Japanese only


独白

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2012.12.5
哲学の意味」をアップした。新書版pdfも。短いけれど存在、認識、論理をまとめられたと思う。
2012.11.7
ヒトにとって最も大切な感覚の表記は「体性感覚」ではなくて「体勢感覚」だな。体の構えや姿勢の意味だから。
2012.11.3
身体が新陳代謝によって常に更新されるように、意識も意識することによって常に更新される。変わらない私など存在しない。
プロフェッショナルは世界を創りだす。再現できるだけではプロではない。というのは、11月1日のラドゥ・ルプー ピアノ・リサイタルで感じたこと。演奏だけのシンプルさで人を引き込む世界を創りだしてしまう。観客ののど飴包装紙を封切る雑音を気にするのがもったいないほど。我が家の出費基準を遙かに超えたけれど、反すう会の出費を抑えた。
2012.10.27
昨晩、アリス=紗良・オットの展覧会の絵を聴いた。今朝ラジオでマルタ・アルゲリッチのショパンを聴いている。ピアノの響きがこれほど違うのを感じたのは初めて。
今朝、世界の図解を思いついた。「主観的実在世界」と「客観的実在世界」と「客観的実在世界の中の主観的観念世界」の3つの世界に分けて描く。相互関係は描きようがない。
2012.7.10
福祉は「個」人を大切にする。今の日本では福祉の需要は急拡大し、供給側では採算がとれない。「個」を大切にすれば特別な能力、特別な経験でしか対応できない。そんな特別な能力の供給は難しく、間に合うはずもない。「個」ではなく「普遍」を大切にする価値再評価が求められる。個が大切にする普遍的価値の確認が求められている。「普遍」は大多数への押しつけではなく、大多数に、歴史をとおして受け入れられて可能になる。にもかかわらず「英雄」を待望しても英雄の「個」では適わないだけでなく、「個」である英雄が普遍的価値を破壊する。制度が整えば組織が不朽化する、そうした個別的戒めとは別の問題だ。独り善がりの価値では通用しない。それが分かっていないのが今の価値観、権力構造だ。
2012.6.27
「痛みや悲しみも脳がつくりだすイリュージョンに過ぎない」と二元論を否定する人にとって、「実在」とはなにか?
「私の残り政治生命の間に原発事故は絶対に起きない」と計算している人を支持する人々。
自覚して反省できない者を利用して、ファシズムは支持を広げる。
人間にとって大切なことは「共感し合い、助け合うこと」。身近な人とだけでなく、より広く、組織を超えて、国を超えて、歴史を超えて、人類の普遍的共感と助け合い。
2012.6.19
私の書いたものに何の権威もなくても、デイヴィッド・イーグルマン著「意識は傍観者である 」を読めば少しは納得してくれるかな。意識について網羅的に解説しており、哲学しようとする者の基礎知識を提供してくれる。こうした認知科学の成果を無視して哲学はできない。犯罪の「有責性」にまで踏み込んでの問題提起には啓発された。
しかし、意識を顕在意識に限定し、潜在意識はアクセス不可能で、意識を不可逆的に規定しているとしている。肉体的にも、精神的にも訓練は意識による潜在意識化であることを評価していない。潜在意識も自分を支える自分自身である。ここから人間の誕生と物質代謝の組織化として社会の誕生が導かれる。
「意識は傍観者である」と書いている人たちは、「傍観者」が意志ももたず、文化・文明をここまで創発できると本当に思っているのだろうか?
巨人の肩に登りたい。無理でも、足の甲でも俯瞰は満喫できる。
2012.6.12
そう言えば、観念世界で今現在は抜け出しようのない絶対であるのに、物質世界では同時性が成り立たないとか。
2012.6.11
私たちの眼は光を見るが、私たちは波であり、粒子である光を見ることはできない。私たちには光る物、反射する物、闇は見えるが、光は見えない。私たちは動きを、表情を、気持ちを見る。
真っ暗闇は見えない。夜、電気を消し、まぶたを閉じても、無数の明滅する点、様々な模様がうごめいて見える。
無矛盾律を認めるなら決定論も成り立ちえる。しかし、量子の世界では無矛盾律は成り立たないらしい。
こんなことばかり考えているとお友達はできない!!
2012.6.9
連合学習は普遍性、秩序を探索する能力である。連合学習能力は生き残る上で有利に作用する。連合学習能力を洗練させ、普遍化させて知性を獲得した。
2012.6.6
クリス・フリス著「心をつくる」を読み始めた。p19に「心的世界と物理世界という区別が間違いであることを示そうと思う。それは脳が創りだした錯覚である。」p46の注(4)に「私は二元論者ではない。」と念を押している。「錯覚」と呼ぶ表象が実在することをどうして認めようとしないのだろうか。物質ではない「表象」が物質とは異なる存在のしかたをしているではないか。
かって「機械的唯物論者」という「タダモノ」論者がいて、弁証的唯物論者に批判された。何というラベルを貼るべきか?「唯物論的観念論者」かね?
私には物質の存在より、「錯覚」の方に実在性を感じる。波でも粒子でもある物質より、食べ物の方を実在と感じる。それは太陽エネルギーが形を変えた物質であるより、質感を楽しみ、口から取込み、空腹を満たす。私は「錯覚」以外のものを感じることはできない。脳が創りだした錯覚以外を表象することはできない。
2012.6.1
やはり人との対話は大切らしい。興味ある話ができる相手は日常にはいない。ネット上、mixiにいくつか投稿したが、話題を真剣に考えるようになっていい刺激だ。
2012.5.4
NHKドキュメンタリー「伊丹十三『お葬式』への道」だったと思うが、伊丹十三が自分の殻を破るきっかけになった本として岸田 秀著「ものぐさ精神分析」を紹介していたので、何か手がかりになるのではと期待して読んだ。
当然1970年代の著作では今日の認知科学は踏まえていない。人々が描く「幻想」を実在に位置づけていない。私の対人関係障害を克服する手がかりはなかった。私には具体な人それぞれとの付き合い方が分からない。個々の人との関係は一期一会で、その時々大切にできても一生に渡っては誰にも保障できない。一生の保障は普遍的人間性しかないと思う。
2012.4.24
ニコラス・シャクソン著「タックスヘイブンの闇」大変な取材と見渡す労は評価できるけど、表面的なんだな。最後に定言をまとめているけれど、無力感を打ち破る力は引き出せない。世の中汚いのは仕方ないとして、世の中が本当のことを知ろうとしないのは仕方ないではすまされない。
2012.4.6
「入門」というのは専門への端緒であって、教養主義者にとって易しい訳ではない。
2012.4.2
職場の歓迎会をサボってアルテのカロリン・ヴィットマン 「 無伴奏ヴァイオリン・リサイタル」へ。始めのバルトークでホールを響かせるのに驚き。シャリーノ:6つのカプリッチョの多様な演奏音に瞠目。本人の解説は英語で分からなかったけれど「風変わりな曲だけど、日本的だから楽しんで」と聞こえた。後半、やはりJ.S.バッハの偉大さを再確認し、アンコールのイザイで満足。拍手の受け方も上品。バイオリンに止まらない音楽監督の貫禄に納得。
2012.3.27
ようやく世界の要約を表現できた。
私たちが現実と思っているこの世界は
自分の意識が描き出している観念世界です。
本当の実在世界は、
私たちの意識を創りだしている物質世界です。
意識が物質世界を理解する手がかりは
観念世界に表れる普遍的関係です。
直感的に普遍をとらえることのできない凡人でも
科学によって実在世界を理解できます。
赤い色は客観的には無い。赤い物から高速で遠ざかれば赤方偏位によって赤外線になり、見えなくなってしまう。
絶対音感の相対性:音源との距離が変化すれば音高が変化する。
「0(ゼロ)」は自然数ではない。しかし、ゼロがなしで自然数を構成することはできない。
即興表現ができない私は会話ではなく、文の推敲で表現する。
"キマクライナリ"=>聞き始めはしゃべくりが多すぎると思っていたけれど、いつの間にか引き込まれ、徒歩通勤の30分間毎週楽しんでいました。
2012.3.14
国旗、国家だから敬慕するのか?職務命令で形を整えるのか? あの人達の愛国心の程度は。
感覚はピンぼけ写真、3D図形、ランダム・ドット・ステレオグラムのよう。知覚は感覚から対象を個別として区別する。地と図を区別する。感性、知性、理性、悟性とは別の区分。これらの「性」は表面的、即物的でない反省による意識の有り様。感性にしても価値評価まで含む。
視覚動物と言われるヒトのもっとも大切なのは身体感覚。三半規管、関節、筋肉、内臓等からの感覚によって自分の身体を感じている。これがなければ立つこと、坐ること、歩くこと、食べることすらできない。最近の教育制度では無視されることが多い。私など、毎晩アルコールの身体感覚に対する影響を実験して確かめている。
旅が好きな友人に「給料を余計もらっても。旅くらいしか金の使いようがない」と口走って反省した。でも私の場合、旅をしても豊にならず、財布が貧しくなるだけ。
2012.3.9
高橋昌一郎著「理性の限界 − 不可能性・不確定性・不完全性」は認識の基礎知識解説として良くできている。哲学の一般教養として、不可能性、不確定性、不完全性について知らない入門者には必読の書
ミリカン,ルース著「意味と目的の世界」読むに耐えない。個人的経験からの解釈では哲学者の数だけ哲学が成り立つ。意味も目的も人間を基準に、人間にとって問題になるのであって、人間以外のものに意味も目的も成り立たない。人類の普遍的経験である科学を解釈することで世界を理解すべきだ。
動揺する中で不変を作りだすには、受動的に免震するだけでは不十分で、動揺を打ち消す積極的な制震をするしかない。動揺を測定し、運動を計算するには全体を観測するしかない。個人的感覚、経験から普遍を求めるには、世界全体を学ぶしかない。詳細な正確性にこだわるのではなく、全体を見通すことが大切だ。
2012.2.26
哲学道場・高円寺で「知」について。話題をもっと絞った方が良かった。「知の進化」とか「人工知能」とか。しかし、そうなると事例を具体的に提示しなくてはならなくなって、素人には無理。それにしても、進化による知を無視する見解の多いのに驚いた。粘菌の餌を求めての運動に「知性」の萌芽を認めようとしないのだ。哲学の一般教養を前提に哲学の議論をしたい。
2012.2.1
西洋音楽は楽譜を媒体にしている。楽譜で表現し、楽譜を読み解くことで楽曲を再現する。楽譜を読み書きできれば、聴覚を障害されても作曲できる人がいる。西洋音楽では視覚に障害があることは基本的ハンディキャップである。点字では手書きの楽譜を再現できない。しかし視覚障害であっても補償的に発達する聴覚によって、楽譜にとらわれない普遍的音楽を創造できる可能性がある。
2012.1.30
一昨日、留寿都で子供の頃以来と思う北斗七星を見ることができた。あんなに大きかったのか。今話題のオリオン座は東京でもたまに見えるけど。
今夜はジョン・リル ピアノ・リサイタル。21日の若さの衝撃のためか、熟成の響きはただ、ただ 心地よい。
2012.1.24
何とも。 都響定期B 前半作曲者自らの指揮で音楽的価値があるのだろうが、私には何を感じているのかさえ分からない。考える糸口すらない。妻との反すう飲み会の気も失せた。
2012.1.21
今夜のアレクセイ・ヴォロディンのピアノ・リサイタルはすごかった。今年35歳、ユジャ・ワンとどっちが速いの?N.カプースチン:ピアノ・ソナタ第2番もジャズをこなしたクラシック、本人も楽しんでいた感じ。リラックスする手首の返しも、姿勢もダン・タイソンと同じ?はロシア風?何でショパンが無いのと思っていたら、アンコールに3曲も。今年は何か良いことがありそう。
2012.1.5
錯視の代表例ミュラーリヤー錯視では、二本の同じ長さの線分それぞれの両端に、内向きと外向きの矢印を付けると、錯視と分かっていても長さが違って見える。
見るだけでは、長さが違っているのが正しいのか、違って見えているのが正しいのか判断できない。矢印を消し、補助線を引き確かめることはできるが、その確かめる操作によって長さが違ってしまうのかは確認できない。
このように確かさの判断基準は簡単には定まらない。結論からいえば、世界全体の中に個々の対象を位置付ける評価が確かである。世界をより良く知ることが正しい判断基準になる。世界をより良く知るには、科学に学ぶしかない。

体勢感覚は意識もできるが、普段は無意識の感覚である。自らを他と区別し、他との関係に自らを位置づける感覚である。普段意識している感覚だけでなく、平衡感覚、運動感覚を含む感覚である。
体勢感覚によって寝返りを打つことも、坐ることも、立つことも、歩くことも、食べることも、排泄することもできる。体勢感覚が障害されるとこれらのことを制御できなくなる。体勢感覚がヒトの生存を支えている基礎的感覚である。
「ヒトは視覚の動物である」という理解では、まだまだ人間を理解できていない。


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