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独白

二元世界」を出版して目標が失われた虚脱状態からの再出発。
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2011.12.31
市川様再度のご返信ありがとうございます。
 私の拙い疑問に付き合ってくださりありがとうございます。一応年末でキリが良いので、私からの疑問はこれで最後にしたいと思います。
 私が客観的な外部の正しい把握といった場合、端的には私たちの日常生活における私たちの身体の振る舞いを指します。重力に抗して身体を制御し、合目的的に身体を動かしています。それらは、意識には認識されていませんが、中枢神経で調節されております。このような人間の身体活動は、人間の生存には欠かせません。この人間の生存は他者の生存にも関わります。例えば全ての人間が体性感覚のみを持つようになれば、今の社会は維持出来ません。恐らく相当数の人間が正を断念しなければならない事態になると思います。
意識が外部を認識するというのは、原子や分子などの自然科学的な対象のみを対象としているわけではなく、それ以前的な、私たちが現に存在しているこの物理的世界を私たちは、全部ではないにしても、部分的に正しく認識することが可能であるというのは、恐らく自明であると思います。それらの法則性や、背後にある自然の物質的な動態に関しては、様々な仮説、推論、実験、証明という「社会的認識としての科学」を必要とすると思いますが、私たちは既に科学が対象とする世界の中に存在し、私たちもまたそれの一部であります。
言語的に、また意識的に「知る」こと以外にも、人間は既に身体的に「知る」ことをしています。感覚器からの情報はそれの格好の例です。人間が刈りをし、農耕するにも、身体動作は必要不可欠であり、労働全般がそうです。マルクスの合目的的性には言語や観念のみではなく、無意識的に自然を正しく知覚している人間の基本的な能力をも加味するべきであると思います。
Local Time: 2011/12/31/13:13
外部を正しく把握できていれば、私のように馬鹿をして風邪を引くこともないと思うのです。世界全体の中に、人類史の中に自分を位置づけることで、普遍的価値も明らかになると思っています。その評価で自分が極小でも、出来ることをなすことが実在として生きることと思っています。良いお年を!
2011.12.29
息子の誕生会をしている留守に書き込みがありました。>ただ今:2011/12/29/22:55
市川返信ありがとうございます。
モノの見方の問題であると思います。
市川様の仰られるように「意識が混乱したりすれば、客観性自体が失われ」ます。つまり、客観的な外部というものは、非常に脆いものであると思います。しかし、その客観的な外部が意識には絶対的に必要であります。例えば脳細胞は客観的な外部です。内分泌も外部です。神経伝達物質も外部です。このような外部の物質が意識を構成させているのです。この意識を構成している物質が、外部の環境変化なり環境そのものを対象化することが知覚・感覚の一つの重要な機能です。これが正しく作用することで、人間は自然の中で生きて来ることが出来、また今も生きていると思います。ですが、市川先生がおっしゃるように、それは非常に脆弱です。しかし、意識の外部を客観的に認識することが出来る「機械」という観点から人間を捉えるならば、これに勝る機械は今のところないのではないかと思います。
Local Time: 2011/12/29/8:35
私の「観点」からすると「今のところ」ではなく、意識の内部を表現できる科学は原理的にありえないことになります。

書き込みに見落としがありました。>2011/12/19夕刻
高橋です。お久しぶりです。
個人的にはイリュージョンよりも、なぜに人間は正確に外的世界を把握出来るのか、という方が驚愕的な事実だと思います。例えば耳は外耳という穴から鼓膜を経て、ツチ骨、キヌタ骨、アブミ骨を経てリンパ液を振動させ、その振動が神経細胞を興奮させ、その興奮が様々な経路を経て内側膝状体を経て大脳皮質の聴覚野に連絡して「聞こえる」という状態(現象)を生み出しています。ここには全く主観が入り込む余地がありません。ただの現象の連続です。重要なのは、観念が実在しているという事実ではないでしょうか?神という観念も観念という形態であれば実在している。脳神経学的にはそのように言えると思います。観念は実在しており、我々の意識は実在している観念という形態を取って現象(実在)していると。観念=非実在という前提が強固に日常的に存在しており、それは反対に言えば、観念の対義語が現実であり、現実=実在という
Local Time: 2011/12/28/15:23
「人間は正確に外的世界を把握で出来」ているとは思えません。私の知っている人は皆、空間を三次元でしかイメージできません。粒子でありながら波動でもある実在をイメージできません。量子もつれを否定したくなります。あこがれの超人的能力の持ち主でしか「外的世界」を把握できません。しかし超人でなくても、感覚の一部が傷害されても、実在把握が保証されることはたぶん、日経サイエンス1012年2月号116ページ書評に紹介されている『心の視力』で例証されていることと思います。人類は社会的認識としての科学によってのみ「外的世界」を把握できるのです。そう思っていない人が人類の過半数であることが残念です。
2011.12.28
前提そのもに曖昧さがあるからだと思います。ですが、観念=実在と考えると根源的二元論的には、階層的な二段階論として二元論が存在していることになり、少々やっかいかもしれません。なので、知覚=錯覚・架空というのは、曖昧な現実という定義を前提にしているので戴けないと思います。レーニンではありませんが、外部は、客観的に存在し、そしてそれに付け加えて、内部もまた客観的に疎z内していると考えます。それを外部化することは通常出来ませんし、科学技術的にもその段階にはまだまだ到達していませんが。
Local Time: 2011/12/28/15:25
日本語より外国語が圧倒的に多いと感じられる富良野スキーから帰宅したところ書き込みがありました。
内部に展開している意識にとって、外部は経験を反省することによってしか知りえません。その反省の確かさは何ものも保証してくれません。外部存在の客観性は、主観の存在ほどに確かではありません。意識は無意識の内にも外部と内部の関係を調整しています。意識が混乱したりすれば、客観性自体が失われてしまうのですから。にもかかわらず、安直に外部を受け入れてしまっていることに、様々な混乱の元があると思っています。
2011.12.
岩波科学ライブラリ 柏野牧夫著「音のイリュージョン 知覚を生み出す脳の戦略」を読み始めた。そこで紹介されている例イリュージョンフォーラムが面白い。役に立つ。
感覚、錯覚の研究成果から言えることは、眼で見、耳で聞き、体で感じているように知覚している。知覚はイリュージョン(錯覚、架空)であり「日常生活の中の適応的な機能の現れ」である。と何人もの科学者が説明している。人にとって知覚表象は実在そのものである。そして知覚表象は観念の具象である。人間が観念世界に生きていることを何故多くの人は認めようとしないのか。
2011.12.20
今夜の都響定期Bは聴衆の反応が異様に熱っぽかった。
2011.12.14
志賀浩二著「数と量の出会い」は中学校の復習プラス数学の反省として基本的に大切だけれど、例題など解く意欲は私には失われている。
2011.12.11
初めての書き込みをいただいた。見ていただいていることを確認できて大変嬉しい。
はじめまして。宮城県に在住している高橋と申します。私も唯物論の立場に立ちながら意識=魂の実在を肯定する者でございます。といえども、立川さんほど徹底的に整合的に論理的に、そして常識的に煎じ詰めては考えてはいませんが。
立川さんのご著作は、まだ全部読めていませんが、HPに掲載されてあるものをチョコチョコ読み進めています。近くの図書館にあれば幸いなのですが、ないので、そのうち金銭的に余裕がある時にと考えています。
そしてこの日記もまた愉しみにしています。
その上で一つ質問です。
2011.8.10で「体勢感覚」という表現がありますが、体性感覚」の間違いではないでしょうか?
寒い季節ですのでお身体ご自愛ください。
失礼しました。
草々
ご指摘の通り「体勢感覚」は誤植でした。
私は市川です。今後とも宜しく。
>市川様
大変申し訳ございませんでした。私の思い込みでした。
誤記を指摘しておきながらこちらがお名前を間違うとは噴飯ものですね。誠にすいません。
ところで、http://takahashiryouhei.blogspot.com/2011/12/blog-post_430.htmlに私の唯物論に関する詰まらぬ文章を載せております。これまでの唯物論や社会主義論に対する批判でもあると思います。お暇な時にでもご笑読いただければと思い貼り付けさせていただきます。
失礼しました。
2011.12.6
志賀 浩二著中公新書1659「心の起源」は2002/9/25発行だけれど心の起源を「特異点」に求めている。共感して読み進めたがまどろっこしい。「心」が存在するのは確かなのに、生物学的に「証明」しようとする論理がまどろっこしい。そして飛躍し、破綻する。p198「これに対して心の社会(たとえばヒトの社会)は個体(つまり個人)の自由な意志にもとづいてつくられる連帯である。」社会は生物世界の物質代謝として成り立っている事実を見逃し、「意志」に惑わされている。だからp212の「愛」も観念的に上滑りする。生物学から「心」=観念世界を追求している点は、おすすめの啓蒙書である。残念なのは最後に、人間を特別視する価値観によって足下をすくわれている。
2011.11.28
物語性や願望移入を排したい。エピソードで作品が評価され、高く売り上がるのは個別的、一時的な流行で危険である。本物は物事自体の普遍秩序として現れる。巨大災害、巨大事故も目覚めには不足か?大阪よ!日本よ!
2011.11.20
[哲学道場 高円寺]今回は「科学と哲学、そして学問」と題し、私見の発表ではなく論点紹介にしてみた。参加者の見解を聴きながら科学をめぐってみた。語り尽くせなかったけれど前回の8月21日よりはましかな。
2011.9.9
そう「人間の尊厳」が大切。妬み、揶揄し、貶めることをは人類の歴史に逆らっている。民主主義の平等主義は皆同じではなく、違いを尊重することだ。「人間の尊厳」を高らかに謳い挙げる表現が最近少ない。
2011.9.7
遅ればせながら映画「おじいさんと草原の小学校」を観た。自然災害を前にして、人間は坦懐に自然を学ばなくてはならないと萎れていた。しかし、社会に対しては今以上に人間の尊厳を主張しなければならない。
2011.8.22
昨日はオーソドックスに客観的な意識の説明からしたので失敗した。単なる独我論、解釈の違いとしてしか受け取られなかった。やはり意識できている世界は意識の内部表現でしかないことを示すべきだったかな。
2011.8.21
久しぶりの哲学道場で「意識」について話題提供した。自分にとっての意識の絶対性を理解してもらえなくて困った。他の人は意識より物質の方を自存の拠り所にしているらしい。
2011.8.10
6月5日にも書いたが、サンドラ・ブレイクスリーとマシュー・ブレイクスリー著「脳の中の身体地図」にある。「人間は視覚動物」と言われたりするが、視覚は不可欠ではない。聴覚も不可欠ではない。人間社会が機能していれば視覚障害者、聴覚障害者も生きていけるし、生活できる。不可欠なのは体勢感覚≪誤植:正しくは「体性感覚」2011.12.11≫である。
科学の成果、知見を素人が書き連ねても意味はないと批判される。しかし、物理化学、生物学、人類進化、人類史、現代社会、そして観念世界からなる全体を1つの「本」で表現した物を見たことがない。まさに中学生の私が求めていた世界理解だ。
音楽は一期一会と思っていたけれど、インターネット・ラジオがあったとは。日本のラジオ放送のように余計な話のない局がいい。(ただし、気に入っているNHK・FM「キマクラ」は例外)私に外国語が分からないだけか。ただ、今聴いているシステムは何故か時々プツプツ雑音が入る。そんな時は500GbHDDにためた曲を再生しているが再生しきれない。
2011.7.26
昨夜アレクサンドラ・スム ヴァイオリン・リサイタルを聴きに行った。開演直前になっても前や前や左の席ががら空き。他はほぼ満席。と突然3人が連なって前の席に。譲り合っていたが通路側の席に座ったのが小澤征爾氏。隣の妻の前の席。氏は演奏中も背もたれに寄りかかることもなく、いつものインタビューを受けている時の座り方。休憩時に楽屋を訪問して戻ってはこなかった。存在に気づいた周囲の人々も、にこやかに見つめるだけで何事もなし。
2011.7.20
間尺でしか考えられない人々が増え、力を独占している。間尺で測れない世界の存在を想像だにできない人々が増えた。与えられた答えで全てを解決できると思い込んだ人たちが。
「人が頭がいいかどうかは答えでわかる。賢いかどうかは問いでわかる。 −ナギブ・マフフーズ」
2011.7.1
誰の評価を求めるのか? 塾では子供の通う学校の過去問を教材にして成績アップを売りにしているそうだ。担任の評価を基準にして、その拡張で東大への進学方法論までもが漫画になる。
地震、津波、原発事故、想定外に対応できるわけはない。
2011.6.24
昨日23日にラティカ・ホンダ=ローゼンベルクの無伴奏バイオリン・リサイタルを一人バイクで聴きに行く。会場後ろ席のお爺さんは「こりゃ詐欺だ」と漏らしていた。隣席の男は一切拍手もしなかった。確かに、チラシ、プログラムの写真と教授になっている奏者の見た目は同一人物とは思えないふくよかさ。でもたまたま今日、レイ・チェンの同じ曲のビデオに出くわした。左手小指の長さは倍ほども違う。若さとはこうしたもので、熟練とはああしたものだと実感できた。若者には先人を超えてもらわなければならいけれど、なかなか超えられない先人が歴史的にも、今日もいる。帰りの夜間走行も昼の暑さが嘘のように気持ちよかった。
2011.6.6
イヴェリン・グレーニー パーカッション・リサイタルのチケットがなかなか完売にならなかったからどうにかしたのかと心配だった。久しぶりの音楽的衝撃。靴を履いていないだけで聴覚障害など意識させない音楽そのもの。ピアノのフィリップ・スミスも温厚そうなのに負けずに強さも十分。
2011.6.5
サンドラ・ブレイクスリー著「脳の中の身体地図」は哲学の一般教養にとって基本文献だ。
2011.5.30
アトリウム弦楽四重奏団演奏会。ベートーベンの弦楽四重奏の冒頭等特に現代音楽にきこえて分からない、慣れない。「ラズモスキー伯爵」への献呈の話も覚えているし、何度か聴いているはずなんだけどその記憶が定着ない。
2011.5.29
今日は雨空の下「哲学道場 高円寺」に参加した。私なりにしろ答えを出した者としては、そこで答えているのに分かってもらえず、重複して議論を進められても話に参加の仕様がない。
2011.5.28
アカデミー賞長編ドキュメンタリーを獲ってようやく日本でも公開された映画「インサイド ジョブ」を観た。皆が観てくれればいいけどどうだろ。映画で告発されている側が権力を握っていて、世論も動かせるのだからしょうがないか。マイケル・ムーア監督の絡め手より、世の中の受けはいいと思うのだが。それにしても"www.sonyclassics.com/insidejob"を見るのに時間がかかるのは閲覧を妨害しているから?
2011.5.10
 高橋昌一郎著「ゲーデルの哲学 − 不完全性定理と神の存在論」を読んでいてひらめいた。「観念が観念の内で、いかなる観念についても観念的に証明することには何の根拠も与えられない。」酔っぱらいの戯れ言か?
 付論の「神の存在証明」については、「存在そのものを定義しなくては何も判断できない。」という結論を出している。
2011.5.8
 突然の災難、別れは日常的にあるのに、規模が大きくなるとどうしてこれほどまでに動揺するのだろうか。
 今回の「主観と客観」は妻にそれほど不評ではなかった。それでも「接続詞がなくて筋を追うのが難しい」とのことで手直しした。
2011.3.15
 「心、観念、意識は身体、物質をどうやって動かすことができるのか。」皆覚えていないだけのことだ。手を握って開き、手足を曲げ伸ばす経験をとおして身体の動かし方を学んできたし、身体の動かし方を学ぶことで意識が形作られ、心が育ち、観念を獲得したきた。記憶すること自体も意識が形成される過程で経験によって実現した能力である。だから皆覚えていないが、子の生長を見ていれば納得できる。心身二元論の大問題などではない。
2011.3.7
 なんとか分かりやすく、短く表現しようと試行錯誤中。出版までを考えず中身の充実をと。妻に何度か見せて、ようやく最後まで読めたとのことで「世界の構造」をアップする。それでも「潜在意識」がよく分からんとのこと。
2011.3.5
 「二元世界」の参考資料としてまず「単位の組立」をアップした。追々、解説を追加するつもり。
2011.3.4
 今夜始めて生で聴いたユジャ・ワンはやはりすごかった。オープニングに異常に時間を取ったが、拍手の暇があったら私の音を聴いてとばかり、アンコール3曲まで中休みを除いて連続。指を痛めないように一生弾ききってと祈るばかり。終了後のサイン会にまれにみる長蛇の列、参入は遠慮しました。
2011.2.19
 昨夜は「デニス・コジュヒン ピアノ・リサイタル」本プログラムも素晴らしかったが、アンコールの技量も、選曲も良かった。ひねくれて、心を閉ざしていると感動できなくなる。開かれた心にしか感動は伝わらない。しかし芸術は閉ざした心を開いてくれる。周囲の演出や、宣伝、売り込みによってではなく、そのものの表現力で心を押し広げてくれる。
 アメリカ合衆国は北アフリカ・中東の情勢に戸惑っている。民主主義の守護者と自称していながら、民主主義を否定する者達を同盟者としていたのだから。日本は素知らぬまま内政で戸惑っている。やはり、マンデラは偉大だ。普遍的な秩序、原理原則の上で対応することが大切なのだ。普遍的な秩序、原理原則を理解することのできない者には現実が見えていないと言うことだな。
2011.2.13
 福井 一著『音楽の感動を科学する ひとはなぜ“ホモ・カントゥス”になったのか』「第10章 動物たちの音楽」を読むと「歌舞言語起源論」は取り下げなくてはならない。歌舞が自意識にとって重要であることに変わりないが、音声相互伝達が動物に備わっていることからして、音楽と言語は共進化したと解釈するほかない。「音楽は情動を伝え、言語は意味を伝える(p232)」が、言語の分節化は音楽と切り離せない。
 音楽の基礎をなす社会の理解は決定的に違う。人が社会を作ってきたのではなく、社会が人を作ってきたのだ。社会は助け合う取引の場として成り立つのではない。社会は物質代謝の組織化として発展してきたのだ。
2011.2.10
オリヴァー・サックス著『音楽嗜好症』の「第16章 話すこと、歌うこと−失語症と音楽療法」に歌舞言語起源論の傍証がいっぱいある。自意識は誕生と共に自らの「孤独」に戸惑い、共感を求める。自意識は相互伝達=コミュニケーションを求めて歌舞、そして言語を発達させた。証明するのは専門家に任せて、ますます確信できる様に思える。
2011.2.8
 O氏の年次報告が届いた。その内の私に関する部分
『哲学の一般教養 二元世界』(レービック・10年)
 4月。都立大学勤務時代の最後の3年間に事務局会計課で一緒になったTさんから、著書『哲学の一般教養 二元世界』。(レービック・10年)をいただく。
 「献辞」として、つぎのようにある。
「哲学に必要な一般教養を整理してみました。私の誤りを捨て、偏りを糺すことで、次世代の普遍的実りに貢献できれば幸いです。
 個人的には
 余命ある内に御批判いただき、応える機会が与えられるなら真に幸せです。人類の高い志しを掲げ、引き継ぐ一端を担えることを願って献呈します。
 Tさんのライフワークの完成。定年退職を機に出版された。もとになった『世界観体系化の試み』(評価版)を出されたことは、2002年の「元気でやっています」でも紹介しました。
 今回の著書『哲学の一般教養 二元世界』も大部。本文672ページ。各ページ2段構成。1段は25文字×34行。 だから、全体は25字×34行×2列×672ページ=1142400字 これは400字詰め原稿用紙に換算すると、2856枚。前回の「評価版」が2500枚だったから350枚は増えている。
 構成は「観念世界」「物質世界」「実在世界」の三部構成。第一部では自意識(主観)が創り出す世界を「観念世界」とし、第二部では科学として確認できる客観世界を「物質世界」、第三部では人間が主体的に働きかける対象を「実在世界」とし、その実践を情勢・実践・展望から論じている。

それにしてもこのエネルギーはどこからくるのだろう?
 この世界観の記述の特徴は「○○は△△であって、□□ではない。」式の論理が臆することなく滔滔と続く。森羅万象にいたるまで疑問の余地がなくなるまで記述しようとするかのような強い意思を感じる。とにかくその記述される量と範囲に圧倒される。その論理を追いかけようとするが、理解を超え、頭がしびれてしまう。だから、残念ながら今はこれ以上の紹介はできません。
 この世に生を受けて、人は他者と出会い、自分はなにものか、なぜこう考えてしまうのか、他者との関係がどうあるべきか、社会とはなにか、世界とはなにか、どう成り立っているのか、、、、、と、多くの人が考えるものだと思います。
 Tさんも自分とは何か、人間とはなにかから出発した「世界観」の模索の旅にでられたのだと思う。多くの人間はほどほどでその「旅」から引き返してしまう。巻末の「謝辞」に、「中学校でこの仕事を一生の宿題として提示された」とあるので、約50年近くライフワークとして継続されている、つまり「旅」をつづけていることになる。

多くの人が「旅」をやめてしまう中で
 多くの人間はほどほどで「旅」から引き返してしまうのはなぜか?「旅」の目的を達したからか?Tさんが「旅」を続けられているのはなぜか? もしかすると、このような「旅」をしない人も多いのかもしれない。
 Tさんは「献辞」に「余命ある内に御批判いただき、応える機会が与えられるなら真に幸せです」と書いています。また、巻末の「謝辞」で、マルクース主義研究ゼミナールの芝田進午氏に、この「世界観」を「雲をつかむようなもの」と、たしなめられたと書き、読者が批判しやすく(感想を書きやすく)なるように配慮してあります。残念ながら私の場合、「批判」の域に達するまでには時間がかかりそうです。直接的な「批判」も良いかもしれないが、私の「旅」を提示することも著書『哲学の一般教養 二元世界』に応えることになるかと思って、マイペースな「旅」を続けています。
 Tさんありがとうございました。
2011.2.5
 1から10まで数えたから、覚えたからと言って分かったことにはならない。一つなり、複数が抜けたら、抜けた数が分かること。順序数が、次数関係が分かることが1からの(0からの)自然数を理解したことになる。
2011.1.31
 人の生活を支える意識では素粒子や原子を顕在意識に表現できない。分子なら臭いや味として意識に表現できる。分子の構成物、集まりとしてなら個体や液体、気体としてとらえ、表現できる。表現するのは潜在意識であり、意識の内部表現としてである。
 顕在意識はブラウン運動を分子運動の間接的な表現として解釈することができる。顕在意識は道具や機器を操作して分子の運動、性質を調べ、分子模型、分子構造式、分子記号、運動方程式等として潜在意識に分子を提示すことができる。顕在意識は潜在意識の表現する感覚世界に普遍性、秩序を見出し、実在世界の構造、運動を理解する。
 潜在意識がカントの「物自体」を知ることができなくても、顕在意識は普遍的な世界理解として物事、世界を識ることができる。
2011.1.30
 意識は身体の対象、環境をとらえ、自らの身体を制御し、新陳代謝系を維持している。意識は身体を制御することで自らを対象化する。対象に対する主体を対象化する再帰対象化である。意識を対象化する狭義の意識が成る。
 狭義の意識=顕在意識が対象にするのは、意識できない無意識による表象である。無意識による対象の表象化は意識によって対象化されることで意識の内部表現になる。顕在意識は対象を意識することで顕在化する。対象をとらえていない時は、意識は顕在化していない。
 潜在意識が表現している感覚表象世界を解釈し、理解するのが理知であり、「知る」ことである。顕在意識は「物自体」を知るのではなく、世界理解の中に個別を位置づけ「識る」のである。感覚表象世界を解釈し、論理的に表現するのが世界観であり、哲学の目標である。普遍的世界理解である。
2011.1.29
 意識が特異点であること。意識は物の存在を受け入れている。意識自らの存在も受け入れている。しかしながら意識は対象になる物と同じ様に、自らを見、感じることができない。対象にする物と自らには絶対的な違いがある。
 自ら制御できる声を対象にすることで、対象を抽象化できる。感情を対象化できる。他者との共感を対象にし、表現できる。歌舞は言語誕生の契機になりえる。
 記号系である楽譜を介さずに,テープに録音した響きを複製することで作曲家とより直接的に相互伝達できるのではないか。録音した演奏者を介することになるが、表現したいと求める響きは記号解釈を介さずに、より直接的相互伝達の可能性があるのではないか。即興演奏の様に。
2011.1.26
 「二元世界」のA5pdf版を公開した。
2011.1.23
 感覚は幼児期の発達段階で対象を個別として区別できるようになる。成長すると無意識のうちに個別を対象として他と区別している。対象の基準になる個別の範型を獲得している。成長してからも新しい区別を獲得するには意識的訓練が必要になる。より繊細な階調を区別したり、抽象的範型をとらえるには訓練が必要である。この主観的知覚では客観的認識などありえない。カントの言う「物自体」を認識することはできない。不可知論である。しかし、「知る」ことの理解が誤っている。直接「知る」ことなどできない。
 「知る」は「識る」ことで客観的理解になる。主観的個別対象把握を全体に位置づけ、他と区別することで「識る」ことができる。全体に位置づけ、他との関係を明らかにする反省によって対象を識ることができる。直接知などはあり得ないから不可知論であるが、知とは識ることであり、可識論である。
2011.1.19
 日常生活でも物質世界と観念世界は常に重なり合ってはいない。一致していると思い込んでいるに過ぎない。観念世界とは潜在意識が顕在意識に表現している世界とすると分かりやすい。もっとも潜在意識も観念として実現している意識の基礎部分である。
 潜在意識による顕在意識への表現を実在世界と理解して日常生活に支障はない。かえって実在と理解する方が意識にとって適応的、効率的である。しかし、一般相対論の時空間の歪み、量子力学の量子の絡み合い、生命の発生、それどころか原子の存在ですら潜在意識は表現できない。科学の知識は、顕在意識が潜在意識の表現する世界の秩序を論理的に表現することで発見してきた。潜在意識が表現する世界が真実であると信じていては、科学知識を信用できない。アインシュタインですら量子力学を否定した。
2011.1.18
 物質と観念の二つの世界がぴたりと重なっていない時とは? 夢みている時。眠りから覚める時。酔っている時。病気の時。思い出せない時。不安な時。錯覚している時。捜し物をしている時。収支簿残高と、現金預金額が合わない時。もう少しで発見、理解できそうな時。
 寝ている時、意識のない時は、観念世界が失われているのだから重ねようがない。
2011.1.17
 昨日の哲学道場で深草氏が「技術的な指摘:なぜ読みがたく感じるのか?」と指摘されている。私の「始めの始めに」、「序」は全体を要約しようと無理をしているため、本人が読み返しても下手だと思う。昨日のレジメはより短文であるがよりまとまっていると自負している。
 物事を見たり、知る様には決して自分を見たり知ることはできない。鏡なり、写真なりを媒介しなくては自分を見ることも知ることもできない。要するに反省すること、世界を理知り、世界に自らを位置づけることでしか自分を理解することはできない。自分を理解した上で世界を理解できるようになる。
2011.1.16
 哲学道場高円寺で「二元論」を取り上げてくれた。素朴実在の単純さが通じるだろうと思っていたが通じない。売れるわけがないか。レジメをまとめたので紹介する。
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