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独白

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2016.12.15
月曜の朝ラジオで聴いたシュ・シャオメイ「ゴルトベルク変奏曲」を手に入れた。初めて聴く曲にしか思えない。少なくとも「Aria」は聴き間違えるはずはない。
高校生の頃、各省革命委員会の設立にワクワクしていた単細胞に聴かせてやりたい。自伝は明日手に入れる。

2016.12.15
世界感は誕生前から形成され始める。まさに三つ子の魂として。脳の現実反映機構として神経生理学的に構成される。同時に親の、大人の世界感が刷り込まれる。その結果恐ろしいことが起こっている。普遍性に依拠する世界観獲得のために勉強が大切なのだ。

2016.12.14
映画「この世界の片隅に」を観た。グローバル化へのアンチテーゼ。まともな生活の大切さ。

2016.11.20
やはり改めて「世界感」の意味を強調すべきだと思う。
人の意識は生きている世界を世界感として描き出している。意識することなく描き出し、描かれた世界を意識している。感覚情報のマッピングというが、感覚だけでなく、感情も含めた現実感を描き出している。今描かれる世界感と、その世界感の記憶によって、まさに「主観世界」を実現している。
人々が「この現実世界」と指示、表現する世界のことである。人は「この世界」と指示するが、「この世界」は人によって異なり、共通部分などなく、同じである保証もない。あるのは「心の理論」を受け入れての、同じだろうという推測である。意識していなくとも、人も同じ人間であり、同じ心があると推測している。
人はこの世界感から一歩も、一時も抜け出ることはできない。(寝入ってしまえば世界感も消失するが、抜け出たことにはならない。)人は世界感に表れる普遍性をとらえることで、客観的な世界観、科学的世界観を獲得することができる。
世界感は自分一人の孤独な世界である。孤独を超え、客観的、普遍的世界を受け入れ、世界を変革し、社会を組織してきた。受け入れにかかわらず、他に生存のしようはない。よって、コミュニケーションを求め、共感を求め、歌舞を、言語を、文化を創り出した。

2016.11.09
民主主義 変えるアメリカ 対日本
アメリカ大統領選挙結果。あきらめないで変えるエネルギー。結果は自己責任。日本はあきらめが先。

2016.10.08
誰も、どんな天才も世界を理解できない。理解ではなく想像しているだけである。物の微細構造、宇宙の構造・歴史も未知の世界として広がっている。今、地球世界で何が起きているかも誰も知らず、主な出来事の概略を後で知るだけであり、その情報も取捨選択され、捏造されている恐れさえある。人の気持ち・考えも、自分の気持ち・考えと同じようには理解できず、想像、共感できるだけである。
世界、対象を知ることはできないなどと言う不可知論を主張するのではない。想像の仕方、辻褄のあった想像が大切なのだ。想像であっても物事の辻褄が合うことで、世界を一つの全体として想像できる。時、所、場合によって勝手に、都合良く解釈するのではなく、普遍的な関係としての世界を、物事を想像するのである。
想像するのは自分ただ一人である。人の想像でも、人の想像として自分で想像してみるしかない。普遍的世界を想像するのが哲学である。普遍性を保証するのは論理と科学である。

2016.10.05
独学弧陋」「独学自尊」

2016.08.23
このところしばらく秩序と対称性の対応関係にかなり落ち込んでいた。「対称性があれば秩序はない、秩序があれば対称性はない。」確か、佐藤文隆著「破られた対称性」にあった。だが、秩序が実在で、対称性は表象、そこに自由度を絡めたらすっきりした。ネーターの定理はひっくり返せばいい(秩序としての保存量があるから、対称性が法則として表れる)。台風11号、9号一過の天気と一緒、少しすっきりしてなんとか晴れ渡りそう。

2016.07.30
「世界の曲がり角」はこれまでの判断基準では通用しない時代に入ったということ。これまで70年はそれぞれ個人の権能に応じて、強弱様々な移行過程がありえて、個人が責任を問われて取捨されてきた。今は時流に乗った権力では治まらず、これまで突き進んできた世界秩序が破たんし、次の安定へ向けて逆巻いている。経験則は通用しない。それこそ一人一人の意志によって未来を選択する時。どれだけ意識的選択がなされ、尊重されるか。民主主義の試される時。ヒューマニズムの到達点を否定するような、これほどまで露骨な、再裁定を突きつける事件、政治状況、経済状況、社会状況に至るとは。
反ヘイトクライムは常識ではなく、政治家の守るべき一線ではなく、人それぞれ自分自身の尊厳を問う問題だ。価値観の再裁定がISテロ、アメリカの大統領選挙、イギリスのEU離脱、憲法九条、教育、保育、介護、あらゆるところで問われている。人間の尊厳が偏見・憎悪に勝てるかどうか。

2016.07.27
世界の曲がり角。国内外の価値観の共通性が失われている。これまでの権力は、悪くても一つの価値観で世界を、国を支配してきた。それが経済的、社会的に分裂しようとしている。単なる価値観ではなく、経済的構造が、社会的構造が行き詰まり、破たんしかけている。混乱が兆している。

2016.06.01
「“1+1”が“2”になるのは何故?」
“=”は「なる」のではなく「等しい」なんだ!
“1+1=2”は他に“1+1=11”でも“1+1=10”でも“1+1=”でもいい。
“1+1”は“2”とも“11”とも“10”とも“”とも等しいことが大切。表し方、書き方が違うだけ。
だから、さらに追加した、“1+1+1”と“3”、“111”、“11”、“”のどれもが等しい。
そして“2+1”、“11+1”、“10+1”、“+1”とも等しい。

2016.05.08
足立恒雄著「無限の果てに何がある」を読み返している。「集合xとxだけを要素とする集合{x}の区別という程度のことでもかなり最近になるまで明確には認識されていなかった(p211)」。無限を理解するには超えなければいけない。対象である要素(元)を超えて集合を対象とし、かつ対象間の関係を対象にする。収束にしても有限のΔdを、0に「無限」に近づく極みは、有限を超えなければならない。自然数は後者集合を順にたどって、たどり着けない値を含む全体を超えて濃度(アレフ0)として無限はとらえられる。「超える」理解を受け入れなければ、ゼノンのパラドックスを超えられない。

2016.04.27
脳科学の研究がどれだけ進んでも、対象としてあるのは脳だけ。そこに神経細胞のネットワークだけしかないことは今でも分かっている。脳で意識されている世界は発見できない。脳の活動と意識の活動の対応関係は明らかにできても、意識そのものを発見はできない。

伊藤若冲展へ向かったが、開場30分前にすでに長蛇の列。諦めてカラバッジョ展にした。西洋芸術にキリスト教の教養が必要と改めて分かった。阿刀田様ありがとう。

杉並区の図書館にリクエストして「プリンストン数学大全」を買ってもらった。禁帯出図書になったけれど、昨日閲覧させてもらった。ワクワク、歯が立つのは一部でも、解析学と極限の関連とか、ペアノの公理再認とか、自分の数学センスもそれほど間違いはないのではと。
「二元世界」で「度量は質量と同じに重要な性質、規定であるが私にはまだよく分かっていない。(p140)」と書いたが、少し分かってきた気がする。ヘーゲルとは別の視点から。片付けなければいけない残された課題か。
評価される作品を残す人は、自分の課題を最後まで追究しきった人々なんだなと。評価を求めるなら、最後までやらねば。

2016.04.09
「哲学の一般教養 二元世界」を絶版にしました。売れようもないのに維持費は無駄でしょう。著作は評価されなくとも、糊口の仕事はそれなりに評価されたようで、1年のブランク後ですが、アルバイトで再雇用されました。

このところ落ち込みがちで、老後の目標を手探る今日この頃です。が、自分の興味のあるところで頑張ってみるのがいいかなと。古風であっても論理の意味論とか、度量、極限、無限とかを平たく表現できればいいなと。体験、実証できないのに、こいつらはいったい何で実在的なのか。紛れなく確かだと思えるのは、どこがオカルトと違うのかは重要なテーマだと思えるのです。

2016.03.24
先日、阿刀田 高著「旧約聖書を知っていますか」「新約聖書を知っていますか」「コーランを知っていますか」を読んだ。宗教は分派する。教義は継承することはあっても、組織は統合することなく分派する。分派しながら唯一の真理を主張し合う。現ローマ法王の取り組みも平和運動としてであって、宗教の統一を目指してはいない。

フィリップ・ボール著「かたち」を読み始めた。p41に訳者注「生気論とは、生命現象は単なる物理・化学的なものを超えた何かに司られているとする考え方」とある。この生気論の説明に異議はない。ただ、「生命現象は単なる物理・化学的なものを超えている」ことまで否定しているととれるのが気にくわない。

2016.02.27
乾燥したクマムシと活動しているクマムシとの違いは代謝である。クマムシの代謝の実現には、代謝過程を実現する物理化学過程が系として構成されていることと、クマムシの生活環境に十分な水の供給が必要である。水が供給されることで、クマムシは代謝を再開する。物理的には何も付け加わってはいない。切り離されていた水との関係が復活しただけで、そこに関係する物質に違いはない。違うのは物質間の特別な関係である。物質間の特別な関係である物質代謝系と、その適する環境があって生命活動は実現する。生命活動は単なる物質過程ではなく、物質過程を超えた物質の有り様として実現される。物質としては間違いなく物質そのものであるが、特殊な運動形態としてあり、他の物質の様々な運動形態を超えて組織された運動形態である。次元が違う存在の有り様である。
これが生命の誕生過程との決定的違いである。生命は安定した代謝系を組織し、その代謝系を複写する機構をつくりだす物質進化としてあっった。それは代謝系を維持・保存する環境をつくりだす過程でもあった。
同様に、意識は神経系を物質的存在基礎にしているが、生物個体と環境との情報処理を方向付ける特別な運動形態として、次元を異にしている。
意識が物質の有り様を超えた特別な存在であることをまず認めなくては、宗教を信じている人との対話は成り立たない。その上で、社会的に偏った物質の、富の蓄積を改めなくては戦争は終わらない。

そう、今は平時ではない。日本は武器を使った戦争をしていないだけのこと。富の偏った蓄積システムを増強するために戦争が行われている。日本も、世界中が中東の戦争と連なっている。だから日本も再軍拡をしろというのではなく、戦争終結へ向けた取り組みが平和への道だ。富の偏った蓄積システムに対抗する生き方は、人それぞれに可能な生活の仕方としてあるはずだ。

2016.02.20
スタニスラス・ドゥアンヌ著「意識と脳」p22「私は、この見方に同意しない。コンシャスアクセスとは異なる現象的な意識を前提とするの間違いであり、二元論に陥る原因になる。私たちは、まずコンシャスアクセスを研究しなければならない。入力された一片の感覚情報が、どのように心へのアクセス権を獲得し、他者に対して報告可能になるのかを特定できれば、これまで解明不可能と考えられてきた内的経験の問題は、雲散霧消するはずだ。」これ以前も、以降も「心」を何の説明もなく扱っている。翻訳の問題なのか?「心」は当然にアクセス可能な一元論的存在対象なのか?。
勉強になったのは、私がこれまで一括りにしていた「潜在意識」に意識可能な対象と、不可能な対象の区別があること。スプライミング記憶は意識できないのだから、意識にとっては「潜在」ではなく「無」である。だが「無意識」とはしっくりいかない。

2016.02.17
息を合わせるとは、リーダーの指示に合わせることではないんだな。指示を感じていたのでは生理反応的に間に合わない。息を合わせてその結果、リーダーは合ってる確認の合図をするんだな。だから指揮者も本番よりも練習を大切にする。

2016.02.14
ディープ・ラーニングや量子コンピュータがどやって答えを出したかは説明できるだろうが、答えの意味を理解するのはまだ人間だ。コンピュータが意味を理解できれば意識を持ったといえるが、理解できたかは当のコンピュータではない人間には検証できない。チューリングさん、ごめんなさい。
脳が実現しているのは潜在意識の情報処理過程であって、顕在意識は物質としては存在しない。

記憶は経験の記録であり、想起される記録そのものであり、記憶し想起するそのこと自体でもある。記憶は、想起することで、その想起経験自体を記憶して再帰する。

2016.02.13
一元論の主張者は感覚、感情、記憶が物質として存在しているとでも主張するのだろうか。これら意識の構成要素が物質に媒介されていることは否定できない。物質である脳が物質を反映しなくては意識は消滅するしかないのだから。といって、意識に表象されている感覚、感情、記憶が物質であるなどと主張するのか。意識は「魂」だとか「精気」などと言う疑似物質的な存在ではない。絵に描いた餅、絵そのものは物質であるが、意識には餅としてある。意識は食べ物としての餅と描かれた餅を区別するが、同じ対象として意識する。
「点」「数」「無限」等の数学の対象を意識できるが、それらはどのような物質として存在するというのか。数学の対象の実在性がなぜ議論されるのか。
意識される内部空間、意識に表象された世界は決して、絶対に物質としては存在しない。だからこそ当然に誤り、未知の部分を含む。誤りがあること、未知があることを意識できる。それは、誤り、未知として物質的ではない、次元を異にする存在である。
意識は物質的には存在せず、相手の様子、脳の活動状態によって推定できるだけである。他者にも意識があると推定しているに過ぎない。コンピュータが意識を持つようになっても、誰もそれを実証できない。物質として存在しているのはコンピュータだから。人に意識があるか否かの診断ができるようになっても、コンピュータを診断する方法はない。感情交流ができても、実証にはならない。かつてでもイザイラに感情没入できている。

スタニスラス・ドゥアンヌ著「意識と脳」を読み始めて途端に思いついたこと。序まで。

2016.02.07
人間が唯の物質であるなら、何も責任はない。あるがままに、物質法則に則って運動し、今日の成功者のように生きればよい。
唯の物質ではなく、生命であり、意識(精神)であるから、人それぞれに自由意志がある。勝手気ままな自己実現ではなく、物理化学法則に則り、生命法則に則り、社会法則に則り、意識(精神)法則に則る、人類としての生き方がある。

「意識(精神)法則」? 論理に則り、矛盾を超える法則ですよ。 私にはできない実践ですよ。 私の「実践」? 思いの丈を伝えること。

2016.01.30
映画「俳優 亀岡拓次」を観た。今の世の中 生き貫(ぬ)くためには いささかのシュールが必要
「アホ」とは 私のような アッホな奴のこと

2016.01.15
生命の個別としての有り様が「命」である。
命を超えた有り様が「魂」である。意識の個別としての有り様が「魂」である。「魂」は素朴で、直感的表現である。
意識、魂の生命を超えた顕在的有り様が「精神」である。精神は魂にある潜在意識を捨象した意識の有り様である。
意識の主観性に対比し、精神の客観的有り様が「観念」である。物質に対する意識の有り様が「観念」である。

命は物質を介して受け継がれる。
精神は物質を介して受け継がれ、物質を介して共有される。個別(個々人)の意識、精神は互いに直接交互作用できないが、物質を介して相互作用し、共有される。共有され、相互作用して共同意識、社会的意識が形成される。社会的意識の中で個別意識は育まれる。

物質間の関係秩序を表現するのが「情報」である。情報は物質間関係秩序を物質の関係構造に反映し、表現する。物質の関係構造を媒体に情報は保存され、複写される。

とりあえず、今朝の思いつき。私の仕事は発見や発明ではない。既知の事柄を解釈し、整理し、世界を理解するだけである。「大事なのは世界を解釈することではなく、変革すること」とは分かっていても、私にできることは解釈し、整理すること。

2016.01.09
昨日、映画「ブリッジ・オブ・スパイ」を観た。これまで私は「二人零和有限確定完全情報ゲーム」を正しい仕事の仕方と目指した。ところが、映画のあのような仕事に意味があり、私には絶対に向いていないし、能力もないことに気づいた。これまで私と仕事を共にしてきた人々に、図らずもさんざご迷惑をかけてきたこととお詫びします。
でもね、根本は単純だと思う。「不屈の男(人)」という表現が映画の中にあった。先日(5日)妻とタンデムして行った鎌近の松本竣介「立てる像」にも通じていたいと思う。

2016.01.08
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意識を物質と別次元とするなら、物質と生命も別次元ではないかと思い至った次第です。うすうすは二元世界を書いてた頃も思っていたのですが。
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個体としての生物は物質でしょう。生物は死んでも物質として存在し続けますし。休眠状態のクマムシは生命活動を停止している物質だと思います。生物を媒体として生命が存在するのは、脳を媒体として意識が存在するのと同じではないかな。
ヒトを理解できれば動物を理解できると同じに、意識を理解できれば生命を理解できる。なんてことがいえたらいいなと思いたい。
アミノ酸が宇宙に普遍的に存在することからすれば、地球外生命もタンパク質から構成されると思います。炭素があるのにわざわざケイ素を使うことはないのでは。情報工学的にはケイ素の利用が炭素より前でしたが。
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何所まで気力が続くかは不安ですが、まとまらなくてもその都度独白していくつもりです。

2016.01.06
今年は、二元論をやめて、三元論に宗旨替えする。
物質と観念ではなく、物質、生命、意識の三元論である。
物質は物理化学法則で表現される物質秩序の世界である。
生命は物質代謝秩序のこと。物質代謝秩序=生命秩序は物質秩序を超えている。物質秩序から生命秩序の創発は地球の歴史が示しているが、どのように発生したかは未だに不明である。一方、一端生命秩序が壊れて死んでしまうと生き返らない。物質秩序と生命秩序には連続していながらも、決定的な断絶があるから次元を異にする存在形態である。
生物個体にこだわると誤る。生物個体は生命の枝葉の葉でしかない。生命の基礎は細菌等の単細胞生物である。細菌は代謝し、分裂し続けて世代を作らず、死なずに進化する。細菌個体は物理化学的に壊れることはあっても、代謝秩序が自壊してしまう生物的死がない。細菌は地球大気に遊離酸素をもたらし、代謝秩序を発展させ、生物進化の基礎を作った。おかげで食物連鎖を好例とする地球生命の物質代謝秩序を発展させることができた。
意識は単なる生命秩序、生物的反応ではない。意識は物質秩序、生命秩序からなる世界秩序を反映する反映秩序である。意識は反映するものでありながら、反映されるものである。この自己言及が生命秩序から区別される意識秩序である。世界を反映し、反映される観念性が物質秩序、生命秩序を超える意識の存在形態である。
ヒトは物質・生命秩序を利用する労働によって生活秩序を維持している。ヒトは物質代謝秩序を社会秩序として組織化、制度化して生活している。ヒトは、こうした世界秩序を反映し、共有することで文化を創りだし、人間になった。


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