぼえ」をキンドルにしてアップした。
紹介は
人生六十年詩:団塊世代である作者の青年時代から定年退職後までをたどる182編作品集成

目次
成人・・・・・・・成人記念
世明け前・・・・・就職前後
結婚、子育て・・・子育て
その後・・・・・・昇進試験失敗
まだまだ・・・・・転職
子離れ・・・・・・子離れ
矛盾・・・・・・・世紀末を超えて
無駄道・・・・・・さらに挫折
愚者・・・・・・・総括
ウヰッ スキー!・娯楽
還暦過ぎても・・・還暦後
発行までepubまでは何とかたどり着いたけれど、Sigilから先の変換で何度も失敗した。wordファイルにゴミが何カ所か入っていたのに、変換時にエラーメッセージも出なかった。ようやくお目出度。
まだ、「終活」とでも名付けようかとたまっているけれども、コロナ下でタイミングが難しい。それ以上に意識:存在・認識・論理については死ぬ前に何としてもまとめたい。
プロの覚悟、責務比べたら日々の営みが申し訳ない。

たまたま日本学術会議問題に関するツイートに接して、世の中がどんどんずれてゆくのが分かる。権力者では無い権威者への反発が広がっている。
他方でも、アメリカでは「左派のエリート」という支配層に反発があるらしい。トランプ、バイデンどっちが勝っても何もいいこと無い。
30年前の「民主主義の勝利」とは何だったのか。感情的になってもしょうが無い。大切なことの基礎・基本から表現しなくては。

2020.10.20
寝ているときの夢を振り返ったとき、私には主観と客観がない交ぜになっているように感じる。しかも実在感がないにもかかわらず、その世界を現実として受け入れてしまっている。明晰夢でなく、通常の夢でのこと。他の人は夢をどの様に見ているのだろう。

2020.10.17
茂木健一郎著「クオリアと人工意識」p90に「意識について議論する際に、その「定義」をしてほしいというような要求を受けることがある。しかし、そのような問い、それに基づくやりとりは多くの場合、無益である。」とある。

意識は感覚、感情、記憶からなる世界の感じ=世界感の表現である。また、意識は主体として世界感に現れる対象を区別し関係づけ、その対象秩序から変化を予測する思考でもある。さらに、意識は予測結果を反省し、世界秩序を世界観として表現する。

2020.9.7
物理的環境時間と主観的意識時間がずれるから調整するために練習が必要なのだろう。練習をサボると失われるのはこの現実をとらえるための時間調整力だと思う。その前に身体制御力を含む基礎体力を備える必要があるけれど。リベットの実験を引くまでもなく、物理的環境時間と主観的意識時間のズレは体験できる。手指で足指に触れて、それを見ることで。読んでも分からないの続き。

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楽譜表現
辻井伸行氏の音楽解釈について、当初テープ録音で楽曲を覚えたことに作曲家の楽譜表現を無視しているのではないかとの批判があったとか、なかったとか。デモ・テープを録音した先生も個性を殺すことに苦労なさったんだろうな。でも、今は楽譜を入力すれば演奏してくれる時代だ。作曲家の記譜表現評価は昔から変わらないが、楽譜から演奏への表現は楽譜が読めなくとも可能になった。ただまだ、自筆譜を読み解く人もいる。表現は一筋縄ではいかない。
表現したい世界を実現するには、やはり物理的環境時間と主観的意識時間のズレを解消するための練習が欠かせないんだろうな。スキーでも毎シーズン始め一週間ほどは足裏の感覚で斜面に応じた操作できず投げ出したくなった。今となっては一週間も滑れた頃が懐かしい。最早、寒さに膝がいうことを利かない。

2020.9.6
桶の中の脳
という話があった。培養液に浸した脳に神経信号を送受して活動を維持することは、信号の種類と量が膨大で不可能とのことだった。
ダニエル・C・デネットは『ブレインストームズ』「第17章 私はどこにいるのか」で脳と身体とを分離して配線する思考実験を提案しているらしい。ツッコみたくなる。
脳と身体を電気工学的・生理的に接続すれば信号問題は解決するかも知れない。デネットは通信時間を問題にしているけれど、生理的時間には幅があって、コロナ・ディスタンス下でも遠隔合奏を技術的に実現している
身体が培養脳に対面し、脳での感覚活動信号を身体感覚器官を介して培養脳に再帰させるなり、脳・身体分離の説明を受け入るなりしない限り分離には気づかないと思う。電気工学的接続時間距離が数センチ秒になったら混乱するだろうけれども、結構慣れたりして。

2020.8.18
「もし世界が無限の過去から始まっているならば、これまでに出来事の無限の系列が完結したということだから、世界が無限の過去から始まったことは不可能である。『〈現在〉という謎 時間の空間化批判』 p176」どこを引用しても良いのだけれど、「無限」が存在するなら1cmの線分の中にも存在する。線分には始まりも、終わりもある。少なくとも無限は自然数の終わりの数ではない。無限の何らかの定義なしのイメージでは何かを証明することはできない。

物理学者でも時間が流れると思っているらしい『同書p184 4 時間経過の実在』。物理学者は時間をパラメータとして扱っていると思ってた。
時間の流れは記憶によって意識されるだけだ。存在は物理的に全ての相互作用の連なりが確定することである。多体間の相互規定が定まることである。波動関数の確率値が確定することである。確定する相互規定関係の発展として次の相互規定関係が確定する。「確定が発展する」との矛盾が残るが「ゆらぎ」も物理的関係に許されている。  ← 以上根拠のないことを言ってもいいのかな。 意識は確定が連続することを時間の流れと感じる。「過去の存在」は結果として、記録として、記憶としてしか存在しない。存在にしろ、何にしろ確認できるのは、確認を試みることによってである。有限の相互作用関係の確定をたどることで確認が可能になる。恐竜の存在は宇宙の歴史、生命の歴史を理解し、化石の採掘記録、化石を見ること等を順次たどることで確かめるられる。しかし、存在を問う対象である恐竜の生きている姿を見ることも、触れることも、どこでどう動いているかを確かめることも多分できない。小難しいことではなく、「存在する」と「存在した」との違いは誰でもわかるし、誰でも確かめられる。「時間の存在」「空間の存在」など「存在論」を問題にするときはそれなりの取り扱いが必要になる。

「こんなところで遠吠えせずに、面と向かって、無理ならメールででも連絡を取るべきだ。」
そうなんですけどね。なかなか。  いい歳して人見知りなんです。  ご意見があれば紹介し、応えます。 宛名“donsai_@ma3.seikyou.ne._jp”へ空白("_"のアンダーライン)なしの手打ちしてメールして下さい。

2020.8.17
物理学者(自然科学者)は明らかになったこと=法則として定式化できた秩序にそって世界を理解、説明する。哲学者は明らかになっていないことも含む世界を理解、説明しようとする。哲学には明らかな世界の説明を超える、普遍的世界観を提示する役割がある。
法則の誤りや限界が明らかになることもあるから自然科学者の理解、説明が間違っていることもある。世界の明らかになっていない関係に、明らかになった関係を外挿、敷衍するのはそれぞれの想像力だ。明らかになった関係の理解が不十分であれば、とんでもない世界理解がもたらされる。

改めて二元論の主張
物質世界に意識が生じ、物質世界は意識を含んで物質間相互作用関係として閉じている。これだけなら一元論である。
しかし、意識の内容は物質世界に完全に対応していない。意識は物質世界をとらえようと、物質世界での経験から表象を再構成し続けている。その結果錯覚も生じるし、幻肢も生じ、使い慣れた道具の先にまで意識を拡張することもできる。意識は物質世界を超えて世界表象を描き出し、その表象世界に意識はあって抜け出すことができない。物質世界を超えた意識世界、精神世界がある。意識の内容、表象は物質世界のどこにも存在しない。色も、香りも、苦痛も、喜びも、価値も、真実も、物質世界に存在するのは脳神経細胞網の発火パターンと言語等の表現媒体のみである。それ故に意識内容を幻想=イリュージョンと言う人もいる。(これら意識内表象の実在感とクオークやブラックホールの実在感の対照性は恐ろしい。
表象世界に閉じ込められた意識が、別の表象世界の意識と対立し、論争し、戦争までする。幻想であろうが、物質世界に介入し、物質世界を破壊しようとしている。一元論を採ったのでは、物質を超えた「幻想」間の対立を解決できない。物質世界の相互作用関係を介さなければ幻想間の相互作用を実現できないが、物質世界の相互作用関係で幻想間の対立を解消することはできない。

フィードバック制御を組合せフィードフォア制御を獲得した生物のうち、フィードフォアの目標値をよりよく設定できるもの、目標値に向けてよりよく制御できるものが生き残った。目標値設定が意識されれば価値基準になる。価値の物質的基礎となる。
情報によって物質制御ができるのだから、物質存在を超えた「幻想」でも情報表現であるからには物質過程に介入できるだろう。二元を超えて作用する相互関係過程を見てみたい。

2020.8.16
「心」という言葉を外国人、特に西洋人、特に意識研究者が使うのが不思議でならなかった。何を意味しているか分からなかった。
何か引っかかるモノを抱え込んで数日、数週間、時に年を越えて、そして繰り返し立ち戻り、突っつき、時にこねる。やがて言葉にして吐き出す。組み替えれば形が、言い換えれば形が、納得する形が、整う。同じことでも、繰り返し、繰り返しても、新しい形になる。自分の世界を攪乱し、自分の世界に収まり、自分の世界を表現する。つかえが取れたように、すっきりする。この世界を「心」と呼ぶのか。
だから「詩」ではない。ただ、吐き出しただけの「もの」。美しくもない。だから人の共感は期待しない。ただ、言葉はコミュニケーションを成り立たせるのは知っている。私の表現はどれも皆同じだ。形式が違うだけ。

2020.08.15
化石
化粧壁石のシミ
化石の存在
その生きた当時を思っても
もはや生きては居ない
存在は骸をさらしてここに今ある
過ぎし存在どころか
過ぎし時の連なりまるごと
存在しない証として

「なぜ勉強するの?」って?
みな学んでいる
物が見えるのも、音が聞こえるのも、
みな、生まれて、見方、聞き方、感じ方を
学んできたから。

好きなこと、嫌いなことを選べるのも、
大切なこと、いらないことの区別を
学んできたから。

人に話し、話しを聞き、共に喜べるのも、
言葉を、言葉の意味を、人のつながりを
学んできたから。

みなが学んで手に入れた宝
もう飽きた? 嫌いになった?
世の中には、
気づいていない美しさ、
味わっていない確かさが
まだまだ、尽きせずに、待っている。

この頃、知的に生きている。消滅前の輝きか。もうちょっと待ってほしい。仮題「世界を区別する 存在、認識、論理」

2020.8.14
昨日の問題に興味があったから、隣町の公立図書館に利用登録して昨日、森田邦久編「〈現在〉という謎 時間の空間化批判」を借りてきた。まだ読み始めだけれど、まさにピタリ面白い。科学者は社会的、組織的に論理を組み立ているから記述に普遍性がある。哲学者は個人営業だから記述にゆらぎを伴う。
同書17ページの錯視図 「北岡明佳の錯視のページ」より は初めて見た。
私の現在主義の「現在」は絶対的同時性を主張しない。相対性理論のとおり「現在」は相対的だ。存在は相対論的量子として現れる。過去も未来も存在しないのだから、波束の収束「前」も、「重ね合わせ」状態も、「同時」にも何の意味も無い。実在として確定、実現するのが現在であり、存在である。
「時間」意識は脳内の神経信号処理経過の潜在記憶として形成される。同時ではない全身からの感覚信号を脳で統合して「今」が意識に現出する。脳での「今」の統合過程の潜在記憶が「現在」である。だから「現在」との意識はすでに現在ではなく、常に「過去」の記憶である。
時空間は物理量ではないのだから微分可能で、量子化されることはない。であるならプランク時間もありえない?

2020.8.13
現在とは多体間の相互作用関係が確定すること。
これは定義であって証明はない。実証のしようもない。
ただこの定義によって、過去も未来も存在しない。時空間は相互作用関係を記述する尺度に過ぎない。現在主義とも呼ばれる。存在するとは物理的にどういうことか、「存在」の定義が問われる。
正しいと思うんだけど
実験物理学でも時空間を測定していない。測定時の物理量を測定しているのであり、過去の物理量は測定できない。測定しているのは相互作用関係であり、その相互関係を時空間に、時空間で表現している。時間も空間も物理量ではく、次元を表現する。逆に、時間の尺度は特定の運動周期で表される。空間距離は光速度で定義されている。空間距離は時間の関数で表される。  ← 以上、思弁ですか?

2020.8.11
世界感の描かれ方
脳内にあるのは神経細胞網とその生理的信号処理だけにもかかわらず、現実感としての世界の表象を描き出し、クオリアすら実現している。
脳内の信号処理結果が体性感覚として身体と同期、重なることで実現する。身体は四肢・ボディだけでなく感覚器官の運動も含む。特に眼の眼球運動、瞳のしぼり、毛様体の伸縮、両眼視差等、視覚にかかわる全ての運動からの信号と視覚信号処理結果とが同期、重なる、マッピングされる。
だから眼で見ているように、耳で聞こえているように、舌で味わっているうように、鼻で嗅いでいるように、手足、皮膚に触れているように感じる。
故に感覚の獲得には臨界期がある。文字は書いて覚え、書かなくては忘れる。
意識は使い慣れて道具の先端にまで拡張される。夢でなら空も飛べる。幻肢も生じる。
さらに明暗、寒暖、色彩、強弱、高低、軽重、粗細、形状等の体験が相関する。
身体は特別な意味を持つ。身体の表象では感覚信号と運動モニター信号とが同調している。同調していることで「現実感」「実在感」が生じる。夢見ているときは分離するか乱れる。   以上、あまり根拠のない思弁

2020.8.7
「人それぞれに理解する多様な世界」はイリュージョン(幻影、錯覚)に過ぎないとの解説も多々ある。しかし、戦争し、環境を破壊し、資源を浪費し、人類の存続を脅かす現実的力をイリュージョンで片付けることはできない。

2020.8.5
一元論の否定
一元論に拠れば世界は一つである。
しかし、人々が理解する世界は人によって異なる。よって論争もし、戦争もする。
人それぞれに理解する多様な世界と、人それぞれが理解しようとする世界の少なくとも二つの世界がある。

2020.8.2
残念ながら、「脳と時間」ではまだ、脳神経ネットワークの信号再帰処理過程での時間の認知は検証できていないらしい。

ドイツのユクスキュルは「環世界」を唱えていたらしい。日敏隆は「動物と人間の世界認識」で「イリュージョン」を「環境世界」ではなく「環世界」と訳している。「世界感」と同じかもしれない。

2020.7.31
ディーン・ブオノマーノ著「脳と時間」のp83で「身体意識が錯覚に過ぎないことを如実に示すのが、幻視症候群である。」と述べている。身体意識だけでなく、意識そのものが潜在意識によって描かれた「世界感」であるのに、「身体意識」を錯覚としては感覚に生じる錯視等の錯覚と区別がつかなくなる。まだ先を読んでいないので評価は保留する。

2020.07.17
勉強
何故 勉強するかって?

誤魔化されないため
騙されないため
虐げられないため
否定されないため

誤魔化し、騙し、虐げ、否定しては学べない
かけがえのない、私たちの未来のため。
騙されるなよ、

2020.7.14
人工知能に知識は必要だ。しかし、知識は過去の世界だ。知能であるために必要なのは、今現在自らを取りまく世界の情報だ。今現在何を選択すべきかを判断するために。そう、世界感を持たせることが必要だ。
今現在の世界に幻滅して、人類を継ぐ者に期待してはいけないかな。幻滅する余裕があるなら、慎ましくとも、自らの役割を担え。

絶望
絶望に落ち
絶望に失い
絶望に失せる

絶望に残る
絶望の身
絶望は甘え

今日、録画しておいたNHKアナザーストーリーズ選「マンデラと“ゆるし”〜アパルトヘイトとの闘い〜」を見た。マンデラ、ホー、アジェンデ、カストロ、 一方、スターリン、ヒトラー、ホーネッカー、習、 どれほど知っているかはともかくも、

強い
つよくてももろ
つよければしな
つよし君のことではないよ!!

2020.7.10
人の価値
評価する者が価値を定める。
評価できぬ者に価値はない。
価値の評価で人は定まる。

2020.7.9
Zoomって会議だけではない。遠隔地を紹介することだってできる。捜し物を一緒に見ながら探査できる。

2020.7.8
エントロピーの増大化過程は準静的ではなく、一様ではなく、ゆらぎがある。無秩序化過程のゆらぎの差をとおして部分秩序が実現する。部分秩序は実現するだけでなく発展する。

2020.7.6
熱力学第二法則によると永久機関は物理的に不可能だという。故に酵素タンパク質も永久に機能し続けることはできない。機能できなくなった酵素タンパク質がアポトーシスせず蓄積すれば代謝は停止する。いずれにせよ死は免れない。永田和宏著「タンパク質の一生」再読中。

2020.7.4
情報理論入門の始めには、よくコイン・トスが取り上げられる。
そこではコイン裏表の区別が前提にされている。見て、触って表裏の区別がつかなければコイン・トスの意味は無い。表裏の区別そのものは相対的で、上下では困るが、傷、印の有無でもかまわない。表裏の区別があって、トスによっても表裏の区別は変わらない。トスによっても表裏の区別が保存されるから勝負を判定できる。トスの意味が、勝負の情報が明らかになる。
そこでの情報はコインの表裏に担われるのではない。トス前後の表裏の向きが相関せず、向きの上下が偶然に確定することで意味が表れ、情報となる。 コインの存在自体の交換、貯蔵、美術等の価値に関わりなく、トスにより勝負を決定するという文脈、コンテキストで意味、情報は付加される。いずれにしても交換、貯蔵、鑑賞、勝負の決定という、コインの存在には関わりの無い他との関係、敷衍して全体での位置づけで意味、情報が付加される。
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他との関係、全体での位置づけを表すのがビット(桁)であり、その内容が意味、情報を現し、あいまって表現になる。
意味、価値、情報は存在そのものにはない。他との関係、全体での位置づけで意味、価値、情報が現れる。他との関係、全体での位置づけは、他の、全体の変化、運動に対する関係、位置づけである。非平衡散逸過程に抗することで意味、価値、情報が現れる。

2020.07.03.
七十一歳
もぅ いぃ かい
んっ   何処へ

2020.6.28
どんさい」ページの構成を変更した。

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区別
区別によって世界の存在、認識、論理は表現できる
相互作用する存在
弁別する認識
要素と集合の論理
通底する有・無の区別
無は桁(ビット)で表現し、有る
ビット(桁)はノイズ(雑音)に抗し、総体での位置を表現する

2020.6.16
量子力学に限らず測定前の物理量は測定できない。過去の物理量を測定する方法は原理的にありえない。過去の物理量は過去の測定の記録としてだけ存在できる。測定を再現できても、再現できるのは過去ではない。
そもそも時空間を測定することはできない。時空間は相対的で伸び縮みする。

手の指先から脳への神経の長さと、足の指先から脳への神経の長さはほぼ1m近くの差がある。神経信号の伝達速度は速くて秒速120mであるから8ミリ秒の差があるはず。数ミリ秒は人の時間分解能の範囲以下だから同時にしか感じられないと言うこともできる。しかし、短距離走のクローチン・グスタートで手足が数ミリ秒ずれてしまってはバランスを失ってしまう。数ミリ秒の処理時間を「今」の一瞬と統合する一方、この数ミリ秒の時間差によって時刻の前後差、時間の流れを意識している。物理的時間は無い。

2020.6.15
「測定するまで物理量は確率を計算できるだけで定まっていない。」と言われる。
測定する「時」だけが存在するのであって、測定する前も、後も時間として想定できるだけでそんな時間など存在しない。時間は意識が想定しているだけだ。すべては相互作用で確定し、存在する。同様に空間距離も時間と速度の積で測られるのだから再考する必要がある。速度は光速度一定の原理があるのだから。  ← 以上、何の根拠もない思弁
「エントロピーの増大化が時間の向きを表している。」と言われるが、非平衡開放系での、部分でのエントロピーの減少化も時間の向きを表している。時間の向きも人の意識が想定しているだけだ。問題なのは「向き」ではなく、進み具合だ。  ← 以上、何の根拠もない思弁

2020.6.10
自由意志に決定権があるなら何でもできる。運動、表現、等々、なんでもござれ。練習などせず、思い描けばできる。

時間は意識が作り出している。
世界は次々と確定し、実現していく過程としてある。時間は人が反省する過程、神経系が「同時」を調整することで感じる感覚である。人が今を感じるには「今」を対象化してその記憶を想起することで、その対象化した「過去」を今と意識する。「今」を再帰して対象化している。足先、手先から脳への神経信号伝達には時間差がある。その時間差を調整して「今」と感じている。「今」は全身体からの神経系信号の遅延差である数ミリ秒の間隔を統合した感覚としてある。
よって時間は流れない。過去も未来も存在しない。過去は化石としての痕跡や記録として存在する。タイムマシンも想像でしかない。存在するのは確定し、実現している諸関係だけである。  ← 以上、何の根拠もない思弁

2020.5.31
特別定額給付金 を受け取って 税金の使い道 を 主権者 として決めることのできる数少ないチャンスですよね。その権利を公務員から奪おうとする首長がいるとか。

2020.5.28
「記憶せよ、抗議せよ、そして、生き延びよ」      井上ひさし の言葉

2020.5.3
視覚の位置恒常性
机上に手鏡を置いて歯磨きをする。手鏡に映る光景は歯ブラシの動きに同調して振動するが、その他の光景は位置恒常性を示す。

2020.3.30
知覚がボトムアップではなく、トップダウンである例:人はネッカーキューブやルビンの壺等の両義図形で図を見てはいない。意味のある像を見ている。

2020.3.24
テレビは面白い。三色の細かく区切られた枠が明るさを変えて明滅し、音がするだけなのに、人は悲喜こもごも感動すらする。
確かに物質だけでない世界が存在する。画面の上に、人々の意識に。

2020.3.12
生命の定義に「外界との境界、代謝、自己増殖、恒常性、進化」をあげる人がいる。生物の境界は生物個体、物質相互作用系の形であって生命の境界ではない。自己増殖は代謝系の再構築だ。代謝系は代謝の恒常性を実現している。進化も代謝系の再構築による環境への適応だ。地球地質環境での生命環境創出も代謝系の普遍化だ。境界、恒常性、自己増殖は物理的、幾何的性質である。生物個体を構成する物質は代謝をとおしてすべて入れ替わる。従属栄養生物は単独では存続できない。やはり生命の定義は代謝系だろう。機械からなる代謝系に取って代わられるかも知れない。チャールズ・コケル著「生命進化の物理法則」を読んで。

2020.3.10
新聞の科学欄を注視し、科学雑誌を購読しているが、「意識に関するケンブリッジ宣言」については知らなかった。実重重実著「生物に世界はどう見えるか」で紹介されて知った。

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世界理解は眼で見る表現では事足りない。視覚は一面でしかない。
世界は秩序で成り立っている。秩序が実現する区別を明らかにし、関係を明らかにすることで世界表現は構築され、理解可能になる。

2020.2.26
「意識は存在しない、イリュージョンである。」と言っても人は聞き流す。「命は存在しない。」、「価格は存在しない。」と言えば人は笑う。笑うどころか「粗末にするな。」、「泥棒するな。」と忠告する。なのに「唯物論」者は物質でない存在を否定する。今日「意識」が科学の研究対象になってきているというのに。
「神」は明らかに存在する。信じる、信じないではない。「神」の物理的存在否定は物神崇拝者以の外誰にとっても意味はない。存在するか否かではなく、どの様に存在するかが問題なのだ。神を巡って人は殺し合い、戦争までしてきている。

2020.2.24
ゴマすり
手回し胡麻すり器から
正規分布の山積もる
崩れる斜面は冪乗則

2020.2.23
展覧会など著名なものだけでなく公募展もいい。審査や賞がどの様な基準なのか推測することも面白いし、作者の意図は分かるけど技術が追いついていなかったり、技巧だけで何が言いたいのか不明だったり、玉石混淆。ならば何の実績もない自分も何を言ってもいいではないか。
音楽も技巧だけの派手な生演奏もあば、録音であっても気持ちよくなる演奏もある。

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「数学において基数とは、集合の濃度を測るために定義された自然数の一般化である。(Wikipedia)」。同一性と差異性によって区別される対象が数学では基数である。形式論理では「同一であるか、差異があるか」いずれかでしかなく、「同一性と差異性による区別」など対象にならない。
「黒い石、白い石」が区別されるのであり、同一性は「石」であり、差異性は「色」である。「有罪、無罪」、「星取り」等々の異なるそれぞれの議論領域が同一性によって定まって論理が成り立つ。同一性は全体に対する(対象化可能なすべてに対する)区別であり、差異性は対象相互の区別である。論理のすり替えを防ぐだけでなく、「粒子か、波動か」のように実在に関わる。

2020.2.20
同一性と差異性だけで区別がある。この区別だけから無限が導かれる。この区別には前後、左右等の方向も、大小による順序もない。この区別による個別は順序数を得る前にある。
同一性と差異性の内容にかかわらない区別であり、内容を捨象した区別である。他と区別され、全体に区別される。存在、対象、要素等の内容を捨象した区別であり空集合にあたる。

2020.2.18
もういい加減新しい時代への宣言をしていいのではないか!
「生気」、「魂」、「霊」を否定するあまり、物質以外の存在を否定するのは古すぎる。「生命とは、蛋体の存在の仕方である。」であって、「生命」は「存在の仕方」として物質の高次の「存在形態」であり、意識はさらなる「物質の高次の存在形態である」。「意識」を「幻想」と言い切って「存在」、「実在」を否定する誤りを犯してはならない。意識の実在を否定してしまっては、万人の意識に唯物論を受け入れてもらえない。
生命、意識が失せても物質存在としては何も失われない。生命、意識が存在しなくても物質は存在する。生命、意識の存在を否定しないのであれば、生命、意識は物質とは別の存在である。
生命、意識に働きかけるには物質の存在形態を介さねばならないが、生命、意識の存在形態に即して働きかねなくてはならない。
生命は単に物質の存在形態ではなく、物質の新たな存在形態を創発する画期を成している。生命は一度成立するなり同じ物質環境での再度の創発を困難にしている。生命は物質存在として個体を単位にしているが、その存在形態を実現している代謝は個体を超えて相互に依存している。生命個体の存在形態が崩れると二度と再生しない。生命は物質を超えた存在形態である。
さらに意識は認識できる世界のすべてを意識として再構成して実現している。意識された存在世界は観念世界であり、それこそ物質世界ではない。意識は生命の存在形態を超えている。将来工学的に意識を実現できるかも知れないが、それとて物質の存在形態を超え出なければならない。

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存在の詳細についてはこれからも探求が続く。しかし、理、秩序、意味、価値をとらえるには全体を見渡さなくてはならない。個々の専門分野の解釈について多少誤解しても、その誤りは粗視化によって全体の結論を傷つけることにはならないだろう。
素人だからと言って誤解が許されてよい訳はない。しかし、全体の理解について発言を禁じられることにはならない。

2020.2.12
可能性が実現するのが現実であり、この世界である。
可能性は量子の重ね合わせ状態でもあり、破れる前の対称性である。可能性の実現、現実への転化を「波束の収縮」との解釈もある。
可能性は経験則として、不明な可能性を保留してほぼ推定できる。可能性の確率はベイズ推定する。
世界で実現するのは秩序である。実現する秩序は静止ではなく運動、推移、展開である。
形式論理は実現した結果をとらえ、表現する。形式論理は実現される結果を変化することのない区別された関係でとらえる。形式論理は完全な無矛盾に閉じた系であって、限界があることは形式論理自体によって証明されている。
可能性の実現、現実の展開は形式論理ではとらえることができない。可能性の実現、現実の展開をとらえようとするのが弁証法論理である。

2020.2.11
人の多様な才能は環境に恵まれて育まれ、機会に恵まれて発揮される。誰のどの才能が発揮されるかは偶然と言える。育まれ機会があれば必然と言える。

量子もつれが解ける場合、対称性が自発的に破れる場合、遺伝子変異が表現形を現し選択される場合、偶然性と必然性を切り分ける区別は何か。

2020.2.2
古希を過ぎれば創造的仕事を期待できないのかも知れない。物事の進展を一段毎に確かめて追うことができなくなっている。
でもやり残した、やりかけの仕事があるんだな。

自然数は無限であり、自然数が表す整数の比である有理数の間には無限の無理数がある。さらに有理数、無理数の間にも無限の実数がある。されに実数の次元とは別次元に虚数がある。無限は無限に満ちている。だから物理の繰り込みも許される?

戯言か? 誤りか? すら判断できなくなっている。 のに。

2020.1.28
意識は意識媒体を含む世界を意識内に再構成=反映することで成り立つと思う。ただここで、意識媒体を意識に再構成する可能性が問題だ。ヒトは意識媒体である身体を感覚、感情として再構成=反映している。ヒトではない意識媒体のソレが論理回路であっても、再帰することで再構成=反映した環境世界を対象化できるだろう。故障した際の交換修理は容易なだけでなく、多重化もできる。しかし、ソレは自らをどのように再構成し反映=意識するのだろう。

2020.1.20
符号化は他と全体に個々の要素を位置づけること。

例えば時間は変化の普遍的符号化である。地球の公転、自転、日影、水流、ゼンマイの伸展、原子の振動等、それぞれの運動の差分を単位として符号化して表現している。それぞれの運動の差分間の普遍性を尺度として時間を表現にしてきた。ただし、個々の運動の相対性によって全体の時間も相対化されている。
システム設計でも符号化が鍵になる。データ構造をどう符号表現するかで処理の効率に影響する。データのどの範囲までを符号にするかでシステムの運用期間が決まる。データの符号表現がシステム全体の機能を規定する。

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