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独白

二元世界」を出版して目標が失われた虚脱状態からの再出発。

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2010.12.21
 楽曲のテーマが分かるとはパターン認識のこと? やはり感覚的なことなんだろうな。聞き慣れた曲ならテーマは分かるけど、初めての曲でテーマを聞き分けるのは才能か?
2010.12.1
 今朝のニュースで東京では保育士が不足しているとのこと。一方で大卒の就職内定率が60%を切っているという。「賃金はコスト」「コストはカット」を是とする社会では歪むのが当たり前。出資して金を儲けるのは良いことで、働く者の生活を保証するのは悪である。労働によって社会組織の基本、経済の基本、社会代謝を実現しているのに、その労働を否定する価値観では社会が成り立つわけがない。
 昨夜11月30日都響B定期での四方恭子さんのヴァイオリン・ソロは表現者としての強さが感じられない。そりゃ私は主題も変奏も区別できない素人ですが。
2010.11.23
 日経サイエンス2011年01月号 p81-「ホーキングが語る 究極理論の見果てぬ夢」でリアリティを論じている。丸い金魚鉢に住む金魚の視点からでも世界を定式化できる。観測による「描像はひとつではない」「脳は[こうした]モデル構築がとても上手」。描像、モデルは相対的で、リアリティの程度は相対的である。「宇宙を記述するには、状況によって異なる理論を適用しなければならないのかもしいれない。」 ラマチャンドランと同じ結論である。
 描像、モデル、理論が多様であっても、多様性が許されるのは対象世界がひとつであるからだ。対象世界がひとつでなければ解釈それぞれの相対性すら保証されない。素朴実在の絶対性だ。色眼鏡をかけても世界の色が変わるわけではない。色眼鏡の存在する世界に変わりはない。
2010.11.21
 A.ルリヤ著、文一総合出版刊「ルリヤ 偉大な記憶力の物語 −ある記憶術者の精神生活−」記憶と言うより感覚体験の取り込みと想起を対象にしている様に思える。特に共感覚が主人公と呼べる「シィー」の特異性を特徴づけているから。自分の記名、想起の過程と重ねて呼んでいるとクラクラしてしまう。「記憶術」に限らず「速読術」も物事の理解とは別の能力に思える。
2010.11.15
 「父さんにこの本がおすすめ」と娘に伊達宗行著、筑摩書房刊「「理科」で歴史を読みなおす」を薦められた。子供に鼻面引き回されるのは癪な様な、嬉しい様な。読み始めて、縄文人の数に関わるあたりは物足りないが、具体例はありがたい。面白そう。
 昨日の補足と展開。「我思う」は「思う」対象と「我」が対になって「我」は対象と同じ「他」になっている。「我思う」と表現している我と思う「我」とはすでに異なっている。再帰しなくては我は一体ではない。再帰したなら、我と他は隔絶している。この隔絶の恐ろしさ、寂しさに耐えかねて、人は共感を求め歌い踊り、コミュニケーションを求めて言語を発明した。
2010.11.14
 「我思う、ゆえに我あり」の思う「我」はすでに我ではなくなっている。「思う我」は我ではない他=対象である。また「ゆえにある我」も我ではない他=対象である。我ではない他の存在が我と共に前提になっている。「存在」とはこのようなことでり、このことを外してはない。他と我の二元が存在の前提をなしてある。二元の前提は自他の区別と統一を内容としている。自他の区別と統一は前提でもあり、結論でもある。自他のあり方を探求すれば、自は代謝する他であることが明らかに結論される。他の内にあって代謝によって自が出現していることが明らかになり、自の実現としても実証される。自らの代謝を実現できなくなれば、自他の区別は成り立たなくなる。「死」を経験しなくとも、他を失えば「自」も失うことはほぼ毎日睡眠として経験している。毎朝、他を取り戻すことで自らと世界を取り戻している。
2010.11.13
 「私は素朴実在論者だ」との表現は矛盾しているようで、矛盾ではない。素朴実在論者にとって実在把握が素朴であるかどうかを問わないから「素朴」なのだ。非素朴実在を認めない者が、認めない非素朴実在と自らの実在を区別するのは矛盾である。しかし、非素朴実在論者と区別して素朴実在論者がいる。素朴実在論者にとって非素朴実在論者も素朴な実在である。
2010.11.12
 別冊日経サイエンス「知覚は幻 ラマチャンドランが語る錯覚の脳科学」を購入した。人を説得する時の基本的資料になると思ったから。知覚は意識の対象を内部表現しているから幻と言って良い。幻しか知覚できない人が、幻間の相互関係から、対象との関係から、普遍的な関係を抽象する。抽象した対象の相互規定関係として、幻ではない実在対象を認識することができる。「物自体」などという観念の創作物ではなく、現実の対象を認識できる。昔から圧倒的多数の人がこのようにして現実の対象を実在として認識してきている。ただ、幻である感覚、知覚を実在だと思い込んでいるのではあるが。
 ただし、「知覚」には感覚を対象として捉える知覚と、知覚を反省して、再帰対象化した知覚が区別される。再帰対象化した知覚は幻ではない。錯図は幻であるが、錯図と認識した「錯図」は幻ではない。いわゆる感性、知性、理性の区別で、理性は知性を再帰対象化する、反省する認識である。
2010.11.5
 空間は延長と隔たりとして測られる関係形式である。
 時間は空間形式での変化を測る関係形式である。
 関係形式である空間と時間が表すのは運動である。
 運動は相互作用の現れであり、相互作用は対称性の破れであり、区別と関係を表す。
 
 世界は存在としてある。
 存在を認識する意識は存在する。
 存在と認識の関係を表現するのが論理である。
 存在の階、意識の階、論理の階を整理することで世界を見通すことができる。
 
 意識は自らを作り上げて検証する。
 対象を操作する自分を作り上げて表現する。
 人の気持ちすら、自らの内に作り上げて納得する。
 自らを作り上げる能力が、様々な錯覚を生じさせる。
2010.11.4
 SNSのmixiに参加。
2010.11.2
 マルクスも、エンゲルスも、レーニンも、科学の発展と共に哲学は書き換えられなければならないと言っていたと思う。彼らは科学の成果に常に注目していた。科学的であることに誠実であろうとしていた。サボっていたのは哲学者なのだな。だから「共産主義」は反動化した。
2010.11.1
 知識など、今時いかようにも検索できる。知識を与えることにも、受け取ることにも、互いに責任などはない。記憶する事に人間的価値はない。大切なのは理解すること。理解とは自分の理解を基に、新たな対象を評価すること。それによって、それまでの理解瓦解もいとわず、再生の喜びを求め得ること。
 自らの、人の、子供の、生徒の可能性を認められなくなっては面白くない。こればかしは、自らの経験では測り知れない。
 評価されることは喜ばしいことだ。しかし、良い評価を得る人はまれだ。歴史に埋もれた人達の方が圧倒的に多い。メンデルはよほど恵まれている。真幸くあらば先取権を証明できる様、記録を残す。数千年の哲学の歴史でも、新奇などではなく、新たな段階はある。そうでなければ人類の進歩が否定される。このままの世の中で満足するなら別だが。
2010.10.31
 哲学は認識、論理、存在を三大基礎分野としている。
 今日、認識は心理学、脳神経科学の発展によって実証科学になりつつある。
 論理は区別と関係を明らかにする。区別と関係を形式化し、秩序関係を明らかにするのが形式論理学である。ところが区別と関係は固定した不変な形式ではない。区別と関係は相互規定、相互依存、相互前提の関係にある。認識にあっても区別された個別対象間の関係を追求し、関係によって区別を明らかにする。区別と関係の関係を超えた区別の関係として、認識の問題であるとともに、また存在の問題である。創発する存在、恒存する代謝を実現する構造を明らかにする。
 哲学独自の課題として残されているのは存在であり、意識による解釈である。
2010.10.27
 NHKハイビジョン特集「わたしは“奇跡”ではない〜生誕130年 ヘレン・ケラーの真実」で盲ろう者の脳fMR解析の紹介が面白かった。手話をしているときに健常者の視覚野と聴覚野が言語野とともに使われているとのこと。対照の健常手話使用者では当然に視覚野と聴覚野は使われない。
 東京大学教授 福島 智氏の盲ろう者にとってコミュニケーションしていない時は絶対的に近い孤独になるとの話。禅の悟りとの関係はともかく、自己意識の孤独は健常者も障害者も違いはないと思う。(この福島氏は、私が都立大学教養部教務課在職時に在学していた。)
2010.10.24
 世界と私

意識として
 世界を言葉で表し、説明する。
情動として
 危機を察知し、報酬を得る。
感覚として
 対象を確かめ、自身を確かめる。
身体として
 代謝秩序を実現し続ける。
それが私と世界だ。
 認められなくとも、読まれなくても、仕方ない。いづれここに至る。
2010.10.23
 岩波新書 木田 元著「現象学」は、解説と称していながら「現象」が何を指しているのか説明していない。最後まで読み終えて、いくらか理解できる。
 要するに指している「現象」とは日常生活での経験、およびその対象としての世界のことである。「現象」と言い換えるのは、日常経験の移ろい、動的である世界に秩序を求め、あるはずの絶対的本質、あるいは普遍的本質をとらえようとするのである。「本質」が元々にあり、その現われが日常経験世界であるとの解釈を前提にしている。普遍的本質を日常経験を超えて追及した超越論的哲学、形而上学の観念性を批判し、本質と現象との関係を追求したのが「現象学」である。
 認識論はもはや実証科学になりつつある。本質と現象の関係は主体的には認識の問題であり、解釈の問題ではなくなってきている。「日常生活での経験」と「日常生活での対象」の二重化を認めることが二元論の根拠である。
2010.10.13
 月16日勤務のため今日は仕事がない。気候も良くなったのでバイクで府中市美術館へ「バルビゾンからの贈り物 − 至高なる風景の輝き」を見に行った。一つの世界を具現している作品、技法、意味を模索中の作品、販売目的の作品も。それでも美術館に展示される作品を残せている。評価を求め、自己実現を求め、様々だろう。子供の作品でも感動を引き出せるが、解説、売り込みでも感動を引き出せる。
 すいている美術館は楽しい。椅子に座り込んで表現世界に独り。自分の部屋で鑑賞している様。
2010.10.12
 映画「冬の小鳥」。幼い主人公が厳しい状態に置かれて、やむを得ない運命だと諦めるのではなく、今の自分の力ではどうしようもない現実を受容して歩み出す。受け入れる過程での、くじけはしても積極的試みの数々が豊かな子供世界を見せてくれる。見守る周囲の大人の対応がまた、押さえつけるでも、押しつけるでもなく、それぞれの受容に納得しきれずとも見守るところが素晴らしい。誰にでも分かりやすく作るハリウッド映画に慣らされた眼から見ると退屈だが。
 帰りの地下鉄の座席で自分の顔が向かいの窓ガラスに映っている。その顔は瞬きをしないから異様だ。
 意識は意識していることを再帰して対象にできる。注意は注意していることを注意できない。注意の対象性こそ主観を特徴付けるものだ。対象化することで注意は存在し、自らのみで存在できないし、自らを対象にできない。
2010.10.6
 道理が通らなくては人類は生き残れない。経済権益だけでは人類は滅びる。道理を示すのがマスコミの役割だろうに、経済権益に基づく感情対立を煽るマスコミが、政治家がほとんどだ。道理の力を実証できる芽がこのまま育ちますように。
 同情が集まれば費用を惜しまずに治療ができる。同情を集められなくてもそこそこの治療は受けられる。勝手に不養生していても許される。他方では数百円で何人ものポリオワクチン接種ができるという。経済権益だけを追求すれば歪んだ世界が出来上がる。
 映画「ベンダ・ビリリ!〜もう一つのキンシャサの奇跡」のサッカー(?)シーンを思い出せば、少しは希望が持てる。
 
 出版のために滞っていた本、雑誌に眼を通している。「日経サイエンス 2010.05」の55ページに「たとえあなたが孤独に感じたとしても,実際には100兆もの微生物が自分の体に住んでいることを忘れないでほしい。私たちの体をつくる細胞よりも10倍多い細菌が共生している計算だ。」とある。知らなかった。
2010.10.5
 評価は、評価者の視点からの一面でしかない。評価におもねる評判をどれほど集めても実体の評価にはならない。主観、客観、超越、間主観と、評価を評判しても意味はない。生活者、実践者として対象を評価することが大切なのだ。人の解釈を評価するのではなく、自らの対象を理解し、評価することが生きること、なのに「人の評判にならぬ」と落ち込むアホがここに居る。
2010.10.3
 ロバート・A・バートン著「確信している脳」を読んだ。258ページに「つまり私たちは、生物学的なものに囚われながらも、心身二元論問題からも逃げることができないのだ。」と二元論を認めている。我田引水しなくても、「知っていることを知っている」というメタ感が面白い。バスケット練習ビデオに現れるゴリラの実験例も読書での二度目の再会。
 細胞は壊れたり、刺激を受けることで伝達物質を放出する。伝達物質を放出することで周辺の細胞が炎症を起こすことにもなる。神経細胞の受容体に結合する伝達物質によって神経が刺激され、脊髄を介して脳に神経信号を送る。刺激によっては脊髄を経て運動神経へ信号が送られ反射反応が生じる。反射反応では痛みは感じない。脳の痛覚中枢と情動の反応として痛みは感じられる。生化学的には「痛み」は神経細胞の発火でしかない。「痛み」の元は「傷口」などにあるが、感じられるのは脳においてである。だからペイン・クリニックが成り立つ。生化学的には「痛み」は存在するのではなく、存在するのは神経細胞の発火である。しかし主観的には「痛み」は否定しようもなく「存在する」。存在しない手足の「幻肢痛」も「存在する」。「痛み」は意識の内部表現として「存在する」。この明らかな「存在」の違いが二元論の根拠である。「痛み」と同じに「私」、「自己」、「精神」も物質としての存在ではなく観念として絶対に存在する。世界は物質と観念の二つの元として存在する。
2010.9.29
 アントニオ・R・ダマシオ著『感じる脳』を読んだ。第4章までは了解できるが、第5章以降の二元論否定はいただけない。362ページ以降に「霊的な感情」「霊的な経験」といっていながら対象である「霊的」存在を認めない。「存在」の理解が異なる。
 スピノザからの良い引用があった。「そういう人間は、もし地獄の恐怖によって抑制されなければ、おのれの欲望にしたがって行動する人間だ。そういう人間は、おのれの意に反して、不道徳な行動を控え、奴隷のように神の命令にしたがう。そして自分が奴隷であることに対して神からの贈り物を期待する。それも神の愛ではなく自分の好みにあった贈り物を。もともと徳が嫌いなのだから、それに見合う大きな贈り物を。」p350
 感情は決断するために、理性は反省するためにある。
 
 社会的物質代謝における労働の意味説明:生理的物質代謝をになうのはアデノシン三リン酸=ATPである。エネルギーの供給媒体として、エネルギーの運搬媒体としてATPは代謝をになっている。同じに人間労働が社会的物質代謝をになっている。社会代謝を担うから、労働力が社会的価値の源泉である。人間社会での普遍的価値をつくり出すのは労働力である。労働価値説の物質的根拠である。個別的使用価値の話ではない。
 人間労働がATPより優れているのは、秩序を組み合わせて新しい秩序をつくりだすことにある。ATPは遺伝システムと組み合わされなければ新しい秩序をつくりだすことはできない。


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