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唯物論と二元論
唯物論の世界にあって「二元論」は軽蔑されるか、無視されることは重々分かっているのですが、あえて提起したいと思います。
私が住んでいて、意識できる観念世界は生き生きと、ありありと、失望も含めて実に感動的な世界です。「哲学の一般教養 二元世界」としてまとめてみました。しかし残念なことに私の知人は忙しいのか、私の世界に関心を持ってもらえないのです。
私の観念世界は物質世界にある私の脳によって実現されていると私は信じています。信じるしかないのですが。私の観念世界は感覚として直接感じ取れますが、物質世界は数学と統計学を用いた論理によってしかとらえることはできないそうです。数学と統計学の訓練を受けていない私は、ポピラー・サイエンス=通俗科学によって物質世界を理解してきました。実に単純で素朴な世界理解であると思うのですが、これまで人々には受け入れてもらえないのです。どこか間違っていますか?
私のは正統な「二元論」ではないと思いますが、mixiを利用すれば「二元論」についてコミュニケーションできるのではと期待しています。
どなたも興味を持たれないようで、独り言ちるしかないようです。
存在 第一
私の世界、つまり観念世界は「意識できる意識表象を対象として意識する、意識だけからなる世界」です。
端的に「独我論」と呼ばれる世界です。ここに留まるなら、「私はどこから来て、何処へ行くのか?」といった問題は永遠の謎になってしまいます。
寝入ってしまえば、私の世界も意識されなくなります。死んでしまえば、寝入った時と同じに意識が失われ、寝入った時と違って寝入ったことも意識することができなくなるのでしょう。
存在 第二
「意識だけからなる」独我論的観念世界は、「だけ」を否定することで「意識できない対象」をも意識できます。私の観念世界、意識世界には意識できるものと、意識できないものとがあります。
意識できるものはまず、感覚としてあります。視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚、平衡感覚、体性感覚等です。
しかし、感覚もすべてを意識しているわけではありません。意識は常に一つの対象のみしか意識できません。意識の対象は独立した物事に限らず、対象にしている意識表象です。意識できる感覚表象でも、意識が対象にしていなければ意識しない、無意識の対象になっています。無意識の対象であったものが重要になれば意識はそちらに注意を向けます。
感覚以外に意識できるものとして記憶があります。その記憶にも、意識できる記憶と、忘れてしまって意識できない記憶があります。忘れて意識できない記憶も、意識できる記憶をたどって思い出せる可能性があります。
さらに、意識するまでもない潜在意識もあります。練習、訓練することによって意識しなくても様々な運動、行動ができるようになります。日常の様々な行為はほとんどが意識されません。通い慣れた道は意識しないでも、人や車を避けて通ります。また、文章を読んでいる時など、文字は意識もされず、記憶もされず、意味だけが意識されます。文字の形、単語の意味は記憶から想起されているはずですが、その想起は意識できません。
さらに訓練によって意識は拡張できます。箸を使い慣れることで箸の先端で米粒一つを摘む感覚を意識できるようになります。手指の感覚を超える箸端先の感覚は潜在意識が担っています。
つまり、私の意識世界は、「感覚」、「記憶」、「潜在意識」から成り立っています。そして意識ではない、意識世界ではない、意識世界を実現している物質世界を想定することができます。
意識しか意識できない意識世界の住人が、意識世界でない物質世界をどのように意識できるかが次に問題になります。認識の問題です。
認識
意識ではない存在として物質を意識できます。五感の対象としての物質であり、平衡感覚、体性感覚等として感じる自分の身体を物質として感じ取れます。
しかし、感覚だけでは物質を理解することはできません。
「138億年」という時間は「ほとんど無限の長さの有限の時間」あるいは数字と単位からなる記号としてしか感じ取れません。
「量子」は繰り返し、伝わる広がりとしての波でありながら、不可入で特定の位置を占める粒子でもあるとのことです。そんな量子を理解できないどころか、感じ取ることすらできません。
日常的にも、赤外線や紫外線は見ることはできませんが、暖かさとして感じ取れる光ですし、紫外線は日焼けや雪眼の原因になります。
宇宙の歴史、量子等の感覚で捉えることのできない物質も、その普遍的有り様を探ることができます。すべてを理解できなくても、感覚によってとらえることのできない物も、日常の感覚を通して、普遍的有り様を探ることで理解可能になります。
いつでも、どこでも繰り返されることとしての普遍性を明らかにすることで、予測できるまでに物事を理解できるようになります。
普遍性は世界の秩序です。世界の普遍的関係である秩序は数学と統計学によって解明され、表現されます。世界の秩序は論理によって法則として普遍的に表現されます。論理は直感のような個人的能力には依存しません。法則によって世界秩序を解釈するのが理論です。
世界の秩序を法則として論理によって表現し、法則によって対象を解釈し、世界を解釈するのが科学です。数学と統計学を学んでいなくても、科学の成果の解説は理解可能です。ポピラー・サイエンス(通俗科学)を通して、日常の経験を科学的に解釈することが可能になり、日常経験の科学的検証を敷衍化することで物質世界の科学的理解が可能になります。感覚、日常経験にだけに頼っていては、物質世界を理解する事は不可能でしょう。
論理
論理は区別される関係を表現します。
区別は誰かによってなされる以前に、物質の存在自体が他と自らを区別し、全体から自らを区別しています。対称な普遍的存在から対称性を破って特殊な質として区別がつくりだされます。普遍的な「類」に種差が現れることで「種」が区別されます。
区別は対象がより個別的秩序として実現される形式です。区別は同一性と差異性を止揚する形式です。普遍的な同一性にあって特殊な差異性によって対象が区別されます。
対象が区別される関係形式を認識して表現するのが論理です。論理は対象を構成する秩序を認識して表現します。
論理は区別される関係を集合関係によって表現します。集合が普遍的な同一性であり、要素の定義が特殊な差異性を表します。集合と要素の関係、集合と集合の関係、集合間の要素の対応関係として論理がありす。
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