前年の独白 へ
私の拙い疑問に付き合ってくださりありがとうございます。一応年末でキリが良いので、私からの疑問はこれで最後にしたいと思います。
私が客観的な外部の正しい把握といった場合、端的には私たちの日常生活における私たちの身体の振る舞いを指します。重力に抗して身体を制御し、合目的的に身体を動かしています。それらは、意識には認識されていませんが、中枢神経で調節されております。このような人間の身体活動は、人間の生存には欠かせません。この人間の生存は他者の生存にも関わります。例えば全ての人間が体性感覚のみを持つようになれば、今の社会は維持出来ません。恐らく相当数の人間が正を断念しなければならない事態になると思います。
意識が外部を認識するというのは、原子や分子などの自然科学的な対象のみを対象としているわけではなく、それ以前的な、私たちが現に存在しているこの物理的世界を私たちは、全部ではないにしても、部分的に正しく認識することが可能であるというのは、恐らく自明であると思います。それらの法則性や、背後にある自然の物質的な動態に関しては、様々な仮説、推論、実験、証明という「社会的認識としての科学」を必要とすると思いますが、私たちは既に科学が対象とする世界の中に存在し、私たちもまたそれの一部であります。
言語的に、また意識的に「知る」こと以外にも、人間は既に身体的に「知る」ことをしています。感覚器からの情報はそれの格好の例です。人間が刈りをし、農耕するにも、身体動作は必要不可欠であり、労働全般がそうです。マルクスの合目的的性には言語や観念のみではなく、無意識的に自然を正しく知覚している人間の基本的な能力をも加味するべきであると思います。
Local Time: 2011/12/31/13:13
モノの見方の問題であると思います。
市川様の仰られるように「意識が混乱したりすれば、客観性自体が失われ」ます。つまり、客観的な外部というものは、非常に脆いものであると思います。しかし、その客観的な外部が意識には絶対的に必要であります。例えば脳細胞は客観的な外部です。内分泌も外部です。神経伝達物質も外部です。このような外部の物質が意識を構成させているのです。この意識を構成している物質が、外部の環境変化なり環境そのものを対象化することが知覚・感覚の一つの重要な機能です。これが正しく作用することで、人間は自然の中で生きて来ることが出来、また今も生きていると思います。ですが、市川先生がおっしゃるように、それは非常に脆弱です。しかし、意識の外部を客観的に認識することが出来る「機械」という観点から人間を捉えるならば、これに勝る機械は今のところないのではないかと思います。
Local Time: 2011/12/29/8:35
個人的にはイリュージョンよりも、なぜに人間は正確に外的世界を把握出来るのか、という方が驚愕的な事実だと思います。例えば耳は外耳という穴から鼓膜を経て、ツチ骨、キヌタ骨、アブミ骨を経てリンパ液を振動させ、その振動が神経細胞を興奮させ、その興奮が様々な経路を経て内側膝状体を経て大脳皮質の聴覚野に連絡して「聞こえる」という状態(現象)を生み出しています。ここには全く主観が入り込む余地がありません。ただの現象の連続です。重要なのは、観念が実在しているという事実ではないでしょうか?神という観念も観念という形態であれば実在している。脳神経学的にはそのように言えると思います。観念は実在しており、我々の意識は実在している観念という形態を取って現象(実在)していると。観念=非実在という前提が強固に日常的に存在しており、それは反対に言えば、観念の対義語が現実であり、現実=実在という
Local Time: 2011/12/28/15:23
Local Time: 2011/12/28/15:25
立川さんのご著作は、まだ全部読めていませんが、HPに掲載されてあるものをチョコチョコ読み進めています。近くの図書館にあれば幸いなのですが、ないので、そのうち金銭的に余裕がある時にと考えています。
そしてこの日記もまた愉しみにしています。
その上で一つ質問です。
2011.8.10で「体勢感覚」という表現がありますが、体性感覚」の間違いではないでしょうか?
寒い季節ですのでお身体ご自愛ください。
失礼しました。
草々
大変申し訳ございませんでした。私の思い込みでした。
誤記を指摘しておきながらこちらがお名前を間違うとは噴飯ものですね。誠にすいません。
ところで、http://takahashiryouhei.blogspot.com/2011/12/blog-post_430.htmlに私の唯物論に関する詰まらぬ文章を載せております。これまでの唯物論や社会主義論に対する批判でもあると思います。お暇な時にでもご笑読いただければと思い貼り付けさせていただきます。
失礼しました。
「哲学に必要な一般教養を整理してみました。私の誤りを捨て、偏りを糺すことで、次世代の普遍的実りに貢献できれば幸いです。
個人的には
余命ある内に御批判いただき、応える機会が与えられるなら真に幸せです。人類の高い志しを掲げ、引き継ぐ一端を担えることを願って献呈します。