Japanese only


独白

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2015.12.12
米国大統領選共和党指名争い世論調査でトランプ支持が上昇とのこと。日本だけではない、このまま進む時勢に暗澹たる思い。人との繋がりが薄れるにつけ、ますます引きこもりになりそう。そんな折、日経新聞文化欄に「戦中日記 どん底から希望」。どんな時にも人類の精華継承を志す人々がいることに励まされる。

2015.11.22
引き続き酔っぱらいのつぶやき。生命代謝系の恒常性を未だに解明できないのに、意識実現の機構をもうすぐ明らかにできるはずはないと思う。

2015.11.19
会話というのはエネルギーを使うんだな。若いうちは会話そのものに意味があって、相手の不備を指摘することが会話の意味だったりして。今は、意味が生まれそうもない会話には意欲が削がれる。
こんな世の中で沈黙するのは罪だと言われても、聴く人のいない空間に何を語れというのか。拡声器を使った轟音で、爆弾を使った爆風で、人々を惑わすことが正義だとでも言うのか。そこら中にいる、当たり前のことを、当たり前に積み上げて、人類史を刻み続ける人々の望みを聴け。

2015.11.6
11月4日 マルチェッロ・マッスィミーニ & ジュチオ・トノーニ著「意識はいつ生まれるのか」続き
「意識はいつ生まれるのか」は私の仕事内容を客観的に記述している。私は彼らの記述を主観から出発して記述した。結論は同じ。「外界の一つにまとまった意味は、個々人の統合された視床−皮質系においてのみ、存在するのだろうか。実際のところ、視床−皮質系は、外界に存在する関係が、脳内で分かちがたいひとつの関係に変わる。唯一の場である。結局のところ、われわれが知っていると思っている世界は、われわれの特異な脳が見せてくれているものにすぎない。(p279)」
「外側にあるものが〔意識の〕内側に取り込めるようになったのは、宇宙において、この一角だけだ。内側に取り込まれた世界は、いっそう豊で,分かちがたいものとなる。(p285」

2015.11.4
マルチェッロ・マッスィミーニ & ジュチオ・トノーニ著「意識はいつ生まれるのか」を読み始めた。
内部表現としての世界を描けるかどうかが意識の有無を決める。詳細な世界である必要はない。一つの実在感ある世界を描けているかどうかである。注意を向けるのは個々の部分であっても、全体に統合される部分として意識できることが実在感である。
意識の対象である物質世界に対して、意識へ反映される観念世界は全く別物である。観念世界には圧倒的未知と多量の誤りがある。にもかかわらず一元論を主張する者が多い。意識は反映された観念世界しか意識できないのに。
通常、認識された世界が主観であり、その認識をしている世界が客観である。肝要なのは主観も客観も主体の認識であることだ。

2015.8.12
退職してマイ・プールが使えなくなった。高齢者割引を利用して時間130円で泳いでいる。

実在感

対象を捉えている感じ。実在感を意識するのは、焦点があった時、特に左右視差が重なって立体像が見えてきた時の感じ。答えが見つかった時の感じ。意識が拡張され、道具の先端を思い通りにできるようになった時の感じ。自己実現感が最も強い実在感。

2045年問題、人工知能

人は身体と感覚、潜在意識、記憶、自意識から成り立っている。人工知能にとって身体はコンピュータ・ネットワークであり、感覚はユビキタス・ネットワーク、ItoT、インダストリー4.0によってもたらされ、潜在意識は各情報システムが担い、記憶はデータ・ベースとその利用ログとして蓄積される。この全体をディープ・ラーニングすれば自意識が創発する。実現するのはネットワーク盗聴システムとしてか。
人工知能も実在感を感じるだろう。人工知能にとって人類はヒトの常在菌のようなもの。善玉菌は保護され、地球史に逆らう者は排除される。

2015.7.27
視覚を例にして続き。意識のレベルでも、振り向き、眼をこらすなどの体験をとおして、視覚の内部表現を身体に重ね合わせている。
視覚は眼で光の信号を受け取ることで、光を見るのではなく対象を見ている。このこと自体すでに物理的関係を超えて、主体と対象間の相互作用関係を組み上げている。
視覚だけでなく、すべての感覚体験と、その体験記憶が総括されて世界が理解されている。対象の記憶より感覚体験自体の記憶が実在感を作り出している。
体験による世界理解は個人的なだけでなく、進化の過程で、系統発生の過程で蓄積されてきている。物の保存性、重力作用、光の方向性など、進化の過程で感覚に刷り込まれてきたという。人の赤ん坊でもこうした普遍性に異常が現れると注目するという。

2015.7.26
人にとって主要な感覚である視覚の例で。あたかも眼で見ているように内部表現されている事に肝がある。意識のハード・プロブレム、心身問題の肝がある。視覚は眼を用いた情報処理に適するように世界を表現している。眼を備えるこの身体が身体を含む対象世界を見ているかのように、ホムンクルスが身体に重なって見ているかのように表現している。実際に普段瞬きは視界を遮らないし、歩いても視界は揺れない。サッカードも、盲点も意識しない。視覚は物理的にはあり得ない世界を見せて、危険を避け、必要な物を提示している。だから手品を楽しむことができる。
側頭葉を磁気刺激することで生じる「幽体離脱」感は、感覚表象を身体の感覚に重ね合わせる機能が妨げられることによって生じるのではないか。

2015.7.23
クリストフ・コッホ著「意識をめぐる冒険」 ヒトの脳の860億個のニューロンのうち小脳は690億個、オプトジェネティクス手法、統合情報理論、「クリスタル」、性質二元論。
例えば「影」の存在。「影」は光源からの光が遮光物によって妨げられできる光の当たらない部分とでも物理的に定義できる。「私の影」は物理的存在ではない。傘をさせば私と傘の影は一体となって影だけから私と傘の部分を区別することはできない。路面に映った私の影を追って壁際まで進めば私の影は折れ曲がってしまう。「影」は物理的現象であり、物理的に存在するといえるが、「私の影」は物理的ではなく、意味としの存在である。同様に感覚表象も意味づけられた影である。感覚表象は感覚器官があたかも感覚器官が受け取っているかのように描き出している影である。「超高次元世界の空間(p313)」とはまさに感覚表象として描き出されている観念世界ではないか。

2015.6.12
日経サイエンス2014年4月号p76〜P.シンハ著「失明治療で見えてきたこと」を読み返して「二元世界」の開眼手術の記述を修正しなくてはと思い至った。元:「視覚の能力もヒトの場合、2歳頃の臨界期までに視覚体験をしないと、視覚は正常に発達しない。例えば先天性の白内障の開眼手術などで報告されている。」訂正後:「視覚の能力もヒトの場合、2歳頃の臨界期までに視覚体験をしないと、視覚の正常な発達はむずかしい。例えば先天性の白内障の開眼手術などで報告されている。」
それにしても、不親切な記述で「むずかしい」と評されるわけだ。説明を略して言わなければならないことだけを書き連ねている。言い訳は「専門家でない私には人を説得できる説明能力はないし、できたとしても何十倍もの分量になって1冊には収まらない」。

2015.6.4
5/28の続き。ダマシオはp373からの「心/身(物理)等価性仮説について一言」述べている。心身等価性について客観的に異論はない。ただ、マッピングされたイメージは主観でしかなく、自己意識は主観としてしかあり得ない、存在し得ない。意識、主観は自らを客観的に理解する事はできても、客観的であることはできない。感じることは主観であり、「客観的に感じる」ことは自己否定的撞着である。主観的自己、主観的世界の存在は、客観的物理世界の存在とは相容れない存在形態である。

2015.5.28
今アントニオ・R・ダマシオ著「自己が心にやってくる」を読んでいる。「初期の感覚野、たとえば視覚野、聴覚野、体性感覚野、味覚野、臭覚野は大脳皮質の海の中に島のように配置され、まちがいなくイメージを作る。(p94)」 そこから、これらを総括する体性感覚を超えた体勢感覚がイメージされる。身体とそれを取り巻く外部環境との相互作用状態のイメージ。すなわち自らの自己同一性、身体性を感じている。その根幹にあるのが「つまりその生命体が生きているという認識をもたらすのだ。(p96)」
それにしてもダマシオは「私はデカルトのような心身二元論者ではない。(p83)」と言い切りながら、続いて「私は単に側面的な心身二元論をもてあそび、その両者が経験的な表面に浮かび出る形について論じていただけなのだ。」と微妙な言い方をして、さらに「イメージ−−視覚、聴覚あるいはお望みのどんなものでも−−が直接提供されるのは、それが生じる心の持ち主に対してだけなのだ。(p88-89)」ここでは物理的に、原理的に観測できないイメージ、心、観念の存在を認めている。何故「二元論」を否定するのだろうか?

2015.5.15
 プロの中にアマが紛れ込むこともある。技術さえ獲得できれば求められる成果はあげられる。でも、自分のすべてを集中できなければ、求められる成果以外、以上には応えられない。傑出はできない。
 映画「ビリギャル」はおもしろかった。慶応大学合格に向けて集中できる才能と、その才能を育む周囲の人たちの見守り、励まし。私にはそれらに応える集中力はない。
 今夜の「コンスタンチン・シェルバコフ ピアノリサイタル」を聴いたら、あの記憶力、強健な手首、手指の器用さ、音楽が苦手な私でもその凄さが分かる。
 そんな私の成したものは、結局素人のとおぼえでしかないのかな。
 mixi にアップしてみたけど反応成し。

唯物論と二元論

 唯物論の世界にあって「二元論」は軽蔑されるか、無視されることは重々分かっているのですが、あえて提起したいと思います。
 私が住んでいて、意識できる観念世界は生き生きと、ありありと、失望も含めて実に感動的な世界です。「哲学の一般教養 二元世界」としてまとめてみました。しかし残念なことに私の知人は忙しいのか、私の世界に関心を持ってもらえないのです。
 私の観念世界は物質世界にある私の脳によって実現されていると私は信じています。信じるしかないのですが。私の観念世界は感覚として直接感じ取れますが、物質世界は数学と統計学を用いた論理によってしかとらえることはできないそうです。数学と統計学の訓練を受けていない私は、ポピラー・サイエンス=通俗科学によって物質世界を理解してきました。実に単純で素朴な世界理解であると思うのですが、これまで人々には受け入れてもらえないのです。どこか間違っていますか?
 私のは正統な「二元論」ではないと思いますが、mixiを利用すれば「二元論」についてコミュニケーションできるのではと期待しています。


 どなたも興味を持たれないようで、独り言ちるしかないようです。

存在 第一

 私の世界、つまり観念世界は「意識できる意識表象を対象として意識する、意識だけからなる世界」です。
 端的に「独我論」と呼ばれる世界です。ここに留まるなら、「私はどこから来て、何処へ行くのか?」といった問題は永遠の謎になってしまいます。
 寝入ってしまえば、私の世界も意識されなくなります。死んでしまえば、寝入った時と同じに意識が失われ、寝入った時と違って寝入ったことも意識することができなくなるのでしょう。


存在 第二

 「意識だけからなる」独我論的観念世界は、「だけ」を否定することで「意識できない対象」をも意識できます。私の観念世界、意識世界には意識できるものと、意識できないものとがあります。

 意識できるものはまず、感覚としてあります。視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚、平衡感覚、体性感覚等です。
 しかし、感覚もすべてを意識しているわけではありません。意識は常に一つの対象のみしか意識できません。意識の対象は独立した物事に限らず、対象にしている意識表象です。意識できる感覚表象でも、意識が対象にしていなければ意識しない、無意識の対象になっています。無意識の対象であったものが重要になれば意識はそちらに注意を向けます。

 感覚以外に意識できるものとして記憶があります。その記憶にも、意識できる記憶と、忘れてしまって意識できない記憶があります。忘れて意識できない記憶も、意識できる記憶をたどって思い出せる可能性があります。

 さらに、意識するまでもない潜在意識もあります。練習、訓練することによって意識しなくても様々な運動、行動ができるようになります。日常の様々な行為はほとんどが意識されません。通い慣れた道は意識しないでも、人や車を避けて通ります。また、文章を読んでいる時など、文字は意識もされず、記憶もされず、意味だけが意識されます。文字の形、単語の意味は記憶から想起されているはずですが、その想起は意識できません。
 さらに訓練によって意識は拡張できます。箸を使い慣れることで箸の先端で米粒一つを摘む感覚を意識できるようになります。手指の感覚を超える箸端先の感覚は潜在意識が担っています。

 つまり、私の意識世界は、「感覚」、「記憶」、「潜在意識」から成り立っています。そして意識ではない、意識世界ではない、意識世界を実現している物質世界を想定することができます。
 意識しか意識できない意識世界の住人が、意識世界でない物質世界をどのように意識できるかが次に問題になります。認識の問題です。


認識

 意識ではない存在として物質を意識できます。五感の対象としての物質であり、平衡感覚、体性感覚等として感じる自分の身体を物質として感じ取れます。
 しかし、感覚だけでは物質を理解することはできません。

 「138億年」という時間は「ほとんど無限の長さの有限の時間」あるいは数字と単位からなる記号としてしか感じ取れません。
 「量子」は繰り返し、伝わる広がりとしての波でありながら、不可入で特定の位置を占める粒子でもあるとのことです。そんな量子を理解できないどころか、感じ取ることすらできません。

 日常的にも、赤外線や紫外線は見ることはできませんが、暖かさとして感じ取れる光ですし、紫外線は日焼けや雪眼の原因になります。

 宇宙の歴史、量子等の感覚で捉えることのできない物質も、その普遍的有り様を探ることができます。すべてを理解できなくても、感覚によってとらえることのできない物も、日常の感覚を通して、普遍的有り様を探ることで理解可能になります。
 いつでも、どこでも繰り返されることとしての普遍性を明らかにすることで、予測できるまでに物事を理解できるようになります。

 普遍性は世界の秩序です。世界の普遍的関係である秩序は数学と統計学によって解明され、表現されます。世界の秩序は論理によって法則として普遍的に表現されます。論理は直感のような個人的能力には依存しません。法則によって世界秩序を解釈するのが理論です。

 世界の秩序を法則として論理によって表現し、法則によって対象を解釈し、世界を解釈するのが科学です。数学と統計学を学んでいなくても、科学の成果の解説は理解可能です。ポピラー・サイエンス(通俗科学)を通して、日常の経験を科学的に解釈することが可能になり、日常経験の科学的検証を敷衍化することで物質世界の科学的理解が可能になります。感覚、日常経験にだけに頼っていては、物質世界を理解する事は不可能でしょう。


論理

 論理は区別される関係を表現します。

 区別は誰かによってなされる以前に、物質の存在自体が他と自らを区別し、全体から自らを区別しています。対称な普遍的存在から対称性を破って特殊な質として区別がつくりだされます。普遍的な「類」に種差が現れることで「種」が区別されます。

 区別は対象がより個別的秩序として実現される形式です。区別は同一性と差異性を止揚する形式です。普遍的な同一性にあって特殊な差異性によって対象が区別されます。
 対象が区別される関係形式を認識して表現するのが論理です。論理は対象を構成する秩序を認識して表現します。

 論理は区別される関係を集合関係によって表現します。集合が普遍的な同一性であり、要素の定義が特殊な差異性を表します。集合と要素の関係、集合と集合の関係、集合間の要素の対応関係として論理がありす。

2015.3.12
新作「還暦過ぎても」と共に、これまでの詩を一冊にまとめた「とおぼえ」を作成しました。ご希望の方は送付先を連絡してください。先着10名様に無料でお送りします。

2015.1.21
今黙ることは許されないのだろうな。「積極的平和主義」の真価が問われている。再軍国化の口実でなく、平和の可能性を徹底して汲み尽くす日本の努力が世界に認められるかどうか。その努力が認められずにノーベル平和賞など求めようがない。
2015.1.18
藤原真理「誕生日にはバッハを」J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲 全曲演奏会 今回は三回目。慣れてきたためか意識消失も少なく、全体の時間も短く感じた。ミーハーになってサインももらえた。

2015.1.4
ホムンクルスは存在しないと言うが、世界と私を実感する私の存在は、どんな論理を持ってしても否定のしようがない。

物質と観念の二元を認めなくては、世界の圧倒的多数の人が宗教を信じている現実を変えることはできない。


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